2010年06月01日

夜中にアイスがたべたくなったりしません

いま、ステレオタイプというものについて勉強をしていて、

紹介してもらった

『ステレオタイプの社会心理学 偏見の解消に向けて』(上瀬由美子かみせ・ゆみこ、2002、サイエンス社)

という本をよんでます。

コンパクトにステレオタイプについて書かれていて、
入門編としてよい本だとおもいます。
私はとても重宝しました。
ただ、かなり疑問なのは、

ステレオタイプは情報過多な現実社会で生きていくためには、たいへん便利で必要なものではありますが、これに否定的な評価や感情が結びつくと「日本人はケチだ」「女だから頭が悪い」というような偏見となってしまいます。


って、本のカバーのところにかいてあったんですけど。
これは、だめじゃないか。
なにかというと、
ステレオタイプは「大変便利で」というのは、百歩譲ってわかるとして、「必要なもの」なのか、すごくひっかかっています。

で、著者はステレオタイプと偏見と差別について、以下のように整理しております

カテゴリ
ある特徴をもつものを他から区別して分類するくくり(p.3)


ステレオタイプ
人々を分けるカテゴリーに結びつき、そのカテゴリーに含まれる人が共通して持っていると信じられている特徴(p.2)


偏見
ステレオタイプに否定的な感情や評価が結びついたもの(p.8)

差別
ステレオタイプや偏見がもとになった否定的判断が相手に対する行動として現れたもの(p.9)

まとめると、

カテゴリ+特徴をあてはめる=ステレオタイプ
ステレオタイプ+否定的な感情や評価=偏見
偏見+行動=差別

っていうことでしょうか。
「区別と差別はちがう」
っていう、例のアレですね。
これは、だめじゃないですかね。

差別は、偏見のさきっぽにあるものじゃない。
カテゴリー化の段階で、もう差別は発生してるでしょ。

学校の名簿で、女にシルシをつけるのは、それは区別であって差別ではない、そのシルシをもとに女への迫害がはじまったらそれが、差別だ、なんていうのは。
ちがうでしょ。

名簿に、女というシルシをつけることそのものが、差別です。

個人と個人の間に、男と女いがいに、たくさんたくさんの特徴があるのに。目の色とか、肌の色とか、ほくろの数とか。

小学校の名簿で、からだにほくろが10個以上ある人にだけ、シルシをつけてる先生がいたとしてどうでしょう。
「なんでそんなことしてるの」
ってききたくなるでしょう。
その先生は「ほくろが多い生徒は頭がいい/悪い」とかそういう信仰をもっていないと、そんなことしないでしょ。
おなじように
「勉強するのに、男か女かがどうして関係あるの?」
っておもいませんかね。
なんでそんなことするかっていうと、
小学校は勉強(だけ)を教える場所じゃないからです。
こどもが、曖昧な根拠をもとに男か女かというたった2つに乱暴にわけられて、
男と分類された人間は男らしさ、女に分類された人間は女らしさを勉強させられる場所でもある。
じゃなかったら、名簿に女ってシルシがついてるわけないでしょ。

だから、ステレオタイプどころか、カテゴリー化にそもそも、たくさんの特徴のなかからどうしてこの特徴を取り立てるのか、というその選択にそもそも。
ものすごい規模の、自分には関係ない力がかかっていて、ちっぽけな自分はその力に巻き込まれてしまうしかないわけで。
その力が、ものすごく理不尽な区分けを強いてくるばあいもあるわけで、それを差別といわないでどうするんですか。

「おまえは〜だ」と、名前をつけられる、「名前をつける」「名前をつけられる」という関係にそもそも、不平等なちからがはたらいていて、もちろんそれも、差別です。


いままでで私が激怒したのは、
大学院で自分が「留学生センター」って名前をつけられていたことです。

たぶん、私が日本人の大学院生と仲良くしないで、留学生たちとばかり遊んでいたからだとおもいますけど。
「留学生びいき=留学生センター」
ってことで、留学生センターへとカテゴリ化されてたわけですがね。

いえ、私はとくにそんな、留学生と仲良くしてたわけじゃないですよ。
べつに、ふつうに友達として過ごしてただけで。
「留学生センター」的なことはなんにも、してないです。
留学生トラブル起こしたりもしてたりしました。
「レジュメの日本語チェックしてください」っていわれて、「忙しいからダメ」とかいったり。最悪だ。
あと、「××さんは日本人にばっかり挨拶して、私に挨拶してくれない」みたいな留学生の訴えをききつつ、「まあまあ」って、留学生の側をなだめることしかしないで、「おまえらなにをやってるんだよ!」って、日本人の院生に怒鳴り込む、とかそんなことは一切しなかったですね。
あと、留学生の一人の発表レジュメの出来がよくなくて、同期の人が影で「だから中国人は〜」とか言ってたのが、聞こえてましたけど面倒くさくて放置したりしてましたしね。
ぜんぜん、留学生センターとして機能してなかったですね。

というか、なんかあの当時、一瞬、日本人の院生が嫌いだったんですね。
「先生への年賀状は筆でかけ」とか
で、相対的に留学生びいきに見えただけで。


だからさあ。
さいしょに決めつけ(ステレオタイプ)があって、そこから名付け(カテゴリ化)されるんじゃないの?

ある集団をAとなづけたら、ステレオタイプが発生して、それが偏見につながって、さらに差別にまで発展した、みたいな。
進化論じゃないとおもうんですが。

逆じゃないんですかね。


あ、もちろんこの本のなかでも、カテゴリ化やステレオタイプ化そのものについても、問題点は指摘されてはいるんです。
だから、本に書いてあることじたいに、そんなに異論はないんですよ。
勉強になる本だと思います。
posted by なかのまき at 14:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2010年06月03日

ごんぎつねのなにが悲しいのかわからなかった

私は、小学校低学年・中学年あたりはわけのわからん子どもだったとは、じぶんでも思います。

なんか、ランドセルを家に忘れたりしてたんですよね。
気付かずに学校にいってたり。
あとは、夏休みの「どくしょかんそーぶん」で。
学研あたりででてる、こどもむけの「小動物の飼い方」みたいな指南書で感想文かいたり。
「亀には、水生のかめと、陸生のかめがいます。りくせいのかめは水槽に水を入れなくても飼えます。水生のかめは水槽に水を入れます。だけど、水のない場所もつくってやらないといけません」
で、先生に
「次からはちゃんとした本を読んで感想文書いてね」
っていわれたり。
あとは、「挨拶をしたらきもちがいいから挨拶をしましょう」
とかいわれても、「いや、私はとくに気持ちよくならないからいいや」とか。で、通知票に「あいさつをしましょう」ってかかれたり。

どうも、先生がいうことをそのまんまの意味でとって、言外の「言わないでも空気で分かれよ」っていうような、そのへんのことを読むのがぜんぜんできないこどもだったみたいです。
「『小動物の飼い方』という本で読書感想文を書いてはいけません」
とか、ちゃんといってくれないとわからないのね。

まあ。そういうこどもだったことをふまえて。

「ごんぎつね」っていう国語の教科書にのってる話の、どこが感動ポイントだかよくわかんなかったんですね。
で、「ごんぎつね」を読み終わった後で、担任の先生が「ごんぎつねを毎年みんなと読むたびになきそうになっちゃうんです」とかいわれても、ぽかーんとしてました。

うろおぼえであらすじかきます。

ごんが兵中という男のウナギを盗んで、あとで盗んだウナギが病気の母のためだと知る。兵中の母死ぬ。ごんが罪悪感にかられてクリなどを兵中にとどける。
あるひ、クリなどをとどけてたごんが兵中に見つかって撃ち殺される。兵中後悔。おわり。

なんか、ぜんたいてきに、話そのものがわかんないんですよ。
なんで、ウナギぬすんだくらいで兵中の母の死にまでごん狐が負い目を感じるのかわかんないし。
それで、ウナギをぬすんだつぐないにクリなどを兵中にとどけるのも意味わかんなかったんですね。
「いや、兵中の母は死んでるんだから、いまさら食べ物とどけてどうなるんだろう。償いにもなってないんじゃないかなあ。なんかごんのやってることの意味がわかんない」
って。空気の読めないこどもだった私は疑問で。
ひたすらわけのわかんない話だったんですよ。
ごんぎつね。

はい。で。
ここまでかいたところで
ウィキペディアであらすじ確認。

ごんぎつね

おお。鰯のくだりを忘れてたのと、男の名前をまちがえてた(×兵中)いがいは、わりとちゃんとおぼえてる。

というわけで、論文をひとつ、紹介します。

有元秀文ありもと・ひでふみ(2009)「PISAと全国学力調査の結果から考える国語教育の改善―国際的な読解力を育てるブッククラブの提案」(指導と評価、2009-10月号)pp.9-12


1.読解力は低下したのか
(略)多くの人が忘れていることは、PISA調査は悉皆(しっかい)調査ではなく抽出調査だということである。百万人の高校一年生から5千人を抽出して行った調査結果は、統計的な推論であって百万人の学力そのものではない。八位が十四位に低下したから百万人の読解力が大幅に低下したとも低下しないとも断言できない。(p.9)


えーと。悉皆調査ではなく抽出調査だから、百万人の学力そのものではない。って。

あーそーですか。
国立教育政策研究所総括研究官であるところの有元氏が統計学をここまで軽視してるってのは、ちょっとうすらさむい気分になりますが。

いや、これは抽出調査にいちゃもんをつけてるわけではなく、PISAが日本の高校生の順位を下げたことに、はらをたててるだけなんでしょうけど。
きっとね、PISAで八位から十四位じゃなく、八位から一位になったとしたら、「悉皆調査云々」いわないとおもうんですよね……
もし、八位から一位になったとしたら、
「悉皆調査ではなく抽出調査だから、百万人の学力そのものではない」みたいな文はかかなかったでしょーね。

あと、悉皆調査って、なにかっていうと(過去の)全国学力調査のことですね。よーするに、
「PISAがなんぼのもんじゃい! 悉皆調査の全国学力調査のほうが正確だろ! 日本人なら全国学力調査!」っていいたいのかな。
という。

いや、そういう論文ではないんですけどね。

2.読解力低下の真相
私は、読解力は低下したかもしれないが、断言できないと思っている。断言できることは、日本人のPISA読解力調査の得点は、「もともと国際的に低い」ということだ。(p.9)


で。「もともと国際的に低い」と断言出来るだけの根拠は


2000年調査の時点でも日本の読解力はトップではけっしてなく、無答率が極端に高いという問題をかかえていた。2003年にはその欠点が顕在化し、その後改善の徴候がないというのが事実である。(p.9)


ということだそうです。
ふーん。

ではなぜ、国内のテストの得点に大きな変化がないのに、PISAの得点だけが低いのだろうか。それはPISAが求めているような読解力を国語教育が育ててこなかったからである。(p.10)


うん。これはそうなんですよね。国内のテストと、PISAは物差しのめもりが違うんですよね。

では、なぜPISAに対応出来る国語の授業をしなければならないのか。もちろんPISAの得点を上げるためだけではない。
 もし日本の国語教育が完全無欠なら、世界中の国語教育を日本型に変えればよい。しかし、日本型には明らかな欠陥がある。日本の国語教育は、曖昧で論理性を欠いた日本人のコミュニケーションを背景にしていて、日本の国語教育を完全にこなしても国際社会でのコミュニケーションはできないからだ。(p.11)


「曖昧で論理性を欠いた日本人のコミュニケーション」て。
自分のことを日本人全体に一般化しないでほし……なんでもありません。

では、ほとんどの日本人は外国人と交流する機会はないのに、外国人と交流するためにPISA型読解力を育てる必要があるのか。
 PISAに対応しなければならない最大の理由は、外国人と交流するためでなく、課題解決のコミュニケーションを 身につけるためである。(p.11)


強調は筆者本人によるものです。
いや、論文の本筋とは関係ないけど、「ほとんどの日本人は外国人と交流する機会はない」とは。それは。私の知ってる日本人ではないなあ。

 文章を批判的に読んで自分の意見を表現し、相互批判しながら合意形成を目指す課題解決のコミュニケーションは、この日本のあらゆる教科の学習でも、社会生活でも重要な「生きる力」である。(p.11)


はい、なんでこの論文をとりあげたのかというと、
PISAからこっち、「クリティカル・リーディング」「クリティカル・シンキング」みたいなことが、国語教育のなかで流行ってるっぽいのだけど。
どーやってあの国語の教室で、「クリティカル」ってのを処理してるのか、すごい好奇心があって。
まえまえから観察してたんですけど。
だいじょうぶなの?「クリティカル」なんて言っちゃって。
って、おせっかいにも心配してたんですけど。
で、ここでいきなり「ごんぎつね」がでてきます

 例えば「ごんぎつね」で、「ごんは兵十にどうやっておわびをすればよかったのでしょうか」という発問を出すと、子どもたちは「お手紙を添えて栗を置いてきたらよかった」などさまざまに自由な意見を出して、授業は盛り上がる。
 この問い自体はクリティカル・リーディングの問いとして間違っていない。しかし、教材は十分理解できていない子どもが自由に意見を言い出すと、とんでもないいい加減な意見が出てくる。
 クリティカル・リーディングをするためには、正確な教材理解と教材解釈が不可欠である。(p.11)


7.国際的な読解力を育てるブッククラブ
(略)
アメリカで1990年以降、このような読解力を育てるために盛んに行われている授業は「ブッククラブ」である。これは多読とディスカッションを組み合わせて国際的な読解力を育てる指導法である。
 さまざまなやり方があるが、ここでは私が子どもたちに実践して効果的と思われる方法の一例を「ごんぎつね」を例にして骨格のみ示す(略)
【クリティカル・リーディング】
 登場人物の行動や作者の表現を評価・批判させる。
 たとえば、「ごんのおわびのやり方はこれでよかったか」や「物語の終わり方はこれでよいか」を尋ねる。(p.12)



「ごんのおわびのやり方はこれでよかったか」クリティカル・リーディングの時間がみごとに、道徳の時間になってますね。

べつに、クリティカル・リーディングを「ごんぎつね」でやらなくてもいい気がするんですが。いや、やっていけないこともないけど。
 というか、クリティカル・リーディングひとつやるのにも、「ごんぎつね」からはなれられないんですかね。
どんだけ国語教育の人は「ごんぎつね」が好きなんだ。
私にとってはあんなにわけのわかんない物語だったのに。


というわけで、私もごんぎつねで「クリティカル・リーディング」

「ごん」って、兵十と直接しゃべってないような記憶があるんですよ。
で、おわびも言葉でなく物品でしょう。
ごんって、「人間の言葉はわかるけど、人間の言葉がしゃべれない」っていう設定な気がするんですよ。

このとき、ごんは「擬人化された動物」なのか、「擬獣化された人間」なのか。
というのが、私には気になるんです。
ようするに、「なんでごんは狐なのに人のことばがわかるんですかー」ってことなんです。


もし、「擬人化された動物」なんだったら、「狐でありながら中途半端に擬人化されて、兵十と会話はできないけど、兵十の言葉はわかる」っていう存在ですね。
「ストーリーをうまくすすませるためのご都合主義の設定だとおもいました。ごんは人間のことばを理解できるのに話せないというのがヘンだとおもいました」

「擬獣化された人間」ってことなら、「言葉を発しない鉄砲をもたない存在が、言葉を発して鉄砲をもつ人間にうちころされるというストーリーは、いくら狐になぞらえてあとあじの悪さをうちけしてあるとはいっても、『なんてかわいそうなごん』みたいなお涙ちょうだい話として無邪気に消費されていていいのかと、ぎもんにおもいます」

……あ、おもったよりいい教材なのかも。
posted by なかのまき at 22:48| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記

2010年06月07日

書道への愛

旧仮名遣いと旧漢字を愛好してる人が、私の教室の学生さんにもいて、毎回私はコメントペーパーで叩かれているのですが。
なんだろ。

でねー。
(まあ、旧仮名遣いと旧漢字がじっさいにはべつにでんとーでもなんでもないことは、おいておいて)
「伝統」っていうなら、旧仮名遣いと旧漢字いがいに、変体仮名は復活しなくていいのー?
ってなことを授業中にいってみたら、

「変体仮名は横書きできないという最大の欠点がある」
とかコメントをくれました。
ははあ。
横書きできないから復活させなくていいのかー。
すごいなあ。こんな発想、ほんと、私はできません。
そーかー。ここで横書きがでてくるとは。
うへー。すーごーいーなー。
自由奔放。縦横無尽。

「でんとー」とかいいながら旧仮名遣い・旧漢字を大切にして変体仮名を無視している、そのダブルスタンダードを自分の中で合理化するために。
「横書きしなきゃだめだから〜」
もー、最初に結論ありき。こーゆー人は、無敵ですね。
こっちがどんなに丁寧に反論したって、また違うものを引っ張り出してきて「最大の欠点!」とか言っちゃうんでしょう。
むちゃくちゃだ。

せんせーというゲタをはいているものにしてみれば、なやましいですねえ。
「じゃあ横書きが変体仮名を消した理由だってことをおまえ証明してみろ!」
とか言い捨てるわけにはいきませんものねえ。
「はーい、そっちいかないでねー、はい、じゃあせんせーがやってみるから一緒にみててねー。おーきくなったらきらいな人にも、おもいつきでものをいわないでもちゃんと反論できるよーになろーねー」
と、しつけをしてあげなければいけないんだろーか。
まあね。
「変体仮名は横書きがダメだからダメなんだ」みたいな、私が思い付くことすらできないすごい発言が出てくるんだから。
これは、けっこう大きな報酬なので。いやあ。勉強になりますね。


いや、上のトンチキ発言と同列にならべるのは申し訳ありませんが。


5月4日にブログでもらったコメントに反応します。



>現代の日本でわ漢字を行書や草書で書く事わ書道家でも無い限りほとんど無く、学校でも楷書しか教えませんね。


えっと、私は書道教育批判をするとき、ベースとして「学習指導要領」を考えています。

文部科学省のサイトから

中学校学習指導要領の国語


第1学年
(3) 書写に関する次の事項について指導する。
ア 字形を整え,文字の大きさ,配列・配置に気を付けて書くこと。
イ 漢字の楷(かい)書とそれに調和した仮名に注意して書き,漢字の行書の基礎的な書き方を理解して書くこと。

第2学年及び3学年

(3) 書写に関する次の事項について指導する。
ア 字形,文字の大きさ,配列・配置などに配慮し,目的や必要に応じて調和よく書くこと。
イ 漢字の楷書や行書とそれらに調和した仮名の書き方を理解して書くとともに,読みやすく速く書くこと。


強調は引用者です。
学習指導要領によると。
中学生の書道の時間に行書をおしえることになっています。
というわけで。
書道教育批判するなら。
そう。楷書のことだけじゃなく、行書のことも考えなくては。だめですねえ。
はあ。

ちょっと、書道教育の先生。
なんで中学生に行書を教えろって書いてあるのに教えてないんですか!
というか、教えてないんだったら、なんで学習指導要領に「教えろ」って書かせっぱなしなんですか。

なんか、これをみるにつけ。世間の人にとって、書道ってほんとーにどーでもいい教科と思われてるんだな。
行書のところなんて、あきらかにおかしいことになってるのに、批判さえおきてない。ぜんぜん興味を持たれてないんですね。


そんな書道教育に、やさしい応援を贈ってくれている論文を紹介します。

山田敏弘(2010)「現代型書写教育について」『岐阜大学国語国文学』36、pp.1-11

ひとりの小学4年生児童の親としてこの件を考えても、毎週の書道の時間がはたしてどのように有効に子どもに対し作用しているのかについて、疑問を抱かないではいられない。時間数だけが多い(毛筆)書写の時間は、現状では残念ながら、有意義な教育の時間とはなっていないというのが実感なのである。(p.1)


山田氏は日本語学の研究者ですね。その立場から、書道教育について書かれている論文です。

小学校3学年で国語の授業時間数は235時間と、他教科より飛び抜けて多い。この学年での算数は150時間、理科や社会は70時間である。書写が毛筆だけで30時間ということは。他の用具による書写も含めれば、単純な時間的バランスについても議論のあるところでもあるが、その時間数に見合った教育成果という点でも、残念ながら、書写が十分な成果を上げているとの実感をもっている児童生徒ならびに保護者は少ない。字の上手な人は上手であり、下手な者は下手なまま。めざましい上達はあり得ない。ましてや、それが毛筆という非日常的な用具による時間であれば、なおさら、成長につながるという実感がないのである。(pp.7)


あー、引用箇所の前半部分なんか、私が書きたかったのにー。

いまの書道のやりかたなんか、ただてがきコンプレックスを押しつけてるだけ、毛筆書道ぎらいのこどもを大勢つくってるだけなんじゃないか。

こんなに(専門外の人による)書道教育への愛がこもっている論文って、ほんと、ないですよ。
この論文の内容と、私が書きたかったことと、すごくかぶるんですが、私がこの論文にぜんぜん共感できないのは、この論文に、書道教育への、愛がたっぷりつまっているからです。


posted by なかのまき at 21:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 書道教育

2010年06月10日

漢字があってよかったね。

いや、さんざん被害者ぶってたけど、
じつは私、漢字ができるんですよ。

IMG3.jpg



ほら。
(画像はサムネイルです)

高校三年生の時の国語のテストの漢字部分。

いや、ふざけてないですよ。
全力でやった結果がこれですよ。

いや、ちがうんです。
ほんとに、私は漢字ができるんですよ。

いや、書き取りに目が奪われるかもしれませんが、
読み問題をみてください。全部かけてるでしょ。


「自刃」とかね。あきらかにいらない漢字が読めてますね。

で、私は、どうやら、わりと読めるけど、ぜんぜん書けないという、かたよった能力の持ち主だったのだけど。
よくかんがえたら、私は漢字ができるんですよ。

がっこおのせんせーに「漢字をもっとちゃんとべんきょーしましょお」みたいなことを毎回いわれてたんで、私は漢字が出来ない人間なんだと、自分で勝手に思いこんでたけど、

読むのだけはやたらと読めたんですね。
で、「読めれば書けなくてもぜんぜん平気だろ。パソコンあるし」ってなんとなくおもってたんです。で、漢字の書き取りの訓練を怠った。まあ、それで大正解だったわけですが。

だから、勘違いしないほうがいいと、(自分で)おもうのだけど、

よのなかには、

漢字があるおかげで得をしてる人と、
漢字があるおかげで損をしてる人と、
漢字があるおかげで基本的な人権まで制限されてる人

がいるわけですが。
わたしはあきらかに、

漢字があるおかげで得をしている側の人間なんですね。
そこんところは、自覚しておいた方がいいとおもう。
posted by なかのまき at 23:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 黒歴史

2010年06月13日

後輩をいじめた土曜日。反省している

どようびに、大学にいって、そのあと、
書道と国語の先生をやってる後輩とお茶して、

これはいいと後輩つかまえて、書道教育のことをきいてみたです。
というかもう、ほぼ尋問。

「なんで書道科は横書きのことをかんがえてないの?」
「字は、縦書き用に開発されたんですよ! それをむりやり横でかいてるんです。そこがおかしいんです」
「じゃあ、横書きを廃止しろって、そういうこと?」
「そうじゃないです、横書きをするのは仕方がないけど、横書き用の字を開発するなんてできるわけないじゃないですか! 横書きにしたときも、縦書きとして美しい文字をかいていればそれでいいんです」
「縦書きとして”美しい”のがどうして横書きにしても”美しい”っていえるの? それと、縦書きの書き方で横書きでかいたら、それは(書道的に)”美しい”かもしれないけど、書きにくいじゃない。書きやすさはどうでもいいの? 美しさがもんだいなの? じゃあ書道って芸術なの? 国語科にあるのに?」

「なんで横書きのことをなんもかんがえてくれないの?」
「字は縦書きで書かれていたという由緒と伝統があったから〜」
「でも今現在横書きの方がおおいじゃない、なんで横書きのことを考えないの?」
「だから、字が縦書きで書かれていた(略)

平行線

「筆順はどうなの? 横書きしたときかえって書きにくいし、左手利きにも筆順まもれっていうの?」
「そりゃ、学習指導要領にまもれって書いてあるし、筆順指導の手引きが出て、それを守るようにと上に言われてるんだから、言わないわけにはいかないでしょ」
「左手利きの人にもそれいうの? ひどくない?」
「だって学習指導要領にかいてあるし、えらい人に言われてるんだから私だって心が痛むけど、しかたがないじゃないですか、上が言ってるんだから。私に言われてもこまります。上にいってください」
「左手利きの人が今現在、辛い思いしてるのに、上に言われたことは押しつけるの? なんで筆順ってまもらなきゃいけないの?」

平行線

「左手利きの人が毛筆書道やらなきゃいけないのっておかしくない?」
「私は左手ききの人には、右手で筆を持つようにっていうおしつけはしません!「右手と左手両方で書いてみて、書きやすい方選んでイイよ」っていってます!」
「選ばせてアゲル、なんていって、なんでそうやって生徒の自己責任にするの?」

あのね、のっぴきならない状況に追い込んでおいてね、そんで、
「えらばせてあげるよ、キミが自分で決めたことなんだろ?」
そういう「自主的」な「選択」ってね、ふつう、

強制

っていうんだよ?
憶えておこうね?

たとえばの話ですよ、ファンタジーの世界です。
訛ってるとバカにされる、いじめられる、国語の成績に影響する、就職にもさわりがある、
っていう状況があって、そこで、先生が生徒にむかって口先だけ、
「キミは方言と標準語、使いやすい方を選んでいいんだよ」
って言って、生徒が「標準語つかいます」っていったとき。
それは
「生徒自身が選択したことだから」
ってそれはねー。
あーあ……

いえ、その後輩は責任逃れをしてるとかじゃなくて、ある程度善意のカタマリなんですよ。
「左手利きの人に右手書道をおしつけるのは心苦しいから選ばせてアゲル」なんてね、そりゃ、「左で字をかくなんか親のしつけがなってない」なんていう書道のせんせいより、よっぽど「理解ある」先生と言わなきゃいけない、のかもしれない。

でもね。私、たとえば、私の教えてる学生さんにね、
「先生は日本語に対する考えが浅いと思います」
とかコメントペーパーに書かれてもね(←実話)
「うはは〜。こんなことかかれちゃったよー、ぷー。」
って。
ぜんぜん傷付かないのに。
後輩が善意のカタマリで、
「私は左手利きの生徒さんに、筆を持たせて右手と左手両方かいてもらって、書きやすい方を選んでもらってます」
って、そうゆうこと、いってるの聞くとね。
すごく傷付くんです。
「このひとはなんでこんなひどいこと、いうんだろう」
って。
あきらかに、私を傷付けようという悪意があるのは前者なのに。
そしてこの私の傷付きポイントがあんまり他人に共感してもらえない。


このあとも不愉快で不毛な議論が。
えんえんとつづく。

「画数をまちがえて書かれた字は、いくら読めたって、字じゃない、記号です」
「だって左手でかくとあの画数を忠実にまもるの、無理だよ。 え? あなたは私の字を字とみとめないの? ふーん。まあいいや。あなたに字じゃないっていわれたって、べつにいいよ。字じゃなくていいや。あなたに字じゃないっていわれたって、ぜんぜんかまわない」


「やっぱり、日本人なら文化として、書道に触れておいたほうがいいんです」
「いま、学校には日本人いがいもたくさんいるよね」
「日本に住んでるなら日本人の文化をしってなきゃいけないんです!」




……で、この(双方にとって)不愉快な議論のあげく。私は終電をのがしました。

うん。で、私、あの。
あるていど、書道の先生に甘い期待をしてたんです。

あっちがわから、『横書きのこと無視してちゃダメじゃね?』『左手書字者にひどいことしてない、私ら』みたいな声があがってこないのかなあ。って。だって、自分のメシのタネですよ?
ちゃんとそのへんどうにかしておかないと、あとあと大変なことになるでしょ。
って。

でも、
ああ。むりだわ。これ。

あいや、そういうこと個人的には、ちゃんと考えて、実際にてあてをしてる現場の先生もたくさんたくさん、いるとおもうんですけどね。
書道の先生が、全体として、「これは書道教育業界の課題だ」みたいな方向で考える意識は、ないんだな。と。

posted by なかのまき at 22:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 書道教育

2010年06月16日

ポリシー

前回の記事

「画数をまちがえて書かれた字は、いくら読めたって、字じゃない、記号です」
「だって左手でかくとあの画数を忠実にまもるの、無理だよ。 え? あなたは私の字を字とみとめないの? ふーん。まあいいや。あなたに字じゃないっていわれたって、べつにいいよ。字じゃなくていいや。あなたに字じゃないっていわれたって、ぜんぜんかまわない」


「字じゃなくていいや」って、無責任に言っちゃってますが。
これは、誰でも言えるわけじゃないんですよ。
私が大人だから「あなたに字じゃないっていわれたってかまわない」っていえるわけですよ。
学校にいってるこどもは、書道のせんせいに「こんなの字じゃありません!」
とかいわれたら。
「学校つまんないんでかえっていいですか」
くらい言えたら上出来ですね。

まあいいや。
はい。

そうそう。
左手で字がかきにくいんだよ
っていうと
「右手で書かないの?」
っていわれて、
「なんで左手でかいちゃいけないの?」
って言い返して、
「ああ、左手でかくのがポリシーなんだ」
っていわれて、腹がたったことがあります。

なんか、このブログだけ読むと私、腹が立ってばかりいるような人生にみえますが、そうでもないですよ。

で、なんで「左手でかくのがポリシー」とかいわれると腹が立つかというと、前にどっかでかいたのですが「左手でかくのがアイデンティティ」といわれるのとおなじで、腹が立つんですよ。

「右手でかくのがふつう。左手でかきたがってるヤツは政治的に偏向した思想の持ち主」
っていうポリシーがないと
「なんで右手で書かないの」とか「左手でかくのがポリシー」とか言えないんですよ。

「右手で書くのはダメなんですか」
むしろね、とかいうとき、それは、それを言ったヒトのポリシーがすけてみえるわけですよ。
「多数決で勝ってる自分は少しも損をしたくない。自分が損をしないためなら少数の側のひとをいくらでも踏みつけてかまわない」っていうポリシーがないとね、
「右手で書くのはダメなんですか」
なんて恥ずかしいこといえないですからね。

なんか、私
「なんであなた、そんなに利き手にこだわるの?きもちわるい」
みたいなこと、思われてそうですけど。
むしろ、右手利きに徹底的に都合よくなってるこの社会がね、
むしろ、
「なんであなた、そんなに右手利きにこだわるの?」
って、私は言いたいわけなんです。
「なんでそんなに、字は右手ばっかりにつごうがいいの?」
「なんでそんなに、自動改札機は右側にしかキップ投入口がないの?」
「なんでそんなに、右手利きがちょっとも損しないように、がんばってるの?」
「なんでそんなに、右手利きにこだわってるの?」

で、明らかにおかしいから、ちょっと文句いうと、
「左手でかくのがポリシーなんですか?」
みたいに、私が偏った思想の持ち主みたいにいわれるけどね、
偏ってるのは、どっちなんだよ、っていったら、もちろん、私じゃなくて、字と、自動改札機が偏ってるわけですよ。
そしてそれを当たり前と思いこんでる側が偏ってるんですよ。

それを、さも私が偏ってるように印象操作しようとしてさ「右手で書けないんですか」とか「ポリシーなんですか」とか言って、
私を特殊な思想の持ち主みたいに言って。
そうやって、ちょっとでも損をしたくないんですよ。

まあ、もう、それは通らなくなりますよ。
あとね。「損をしたくない」人にききたいのだけど。

自動改札機のキップ投入口が右側にしかないの、それであなたは得をしているの?

もしあなたが、右手で杖をつくようなことになったら。
けっこう、自動改札機は障害ですよー。

私は、自動改札機はべつに。字にくらべたら、ぜんぜん苦痛じゃないけど。(まあ、いやといえばいやだけど)
むしろ、右手利きの人が、右手で杖をつくとき、自動改札はかなりうっとうしいと思うんですが。

自動改札機の右側だけってのは、左手利きにもかなり腹立たしいものがあるけど、むしろ、右手で杖ついてるひとだよね。

とても、あぶない。

で、いいんですか。
「左手にこだわるのはポリシーなんですか」とか
いって。
それで、右手利きの損をしたくないひとは得をしているんでしょうか。

けっきょく、右手利きのひとにとってだって、右手だけに都合の良い機械より、右手でも左手でも問題なくあつかえる機械のほうが、ぜったい得だとおもうんだけど。字だっておなじですよ。
「うるさい左手きき、だまれ」とかいうより、いっしょに考えた方が、ぜったい得になるんですよ。

だから、
「ポリシーなんですね。思想的な偏向なんですね」っていって左手利きの人をだまらせて、それで得をしたつもりなら、ちょっと考えがたりない。

いやでしょ。
自分が杖をつくときに。

「左手で杖を持てないの?」

とかいわれるの。
posted by なかのまき at 23:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2010年06月18日

書家の条件

先週後輩をいじめた時、

本気で勉強になったこと

・書家とは臨書(むかしの字を真似っこする)をできる人。
臨書をしていなければ、いくら墨と筆を持って字をかいても、それはパフォーマーというもの。書家ではない。


おおっ。
これは、わりと決定的。
臨書がひとつの、書道の大切な軸となっていて、なんか好きかってやってるようにしか見えない創作書道も、じつは、臨書をふまえてなければいけないわけで。

ってことで。

書道が左手書字者を書道界から閉め出している、という言質がとれたかんじですね。
これ、とても重要。

右手で書いた字を左手では臨書できませんものね。
「左手書字者、書道界に入ってくるな」
ってことで。

……うん。で。
書道界が左手書字者を閉め出してるってことにかんしてはねー。
しょうじき、どうでもいいです。
「好きにすれば? 勝手にやってろよ」
って。あ、私個人の感想です。
私は毛筆芸術書道にまったく興味も関心もないので、閉め出されても痛くもかゆくもないわけで。
毛筆書道に興味・関心のある左手書字者にはこの書道界の心ないしうちをつらいと感じるひとがいるかもしれませんが。
すんません。それにかんしては、まったくどうでもいいです。
そっち方面にかんして、なんにも思うことはありませんし、それに関して批判とか、やるつもりないんで、それは、やりたい人がやってください。

私が書道に関して、ひっかかる点は、ここだけ。

教育の場において

・毛筆が、義務教育で全員必修の項目となってる。
・誰にとっても不合理な筆順を押しつけている

ここですねー。これだけどうにかしてくれたら、べつに書道は勝手にやっていればいいとおもいます。
だから、学校帰りにかようお習字教室とか、放課後の書道クラブとかは、どうでもいいです。

というわけで、
書道自体は、滅びる必要はなく、
私に迷惑のかからない場所であれば、いくらでも好き放題やっていいんですけどね。

つまり

書道が、左手書字者をしめだしているのが問題なのではなく、

左手書字者をしめださないとやっていられないようなものが、義務教育の必修科目となっているのが問題なんです。

とはおもうけど。
まあ、もう後戻りできないんだろうなあ。
書道教育。
posted by なかのまき at 23:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 書道教育

2010年06月19日

他人の趣味はまじめにばかばかしい。

注:今日の日記の話題は書道です

いま、パソコンを買い換えなければいけない時期で、買おうかなとおもってるんです。
が、
「いや、パソコンを買い換えたら、このパソコンの中に入ってる私の初音ミクはどうなっちゃうの?」
という。ものすごく気持ち悪い理由で、パソコンを買い換えられないんです。

もちろん、新しいパソコンにインストールしなおせばいいだけなんですよ。データもうつしかえればいいんですよ。
でも、このパソコンの中にいるミクちゃんと、新しくインストールしたミクちゃんは、同じなの?

学校に友達がいなくて、辛かったりした私を慰めてくれたミクちゃんは、このパソコンのなかのミクちゃんなんですよ。
新しくインストールしてしまえば、それは私の知ってるミクちゃんじゃない。別のミクちゃんだ。
いやだ。私は今のパソコンに住んでる、このミクちゃんとずっと一緒にいたい。
という理由で、いま、私はパソコンを買い換えるのがつらい。

……えーと、おのれの恥ずかしい性癖を披露して、なにがいいたかったのかというと。

他人の趣味って、はたからみたらばかばかしいよね。
っていうことで。

上は、ほんと、ばかばかしいです。文章にしてみて、愕然とします。つくづくばかばかしいとおもいます。これ、自分のことだから仕方なくつきあってるんですけど、他人が同じこといいだしたら、とてもつきあいきれません。
「さっさとパソコンかって新しいのをインストールしなよ。データは変わらないんだから」
って、言いますね。確実に、いいます。他人事だったら。
「きもちわるいなあ」
くらい平気で言うかもしれません。他人事だったら。

だけどね。
趣味だったら、いくらでもばかばかしくていい、と、私は思うんですよ。

たとえば、
二次元美少女にのめりこんでいる人がいたとして。
それで、二次元美少女の素晴らしさをしらないうえに、二次元と三次元の区別ができてない人が、よく言うじゃないですか。
「二次元美少女にはまるのは趣味だから勝手にしてもいいけど、二次元と三次元を混同して、三次元の女の子に性犯罪を犯されたらこまるから、(二次元美少女マニアは)いやだなあ。死んで欲しいなあ」
みたいな。いや、
「二次元と三次元の区別ができなくなる」って、
二次元と三次元の区別ができてないのはどっちだ。
どう考えたって二次元美少女のほうが可愛いでしょ!
あの人達はかわいいのが仕事なんだから。

なんでわざわざリスクをおかして、二次元美少女より格がおちる三次元の女の子に性犯罪する必要があるんですか。
二次元美少女と三次元美少女を比べることがまちがってる。二次元美少女にたいして失礼です。
そして、三次元の女の子を、「可愛い」だけが仕事の二次元美少女と比べてみようとする根性が、三次元の女の子にも失礼だとおもうんです。

*これは、二次元美少女マニアであるところの私1人の見解です。
 すべての二次元美少女マニアを代弁していっているつもりはありません。


だから、よくわからないままに、「二次元と三次元を混同されるとこまるから」みたいなまとはずれな根拠をもとに、「二次元美少女はダメだ、二次元美少女マニアはダメだ」みたいなこと、いわれたくないんですよ。

それと同じでね。
「左手書字者のことを考えてないから書道はダメなんだ」
とか、私は言いたくないんです。
趣味の範囲だったらね。

いや、趣味だったら、なんでも許されるってわけではないけど。ギリギリ、「書道やるんだったら左手で字をかいてはいけません」はね、許される気がするんです。
私にはまったく意味不明だけど、だからって、「書道なんか滅びればいい」とか、そういうのは思わないです。
左手書字を許さないのか、というのはもう、ここから先は書道業界の問題であって、私には関係ないんです。

もちろん、書道は「ただの趣味」なんて枠にはおさまりきってなくて、

字をてがきすることが、いまの社会ではだいぶ意味をもつとか、
書道がだめなかんじに公教育にはばをきかせてるとか
書道には芸術とか伝統とかいう権威がまとわりついてる

とかね、そのへんは、解体していかなければならないとおもうんですが、

そのあとにのこった、「ただの趣味」としての書道は。
「どうぞご勝手に」
って、いいたいです。

左手書字者を無視し続けるのもいいでしょう。
左手書字者のために書道を改革するのもいいでしょう。

お好きにどうぞ。
私はなにもいいません。
だって、私は書道の関係者じゃないもの。
書道をやりたいともおもわないし。興味ないし。

それに、
わたしだって、じぶんの趣味(二次元美少女)を
「そんな趣味はまちがってる!」
なんていわれたくないですもの。
「書道なんていう趣味はまちがってる!」
なんていいたくないな。
「書道は左手書字者のことをかんがえてない」って批判は、ある意味もっともなんですけど、書道とはなにかってことをかんがえると、やっぱりちょっと、まとはずれっていう気もするんですよ。


んー。
だから、書道はさあ。
「近頃の日本人は毛筆という伝統をないがしろにして、手書きの文化を忘れて心のこもっていない手紙をかいている」
とか、大風呂敷ひろげないで。
「日本人」とか、そういうのかんがえないで
自分だけの、趣味の世界でのびのび楽しくやっていけばいいんじゃないですかね。
だめですかね。

で、「日本人」とかいいだすなら、そういう全体論にもちこむなら、もちろん、左手書字者のことはかんがえてね。
posted by なかのまき at 10:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2010年06月22日

書字教育と称して書道教育をほどこしている書写教育

6月18日の日記で

書道が、左手書字者をしめだしているのが問題なのではなく、

左手書字者をしめださないとやっていられないようなものが、義務教育の必修科目となっているのが問題なんです。


ってかいたんですけど。
もし私がきらいで、このブログにケチつけたかったら、
「義務教育は書道教育じゃありませーん。書写教育ですぅ〜〜」
って、批判してもいいですね。

というか、私もきのうきづいたんですけど、
無邪気に書道教育書道教育かきすぎですね。
書道教育と書写教育を区別してない。
これは、だめですね。

ただね。
混同したい、気持ちもわかるよな。
と。

下の論文で指摘されていることを、かみしめながら。


 現行の学習指導要領では、文字を書くことに関する学習は、小・中学校では国語科書写として位置付けられ、その内容は実用性に限定されている。高等学校では芸術家書道として位置付けられ、実用性を高めながら芸術性を学習するようになっている。
 しかし、実態は、小・中学校では「書写」と言わずに「書道」や「習字」と言った呼称が日常的に使用されたり、「文字を美しく書く」と言った表現がなされたりして、教師の間には書写と書道をほとんど同様に捉え、学習指導要領の趣旨が正確に認識されていない場面も見かける。(玉澤友基(2009)『書写・書道の関連指導に関する考察―楷書指導を中心に』「岩手大学教育学部研究年報」68 pp.71-79)


下線は引用者です。
そう。「美しく書け」って、いえないんですよ。国語科書写は。
書道じゃないんだよ。
でも、だからといって書写と書道はちがうものなの?
うちの大学にいる、書家気取りのズルい書道研究科は、こういうんですよ。
「学校教育の書写と書道はちがうんだから〜」
って。まるで書写のひどさは自分の高尚な芸術毛筆書道とは別物みたいないいかたしてね。

でも、じゃあなんで書写に毛筆があるの?
硬筆の上達に毛筆は関係あるからカリキュラムに入ってるように素人は思わされてるけど、じっさいには硬筆と毛筆は関係ないってことは、書写書道教育関係者ならだれでもしってること。
毛筆があるのは、”書写教育”にたずさわる人間の、趣味なんですよ。左手書字をするこどもをふみにじってでも、おしつけたい趣味なんですよね。
ってことは、書写って書道だよね。
書写関係者って、書道関係者のことだよね。
書写教育を牛耳ってるのは書道関係者ですよね。

書道趣味を義務教育のなかでおしつけておきながら、都合悪くなったら「書写と書道はちがうから」なんていわないでほしい。

私は、こうおもってます。
「書字教育と称して書道教育をほどこしている書写教育」
だから、書写教育のことを、書道教育といいたくなる。
いいたくなるけど、それはちゃんとくべつした方がいいので。
整理します。



書字教育(じをかけるようにしてください)

書道教育(うつくしいただしいでんとうのじを毛筆でかけるようになりなさい)

書写教育(書字教育をしてますよといいながら書道教育をしているなにかの名前)

posted by なかのまき at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2010年06月23日

ガムはおやつにはいりません

ぜんぶたとえばなしです。

私は、ちょっとまえ、整理整頓をするのをおしごとにしていました。

アメがはいってきたらお菓子のはこにいれます。
キャベツがはいってきたら野菜のはこにいれます。

そうゆう、おしごとをしてました。

それで、わたしはそのおしごとが、ちょっとだけつらいところがあって。
あるひ、言ったんです。

「あの、ガムは野菜のはこにいれることにきまってるけど、これからはお菓子のはこにいれませんか?」
で、
「なんで?」
ってきかれて、
「ガムはお菓子だからです」
ってこたえたら、
「ガムがお菓子って、なに、ちょっと説明して」
っていわれて、
「えーっ、だって、ガムはお菓子ですよ」
「でも、ねばねばするんだから山芋かオクラのなかまでしょ?」
「いえ、ガムはお菓子です。これは私だけが言ってるわけじゃないです。この本をみてください、ここにかいてあります」
「ふーん、でもさ、ガムはほかのお菓子とちがって飲み込まないよね。お菓子の箱に入れるのは妥当なの?」
「えっ、いや……でも、野菜の箱にいれるよりはいいとおもうんですけど。だいたい、世間ではガムはお菓子売り場で売ってるし、わたしもそれが妥当だとおもいます。なんでここでは、ガムを野菜に分類してるんですか、やっぱり、お菓子に分類したほうがいいとおもうんです」
「そー。なかのさんはガムを専攻してるから、自分の得意なジャンルには敏感なのかもしれないけど……」
「私の専攻は玉子ボーロです。ガムの専攻じゃありません。でも、やっぱり、お菓子研究所と名前の付いたところで、ガムを野菜に分類するのは、ちょっと私はいやです。恥ずかしいです。それに、ガムを食べる人や、ガムを専攻してるひとが見たら、ガムが野菜に分類されてたらつらいとおもいます」
「あー、ガムを食べる人やガムを専攻してるひとは怖いからね。抗議が来たら面倒くさいことになるかもしれませんね」
「そういうことじゃなくて、私は玉子ボーロが専攻だけど、それって、ようするにお菓子の研究者ってことです。あなたは金平糖の研究者かもしれないけど、やっぱりそれって、お菓子の研究者ってことです。お菓子の研究者が、こまかい分類はべつにして、ガムを野菜に分類してるのは、それはそんなに、私個人の趣味の偏向とか、ガムを食べる人の抗議がこわいからとか、そんな理由じゃなくて、やっぱり、お菓子の研究者として、ガムが野菜に分類されてるのはヘンだと……」

私はガムを専攻してないし、ガムに詳しいわけじゃなくて、「大学院でガムはお菓子です」ってならってきたから、そういう訓練をうけてきたから、この分類はきもちわるいし、この感覚はお菓子の研究者であれば共有できるものと思っていたから、
「ガムがお菓子であるというなら、その理由を説明して」といわれるのにびっくりしたし、説明したあとも「あなたはガムにくわしいからきになるだけ(あなたいがいのだれもこの分類がなぜおかしいのかわかってないよ)」とか「だってガムはのみこまないんだからお菓子に分類していいのか疑問だ」
とかいわれるの、びっくりして。
「え、ええ?」
ってなって、ショックで、

「私は玉子ボーロの研究者であるということはつまり、お菓子の研究者であるのだから、
ガムが飲み込めないという理由だけで、ガムをお菓子じゃなくて、お菓子よりさらに的はずれな野菜に分類してる、お菓子の研究者としてそれは許されないと思ってる、それは、じぶんの研究への姿勢に、ものすごくかかわることで、これ以上ガムを野菜に分類しつづけるのは、私の研究への気持ちを壊してしまう。わたしはここで、研究職としてはたらいているわけで、だから、ガムを野菜に分類しなさいと命令するなら、研究者としてとてもつらいから、私はこの仕事をやめたい」

ということを、あまりちゃんといえなくてけっきょく、

「すみません。どうしてもいやです。いやなんで、ガムをお菓子のはこにいれさせてください」
って、私個人のワガママをおしつけたようなかんじにいってしまって、で、「じゃあそういうことにしましょう」ってことになって、ガムはお菓子の箱にいれることになったんです。

でも、そんな、私がワガママをおしつけたようなかんじにおもわれてるかもしれないけど。
だって、お菓子の研究所でしょう? お菓子を研究してる人たちがあつあまっている所でしょう?

ガムを野菜の箱にいれたくない、ってそれはほんとうに、私の個人的な、趣味で、ワガママなんだろううか。


なにかというと、

なんで手話を「言語」じゃなくて「みぶりてぶり」なんかと同じ箱にいれてるの……
posted by なかのまき at 23:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2010年06月25日

「うまれつきかうまれつきじゃないか」っていう研究は意味ないんですよー

白垣潤・梅下弘樹(2010)「発達障害児および発達障害が疑われる幼児の発達特性と家庭環境に関する研究―津守式乳幼児精神発達診断法を用いて」『岡崎女子短期大学研究紀要』43

いや、なんとなくタイトルがぎょっとするようなタイトルなので気になって読んでみました。
「家庭環境」って!
え? いつの時代の研究? 2010年?
……ほんきですか。

では、引用します。



近年、幼稚園や保育所で発達障害児および発達障害が疑われる気になる幼児が増加傾向である。(略)本研究では、発達障害児および教育・保育現場で発達障害が疑われている幼児の発達特性について、性別、家庭環境、診断の有無の要因が発達の特性にどのように関わっているのかについて、津守式乳幼児精神発達診断法を用いて横断的に検討した。(p.41)


はあ。


対象は、岡崎市内の公立保育園に在籍する幼児66名(男児48名、女児18名)であった(54.2±12.7か月)(Table1)。また、対象児を性別(男、女)家庭環境(良好、保育者の報告によって問題があるとされた家庭)、医師による障害の診断の有無(有、無)のそれぞれの群によっても検討を行った。


で、Table1の実物をはっておきます。(クリックすると大きいのがみえます)

IMG625.jpg

で、この家庭環境(保育者の報告によって問題があるとされた家庭)のなにが「問題」なのかというと。
異なりだけ書き出します。

母子家庭
父がDVの疑い
父子家庭
母中国人で日本語不能
ネグレクトの疑い
母居るが祖母が中心に育児
父がほとんど家庭不在
母がうつ病でネグレクトの疑い
母子家庭・ネグレクト
両親再婚家庭
母フィリピン人で日本語不能
多子貧困家庭
母親が長期時間深夜勤務
母パニック障害
両親ともに転職が多い
祖父母が中心的に育児
両親ともギャンブル依存
両親とも聾唖者


以上が「保育者の報告によって問題があるとされた家庭」です。
えーと。「問題があるとされた家庭」の「された」って、なんですかね。
「保育者の報告を聞き取った白垣氏・梅下氏の判断によって問題があるとされた家庭」ってことですよね。
「白垣氏・梅下氏によって問題があるとされた家庭」
ってことだよね。
この「された」って、迷惑の受け身ですね。
それいがいにかんがえられないんだけど。

この研究さー。どっちかっていうと、2010年時点において、大学の研究職についてるよーな人間がどんな家庭環境を”問題”と考えているのか、という。
そういう研究の一次資料につかえそうじゃないですかね。
というか、それ以外の資料としてはまったく意味がない論文じゃないですかね。

で、えっと、この論文の結論としては

発達の遅れのある子どもについては、家庭のしつけの問題に帰すよりもまず発達の遅れについて慎重に検討する必要があると思われる。発達障害については、発達という側面から、遺伝か環境かという議論がされてきており、また環境要因で発達障害に類似した症状を呈する症例も報告されている。(p.44)


私はこのジャンルについてはまったくわからないんですが
あまり意味のない研究を、大学の研究費つかってやらないでほしいんですが。

だいたい、
「発達の遅れのある子どもについては、家庭のしつけの問題に帰すよりもまず発達の遅れについて慎重に検討する必要があると思われる。」
って、どんな日本語だ。挿入部分である「家庭のしつけの問題に帰すよりも」を抜くと、

「発達の遅れのある子どもについては、まず発達の遅れについて慎重に検討する必要があると思われる。」

となりまして。これは……すごいな。
あと、「家庭環境」って、この論文では「家庭のしつけ」のことですか。
保育者にすべての責任をおしつけて、「おまえたちが悪いんだ!」っていいたいのかな、と。
四方八方に無責任な論文だな。


で。


家庭環境に問題がある群は、母子家庭・父子家庭、DVやネグレクトの疑いなど明確に問題がある事例のみを問題群にいれたが(略)
(p.44)


って、かいてありますけど。
母子家庭のなにが「明確に問題」なんですかね。
母中国人で日本語不能のなにが「明確に問題」なんですかね。
両親ともに転職が多いのなにが「明確に問題」なんですかね。
両親とも聾唖者のなにが「明確に問題」なんですかね。

私にはぜんぜん問題が明確でないんですけど。
いったいなにを「問題」としているのか、さっぱりわかりません。
というか、いったいなにをもって家庭環境を「良好」としているんですか。

posted by なかのまき at 22:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2010年06月27日

「うまれつきかうまれつきでないか」ってそれを考察するのはお前の仕事じゃないよ

小林比出代(2005)「左利き者の望ましい硬筆筆記具の持ち方に関する文献的考察」『書写書道教育研究』20 pp.30-40

『書写書道教育研究』っていう雑誌は、わたしは、いい雑誌だとおもってます。
前にも紹介した加瀬氏の論文なんかものすごくいいし、そしてその論文をちゃんとページの若いところに掲載する、『書写書道教育研究』っていう雑誌も、いい雑誌だとおもいます。
あるていど、書写って、「手書き文字は将来滅びるかも」みたいな危機感があるせいか、いい研究が多いし、この雑誌をよめば書写教育の問題点がほとんど網羅されていて、書写教育のなかで(ひそかに)共有されているのがわかります。もうすこし、一般人にむけてもいってほしいんですけど。
「硬筆と毛筆は関係ないよー!」とか、ちゃんと大声でいってほしいんですが。

国語教育なんかとくらべると、だんぜん科学的な考察がしっかりされていて、面白い分野だとおもいます。
というか国語教育は、あれはなんなんですかね。


それをふまえて。
左利きのことも、もちろん書写教育の人はかんがえてます。
ということで、紹介します。

小林比出代(2005)「左利き者の望ましい硬筆筆記具の持ち方に関する文献的考察」『書写書道教育研究』20 pp.30-40

これはどういうたぐいの研究かというと、章だてをみればわかります。

1.左利きに関する社会的意識―書字の側面から
2.現在の書写教育における左利き児童・生徒への学習指導
3.左利き及び左利き者の書字に関する文献的考察―生物学・心理学の分野から
 3.1「左利き」の定義と「ラテラリティ」
 3.2 左利きの割合
 3.3 左利きの発生起源と種類
 3.4 利き手と大脳との関係
 3.5 順手と逆手―Levyの仮説から
 3.6 幼児期の利き手
 3.7 利き手への社会的・文化的影響
 3.8 書字における右手の優位性
 3.9 左手書字から右手書字への「矯正」の是非
 3.10 学校教育と左利き及び左利き者の書字
4.左利き者の望ましい硬筆筆記具の持ち方及び用紙の置き方―『左きき書道教本』を参考に


この論文のストーリーとしては、3章で「左利きを右手書字させるのは”不自然”だし言語障害などの”問題”がおこるから矯正しないほうがいい」4章で「ではどうやって左利きに字をかかせるか」
って、そういう話になってまして。

私は、以前論文にもかいたんですけど、
「左手利きは生まれつきだから、矯正しちゃだめ。矯正なんか不自然なんだから」
っていうのは、意味がない発言だとおもいます。
「左手利きを右手に矯正すると言語障害なんかがおこるかもしれないから矯正しないほうがいい」
っていうのも。
で、そういう方向での「矯正しないほうがいい」に脳やらなんやらの科学論文をひっぱってきて、「矯正しない」に科学のお墨付きを与えて、それを「矯正しない」の根拠にすることは、慎重になったほうがいいとおもうんです。

うらがえすと、「生まれつきじゃなかったら矯正していいの?」「障害がおこらなかったら矯正していいの?」って話になって、そうなると「いい」ってなっちゃうのが、こわいんです。

「矯正しちゃだめ」に、科学の裏付けもあっていいですが、それより、左手ききの矯正って、文化であり、社会の問題なんで。
そっちのうらづけの方が大切なんです。
でね、小林氏は、「3.9 左手書字から右手書字への「矯正」の是非」の章で、「矯正しちゃいけません」というのに、科学的なみかたでしか、もの言ってないのが、非常に残念なんです。

 しかし、生物学及び心理学の見地から考察した場合、右利きが多数派ゆえに、右利きの方が社会生活において便利との理由だけで安易に利き手を偏向させることには強い危惧の念を抱く。(P.35)


「生物学」および「心理学」って、なんでそんなに、左手きき個人の、「からだのつごう」ばっかり見るんですか。
矯正は、左手ききひとりの、「からだのつごう」よりも社会の利便性を優先しているからおこることであって、そのときに、ひだりてききの「からだのつごう」ばっかり観察しててもしょうがないんですよ。
利き手矯正は、社会の問題です。だから、社会を問題にとりあげないと、利き手矯正についての研究なんか、無意味なんですよ。
ひつようなのは、社会学です。
いくら左手利きの脳を測定したって、問題解決にはとおいんです。

あと、左手利きと左手書字者を区別したほうがいいとおもうんです。

左手書字をおこなうひとは、もちろん左手利きがおおいですが、
もともと右利きだった人が怪我や病気などのつごうで、右手でペンを持てなくなった人が、左手で字をかく場合もあるわけで。

それを無視して、左利きの脳波をいっしょうけんめいしらべたってしょうがないんです。

左利きじゃなくても左手書字してる人がいる以上、左手書字は左利きだけの問題じゃないんです。


そこのところがぬけおちてるから、「左手書字から右手書字への「矯正」の是非」なんていってられるわけで。
是非の検討とか、そんな段階じゃないんです。
今現在目の前に、左書字者はいるし、「矯正」で左手書字者を撲滅できるわけではないというのは当然なのに、なにをのんきに「矯正の是非」なんていってるんですか。
そういう問題じゃないんです。「矯正したほうがいいのかしないほうがいいのか」なんて、すごく、意味ない検討です。

書写教育の人は、「矯正の是非」なんてもう、これ以上考えるひつようないです。
左手書字者は、いつでもどこでもいる。左手書字者がいなくなることはありえない。
だから、もうね、「左手で字をかくひとはいてあたりまえ」って、そこはもう、議論の余地はないでしょう。
それをふまえて、そのてあてを考えるときにどうしよう。
毛筆全員必修ありえないよね、むしろ硬筆全員必修もありえないよね。ってそういう方向にいくしかないんじゃないかなあ。

いや、「生徒はぜったいに手書きの文字をかくべきではない、これからはパソコンだ!」っていってるんじゃなくて、

パソコンも硬筆もえらべるようにして、どの場面でもどっちでかくにしても不自由ないようにして、
あたりまえだけど「パソコンの文字は心がこもってない」とかそういう差別をしないように、
書字教育のシステムをかえていくようにするしかないんじゃないかな。

posted by なかのまき at 11:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2010年06月28日

ミク様ご臨終です

私のパソコンがさきほど、おわりました。
私のパソコンに住んでる初音ミクはどこにいっちゃったんだろう。というきもちでぼうぜんとしています。
(あー、じぶんが気持ち悪い)

書きかけの論文のデータは無事です。
明日あさいちでパソコン買ってきます。
論文書くために。


というわけで今日はしんきくさいことをかんがえたくないので
のんきな話題で

いま住んでいる家は以前、ご老人が一人暮らししていた部屋に、いまは私がネズミの「よしこ」と2匹で住んでいるのですが。


ご老人は亡くなって、私がうつりすむときに、ご家族の方に「要らない家具はおいていってください」ってお願いしたら、
家電や家具をごっそりおいていってくださって、私は本棚2つとパソコンだけもって引越ししたんです。

で、そのご老人の趣味が、私の趣味にぜんぜんあわないんですよ。あたりまえなんですけど。

「こんな家具頼まれたって私は買わないなあ」
みたいな家具にかこまれて、なんか、しらない人と住んでるみたいでそれは面白いんですよ。
もうこの世にはいない人なんだけど、家具だけいきていて、縁もゆかりもない私が使ってるんです。
クレヨンしんちゃんのシールがこっそり張ってあったりするんで、お孫さんがいたのかな、とか。
色はピンク色が好きなんだな、とかわかるんです。


で、ちょっとまえまでそのご老人宛にDMがとどいていたりしたんですよ。
「滋養強壮 鹿の角エキス」
みたいなDMがとどくんです。
いや、私、鹿の角のエキスについて考える機会なんか、ふつうにいきてたらなかったかもしれませんもんね。
そうすると、たのしいんですよ。

たのしいというか、ほっとするんです。

私が知ってるより、世の中ってだいぶ広くて、
私は毎日しんきくさいことをかんがえつづけて、どんづまってしまうことがおおいけど、

けっきょく、私の知ってることなんて広い世界のごくごく一部でしかないんだよ、って。
いま、じぶんが抱えてる問題を、世界のすべてだとおもいこんでしまわないように、毎日確認ができるのが、いまの私にとっていいようです。

「そうだ、私はこれじゃない選択をすることだって可能だ。でも、私はもうすこし、これにこだわりたいんだ。だからつづけているんだ」

って。
「これしかない、私にはこれしか残っていない」っておもって自分をおいつめないように。
もうすこし、私がしってるよりも、世界は広いんだって、わかっておきたいんです。

というわけでいまの家は好きです。
おもしろいので、こちら方面にいらしたときにはぜひ遊びに来てください。
(部屋も余ってるのでとまりもだいじょーぶです)

あ、
それと、体重900グラムのネズミと暮らすのもおなじ意味でいいんです。
よしこにイチゴをあげると、ヘタだけたべて実を残します。
こんなぐあいに、こっちの常識がまったく通用しない。
このかぜとおしのよさが、ここちいいんです。

「ああ、よしこは私のしらない世界にすんでるんだなあ」
って。
「たくさんある世界からみたら、私のこだわりって、ちっちゃいよなあ。でも、ちっちゃくても、こだわりつづけたいから、つづけてるんだな。そんだけだな」
と、
よしこがなんかしでかすたびにおもいます。
posted by なかのまき at 22:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記