2010年11月12日

「滋養をつけなさい。飽食の時代だけど。」

こんにゃく<だいこん<ごはん<バター

だいたい、同じ重さなら、うえのように食物のカロリーが高くなるとおもわれます。
で、そのことをさして「バターは栄養がある」っていったらどうでしょうね。
「カロリーが高い=栄養がある=いいこと」
みたいな。
「バターさいこう!」みたいな考え方があったとして。
それは『火垂るの墓』で清太が「滋養がどこにあるんですか!」っていう、そういう時代の価値観ですね。「栄養=カロリー」って。
あと、かりにそういう時代だったとしても、バターに食物アレルギーがある人には、「バターさいこう!もー、バターたべない人間はダメだ!」っておしつけは、めいわくだとおもわれます。


大津由紀雄編『ことばの宇宙への旅立ち2 10代からの言語学』ひつじ書房・2009

から

酒井邦嘉(さかい・くによし)「脳に描く言葉の地図」pp.59-96

リアルな対話を大切に

 最近特に、周りの人との「リアルな対話」をもっと大切にする必要を感じています。ある友達に、同じ内容をメールに書いて送る、手紙で送る、電話で話す、そして実際に会って話す、という四つの場合を比べてみましょう。同じ内容を伝えているわけですから、情報量は同じでしょうか?そんなことはありませんね。メールは活字、手紙は手書きの文字、電話は音声、そして実際に会った場合は映像ですから、それぞれディジタル化して記録に残せば明らかなように、この順番で情報量が増えています。たとえば伝えたい内容が「明日十時に会いたい」ということならば、大差ないように思えるかもしれません。しかし、忙しくてなかなか会ってくれそうにない人、疎遠にしている人、意中の人、というように相手が変われば、すべてメールで済ますというわけにはいきません。(略)
 それから複雑な内容や深刻なことがらを伝える場合は、メールよりも手紙や電話の方がはるかにすぐれた通信手段になり得る、ということを忘れないようにしたいものです。実は、そこに言語の隠れた本質があって、発話の抑揚(prosody)の中にも豊富な言語情報が含まれているのです。丁寧に手書きで綴られた文章は、メール以上に書き手の誠意や真心も伝えられることも確かですね。(pp.83-84)


強調は引用者です。
うん。確かじゃありませんね。
プロソディと手書きを並列にかきならべて「確かですね」っていってはいけないでしょう。
プロソディに関してはちゃんと言語学の研究の蓄積があるわけですが。手書きになにか、プロソディと同列にとりたてられるようなはたらきがあるっていってる研究はありますか。
次元の違うものを一緒にならべちゃだめでしょう。
「10代からの言語学」っていうタイトルのついた本で。
あと、音声言語と文字言語を無条件でくらべる姿勢がものすごく疑問です。

ええと。長く引用したのは、なんかこのぶぶんが全体的によくわかんなかったので。

まず、


「メールは活字、手紙は手書きの文字、電話は音声、そして実際に会った場合は映像ですから、それぞれディジタル化して記録に残せば明らかなように、この順番で情報量が増えています。」


ここの文章の意味がよくわからない。
「ディジタル化して記録に残せば明らか」って、どういう作業のことだろう。
えーと。

テキストファイル<画像ファイル<音楽ファイル<動画ファイル

と、データが重くなる傾向があるっていうことをいってるのか……な?
情報量=データの重さってことでいいのかな。
まあ、わかんないのでこの解釈でいきましょう。
あと、情報量が多ければ多いほどたくさんのことを伝えられる。みたいな言い方をしてるようにみえるんですが、
この情報があふれかえった時代にいったいなんの話をしてるんだ。

「それから複雑な内容や深刻なことがらを伝える場合は、メールよりも手紙や電話の方がはるかにすぐれた通信手段になり得る、ということを忘れないようにしたいものです。」
そりゃ、なる場合もあるし、ならないばあいもありますね。
時によりけり、場合によりけり、人によりけり。
あたりまえだけど。

「丁寧に手書きで綴られた文章は、メール以上に書き手の誠意や真心も伝えられることも確かですね。」

何度もかくけど、
左手書字者は「パンがないならお菓子を食べればいいじゃない」みたいな調子で、「左手で字が書きにくいならパソコンで書けばいいじゃない」っていわれてるんですよ。
つまり、左手で字を書くくらいならパソコンで書け、っていわれてる人たちがいるわけですよ。
「丁寧に手書きで綴られた文章は、メール以上に書き手の誠意や真心も伝えられる」じゃあ、ペンをもてない人や左手書字者はどうすればいいの? 手書きで字がかけないなら誠意や真心をつたえることをあきらめろと? 
別にあきらめる必要ないでしょ。メールで誠意や真心のこもった文はじゅうぶんにかけます。あたりまえだけど。

パソコンで書いたメールが、手書きの手紙より誠意や真心の面で劣ってるなんていうわけのわからないことをいったうえに、その根拠が「メールは手書きに比べて情報量が少ない」という、さらにわけのわからないもの。情報量の大小と「誠意真心」になんの関係が?
それで、右手で字がかけなかったり、かきにくかったり、かきたくない人をそんなわけのわからない理由でおとしめてはいけません。
手書きの手紙とパソコンケータイメールを無意味にくらべて、パソコンケータイのメールを劣っていると差別してはいけません。

このように、手書きの字とくらべて、パソコンケータイ打ち出しの字をわけもなく差別するような人がいるからこそ、私は「左手で字が書きにくいならパソコンで書けばいいじゃない」っていいすてるひとに、「ちょっとまって、それでいいの? だめだよ」っていいたくなるんです。


posted by なかのまき at 20:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記