2010年09月27日

「ニセ心理学にだまされるな!」の帯が下品だとおもったわけ

渡邊芳之(わたなべ・よしゆき)2010『性格とはなんだったのか 心理学と日常概念』新曜社

これがおもしろかったわけですが。
とくに印象に残っているのが、ここ

(7)相互作用論は新しいか

相互作用論の「行動とは人と状況との相互作用で定まる」というテーゼは、前にも述べたように、一貫性論争よりずっと以前から心理学の多くの分野に共有されてきたものであり、基本的に正しいというほかない。しかしそうであれば、相互作用論はそれよりも40年も前に提唱されたレヴィンのB=f(P,E)のテーゼといったいどこが違うのだろうか。
 もっとも大きな違いは、公式の中のPに入るものである。レヴィンの時代には、性格特性などの性格概念がそのまま人の側の要因、内的要因としてPに代入されていたことは先にも述べた。レヴィンの影響を受ける実験社会心理学で、実験要因と相互作用させられていたのも、たとえば性格尺度で測定された性格特性だった。
 一貫性論争を経た相互作用論においては、性格特性などの性格概念の位置はPではなく、相互作用の結果としてのBであり、Pに位置づけられるのは性格概念ではなく、真に状況とは独立の内的な変数(相互作用論ではおもに認知的個人変数が想定される)である。(p.83)


ここのところを読んで、え−! そうなのか。と、びっくりでした。
性格一貫性論争をへて、だいぶすごいことがおこったんだな。とおもいました。

で。こうなると、ますます血液型性格診断や筆跡学のはたいろがわるくなりそうだな。そもそも性格ってなんだよ。って話なので。
などと私は素人かんがえでおもってしまうのですが。

それをふまえて。
今日は

「ニセ心理学にだまされるな!」にだまされるな!というきもち

という記事のつづき。こちらをあわせてごらんください。
古澤照幸(ふるさわ・てるゆき)2007『ニセ心理学にだまされるな!』同友館

この本について私は2点、けちをつけてます。

ひとつめは、帯の「ananの読者よ目覚めよ!」
っていうこれが、下品だ。っていってます。

このときは詳しく書かなかったというか、あまり考えず感情だけで「下品」っておもっちゃったのだけど、理由をかきます。

まず、この本は読者のターゲットとしてananの購買層をかんがえてないでしょう。
え? だって、本当にananの読者にこの本を読んでもらいたかったら、

「ananの読者よ目覚めよ!」

なんていうすっとんきょうなコピーにはしなかったでしょう?
「ananの読者よ目覚めよ!」なんて帯に書いてあるすっとこどっこいな本、私がananの読者だったらぜったいに手に取らない。
この本のターゲットは、飲みの席で血液型について言及する小娘に、
「血液型なんか嘘だから信じちゃいかーん! んぷー!」
ってえらそーに説教たれたいおっさんでしょ。そのためのネタ本でしょ。
いや、おっさんだけじゃなくておばさんや小娘もいるかもしれませんが。

つまり、読者のターゲットとして想定していない層をわざわざとりたてておとしめることで、説教口調でしかりとばす帯に快感を覚えるある種の人の財布をゆるめる効果をねらってるわけで。これを下品といわずになんというか。

(いや、ananの血液型特集の内容も読んでみたらたいがいひどいけどね。それはそれとして)

つぎ。

学問としての筆跡学と商売としての筆跡診断のあつかいの差について。

3−4 筆跡学と筆跡診断―その科学性(pp.188-215)
から該当箇所を引用

 ここでは、科学としての筆跡学について話を進めながら、民間で作られた筆跡診断を筆跡学からとらえ、実際に筆跡診断が利用できるものかどうか、つまり筆跡診断の有用性について検討してみましょう。(p.188)

上で示してきた筆跡診断と研究者による結果との間での一致の程度を図表3−22に示しました。
 ◎を完全一致、○をほぼ一致、△を部分的に一致、×を不一致として表中に記述しておきました。ここでは、一応の基準を研究側に求め、どの程度一致するかが筆跡診断の成績としておきます。(p.213)

「文章の内容は流暢にながれる。つまり、第一の内容から第二へ、第二から第三へというように停滞泣く流れる」という部分は、等間隔性の「処理能力がある」「仕事が順調に進む」とつながるでしょう。この点では、完全ではなくとも筆跡診断が当たっている部分となるでしょう。



筆跡学と筆跡診断を比べてみるじゃなくて、筆跡学で筆跡診断の評価をする。筆跡学という正解をだして、そこからどれだけ筆跡診断が”まちがって”いるかを問題にするんですか。
いや。いいけど。

そもそも、その”正しい筆跡学”がクレッチマー類型論をつかって大まじめに研究してることにはつっこまなくていいんですか。
なんで槇田論文を「科学としての筆跡学」の例としてとりあげられるんですか。

それで、筆跡学と一致する部分にたいして、「筆跡診断が当たっている」という判断をくだす。
筆跡学どんだけえらいんですか。大学?大学だから?

いまの段階では、筆跡学も筆跡診断も思いつきでてきとーにやられてるレベルのものであって、その流派がちがうんだから、一致しなくてもあたりまえだとおもうのですが。血液型診断と星占いで違う結果がでるのと同じだとおもうんですが。
そもそも、「私の性格」っていう作文を書かせて、作文の内容と字を分類する、っていう実験方法の黒田論文と、
クレッチマー類型論つかってる槇田論文もまったくべつの流派だとおもうんですが。「大学の筆跡学」でくくっちゃっていいんでしょうか。
いっそ、黒田筆跡学と槇田筆跡学の比較もしたらどうですか。
なんで大学の研究室で行われた実験には批判がないんですか。

いや、筆跡と性格の関係を調べるような研究をするな、といってるわけではありません。
黒田氏の論文と槇田氏の論文は学史でしょ。学史は学史としてあつかってほしいのですが。
今現在の心理学の検証にたえられる論文じゃないでしょう。
そこのところ、ちゃんとかいてほしいんですが。
いくら一般書とはいえ。いや、一般書だからこそ。

なんでこういうことを書くかというと、
筆跡診断の世界で、黒田論文と槇田論文がしきりと引用されるからです。科学のお墨付きをあたえるために利用されてるんですよ。
そこのところかんがえてほしいです。

あとね。もうひとつ心配なのが。
クレッチマー類型論が自己啓発系の商売につかわれてる気配がありますよ。
ネットで「クレッチマー類型論」で検索してみるとわかるとおもいますが。

心理学の人は積極的に「クレッチマー類型論はいまはつかいません」っていっちゃっていいんじゃないでしょうか。
なんかだめな理由あるんですか。
と、わかっててきいてみる。
posted by なかのまき at 21:33| Comment(0) | TrackBack(0) | ニセ科学;筆跡学