2010年07月04日

書写・書道の迷走

これどーですかね。
中山理香「障害者における書法学習に関する研究」

今日、さまざまな芸術の各分野において芸術療法が発達し、医療の現場をはじめとしてさかんに行われている


というでだしではじまります

自閉症の人に書道をやってもらった結果のまとめの研究らしいですが。
「しょどうやるとこんなにいいことがいっぱいありますよー」
っていいたい研究ってことで。



アンケート調査の結果によると、書道を続けていることによって、他動性の強かった人が椅子に座っていられるようになった、落ち着いていられるようになったなどということが明らかになった。また、文字の存在を理解できるようになった、コミュニケーション能力・社会性の向上などが個人差はあるものの見られた。


「多動性の強かった人が椅子にすわっていられるようになった」とか。
「療法」の意味をはきちがえてませんか?
こういう方向で「これが研究成果ですー」とかいわれると私はかなりはらがたつんですよね。

あと、


書道を学習する過程で、脳のあらゆる機関が活性化する。主に活性化する部分は前頭前野で思考・学習・意欲・情操などといった高次機能が集中している。この前頭前野を鍛えることは教育の現場、痴ほう症患者に有効だと考えられている。また、筆を用いこの所作活動および所持活動を行うことにより、体内のコルチゾン値が減少し、ストレスが軽減されることが明らかになっている。


これ、書道じゃなくてもいいですよね。ナントカ値が減少とか。
べつに書道でもいいけどね。書道特有の「いいこと」ではないですよね。

なんか、この文章にかんしては卒論のまとめらしいんでなんともいえないんですけど。


あと、もうひとつ怖いのをみつけました。

タイトルだけ。


鈴木慶子・川島隆太他『人間の高次脳機能をはぐくむ手書き活動に関する調査研究』
『文字を「書く」ことの活動に関する科学的・実証的研究』

もう、タイトルだけでどんだけ危険な研究か、興味しんしんです。
どうも、科研費の報告書にのってるらしくて。
科研の報告書か……なかなか手にはいんないんですよね。あれ。
さっさと論文にしてください。

というわけで、タイトルだけで判断します。

「手書きの文字をかくと脳からナンタラカンタラという物質がながれでて、脳にいい! だからみんな、手で字をかけ!」

って研究でしょ。たぶん。
ちがったらすみません



川島隆太氏って、あれですか。

筆跡学脳トレの人ですかね。

鈴木慶子氏は書道教育の人っぽいですね。


もうー。
あのね、べつに脳を元気にさせるのに「手書き」は有効かもしれません。でも、それって「手書きで字を書く」にかぎったはなしじゃないでしょ。ほかの動作でもいい可能性なんか、いくらでもあるでしょう。
(そもそも、脳が元気じゃなきゃいかんのか、ってもんだいもありますよ)


でね、それと「書写・書道の存続」はべつの話ですからね。
「パソコンあるから書写いらなくね?」
っていうといかけにこたえるときにね、
「手書きで字を書くと脳にいいから、書写はつづけるべき!」
とか、そういう答え方はだめですよ。
そういう、科学のおすみつきをもらってはだめです。いみがありません。

「パソコンあるから書写いらなくね?」は、文化の問題です。
科学で答えをだしてはいけません。
ちゃんと、土俵のなかでやりましょう。まっこうからかまえたほうがいいですよ。けっきょく、書写・書道の将来のためにもね。

でね。
さいあく、「ああ、うん、いらないね」っていう結論に達するかもしれない、という、それはね、ちゃんと想定しておいたほうがいいですよ。
まあ、書字教育がいらない、ってことにはならないとはおもうので、けっきょくもんだいなのは書道趣味を消せないのか、っていう問いになるとおもいますが。
あ、書道趣味って、毛筆に象徴されるなにかです。書字教育に毛筆は要らないよ。

「(書道趣味は)ぜったいぜったいいるんだもん!」っていう前提で、「結論ありき」で話をすすめるから、いまの書写・書道がだいぶ迷走してるんだとおもう。


「書字教育」(字をかけるようになるための教育)

「書写教育」(字をかけるようにという建前でいながら書道趣味をおしつけてるなにかのなまえ)
を、分離可能なものとして、検討したほうがいいですよ。
そのうえで、「やっぱり書字教育に書道趣味はひつようだった!」っていう結論になるならね。それはそれでいいんですけど。(まあ、ならないでしょーね。あ、そーか。だから結論ありきで迷走っていうか、暴走するしか残されたみちはないのか。どうしてこうなっちゃったんだろう。もっと、どうにかできなかったんだろうか。これから、どうにかできないんだろうか)

posted by なかのまき at 22:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 書道教育

2010年07月08日

国語教育がたいへんなことになってるんじゃないかなー

書写のことをしらべていくうちに、もしかして書写より国語がたいへんなことになってないかしら。と。
というか、国語があんなにたいへんなことになってるから、書写があんなことになってるんじゃ……

『国語科教育実践・研究必携』(全国大学国語教育学会・学芸図書・2009)

176〜177ページ
授業提案

・日本語のすばらしいところ、ふしぎなところなどを取り出し、日本らしさ、日本人らしさを相互に確認することができる

・日本語の特性である「あいまい性」が、欠点でなく利点であること、日本人には大切なことであることに気付かせる試み

・「心ある」とは、「思慮・分別、思いやりがある、物事の情趣を解する」意であるが、「心を潜ませる」でもある。ことば自体に「心あり」とする前者での理解が一般である。ことばを使う人の心を潜ませている、使い手の心によって意味合いが字義通りとは限らないことを実感させる試み

・外国の児童に教える準備をする


えーと、あやしげなところだけ抜き出したのでだいぶあやしげなことにはなってます。


・日本語のすばらしいところ、ふしぎなところなどを取り出し、日本らしさ、日本人らしさを相互に確認することができる

わたしは日本語の「すばらしいところ」も「ふしぎなところ」もわかんないんですが、「日本らしさ」「日本人らしさ」って、日本語って、日本人のためだけにあるわけじゃないわけで。
「日本人らしさ」を日本語にもとめても。

・日本語の特性である「あいまい性」が、欠点でなく利点であること、日本人には大切なことであることに気付かせる試み


「あいまい性」が日本語の「特性」とは初耳ですが。「欠点でなく利点である」「日本人には大切なこと」ぜんぶ初耳ですが。

・「心ある」とは、「思慮・分別、思いやりがある、物事の情趣を解する」意であるが、「心を潜ませる」でもある。ことば自体に「心あり」とする前者での理解が一般である。ことばを使う人の心を潜ませている、使い手の心によって意味合いが字義通りとは限らないことを実感させる試み


すみません。ほんきで、これは何が書いてあるのかわかりません。


・外国の児童に教える準備をする


えー。日本人児童が外国の児童に教えるの?
これは大丈夫なの?

地域の日本語ボランティアという場でも、

杉原由美『日本語学習のエスノメソドロジー 言語的共生化の過程分析』(勁草書房・2010)


森本(2001)は地域日本語ボランティア教室のミーティングにおけるボランティア間の会話データを分析し、無自覚のうちに日本人ボランティアが「先生」になり外国人学習者が「生徒」となって微細な権力作用が働いている問題点を指摘した。(p.5)


っていう、問題があるのに。

日本人の児童に「先生」やらせて外国の児童に「生徒」やらせるの?
これ、だいぶきをつけないと、
日本語しゃべれない外国人には日本人は先生づらしていい、っていう、そういう考え方にむすびつきませんかね。
あまりいいとはおもわないな。


で、
「文法があいまいなのは日本語の特性」
って。
なんか、私の教室の学生さんもやたらというんですよ。
たとえばわたしが
「漢字って必要かなー?」
っていうと「あんたは日本語をわかってない!」みたいに激怒するのに、だいぶ日本語の文法にかんしては自虐的ですね。

こういう「日本語特殊論」って、
「にほんごは世界でも珍しい言語だよ」
「にほんごは特別なんだよ」
「にほんご動詞が最後にくる言語で、かわってるんだよ」
「にほんごの文法はあいまいで論理的にしゃべるのにはむいてないんだよ」
っていう根も葉もないおもいこみって、年上の人に特有のものかとおもってたけど、わりと、学生さんもテンプレ通りにいうんで、
ふしぎだなー、どこでそのへんな知識を仕込んでくるのかなー、
っておもってたんですが。

えーと、もしかして国語の先生?

うーん。
でも。これ、国語の先生だけじゃなく、日本語学の人にも問題あるんじゃないかなあ。
ある人がいってたんですが、

「日本語学で食ってるひとって、学校の国語科に寄生して食ってるくせに、それを認めたがらないひとが多いよね」

って。うん。私もそうおもいます。
もうちょっと国語科に関心をむけたほうがいいよ
posted by なかのまき at 09:24| Comment(2) | TrackBack(1) | 日記

2010年07月15日

宿題徳政令

ぜんこくの 宿題を まじめに やっていた みなさんえ

宿題やらなくても いちがっきは なつやすみまで がまんすれば。(せんせいに 「きょうも しゅくだい わすれて!」っておこられることを がまんすれば)

そこで たまった ぶんの しゅくだいは きえますよ。

せんせーは わすれますので りせっと できます。

しゅくだいを やらなかった わたしが ゆーんだから まちがい ありません。


というわけで、私は宿題をまじめにやっていたみなさんより、学生時代、夏休みの到来はうれしかったはずなのですが。

今年の夏休みのうれしさにはおとりますねー!
いやー。あとはテストさえ終わればなつやすみー。

あのね。
そのうち感覚がまひしてなんにも感じなくなると思うので、
今年のうちにかいておきます。

あんなに「学校がいやだいやだ」っておもってたのに、
いざじぶんがおしえる側にまわると、自分の用意した「正しい」答えに学生さんを誘導し、予定調和に授業をおえる、そんな、わたしがさんざんうけてきた「学校のやりかた」をしっかりなぞっていることに愕然とします。

あとは、授業の内容が内容なので
学生さんには罵倒コメントもらったりするのはそれは、そんなにつらくはないんですけど、(大学院の同期とくらべると学部の学生さんの罵倒はぜんぜんかわいい。きっちり反論コメントするといきなりなついてきたりするし)

こまるのは、私にとってうれしいことを書いてくれるコメントについても、「どーせいい成績もらいたくて私をよろこばせるようなコメントつけてるだけだろ」みたいなうすぎたないおもいが払えません。

これは、私が自分の学生時代に先生を嫌いだったから。じぶんが先生の側にまわったときに、学生さんが私を好きなはずがない、私の授業をまともにきいてるはずがない、ってそう思ってしまうんですよ。
これがつらい。

さいしょにあべやすしさんの論文をよんで書いたコメントと、最後の授業でかいてくれたコメントで、あきらかに考え方がうごいて、だから、私をよろこばせるためだけじゃなくて、じぶんでなっとくして書いてくれたんだ、ってそう思いたいんですけど。
わかんない。

ちゃんと、がっこうとなれあってこなかったつけが、ここでいっきにきてます。

いまは、おしえるの、すごくつらいです。
でも、そのうち麻痺して、なんも感じなくなるんだろうな……
というわけでいま、かいておきます。

んー。
なにがつらいのかな、とおもうと。

授業って、強制的に、学生さんに「私の土俵にあがれ、私の土俵で相撲をとれ」っていうことなんですよ。
それをしてもらわないと、成立しないんです。
おなじ非常勤やってる先輩が
「私は学生さんに自分でかんがえてほしいから、自分の考えはおしつけないようにしてる、学生さんに発言してもらうようにしてる」

っていってて、いや、わたしはそれはできないな。
と。
知識の量がちがうから。
どうしたって「おしつけ」ないとはじまらないわけで。
「おしつけ」をしないで「自由に発言」とかそういうことになると、「日本語の文法はあいまいで〜」「漢字には浪漫があるのでなくすのは暴挙です」「漢字が読めなくて困っても、いざとなれば努力をして読めるようになる、それが人間です」とかそういうことになっちゃって、そういうことまで、
「いっしょに意見をかわしてはなしあってみよう!私はじぶんの意見をおしつけないよ!」
とかそれで、ほんとうに「おしつけ」をやらないことが可能かっていうと、むりだとおもうので、「私の考えをおしつけない」みたいなことをいって、詐欺をしたくはないわけですよ。

なので、
「私は自分の考えをおしつける。それがいやならあなたたちは、私を攻撃して打ち負かせばいい」
みたいなことをいうわけです。
でも、それだって立派に詐欺なわけですよ。
しょせん、「私の土俵で相撲を取れ」っていう前提があるかぎり、学生さんは私には勝てないんですよ。

「あなたには私と勝負して勝つ機会を与えるよ」
なんて、ぜったい私がかつってわかってる試合で言ってもね。
詐欺くさいんですよね。

詐欺行為をはたらいているつらさ。
posted by なかのまき at 22:10| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

2010年07月21日

つるかめ算にさようなら

私立中学を受験した人とそうでない人をみわけるには、
「つるかめ算」ができるかどうか、
ということらしいです。
中学受験をしたひとにききました。

いや、「つるかめ算」てなんだよ、ってネットでしらべてみたら、
つるかめ算ににたことはたぶん、私も小学校でやったはずなのですね。リンゴが何個、ミカンが何個、っていうあれ系統の。

塾やなんかで体系的に「つるかめ算」として教わり、つるかめ算をやっているという自覚をもってやる層は、中学受験組らしいです。

で。
中学受験を経験した教室では、連立方程式のテストの時間に、注意事項として

「つるかめ算を用いて解かないこと」

って、注意書きがあるらしいですね。
なんだ。なんか、いろいろしらない世界があるな。
で、友達は
「つるかめ算でも解けるのに連立方程式を新しく覚え直さなきゃいけないのが苦痛で数学がきらいになった」
と言ってまして。
えー。

でも、たしかに、その友達は「つるかめ算」によって中学受験に成功してるわけで、「つるかめ算」は、りっぱな資財なわけですよ。
それなのに中学はいったとたんに「はい、つるかめ算はダメです。今日からは連立方程式」
とかつるかめ算を全否定されたら、それはたしかに、抵抗感があるかもしれません。
すみません。ただの憶測です。

うん。中学受験に勝つためには、つるかめ算が必要かもしれない。でも、つるかめ算の記憶にしがみつくあまり、連立方程式にいけなくなってしまうんだったら、塾になんかいかない方がいいとおもうし、中学受験に勝たない方がいいとおもうんです。
いったいなんのためのつるかめ算なのか。

いくらつるかめ算に成功しようとも
つるかめ算のむこうに、連立方程式があることを知って、いつかつるかめ算にさようならしなければいけないとも、知らなければならない。



えーと、なんの話かというと。

このあいだコメントで

「日本語学は、国語科の先生と連携をとったほうがいいですね。」

みたいなことを書いたけど、
しょうじき、無理じゃないか?
と。

なにかというと、漢字の話なんです。

こどもにとって、漢字の習得はかなり苦痛で。
でも、その苦痛にたえることを納得してもらうために、
国語の先生は
「日本語は漢字仮名交じりでないとかけない」
「漢字があると速読にやくだつ」
「漢字があるからわかりやすい」
「漢字は日本語の文化で大切なもの、たいせつにしなければいけないもの」
「漢字はおもしろい」
みたいなことを言って、こどもを漢字練習にかりたてるわけですよ。
もちろん上の説に、根拠はないんですよ。

で、何割かはその洗脳に成功して、漢字の習得に成功するわけですよ。
で、私の教室にくる学生さんは、その成功した人々なわけです。
で、その学生さんは、国語の先生になったりするんです。

そんな学生さんが、大学の教室で、せんせえに
「漢字なんか必要ってわけじゃない」
みたいなこといわれたら、そりゃ、
「ふざけんなきさま!」
ってなりますよね。
漢字の習得にかけたなんぜんじかんという時間と、手間。
ぜんぶ「はい、いみないー」っていわれたみたいな。
それはね。
「はい、つるかめ算はダメです。今日から連立方程式ね」
っていわれたときの、それの何倍もの。
つらさだろうな。
つらいよな。

でも、それって、私が悪いわけじゃなく、私を攻撃する学生さんだって被害者なわけで。
学校の国語科の先生は、嘘をつかないでほしい。
「日本語は漢字仮名交じり文でかくのがあたりまえ」
「漢字は日本語にぜったいぜったい必要なんだから、漢字が書けない人は恥ずかしい!」
みたいなことを、いわないでほしい。
それは、嘘なので。

でも、それをいわないと、きっと国語の時間って、なりたたない。
「漢字はぜったいに必要なんだもん」
っていわないと、あの何千時間が、耐えられないよね。
お互いに。

だから、私は国語科の先生と敵対はできても、提携はできないんじゃないかな。
私の声を、国語の先生や、国語の授業をうけてる人々に届けられる気がしない。


つるかめ算にしがみつく中学一年生をわらうことは簡単だね。
でも、じゃあ

漢字不可欠論にさようなら

できるの?
posted by なかのまき at 22:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2010年07月23日

文化審議会答申がひどい

2010年7月刊の『文化庁月報』7(No.502)にかいてあったことがすごかったのでしょうかいします。



文化部国語科「特集1 文化審議会答申「改定常用漢字表」pp.12-16

情報機器による文書作成が主流となると、手書きは不要になるのではないかという声を聞くこともあります。しかし、手で書くという行為そのものは、視覚、触覚、運動感覚など様々な感覚が複合する形でかかわり、脳の活性化にもつながるもので、漢字習得に極めて有効なものです。さらには、情報機器で示される変換候補の中から適切なものを選択する能力も、手書きで身につけた種々の感覚がその基になっています。また、手書きの機会は今後もなくなることは考えられず、手で書いた文字に書き手の個性を認めることも少なくありません。このように、手書きの価値というのは、情報機器が普及した時代においても失われるものではありません。(p.13)



「手で書くという行為そのものは、視覚、触覚、運動感覚など様々な感覚が複合する形でかかわり、脳の活性化にもつながるもの」

このへんはちょっと前の脳ブームのしっぽをひきずってるにしてもだめですね。
「脳の活性化」は「パソコンあるから手書きしなくていいんじゃない?」の答えになってないからね。
あと、まともに検証すればきっと「脳の活性化に手書きかんけいなかったわ」っていうことになるとおもいますよ。あと、「脳の活性化とか、けっきょくどうでもよかったわ」ってことにもなるでしょうね。「脳の活性化」ってなに?って、だいたいそこからあやしいですもの。
で、そうなったときに、どうするの?ってはなしですね。


「情報機器で示される変換候補の中から適切なものを選択する能力も、手書きで身につけた種々の感覚がその基になっています」
これは本当ですかね。
手書きで漢字がいっぱい書けるひとほど誤変換しないってことですよね。
これは実験できるとおもうので、実験してうらづけをとってデータを出してほしいですね。どうせ思いつきでいってるだけなんでしょうけど。


「また、手書きの機会は今後もなくなることは考えられず、手で書いた文字に書き手の個性を認めることも少なくありません。」

左手書字者が「パンがなければお菓子をたべればいいじゃない」みたいなノリで、「左手で字が書きにくいならパソコンでかけばいいじゃない」って言い捨てられてることをかんがえれば、
「手書きの機会は今後もなくなることは考えられず」なんてただの暴言です。ひどいな。

「手で書いた文字に書き手の個性を認めることも少なくありません。」

これは、筆跡の個性のことかもしれませんけど。もしかして筆跡学のことを指してるのでしょうか。
「手書きの文字でその人の性格がわかる」っていう。
筆跡学は占い以外のことにはつかわないようにしましょうね。

で、これのもとになってるのが

文化庁のサイトにのってるのですが。

文化審議会第2回総会(第39回)議事録

議題が

(1) 「敬語に関する具体的な指針の作成」及び
「情報化時代に対応する漢字政策の在り方」について諮問
(2) その他

です。


『文化庁月報』に書いてあることもかなりわけがわからないのですが、こっちの議事録がものすごく、すごい。
たとえば、


○上原委員 ということですので,その趣旨(引用注:当用漢字表の趣旨)は時代が変わっても変わらないものではないかと思います。その当時だったか,日本人が漢字を覚えるために費やす能力にはたいへん大きいものがあるので,できるだけ国際競争力をつけるためにも,そのように覚えたりする分量を少なくするべきではないかという議論が随分あったように覚えております。今後の改正にしても,そういう部分に対する配慮は当然なされておくべきではないかというのが意見です。


これにたいして、

○岡田委員 今の上原委員の御意見は,漢字をたくさん覚えない方がいいという,覚えるエネルギーは削いだ方がいいという御意見ですか。

○上原委員 いえ,常用漢字として国が定めるものの数が多くなって,それが教育の現場に持ち込まれていくということに対する懸念です。


というやりとりがあり、

○岡田委員 私は逆だと思います。漢字をたくさん覚えるということは,それだけ記憶の回線がいっぱいつながっていくことになり,頭脳の訓練にもなります。私など子供のころには,朝学校に行くと5分間の豆テストがあったので,毎日毎日漢字を覚えました。それを覚えたためにほかのことを覚えたり,考えたりすることのマイナスになったとは全然思っておりません。むしろたくさん漢字を覚えたことが現在の私にプラスになっていると思っています。
 そのようにみんなが努力することを減らしていくことを,ここの場で提唱するのはいかがなものかと思います。


この発言がすごい。
漢字を覚える手間はわりにあわないんじゃないか、みたいな議論はけっこう、昔からずーっとあるものであって、目新しい意見でもなんでもないのにもかかわらず、
「ここの場で提唱するのはいかがなものかと思います」
ってのはなに。「ここの場」ってなに。「いかがなものかと思います」って言論統制しようとするのはなぜ。
むしろ、そこがかなりメインのテーマだとおもうのに。その議題をもちだすことさえ、「いかがなものかと思います」なのか。
じゃあいったいなにをはなせばいいの?
そのちょっとあとで、前田富祺氏がこういってます。


○前田委員
(略)
 そして,漢字を廃止する方向に持っていこうという考え方は消えたと私は考えています。そのようにその時代の言語生活とかかわっていて,しかも前の時代の文化を受け継ぎながらというところがなかなか難しい問題かと思います。


あ、やっぱりそこは触れちゃいけないテーマなんですね。


で、さっきの岡田氏の発言の直後に手書き信仰発言が。

○阿刀田会長 その問題は,手書きの問題とも絡んでいて,脳生理学的にも手書きの訓練が,漢字をただ覚えるということだけではなく,脳そのものの発達にも大変大きな影響があることも分科会では言われています。そのあたりの両方のどの辺をとるかということですが,少なくとも今の分科会では,ただ簡略化すればいい,便利ならいいという方向には向かっていません。やはり漢字をきちんと,特に手書きを通して習得していくことには,むしろ今岡田委員がおっしゃったような意味合いがあるのではないかと言われているところです。両委員の意見をしっかり承って今後進めていきたいと思います。


この発言につっこみがはいります。

○石井委員 手で書いて覚えることが脳の発達にプラスになる。これは私,何かわかるような気がしますが,それは漢字を書くということに限定された問題なのか,あるいは漢字自体に特有な効果があるものなのか,あるいはそれ以外のことはどうかかわってくるのか,その辺りを何か御存じの方があったら御披瀝いただきたいと思います。


で、答えが

○阿刀田会長 今まで国語分科会で伺っていることは主として漢字についてのものです。漢字を書くことによる脳の発達と,例えば絵を描くこととそれとのかかわりとなると,両者は少し違う気がします。漢字はその成り立ちからして,六書など文化的な背景に支えられていますので,一字書くごとに,書き手が文化と出会っていく様な要素もあるような話を伺ったりしています。(略)


強調は引用者です。
「〜気がします」「あるような話を伺ったりしています」か。
個人が思いつきと思い込みで言いたい放題信念をかたるのが「文化審議会」とやらですか。

あと、すごいのがこれ。


○青木委員 インド人のIT技術者に以前伺ったのですが,インドではどうしてIT技術に非常にうまく適応できてその才能を伸ばせたのかというと,サンスクリットの言語構造とコンピュータの構造が非常に似ていることがあるということでした。インドというのは,ゼロを発見したところで,MITそのほかのアメリカの大学にもインド人の数学者が非常にたくさんいる。


「サンスクリットの言語構造とコンピュータの構造が非常に似ていることがあるということでした」
って、これはだいじょうぶですか?
もういちどいうけど、個人が思いつきと思い込みで言いたい放題信念をかたるのが「文化審議会」とやらですか。


けなしてばかりではなんですので、

○石井委員
(略)
 例えば,書くことと,あるいは書けるということと,読めるということ,これは別のことです。殊にワープロのようなものが出てきた場合には,書くということについても,実は二つのことを考えなければならない。手で書けるか,機械を使えば書けるか,私も瞬間忘れてしまい,ワープロを打たないと出てこないということがあるので,やはりそういう区別をしないと,何字教えるとか何とかと言っても,やはりそこは一様には扱えないことではないか。あるいは,文字を書くということについても,これは脳の発達にプラスになるらしいということは伺いましたが,それは思考能力を鍛えることに直接関係があるのか,文化的な発想を理解することに役に立つのか,これは私にもまだわからない。漢字のない文化圏で,あの人たちがアルファベットだけ書いていて,じゃあ思考能力が低いかといったらそんなことはない。つまり,もしかすると漢字を書くことを覚えることによって,思考能力といっても,違う性質の思考を育てているのかもしれない。


これは、わりとまっとうなことをいってます。
「漢字のない文化圏で,あの人たちがアルファベットだけ書いていて,じゃあ思考能力が低いかといったらそんなことはない。」
「文字を書くということについても,これは脳の発達にプラスになるらしいということは伺いましたが,それは思考能力を鍛えることに直接関係があるのか,文化的な発想を理解することに役に立つのか,これは私にもまだわからない。」
「まっとう」というか、ほかの発言がたいへんすぎて、あたりまえのことをわざわざいわなければいけない状況になってる。
というかんじか。

で、登場人物については、
文化審議会委員名簿

こちらからみられます。

こんかいとりあげた発言者は

阿刀田 高氏(小説家)
岡田 冨美子氏(作詞家,(社)日本音楽著作権協会理事)
前田 富祺氏(神戸女子大学教授)
青木 保氏(政策研究大学院大学教授)
石井 紫郎氏(東京大学名誉教授)

posted by なかのまき at 23:43| Comment(0) | TrackBack(1) | 日記

2010年07月31日

努力という魔法の言葉

先生をやってるひとと話をして、
「書写書道いらないよね」
って話をしたら、
「でも、書写がなくなったら書道が得意な人が悲しがるとおもうよ。それに、書道がなくなると字を丁寧にかく努力をしなくなるとおもう。努力をしたひとがむくわれるような世の中のほうがいいとおもう」
っていわれて。
どうしてこう、私を怒らせるつぼをつくのがうまいんだろうなあ。

「努力をしたひとがむくわれるような世の中」
って。
そのために左手書字者にありえないくらいの負担をかけていいのですかね。

というかね。
まえまえから、せんせえっていう立場の人たちとしゃべっててきになるのが、
「努力」ていうことばを、できない人をきりすてるための免罪符にしていいのか、というのがすごくきになっていて。

できない人=努力してない人

ってわけじゃないし。なにより

努力してない人=切り捨ててかまわない人

でいいのか。
「できないからこそ、人一倍努力しなければいけないのよ!」
ってよくいわれたけど。
なんで?

左手書字者と書写っていうのはものすごく、わかりやすく左手書字者が書写教育の被害者なので、わかりやすいのですが。
このものすごくわかりやすい構造の教育差別でさえ、わりとひどい状況のまま放置されてるのに。
上に書いた学校の先生の意識はこのわかりやすい不公平にたいしても、こんなに鈍重でいられるわけで。

でも、左手書字と書写って、あらゆる学校の中の不公平のなかではきわだって、例外的に、めに見えやすい不公平なんですよね。
見えにくい不公平がもっともっとたくさんあって。

学校の成績って、
本人の努力いぜんに、
保護者の階級と財力と教養とかにものすごく左右されるんだよな。
あと手書き文字偏重を義務教育でつづけるなら利き手。
あとは、私の友達で右足が悪くていつも体育の成績が悪い人がいた。
ある程度の競技はできなくもないけど、マラソンとかはできないの。
その人には5段階評価の「5」を無条件でつけるべきでしょうね。
入学させておきながらその人のからだの都合を無視したカリキュラムを組んでるんだから。
単位すれすれの2とかつけてるんじゃないよ。


それでね。
できない人にむかって
「あなたはできないんだから人一倍どりょくしなければいけないのよ」
って、そのひとの成績を、ぜんぶ努力と因果づけてね。
「できないのはおまえが努力しなかったからだ。努力してないおまえがわるい」
っていってね。
悪い成績によってそのひとがうける社会的な不利益を「ぜんぶどりょくしなかった自分のせいだ」って納得させるための場所になってるわけで。

「もっとがんばってね」
っていいながら、100点満点中30点の漢字テストを一学期中になんどもなんどもわたされつづけてた私にとって、「もっとがんばってね」って、「おまえはクズだ」っていわれるのと、そんなかわらないんですよね。

先生にとっては、「もっとがんばってね」と「おまえはクズだ」は大違いっていう意識でしょうけど、打ちのめされて、絶望してるこどもにとっては、どっちも同じなんですよね。


posted by なかのまき at 11:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記