2010年11月01日

なんでもない、ごくふつの、どこにでもある国語教育

連日同じネタですみませんが国語教育。
読まされるほうもたまったもんじゃないだろうけど、かく私もかなりうんざりです。

いじめられてる桐壺更衣萌え〜な論文

で、国語教育と奴隷教育のコラボレーションはさすがに新しいネ!
みたいな記事をかいたのですが。いや……そうでもない……

類似の記事を発見。もう、床にすわりこんでしくしく泣きたい。

三井庄三(よみ不明)(2010)「深沢七郎『楢山節考』―登らなければならない道」『国語教育(雄東京法令出版)』平成22年10月号 pp.68-69

二 独特な人物「おりん婆さん」
(略)おりんの人物像の特徴について、新潮文庫の解説で日沼倫太郎氏は、<『楢山節考』は民間伝承の棄老伝説をテーマとした小説で、おりんという老婆が主人公である。普通姥捨といえば拒みいやがりながら捨てられる老人を想像しがちであるが、『楢山節考』の主人公はみずから進んで捨てられようとする型破りの女性だ。それというのも、自分の住む村や家に食物が乏しいからで、彼女は楢山に捨てられる日を早めるために自ら石で前歯を折る。>


三井氏は、日沼倫太郎氏の文章をこう紹介したあと、つづけてこう書きます。

このおりん・辰平と対照的なのが、隣家の楢山を望まない銭屋の又やんと、父親を縛ってでも棄てる倅とである。この対比からすれば、前者のおりんは確かに「型破り」ではある。ただし、おりんは、一般に母親なら共有している「母性」によって、衝撃的なのだ。今のジェンダー論では、「母性」の強調は問題かもしれないが、である。


強調は引用者です。
……えーと。
「楢山に捨てられる日を早めるために自ら石で前歯を折る」というドMな人をゆびさして、「一般に母親なら共有している「母性」」といいあらわすのはどういう趣味・嗜好ですか?

「一般的にボクのママはドMなんだよ! そういう設定が萌え〜!」宣言。

なんだこれ。
……いやいや。またはらだちのあまり、個人の趣味・嗜好に矮小化して茶化してしまいました。
いけませんね。

ちがう。べつにおりんは、「型破り」ではない。
わりとよくいるんじゃないかな?
「正しい」ことのために、みずからの命を簡単に投げ出せるひとって、歴史をみればわりとたくさんいる。
あと、「世間様の目」って、人が自分を殺すには十分な圧力をもってますよ。「村の掟」ね。

だから、そこまで「型破り」とはおもえないな。
「私1人ががまんして死ねばいいだけの話」っていってね。
よくある奴隷根性でしかないでしょう。

で、その場はしのげるかもしれませんが、それで、息子の辰平だってそのうち棄老されるんですよ。
「私1人ががまんして」死んで、そういう社会のシステムが維持されることに荷担してしまえば。そのうち、自分が死んで守ったはずの息子も、自分と同じ死に方をする。
いったいおりんは何を守ってるのか。

で、そのなんの解決にもならないくだらない自己犠牲を、「彼女は楢山に捨てられる日を早めるために自ら石で前歯を折る」という行為を、「一般に母親なら共有している「母性」」というのか。
そんなばかなもの、くだらないもの、「一般の母親」には一片たりとも共有してほしくないです。

そして、しめくくりの「今のジェンダー論では、「母性」の強調は問題かもしれないが、である。」という文章がっ……もう、ここまでくると怒りが言語化できません。

というか、見識を疑うのは、この三井庄三氏ではなく、『国語教育』っていう雑誌の編集者です。
なんで『国語教育』っていう名前の雑誌にこんな文章をはりつけて、平気でいられるんだろう。

posted by なかのまき at 21:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 国語教育