2010年11月01日

なんでもない、ごくふつの、どこにでもある国語教育

連日同じネタですみませんが国語教育。
読まされるほうもたまったもんじゃないだろうけど、かく私もかなりうんざりです。

いじめられてる桐壺更衣萌え〜な論文

で、国語教育と奴隷教育のコラボレーションはさすがに新しいネ!
みたいな記事をかいたのですが。いや……そうでもない……

類似の記事を発見。もう、床にすわりこんでしくしく泣きたい。

三井庄三(よみ不明)(2010)「深沢七郎『楢山節考』―登らなければならない道」『国語教育(雄東京法令出版)』平成22年10月号 pp.68-69

二 独特な人物「おりん婆さん」
(略)おりんの人物像の特徴について、新潮文庫の解説で日沼倫太郎氏は、<『楢山節考』は民間伝承の棄老伝説をテーマとした小説で、おりんという老婆が主人公である。普通姥捨といえば拒みいやがりながら捨てられる老人を想像しがちであるが、『楢山節考』の主人公はみずから進んで捨てられようとする型破りの女性だ。それというのも、自分の住む村や家に食物が乏しいからで、彼女は楢山に捨てられる日を早めるために自ら石で前歯を折る。>


三井氏は、日沼倫太郎氏の文章をこう紹介したあと、つづけてこう書きます。

このおりん・辰平と対照的なのが、隣家の楢山を望まない銭屋の又やんと、父親を縛ってでも棄てる倅とである。この対比からすれば、前者のおりんは確かに「型破り」ではある。ただし、おりんは、一般に母親なら共有している「母性」によって、衝撃的なのだ。今のジェンダー論では、「母性」の強調は問題かもしれないが、である。


強調は引用者です。
……えーと。
「楢山に捨てられる日を早めるために自ら石で前歯を折る」というドMな人をゆびさして、「一般に母親なら共有している「母性」」といいあらわすのはどういう趣味・嗜好ですか?

「一般的にボクのママはドMなんだよ! そういう設定が萌え〜!」宣言。

なんだこれ。
……いやいや。またはらだちのあまり、個人の趣味・嗜好に矮小化して茶化してしまいました。
いけませんね。

ちがう。べつにおりんは、「型破り」ではない。
わりとよくいるんじゃないかな?
「正しい」ことのために、みずからの命を簡単に投げ出せるひとって、歴史をみればわりとたくさんいる。
あと、「世間様の目」って、人が自分を殺すには十分な圧力をもってますよ。「村の掟」ね。

だから、そこまで「型破り」とはおもえないな。
「私1人ががまんして死ねばいいだけの話」っていってね。
よくある奴隷根性でしかないでしょう。

で、その場はしのげるかもしれませんが、それで、息子の辰平だってそのうち棄老されるんですよ。
「私1人ががまんして」死んで、そういう社会のシステムが維持されることに荷担してしまえば。そのうち、自分が死んで守ったはずの息子も、自分と同じ死に方をする。
いったいおりんは何を守ってるのか。

で、そのなんの解決にもならないくだらない自己犠牲を、「彼女は楢山に捨てられる日を早めるために自ら石で前歯を折る」という行為を、「一般に母親なら共有している「母性」」というのか。
そんなばかなもの、くだらないもの、「一般の母親」には一片たりとも共有してほしくないです。

そして、しめくくりの「今のジェンダー論では、「母性」の強調は問題かもしれないが、である。」という文章がっ……もう、ここまでくると怒りが言語化できません。

というか、見識を疑うのは、この三井庄三氏ではなく、『国語教育』っていう雑誌の編集者です。
なんで『国語教育』っていう名前の雑誌にこんな文章をはりつけて、平気でいられるんだろう。

posted by なかのまき at 21:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 国語教育

2010年11月04日

がまんを強いられるのはつねに弱者

教育関係のへんな文章あつめがとまらなくなってしまった。
でももう、今回でやめます。
いいかげん「とめはねっ!」批判もやりたいし。

でも、ちょっと、これだけはびっくりしたので紹介します。
いじめ百合萌え論文やドM母萌え論文をたてつづけによんで、だいぶ耐性がついたかな、とおもっていたのですが、これはゆるせない。
いかりがしずまりまらないので。
とりあげます。

池田多津美(2010)「幼稚園における教育の創造と展開(5)体験の多様性と関連性」『初等教育資料』平成22年10月号

池田多津美氏は東京都港区立白金台幼稚園長だそうです。


「自分が忘れたから仕方がないか」
 五歳児は毎朝学級に置かれているかごに自分でプールカードを入れる。プールカードがないとプールには入れないことになっており、特に五歳児の担任は自分で責任をもたせ、カードの管理を任せるようにしている。
 この日、B児はカードを忘れた。担任は「エエッ、残念。明日は絶対に忘れないようにしよう。今日は入れないけど仕方がないね」と言う。学級の仲間がプール遊びに熱中しているとき、B児はテラス周辺でウロウロ歩き回りながら、「朝、自分で○印を付けたのに…。ちゃんと置いておいたのに忘れちゃって。自分が忘れたから仕方がないか。でも…」と繰り返しつぶやく。

(略)
五歳児B児も水遊びが大好きである。プールには入れないのは自分がカードを忘れたからだということをわかっているが、そのやりきれない悔しさを自分にぶつけ、独り言をつぶやきながら納得しようとしている。教師はB児に今回の体験を通して、自分のことに自分で責任をもつということを学んでほしいと考えている。保護者に連絡をとるなど、プールに入れるようにする手立てはあったが、この時期に何を体験させることで成長につなぐか、教師が個々の幼児の育ちの家庭を見通す力と幼児や保護者との信頼関係が問われるところである。(p.42)



5歳児に自己責任って。
どうかしてるとしかおもえません。
カードを忘れるな、と5歳児に要求するほうが無謀だし、カードをわすれたときの対処が「こどもにがまんさせる」って。それが「体験」って。
なんで一番よわいものにツケがまわるんですか。
それで「自分が忘れたから仕方ない」と納得しろと要求する。
そんな体験いりませんよ。

ちょっとしたミスで過重な刑罰がくだり、それを「自分のせい」と納得させられる。周りの大人はこどものちょっとしたミスにいっさい手助けをしてやらない。

「今回の体験を通して、自分のことに自分で責任をもつということを学んでほしいと考え」られるほうがおかしいとおもいますが。
絶対に一度のミスもゆるされない社会。自分のことしか頼れない社会。ミスをしたらどんな罰をうけても仕方のない世界。大人が手助けをしてくれない世界。
なんで五歳のときからそんな世界に住めといわれなければいけないんですか。

もう、いやだ。ぜったい、たのまれたって東京都港区立白金台には住まない。
posted by なかのまき at 21:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 国語教育

2010年11月12日

「滋養をつけなさい。飽食の時代だけど。」

こんにゃく<だいこん<ごはん<バター

だいたい、同じ重さなら、うえのように食物のカロリーが高くなるとおもわれます。
で、そのことをさして「バターは栄養がある」っていったらどうでしょうね。
「カロリーが高い=栄養がある=いいこと」
みたいな。
「バターさいこう!」みたいな考え方があったとして。
それは『火垂るの墓』で清太が「滋養がどこにあるんですか!」っていう、そういう時代の価値観ですね。「栄養=カロリー」って。
あと、かりにそういう時代だったとしても、バターに食物アレルギーがある人には、「バターさいこう!もー、バターたべない人間はダメだ!」っておしつけは、めいわくだとおもわれます。


大津由紀雄編『ことばの宇宙への旅立ち2 10代からの言語学』ひつじ書房・2009

から

酒井邦嘉(さかい・くによし)「脳に描く言葉の地図」pp.59-96

リアルな対話を大切に

 最近特に、周りの人との「リアルな対話」をもっと大切にする必要を感じています。ある友達に、同じ内容をメールに書いて送る、手紙で送る、電話で話す、そして実際に会って話す、という四つの場合を比べてみましょう。同じ内容を伝えているわけですから、情報量は同じでしょうか?そんなことはありませんね。メールは活字、手紙は手書きの文字、電話は音声、そして実際に会った場合は映像ですから、それぞれディジタル化して記録に残せば明らかなように、この順番で情報量が増えています。たとえば伝えたい内容が「明日十時に会いたい」ということならば、大差ないように思えるかもしれません。しかし、忙しくてなかなか会ってくれそうにない人、疎遠にしている人、意中の人、というように相手が変われば、すべてメールで済ますというわけにはいきません。(略)
 それから複雑な内容や深刻なことがらを伝える場合は、メールよりも手紙や電話の方がはるかにすぐれた通信手段になり得る、ということを忘れないようにしたいものです。実は、そこに言語の隠れた本質があって、発話の抑揚(prosody)の中にも豊富な言語情報が含まれているのです。丁寧に手書きで綴られた文章は、メール以上に書き手の誠意や真心も伝えられることも確かですね。(pp.83-84)


強調は引用者です。
うん。確かじゃありませんね。
プロソディと手書きを並列にかきならべて「確かですね」っていってはいけないでしょう。
プロソディに関してはちゃんと言語学の研究の蓄積があるわけですが。手書きになにか、プロソディと同列にとりたてられるようなはたらきがあるっていってる研究はありますか。
次元の違うものを一緒にならべちゃだめでしょう。
「10代からの言語学」っていうタイトルのついた本で。
あと、音声言語と文字言語を無条件でくらべる姿勢がものすごく疑問です。

ええと。長く引用したのは、なんかこのぶぶんが全体的によくわかんなかったので。

まず、


「メールは活字、手紙は手書きの文字、電話は音声、そして実際に会った場合は映像ですから、それぞれディジタル化して記録に残せば明らかなように、この順番で情報量が増えています。」


ここの文章の意味がよくわからない。
「ディジタル化して記録に残せば明らか」って、どういう作業のことだろう。
えーと。

テキストファイル<画像ファイル<音楽ファイル<動画ファイル

と、データが重くなる傾向があるっていうことをいってるのか……な?
情報量=データの重さってことでいいのかな。
まあ、わかんないのでこの解釈でいきましょう。
あと、情報量が多ければ多いほどたくさんのことを伝えられる。みたいな言い方をしてるようにみえるんですが、
この情報があふれかえった時代にいったいなんの話をしてるんだ。

「それから複雑な内容や深刻なことがらを伝える場合は、メールよりも手紙や電話の方がはるかにすぐれた通信手段になり得る、ということを忘れないようにしたいものです。」
そりゃ、なる場合もあるし、ならないばあいもありますね。
時によりけり、場合によりけり、人によりけり。
あたりまえだけど。

「丁寧に手書きで綴られた文章は、メール以上に書き手の誠意や真心も伝えられることも確かですね。」

何度もかくけど、
左手書字者は「パンがないならお菓子を食べればいいじゃない」みたいな調子で、「左手で字が書きにくいならパソコンで書けばいいじゃない」っていわれてるんですよ。
つまり、左手で字を書くくらいならパソコンで書け、っていわれてる人たちがいるわけですよ。
「丁寧に手書きで綴られた文章は、メール以上に書き手の誠意や真心も伝えられる」じゃあ、ペンをもてない人や左手書字者はどうすればいいの? 手書きで字がかけないなら誠意や真心をつたえることをあきらめろと? 
別にあきらめる必要ないでしょ。メールで誠意や真心のこもった文はじゅうぶんにかけます。あたりまえだけど。

パソコンで書いたメールが、手書きの手紙より誠意や真心の面で劣ってるなんていうわけのわからないことをいったうえに、その根拠が「メールは手書きに比べて情報量が少ない」という、さらにわけのわからないもの。情報量の大小と「誠意真心」になんの関係が?
それで、右手で字がかけなかったり、かきにくかったり、かきたくない人をそんなわけのわからない理由でおとしめてはいけません。
手書きの手紙とパソコンケータイメールを無意味にくらべて、パソコンケータイのメールを劣っていると差別してはいけません。

このように、手書きの字とくらべて、パソコンケータイ打ち出しの字をわけもなく差別するような人がいるからこそ、私は「左手で字が書きにくいならパソコンで書けばいいじゃない」っていいすてるひとに、「ちょっとまって、それでいいの? だめだよ」っていいたくなるんです。


posted by なかのまき at 20:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2010年11月19日

カエルのへそについて学びましょう。ないけど。

『月刊国語教育研究』(日本国語教育学会)2010年2月号で、

「日本語の特質を学ぶ」

という特集がありました。
前期の授業で学生さんのくりだす日本語特殊論にへきえきしていたので、「日本語」と「特質」とくればそれだけでみがまえてしまう習性があるのですが、この特集の内容、どうなんだろう、と。
どきどきしながらみたのですが。
ああ。悪くないです。


まず、巻頭言が杉戸清樹氏(前国立国語研究所所長)です。
杉戸氏は、かなり国語教育にめくばりをしている人です。


日本語の姿を虚心に見つめることから

 言語研究の一分やである対照言語学や言語類型論の新しい知見に触れると、日本語は他の言語と大きく異なる「特徴」をもつような格別の言語ではないということを教えられる。たとえばSOV(主語・目的語・動詞)のような文の語順構造など、他言語と同じ類型に属する言語であることが、近年とみに充実した情報や研究に基づいて示されている。
 そうした専門領域のこととしてではなくとも、かつて語られた日本語の独自性や「特長」が多くの場合きちんとした根拠のないままの思い込みや思い入れであったということも想起しておきたい。一例を挙げれば「敬語を持つのは日本語だけだ」という言説である。(略)
 こう考えると、学習指導要領に掲げられる「国語の特質」は、国語のどのような言語事象をどのような姿勢で扱うかについて、改めて議論したりする余地の大きな課題事項であることがわかる。本号特集の趣意もここにあるのだろう。


「日本語の特質を学ぶ」という特集の巻頭言で「そんなもんない」ってかいてあるんですよ。
でも、それは本当のことなんだからしかたないですね。

それで、
「国語のどのような言語事象をどのような姿勢で扱うかについて、改めて議論したりする余地の大きな課題事項であることがわかる。」
ってかかれてますが、でも、それって、現場の先生のする仕事じゃないよね。
ないものについて教えろっていうんだったらそれはむちゃぶり芸でしょう。
そんなものを現場の先生に期待しちゃいけません。

これは、「国語の特質」なんてかいた文部科学省に責任があって、その責任を追及するのも、現場の先生の仕事じゃなくて、日本語学と言語学の人の仕事だろう。

日本語学のせんせえは、自分の教え子や弟子や友達がどれだけ国語教育まわりで食ってるか、しらないわけじゃないだろうし。いまだって高校の国語と大学の日本語学の非常勤かけもちしてたべてる人がどれだけいることか。

ってかんがえると、日本語学で食ってるひとはだれだって国語教育に無関心でいられるはずがないわけで。
だからそもそも、学習指導要領に「国語の特質」なんていう項ができてしまっていることが、異常事態なわけですよ。
日本語学の人なにやってんの。
どうしてこうなるまでだれもつっこみいれられなかったの。って。
責められてしかたないとおもう。
posted by なかのまき at 00:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 国語教育

2010年11月22日

はじめに私小説があった

今日はヨタばなしをします。

某所で、音楽と人格の結びつきみたいなはなしになったのですが。

あらすじを説明すると、
私は大学のとき、音楽系のサークルに半年だけ所属してたことがあるんですが。
ある日のミーティングで、
「トレーナーの先生に挨拶しないやつがいるが、音楽にたずさわるものが挨拶をできないとはけしからん」
みたいなことを4年生がいいはじめて、
「あ、ここいやだな。こんなこという人間を野放しにしておく組織にはいたくない」
っておもってやめたんです。

それで、書道だけじゃなく、音楽も人格にむすびつけられるときもある。ってことになって。
でもぎゃくに「芸術家は変人がおおい」みたいなのもあるよね。
って話になったのですが、それをふまえて。

そう、たまたま最近「来年から作文もやって」っていわれて、
参考文献になるかとおもって、
大塚英志(おおつか・えいじ)の『キャラクター小説の作り方』という本をよんだのですが。

私が読んだのは角川文庫版です。

そこの、「はじめに」で


人は何故、小説家になりたいのでしょうか。実はぼくにとって一番の疑問はそれです。(略)「小説家になる」ということは、どこかで「自分が自分であること」と不可分に結びついているような気がして、それがぼくには不思議です。(略)小説家というのは生まれつき小説家であるか、ある日、突然、天から小説家の人格が降りてきてとり憑くかでもしない限り人は小説家たり得ないことになります。けれどもこういう言い方を作家たちが好んでするのは「小説家」であることが本人たちの「私であること」と不可分に結びついているからのように思えます。だから小説家たちは小説を書くこと以上に自分のキャラクター作りに熱心です。「無頼派」とか「アウトロー」なんていうキャラクターの作家は昔から山ほどいますが、本人が言うほど破綻した生活を送っているわけでもありません。小説家になる運命云々も神宮球場の出来事(引用注:村上春樹のエピソード)も小説家であることが小説家自身にとっても「私」であることとやっかいにも結びついているからです。(pp.8-9)


とかいてあります。
「私」と小説そのもの、そして小説家であることが不可分な世界があると、大塚氏は指摘しています。
そして「私」の演出のために「無頼派」とか「アウトロー」をよそおう。

つまり、「その人の人格が作品に出る」というものの言い方は、初心者をまじめに練習させるときにもつかわれる。その場合は「まじめさ」「どりょく」「ねっしんさ」を演出せよと要求される。
そしてぎゃくに、すでに成功してしまった人間の、他を超越した才能をきわだたせるためにもつかわれる。そのばあいは、「無頼派」「アウトロー」がつかわれる。
どちらもおんなじなわけです。
作品と人格を結びつけるという点では。

作品や職業と「私」を不可分なものとしているその理由として、大塚氏はこう指摘します。


小説家になることが「私捜し」と密接に結びついてしまったのは、この国の「文学」が大なり小なり「私小説」という伝統の上に成り立っているからです。そして、小説家志望者たちが小説家にうまくなれないのは、「私探し」と「小説を書く」という行為をうまく区別できないからのように思えます。(p.9)


『キャラクター小説の作り方』という本は、徹底して文章をかくテクニックについて述べています。
小説家となるための心得、などという精神論にはしることをきつくいましめています。

そして、「私」と「小説をかくためのテクニック」を不可分なものにしているのは、私小説という伝統のせいだ、と言っています。
しかし、はたして「私さがし」と「テクニック」をわけられないのは、小説だけなのでしょうか。書道も音楽もスポーツにもテクニックと不可分の「私」がいる。
日本の私小説という伝統の上に、書道や音楽や部活動がなりたっている、というように言えるのではないでしょうか。

もちろん、大塚氏はそんなことは言ってません。

しかし、小説が「私探し」と不可分であるのが私小説という伝統に由来するのであれば、書道と「私探し」が不可分であるのも私小説の伝統に由来するといえるのではないでしょうか。

すべての元凶は、私小説である。


……ヨタばなしもいいとこだな。
ちょっと魅力的だけど。


(あ、大塚氏がヨタをとばしているといっているわけではなく、書道と私小説をむすびつける、私の言い方がヨタなんですよ)
posted by なかのまき at 00:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

照手姫とかぐや姫

はい。今日も国語教育です。

さいきん、きょくたんに変な国語教育の論文をたてつづけに紹介してしまったので、
ものすごーく、よくある、ふつーの、国語教育の論文を紹介しますね。

これは、よくよく選んだのではなく、そのへんにあった教育学部のある大学の雑誌を、適当に手にとったものです。
さて。

加藤寿志(よみふめい)(2010)「(随想)伝統的な言語文化をどう教えるか」『岐阜国語教育研究』8 pp.115-119

さっそく引用します。


二 国際的な「愛国心」を
「国を愛する」ということは、決して日本が世界の中でいちばんよい国だと思うことでなく、日本が世界の中でよい国だと思うこと。国粋的ではなく、いわゆる国際的な愛国心を育てることこそ、先の大戦による過ちを深く反省し、その教訓を生かすことであろう。


あああ……


(略)現在伝わっている物語の中で、最も古い「竹取物語」が、月という別世界に憧れ、広大な宇宙とのつながりを感じさせるものであると気づくことや、現存する最古の歌集「万葉集」には、天皇や貴族だけではなく、名もない兵士や農民など幅広い階層から集められていることを知ることだけでも、自然の中で暮らし、大らかで寛容な心をもっていた祖先のすばらしさに気づき、日本人がそれらを伝え続けてきたことに誇りを感じるのではないだろうか。しかも、月に向かって吠え、狼男になってしまうような凶暴な話ではなく、月のように美しく手の届かない存在である「かぐや姫」が登場する話に、日本の風土を感じる。


おもしろすぎてながながと引用してしまいました。
あー。適当に選んだんですが、この論文もちょっと……ふつうじゃなかった。

「先の大戦による過ちを深く反省」なんてかくなら、『万葉集』の政治性を自覚してなんかいったほうがいいとおもいますが。


品田悦一しなだ・よしかず(2001)『万葉集の発明―国民国家と文化装置としての古典』(新曜社)

これをよむべきでしょう。

「現存する最古の歌集「万葉集」には、天皇や貴族だけではなく、名もない兵士や農民など幅広い階層から集められていることを知ることだけでも、自然の中で暮らし、大らかで寛容な心をもっていた祖先のすばらしさに気づき」

こーゆーありがちなヨタ話について、こまかく検証されてます。


国民的な愛着を集めている『万葉集』は、まさに日本の「国民歌集」の名にふさわしい。しばしば”日本人の心のふるさと”とか”日本文化の偉大な遺産”などと形容されるのもそのためだが、しかし多少反省してみればわかるように、実は古代の貴族たちが編んだ歌集であって、奈良時代末期に成立して以来、一千年以上というもの、列島の住民の大部分とはまったく縁のない書物だったのである。平安時代の歌人・歌学者や、中世の学僧・連歌師、近世の国学者・民間歌人の活動にもかかわらず、一般には書名すら知られていないという状態が、まず明治の中頃までは続いていたと見なくてはならない。(p.13)


ということで。

さて。論文にもどります。
これも実践研究なんですが、竹取物語の「くらもちの皇子」の気持ちを理解しよう!
というとりくみです。

第一学年で学習する「竹取物語」には、「かぐや姫」に求婚する「くらもちの皇子」が、偽の「蓬莱の玉の枝」を持参し、架空の冒険譚を語る部分がある。そこで、三年もかけてそこまでする「くらもちの皇子」の「かぐや姫」との結婚に対する思いを考えることを通して、どうしても姫と結婚したいだけでなく、人を騙してさらに名誉を得ようという思いがあったことに気づかせ、昔の人も、現代の恋愛ドラマにもあるように、同じようにものごとを考え、暮らしていたことに気づかせる授業を行った。(p.117)


くらもちの皇子っていうひとは、かぐや姫の5人の求婚者のうちの一人で、「蓬莱の玉の枝」を取ってこいとかぐや姫に命令されて、取りに行かないでおうちで金銀玉をつかって職人につくらせた人。
で、「とってきました!」っていって反婚のかぐや姫ピンチ、ってところに枝をつくった職人が「給料はらってください」って言いにきたおかげでバレて、結婚できなくて職人にやつあたりするという人ですね。

「現代の恋愛ドラマにもあるように同じようにものごとを考え暮らしていた」
って、現代の恋愛ドラマに、蓬莱の玉の枝をとってこい、みたいなこんな超展開ありますかね。
それで、結論


その後、結局偽の玉の枝を作らせた策略が破れてしまうことから、嘘をつかずに生きることは大切だ。現代でも同じことがあって、今も昔も変わらない。」などの発言があり、学習後には、次のような感想があった。

 この話は、今から千年以上前に作られたので、人間の心は今も昔も変わっていないことがわかりました。物語を書いた人は「後のことを考え、うそはつかないようにして下さい」と言いたかったのだと思いました。(女子)
 皇子は、うそをついてまで姫と結婚したくて、最後にばれてしまいました。うそが必ずばれる体験が今も伝わっています。しかも、うそは人の信用をなくすので、今も昔も、うそをついてはいけないことは同じなのだと思います。(男子)


とまとめてありました。
「うそをつくのはやめましょう」
うん。なんて安心の道徳教育。
まあ、これがよくある国語教育の論文です。
私はみなれてるので、これくらいではおどろきませんが。
やっぱりちょっとすごいよなあ。いろいろ。

ところで、どうしてかぐや姫の心中まる無視で、男の登場人物視点なんですか。この授業。
どうしてくらもちの皇子なんていう、つまんないおっさんの心の中について、クラス全員で話しあわなければいけないんですか。
それよりはかぐや姫がなんで5人の求婚者に無理難題をふっかけたのか、とか。そういう話のほうがおもしろくないですかね。

とゆーわけで、論文をしょうかいします。

高橋圭子(たかはし・けいこ)2010「高校古文教科書を考える ジェンダーの視点を中心に」『世界をつなぐことば ことばとジェンダー/日本語教育/中国女文字』(遠藤織枝・小林美恵子・桜井隆編著)三元社

高校古文の教科書にでてくる教材のジェンダー分析です。

高橋氏は、

現行高校教科書の古文教材を分析し、教科書の編著者も教材の作者も登場人物も、すべて女性より男性のほうが多いこと、基本的には女性の作品は和歌および王朝文学であること、女性像の大半は「男の訪れを待つ」・「恋の歌を詠む」・「身分をわきまる」、といった要素で占められていることを確認した。


として、

だが、これだけが古文の世界の女性像ではない。もっと生き生きと活躍する女性像を生徒たちに提示してもよいのではないだろうか。
 ここでは、その候補のひとつとして、「小栗判官・照手姫」の伝承を提案する。(p.269)


とのべています。
うん。こういう研究は必要だとおもうし、なにより、いま、日本文学はジェンダー分析がとてもさかんにおこなわれています。古典作品のジェンダー論で卒論をかいて卒業する学生は、どの文学科にも毎年かならずいるはずだし、日本文学科の学生は国語の教員免許をとる人もわりといる。
そうかんがえると、高校でそういう授業がおこなわれても、すこしもおかしいはずはないです。

ただ。「小栗判官・照手姫」でいいのか?
照手姫なんか、めちゃくちゃ夫に尽くす妻じゃない。
高橋氏は「小栗判官照手姫」を提案する理由として


照手は所謂「王子様」の救いを待つ「お姫様」ではなく、自らの力で逆に小栗を救う。紙幅の都合上省略したが、青墓の主人が遊女にしようとするのを拒む場面、車を引くために主人に休暇を懇願する場面、道中変装をする場面などには、照手の知恵と才覚が漲っている。実に魅力的なヒロインである。(p.281)


としています。
もう、ずーっと夫に忠誠をちかって、貞操をまもってつくしつづける女ですよ。
こんな女、ただの男に都合のいいだけの存在じゃない。

あと、ちょっとこの文章、信じられないんだけど。
「青墓の主人が(照手姫を)遊女にしようとするのを拒む場面」これ、だいじょうぶですか?
この行為を「魅力的」といっていいの?
ただの職業差別じゃないの。大丈夫ですか?
教室のなかでセックスワーカーへの偏見や差別意識をうえつけるような授業が行われてしまいませんか?

で、
そういう意味でいうなら、
私は、照手姫よりかぐや姫が魅力的ですけどね。

かぐや姫こそ、反婚、反天皇、反権力(ちょっとはおもねる)をつらぬき通して、しかも結婚しろという翁をリクツで言い負かしたりしてる、すごい人だとおもいますけど。
法律婚して制度にぬくぬく守られながら「男女平等」なんて言葉をぬるっと口に出すような人の何百倍も、過激にフェミニストですけどね。かぐや姫。

まあ、べつにかぐや姫はフェミニズムの思想をもってたわけではなく、下界の人間との結婚がいやだっただけでしょうが。人間の女がサルの王に求婚されてもすこしも嬉しくないのといっしょでしょう。

竹取物語も源氏物語も、やりようによってはジェンダーの視点をもちこんだときに、おもしろい教材に十分になるとおもいます。
というか、源氏物語はかなりそういう分析されているでしょう。日本文学の世界で。

竹取物語もできます。
「うそをつくのはいけません」とか道徳やってるよりね。

天皇や権力の暴力性。
翁や5人の求婚者の身勝手さ。
空気のような媼の存在感のなさ。
そして天上人であるかぐや姫の地上の人間へのあなどりと軽蔑のまなざし。
そういうのをとおしてみていくことで、

現在の制度化した恋愛(だんじょこーさい)や、結婚のうさんくささ。
権力というものの残酷さ。
そういうものにひきよせて、あぶりだしていくことができるんじゃないでしょうか。
やりようによっては。
正直、照手姫よりいい素材だと思います。

……えーと、このネタは2週間くらいいじくりまわしたのでものすごくとりとめのない記事になってます。すみません。
posted by なかのまき at 21:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2010年11月29日

すべてはあなたのために。ガイジンのために。りゅーがくせいのために。

こんにちは!
きょおも ふゆかいな ぶんけんお しょおかい するよー

独立行政法人日本学生支援機構という政策機関が発行した
どすぐろいガイドブック

『外国人留学生のための 就活ガイド 2012』

独立行政法人日本学生支援機構のサイトからダウンロードできるのでみてみてね。

「外国人留学生のための」とかかいてあるくせに本文にルビがいっさいふってない時点で、だれのためのガイドブックでもないことがよくわかります。

さて。そこの39ページに
「履歴書の書き方」
といいうのがあります。

しょっぱなから


履歴書は、正式な応募書類の一つ。指定がない限り手書きが基本です。読みやすい文字でていねいに記入しましょう。(p.39)


と正気をうたがうようなことがかいてあります。
また、

年は、日本の年号を記入するようにします。
数字は、算用数字で記入します。(p.39)


は?
これのどこが「外国人留学生の”ため”の 就活ガイド」?
どうかんがえたって、
「日本企業のための外国人留学生就活ガイド」じゃないですか。
日本語は正しくつかおうよ。

さて。これに輪をかけてひどいのが、

凡人社刊の『これで安心! 外国人留学生のための日本就職オールガイド』(2009)
1900円。たかっ。大学の就職課に置かれることを前提につくられた本なんだろうけど。
個人じゃかわないよね。

です。これ、ひとつだけ評価すると、ちゃんとルビがついてる。ほめるところじゃないけど。
あたりまえのこと。
学生支援機構のガイドブックがどうかしてるってだけだけど。


第9章 履歴書
履歴書の書き方・基本ポイント

履歴書は指定がない限り手書きが基本。文字を見て几帳面さや熱意を見る会社もある。
字は、上手ではなくてもマナーを守って丁寧に書こう。(p.102)


あーあ。
「文字を見て几帳面さや熱意を見る会社もある」なら、ほんきで「留学生のため」を思うなら
「字はなるべく乱暴に汚くかいて、筆跡診断を人事採用につかうようなあぶない会社からまちがって内定をもらわないようにしましょう」じゃないかな。
そして次がすごい。


第10章 会社説明会

聞いてイメージを悪くするマイナス質問

◎給料・残業代・賞与の金額や休みに関すること
給与や賞与は、調べれば分かるので、説明会の場で質問する必要はない。お金に関する質問はあまり印象がよくない。休みは権利だが、「入社する前から休むことを考えている?」と思われ、マイナスイメージだ。

◎残業はあるか
仕事は責任を持って臨むことが常識だ。納期・締め切りに間に合わなかった場合、残業をすることもあるだろう。残業にこだわると、仕事への責任感のなさが伝わってしまう。

◎母国へ帰国したい意志を伝える
「○年度に母国へ帰国したいのですが、御社の海外拠点へ出向させてくれますか?その際、条件は日本人と同様ですか」
自分の都合を一番に考えている学生を欲しいと企業は思わない。特に企業が留学生を採用する際の不安な点は「すぐに帰国してしまわないか」だ。あくまでも企業側の希望を一番に考える姿勢で臨むことが大切だ。

◎ホームページや会社案内、配付資料などに記入されていること
質問した内容が「○○を見ればかいてあるのに…」「さっき説明したのに…」と思うことだと印象が悪くなる。事前に企業のことをよく調べて頭に入れておこう。(p.120)


えーと。なにこれ。
これが本気で「留学生のための日本就職オールガイド」という本なの?
書名まちがってるよ。

「留学生を採用する日本企業と就職率をあげたい大学就職課責任者のための留学生奴隷化オールガイド」でしょう。
誤植がひどいですよ。

ただ、この本、出版されていいな、とおもうことがひとつだけあります。
ぜひ、この本は日本語学科がある大学や、その近隣の高校の図書館に、土地の言語等で翻訳したのをおくべきです。
ぜったいに、置くべきです。

それでね。将来を担うわかい大学生や高校生にね、「あ、日本語を専攻するのやめよう」って、正しい選択をしてもらうために。
とても意義のある一冊です。

日本に留学してからじゃ遅いんです!ぜひ大学、いや高校生のうちに!
posted by なかのまき at 22:15| Comment(4) | TrackBack(0) | 日記