2010年08月05日

手書きで字を書く自由と手書きで字をかかない自由

ことしの正月、地元の友達が実家にかえったついでに私の家に遊びにきて、ふたりで鍋をしながらなんか話をしてたんですが、
「部屋を掃除してたら、高校生のときに、違う学校の女の子からもらった手紙がでてきた」
って、その手紙をみせてもらったんですけど。
授業中にかいたっていう、ルーズリーフに鉛筆でだらだら書かれたけだるい手紙が、ものすごく「ああ。高校生ってこうだったよな」っていうなつかしさもありつつ。
授業中にかいた手紙に、後日切手をはってわざわざ郵便で出すわけでしょ。
授業中に思い出してもらえて、しかも手紙をかいてもらって、わざわざ郵送してくれるわけですよ。
「うらやましい。女子高生に手紙もらうなんて」
「うん。当時の自分、今考えるとうらやましすぎる。女子高生に手紙もらってるなんて」
と、二人でひどい会話をしていたのですが。

あれなんですよね。
そもそも高校生のときには、手紙の主が女子高生であるかどうかは、かなりどうでもいいよね。
だってじぶんのまわりは女子高生だらけだったわけだし。
女子高生がどうしたとか、そうじゃなくて、誰が手紙を書いてくれたのかが、問題なわけなんで。

それを、いい大人が二人でね、あの頃の思い出を「女子高生に手紙をもらってうらやましい」とかなっちゃってるのは、かなりおかしいわけですよ。

つまり、高校生のころはなんでもなかった女子高生が、おとなになって女子高生とふれあえなくなると、女子高生がへんにファンタジーな存在になってしまうんですよ。
「やっぱり女子高生はいいな。20歳すぎなんかババアだ」みたいな。

それで。
あれなんですよ。
話がかわりますけど。
「手書きの手紙は心がこもってる」
とかいうのは、
それは、
「女子高生から手紙をもらうとうれしい」
っていうのとおなじくらいのおかしさなわけで。
「手書きかどうか」「女子高生かどうか」って、なんかへんなものをみてるわけで。
それよりは、手紙を書いてくれたのは誰で、何が書いてあるかが大切なんですよね。

手書きゆえに心がこもった手紙

なんて

女子高生ゆえに価値の高い女

くらいに意味不明なたわごとなわけで。
手書きかどうか、女子高生かどうかはほんっとうに、どうでもいいわけで。
それでね、どうでもいいんだから、手書きでも女子高生でもべつにいいんですよ。
だから、「あなたは手書きがきらいなんですよね。だったら、あなたあての手紙は手書きで書かない方がいいですか?」ってきかれたことあるけど、それもちがう。そんな変な気のつかいかたはしなくてよいとおもいます。

手書きの手紙がきらいなわけではなく、
手書きの手紙を無条件に手書きじゃない手紙より上にもってくるような考え方がきらいなだけで。

だからね、女子高生から手紙もらうのも、手書きの手紙をもらうのも、もちろん、きらいではないですよ。

じっさい、このあいだネットでしりあった人に「メールじゃなくて手書きで手紙かきたいんですけどいいですか?」っていわれて、「いいですよ〜」っていって、手書きの手紙をありがたく受け取りました。返事はメールで出しましたけどね。
で、相手の方も「私は手書きでこころをこめてかいたのにメールなんかで返事して!」みたいなわけのわからんことはいいませんよ。もちろん。
私はパソコンで文章かくほうが好きで、その人はたぶん、手書きでかくのが好きで、べつにどっちにも優劣がなくて、連絡をとりあうのがたのしいわけですからね。
そういう体験をすれば、「手書きの手紙には心がこもってる。(手書きじゃない手紙には心がこもってない)」って、ほんとうにへんな考え方だとしか思えないわけです。

だから、
手書きの方が性にあってる、っていうひとは、もちろん、手書きで手紙をくれると、それはそれで私はうれしいわけですよ。

「手書きで書いたんだからその努力を認めろ」とか「手書きで書いたんだからメールより価値は上だ」とか「手書きで書いたんだからおまえも返事は手書きで書け」とかわけのわからんことをいわれないかぎりは。

「手紙は必ず手書きでかけ」っていわれるのは、いやだから、もちろん私だって、「私あての手紙は必ずパソコンで書け」なんて、いいたくないですね。
だから、手書きが好きな人はいっぱい、手書きで手紙をかけばいいんじゃないですかね。
ただし、私は返事はメールでかきますけどね。

あたりまえのことなんだけど、手書き手紙とメールの間に価値の差をつくらないかぎり、私は、手書きで手紙を書きたいという人の意志を尊重したいです。


posted by なかのまき at 23:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記