2010年08月01日

すみません

このブログ、間借りをしてるのですが。
ちょっと手違いがあって関係ない記事がアップされてしまったようです。
すみませんでした。
posted by なかのまき at 23:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2010年08月03日

言語学ってなに?

竹鼻圭子『しなやかな組織としてのことば』(英宝社・2009)
から引用します。

4章 文字と記号表象

1 視覚的表象としての文字とことば

1.視覚記号と音声記号

 フランス象徴派の詩人が,西欧の文字が象徴的意味をもたないということを指して「西欧言語の致命的欠陥」と指摘して一世紀になる.直感的には大方の賛同する言説であると思われる.(p.183)


こんなふうに始まります。
フランス象徴派の詩人が西欧の文字が象徴的意味を持たないということを指して「西欧言語の致命的欠陥」と指摘したことは、まあ(どうでも)いいですけど。もんだいは、「直感的には大方の賛同する言説であると思われる」っていうところが。
まず、私は賛同しないですね。

「大方の賛同」って、たぶん、印欧言語をしゃべってるひとの多くは「致命的欠陥」って思ってないとおもうし。
日本に多く漢字不可欠論者がいることをかんがえると、日本に限定すれば、まだわからないでもないけど。
それにしたって「致命的欠陥」って、だいぶ強いことばなので。西欧言語に致命的欠陥があるっていう説にそんなにほいほい賛同できるひとって、そんなにいないとおもうんだけど、そうでもないのかな。
大方は、西欧言語に致命的欠陥があるとはいわないとおもうけど。直感的には。

で、「直感的には大方の賛同する言説であると思われる」のところですが、直感は直感でいいんですけど、
それに関しては言語学の研究が積み重ねられてるわけで。
わざわざ直感なんていう危険なものにたよらないで、先行文献を読めばいいだけなのでは。
と私は読んで思ったけど、続きはこうでした。

しかし,現代の言語学はこのことについて説明してこなかった.統語論や意味論がもっぱらの関心事であったから,いたしかたのないことではある.

え?
現代の言語学で研究されてないの?

象徴的意味をもつ文字ってのは、
漢字のことでしょうが。

漢字については
DeFrancis,J.とかJ.Marshall Ungerとかの著書があるはずですが、これは言語学じゃないのかな。
それとも、私のしらないべつの言語学っていうのがあるのかしら。そうかもしれないな。統語論とか意味論だけをやってる集団のことを指して狭義の言語学とかいうのかな。いや。まさか。
でも、なんか私のしってる言語学とはべつの言語学を指してるような気もします。わからない。
ひきつづき引用します。


視覚記号が音声言語を表象することに特化されたものが文字である。この特色はSchmandt(1997)で詳しく考察されているように、西欧の文字に著しい。一方で,東洋の漢字文化圏にあっては,一応の音声との対応があるとは言え,実質上,文字が音声を経ずに直接象徴的意味を伝達することがしばしばである.このことは万葉仮名,墨蹟などの例に明らかであるが,この点を明示的に示すことが本稿の第一の目的である。


「一方で,東洋の漢字文化圏にあっては,一応の音声との対応があるとは言え,実質上,文字が音声を経ずに直接象徴的意味を伝達することがしばしばである.」
これは、漢字についての(私の知ってる)言語学の先行研究の結果とあいいれない主張ですね。
あと、万葉仮名と墨跡のあたりをよんだのですが、なぜ万葉仮名と墨跡をとりたててとりあつかうことが必要だったのかちょっとよくわからなかったです。あと、墨蹟ってなんですか。

まあ、ともあれ。
「西欧の文字が象徴的意味をもたないということが「西欧言語の致命的欠陥」であるとしたフランス象徴派の詩人の指摘には、現代の言語学の文字研究の成果から判断する限り、わたしは賛同しません。
posted by なかのまき at 01:22| Comment(3) | TrackBack(0) | 文字のこと

文字論研究の紹介

前回の記事
「西欧の文字が象徴的意味をもたないということが「西欧言語の致命的欠陥」であるとしたフランス象徴派の詩人の指摘には、現代の言語学の文字研究の成果から判断する限り、わたしは賛同しません。


の根拠をしめさないまま終わってたのがきもちわるかったんで。
論文紹介します。

山田尚勇(1991)『文字論の科学的検証』「学術情報センター紀要」4、pp.261-318


この論文は私の授業でも学生さんによんでもらおうかとおもってたのだけど、時間のつごうでできなかったんですが。
これは、言語学の文字についての研究を紹介するときに、とてもいい論文です。理由は、

日本語で書いてある
CiNiiからPDFで読める
先行研究がまとまってる
よみやすい

要旨を引用します

我々は主として漢字かな混じり文を使いなれているために、自分が漢字に対して持っている先入観を基にした、科学的裏付けのない議論をもって、文字に関する普遍的真理と信じていることがかなりある。本稿においては、言語学、心理物理学、認知科学、脳科学などの観点から、講演形式を用いて、文字に関するそうした種々の主張を一つ一つ解明してゆく。


で、前回かいた

「一方で,東洋の漢字文化圏にあっては,一応の音声との対応があるとは言え,実質上,文字が音声を経ずに直接象徴的意味を伝達することがしばしばである.」
これは、漢字についての(私の知ってる)言語学の先行研究の結果とあいいれない主張ですね。

この私の発言の根拠は、この論文をよむとかいてあります。

中国語学会の長老、ハワイ大学のデフランシス教授が詳しく指摘なさっていらっしゃるように、(たとえばDeFrancis 1984)、全体として見れば、漢字は不完全ながらも表音表記体系として発展した文字ですから、発音が同じ文字は昔からお互いにかなり混用されてきたようです。しかも常に簡略化の圧力に動かされた変更も伴ってきたのです。(p.267)


「漢字は表意文字だ」っていうことだけがむやみにとりたてられてますけど、それは迷信で、言語学的に調査してみたら、漢字っていう文字だって基本は音なんだ、ってそれはわかってるんです。
日本語の漢字のばあいは訓読みってのがあるのでまたややこしいんですけど。

だから、「一方で,東洋の漢字文化圏にあっては,一応の音声との対応があるとは言え,実質上,文字が音声を経ずに直接象徴的意味を伝達することがしばしばである.」
っていうのは、文字学の先行研究をふまえずに、「漢字は表意文字だ」という素朴な迷信にとらわれたためにおこった主張でしょう。

山田氏の論文にもどります。このあと、
「漢字は見れば意味がわかるので筆談ができてよい」とか「漢字があると早く読むのにやくにたつ」「漢字がないと同音異義語をくべつできない」とか、そういう説にたいして、先行研究を紹介してそれらの説が科学的根拠のない迷信であることが指摘されてます。

さいごに、山田氏はこうのべてます。

漢字発生のごく初期に造られた、「日、木、山、川」などの数少ない象形文字を例に挙げて漢字の「表意性」を説くという、幼稚園児向きの話を全体に及ぼすナイーブな漢字論や、漢字はアルファベットよるも速く読めるといった、個人の経験から出る主観を文字の客観的特性と誤認している、独断的文字論が世に氾濫し、またそれに満足している人びとが多いということは、真に使い勝手のよい日本語の表記法を考える上では、大いに問題だと思います。もっと科学的、客観的な文字論を展開するだけの知見の蓄積は、もう十分に整っていることですから、今後の研究に期待したいと思います。(p.314)


だいたい、ちゃんと文字の研究してる人なら、これと似たようなことをいってるとおもう。だから、私は言語学の研究成果をふまえると、このあたりが妥当なんだろうな、と理解してます。

それで、私がけっきょくなにがいいたかったのかというと、
言語学者や日本語学者にも、「個人の経験から出る主観を文字の客観的特性と誤認している、独断的文字論」を文章にして学術書として出してる人もいるわけで。
しかも、けっこう多い。

言語学の文字研究の成果が、文字学以外を専攻する言語学や日本語学の専門家からもないがしろにされている面というのは、たしかにあるかもしれません。



posted by なかのまき at 11:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 文字のこと

2010年08月05日

手書きで字を書く自由と手書きで字をかかない自由

ことしの正月、地元の友達が実家にかえったついでに私の家に遊びにきて、ふたりで鍋をしながらなんか話をしてたんですが、
「部屋を掃除してたら、高校生のときに、違う学校の女の子からもらった手紙がでてきた」
って、その手紙をみせてもらったんですけど。
授業中にかいたっていう、ルーズリーフに鉛筆でだらだら書かれたけだるい手紙が、ものすごく「ああ。高校生ってこうだったよな」っていうなつかしさもありつつ。
授業中にかいた手紙に、後日切手をはってわざわざ郵便で出すわけでしょ。
授業中に思い出してもらえて、しかも手紙をかいてもらって、わざわざ郵送してくれるわけですよ。
「うらやましい。女子高生に手紙もらうなんて」
「うん。当時の自分、今考えるとうらやましすぎる。女子高生に手紙もらってるなんて」
と、二人でひどい会話をしていたのですが。

あれなんですよね。
そもそも高校生のときには、手紙の主が女子高生であるかどうかは、かなりどうでもいいよね。
だってじぶんのまわりは女子高生だらけだったわけだし。
女子高生がどうしたとか、そうじゃなくて、誰が手紙を書いてくれたのかが、問題なわけなんで。

それを、いい大人が二人でね、あの頃の思い出を「女子高生に手紙をもらってうらやましい」とかなっちゃってるのは、かなりおかしいわけですよ。

つまり、高校生のころはなんでもなかった女子高生が、おとなになって女子高生とふれあえなくなると、女子高生がへんにファンタジーな存在になってしまうんですよ。
「やっぱり女子高生はいいな。20歳すぎなんかババアだ」みたいな。

それで。
あれなんですよ。
話がかわりますけど。
「手書きの手紙は心がこもってる」
とかいうのは、
それは、
「女子高生から手紙をもらうとうれしい」
っていうのとおなじくらいのおかしさなわけで。
「手書きかどうか」「女子高生かどうか」って、なんかへんなものをみてるわけで。
それよりは、手紙を書いてくれたのは誰で、何が書いてあるかが大切なんですよね。

手書きゆえに心がこもった手紙

なんて

女子高生ゆえに価値の高い女

くらいに意味不明なたわごとなわけで。
手書きかどうか、女子高生かどうかはほんっとうに、どうでもいいわけで。
それでね、どうでもいいんだから、手書きでも女子高生でもべつにいいんですよ。
だから、「あなたは手書きがきらいなんですよね。だったら、あなたあての手紙は手書きで書かない方がいいですか?」ってきかれたことあるけど、それもちがう。そんな変な気のつかいかたはしなくてよいとおもいます。

手書きの手紙がきらいなわけではなく、
手書きの手紙を無条件に手書きじゃない手紙より上にもってくるような考え方がきらいなだけで。

だからね、女子高生から手紙もらうのも、手書きの手紙をもらうのも、もちろん、きらいではないですよ。

じっさい、このあいだネットでしりあった人に「メールじゃなくて手書きで手紙かきたいんですけどいいですか?」っていわれて、「いいですよ〜」っていって、手書きの手紙をありがたく受け取りました。返事はメールで出しましたけどね。
で、相手の方も「私は手書きでこころをこめてかいたのにメールなんかで返事して!」みたいなわけのわからんことはいいませんよ。もちろん。
私はパソコンで文章かくほうが好きで、その人はたぶん、手書きでかくのが好きで、べつにどっちにも優劣がなくて、連絡をとりあうのがたのしいわけですからね。
そういう体験をすれば、「手書きの手紙には心がこもってる。(手書きじゃない手紙には心がこもってない)」って、ほんとうにへんな考え方だとしか思えないわけです。

だから、
手書きの方が性にあってる、っていうひとは、もちろん、手書きで手紙をくれると、それはそれで私はうれしいわけですよ。

「手書きで書いたんだからその努力を認めろ」とか「手書きで書いたんだからメールより価値は上だ」とか「手書きで書いたんだからおまえも返事は手書きで書け」とかわけのわからんことをいわれないかぎりは。

「手紙は必ず手書きでかけ」っていわれるのは、いやだから、もちろん私だって、「私あての手紙は必ずパソコンで書け」なんて、いいたくないですね。
だから、手書きが好きな人はいっぱい、手書きで手紙をかけばいいんじゃないですかね。
ただし、私は返事はメールでかきますけどね。

あたりまえのことなんだけど、手書き手紙とメールの間に価値の差をつくらないかぎり、私は、手書きで手紙を書きたいという人の意志を尊重したいです。


posted by なかのまき at 23:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2010年08月09日

言語と方言

あんまり、ふつーの人が見る機会はないとおもうのですが、
たまたま見せられて、「なんだこれ」って思ったので。
紹介します。

『大学共同利用機関法人 人間文化研究機構要覧 2010』
というパンフレットをみせてもらって。

その、「国立国語研究所」のところに
「消滅危機方言」という語がありました。


「消滅危機方言」の研究
ユネスコは世界各地における消滅危機言語を発表し、日本に関しては8つの言語(方言)が消滅危機と認定されています。これらの世界的に貴重・希少な日本語諸方言を集中的に記録・保存し、先端的な理論研究によって分析することで、世界規模で展開されている危機言語研究に貢献するとともに、それら諸方言が用いられている地域社会の活性化にも寄与します。文化庁が計画する危機的な状況にある言語・方言の実態に関する調査研究事業に協力していきます。(p.27)



これ、すごい文章なんですよ。

「ユネスコが消滅危機言語を発表」
「日本に関しては8つの言語(方言)が消滅危機と認定」
「これらの世界的に貴重・希少な日本語諸方言を集中的に記録・保存」

ということで。

言語→言語(方言)→日本語諸方言

と、どんどん、話が「言語」から「方言」にすりかわっていっているわけなんですよ。

で、最終的にユネスコの「消滅危機言語」と国語研究所の「消滅危機方言」って、なんか関係あるの?

言語を方言におきかえて通用する問題ではないし、国語研のこの文章、あきらかにわかっててやってるとおもうんですが。
(だって、国語研にいるような方言の研究者が言語と方言を無防備に混同するなんてことは、どうかんがえてもありえない)

国語研でやってるのは「方言」なわけですよね。ユネスコの「消滅危機言語」と関連づけようとするのは、それは木で竹をつぐようなものじゃないですか。
ユネスコを引き合いに出すなら、「方言」じゃなく「言語」の線でいかないと、わけがわからなくなりませんかね。

なぜ国語研はわざわざ「言語」を「方言」にすりかえをおこなうひつようがあるのでしょう。

……うーん。
アイヌ語を切るためかな。

ユネスコ発表の日本の消滅危機言語は

アイヌ語・八丈語・奄美語・国頭語・沖縄語・宮古語・八重山語・与那国語の8言語ですね。


それにたいして、国語研発表の「消滅危機方言」は国語研のサイトから見られます。

消滅危機方言の調査・保存のための総合的研究


•奄美方言:中島由美(一橋大),松本泰丈ほか
•沖縄方言:狩俣繁久(琉球大),ウェイン・ローレンス(オークランド大学)ほか
•宮古方言:田窪行則(京都大),久保智之(九州大),下地理則(群馬県立女子大)ほか
•八重山方言・与那国方言:金田章宏(千葉大),狩俣繁久(琉球大)ほか
•八丈方言:金田章宏(千葉大),大西拓一郎(国立国語研究所),新田哲夫(金沢大)ほか
•アクセント:松森晶子(日本女子大/国立国語研究所客員),上野善道(東京大/国立国語研究所客員)ほか
•方言の社会的機能:ダニエル・ロング(首都大学東京)ほか



とあります。わりかしユネスコとかぶりますね。
ただ、アイヌ語がない。

それで、よくわからないのが、国語研のサイトの、このページに、

研究の土台となるのは,宮岡伯人を代表とする科研費特定領域研究「環太平洋の「危機に瀕した言語」にかんする緊急調査研究」(1999年度〜2003年度)である。本プロジェクトの主要メンバーは,すでにこの特定領域研究に参加している。


とかいてあって、この科研費ではアイヌ語のこともとりあげてますね。というか、日本国内の言語にもかぎってないわけで。

これをみるにつけても、なぜわざわざ国語研は「消滅危機方言」っていういいまわしをつかわなければいけないんだろう。
ちょっとよくわからないな。



posted by なかのまき at 23:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2010年08月18日

格差拡大という幻想という妄想

大渕憲一・佐藤弘夫・三浦秀一(2009)「現代日本人の価値観と伝統的思想:仏教、儒教、神道・国学の思想内容と調査項目の作成」『東北大学文学研究科研究年報』58 pp.180-163


マスコミや政治家は格差拡大を自明のことのように論じるが、専門家の間ではそれが事実かどうかについては意見がわかれている。橘木(1998)は、1990年代に世帯の所得差が開いたことを指摘して、格差は実際に拡大してきたと主張した。たしかに、国民の間の所得格差を示すジニ係数は、我が国の場合1990年代に上昇し、現在、国際的にも高い水準にある。しかし、これに対して大竹(2005)は、こうしたジニ係数の上昇は、高齢者世代に単身世帯が増えたことによる「見かけ上」のもので、格差拡大は「幻想」であると反論した。(p.180)


おおっ。
格差拡大は「幻想」であったのか!
私も、素人の直感として格差はあるし、これからどんどん状況がひどくなりそうだな、と素朴に感じていたけど、それはもしかして私がマスコミにおどらされた結果の「幻想」であったのか!

……そうだったらいいですね。いや。幻想だったらどんなにいいでしょうね。
なんて心惹かれる論文でしょう。

それはともかく。こう続きます。

一方、一般市民を対象にした世論調査結果を見ると、多くの市民が、現代の日本では格差が拡大していると感じている。(大竹、2005)。専門家が指摘するように、格差拡大は必ずしも実態ではないのかもしれないし、生じているとしても部分的あるいは一面的なのかもしれないが、しかし、多くの国民は格差が拡大していると感じている理由、あるいは、部分的な現象に敏感に反応すると言うことの意味を考える必要がある。我々は、それは日本人の間に強い平等志向があるためではないかと解釈している(大渕、2008)


格差は拡大しているというのは政治家やマスコミの吹聴する「幻想」かもしれないし、一部分でしかないかもしれないにもかかわらず、みんなが敏感に反応するのは、それは日本人に強い平等志向があるためである。

という仮説のもとに書かれた論文です。
日本人が、ごく一部の格差拡大に過敏反応してるだけ。なんで過敏に反応しちゃうかってのは、日本人に平等志向があるから。

乱暴にまとめるとこういうことでいいんですかね。

で。専門学校出て正社員手取り12万ではたらかされて過労働で身体こわした私の友達とかは、「部分的あるいは一面的」な格差の結果うまれた特殊なケースなんですね。しょせん、格差なんか幻想なんですね。
こういう文章をかける大学のせんせえのセンスは腹が立つな。

まあ。それはそれとして。
論文一本かくのに、それなりに手間とひまと金がかかるわけで。
それに論文の質と量がそのまま業績なわけで。一本でも多く、意味のある論文を書かないとかなりしんどい人生になりますね。研究者は。
(いや、いい論文いっぱい書いててもしんどい研究者ってのもごろごろいますけど)

で。この紹介した論文は、

【もし】格差拡大が幻想【だったら】、日本人がありもしない格差拡大に過敏反応するのはそれは日本人が平等志向を持っているからである

という仮説のもとに行われた研究なわけで。そう書いてあると思うんですが。

「専門家が指摘するように、格差拡大は必ずしも実態ではないのかもしれないし、生じているとしても部分的あるいは一面的なのかもしれないが、しかし、多くの国民は格差が拡大していると感じている理由、あるいは、部分的な現象に敏感に反応すると言うことの意味を考える必要がある。」

って、そういうことだよね。
わたしだったら、こんなリスクのたかい研究はやらない。
だって
もし格差拡大が「幻想」じゃなくて「現実」だったとしたら、この論文クズになるでしょ。ゴミ論文になるわけですよ。
幻想だとしたら、検討する価値はあるかもしれませんけどね。
現実だったら、まず最初の条件が崩れるわけですから。
過敏反応じゃなく、現実をみすえた妥当な反応でした、ってことになるでしょう。

こんな研究、危なくて手を出せません。
多くの人が直感的に「格差は拡大している」っておもってるんだから、それをくつがえすような仮説をたてるんだったら、かなり論拠を説明する必要があるとおもうんだけど。
私だったらそうします。先行研究をがっつり読んで格差が幻想か現実かをちゃんと検討します。
検討したうえで、「幻想だな」ってかなり確かに見通しがたてられなかったら、この研究にはふみきりません。手間と暇と金をドブに捨てる可能性がこわいので。
(いや、「研究の結果、わからないということがわかった」というような研究に意味がないとはおもいません。ただ、この場合はそういうレベルではなく、前提が崩れると研究の結果がただのゴミになる)

で、論文にするときも、ちょろっと書名を紹介するだけではなく、「格差拡大は幻想である」と思った理由を1章くらいつかって書きます。だって、そうしないと、人にまともに読んでもらえないんじゃないかっておもうので。

だって大竹(2005)を紹介されても。


大竹(2005)は、こうしたジニ係数の上昇は、高齢者世代に単身世帯が増えたことによる「見かけ上」のもので、格差拡大は「幻想」であると反論した。


こんな乱暴な書き方されたら、
「大竹(2005)って、トンデモ本かなー」
って思うだけですよ。というか、私はトンデモ本かな、と思いました。実際どうなんだかしりませんが。
あ、大竹(2005)は

大竹文雄『日本の不平等』日本経済新聞社2005年

だそうです。
これを読まないとなんともいえませんが。私はよみません。
読まないまま、考えますが。

本当に幻想であってくれたら、どんなによいことでしょうね。

posted by なかのまき at 23:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2010年08月24日

「5分くらい」の遅刻ができる特権

「遅刻をするひとを せめるのは やめましょう。
5分や10分の遅刻でガタガタいうなんてやなひとだね」


私の知り合いに、私との待ち合わせにぜったい5〜10分くらい遅刻してくるひとがいて。
遅刻しないことのほうが数えられるくらいの人なんですが。
朝待ち合わせしても昼待ち合わせしても夜待ち合わせしてもまんべんなく遅刻するので、そういう人なんだろうな。と。思ってて。
あと、ぜったい20分は遅刻しないので、たぶん、
「20分以内の遅刻は問題ない」っていう信念がある人なんでしょう。
で、ある日私とその人と、大学院の先生の3人で待ち合わせして。

先生から「遅刻する」ってメールがきて、
その直後に「私も遅刻する。でも先生より遅刻しないようにしなきゃ」
みたいなメールが来て。
「はあっ? この人、遅刻することが悪いことだと思ってたの?」
って、びっくりして。
いままでの私との待ち合わせの傍若無人っぷりに、「遅刻に罪悪感を感じない人なんだろう」と勝手に思ってたのですが。
正確には、
「なかのとの待ち合わせには遅刻はあたりまえ。だけど先生との待ち合わせの遅刻は罪悪」
という価値観の持ち主だったらしい。

これが発覚して、こころのせまい私はかなり腹が立ったのだけど。
「先生と私はなにがちがうの?」
って。
で、
「友達だったら5分や10分の遅刻をうるさく言うほうがおかしい。先生とあなたを同列に考えろという要求がそもそもおかしい」
みたいなことをいわれた。
「友情」!
なんてうつくしい魔法の言葉。「努力」なみに都合のいいおうつくしい言葉ですね。そういやこの人、「努力」ってことばをつかって私を怒らせたことあったな。
「努力・友情・勝利」って、ジャンプの世界の住人ですか。


でね。
私は昔、夜中にコンビニに歩いて行けないようなどいなかに住んでたんです。
いや、歩こうと思えばあるけるんですけど。
夜中に「アイス食べたい」とかなっても、ほいほい買いに行こうとすると親に叱られるわけなんで。こどもが夜中にほっつき歩いていい距離ではないんですね。それなりにこどもが好きな変態さんもうろうろしてるので。
だから、私はそもそも「夜中にアイスが食べたくなる」という欲求がないわけですね。そういう発想がないので。
私の日常にコンビニはない。

あと、私、昔の住所に「郡」がついてたんですけど。
中学校のころに、
「私たち、住所が郡だから、高校にはいったら市民に「郡民(ぐんみん)」っていわれていじめられるんだよ」
みたいなくだらない学校伝説に怯えてました。
公立高校の学区に、わたしらのすむ郡と、となりの大きな市があって。一つの高校に郡民と市民が通うわけです。で、市民の高校生に「郡民」とさげすまれるという言い伝えが学校中に蔓延してました。
まあ高校にはいっても、実際にはいじめられたりはしませんでしたけど。
それだけ心の負担になってたんですね。私らにとって。「郡」が。

というわけで、私はたぶん、自分も認める他人も認める
はえぬきのいなかものです。

で「私はいなかものです」っていうと
「そんなことないよー」って。
私が謙遜してると解釈してるのか、否定されることもあるけど。
「田舎もの」が「都会もの」より劣位にあるという前提がないと謙遜という解釈はなりたたないので。自分がいなかものをバカにしてるという自覚をもってほしいです。
私がいなかものであることは事実なので、否定しないでください。失礼です。

それで、「郡」から都内(23区内山手線とかが走ってる駅)にいくのにものすごい労力と電車賃が必要なわけですね。
で、5分10分遅刻なんて器用なマネはできないんです。

私はまず、電車が通ってない地区に住んでるので、電車の最寄り駅にいくまでに、バスです。
で、バスは一時間に多いときで3本、平日の昼間なんか一時間に1本です。
そしてバスはたいがい遅れます。
雨の日とか、道が混んでかならず遅れます。
で、電車を乗り遅れると乗り継ぎやらなんやらで予定通りにいかないわけで。どんどん遅れるんです。
電車もけっこうひどいんですよ。始発から終点まで乗るのでね。特急にのれるか快速(というなまえのほぼ各停)にのるかでだいぶ時間が狂うわけで。

それで、都内の待ち合わせにね。遅れないようにするために私がどんだけ大変か。
私が遅刻するときには、バスいっぽん乗り遅れて40分遅刻とかね。
そのレベルなわけなんです。
ぜったい遅刻したくないわけですよ。あと、出発点のバスという公共機関が信用ならんから、時間のみつもりなんかできないのね。
とりあえず、いつでも「余裕をもって行動」しかないわけです。

歩いて最寄り駅までいけて、5分に一本とか電車がきてね。
「あ、電車乗り逃しちゃった。ごっめーん。5分おくれるー」
ってメール一本ですませられる都会もんとね。
待ち合わせ時間に間に合わせるという真剣さが違うのですね。

つまり。

都内で。
「ごっめーん、5分おくれたー」
ができる、それは 特権 なんですよ。
田舎モノはできない芸当なんでね。

あなたの気軽な「ごっめーん」はどれだけの都合にささえられているのか。都会にすみ、時間通りに電車がうごき、5分10分おきに電車がやってくる。なんでそれをあたりまえの前提として、疑わないのか。
あなたが特権的に行使可能な「ごっめーん」の機会が、あたえられていないいなかものが都内にどれだけごろごろしてるか。
考えないんだろうなあ。

「じゃあいなかものも40分の「ごっめーん」をすればいいじゃない」って、そういうこといわれそうだけど。
毎回毎回40分の遅刻なんか、そんなことはしたくないです。
ばかばかしい。下手すれば一日の予定が狂うわけでしょ。
莫大な電車賃つかって都内にでるわけですよ。有意義にすごしたいですよ。

「人にはいろいろなつごうがあります。
時間を守れない人を責めるのはやめよう」
っていうのは。
そりゃあ、そうなんですよ。
でもそれってでも、
都会モノの「ごっめーん」を解放することはできても、いなかものを救うことはできないんですよねえ。
だから、「5分や10分くらいいじゃない」っていわれても、初発のバスに乗り過ごすと40分予定がくるういなかもんにとっては、
「特権をもつものに都合がいい意見だな。いい気なもんだ」
と思ってしまうわけで。

これはどうすればいいのかな。
とりあえず、電車が走ってる以上、いなかものが都内に来ることは前提にしたほうがいいとおもう。
都内のまちあわせ。

posted by なかのまき at 19:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2010年08月26日

ニセ科学と書育

大手筆記具メーカーZEBRAのニセ科学ページ
「しまうまくんの筆跡診断テスト」

をみていてリンクがはられて気がついたのですが。

日本筆記具工業界 書育 書く力は、育む力

というページがものすごく問題だとおもいます。
トップページより引用します。


紙に書いた文字や絵
それが笑っていたり、怒っていたり、まじめだったり、おどけていたり…。
書いた人の顔が見えてきます。手書きは、あったかい。
そう、「手書き」は、自分の身体から出てくる「知」に「心」を込める作業。
知性を育み、感性を育む、手書きコミュニケーション。
私たちが、未来に残さなければならないものの一つです。



こう、どうして手書き擁護ということになると精神論に走りがちなんだろう。
ZEBRAがニセ科学筆跡学に走ってしまったのもこのへんにあるのでしょう。
パソコンによってペンの売り上げが落ちるという恐怖感から、パソコンを悪者にしたてあげて手書きの大切さをうったえる。
という。

中のページも引用します。

書育とは?

書くことによって三つの力が育まれる。
昨今、携帯電話やPCの普及により筆記具を使って書く行為が少なくなっています。その影響で、日本語力の低下やコミュニケーション能力の不足、脳の働きの低下なども起こっていると言われています。

「書く」という行為には、文字を記録する以外にも様々なメリットがあります。例えば、

◦気持ちや考えを表現し、相手に伝える
◦創造性を高め、思考を刺激する
◦目標を心に深く刻み、記憶を高める
日本筆記具工業会では、このような「書く」ことの大切さを、より多くの方々に知っていただき、そのメリットを感じていただけるような活動を「書育」(しょいく)と名付け、広く社会に貢献していけるよう、各会員企業と共同して続けてまいります。

でね。
何度も書きますが、

左手書字者は「パンがなければお菓子をたべればいいじゃない」みたいなノリで、「左手で字が書きにくいならパソコンで書けばいいじゃない」っていわれてるんですよ。

それかんがえたら、

「昨今、携帯電話やPCの普及により筆記具を使って書く行為が少なくなっています。その影響で、日本語力の低下やコミュニケーション能力の不足、脳の働きの低下なども起こっていると言われています。」

よくもこんなふざけたことをかけますね。
左手書字者に手書きを禁止するような人間がいて、その一方で「日本語力の低下」とか「コミュニケーション能力の不足」「脳の働きの低下」と、手書きしないことをおとしめる。
これも何度も書きますが、
パソコンや携帯のおかげで、さまざまな都合で手書きの文字が書きにくいひとやかけない人が文章をかくことときの、負担があるていど軽減できるようになったのです。
それはどうかんがえたっていいことなんです。

それを「PCの影響で日本語力の低下」とか。よくもいえるものですね。


しかも根拠もなく。


手書きと「日本語力の低下」「コミュニケーション能力の不足」「脳の働きの低下」になんか関係あるんですか。
「なんとなく」でそんなことをウェブ上でたれながしてるならゆるせません。
というか、そもそも「日本語力の低下」「コミュニケーション能力の不足」「脳の働きの低下」は本当におこってるんですか?

おこっているのだという論拠をしめしてほしいです。
日本筆記具工業界のひと。

根拠もなくいいかげんなことをいって、しかも特定の人をおとしめるような発言をウェブ上で発信しているのだとしたら。


広く社会に貢献していけるよう、各会員企業と共同して続けてまいります。


この発言と矛盾してます。

さて。

この問題しかないページですが。

書育関連投稿文

というところに。
投稿してる大学の先生。

手書きの機会がへったことと「日本語力の低下」「コミュニケーション能力の不足」「脳の働きの低下」を結びつけるという
非科学的きわまりないずさんなページに名前をだすことにまったく疑問を感じないんですか。

大学で教授とか呼ばれてるひとたちのなかで、こんなにたくさんの人が、手書きと「日本語力の低下」を結びつけて疑問をかんじないというのは。ちょっと、うすら寒い。
ちょっと多すぎるでしょ。これは。

posted by なかのまき at 22:55| Comment(2) | TrackBack(0) | ニセ科学;筆跡学

2010年08月30日

書道教育と脳のあの人

前回の記事のつづき
「日本筆記具工業界 書育 書く力は、育む力」

書道関連投稿文
に投稿してる

鈴木慶子氏(長崎大学教育学部教授)
の研究について。


これはブログで以前にご紹介しました。

鈴木慶子・川島隆太他
『人間の高次脳機能をはぐくむ手書き活動に関する調査研究』
『文字を「書く」ことの活動に関する科学的・実証的研究』

これですね。

書写・書道教育の迷走
で紹介してあります。

これは
科研の報告書です。
なので私は未読です。

さて。
鈴木氏と名前をつらねている

川島隆太氏は、ニンテンドーDSのソフト、

脳を鍛える大人のDSトレーニング

の人ですね。でもって、
これの続編

もっと脳を鍛える大人のDSトレーニング

ではなんと、筆跡診断をとりいれてます。

漢字を使って、あなたの筆跡から性格を判断します。DS本体を机などに置いて書くと良いでしょう。

筆跡診断(筆跡学)は心理学の名をかたるニセ科学ですね。

あと、川島氏の脳関係の説には、批判もありますね。
wikipediaにまとまってます。

川島隆太―wikipedia

週刊朝日[2]は、久保田競(認知神経科学。京大霊長類研究所時代の川島の指導教官)による「(学習療法の効果を論じた川島論文は)不備な点や論理の飛躍が多く、科学的な根拠を示しているとはとても言えない」という指摘、前掲澤口による「20代の健常者を対象とした、そろばん計算などでは複雑な計算時の方が、より前頭前野の血流量が増えるという検証データもある」という指摘、東京都精神医学総合研究所・星詳子リサーチディレクターによる「単純に脳の血流量の増減だけで脳の機能を論じることは難しい」「前頭前野は習熟した行動には関与しなくなる傾向があるので、その場合は血流量の増加が認められなくなる」という指摘などを報じている


この週刊朝日については、wikipediaにリンクがしめしてあります。
大阪大のurlですね。

任天堂DS「脳トレ」に異論続出

ここから、大阪大学の藤田一郎氏の指摘を引用します。

「活性化とは、もともと脳科学では、脳が働く、活動するという意味です。(略)ただ企業側が非常に巧みなのか、『活性化』という言葉を使うことで、全体のメッセージとしては、さも脳のどこかの働きが良くなるという間違った印象を与えている。その点が非常に問題なのです」


で。書育の人。
「脳の活性化」をどういう意味でつかってますか?
だいじょうぶですか?
変なかんちがいしてませんか?

あと。

この朝日の記事ですが、川島氏のコメントものっていて。
そこに、

――ではホームページの内容には問題があると思いませんか。
 ざっと見た感じでは、うまいことつないでいるなとは思いますね。ただ、どちらかというとグレーだけど、ブラックじゃない。そこから先は民間の企業活動ですから口を出せません。その内容が整合されていないからといって、僕を非難するのは間違っていると思います。


という無責任な問答があります。

いや、川島氏はゲームの監修者でしょうが。しかもゲーム中でへんな似顔絵がでてきて、キャラ化までされてるんだから。
これで「僕の意見じゃない。企業の都合だ」みたいなこといわれても。素人には納得いきません。川島センセーが言ってるようにおもってしまいますよ。それは想定しなきゃ。
「僕を非難するのは間違ってる」なんてよく言えるよな。

えーと、
まあ。個人がどんな研究しようとかまいませんけど。

私は個人的には、
川島隆太氏と組んで研究したくないな。
研究内容が批判されたときに、
「脳科学の専門家じゃないなかのまき氏がいったことです。僕を非難するのは間違ってる」
とかいわれないかな。責任をおしつけられそう。

ともあれ。
川島氏は筆跡診断に接近しているのはあきらかです。

書道教育の専門家の鈴木恵子氏は、
そのへんについてはどうかんがえてるのかな。

「手書きの字をみればその人の性格がわかる」みたいな偏見を助長するニセ科学とは、書写・書道教育の人は、少なくとも距離をおいてほしいんですけどね。
できれば
「筆跡学・筆跡診断にはきをつけましょう」
くらいいってほしいんですが。
書字教育の専門家の口から。
posted by なかのまき at 21:41| Comment(0) | TrackBack(0) | ニセ科学;筆跡学

2010年08月31日

筆跡学はニセ科学でいいのか

筆跡学・筆跡診断は、私はニセ科学でよいとおもうんだけど、

「ニセ科学」ってことばや筆跡学・筆跡診断のことをよく知らないと、
「筆跡学はニセ科学である」

っていわれても、抵抗感あるんじゃないかな。
「えー、だって、筆跡に個性ってでるじゃない。私も体験的にそういうの、あるかな、って思ってるんだけど−。そんな、100%うそっぱちって言っちゃっていいの? そういう思い込みこそ、科学的じゃないよ!」
みたいな。

というわけでたとえ話をします。
たとえば、宇宙人はいる、といってる人にも、いろんなこという人がいるわけです。

(1)「宇宙人は存在する」
(2)「宇宙人はアメリカ政府と接触しているがアメリカ政府は隠蔽してる」
(3)「宇宙人は銀色に光っている」
(4)「宇宙人と昨日一緒に飲んだ」

で、ひとつずつ。
(1)「宇宙人は存在する」
「それは絶対ありえない」
って断言するのは難しいし、できないでしょうね。
それを「そんなことぜったいにない!」って言い張るのは、それはそれで問題でしょう。

(2)「宇宙人はアメリカ政府と接触しているがアメリカ政府は隠蔽している」
これにたいしては、
「たわごとをいうな」
って言えますね。
これに関しては、「それは絶対ありえない」でいいでしょう。

(3)「宇宙人は銀色に光ってる」
これは、「絶対にあり得ない」ではないですが。
「根拠をだせ」
で。

(4)「宇宙人と昨日一緒に飲んだ」
「それは本当に宇宙人なのか。宇宙人だという証拠をみせろ」

っていう。いろいろなレベルがあるわけです。
で、(1)に関しては私も否定しませんね。
判断できないので保留します。
(3)〜(4)を言う人にたいして、
「しんじられない」
っていいたいだけですね。
で、「信じてほしいならそれなりの証拠をみせて」
って。

筆跡学もおなじです。

わたしは、
「性格が筆跡に出る」
という可能性を、100%否定してはいません。
ただ、だいぶ低い気もするんですよね。
ちゃんとした研究で、筆跡と性格に関連あるっていう安定した結果がでてないんですね。
でもまあこれは、科学の進歩でなにか変わる可能性だってあるわけで、保留です。
べつにあってもいいですけどね。

で、私がなにを問題だとかんじてるかというと、

ちゃんと結果が出せてないのに、まるで
「心理学的に証明されてますう。真実ですう」
って顔で「ある」っていって、商売にしたりせんせえがこどもの前でいうことね。
この一点において、「ニセ科学」とよばれる資格があるとおもうんです。
筆跡学・筆跡診断。

「ある」っていいたいなら、言い出した側がちゃんと実験して結果をだしてね。
そのさいには占いをつかってる黒田(1980)とクレッチマー類型論を使ってる槇田(1982)を引用しないようにね。
筆跡学・筆跡診断のひとは黒田論文と槇田論文が大好きですからね。
でもそろそろ80年代の論文は賞味期限切れですよ。
ちゃんと責任もって結果だしてから、いってね。

で、それはべつとして。
「べつに絶対そうだってわけじゃないけどさあ。そういう傾向あるかもしれないから、私は筆跡と性格が関係ある気がするなあ」
みたいなゆるい信念をもってる人がいちばん困るんだよな。

そういうゆるーいなにかが、なんとなく、けっこう多くの人に、共有されることで。
「人柄を判断するから履歴書は手書きで」
っていうヨタをゆるしてるんですからね。


字の形で就職が左右されてたまるか。
ふざけるな。
あと、手書きで字を書きたくない人は就職するな、っていうおろかさを許すな。
そういう世の中にしてるのは、みんなの「なんとなく」のせいなんですよ。

できれば、「ぜったいにある」って強固にしんじてるわけではないんだったら。
「ふたしかなものを安易に利用しない」「さわらぬ神にたたりなし」の方向で。
私は、小学校のころに先生に「あなたは男みたいな字だから性格も男みたいにあんまり考えずにいろんなこと決めるんだろう」っていわれたことありますよ。真顔で。
なんかね、真偽がともかくとして。こういうのは、「字が男みたいな女は性格も男みたい」とか「字が汚い人は性格も汚い」とか。どうしたってそういう方向に暴走しちゃうんですよ。
字の形と人格をむすびつける筆跡学・筆跡診断には社会的な問題にしたほうがいいほど、危ない部分をもっていることをちゃんと、かんがえてください。
万が一、もし、本当に筆跡と性格に関係があるっていう、そういう結果がでてしまったら。そのほうがむしろ、「字が汚いから性格が汚い」とかそういう悪ふざけは深刻な社会問題になるでしょうね。
もしほんとうに、「関係ある」っていう結果がでたら。むしろ。素人がおもしろ半分に人の字の形にあれこれいうのは、つつしまなければいけない風潮になるでしょう。
けっこうレベルの高い個人情報ですよ。

ちゃんと考えるのだったら、安易に人格と筆跡をむすびつける言動ができるはずはないとおもうのですが。
よっぽど強固な信念をもっているわけではないかぎり。

だからね。
ああ、そうか。

「べつに絶対そうだってわけじゃないけどさあ。そういう傾向あるかもしれないから、私は筆跡と性格が関係ある気がするなあ」

って、自分は中立よりの偏らない意見のつもりで言ってるのかもしれないけど。
じつは。
「べつに信じてないけどでも……」
って、きりだしながら筆跡学・筆跡診断を一部分でも肯定的に持ち出したら、それだけで。
けっこうかなり、筆跡学・筆跡診断に寄った信念の持ち主だと。
自覚したらいかがでしょうか。

血液型性格診断が科学的根拠ないし、さらにブラハラなんて言葉ができるくらい、差別的であるとして社会問題になってるのに、
「信じてるわけじゃないけど気になるから血液型おしえて」
っていう人は。
「信じてるわけじゃない」って自分自身が信じてるだけで。
かなり血液型性格診断と仲良しさんなのとおなじでしょう。

どうかんがえたって、「信じてるわけじゃない」んだったら、そんな、誰かを不愉快にさせる可能性のあるものを、わざわざ話題にしたりはしないでしょ。
ばかばかしい。

で、信じてるんだったら他人をなっとくさせるだけの根拠をだしてから商売にしたり、先生が教室でいったりしましょう。
あと、信じてるんだったらそれこそ、(筆跡だとか血液型だとか)個人情報をだだもらしすることに問題ないんですか。
っていうこともかんがえましょう。
posted by なかのまき at 21:26| Comment(4) | TrackBack(0) | ニセ科学;筆跡学