2010年05月08日

「努力」とは「一しょうけんめいがんばる」ことではない

書道教育の人に
「左手で字をかいてる生徒も右手で字をかいてる生徒も成績をつけるときは”平等”に評価しているのか。
字はそもそも右手で書くのだけに都合のいいつくりになっているのだから、左手でかくときはうまく整えるのはむずかしい。
それなのに”平等”に評価するのは、それは左手で字をかく生徒が不利になる、ひどい不平等ではないか」

みたいなことをいったら、「うるさいなあ」みたいな顔をされ、
「私は生徒がどれだけ努力したかも、評価に考慮するよ」
っていわれた。
つまり、「不平等はやってない!」っていいたいらしいんだけど。
これ、言い訳になってますかね。
なってないよね。

「努力」って、なに?
ってことをかんがえると。

とりあえず、辞書的なものを。

ど−りょく【努力】
 目標実現のため、心身を労してつとめること。ほねをおること。「休まず−する」「−家」
(広辞苑)


うん。なんとなく、努力って、いっしょうけんめいがんばること。
みたいなイメージがあります。

「左手で字をかいてる生徒も、書道の時間に絶望してはいけません。
いっしょうけんめいがんばれば、きみは報われるんだよ!」

みたいな。
書道教育の人につごうのいいたわごとを。
書道教育の人のうしろめたさを忘れさせるための魔法の言葉。
「どりょく」

いったい「努力」をはかるものさしはなに?
ってことになると、それは、先生がだれかに
「努力の基準はなに、どういう状態のとき、生徒は努力していると評価されて、成績にプラスされるの?」
ってきかれて、そんときに破綻しない返事は、
「その生徒がどれだけ上達したか」になるわけでしょう。
つまり、上達に関係しない「いっしょうけんめいがんばること」を「努力」とはいわない。

で、けっこう先生が思い間違ってるのは「がんばれば上達する」って単純に考えすぎてるせいで、ぎゃくに、
「上達してないからこいつはさぼったな」
って。
そういう本末転倒をやりやすい。

私も左手でいっしょうけんめいかいた字を先生にみせたら、鼻先で笑われて。
「ぷっ。ほんとうに真面目にかいたの?」
って。
いくらいっしょうけんめいかいたって、左手でかけば上達とはつながらないんです。
いや、ぜんぜん上達しないわけではないですよ。でもね、右手で同じ時間練習した人とくらべると、それはね。舗装された道とぬかるみ道にそれぞれ立たされて競走させられてるようなもんでしょう。
劣りますよ。
同じ時間かいた、右手で字を書いた人ほどは上達しないわけで。
そのとき、「いっしょうけんめいかく」は努力とはみなされないわけです。

それどころか、私が左手で字をかいていることにきづかなかったり、左手は右手より字がかきにくいことに気付かなかったりする先生には、「こいつさぼってたな」
っておもわれるんです。

「ぷっ。ほんとうにまじめにかいたの?」
ですよ。
もう、いっしょう恨み続けるから。

つまり。

「左手で字をかいてる生徒も、書道の時間に絶望してはいけません。
いっしょうけんめい努力すれば、きみは報われるんだよ!」

これは、ウソです。
ウソっていうか。
詐欺です。

このとき、「努力」の本質は「いっしょうけんめいがんばること」ではない。「上達すること」なんです。
上達のために「こうすればいいよ」っていう適切な助言や、「こうすればいいのか」っていう自身の気づきが必要なわけで。
それをもたない「いっしょうけんめい」を「努力」とはみとめないわけで。
そうなると、

「左手で字をかいてる生徒も、書道の時間に絶望してはいけません。
いっしょうけんめい努力すれば、きみは報われるんだよ!」

は、破綻してます。
適切に「こうすればいいよ」って、書道の先生は言ってないんだから。言えるものなら言ってみるといいよ。

だから、「努力」なんていうきらきらした、魔法のことばにだまされてはいけないね。
書道のひとが左手で字をかくひとに「努力」を求めるなら、ちゃんと、上達のための方法をかんがえてね。あの筆順をどうにかしてね。
それまで、私は字がうまくなるためのひとかけらの努力もしないまま、「書道の人はずるい! 右手で字をかくひとはずるい!」って言い続けます。
posted by なかのまき at 10:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2010年05月10日

毛筆書道、どうしてもやらなきゃいけないんだったら。努力ということばがまっとうな意味をもつための書道教育をおねがいします。

前回の記事のつづき

たとえばさ。
ナメクジを生のままのみこむと声がきれいになるっていう言い伝えがあるじゃないですか。
で。
「次の合唱コンクールにむけて、毎朝5時におきてナメクジをつかまえて、毎日30匹飲んでます。こんなに努力してるんだから、成績あげて!」
って、いわれたら。
先生どうするの。
「それはね、あなたのがんばりはみとめますけど、即刻やめてください」
って、いわなきゃだめでしょうね。
ナメクジを生で飲み込み続けることで、3つの悪いことがあるからです

1.ナメクジには悪い寄生虫がいる
2.ナメクジをつかまえる手間と時間が、正規の歌の練習にあてる手間と暇をくいつぶす
3.ナメクジを飲み込むという努力は、上達に関係しないから、その努力の続けて、成果がでないとき。努力そのものが無駄なんじゃないか、というような考えを引き出すおそれがある。


それで、また別件で。
努力にカウントされない「一しょうけんめいがんばる」があるわけで。
たとえば、「授業中眠いけどねむっちゃだめだから眠らないようにがんばる」とかね。もう、眠気にあらがうので一生懸命で、授業きいてられない。このとき、その人は一生懸命がんばってます。
けど、そりゃ、努力とはいいがたいですね。
「授業中に一しょうけんめいがんばって努力してるから成績にプラスしてあげる」
とか。そういう展開はないですね。
授業中にがんばってはいるけどね。
あとは、もう生きているだけで精一杯の人とかね。がっこうに行くだけで精一杯の人とかね。
私はわりかし、小学校低学年のころは、学校にいくだけで精一杯のくちで、もう、学校にいくだけでだいぶ努力が必要で。
途中で耐えられなくなって「帰っていいですか」とか。先生に交渉したりね。もちろん先生はいい顔しないけどね。帰りたいからがんばるんですよ。
もう、この時、「家に帰る交渉に一生懸命」です。
「帰りたいです」。あとは、学校に行きたくない朝は「学校に行きたくない」と一生懸命がんばるとかね。じっさい、朝、親に「学校に行け」って殴られてたりしました。でも「いかない!」ってがんばってたんですよ。
そういう方向にあまりがんばりすぎたせいで、ある日、私が一人で学校から帰った日。
担任の先生がクラスのみんなにむかって
「なかのさんは心が病気なので帰りたがるんです」
みたいなことを言ったらしいです。
あとで友達に「先生がこんなこといってたよ」ってきいた。
うーん。
まあいいや。

でも、「学校からかえる」「学校にいかない」っていう方向での「一しょうけんめいがんばる」は努力とカウントされた覚えはなく、むしろあのー。
「さぼってる」「なまけもの」みたいな。

こんなふうに。
みんなね、「一しょうけんめいがんばる」のはね、みんないろんな形でやってるんですよ。でもね。「一しょうけんめいがんばる」が、「努力」にカウントされるってのは、それは全「一しょうけんめいがんばる」中のごくごく一部なんですよ。
そしてはれて「努力」とみとめられた「一しょうけんめいがんばる」がね、ちゃんと実を結ぶときはいいですよ。でも。「一しょうけんめいがんばって」も、いい結果が出せないときも、ままあるわけです。

つまり、全「一しょうけんめいがんばる」のなかで、努力が報われることなんて、そのまた一部なんです。
それでも、私が「一しょうけんめいがんばる」ことや「努力」を否定しないのは、それは、「報われた」っていう実感を、幸福な記憶としてもちつつ、成長できたからです。
報われないことがあるのは知っているけど、ぜんぶの努力が、ぜんぜん無駄になるわけではない、っていうのを、実体験として、自分の中にもっているからです。


それで、こうすればうまくいくっていう、ある程度の見通しをたてて、
その見通しのもとになんども試行錯誤をする、っていうのが努力の内容で。
ウサギ跳びを100回くりかえせば神様が下りてきて新しい技を伝授してくれる、みたいなそういう「とりあえずがんばればとにかく報われる」みたいな精神世界の話ではなく。お百度参りとはぜんぜんちがうもので。
頭を使う、めんどうくさい、つまんない、地味でつかれる仕事なんです。努力は。
だから、一人でやりとげるのは難しい。誰かの協力がなければできないし、誰かに邪魔をされては、やりとげるのは難しい。
とくに、こどもの頃なんか。
失敗することの方がおおいでしょう。

もちろん、失敗から学ぶこともおおいのですが。
努力がうまくみのらなかった、なんていう経験は、学校でなくてもどこでもできるんです。
どうせ学校に行かなければいけないんだったら。
むしろ、完全でなくていいけど、できるだけこどもの努力が報われるような、そういう環境を整えることを、私は学校に期待をしたいので。
そうやって、「努力することはしんどいときもあるけど、しんどい思いをしたあげくみのらないこともあるけどでも、努力を信じていい」って、思えることのほうが、本当は難しくて、難しいから、学校にはその難しさに立ち向かう手伝いをしてほしくて。

そういうときにね、学校の先生がね。
書道の時間とかに、
「努力をすれば左利きも報われるよ」
っていうような。詐欺行為をはたらいて。
自分につごうのいいような形で、ろくに指導もしないで「一しょうけんめい」だけを押しつけて、放り出して、筆順でいじめて、「お前がダメなのはおまえが努力をしなかったからだ」なんていうような。
そうやって、「努力なんて無駄なんだ」って思わせてしまう、そういうことをつみかさねてしまわないように。

「努力」っていうことばをつかって、自分の都合の悪いことをおおいかくすようなことはしないでほしい。
もう、こうなると書道だけのもんだいではなくて。
こどもが努力というものに、まっとうに立ち向かえるような環境をつくるために、書道教育の世界をまっとうにしてください。
いまのままではやっぱり、ちょっと、おかしいです。

私は、書道教育にじぶんの「努力」とか「一しょうけんめい」を踏みにじられました。
私は、別の場所でじぶんの「努力」とか「1しょうけんめい」を認められて、だからそれを信じることができた、けど、それは、ほんとうに、ただ、運がよかっただけです。
ちょっとバランスがくずれれば、すべての努力や、一しょうけんめいに、意味がないと、そう思いこんでしまって、ひとりで閉じてしまった、そういう可能性だってないわけではなかったのです。
posted by なかのまき at 22:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 書道教育

2010年05月11日

いがいと筆跡診断が元気なんだときづいたわ

またおまえか。DS。

「脳を鍛える大人のDSトレーニング」

ここに筆跡診断が。

漢字を使って、あなたの筆跡から性格を判断します。

えー。
なんでまた。

まあ。このゲームの監修、川島隆太氏が
(東北大学未来科学技術共同研究センター)
科学者なのに筆跡診断なんてニセ科学を信じていいのか、
っていうことになると。
まあ、研究者も専門をはなれてしまえば、
けっこう落とし穴があるってことは。
自戒をこめて。
考えなければいけないのでしょうが。

それでも、ゲームなんてものに取り入れるんだったら、慎重になるべきだったでしょう。
筆跡学や筆跡診断が、ニセ科学といわれてるってことは。
ちょっと調べればわかるはず。
軽く論文をさがしてみればいいんです。「性格と筆跡に関係ある」っていってる、まともな論文はないでしょう。
で、わかってて取り入れたんだとしたら、もちろんそれはゆるせません。
川島隆太東北大学未来科学技術共同研究センター教授。
「科学」の肩書きをもってニセ科学に加担しないでください。

あとは。
予告していた、「左手でDS美文字トレーニング動画」の準備をしてます。


yosiko posted by (C)nakanomaki

デジカメでとったのを動画共有サイトにあげて、ブログにはるっていうのがいいかな。とおもい、アカウントをとってみました。
テストで貼り付け。
うちにいるおおきなネズミ。
見えてるかわからないので、見えないというかたがいたらご連絡ください。
てだてをかんがえます。

いちおう、美文字トレーニングの撮影もしたんだけど。
見返すのがつらいのでふてくされて放置してます。
まあ、そのうちね。


posted by なかのまき at 11:17| Comment(0) | TrackBack(0) | ニセ科学;筆跡学

2010年05月13日

しまうま

ZEBRAのサイトにてはっけん。

「しまうまくんの筆跡診断テスト」


筆跡診断は、書かれた文字の一つひとつの特徴を心理学的に分析して
書いた人の性格や考え方、行動の特徴や傾向を読み取る「筆跡心理学」です。

文字を書くことは、歩く、経つ、話すなどと同じひとの「行動」。
書かれた文字は、その人のあとに残された足あとのようなものです。
深層心理がはっきりと現れるので、自分では気づかない自分自身を知る手段にもなります。

筆跡診断は決して性格を決めつけるものではありません。
自分が書いた字を分析する事で、今まで気づかなかった自分を知り、意識的に字を変えていくことで、自分が望む方向に変わっていくことができます。
そのため筆跡診断は、あなたの人生の指南役として強い味方になってくれるはず。
さあ、筆跡診断の世界で新しい自分を発見してください!


発見したくありません!

とりあえず、あしたのために。できることからやりましょう。
っていうわけで、目に付いたZEBRAのペンを全部捨てました。
で、私、あとでZEBRAのお客様相談窓口にメールします。
で、このページをどうにかするまで、私はZEBRAのペンをかいません。

posted by なかのまき at 23:03| Comment(2) | TrackBack(0) | ニセ科学;筆跡学

2010年05月18日

今後のよてい

筆跡学について、ものすごく安易にかんがえてました。
「どうせ占いだろ? ばかばかしい」
って。
教育……書道教育の人が、ちょっと「書は人なり」と仲良しなので、それは、気を付けなきゃな。
でも、いい大人が占いをやってるのは、それはもうご勝手にどうぞ。
っておもってたんですけど。

ZEBRAのサイトをみて、いやな予感がしていろいろ探してみたら。

どうも、商売でやってる筆跡学のサイトとかみると、どうも、会社むけのセミナーやってますー、とか、人事(採用ふくむ)に使え、みたいな宣伝のしかたをしていたので。
個人で、趣味で楽しむならいいけど、(よくないけど、自分で楽しむだけならべつになんかいわないけど)会社のカネが筆跡学に落とされるのは、それはちょっと。
人事につかわれるとか、ちょっとゆるせないな。
と。いまさら、思った。
すみません。ほんと、いまさらです。
占いをばかにしすぎていました。
いや、占いじゃないのか。ニセ科学なのか。どっちなんだ。わかんないけど。
まさか採用に筆跡学がつかわれるとは。
採用に血液型がつかわれてるのと同じだ。

というわけで、
なんかいままでちょこちょこ筆跡学について書いてきたんですけど、いったんストップします。
「やらない」でなくて。
片手間にはできないので。
いまは情報をしいれておいて
あとで本腰いれてやります。

とりあえず、書道教育のほう、やろうね。
あ、もちろん、書道教育の人が「字が人柄をあらわす」
とかいいはじめたら。

「筆跡と個性」とかね。

そのときは、もちろんなんか言いますけど。



posted by なかのまき at 11:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2010年05月24日

せんせえっていう名前のゲタ

私は字のことだけでなく、九九とかマラソンとか、あいさつとか、チョウチョむすびとか、いろいろできなくて、もう全体的に学校がきらいだったし、先生もきらいだったので、
このブログはそういう、うらみつらみでいっぱいですが。

たまには、じぶんがせんせえやってる立場から、かいてみます。

いま、大学で自分の専門のこと、教えてるんですよ。
「現代仮名遣い」のことやってるんですけどね。

で、「現代仮名遣い」っていうのは、あんなにむちゃくちゃなのに、
国語教育・日本語教育のなかで、だいぶ軽視されてます。
理由はかんたんです。
かなづかいは、漢字にかくれてしまうからです。
つまり逆にいうと、漢字をつかわないようにしたり、漢字にルビをてっていしてふるとなると、漢字という衣がはがれて、「現代仮名遣い」がむき出しになります。
そのときの現代仮名遣いの不条理さといったら。

というわけで、仮名遣いについて考えるとき、漢字とのかねあいというものを考えないわけにはいかないんです。

漢字がこのまま、情報にアクセスするさいのやっかいな障害として存在しつづけるわけがないと思うので。思いたいので。

というわけで、学生さんにあべ・やすし氏の「漢字という障害」(『社会言語学』2pp.37-55)という論文の一部を読んで、感想を書いてもらいました。
あ、このブログをみてる人で、あべ・やすし氏の論文を読んだことがないだろう人がいるでしょうので、ちょっと引用します。


3.2 漢字をつかわない自由を

いまの日本では、漢字をつかって文章をかくのが、「常識」だとされている以上、一般のひとが漢字ぬきで文章をかくことなど、ほとんど無理に近い。たとえ、いち大学生が大学のレポートを漢字ぬきでかいたとしても、あかペンで、びっしり漢字になおされてかえってくるかもしれない。それは教員に、漢字をつかってこそ「ただしい日本語の文章なのだ」という、つよいおもいこみがあるからである。そうしたなかで、自己主張するのは、むずかしいことである。
 しかし、盲人をはじめとする、漢字にそぐわないひとびとのたちばをこのまま無視しつづけてはならない。うめさお・ただお(梅棹忠夫)が提案している「漢字をつかわない自由」をそうしたひとびとにこそみとめていかなくてはなるまい(うめさお/あら/おおの1975:85)。本来ならば、「漢字をつかわない自由」とは、みとめられて当然の権利であるはずなのだ。(pp.52-53)


私は、ものすごく字が書きにくい、左手書字者っていう立ち位置から、あべさんの論文をよんだとき、「そうだそうだ」っておもったんです。よんで、ほっとしたんです。
 左手でものすごくかきにくいつくりになっていて、なおかつひらがなより格段に画数の多い字をかきつづけるのなんか、やっぱり苦痛なんです。
 私にとっても、漢字は、障害なんです。

 でもね、文学部の学生なんか、漢字でいい思いをしてきた人ばっかりだから、「漢字をつかわない自由」についてとっさに拒否反応をしめしてしまう人は多くて。

で……うん。予想はしていたんですが、私の教室の学生全員があべさんの論文に否定的なコメントを出してました。

いえ、これは想定の範囲内だったのですが、ちょっとがっくりきました。
「日本語の文字表記にはこれこれの問題点があって、この論文はこういう観点からとても大切な論文です。誤読しないように注意してよんでください」って、説明はしたんですよ。
だから、ちょっとはみのりのあるコメントがつくかな、と。
が、私のことばたらずで、ちからおよばず、というところは大いにあるのでがっくりきましたけどね。

ただね、私の説明をふまえた上で、否定的なコメントを出してるんです。「なかのさんの言うことはわかるんだけど、この論文にかいてあることはわかるんだけどやっぱり現状をかんがえると……」みたいな。
遠慮がちなコメントなんですよ。いちおう、ものを考えてくれる。最後には、漢字依存の現状からはなれたくないって不安感が勝つんだけど。でも、ちょこっとだけ、かんがえてくれる。

で、このあべさんの論文、以前、大学院の同期にも「こういうことを考えている人がいて、こういう論文があるんだよ」って出したことがあるんです。
このときは、でも、真面目に論文よんでくれませんでした。
論文の感想もくれなかったし。パラパラみて、
「あー、いるよな、こういう特殊な思想の持ち主」みたいないいがかりをつけられました。ちゃんと読みもしないできめつける。

まあ、で、私の教室の学生と、私の大学院の同期、素地はそんなかわんないとおもうんですよ。
きほん、漢字大好きッ子のあつまりです。あそこにいるのは。
ちがうのは、

私がその人にとって、

だいたい対等なたちばの大学院の同期であるか、

単位とか成績をいいようにできる権力をもった、先生という名前のゲタをはいた人物であるか、

という。その違いで。
同じこといっても、私の立場が違うだけで、同じ論文を紹介しても、真面目に読んでくれるか、読んでくれないか、だいぶちがう。

立場が違えば、与える影響がちがうって。
そんなの考えてみれば当たり前なんですけど。
実際に体験してみると、めまいがするくらいに、その差は大きいです。
先生という名前のゲタをはくとそれだけで、(教室の中の)みんなが私をみてくれて、私が設定した課題にとりくんでくれて、私を喜ばせようと工夫をしたコメントペーパーをかいてくれる。
この心地よさ。正直、きもちよくてくらくらします。

いままで「ヘンなことばっかりいってるやつ」って、学校に友達がいなかったような私がこれを体験してしまうと、先生という名前のゲタを手放したくなくなる。ゲタをはいたまま、いつまでもいつまでも、一段高いところからモノをいいつづけたくなる。
これって、危険だ。

授業が土曜の6限というとんでもない時間にあるので、そんな時間帯のをわざわざ履修する、とても奇特で勉強熱心な学生さんばかり、っていうのもあるんですけど。
先生という名前のゲタをはくことが、まだまだ意味をもっているところがあるんだな。
ということを。

いや、頭で考えるのと、体験するのって、ちがうんですよ。
あのゲタに乗り続けるのは、正直こわいです。


(そういえばこの間黒板で「氷」っていう漢字がかけなくて、「氷」と「永」の雑種みたいな字をかいてしまって、「ああ、もう漢字でかくのやめます」ってぜんぶひらがなでかいたら、「まじめにやってください」って学生さんにコメントでおこられた)




posted by なかのまき at 21:11| Comment(5) | TrackBack(0) | 文字のこと

2010年05月28日

きんだいごけんきゅーかい

有給をとって、
きんだいごけんきゅーかい
にいってきました。

拗長音についての発表がものすごく面白かったです。
ああいう発表は憧れます。

あと、エツコ・オバタ・ライマン氏の
『第二次世界大戦後の近代語(狭義)とは何なのか』

という発表のなかで。

漢字は難しすぎるし、
このまま漢字をつかい続けていいのか、考えた方がよいという
指摘がされていました。

懇親会で、お話しさせてもらったのですが、
たなか・あきお氏が「たなか・かつひこが敬語と漢字をつかい続けていると日本語がだめになるといっていた」というようなことをいっていて、
「私もそう思います」ときっぱり首をたてにふっていたエツコ・オバタ・ライマン氏が印象にのこっています

わたしはちょーしにのって、
「左手利きでは漢字はかきにくいですよね」
ってきいてみたら、それも「そうです、漢字は右手利きの」って力強く肯定されました。そう、やっぱり、気付く人は、確実にきづくんです。

ただ、あの場所にいる人のなかで、たなか・かつひこ氏の論文は読んだひとはたくさんいるでしょうが。
ましこ・ひでのり氏やあべ・やすし氏の論文は、ほとんど読まれてないんだろうな。たなか・かつひこ氏のあとに、どんどん議論がすすんでるってことが、しられてないのかなあ。
という、印象を。もちました。印象だけです。

ごくふつうの、どこにでもいる、こくごがくのひとが、あべさんの論文や、ましこさんの論文を、よんでくれないだろうか、そういうことを私がどうにかできないだろうかと、なかの・まきは、かんがえてます。
もちろん、我が身は大切にしつつ。
なによりもいちばん、自分の身がかわいいという保身はわすれず。
posted by なかのまき at 23:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2010年05月30日

にほんごがっかいにもいってきました

にほんごがっかいにもいってきました。

やっぱり、がっかいは面白いです。
大学院生の発表にいろいろ、面白いのがありました。

あと、がっかいの本屋をみていて。
おもいだしたのですが。

朝倉の漢字講座に、
ましこ・ひでのり氏の論文がのってるよなあ。

朝倉漢字講座〈5〉漢字の未来
朝倉漢字講座〈5〉漢字の未来前田 富祺


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朝倉の漢字講座だから、にほんごがくの人はよんでるよなあ。
なんで、みんな「なかったこと」「よんでないフリ」してんだろう。
というか、前回の日記かくときは忘れてたけど。
にほんごがくの人だったらのむら・まさあき氏の論文は確実によんでるよね。

ということは、ぜんかいの日記はたいへんに失礼なことをかいたです。


ましこ・ひでのり氏やあべ・やすし氏の論文は、ほとんど読まれてないんだろうな。たなか・かつひこ氏のあとに、どんどん議論がすすんでるってことが、しられてないのかなあ。


これは、汚名ですね。
ちゃんというなら、にほんごがくのひとは、
「ほとんど読んでない」でなくて。

ましこ・ひでのり氏やあべ・やすし氏の論文を読んでいながら無視してるたくさんの人と、ましこ・ひでのり氏やあべ・やすし氏の論文を読んでないたくさんの人がいる。

ということですね。


土曜のシンポジウムでも、漢字についてとりあげられていたらしいのですが、(私はいかなかった)

予稿集をみると
「日本の漢字に関する研究と一般社会」(ささはら・ひろゆき)
(p.65)
2.社会一般に伝えようと思うこと
(略)
ことばと漢字を研究する者として、人々に伝えたいと思うことは大きく言えば文明や文化に対する真実追究の楽しさであり、細かくは次のような点である。
・日本語や中国語の文字・表記を対象化してとらえようとする姿勢―動態としての把握
・現実について客観的に考えようとする習慣―一問一答式の「漢字ブーム」の位置付け
・日本語とその文字・表記などに関する必要な知識を選ぶこと―多様性・混在の意味
・日本語や中国語の特に文字・表記に関する調査研究の方法―日本語学・漢字学など
・要素と体系の関係、変化・位相などの意識化とそれらの背景の理解
・「正しい漢字」とは何か―俗字・略字・誤字などの用語は次元を異にするレッテルに過ぎないことなど、狭く限られた根拠による硬直した規範意識と抑圧感からの解放
・文字に「神秘」があるのか考えようとする態度―「奥深さ」の中身の検討
・文字や表記をよりよくしていこうとする意志―現代は歴史の断面ともいえ、自己も変化を起こしたり定着させたりする原因となりうるという視点



なんで、「漢字そのものからの解放」についても議題にあがらないんだろう。
posted by なかのまき at 23:09| Comment(7) | TrackBack(0) | 日記