2016年02月14日

日本学会退会しました。そのときにおこったこと

2015年の日本語学会春季大会で、日本語学会のロゴマークが発表されました。
当初、どのようなロゴマークであったか、画像で紹介します。
hinomaru1.jpg-large

一見して日の丸を連想させるデザインであり、説明文でも日の丸がモチーフであることが明記されています。
日の丸は悪いものであり、かつ特定の言語の学会が特定の国家を強く連想させるモチーフをロゴマークとして使用するというのは、言語学の観点からも、誤解をまねくわるいやり口です。
日本語学会のロゴマークに日の丸モチーフを採用するのは反対です。

私は、この時1時間くらい、迷いました。
選択肢としては、
(1)「謝罪・撤回・再発防止の学習会」をもとめて学会員のまま学会費の支払いを拒否し、ボイコットをおこなう
(2)日本語学会をやめる

で、私は(2)をえらびました。
退会の方法について日本語学会のサイトを調べたのですが、あんまりよくわからなかったので、日本語学会事務局にメールをしました。

5月26日におくってます。

日本語学会事務室御中

日本語学会会員の中野真樹と申します。
日本語学会を退会したく、連絡をいたしました。
今年度の会費は納入しておりませんので、このまま退会とさせてください。
いままでありがとうございました。


理由
2015年5月24日に発表された日本語学会のロゴマークが日の丸をモチーフとしていることに賛同できません。
(一目みただけでも日の丸を連想させるデザインで、なおかつ日本語学会のサイトのページに「日の丸」とかいてあることから、日の丸をモチーフとしていると判断しました
http://www.jpling.gr.jp/gaiyo/logomark/ )
このようなロゴマークを使用している学会に所属することが精神の苦痛となりますので、退会いたします。


で、早速5月27日に、日本語学会事務局からメールがとどきました。

お世話になっております。日本語学会事務室です。

退会をご希望の旨,承りました。

なお,過日お送りいたしました『日本語の研究』第11巻2号は
今年度発行分の機関誌となりますので,恐れ入りますが,
第11巻2号をご返送いただくか,機関誌1冊分の代金2500円を
お振り込みくださいますようお願いいたします。


【返送先】
〒113-0033
文京区本郷1-13-7 日吉ハイツ404

【振込先】※年会費振込の口座と同じです。
郵便振替
00150-6-296531
加入者名:日本語学会


機関誌のご返送またはお振り込みの確認ができましたら,
退会の手続きを進めさせていただきます。

ご多用のところ誠に恐縮ですが,何卒宜しくお願い申し上げます。


で、冊子を送り返すのも無駄かなあ。と思いまして、2500円払うつもりでいました。
でも、銀行いけなかったりで何日かたってしまいました。

次に、6月2日に、日本語学会から以下のようなメールがきました。
前年度の庶務委員から伝言があったので連絡します。というメールがきました。
庶務委員の個人名も記載されておりますが、伏せ字にします。

中野真樹さま,

◯(日本語学会前庶務委員長)です。

日本語学会退会の件でメールをさしあげます。
(私の任期は5月末で終了しておりますが,5月に生じたことがら
ですので,私からメールをさしあげます。)

退会の件,とても残念です。
ただ,個人の信条に関わることですので,しかたがありません。
中野さんの研究者としてのご活躍を心から願っています。

それで一つお願いなのですが,事務室からは退会手続きとして,
次のようなお願いが行っていると思います。

---------------------------------------------------------------------------------
なお,過日お送りいたしました『日本語の研究』第11巻2号は
今年度発行分の機関誌となりますので,恐れ入りますが,
第11巻2号をご返送いただくか,機関誌1冊分の代金2500円を
お振り込みくださいますようお願いいたします。
---------------------------------------------------------------------------------

私としては,中野さんには,ぜひ

 「機関誌1冊分の代金2500円を振り込む」

という形で退会していただきたいと思います。

そうでないと,「2015年度の会費を払わないまま,2015年度の
大会で会員として発表した」ということになってしまうからです。
(共同発表の場合,筆頭発表者以外は非会員でもよいのです
が,中野さんは発表時点では会員です。)
2,500円を振り込んでいただければ,「会員として発表したが,
大会後に年度途中で退会した」という形で処理されますので,
問題ありません。

日本語学会に限らず,多くの学会では,会計年度末(通常3月)
までに退会の申し出がなければ,翌年度は自動的に会員資格が
継続となり,その年度の会費納入の義務が生じます。
また,多くの学会では,年度の途中(日本語学会では6月)に
「会費納入のお願い」を出していますが,それは,
  「未納の方は早めにご納入ください。」
ということであり,
  「今から今年度の会費納入を受け付けます」
ということではありません。

ですので,中野さんは事務的には「2015年度の会費未納のまま,
2015年度の大会で会員として発表した」という形になっています。
私としては,退会ということであれば,事務的に問題が生じない
形で退会していただきたいと思います。
ぜひ「機関誌1冊分の代金2500円を振り込む」という形で退会して
くださるようお願いいたします。



この前庶務委員長のメールをよんで、ボイコットでなくやめる決断をしたのが正解だったな。とつくづく思いました。

私は2015年の日本語学会春季大会で発表しましたが、筆頭発表者ではありません。
日本語学会の規約によると、筆頭発表者のみが会員であればかまわないはずです。

>中野さんは事務的には「2015年度の会費未納のまま,
>2015年度の大会で会員として発表した」という形になっています。

ちょっとここにかいてあることの意味がよくわかりません。

>多くの学会では,会計年度末(通常3月)
>までに退会の申し出がなければ,翌年度は自動的に会員資格が
>継続となり,その年度の会費納入の義務が生じます。

慣例はそれでもいいのかもしれませんが、今回は5月の学会で日の丸モチーフロゴマークを発表したのに、そういう慣例をたてに3月末までに退会の申し出をしないと学会費をはらう義務をおう、みたいなおどしつけをするのは不当だとおもいます。

そういう理屈なら3月末までにロゴマークの発表をしてほしかったですし、そうでなくても、今回は慣例の話では処理できないはずなのに、これでは納得できません。
納得はできませんが、ともかく、はやくこの学会と縁をきりたくて、2500円払いました。

後日日本語学会のサイトをみたら、
「日本語学会 会費に関する規則」に変更があり、2015年5月23日制定とのことで、以下のようにありました。

(退会に際しての会費の扱い)
第5条 退会を申し出る会員は,当該年度分までの会費を納入していなければならない。年度途中で退会する場合,すでに納入されていた当該年度分までの会費は,これを返還しないものとする。



2015年5月23日制定なら、こちらを会費納入の根拠にしたほうがよっぽどよいのではないでしょうか。
なぜ、5月26日からのやりとりにこの規則をしめさなかったのでしょうか。
(5月26日の段階ではサイトにアップされてなかったとおもいます。退会についてひととおりサイトでしらべたはずなので)
ただし、この規約でいうと、5月にやめます、て場合も1年分払わなければいけないのだけど、状況が状況だから2500円でいいよ、ていう温情なのかな。とおもいました。

日本語学会をやめる選択をして、本当によかったとおもいました。

(ヨタ話)
はてなブックマークとかいうところから「ここのブログかいてるひとは、不平不満ばっかでいやだ!」みたいな意見がかいてあったので、今回もそんな記事になっちゃったんで、この日本語学会脱退関連のほっこりエピソードをひとつ。

日本語学会とのやりとりで悶々としていた私は、あるひつい、学会とは縁もゆかりもない母親に、ついぐちをいってしまいました。
「こないだ、日本語学会が日の丸のロゴマークつくってきてさー。いやだから退会しちゃった」
「なにそれ、(日本語学会が)気持ち悪いね」
みたいな話をして、意気投合。親子の絆がふかまりました。
よかったです。

(後日譚)
なんだかしらないし、いつからかわかりませんが、日本語学会のロゴマークの日の丸が、緑色になってました。(赤いやつもあるけど。)

http://www.jpling.gr.jp/gaiyo/logomark/

posted by なかのまき at 11:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2013年03月21日

「金明秀先生@han_orgの「ぼくは字が下手である。」 」によせて。

ツイッターのツイートをまとめたtogetterというサービスのなかの、

「金明秀先生@han_orgの「ぼくは字が下手である。」
http://togetter.com/li/257240

というページを眺めておもったこと。
それと、本日ツイッターで金明秀氏となんどかやりとりをしたのでそれについても補足。

まず、この一連のツイートについてですが、


@nakanomaki ただ、一連のツイート全体の趣旨はむしろ悪筆と学力とを単純に関連づけるのは間違っているという話です。しかも、「悪筆」を揶揄したと読み取った人々向けに、プライバシーを開示しながらツイートの背景を説明することもやりました。(続)
https://twitter.com/han_org/status/314527764176842752


このような意図で編集されているようですので、誤解のなきようおねがいします。

私は

高学力層に悪筆が増える理由は、おそらく権威主義の弱さによって説明されます。低学力層に悪筆が増える主たる理由は、階層性だと思います。 RT @makoratti: なぜU字型になるのかな。
https://twitter.com/han_org/status/168692406743601152


このようなツイートから、金氏は


学力の低い学生ほど字が汚い傾向があるけど、その一方で、学力の高い学生ほど逆に字の汚い学生が増えるんですよ。
https://twitter.com/han_org/status/167259932255719424


こういった趣旨のことを主張したいのかと誤解したのですが、「悪筆と学力とを単純に関連づけるのは間違っている」ということを主張したようです。くれぐれも誤解のなきよう。私はまだ誤解してます。ほんやくこんにゃくほしい。

さて。
学力と字の関連ですが、そのような仮説は面白いし、ちゃんと研究すればそれなりに結果がでそうなきもしますし、もしそうであればぜひ、そういう研究は読んでみたいです。
ということをふまえて。




まず、字の美しさとはなにか。ということですがなにを「うつくしい」とするか。

字の美しさを判断するのはひとつひとつの字の形もさることながら、字間や文字のレイアウトなどといった全体的なものも評価されます。
たてがきよこがき、硬筆毛筆などのさまざまな書字の場面でかわってくるでしょう。
たてがきが得意な人もいればよこがきが得意なひともいる。硬筆が得意な人もいれば毛筆が得意な人もいる。毛筆が得意でも硬筆が苦手だったり、その逆だったりすることもままあります。
また、「美しさ」の評価基準も、目の高さによって変化してくることでしょう。
毛筆書道を習っている人と習っていない人で「うつくしさ」の判断のポイントがかわってきたりするでしょう。
また、そもそも「うつくしい字」から排除される人については、「学力と字のうつくしさ・みにくさの関係」についての研究をする際にはこれはべつだてでなにか処理をしたほうがよいかとおもいます。
たとえば病気やけがでペンを手でうまくにぎれない場合とか。手でペンを握らず口や足指でもってでかいている場合とか。それと、左手で書字している場合とか。
ただし、左手書字については、左手書字をする人間ていうのは左ききがおおく、左ききについては「矯正するかしないか」というのも、昔は学校で教師がこどもの左手を包帯でしばる、などの暴力行為がおこなわれた例もあるようですが、いまではだいたい「家庭の方針にまかせる」と家庭に丸投げされているのが実情でしょう。となると、これも「階層」とかかわってきそうでもあります。このへんのややこしさをどう始末をつけるか、などと考えるのは難しいですが、そういう議論があるならぜひききたいです。
そして逆に、そういう議論を一切しないまま「学力と字のうつくしさ・みにくさとの関係」についてなにかいうのであれば、それはきく価値もないただの暴論です。

もう一度繰り返しますが、字のうつくしさ・きたなさと学力との関連になにかがあらわれるかもしれないという仮説自体を否定するひつようもないし、なにか出てくる可能性も十分にありえるとおもうし、そうであればいったいそれがなんなのか、私はみてみたい。
そういう研究があるならば、ぜひその論文を読みたいです。

字に階層が無関係であるとはおもいません。現時点では、十分に関係ありうるでしょう。
それと同時に、てがきの書字はからだをつかいます。字の形を決定するのは、からだという要素があります。人のからだは、多様です。そしてその多様さは、階層とまったく無関係といいきれるわけでもありませんが、かなり関係のないところもおおいにあります。
字の形のちがいは、ひとのからだの多様さをうつしているという面もあります。それを無視したところでおこなわれる、字と階層との関連性についてのかたりには、あまり意味があるとはおもいません。
それどころか、一面的で、乱暴です。



高学力層に悪筆が増える理由は、おそらく権威主義の弱さによって説明されます。低学力層に悪筆が増える主たる理由は、階層性だと思います。 RT @makoratti: なぜU字型になるのかな。
https://twitter.com/han_org/status/168692406743601152


@han_org @makoratti 低学歴・低学力層は、字の綺麗さブラスにならないし、高学歴・高学力層は、字の汚さがマイナスにならないが、中間層では、字の綺麗さ・汚さの影響がもっとも大きいから。違うかな?
https://twitter.com/Ichy_Numa/status/168693890482835457



どこまで崩しても識別可能かを認識できる機会が多いとはいえるかも。 RT @sousaemon: @han_org 算数の計算問題を大量に解いていると、スピードを求めるため、どんどん悪筆化する気がします。高学力者は計算問題を沢山解いているので、悪筆な者も多いのだと思います。
https://twitter.com/han_org/status/168696092593106945


もっともらしいようにみえるけど、なんだかよくわかりません。
本当に高学歴者に悪筆がふえるのか。それは権威主義のよわさで説明できるのか。高学歴層は字の汚さがマイナスにならないのか。高学歴者は計算問題をたくさん説いているのか。
じつは、これらの語りの真偽にはわりと、あまり興味がありません。
これらのかたりが意味のある分析なのか、たんなるヨタばなしなのか。それはわりとどうでもいいです。

ただ、からだの多様性についてまったく触れないこのような語りが、書字行為にかかわるからだの多様性に教育がまったく追いついていないことを置き去りにしたまま都合よく広まり、利用されていくかをかんがえると気が重いです。

ヨタ話であるから許さない、とか真実を暴露したから許さない、とかそういうことではなく。
語ったことを差別だといいたいのではなく、語らないことが暴力なのです。
そしてその暴力は、階層の話であるとうそぶきながら、じつはそこで終わらずにある一定のからだのありようから外れたひとに牙をむく差別となります。

もう一度。
語られた内容が差別なのではなく、語らないことが、差別なのです。
posted by なかのまき at 22:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 文字のこと

2012年11月03日

資料紹介『橋本先生をしのぶ』

国立国語研究所でおもしろい資料をみつけました。

『橋本先生をしのぶ』という謄写版印刷の冊子です。

1977年の印刷です。

東大で橋本進吉の講義をうけていた国語学・国文学の人が、年に一度「橋本先生をしのぶ」という会をやっていたのですが、20回記念ということで小冊子をだしたということです。


いくつかご紹介します。
翻字は、なかのがやりました。翻字のまちがいがございましたら、指摘してください。
画像はサムネイルです。クリックするとおおきいものがみられます。
ちなみに、名前の上の数字は卒業年次だそうです。

西尾光雄



(7)西尾 光雄
わたくしのようなものゝ書き
ましたものをごらんになつた
ことをおっしゃられました時ハ
何とお返事申しあげて
よいかわかりませんでした。


水野清

(10)水野 清
あれは、昭和18年か19年の夏だろうか。林大氏にでも聞いて
みたい。久々にお宅に上がったら、先生は、いくらか ちいさく なられた
感じのからだで言われた。「やせ脚気になり、14キロの体重が
9キロにまで へった。われわれはヤミ買い が 出来なかったし、どう
したら出来るかも 知らない。配給の野菜その他だけで生活
していた結果だ。幸い林大君が 野菜を 贈ってくれて、
助かつた所だ」と。それで、「先生も そろそろ 疎開なさつては、
いかがですか。」と申しあげると、「今、疎開となれば、本を郷里へ送ら
ねばならぬが、それがもう出来ない。本を離れては、生きてるかいがな
いからね。」とのお答で。それ以上は言えなくなって辞去したのだった。
「学問に殉ずる先生」を痛感すると同時に、日本文学報国会長で
あられた先生に、政府の報いる所、余りにすくないことを恨みつる
苦しい気持ちで 帰って 来たのだった。


井上豊

(7)井上 豊
先生について特に思い出さ
れるのは、にこやかな温顔と
手がたいお講義です、
なお住所が表記に変りま
した、


亀井孝

(10)亀井 孝
思い出はいろ\/あれど このスペイスに盛りこむこと
は どうも むつかしいので ざんねんですが また 別の
機会に でも 譲りたく
さて感想ですが みなさま たのしく お集り
に なるのは けっこうなれど しかし 先生が もし
会を ごらん に なつたら どういう”感想”を懐かれる
は また 別なるべし というのが わたくしの 感想
――先生についての感想――です(ということは 先生が
おれを肴にのんでくれてうれしいと仰せにならないの意にはあらず)



引用してみておもつたのですが、おのおの東大をご卒業なされた先生がた、
字のかきぶりやおおきさ、字体、 紙面のスペイスのつかいかたまで
わりと こころにまかせた こせいあふるゝ ものであるなあ というのが
わたくしの感想です。
posted by なかのまき at 22:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2012年06月13日

完全保存版! 伝統的子育て! ――このデータベースですべてがわかる!――(国立民俗博物館「俗信」データベース)

みなさんこんにちは!

今日は、伝統的子育てにかんするとっておき情報をご紹介します。

親と子がともにきらきらとかがやいて暮らしていくために、国立民俗博物館「俗信データベース(動植物編)」で伝統的な子育てについて学んでみませんか?(効果には個人差があります)

先人の知恵がぎゅっとつまったこのデータベースをつかって、子育て中の親が学ぶべき大切なことを伝え合いましょう!(効果には個人差があります)


伝統的子育て その1:妊娠出産編
妊娠出産の際にやくにたつ豆知識をあつめました!

鼠の食べかけの餅を焼いて食べるとお産が軽くなる。(高知県 十和村)

安産に効きそうです!

子どもの生まれたとき、当歳の犬猫を飼うといずれかが負ける。(高知県高岡郡佐川町)

産まれたときから競争社会の洗礼をうけて強い子が育てられますね!

・姙婦が馬の手綱をまたぐと、額に旋毛のある子を生む。(長野県北安曇郡 )

額に旋毛(つむじ)が欲しいときはぜひ、馬の手綱をまたいでみましょう!


伝統的子育て その2:すくすく成長編

こどもたちがすくすく生きていくために、知っておくと便利な豆知識です。

・子供のムツキを犬がくわえていくと夜泣きする。(三重県度会郡御薗村)

・牛の尿を踏むと背が小さくなる(富山県下新川郡宇奈月町 )

・しつけ糸をとらないで着るとキツネに化かされる。また男の人はしつけられ、女は恥をかく。子供にしつけ糸を取らないで着せると、しつけがよくなる(野、日、草)。女は早くしつけられるようにと、しつけ糸をとらないで着る(草)。しつけ糸を取らずに人にあいさつすれば、人の下役にされる(野、日)(長野県東筑摩郡生坂村 )。


伝統的子育て その3:こんなときどうする?編

子育てにはさまざまなハプニングがつきもの。 どうしよう! というときに。
伝統的な子育ての知恵を拝借。

・よだれをたらす子はカマキリの巣をかめばよい(岩手県)

・夜泣きは、鶏の絵を書きそれを逆にして子どもの布団の下へ入れるか、白い半紙に「シノダノモリノシロキツネ、ヒルハナイテモヨルナクナ」と書き枕元か天井にはる。(和歌山県日高郡由良町)

・ミミズに小便をひっかけるとちんこが赤く張れる。ミミズを真水で洗ってやるとなおる(どのミミズでもよい)。(静岡県磐田郡水窪町 )

・ねずみに足をかまれたら、猫を三匹食べると治る( 和歌山県日高郡南部川村 )


伝統的子育て その4:お稽古・学業編

お稽古や勉強など、なにか一芸にひいでることで人生が豊かになりますね。

・蟻を三匹食べれば力持ちになる(和歌山県日高郡川辺町 )

・馬の糞を踏むと速く走れる(愛知県知多郡阿久比町)

・ねぎの白い所の好きな人は、頭が良い(奈良県吉野郡東吉野村 )


番外編 家計やりくりにはコレ!

子育てにはなにかとものいり。百万長者になれる方法をさがしてみました!

・一日中に百足虫を三匹捕まえると百万長者になれる(愛知県)

・青大将ヨリ咬マルレバ其人ノ家ハ栄ユ(小城郡誌)。(佐賀県小城郡小城町)

・新調の蚊帳の中でオンドリの鳴き声をすると良いことがある。(愛媛県越智郡玉川町 )


まとめ

さて。いろいろな伝統的子育てについて、みてきました。どうでしょう? 昔の人は、糞尿をふんだりアオダイショウにかまれたり、猫やアリを食べたり、といろいろな方法で豊かな生活をおくっていたことがわかりました! このような先人の知恵に、ぜひ学びたいものですね!
 え? 実践できるかちょっと不安? たしかに、このような伝統的子育てを、現在の生活に取り入れるのは難しい面もあります。社会や生活環境の変化により、アオダイショウや牛馬の糞尿の入手が困難だったりと、とても実践できそうにないものもあると感じてしまうひともいるのではないでしょうか? 心配しないでください! こんなときはポジティブに考えてみましょう!
 すこしちがう角度から検討してみると、このような生活の変化を一切考慮にいれない「伝統的子育て」って、すっごく無意味なものに見えませんか? 口先ばっかりの「伝統」なんて、まったく気にする必要ありませんね! 安心してください!
 みなさんもこのデータベースを使って、(口先ばっかりの)「伝統的子育て」(がどんなにばかばかしいことか)について、いろいろ調べてみてください!


 
 
posted by なかのまき at 22:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2012年03月31日

日本人の生活と宗教(日本語教育編)

『上級へのとびら 中級日本語を教える教師の手引き』(くろしお出版・2011)

という読み物があります。

82ページより。

この読み物の目的
日本の宗教的慣習や年中行事、日本人の宗教に対する考え方を理解する、



日本ではなぜこのように色々な宗教が共に存在することが出来るのだろうか。これは、日本では昔から海や山や木や石など、周りの色々な物や場所に神様がいると考えられてきた。(略)
 このように、神道は自然や場所、物など、あらゆるところに神様が存在するという日本人の宗教的意識を作ったと考えられる。だから、外国から他の宗教や新しい神様がはいってきても、自然に受け入れられたのかもしれない。そして、神道が人々の生活の中で生き続けてきたように、仏教やキリスト教の行事なども、日本人の生活の一部になっているのだ。(83p)


神道が、他の宗教を自然に受け入れるための……え? なんだって?

新説! これが真実だ!

廃仏毀釈は なかった!


とまあ。冗談はさておき。


宗教についてのある調査で、「あなたは何か宗教を熱心に信じていますか?」という質問に「はい」と答えた人は、日本国民全体の9%だけだったらしい。それでは、91%の人は宗教を全然信じていないと答えるだろうか。実は、日本人は宗教を強く信じているという意識はなくても、毎日の生活のなかでお参りしたり祈ったり祝ったりするなど、宗教的慣習や行事を大切にしている。そして、そんな人々の生活が、神様や仏様が一緒に存在できる社会を作っていると言えるのではないだろうか。(83p)


ああ。そうですね。
除夜の鐘をついてその足で初詣にいき、七五三をいわいクリスマスをいわい教会で結婚式をあげ仏式の墓にはいるという日本人は、多いのでしょう。

で、のこりの9%の人はどんな宗教生活をおくっているんですか? ってことにはぜんぜんふれずに、
「日本人の宗教に対する考え方を理解」なんかできないでしょう。ふれてないんですね。この本。
のこりの9%は日本人じゃないんですか?
キリスト教や仏教や神道由来の行事が「生活の一部」になってない人もいるでしょう。

「神道が人々の生活の中で生き続けてきたように、仏教やキリスト教の行事なども、日本人の生活の一部になっているのだ。」

って、9%のひとを無視したかきかたをして「日本人の」っていえてしまう、信仰をもっているひとを特殊な例として排除して、いっさいふれないかきかたに、不信感をかんじます。

こうやって「日本人の」ってまるで日本人を一枚の均質なプラスティック板みたいに加工するの、やめてもらえませんかね。「いや、信仰をもってるひともいるでしょう?」っていうのに、「それは特殊な例」って排除していくかきかた。

あと、この宗教っていうテーマなんだったら、
じっさい、私が体験したこととして、留学生のひとに
「日本て政教分離ですよね? 公明党ってなんですか?」
ってきかれること、なんかいかありましたので、そのへんの解説いれてくれたら、じっさいてきに、たすかったんですけど。
わたしは、よくわからなくてこたえられなかったんで。
どうなんですか。そのへん。


posted by なかのまき at 21:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2012年02月24日

先生が、こまるから

前回紹介した」1987年の教育雑誌、『現代教育科学』No.307 に、作文が紹介されていました。

固有名詞のところは、改変にあたりますが、伏せました。
ちょっと、ネットでかくにはためらわれるので。

クラスメイトへの教師のひどい暴言を、児童が作文(綴方)で告発します。

〇〇くんへの差別について
                     四年 〇〇
音楽の時間になりました。はじめのうち、A先生は、わたくしたちをおこったりしていました。
「今日は、このクラス、本当に歌がへたになったね。」と、ずっといっていました。私は、(それはそうでしょう。だって、A先生が前の音楽の時間、〇〇くんのことをサルなんていうんだもん。歌なんかうたう気になれない)と思っていました。そして、先生は〇〇くんの方をむいて、ゆびをさして、
「その子、ちゃんとして。」といいました。(略)先生は、じゅんび室にいって、カセットをとってきて、
「また、この子がうるさいとこまるから、じゅんび室にいきなさい。」といって、〇〇くんをじゅんび室につれていきました。そして
「この子、どろぼうしないでしょ。」といいました。
「しないに、きまっているよう。」
「しないよう。」
と、私たちはおこりながらいいました。……(『現代教育科学』No.307 p.119)



いろいろ衝撃的な内容です。
もっとながく紹介されていて、よんでいてとてもおもしろかったです。

ただ、これ、いまだったら「人(先生)の悪口をかいた悪い作文」っていう評価になりそう。
とりあえず。87年ころの小学生は、教師の批判を作文のなかですることをゆるされていたようです。
いつから、「人の悪口をいわない」が教室を支配するようになったのでしょう。

参考程度に。

私は、遠足に行った動物園の感想文をかかされて「動物がみんな寝ていたのでつまらなかった」とかいて怒られたことあり。
posted by なかのまき at 21:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2012年02月17日

道徳教育の感傷

今日はちょっと古い資料を。

宇佐美寛(うさみ・ひろし)1987「「道徳」授業の不道徳性」『現代教育科学』No.307

宇佐美氏は、道徳教育を専門にしている人のようです。
この論文は、「きつねとぶどう」という小学2年生用道徳の資料を紹介して、この道徳用資料の不道徳性について指摘しています。
おもしろい論文です。

まず、「きつねとぶどう」という道徳資料のあらすじ。

おかあさんぎつねと、子ぎつねが巣穴のなかでくらしています。
ある日子ぎつねが「おなかが すいた」とないて、おかあさんぎつねが、やまを3つこえて、「ぶどうの 村」にいって、ぶどうをひとふさ「いただき」ます。(ようするに、ぬすみ)
ぶどうをもって帰り、あともうすこしで子ぎつねのところに、おかあさんぎつねがたどりつこうとしたとき、わんわんと、犬のなきごえがします。りょうしが、近くにきています。
おかあさんぎつねが、
「コーン、あぶない、早く にげなさい。」
とさけんで、子ぎつねはあなをとびだして、やまおくへ逃げます。

で、にげた子ぎつねはおかあさんぎつねをさがしているうちに何年も時が経過して、大きくなります。
あるとき、むかしすんでいた巣穴のちかくにきたときに、一本のぶどうの木をみつけます。
昔はなかったのに、と不思議におもいながらぶどうをたべてみたら おいしかった。
では、以下原文を引用します。

その とき ふと 子ぎつねは、
「まって おいで。 おいしい ものを、 もってきて あげるから。」
と いった おかあさんの ことばを、 思い出しました。
ぶどうの 木のはえて いる わけが わかりました。
子ぎつねは、 どこに いるのか わからない おかあさんに、 声を あげて おれいを いいました。
「おかあさん、 どうも ありがとう」(坪田譲治の作品による)(宇佐美1987:52)


で、
宇佐美氏はこの教材にたいして、このように述べています。


「教科用書」には赤い字で次のように書いてある。

〔ねらい〕父母やまわりの人びとの愛情に対し、感謝し尊敬する心情を育てる。

本書のおさえどころ…〔略〕…母ぎつねの行動について考えさせ、心情に訴えて尊敬感情の気持ちを育てる。

留意点・自分が犠牲になっても、子どもを助けようとした母ぎつねの気持ちをわからせる。(同:52)


はい。毎度安定のひどさ。
誰かを犠牲にしないと道徳は成り立たないんですかね。


これにたいして、宇佐美氏は厳しく批判します。

これをよんで、子どもは疑問をかんじるはずであるとして、この物語の問題点をあげます。
母ぎつねにエサをはこんでもらわなければいけない年頃の子ぎつねが、どうやってひとりで大きくなったのか。なぜ子ぎつねをおいて山3つもこえた遠くまで食物をとりにいかなければいけなかったのか。ぶどうをぬすむのはよくないのではないか。

など。

そして、以下のようにまとめています。

「きつねとぶどう」は、文学作品として、だめなのである。「おかあさん」の「ぎせい」が、全体の事実関係とまとまりをなしていない。他の部分の事実が「こういう行動ではない可能性もあったのではないか」という問いを誘発する。いいかえれば、「ぎせい」がもの欲しげに感傷的に浮き上がっている。こういう作品を価値あるものとして肯定的に子どもに与えるべきではない。(同:54)



この「きつねとぶどう」の資料・授業は例外的なものではない。すでに述べたような特性は、広く見られる。あえて、くり返しまとめる。
資料はおざなりで感傷的である。すなわち、当然必要であるはずの事実が書かれていない。また、書かれていること相互の間に矛盾がある。筆者が強調したい道徳的意義だけが作品全体の中で浮き上がって、しらけたものを感じさせる。(同:57)



この宇佐美氏の道徳教材批判が、教育の分野においてちゃんと受け止められて、まじめに議論されてきたとは、残念ながら考えられません。

ちょっとまえにインターネットでも話題になり、テレビでもとりあげられたのでご存知のかたもおおいかとおもいますが、埼玉県で道徳教材として、「天使の声」という教材が作成されました。

こちらのリンク先なども参照ください。

犠牲になった南三陸町職員の方が、道徳の教材にされることへの反応。

だれか(特に女性)の犠牲的な死を、「おもいやり」と、感傷的に道徳教材にしたてあげて消費してくることは、昔からさかんにされてきて、そして今年もまたひとつ、教材がつくられました。
私はこのような道徳教育のありかたに、反対します。
posted by なかのまき at 20:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 国語教育

2012年02月14日

教育雑誌の曲芸的読解力

ちょっとまえ、

いじめられてる桐壺更衣萌え〜な論文

という記事をかいたことありました。

女の子が女の子にいじめられるという設定に萌えているいじめにあって死んだ桐壺の更衣を「どんなにいじめられても何もやり返すわけでもなく、自分の運命を受け入れて生きていこうとする強い人だと思う。」という感想文をかかせていた国語教育の論文を紹介したことがあります。



あと、

なんでもない、ごくふつの、どこにでもある国語教育

という記事で、
棄老の物語で、みずから石で歯を折るなどして、すてられようとするおりん婆さんの姿勢を、一般に母親なら共有している「母性」と評した国語教育の論文とか。

あと、
知恵と真実と救いの「かさこじぞう」
という記事で

じいさんが石地蔵にかさをかぶせたら、モチをもってくる、というかさこじぞうにたいして「人生の真実や知恵」「正しい行いをする者は救われる」がこの物語のテーマだと主張するものだとか。


国語教育の作品読解力の曲芸力が、いちいちおもしろいんですが。
またちょっとみつけたので紹介します。

金子書房『児童心理』943号(2012年1月号)より

岩宮恵子(いわみや・けいこ)「思春期と喪失―「海のトリトン」から考える」(pp116-122)

アニメ版の「海のトリトン」は、私はみたことないのですが、
名前と、その評価は一応しっていました。

アニメの歴史に残るものであること。
あと、主人公の正義がくつがえされるという結末が、当時の視聴者にとって、衝撃的だったこと。

これくらいだけですが、「正義とはなにか」がテーマとしてものすごく重くのしかかるアニメだということは、なんとなく知ってます。

さて。教育系雑誌の読解力にかかると、こんなかんじになります。


子どもが、親や周囲の人たちに対して反省の欠片もなく、暴言を吐いたり暴力を振るったり、完全に無視をしたりしているとき、彼らのこころのなかでは、「自分のほうが善に決まっている」という感覚がある。自分を不当に扱い、不当に貶めている状態をつくっている敵と戦っているだけなのだという感覚がこころの大半を占めているのだ。敵と思っていた相手にも、実は深い事情があるということがこころにすとんと落ちたときから、無邪気な子どもである自分を失い、複雑な葛藤を抱えることになっていくのである。(p.121)


正義とはなにか、という、大人だって難しいテーマのはずなのに、こどもの「おとなはみんな、わかってくれない! きたないよ、おとななんか!」という、かんしゃくのレベルにまとめられてる!


善のなかに悪が含まれることもその逆もあり、そして悪もまた自分自身の身の内にもあるものだという強烈な実感をもつことが、思春期のテーマなのである。だから、人の悪口を言いたくなる自分とか、人を排除することに喜びを感じる自分という「悪」がこころからあふれて表面に顔を出しやすくもなる。自分の身の内に悪を引き受けることができないときほど、その「悪」が外のものに投影されてしまうのである。(p.112)


トリトンがポセイドン族をたおしたのは、白いイルカの助言と、両親の遺言によるものであるはずなのだけど……自分の内なる悪をみとめたくないトリトンが外部(ポセイドン族)に悪を投影した妄想劇という解釈ですか。両親の遺言どこいったの……


これ、すなおに解釈するなら、親やまわりのものから注入された価値観が、くつがえされたときの衝撃、という最終回であって、これについてはトリトンが浅はかだったとかそういうこともいえないし、英雄としてまつりあげられたあげくにはしごをはずされた者の悲劇とか。そういうことになるとおもうのだけど。

教育雑誌の文章にかかると、反抗期の子どもが被害妄想を克服する物語になっちゃうんですね。

あと、ほんとに、悪口(否定的意見)を口から出すことを嫌悪してますね。教育のひと。


posted by なかのまき at 22:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2012年02月13日

教育用語の特殊

図書文化から「指導と評価」という教育系の雑誌が発刊されている。

この雑誌の、57号(2011年12月号)
で、

「学校文化・学級文化」

という特集がくまれていた。ちょっと期待しながら手にとったら、表紙に「よい学校文化を育てる」とかかいてあって。
よい学校文化って。

よいスクールカーストを育てる!
とか
よい隠れたカリキュラムを育てる!
とかそんなかんじですか?

と、ひとしきりわらわせてもらったのち、中身をみたら、ほんとに「よりよい隠れたカリキュラム」っぽいことかいてあるし!

巻頭の

竹内洋(たけうち・よう)「学校文化」 pp.4-7
この論文に、以下のようにありました。

施設や公式カリキュラムがいくら同一でも、(略)隠れたカリキュラム(言明されることなく無意識に伝達されてしまうカリキュラム)がちがっており、そのことが、アウトプット(卒業生の資質)に影響を及ぼすという説明になる。(略)
宝塚音楽学校の新入生は掃除で始まり掃除で終わる。しかし、生徒はそうした雑事も将来のスターの第一歩がここから始まるとして意味づける。身が入るだろう。ところができたてで、伝統に裏づけられた学校文化が定着していない京都音楽学校で同じことをやらせても、そうはいかない。どうして将来のダンサーにこんなことをさせるのだろうか、あるいは、理事長がケチだから掃除してもらう人を雇わないで倹約してるんだ、という解釈にさえなってしまう。


ちなみに、京都音楽学校とは、竹内氏のあたまのなかにある、非実在の音楽学校です。
学校文化とか、隠れたカリキュラムって、社会学のタームで、しばしば否定的な意味をともなうものだったようなきがしますが、教育の世界ではなんかちがうつかわれかたしてます。
隠れたカリキュラムって、教育者側が、そんなに推奨していいのですかね。

教育関係ちょっと特殊なタームの使い方してるので、注意したほうがいいですね。
あと、もうひとつ紹介します。

金子書房『児童心理』943号(2012年1月号)で「規範感覚を育てる」という特集がくまれていました。
これも、「規範意識をそだてる」みたいなことがかいてあって、なんか私の知ってる規範意識とちがう。

まあ。それはいいとして。


この特集のなかであった文がひどいので紹介します。

姫田佳子(ひめた・けいこ)「クラスみんなでHAPPYになるために」(pp.50-51)

全員で話し合いのルールを決めた。その内容は、
・友達の話はしっかり聞く。
・理由を言う
・否定の意見を言う時は代替案を出す。
・言いたいことはしっかり言って、決まったことには文句を言わない。


このルールの内容、びっくりしましたが。

なにがって、「否定の意見を言う時は代替案を出す」いや、これまちがってるでしょ。
何かを否定するときは、根拠をだせばそれで十分。代替案、いらない。
否定の意見をいうときに、代替案なんかかならずしも出す必要ない。
そしてなぜ、代替案提出義務があるのは、「否定の意見を言う時」限定なのですか?
否定をする側にのみ、一方的に代替案の提出を課すのは、おかしい。
「いっしょに代替案をかんがえる」とかなら、まあ。わからないでもないけど。

そのつぎの、「決まったことに文句を言わない」もだめでしょうが。
リセットや前に戻る機能がついてないシステムは、あぶなすぎる。
なにかをやりはじめてから、不具合に気がついて修正の必要がでてくることなんか、いくらでもあるはず。
そこで「決まったことだから文句を言わない」みたいなしばりは、害でしかないとおもいます。

話し合いのルールといいつつ、けっきょく、「否定意見・文句を言うな」というおどしにみえます。


あ、あと、これはこのブログのことなんですが、
「誰かを批判するときはwikipediaをつかうな、wikipediaにのっている参考文献を引用しろ」
みたいな謎ルールをわざわざメールでおくってくる人がいました。
「批判するなら」うwikipediaだめ、って、どういうリクツですか?
批判しないなら、つかっていいの?
ちょっとよくわからない。

私は、wikipediaは、有効な場面ではつかってますし、一方、ネットでは見られないわりとマニアックな一次資料を紹介してる方だとおもいますけどね。
ちなみに、ほんとうにちゃんと文献にあたりたいなら、wikipediaの参考文献だけでは、足りませんので、ちゃんと自分でしらべますから。


なんか、批判する側はよっぽど 清く正しく批判しなければいけない、という根拠のない信念が、うっすらとありそうですね。
批判するにはもちろん、言動に責任は生じます。しかしね、それいったら、だれかをほめたり、好意的に評価する場合にだって、同様の責任は、いやおうもなく生じている。
たとえば、差別をおこなうひとを褒めれば、ほめているがわだって差別に加担することになるんです。
肯定的な評価をくだすときにはいくらでも無責任でもかまわないんですか?

「批判するなら〜しろ」みたいないいかたは、無意味です。同様に、
「否定的な意見を言うなら代替案を出せ」も、無意味です。

否定・批判をするという行為と、それをおこなう人に、必要以上にしばりをかけたがるのは、なんででしょう。
くだらない意見への肯定はあまりにも無責任に行なわれているのに。

「否定的な意見いうとめんどうくさいから、いやだけど、とりあえずハイっていっておけばいいや。はいはい」
みたいな人間を量産したいのですか?
posted by なかのまき at 21:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2012年02月08日

女尊男卑という差別

森山美雪2010「異文化トレーニングにおける大学生の学び―シミュレーション「アルバトロス」の効果について」『異文化コミュニケーション13 pp.105-119

異文化トレーニング「アルバトロス」というものがある。
アルバトロスという架空の文化では、女尊男卑の思想がねづいている。

・聖なる大地を踏みしめることができるのは女性だけで、男性は椅子に座らなければならない。
・食べ物は女性だけが自分でたべることができる、男性が先に食べて毒見をして女性を守る

そのため、女性が床に正座をし、男性はイスにすわる。女性は食べ物を男性に手渡してやり、男性が先に食べ、女性はその後にたべるという風習がある。

しかし、女性を床にすわらせ、男性に給仕をするすがたが、男尊女卑にみえてしまう。

森山氏は、日本の大学で実際にこのトレーニングを行い、その際のグループディスカッションにでた
学生の言葉を以下のように紹介している。


「教育が悪い」「小学校から男女平等についてよく聞かされていて、男尊女卑という概念をならったので、アルバトロス文化をそう思い込んでしまった」「差別という言葉を習うので、この状況を差別と解釈した。差別ということばを知らなかったらそうは思わない」(前掲森山2010:110)

ここ、なにがおかしいかというと、

男性・女性という性差より、
「床に正座してる人物が下位、椅子に座る人物が上位」「食物を用意する人間が下位、受け取る人間が上位」「食物を先に食べる人物が上位、あとに食べる人間が上位」という判断が先にあって、それぞれ男性・女性にわかれていたので、結果的に男尊女卑にみえてしまったのであるのだから、

問題とするべきは、誤解の原因は、性差ではなく、椅子と地面、給仕する/される、食物を先に食べる、後にたべる。の対立の方だとおもうのですが。

で、その点にかんしては教育が悪いですかね?
椅子に座るほうが上位で床に正座する方が下位とか、学校で教えはしないでしょうが。
上にあげた学生の分析は、足りないと思うのだけど。というか、まちがってない?

これ、だって性差ではなく、たとえば若者は床にすわり、老人は椅子に座る。老人が食べ物を先にたべ、若者が後から食べる。いっけん老人をうやまう文化かとおもえば、じつは若尊老卑の文化でした。も、なりたちますよね。

だから、教育が悪い、男女差別、男尊女卑なんていうことばをならったからこそ、「小学校から学んできた差別の知識が公正に見る目を曇らせた。(森山2010:113)」といういい方も、おかしい。

人間を男と女に乱暴に二分して、男とされた人間を毒見役につかう文化なんて、差別的じゃないですか。男女差別ですよ。教育が役にたったじゃないですか。
差別ということばをしっていたから、この文化を正しく、差別的であると、判断できたのだから。
posted by なかのまき at 23:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記