2010年11月22日

照手姫とかぐや姫

はい。今日も国語教育です。

さいきん、きょくたんに変な国語教育の論文をたてつづけに紹介してしまったので、
ものすごーく、よくある、ふつーの、国語教育の論文を紹介しますね。

これは、よくよく選んだのではなく、そのへんにあった教育学部のある大学の雑誌を、適当に手にとったものです。
さて。

加藤寿志(よみふめい)(2010)「(随想)伝統的な言語文化をどう教えるか」『岐阜国語教育研究』8 pp.115-119

さっそく引用します。


二 国際的な「愛国心」を
「国を愛する」ということは、決して日本が世界の中でいちばんよい国だと思うことでなく、日本が世界の中でよい国だと思うこと。国粋的ではなく、いわゆる国際的な愛国心を育てることこそ、先の大戦による過ちを深く反省し、その教訓を生かすことであろう。


あああ……


(略)現在伝わっている物語の中で、最も古い「竹取物語」が、月という別世界に憧れ、広大な宇宙とのつながりを感じさせるものであると気づくことや、現存する最古の歌集「万葉集」には、天皇や貴族だけではなく、名もない兵士や農民など幅広い階層から集められていることを知ることだけでも、自然の中で暮らし、大らかで寛容な心をもっていた祖先のすばらしさに気づき、日本人がそれらを伝え続けてきたことに誇りを感じるのではないだろうか。しかも、月に向かって吠え、狼男になってしまうような凶暴な話ではなく、月のように美しく手の届かない存在である「かぐや姫」が登場する話に、日本の風土を感じる。


おもしろすぎてながながと引用してしまいました。
あー。適当に選んだんですが、この論文もちょっと……ふつうじゃなかった。

「先の大戦による過ちを深く反省」なんてかくなら、『万葉集』の政治性を自覚してなんかいったほうがいいとおもいますが。


品田悦一しなだ・よしかず(2001)『万葉集の発明―国民国家と文化装置としての古典』(新曜社)

これをよむべきでしょう。

「現存する最古の歌集「万葉集」には、天皇や貴族だけではなく、名もない兵士や農民など幅広い階層から集められていることを知ることだけでも、自然の中で暮らし、大らかで寛容な心をもっていた祖先のすばらしさに気づき」

こーゆーありがちなヨタ話について、こまかく検証されてます。


国民的な愛着を集めている『万葉集』は、まさに日本の「国民歌集」の名にふさわしい。しばしば”日本人の心のふるさと”とか”日本文化の偉大な遺産”などと形容されるのもそのためだが、しかし多少反省してみればわかるように、実は古代の貴族たちが編んだ歌集であって、奈良時代末期に成立して以来、一千年以上というもの、列島の住民の大部分とはまったく縁のない書物だったのである。平安時代の歌人・歌学者や、中世の学僧・連歌師、近世の国学者・民間歌人の活動にもかかわらず、一般には書名すら知られていないという状態が、まず明治の中頃までは続いていたと見なくてはならない。(p.13)


ということで。

さて。論文にもどります。
これも実践研究なんですが、竹取物語の「くらもちの皇子」の気持ちを理解しよう!
というとりくみです。

第一学年で学習する「竹取物語」には、「かぐや姫」に求婚する「くらもちの皇子」が、偽の「蓬莱の玉の枝」を持参し、架空の冒険譚を語る部分がある。そこで、三年もかけてそこまでする「くらもちの皇子」の「かぐや姫」との結婚に対する思いを考えることを通して、どうしても姫と結婚したいだけでなく、人を騙してさらに名誉を得ようという思いがあったことに気づかせ、昔の人も、現代の恋愛ドラマにもあるように、同じようにものごとを考え、暮らしていたことに気づかせる授業を行った。(p.117)


くらもちの皇子っていうひとは、かぐや姫の5人の求婚者のうちの一人で、「蓬莱の玉の枝」を取ってこいとかぐや姫に命令されて、取りに行かないでおうちで金銀玉をつかって職人につくらせた人。
で、「とってきました!」っていって反婚のかぐや姫ピンチ、ってところに枝をつくった職人が「給料はらってください」って言いにきたおかげでバレて、結婚できなくて職人にやつあたりするという人ですね。

「現代の恋愛ドラマにもあるように同じようにものごとを考え暮らしていた」
って、現代の恋愛ドラマに、蓬莱の玉の枝をとってこい、みたいなこんな超展開ありますかね。
それで、結論


その後、結局偽の玉の枝を作らせた策略が破れてしまうことから、嘘をつかずに生きることは大切だ。現代でも同じことがあって、今も昔も変わらない。」などの発言があり、学習後には、次のような感想があった。

 この話は、今から千年以上前に作られたので、人間の心は今も昔も変わっていないことがわかりました。物語を書いた人は「後のことを考え、うそはつかないようにして下さい」と言いたかったのだと思いました。(女子)
 皇子は、うそをついてまで姫と結婚したくて、最後にばれてしまいました。うそが必ずばれる体験が今も伝わっています。しかも、うそは人の信用をなくすので、今も昔も、うそをついてはいけないことは同じなのだと思います。(男子)


とまとめてありました。
「うそをつくのはやめましょう」
うん。なんて安心の道徳教育。
まあ、これがよくある国語教育の論文です。
私はみなれてるので、これくらいではおどろきませんが。
やっぱりちょっとすごいよなあ。いろいろ。

ところで、どうしてかぐや姫の心中まる無視で、男の登場人物視点なんですか。この授業。
どうしてくらもちの皇子なんていう、つまんないおっさんの心の中について、クラス全員で話しあわなければいけないんですか。
それよりはかぐや姫がなんで5人の求婚者に無理難題をふっかけたのか、とか。そういう話のほうがおもしろくないですかね。

とゆーわけで、論文をしょうかいします。

高橋圭子(たかはし・けいこ)2010「高校古文教科書を考える ジェンダーの視点を中心に」『世界をつなぐことば ことばとジェンダー/日本語教育/中国女文字』(遠藤織枝・小林美恵子・桜井隆編著)三元社

高校古文の教科書にでてくる教材のジェンダー分析です。

高橋氏は、

現行高校教科書の古文教材を分析し、教科書の編著者も教材の作者も登場人物も、すべて女性より男性のほうが多いこと、基本的には女性の作品は和歌および王朝文学であること、女性像の大半は「男の訪れを待つ」・「恋の歌を詠む」・「身分をわきまる」、といった要素で占められていることを確認した。


として、

だが、これだけが古文の世界の女性像ではない。もっと生き生きと活躍する女性像を生徒たちに提示してもよいのではないだろうか。
 ここでは、その候補のひとつとして、「小栗判官・照手姫」の伝承を提案する。(p.269)


とのべています。
うん。こういう研究は必要だとおもうし、なにより、いま、日本文学はジェンダー分析がとてもさかんにおこなわれています。古典作品のジェンダー論で卒論をかいて卒業する学生は、どの文学科にも毎年かならずいるはずだし、日本文学科の学生は国語の教員免許をとる人もわりといる。
そうかんがえると、高校でそういう授業がおこなわれても、すこしもおかしいはずはないです。

ただ。「小栗判官・照手姫」でいいのか?
照手姫なんか、めちゃくちゃ夫に尽くす妻じゃない。
高橋氏は「小栗判官照手姫」を提案する理由として


照手は所謂「王子様」の救いを待つ「お姫様」ではなく、自らの力で逆に小栗を救う。紙幅の都合上省略したが、青墓の主人が遊女にしようとするのを拒む場面、車を引くために主人に休暇を懇願する場面、道中変装をする場面などには、照手の知恵と才覚が漲っている。実に魅力的なヒロインである。(p.281)


としています。
もう、ずーっと夫に忠誠をちかって、貞操をまもってつくしつづける女ですよ。
こんな女、ただの男に都合のいいだけの存在じゃない。

あと、ちょっとこの文章、信じられないんだけど。
「青墓の主人が(照手姫を)遊女にしようとするのを拒む場面」これ、だいじょうぶですか?
この行為を「魅力的」といっていいの?
ただの職業差別じゃないの。大丈夫ですか?
教室のなかでセックスワーカーへの偏見や差別意識をうえつけるような授業が行われてしまいませんか?

で、
そういう意味でいうなら、
私は、照手姫よりかぐや姫が魅力的ですけどね。

かぐや姫こそ、反婚、反天皇、反権力(ちょっとはおもねる)をつらぬき通して、しかも結婚しろという翁をリクツで言い負かしたりしてる、すごい人だとおもいますけど。
法律婚して制度にぬくぬく守られながら「男女平等」なんて言葉をぬるっと口に出すような人の何百倍も、過激にフェミニストですけどね。かぐや姫。

まあ、べつにかぐや姫はフェミニズムの思想をもってたわけではなく、下界の人間との結婚がいやだっただけでしょうが。人間の女がサルの王に求婚されてもすこしも嬉しくないのといっしょでしょう。

竹取物語も源氏物語も、やりようによってはジェンダーの視点をもちこんだときに、おもしろい教材に十分になるとおもいます。
というか、源氏物語はかなりそういう分析されているでしょう。日本文学の世界で。

竹取物語もできます。
「うそをつくのはいけません」とか道徳やってるよりね。

天皇や権力の暴力性。
翁や5人の求婚者の身勝手さ。
空気のような媼の存在感のなさ。
そして天上人であるかぐや姫の地上の人間へのあなどりと軽蔑のまなざし。
そういうのをとおしてみていくことで、

現在の制度化した恋愛(だんじょこーさい)や、結婚のうさんくささ。
権力というものの残酷さ。
そういうものにひきよせて、あぶりだしていくことができるんじゃないでしょうか。
やりようによっては。
正直、照手姫よりいい素材だと思います。

……えーと、このネタは2週間くらいいじくりまわしたのでものすごくとりとめのない記事になってます。すみません。
posted by なかのまき at 21:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

はじめに私小説があった

今日はヨタばなしをします。

某所で、音楽と人格の結びつきみたいなはなしになったのですが。

あらすじを説明すると、
私は大学のとき、音楽系のサークルに半年だけ所属してたことがあるんですが。
ある日のミーティングで、
「トレーナーの先生に挨拶しないやつがいるが、音楽にたずさわるものが挨拶をできないとはけしからん」
みたいなことを4年生がいいはじめて、
「あ、ここいやだな。こんなこという人間を野放しにしておく組織にはいたくない」
っておもってやめたんです。

それで、書道だけじゃなく、音楽も人格にむすびつけられるときもある。ってことになって。
でもぎゃくに「芸術家は変人がおおい」みたいなのもあるよね。
って話になったのですが、それをふまえて。

そう、たまたま最近「来年から作文もやって」っていわれて、
参考文献になるかとおもって、
大塚英志(おおつか・えいじ)の『キャラクター小説の作り方』という本をよんだのですが。

私が読んだのは角川文庫版です。

そこの、「はじめに」で


人は何故、小説家になりたいのでしょうか。実はぼくにとって一番の疑問はそれです。(略)「小説家になる」ということは、どこかで「自分が自分であること」と不可分に結びついているような気がして、それがぼくには不思議です。(略)小説家というのは生まれつき小説家であるか、ある日、突然、天から小説家の人格が降りてきてとり憑くかでもしない限り人は小説家たり得ないことになります。けれどもこういう言い方を作家たちが好んでするのは「小説家」であることが本人たちの「私であること」と不可分に結びついているからのように思えます。だから小説家たちは小説を書くこと以上に自分のキャラクター作りに熱心です。「無頼派」とか「アウトロー」なんていうキャラクターの作家は昔から山ほどいますが、本人が言うほど破綻した生活を送っているわけでもありません。小説家になる運命云々も神宮球場の出来事(引用注:村上春樹のエピソード)も小説家であることが小説家自身にとっても「私」であることとやっかいにも結びついているからです。(pp.8-9)


とかいてあります。
「私」と小説そのもの、そして小説家であることが不可分な世界があると、大塚氏は指摘しています。
そして「私」の演出のために「無頼派」とか「アウトロー」をよそおう。

つまり、「その人の人格が作品に出る」というものの言い方は、初心者をまじめに練習させるときにもつかわれる。その場合は「まじめさ」「どりょく」「ねっしんさ」を演出せよと要求される。
そしてぎゃくに、すでに成功してしまった人間の、他を超越した才能をきわだたせるためにもつかわれる。そのばあいは、「無頼派」「アウトロー」がつかわれる。
どちらもおんなじなわけです。
作品と人格を結びつけるという点では。

作品や職業と「私」を不可分なものとしているその理由として、大塚氏はこう指摘します。


小説家になることが「私捜し」と密接に結びついてしまったのは、この国の「文学」が大なり小なり「私小説」という伝統の上に成り立っているからです。そして、小説家志望者たちが小説家にうまくなれないのは、「私探し」と「小説を書く」という行為をうまく区別できないからのように思えます。(p.9)


『キャラクター小説の作り方』という本は、徹底して文章をかくテクニックについて述べています。
小説家となるための心得、などという精神論にはしることをきつくいましめています。

そして、「私」と「小説をかくためのテクニック」を不可分なものにしているのは、私小説という伝統のせいだ、と言っています。
しかし、はたして「私さがし」と「テクニック」をわけられないのは、小説だけなのでしょうか。書道も音楽もスポーツにもテクニックと不可分の「私」がいる。
日本の私小説という伝統の上に、書道や音楽や部活動がなりたっている、というように言えるのではないでしょうか。

もちろん、大塚氏はそんなことは言ってません。

しかし、小説が「私探し」と不可分であるのが私小説という伝統に由来するのであれば、書道と「私探し」が不可分であるのも私小説の伝統に由来するといえるのではないでしょうか。

すべての元凶は、私小説である。


……ヨタばなしもいいとこだな。
ちょっと魅力的だけど。


(あ、大塚氏がヨタをとばしているといっているわけではなく、書道と私小説をむすびつける、私の言い方がヨタなんですよ)
posted by なかのまき at 00:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記