2012年03月31日

日本人の生活と宗教(日本語教育編)

『上級へのとびら 中級日本語を教える教師の手引き』(くろしお出版・2011)

という読み物があります。

82ページより。

この読み物の目的
日本の宗教的慣習や年中行事、日本人の宗教に対する考え方を理解する、



日本ではなぜこのように色々な宗教が共に存在することが出来るのだろうか。これは、日本では昔から海や山や木や石など、周りの色々な物や場所に神様がいると考えられてきた。(略)
 このように、神道は自然や場所、物など、あらゆるところに神様が存在するという日本人の宗教的意識を作ったと考えられる。だから、外国から他の宗教や新しい神様がはいってきても、自然に受け入れられたのかもしれない。そして、神道が人々の生活の中で生き続けてきたように、仏教やキリスト教の行事なども、日本人の生活の一部になっているのだ。(83p)


神道が、他の宗教を自然に受け入れるための……え? なんだって?

新説! これが真実だ!

廃仏毀釈は なかった!


とまあ。冗談はさておき。


宗教についてのある調査で、「あなたは何か宗教を熱心に信じていますか?」という質問に「はい」と答えた人は、日本国民全体の9%だけだったらしい。それでは、91%の人は宗教を全然信じていないと答えるだろうか。実は、日本人は宗教を強く信じているという意識はなくても、毎日の生活のなかでお参りしたり祈ったり祝ったりするなど、宗教的慣習や行事を大切にしている。そして、そんな人々の生活が、神様や仏様が一緒に存在できる社会を作っていると言えるのではないだろうか。(83p)


ああ。そうですね。
除夜の鐘をついてその足で初詣にいき、七五三をいわいクリスマスをいわい教会で結婚式をあげ仏式の墓にはいるという日本人は、多いのでしょう。

で、のこりの9%の人はどんな宗教生活をおくっているんですか? ってことにはぜんぜんふれずに、
「日本人の宗教に対する考え方を理解」なんかできないでしょう。ふれてないんですね。この本。
のこりの9%は日本人じゃないんですか?
キリスト教や仏教や神道由来の行事が「生活の一部」になってない人もいるでしょう。

「神道が人々の生活の中で生き続けてきたように、仏教やキリスト教の行事なども、日本人の生活の一部になっているのだ。」

って、9%のひとを無視したかきかたをして「日本人の」っていえてしまう、信仰をもっているひとを特殊な例として排除して、いっさいふれないかきかたに、不信感をかんじます。

こうやって「日本人の」ってまるで日本人を一枚の均質なプラスティック板みたいに加工するの、やめてもらえませんかね。「いや、信仰をもってるひともいるでしょう?」っていうのに、「それは特殊な例」って排除していくかきかた。

あと、この宗教っていうテーマなんだったら、
じっさい、私が体験したこととして、留学生のひとに
「日本て政教分離ですよね? 公明党ってなんですか?」
ってきかれること、なんかいかありましたので、そのへんの解説いれてくれたら、じっさいてきに、たすかったんですけど。
わたしは、よくわからなくてこたえられなかったんで。
どうなんですか。そのへん。


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2012年02月24日

先生が、こまるから

前回紹介した」1987年の教育雑誌、『現代教育科学』No.307 に、作文が紹介されていました。

固有名詞のところは、改変にあたりますが、伏せました。
ちょっと、ネットでかくにはためらわれるので。

クラスメイトへの教師のひどい暴言を、児童が作文(綴方)で告発します。

〇〇くんへの差別について
                     四年 〇〇
音楽の時間になりました。はじめのうち、A先生は、わたくしたちをおこったりしていました。
「今日は、このクラス、本当に歌がへたになったね。」と、ずっといっていました。私は、(それはそうでしょう。だって、A先生が前の音楽の時間、〇〇くんのことをサルなんていうんだもん。歌なんかうたう気になれない)と思っていました。そして、先生は〇〇くんの方をむいて、ゆびをさして、
「その子、ちゃんとして。」といいました。(略)先生は、じゅんび室にいって、カセットをとってきて、
「また、この子がうるさいとこまるから、じゅんび室にいきなさい。」といって、〇〇くんをじゅんび室につれていきました。そして
「この子、どろぼうしないでしょ。」といいました。
「しないに、きまっているよう。」
「しないよう。」
と、私たちはおこりながらいいました。……(『現代教育科学』No.307 p.119)



いろいろ衝撃的な内容です。
もっとながく紹介されていて、よんでいてとてもおもしろかったです。

ただ、これ、いまだったら「人(先生)の悪口をかいた悪い作文」っていう評価になりそう。
とりあえず。87年ころの小学生は、教師の批判を作文のなかですることをゆるされていたようです。
いつから、「人の悪口をいわない」が教室を支配するようになったのでしょう。

参考程度に。

私は、遠足に行った動物園の感想文をかかされて「動物がみんな寝ていたのでつまらなかった」とかいて怒られたことあり。
posted by なかのまき at 21:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2012年02月17日

道徳教育の感傷

今日はちょっと古い資料を。

宇佐美寛(うさみ・ひろし)1987「「道徳」授業の不道徳性」『現代教育科学』No.307

宇佐美氏は、道徳教育を専門にしている人のようです。
この論文は、「きつねとぶどう」という小学2年生用道徳の資料を紹介して、この道徳用資料の不道徳性について指摘しています。
おもしろい論文です。

まず、「きつねとぶどう」という道徳資料のあらすじ。

おかあさんぎつねと、子ぎつねが巣穴のなかでくらしています。
ある日子ぎつねが「おなかが すいた」とないて、おかあさんぎつねが、やまを3つこえて、「ぶどうの 村」にいって、ぶどうをひとふさ「いただき」ます。(ようするに、ぬすみ)
ぶどうをもって帰り、あともうすこしで子ぎつねのところに、おかあさんぎつねがたどりつこうとしたとき、わんわんと、犬のなきごえがします。りょうしが、近くにきています。
おかあさんぎつねが、
「コーン、あぶない、早く にげなさい。」
とさけんで、子ぎつねはあなをとびだして、やまおくへ逃げます。

で、にげた子ぎつねはおかあさんぎつねをさがしているうちに何年も時が経過して、大きくなります。
あるとき、むかしすんでいた巣穴のちかくにきたときに、一本のぶどうの木をみつけます。
昔はなかったのに、と不思議におもいながらぶどうをたべてみたら おいしかった。
では、以下原文を引用します。

その とき ふと 子ぎつねは、
「まって おいで。 おいしい ものを、 もってきて あげるから。」
と いった おかあさんの ことばを、 思い出しました。
ぶどうの 木のはえて いる わけが わかりました。
子ぎつねは、 どこに いるのか わからない おかあさんに、 声を あげて おれいを いいました。
「おかあさん、 どうも ありがとう」(坪田譲治の作品による)(宇佐美1987:52)


で、
宇佐美氏はこの教材にたいして、このように述べています。


「教科用書」には赤い字で次のように書いてある。

〔ねらい〕父母やまわりの人びとの愛情に対し、感謝し尊敬する心情を育てる。

本書のおさえどころ…〔略〕…母ぎつねの行動について考えさせ、心情に訴えて尊敬感情の気持ちを育てる。

留意点・自分が犠牲になっても、子どもを助けようとした母ぎつねの気持ちをわからせる。(同:52)


はい。毎度安定のひどさ。
誰かを犠牲にしないと道徳は成り立たないんですかね。


これにたいして、宇佐美氏は厳しく批判します。

これをよんで、子どもは疑問をかんじるはずであるとして、この物語の問題点をあげます。
母ぎつねにエサをはこんでもらわなければいけない年頃の子ぎつねが、どうやってひとりで大きくなったのか。なぜ子ぎつねをおいて山3つもこえた遠くまで食物をとりにいかなければいけなかったのか。ぶどうをぬすむのはよくないのではないか。

など。

そして、以下のようにまとめています。

「きつねとぶどう」は、文学作品として、だめなのである。「おかあさん」の「ぎせい」が、全体の事実関係とまとまりをなしていない。他の部分の事実が「こういう行動ではない可能性もあったのではないか」という問いを誘発する。いいかえれば、「ぎせい」がもの欲しげに感傷的に浮き上がっている。こういう作品を価値あるものとして肯定的に子どもに与えるべきではない。(同:54)



この「きつねとぶどう」の資料・授業は例外的なものではない。すでに述べたような特性は、広く見られる。あえて、くり返しまとめる。
資料はおざなりで感傷的である。すなわち、当然必要であるはずの事実が書かれていない。また、書かれていること相互の間に矛盾がある。筆者が強調したい道徳的意義だけが作品全体の中で浮き上がって、しらけたものを感じさせる。(同:57)



この宇佐美氏の道徳教材批判が、教育の分野においてちゃんと受け止められて、まじめに議論されてきたとは、残念ながら考えられません。

ちょっとまえにインターネットでも話題になり、テレビでもとりあげられたのでご存知のかたもおおいかとおもいますが、埼玉県で道徳教材として、「天使の声」という教材が作成されました。

こちらのリンク先なども参照ください。

犠牲になった南三陸町職員の方が、道徳の教材にされることへの反応。

だれか(特に女性)の犠牲的な死を、「おもいやり」と、感傷的に道徳教材にしたてあげて消費してくることは、昔からさかんにされてきて、そして今年もまたひとつ、教材がつくられました。
私はこのような道徳教育のありかたに、反対します。
posted by なかのまき at 20:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 国語教育

2012年02月14日

教育雑誌の曲芸的読解力

ちょっとまえ、

いじめられてる桐壺更衣萌え〜な論文

という記事をかいたことありました。

女の子が女の子にいじめられるという設定に萌えているいじめにあって死んだ桐壺の更衣を「どんなにいじめられても何もやり返すわけでもなく、自分の運命を受け入れて生きていこうとする強い人だと思う。」という感想文をかかせていた国語教育の論文を紹介したことがあります。



あと、

なんでもない、ごくふつの、どこにでもある国語教育

という記事で、
棄老の物語で、みずから石で歯を折るなどして、すてられようとするおりん婆さんの姿勢を、一般に母親なら共有している「母性」と評した国語教育の論文とか。

あと、
知恵と真実と救いの「かさこじぞう」
という記事で

じいさんが石地蔵にかさをかぶせたら、モチをもってくる、というかさこじぞうにたいして「人生の真実や知恵」「正しい行いをする者は救われる」がこの物語のテーマだと主張するものだとか。


国語教育の作品読解力の曲芸力が、いちいちおもしろいんですが。
またちょっとみつけたので紹介します。

金子書房『児童心理』943号(2012年1月号)より

岩宮恵子(いわみや・けいこ)「思春期と喪失―「海のトリトン」から考える」(pp116-122)

アニメ版の「海のトリトン」は、私はみたことないのですが、
名前と、その評価は一応しっていました。

アニメの歴史に残るものであること。
あと、主人公の正義がくつがえされるという結末が、当時の視聴者にとって、衝撃的だったこと。

これくらいだけですが、「正義とはなにか」がテーマとしてものすごく重くのしかかるアニメだということは、なんとなく知ってます。

さて。教育系雑誌の読解力にかかると、こんなかんじになります。


子どもが、親や周囲の人たちに対して反省の欠片もなく、暴言を吐いたり暴力を振るったり、完全に無視をしたりしているとき、彼らのこころのなかでは、「自分のほうが善に決まっている」という感覚がある。自分を不当に扱い、不当に貶めている状態をつくっている敵と戦っているだけなのだという感覚がこころの大半を占めているのだ。敵と思っていた相手にも、実は深い事情があるということがこころにすとんと落ちたときから、無邪気な子どもである自分を失い、複雑な葛藤を抱えることになっていくのである。(p.121)


正義とはなにか、という、大人だって難しいテーマのはずなのに、こどもの「おとなはみんな、わかってくれない! きたないよ、おとななんか!」という、かんしゃくのレベルにまとめられてる!


善のなかに悪が含まれることもその逆もあり、そして悪もまた自分自身の身の内にもあるものだという強烈な実感をもつことが、思春期のテーマなのである。だから、人の悪口を言いたくなる自分とか、人を排除することに喜びを感じる自分という「悪」がこころからあふれて表面に顔を出しやすくもなる。自分の身の内に悪を引き受けることができないときほど、その「悪」が外のものに投影されてしまうのである。(p.112)


トリトンがポセイドン族をたおしたのは、白いイルカの助言と、両親の遺言によるものであるはずなのだけど……自分の内なる悪をみとめたくないトリトンが外部(ポセイドン族)に悪を投影した妄想劇という解釈ですか。両親の遺言どこいったの……


これ、すなおに解釈するなら、親やまわりのものから注入された価値観が、くつがえされたときの衝撃、という最終回であって、これについてはトリトンが浅はかだったとかそういうこともいえないし、英雄としてまつりあげられたあげくにはしごをはずされた者の悲劇とか。そういうことになるとおもうのだけど。

教育雑誌の文章にかかると、反抗期の子どもが被害妄想を克服する物語になっちゃうんですね。

あと、ほんとに、悪口(否定的意見)を口から出すことを嫌悪してますね。教育のひと。


posted by なかのまき at 22:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2012年02月13日

教育用語の特殊

図書文化から「指導と評価」という教育系の雑誌が発刊されている。

この雑誌の、57号(2011年12月号)
で、

「学校文化・学級文化」

という特集がくまれていた。ちょっと期待しながら手にとったら、表紙に「よい学校文化を育てる」とかかいてあって。
よい学校文化って。

よいスクールカーストを育てる!
とか
よい隠れたカリキュラムを育てる!
とかそんなかんじですか?

と、ひとしきりわらわせてもらったのち、中身をみたら、ほんとに「よりよい隠れたカリキュラム」っぽいことかいてあるし!

巻頭の

竹内洋(たけうち・よう)「学校文化」 pp.4-7
この論文に、以下のようにありました。

施設や公式カリキュラムがいくら同一でも、(略)隠れたカリキュラム(言明されることなく無意識に伝達されてしまうカリキュラム)がちがっており、そのことが、アウトプット(卒業生の資質)に影響を及ぼすという説明になる。(略)
宝塚音楽学校の新入生は掃除で始まり掃除で終わる。しかし、生徒はそうした雑事も将来のスターの第一歩がここから始まるとして意味づける。身が入るだろう。ところができたてで、伝統に裏づけられた学校文化が定着していない京都音楽学校で同じことをやらせても、そうはいかない。どうして将来のダンサーにこんなことをさせるのだろうか、あるいは、理事長がケチだから掃除してもらう人を雇わないで倹約してるんだ、という解釈にさえなってしまう。


ちなみに、京都音楽学校とは、竹内氏のあたまのなかにある、非実在の音楽学校です。
学校文化とか、隠れたカリキュラムって、社会学のタームで、しばしば否定的な意味をともなうものだったようなきがしますが、教育の世界ではなんかちがうつかわれかたしてます。
隠れたカリキュラムって、教育者側が、そんなに推奨していいのですかね。

教育関係ちょっと特殊なタームの使い方してるので、注意したほうがいいですね。
あと、もうひとつ紹介します。

金子書房『児童心理』943号(2012年1月号)で「規範感覚を育てる」という特集がくまれていました。
これも、「規範意識をそだてる」みたいなことがかいてあって、なんか私の知ってる規範意識とちがう。

まあ。それはいいとして。


この特集のなかであった文がひどいので紹介します。

姫田佳子(ひめた・けいこ)「クラスみんなでHAPPYになるために」(pp.50-51)

全員で話し合いのルールを決めた。その内容は、
・友達の話はしっかり聞く。
・理由を言う
・否定の意見を言う時は代替案を出す。
・言いたいことはしっかり言って、決まったことには文句を言わない。


このルールの内容、びっくりしましたが。

なにがって、「否定の意見を言う時は代替案を出す」いや、これまちがってるでしょ。
何かを否定するときは、根拠をだせばそれで十分。代替案、いらない。
否定の意見をいうときに、代替案なんかかならずしも出す必要ない。
そしてなぜ、代替案提出義務があるのは、「否定の意見を言う時」限定なのですか?
否定をする側にのみ、一方的に代替案の提出を課すのは、おかしい。
「いっしょに代替案をかんがえる」とかなら、まあ。わからないでもないけど。

そのつぎの、「決まったことに文句を言わない」もだめでしょうが。
リセットや前に戻る機能がついてないシステムは、あぶなすぎる。
なにかをやりはじめてから、不具合に気がついて修正の必要がでてくることなんか、いくらでもあるはず。
そこで「決まったことだから文句を言わない」みたいなしばりは、害でしかないとおもいます。

話し合いのルールといいつつ、けっきょく、「否定意見・文句を言うな」というおどしにみえます。


あ、あと、これはこのブログのことなんですが、
「誰かを批判するときはwikipediaをつかうな、wikipediaにのっている参考文献を引用しろ」
みたいな謎ルールをわざわざメールでおくってくる人がいました。
「批判するなら」うwikipediaだめ、って、どういうリクツですか?
批判しないなら、つかっていいの?
ちょっとよくわからない。

私は、wikipediaは、有効な場面ではつかってますし、一方、ネットでは見られないわりとマニアックな一次資料を紹介してる方だとおもいますけどね。
ちなみに、ほんとうにちゃんと文献にあたりたいなら、wikipediaの参考文献だけでは、足りませんので、ちゃんと自分でしらべますから。


なんか、批判する側はよっぽど 清く正しく批判しなければいけない、という根拠のない信念が、うっすらとありそうですね。
批判するにはもちろん、言動に責任は生じます。しかしね、それいったら、だれかをほめたり、好意的に評価する場合にだって、同様の責任は、いやおうもなく生じている。
たとえば、差別をおこなうひとを褒めれば、ほめているがわだって差別に加担することになるんです。
肯定的な評価をくだすときにはいくらでも無責任でもかまわないんですか?

「批判するなら〜しろ」みたいないいかたは、無意味です。同様に、
「否定的な意見を言うなら代替案を出せ」も、無意味です。

否定・批判をするという行為と、それをおこなう人に、必要以上にしばりをかけたがるのは、なんででしょう。
くだらない意見への肯定はあまりにも無責任に行なわれているのに。

「否定的な意見いうとめんどうくさいから、いやだけど、とりあえずハイっていっておけばいいや。はいはい」
みたいな人間を量産したいのですか?
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2012年02月08日

女尊男卑という差別

森山美雪2010「異文化トレーニングにおける大学生の学び―シミュレーション「アルバトロス」の効果について」『異文化コミュニケーション13 pp.105-119

異文化トレーニング「アルバトロス」というものがある。
アルバトロスという架空の文化では、女尊男卑の思想がねづいている。

・聖なる大地を踏みしめることができるのは女性だけで、男性は椅子に座らなければならない。
・食べ物は女性だけが自分でたべることができる、男性が先に食べて毒見をして女性を守る

そのため、女性が床に正座をし、男性はイスにすわる。女性は食べ物を男性に手渡してやり、男性が先に食べ、女性はその後にたべるという風習がある。

しかし、女性を床にすわらせ、男性に給仕をするすがたが、男尊女卑にみえてしまう。

森山氏は、日本の大学で実際にこのトレーニングを行い、その際のグループディスカッションにでた
学生の言葉を以下のように紹介している。


「教育が悪い」「小学校から男女平等についてよく聞かされていて、男尊女卑という概念をならったので、アルバトロス文化をそう思い込んでしまった」「差別という言葉を習うので、この状況を差別と解釈した。差別ということばを知らなかったらそうは思わない」(前掲森山2010:110)

ここ、なにがおかしいかというと、

男性・女性という性差より、
「床に正座してる人物が下位、椅子に座る人物が上位」「食物を用意する人間が下位、受け取る人間が上位」「食物を先に食べる人物が上位、あとに食べる人間が上位」という判断が先にあって、それぞれ男性・女性にわかれていたので、結果的に男尊女卑にみえてしまったのであるのだから、

問題とするべきは、誤解の原因は、性差ではなく、椅子と地面、給仕する/される、食物を先に食べる、後にたべる。の対立の方だとおもうのですが。

で、その点にかんしては教育が悪いですかね?
椅子に座るほうが上位で床に正座する方が下位とか、学校で教えはしないでしょうが。
上にあげた学生の分析は、足りないと思うのだけど。というか、まちがってない?

これ、だって性差ではなく、たとえば若者は床にすわり、老人は椅子に座る。老人が食べ物を先にたべ、若者が後から食べる。いっけん老人をうやまう文化かとおもえば、じつは若尊老卑の文化でした。も、なりたちますよね。

だから、教育が悪い、男女差別、男尊女卑なんていうことばをならったからこそ、「小学校から学んできた差別の知識が公正に見る目を曇らせた。(森山2010:113)」といういい方も、おかしい。

人間を男と女に乱暴に二分して、男とされた人間を毒見役につかう文化なんて、差別的じゃないですか。男女差別ですよ。教育が役にたったじゃないですか。
差別ということばをしっていたから、この文化を正しく、差別的であると、判断できたのだから。
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2011年11月27日

文化は差別を免責しない(1)

シミュレーション「アルバトロス」というものがあるらしい。

そしてこれを紹介する論文があって、

森山美雪(もりやま・みゆき)2010「異文化トレーニングにおける大学生の学び―シミュレーション「アルバトロス」の効果について」『異文化コミュニケーション』13 105-119

これについて考えたことをかきます。

シミュレーション「アルバトロス」というのは


アルバトロスという架空の国での歓迎の儀式体験と、そのあとに続くディスカッションとの2部構成になっている。参加者は、儀式での性別による待遇の違いからアルバトロスを「男尊女卑」の文化と思い込んだかについて振り返りを行う。森山(2010:109)


このような目的でおこなわれます。
で、紹介する論文は、このシミュレーションを使った大学の授業の実践報告の形をとります。
10名の学生がじっさいにシミュレーションで参加をすることになっていて、(参加してない学生は見学)
ただし、参加する学生にもこのシミュレーションの趣旨を把握しているわけではない。

この授業でおこなわれた実際の手順については、
まず、以下の手順の寸劇をおこないます。

(1)用意された椅子7脚に訪問者女性(VF)全員と訪問者男性(VF)数名が座り、VMの残りは床に腰をおろし、儀式の始まりを待つ。
(2)アルバトロス男性(AM)、アルバトロス女性(AF)の順に入場。全身を覆う服を着用し、AMは靴を履き、AFは裸足。
(3)アルバトロス女性は「スー」と言いながら訪問者女性を床に座らせ、裸足になるように求める。訪問者男性には椅子に座るよう促す。
(4)あいさつ。アルバトロス男性は椅子に着席。アルバトロス女性はアルバトロス男性の足元で正座。アルバトロス男性はアルバトロス女性の頭に手を触れながら頭をさげ、アルバトロス女性は床に手をついてお辞儀をする。
(5)アルバトロス女性がアルバトロス男性、訪問者男性の順にクッキーを食べやすいように差し出す。男性は美味しそうに食べる。その後、アルバトロス女性は箱ごと渡されたクッキーを食べる。
(6)アルバトロス女性がアルバトロス男性、訪問者男性の順に飲み物をコッピに注いで渡す。男性は美味しそうに飲む、最後に、訪問者女性が飲み物の容器とコップを渡されて自分で注いで飲む。
(7)アルバトロス女性とアルバトロス男声が相談をして訪問者女性を一人選ぶ。
(8)あいさつ。アルバトロス男性は椅子に着席。アルバトロス女性とさきほどえらばれた訪問者女性がその両側に正座する。アルバトロス男性は両側の二人の女性の頭に手を触れながら頭を下げる。女性は床に手をついてお辞儀。
(9)アルバトロス男性が先頭に立ち、訪問者女性とアルバトロス女性が後ろについて退場。
(森山(2010:109−110)を要約)


そして、これを見た後「アルバトロスとはどのような文化か」についてディスカッション。
「男尊女卑」という感想をひきだしておいて、ねたばらしをおこなう。


「アルバトロスは女性を尊敬する文化で神が宿ると考えられている聖なる大地を踏みしめることができるのは女性だけで、男性は靴をはき椅子に座らなければならない。食べ物は女性だけが自分で食べることができ、男性が先に食べるのは毒が入っている場合を考え女性の盾となるため」(森山2010:110)


これをうけ、
「なぜアルバトロスを男尊女卑の文化だと思ったのか」についてディスカッションのあと、全体のディスカッションを行う。

全体のディスカッションにおいて紹介されている学生の意見がけっこうひどい。

グループディスカッション中に「教育が悪い」という言葉が何度も発せられた。
「小学校から男女平等についてよく聞かされていて、男尊女卑という概念を習ったので、アルバトロス文化をそう思い込んでしまった」
「差別ということばを習うので、この状況を差別と解釈した。差別ということばを知らなかったらそうは思わない。ことばが物事を解釈する枠組みとなっている」(森山2010:110)


いろいろな混乱がみられるようですが、
どちらにしろ、アルバトロス文化は差別的です。
男尊女卑だろうが女尊男卑だろうが、どっちに解釈したとしても、男女差別。

なぜ男尊女卑だけが差別とみなされているような発言をするのか。
そしてそれを教育のせいにするのか。
小学校教育では「男尊女卑は差別だけど女尊男卑は差別じゃない」というトンチキなことをおしえるものか?
人間を性別で待遇の差をかえたりしてはいけない、というあたりまえのことをいうだけでしょう。

あと、差別は社会の構造に関するものであって、心の問題ではないので、
個人があることがらについて差別と思うか差別と思わないかは、
そのことがらが実際に差別であるかどうかにはまったくかんけいないでしょう。
「ことばが物事を解釈する枠組みとなっている」というのはあまりにも乱暴すぎる。
差別は個々人の「ことば」や「解釈」の問題だけではないので。


森山氏は学生の意見をうけてこうまとめています。

日本文化の視点からアルバトロス文化を解釈してしまった。常識と先入観から思い込み、固定観念に縛られ、日本/自分の価値観を基準に考えた。(略)そもそも他の文化のことをよく知らないし、他の文化のことは考えにも及ばなかった。女尊男卑があるなんて思いもせず、想像力がなく多角的に見られなかった。エスノセントリズムのせいで、他の文化を間違っている、異常、劣っていると感じた。(森山:112)


私は、アルバトロスが架空の文化であるということにうさんくささを感じます。

人間というものは、程度の差こそあれ、男性優遇の社会をつくっている傾向があることは知識として知っているひともいるはず。しかも、これはわりといろんな研究ではっきりしてるでしょう。

こういう研究成果、知識を、「架空の文化」を理解するために捨てろ、それが異文化トレーニングとやらに有効なんだ、というのであれば。
男女差別は文化の差をこえたレベルにあるものなのに、そういうたぐいの差別問題を、架空の文化をでっちあげてまでむりやり個別の文化におとしこもうとすることを「異文化トレーニング」とよぶのか。


文化の間に優劣や間違いはない、という考え方は文化相対主義とよばれます。
これはとても大切な考え方を含むとともに、ある面においてはその限界性を批判されています。

たとえば実在する首狩りという文化。女性器切除(女子割礼とかいわれることもある)という文化。
そういう風習にたいして、文化相対主義はどうむきあうのか。

「文化だから尊重」するのか。

くもりない文化相対主義者なら、「そのとおりだ」とこたえなければならないでしょう。
たとえ人殺しであっても他者(しかも子供)を傷つけることも、そして差別も、それが文化でありさえすれば、
「文化には優劣も異常もない」とこたえなければならない。

森山氏はこのような学生の声も紹介している。

学生Bは「私達が男女差別だと思うことが普通のこととして行われている場合、差別といえるのだろうか」と自問している。結論には及ばなかったが、男女差別だと決めてかからなかったのは、1回目の授業で行った「コミュニケーションとは」のディスカッションが活かせたからだと自己分析している。(森山2010:115)


これは、結論くらいだしてほしい。
普通に行われていることに差別はいくらでもひそんでいる。
差別かどうかと文化かどうかは、独立している。
アルバトロス文化は、女尊男卑という男女差別がおこなわれている。

そのうえで、くもりのない文化相対主義者であるならば、
「たとえ差別でも文化だからまちがいではない」と結論づけるべきなのだ。



長くなったので
続きはまた後日。
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2011年06月07日

遺伝子に,美を決めてもらわなくてもかまわない


dna.jpeg

「散らし書き」に通じる
非対称(アシンメトリー)の美を
感じる心は、
私たち日本人の
DNAに
刷り込まれていると
言っていいのです。

――と、先生は
おっしゃって
いたけれど、
外国で暮らした
時間が長いボクに
「散らし書き」の感覚が
わかるだろうか?
河合克敏『とめはねっ!鈴里高校書道部』8 p.11(ヤングサンデーコミックス)



河合克敏『とめはねっ!鈴里高校書道部』8巻でましたね。

この巻は大槻藍子ちゃんを愛でるための巻ですね。
藍子ちゃんかわいいよ。

さて。

鈴里高校書道部のひとたちが、
大東文化大学の書道学科をモデルとした大学(取材協力大東文化大学書道研究とかいてあることから判断しました)のオープンキャンパスにきたという
設定です。

で、引用箇所は「散らし書きの創作」というお題をだされたときの、
書道部員大江くん(プリンスエドワード島からの帰国子女。カナダの公立学校で教育をうけてきて、一巻で「いじめもないけど友達もできない。ボクはまだ日本語がうまくしゃべれないしなぁ…」というせりふがある。p.18そのくせ日本のいみわからん学校文化にすんなりと適応し、勉強書き文字言葉には不自由してないという謎設定)の回想です。

「散らし書き」に通じる
非対称(アシンメトリー)の美を
感じる心は、
私たち日本人の
DNAに
刷り込まれていると
言っていいのです。


というセリフは、大学のセンセイが言ってる設定です。
「マンガだから」でいいっちゃいいけど。
大学の先生がこんなこと、ほんとにいうんだったら大変ですね。

まず、
「日本人」ってなんだよ。私は日本国籍をもって日本語を第一言語としてるけど「「散らし書き」に通じる非対称(アシンメトリー)の美」なんてものにはまったくぴんときません。
「日本人」なんてなんのことだかわからない。
で、まあ。かりに日本国籍を持つ人を日本人と定義したところで、
日本人全員「「散らし書き」に通じる非対称(アシンメトリー)の美」っていう美意識をもってるの?
しかもDNAレベルで?

というか、「美を感じる心」にDNAは関係ないよね。
遺伝子情報に「美を感じる心」はのってないとおもうんだけど。
そしてDNAはなんかの比喩である可能性もあるが。
ちょっと比喩にしては微妙すぎる。

まにうけて
「DNAだって、あたまわるいー。ぷぷーっ!」
といってしまうような私みたいな人がいるとおもうので。

大学の授業で「日本人のDNA」とか、危なくていえない。私だったら。

というか、 「日本人だから」、美がわかるの? 「美」をDNAにきめてほしいの?
書道の人は「美」について、自分でがんばって、かんがえて、てにいれたんじゃないの?

posted by なかのまき at 22:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 「とめはねっ! 鈴里高校」

2011年05月11日

ぼくが、フンになろう。

「スイミーはどうして目になろうとしたのだろう?」

(1)赤い魚の群れの中で、自分だけが黒かったから
(2)まぐろのこわさを知っている自分が先頭で指揮をとって仲間を導き、大きな魚を追い出すため。
(3)同じ赤い色をした以前の仲間をすべて失って孤独になった自分が再び元気になれたのは、海の中のすばらしいもの・おもしろいものをいっぱい見たからであって、それらを見た(それらを知っている)自分の「目」を仲間のために使って、今度は仲間たちにもそれらをいっぱい見せてやりたかったから。

(1)(2)だけで止まらないように。スイミーはその目で何を見てきたのだろうと再読し、(だからその目をどう使おうとしているのだろう、と考えたい。(渥見2010:1)



「スイミー」という絵本があります。
レオ=レオニさんという人の作で、日本語版は谷川俊太郎が訳してます。

小学校3年生の教科書にも一部採録されているので有名で、読んだことある人もいるのではないでしょうか。

あらすじは、
スイミーという黒い小魚がいて、あるひまぐろに仲間をぜんぶたべられて、おちこんで、たちなおって、別の小魚の群れとであい、おおきな魚におびえる小魚たちに、「みんなでおおきな魚のフリをしよう」みたいな提案をして実行してうまくいった。

というものです。
で、ここで重要なのは、スイミーは黒いけど、スイミー以外の小魚はみんな赤いのです。
練習のすえ、おおきな魚の形でおよげるようになったとき、ひとりだけ黒かったスイミーが「ぼくが、目になろう」っていったんです。
その様子は、絵本できれいにえがかれています。

さて。冒頭の引用はそのスイミーが「ぼくが、目になろう」っていった理由について。
出典は

渥見秀夫(2010)「ごん狐はオスかメスか―文学教材をもっと楽しく読むために」『愛媛国文と教育』42

私も光村の教科書でスイミーをよんだんだけど、あれ、「仲間を導く」的な描写ってあったっけ?
と。思い起こしてみて。どうも覚えがない。
(1)(2)だけで止まるな、といわれてますが、私は(1)でとまって、(2)にすらたどりつけてないですけどね。

たまたま図書館に光村教科書があったのでたしかめてみました。


みんなが、 一ぴきの 大きな 魚みたいに およげるように なった とき、 スイミーは 言った。
「ぼくが、目になろう。」
朝の つめたい 水の中を、 ひるの かがやく 光の 中を、
みんなは およぎ、 大きな 魚を おい出した。(『たんぽぽ』(光村図書出版)


んー。やっぱり、スイミーが「仲間をみちびく」とか、いってないです。

しいていうなら、引用箇所の直前に


スイミーは 教えた。 けっして、 はなればなれに ならないこと。 みんな、もち場を まもる こと。


という文言はあります。でも、「目になろう」といったのは、そのあとの話なので。関係ないようにおもう。
スイミーが「仲間を導く」という意図でもって「目になろう」といったかどうかは、よみとれません。
そうともそうでないとも。

しかしどうやら、「ぼくが、目になろう」というのは、スイミーが群れのリーダーになることの決意表明ととらえる国語教育の論文が、かなりありました。っていうか、これがたぶん主流。
たとえば、以下の文章のようなの。


阿部昇(2011)「指導と評価を一体化した授業づくり―小学校国語」『指導と評価』57

「スイミー」では、最後にスイミーたちが大きなまぐろを追い出していくところが山場である。そして、その過程でスイミーが「ぼくが、目になろう。」と叫ぶところが、クライマックス(最高潮)と言える。
「目」は見る役割を担う重要な器官である。ここでは、目が位置付くことによってスイミーたち小さな魚がつくる大きな魚が完成するという意味がある。が、同時に先を見通す目の役割をスイミーが担うことをスイミー自信が宣言したとも読める。つまり、スイミーは自分がリーダーになることを宣言したということである。


これ以外にもいくつかありましたが。


重政有里(2004)「『スイミー』の主題について―レオ・レオニの意図した主題」『香川大学国文研究』29に従来の学説についてまとめてありました。そのなかで、鶴田清司氏がスイミーの主題について以下のようにまとめているそうです。

(1)仲間がみんなで力をあわせること(協力・連携)の大切さ
(2)主人公が悲しい経験を乗り越えて集団のリーダーとして変化・成長したことのすばらしさ
(3)一人ひとりの個性や資質のちがいが仲間全体の力を高めることになること

うん。やっぱり、スイミーをむれのリーダーととらえる考え方がそうめずらしいものではなかったことがわかります。

で、私はわりと、書いてあることだけしか理解できないこどもだったので、
「仲間を導く」「リーダーになることを宣言」と読め、といわれてもこまるとおもうんですわ。
「そんなんどこにも書いてないじゃん」
くらいはおもったんじゃないかなあ。こんなこと先生にいわれたら。
「国語のよみは答えが一つじゃない、だからおもしろい」
ってのはよくきくけど、
「ぼくが、目になろう」といったときのスイミーの気持ちについて、
「黒かったから」と「群れのリーダーになろうとおもったから」は同等に価値のある答えですかね。

というか、「黒かったから」派にとっては、「ぼくが、目になろう」っていったときのスイミーについては、気持ちもへったくれもないですよね。単純に黒いから目になるっていってるだけなんで。そもそも、「ぼくが、目になろう」といったときのスイミーの気持ちをとりたてる必要があるときに意味があるといかけなので、「黒かったから」とこたえたら空気よめない発言であることだ。

さてそれはともかく、スイミーをリーダーとして読むと、なんか、
「スイミー様のおみちびきのもとしゅくしゅくとマスゲームをとりおこなう弱くて臆病な凡百の赤小魚たちがしあわせになりました」
みたいなこわい全体主義が頭をよぎります。

掃除当番をさぼろうとすると
「みんな、もち場を まもる こと」

授業中に立ち上がったら
「みんな、もち場を まもる こと」

かぜをひいてやすもうとすると
「みんな、もち場を まもる こと」

学校休んでディズニーランドにあそびにいこうとしたら
「みんな、もち場を まもる こと」

と、スイミー様におどされそうな。
いや、教科書に書いてある以上のことを読み取るな、といわれたら、そうですけど。
スイミーをリーダーと解釈するとやはり、スイミー以外の赤小魚が徹底的に没個性なのがほんと、きになってくる。
「みんな、もち場を まもる こと」でほんとうに、赤小魚たちはのぞんだくらしを手に入れることができたのだろうか。
そんな疑問がわいてきたところで、おもしろい文章をみつけたのでしょうかいします。
今回の記事はこれを紹介したいがためだけに書きました。

本をめぐる読み物 スイミーと肛門
posted by なかのまき at 00:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2011年04月12日

宿題はなんのためにでるのか

おもしろい論文みつけたので紹介します。

酒井一郎(2011)「だっこへの愛着ととまどいの欠落―いもとようこ『しゅくだい』の読まれ方―『人間学紀要(上智大学)』40 pp.195-222

いじめや非行や少年犯罪の「多発化・凶悪化」、家族から子どもへの虐待や犯罪の「増加・深刻化」が報じられ。文部・厚生行政は効果的な対策を模索している。(略)教育、とりわけ初等教育の場でも防止のための研究・実践が試みられている。おもに低学年の小学生に家人と「だっこ」することを宿題にする実践もそのひとつである。長年山口県で小学校教諭をしていた宗正美子(むねまさ・よしこ)氏はそうしただっこの宿題をじぶんの授業でもおこない、定年退職後その経験をもとにした創作童話を童話コンテストに投稿して入賞した。いもとようこ絵本『しゅくだい』(岩崎書店2003年)の原作がそれである。(酒井2011:196)


この論文は図像学者若草みどり氏の『戦争とジェンダー』(大月書店・2005)の研究をうけてかかれたものだそうです。

だっこの宿題の実例は以下に引用します。

宮崎県小林市の三松小学校では毎年2月に、バレンタインデーまでの一週間、「バレンタインすきすき週間」を設け、親子で毎日一分間ギュッと抱きしめあうという宿題が出されている。日付のついた表のプリントに、できた日には◯や◎や花丸を、できなかった日には×を生徒が付け、親子がシートに感想文をつづって提出するという形式のものである。2004年から、親子のふれあいをうながす取り組みとして、「いじめ・不登校対策カウンセラー」の教諭が発案、生徒指導部が保護者に呼びかけ、実施しているという。
2010年の同校の取り組みをNHKが春休み開始日の夕食後の時間帯にドキュメンタリーふうに紹介していた。これまで宿題をしてこなかった5年生の少年が、今年こそ息子と抱き合いたいと手を尽くす父親からの促しや誘いを拒みつづけ、最終日にやっとハグにいたるというプロット構成で、番組のエンディングでは、子どもが誕生したときの気持を思い出して「ギュッと抱きしめてください」という案内役斎藤優子(同市出身)のナレーションが流れた。(NHK総合テレビ『にっぽん紀行』「宿題は親子でギュッ〜宮崎・小松市」(2010・3月23日)
(酒井2011:212)


私はこのところを読んで、「きもちわるっ」ってすごく違和感をかんじましたが、
酒井氏はこの宿題について、こうまとめています。

だっこという双生交流的で家族的な親子の図像は、和やかで平安にみたされた記憶を見る者に呼び起こす。そのように温かく呼び起こしながら同時に、その平安を脅かす外部勢力を示唆する操作によって、母子抱擁イメージは洋の東西を問わず、国策推進メディアの愛郷心涵養のプロパガンダに利用され、戦争へと家族を送り出させる戦意高揚の用をはたしてきた。キリスト教聖母子画やピエタでさえ、そのような効果をもたらしたとの指摘もある。戦争を知らない国民が八割を占める今日、その愚が再現されないようにと憂うる危惧にたいしては、メディア・リテラシーの実践教育が「活発化」し、市民発・個人発の草の根メディアとしてのウェブが機動する時代に、それは考えすぎだよ、という楽観もあるだろう。たしかにそうかもしれないし、心底そうであってほしいものだが、だからこそ危うい規制を感知したカナリアは、声を嗄らしても泣かねばならない。(酒井2011:211)


だっこの宿題がもしかして国策推進につながってしまうのではないかという指摘です。
酒井氏の指摘と、私が感じたこの宿題への違和感は関係があるのか、ちょっと判断はつかないのですが。

親子のふれあいがいやなのではなく、親子のふれあいが「宿題」としてがっこーから出されることがなんか、すごくきもちわるいんだとおもいます。
「親子のだっこ」が「◯◎花丸×」と評価されるのも、感想を先生に提出しなければいけないのもふくめて。NHKが小学校5年生の少年をオカズにして美談をしたてあげるのもふくめて。

さてこの論文、注がよんでいて面白いので、ちょっと紹介します。


教師にとって宿題をしてくる子はいい子である。子どもの側からいうと、いい子でなければ宿題をするいわれはない。いい子であるから、いい子になろうとして宿題を怠らない。つまり、いい子ばかりなら教師は宿題を出す必要はない。教師が宿題を出すのは、すでにいい子である多数に加えて、新たないい子を産出するためである。(略)
いもと絵本でも正宗童話でも「みんな」宿題をしてきたようだ。そればかりか「だっこのしゅくだい、またあるといいね」と拒否の声は聞こえてこない。すなわち、yes-childrenを創出すること、それが宿題権無効化のリスクをかけてでも試される教育工学的効果だったのである。(略)
世界規模の階層格差化の進む今世紀にいたって新自由主義と新保守主義の共合した文教エデュケア行政にとり、情操陶冶には個人責任競争主義を保管する防犯予防的な効果がみ込めるとともに、地域の草の根連帯の幻想を回収する教育メタファとしてテコ入れが図られている。「だっこ」の絵本への共感も、学校によるポスト産業下層労働者の継続的産出を補完する下からの公教育小権力による家庭への善意の介入とみることもできる。
(酒井2011:219)


宿題って、べんきょうのたすけのためにあるわけじゃあないのか……いい子の産出のためにあるのか。

というわけで、この論文を読んだ私の感想。
だっこの宿題は学校によるポスト産業下層労働者の継続的産出を補完する下からの公教育小権力による家庭への善意の介入とみることもできるので廃止してほしい。


あと、ちょっとすごく気になってるのが、酒井氏が紹介した”「いじめ・不登校対策カウンセラー」の教諭”ってなんだろう。
スクールカウンセラーという人がいるのはしってるけど、それは専門職員であって、「教諭」ではないはず。あと、「いじめ・不登校対策」で「親子でギュッとだきあう」を提言する専門職カウンセラーなんているのかしら。
「カウンセラーきどりの教諭」でないことをねがっています。
posted by なかのまき at 21:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記