2010年09月19日

うけいれる素地はあったのではないか

今日の記事の内容は考え途中のことなのでもやもやしてます。


学校のせんせえが「水からの伝言」をうけいれてしまったのはなぜなのか。
という話があるのですが。
そもそも、科学的な思考ってゆーのは、ある程度訓練をうけて、そういう習慣がついてる人じゃないとむずかしいのではないか。
訓練というか、科学的な思考への信頼感。

注意深くならなければ、ふつうの人は、ふつうにご都合主義な解釈をしてしまうのが、ふつうなのではないかと。
だって科学的思考って制約が多いですもの。
それをすることによってみかえりがあるとじゅうぶんに理解できてないと、ふつうできないとおもう。

で、科学的な思考をできない場面をみて、
「なんでこんなにわけのわからない人なんだ」
って、その人が特殊なバカだと決めつける、そういうのは益がなくて。
できなくてあたりまえ、できるにはある程度の訓練と科学的思考への信頼感が必要。
というくらいの認識でいたほうがよくて、まあ、そんなことはわざわざ私がこんなところで言わなくてもとっくに指摘済みとはおもいますが。

ここまで書いて、でもじつは、むしろ、
公教育の一部の場で、科学的思考を習慣にすることを阻害するようなことが、日常的に行われているという面もあるよな。
と。おもって。

学校まわりの場で、うらをとらないあやしいグレーな発言があたりまえにくりかえされることで、感覚がまひしてきて、ここでとうとう、真っ黒になってしまった。
というなんか。そういう部分もあるんじゃないかと。
そんなに、「教育の場であんなものがうけいれられるなんて!」って、おどろきとか、理解できないとか、ではない。
おそろしいことに。

むしろ学校のせんせえが(ぜんぶではないけど)うらをとらないあやしい発言を日常的にくりかえしているのではないか。
学校という場が、そういうあやしい発言なしになりたたなくなってしまっているのではないか。
という気がします。

つまり、むしろあの場では、科学的な思考を積極的にじゃますることが、日常的におこなわれてはいないだろうか。
なにかというと、

たとえば
「あいさつをするときもちがいいのであいさつをしましょう」
とかね。小学校でいわれました。
あいさつは個人の快楽のためにやってるんですか。
なんで「きもちがいい」とかいわなければいけないんですか。きもちわるい。
そんなうそをつくくらいなら、
「それがルールでマナーだ」
っておしつければいいじゃないですか。そのほうがまだましでしょ。
なんか、こういうときには、すじが通ってるかどーかより、それっぽくて甘ったるい言葉が、ぬるぬると口からすべりでる、そのここちよさが重視されている場面がおおいきがする。
ただ、「あいさつをするときもちがいい」は、真っ黒ではないんですよね。あいさつは人とのつながりをたしかめるものだし、人との接触はやっぱりけっこうな快楽なわけで。
あいさつをしたとき、きもちがいいということは「まあ、まるっきり嘘とはいいきれないよね」くらいは言えるとは思います。
「きもちがいいからあいさつしろ」はどうかとおもうが。

あと、これは日本語教育の実践研究かなんかの本でよんだんですが、敬語について。
「敬語は人への尊敬の気持ちをあらわすものです」
とおしえたら、学習者が、日本語教師にむかってものをいうとき、ある先生には丁寧体で、ある先生にはふつうにはなしかけていたそうです。
それで、理由をたずねたら
「あの先生は尊敬してるけどあの先生は尊敬してないから」
って。いわれたということです。
すみません。これ、出典をわすれました。

で、これ、その日本語教師の敬語の認識がまちがってるわけです。
日本語学の敬語研究の蓄積を無視して、「人への尊敬の気持ち」なんていうぬるぬるした心地よい言葉を教室という空間でたれながしたんですよ。


「うそも方便」みたいなかんじで「あいさつをするときもちがいいから挨拶しろ」みたいな、
そういうのがくりかえされていくうちに
うらをとらないでもっともらしいことをいって自己満足する、という風景をあたりまえにしていくうちに。
いろんなものがまひして。
どこからどうみても真っ黒な「水からの伝言」が来ちゃったのではないか。

という。
そういうこと

教育まわりにかんしてはわりと、「水からの伝言」を受け入れる下地は、じゅうぶんにできていたのかな。と。

そもそも、あそこには科学的に思考することを阻害される機会は日常的にいくらでもあって。
「水からの伝言」だけが特殊な例ではなく。
日常的にくりかえしていくうちに麻痺して、ふときづいたら「あまりにも真っ黒すぎる」ものをよびこんでしまっていた。

とかげがしっぽをきりおとすように「水からの伝言」をきりおとして、それでよしとしてしまわないで。
どうしてそれをうけいれてしまったのか。
ちょっと検討してみてもいいかもしれないなあ。

たとえば、ほかの教科はわからないけど、
国語にかんしては「日本語特殊論」と「漢字不可欠論」の根も葉もない二大ヨタ話が跋扈してるからなあ。でも漢字不可欠論ないと国語ってなりたたないからなあ。とか考えると。
「水からの伝言」におどろいてるばあいでもないかと。


だいたい、

文化審議会答申がひどいですよ。


○青木委員 インド人のIT技術者に以前伺ったのですが,インドではどうしてIT技術に非常にうまく適応できてその才能を伸ばせたのかというと,サンスクリットの言語構造とコンピュータの構造が非常に似ていることがあるということでした。インドというのは,ゼロを発見したところで,MITそのほかのアメリカの大学にもインド人の数学者が非常にたくさんいる。


こーゆー発言を「いや、まずいだろ、それ」
って。言えなきゃだめじゃないかな。
これをみるにつけても、
こうやって、おおやけの場でうらをとらないでなんかそれっぽいことをいうことが日常的に許されちゃえば。
「水からの伝言」を呼び込んじゃってもしょうがないきがする。
posted by なかのまき at 12:48| Comment(0) | TrackBack(0) | ニセ科学;筆跡学