2010年12月08日

壮大なつじつまあわせ

『こんにちわ』撲滅委員会

というサイトがある。
とてもくだらないことがかいてあるサイトなのだけど、ちょっと思ったことがあってとりあげます。

あいさつの「こんにちわ」という表記を撲滅しようという恐ろしい会です。
なに、撲滅って。

で、ちゃんと批判がありますのでこちらも紹介します。

「こんにちわ撲滅委員会」撲滅委員会

「こんにちわ」について考える三鷹のどうでもいいお話


だいたい、上の2つのサイトで批判されていることにつきるのですが、いちおう私からも。

『こんにちわ』撲滅委員会のサイトでは、「こんにちわ」を撲滅すべき根拠は以下でのべられています。

こんにち○を検証する

文法的なアプローチ

日本で一番普及している辞書「広辞苑」にはこうある

こんにち‐は【今日は】
(「今日は…」と言う挨拶語の下略) 昼間の訪問または対面の時に言う挨拶語。

「こんにちは」は「今日は、よいお天気ですね」の後半部が省略された形だとされ、「今日は」は「今日(名詞)」+「は(助詞)」であるため「は」表記が正しいと言える。そもそも助詞には「わ」はないからである。「今日はどちらへ?」という挨拶も元々は疑問文であるが、相手の答えを要求しない挨拶文である。「へ」を「え」と発音するからといって「今日はどちらえ?」にはかなりの違和感を覚える。

これには反論もあろう。挨拶語は感動詞とも考えられるからだ。例えば「はじめまして」は感動詞である。これを応用すると、「こんにちわ」も感動詞であり、一語だと考えて「こんにちわ」表記が正しいとする説もある。しかし仮に感動詞だとしても、「今日は(以下略)」という成り立ちを尊重するならば、「こんにちは」(感動詞)とするべきである。以上の基礎国語文法は、小学校段階の国語で習っているはずである。


本文の強調などは引用にあたって削除しました。
えーと、「こんにちわ」を撲滅しなければいけない根拠として、文法をあげています。

えっと。
現代語の「こんにちわ」もしくわ「こんにちは」の「わ/は」を助詞の「は」だとおもってる日本語学者は一人もいないとおもいますが。
もし、これを「基礎国語文法は、小学校段階の国語で習ってい」たりしたら、そりゃ大変なことでしょう。
「習っているはずである」わけがない。
文法的アプローチになってない。

「こんにちは」は「今日+助詞のは」だから「こんにちは」というのは、
これは、どっちかというと語源を問題にする「歴史的アプローチ」なんですね。
表記の正当性をいうのに、歴史的アプローチそのものは現実にある。
ただ、文法的アプローチと歴史的アプローチを混同してはまずい。

というのが一つ。
あと。
もっと根本的に。

文法的正しさは表記的正しさを保証しない。

これは、じつは「こんにちは」が「正しい表記」となっていることが実例だ。
「こんにちは」の「は」は助詞の「は」ではない。
しかし、現代仮名遣いでは「こんにちは」の表記は「こんにちは」が正しい。
文法の正しさと表記の正しさはそれぞれ独立している。

文法の正しさは、表記の正しさを保証しない。
そして、表記の正しさは、文法の正しさを保証しない。


ちなみに、「現代仮名遣い」では「こんにちは」の「は」を助詞の「は」としてとりあつかっている。

現代仮名遣い 第2 表記の慣習による特例


しかし、これは「現代仮名遣い」の記述がへん。というだけのはなし。へんというより、もともと助詞の「は」を「は」と書くのは「表記の慣習」という意味あいがつよいわけで。慣習を文法の正しさより優先させている。これが表記の「正しさ」です。

というわけで、文法は、この場合は関係ありません。「こんにちは」の「は」を「は」とかくのは、これは完全に表記の問題。そこをとりちがえてはいけません。

というわけで、根拠のへんなところを指摘したうえで、
このページ、じつは点字の表記についても触れていて、そこがとても興味深い。
同じく
こんにち○を検証する
から、

タイプミス?

「こんにちわ」と書く人は、たまたまキーボードを打ち間違えただけなのだろうか? この答えはノーである。

キーボードで「わ」とローマ字で打つ場合は「w+a」と打ち、「は」と打つ場合は「h+a」と打つ。wとhは位置が離れている上に、正しいタッチタイピングで打つ場合は「h」は右手で「w」は左手で打つためたまたま間違えたということは起こり得ない。私もよく「以外に(「意外に」の間違い)この本は面白かった」などとやってしまうことがあるが、この手の誤字とは根本的に違うのである。

ちなみに私の使っているATOKの辞書では「こんにちわ」と打って変換すると「紺に痴話」と出てくる。ATOKで基本の挨拶が間違って変換されるなど考えられないため、このことからも「こんにちは」が正しいと言える。

【注】読者のAlumiさんから教えて頂いたのだが、「点字」の表記では、「て に を は」の「は」は、「わ」と表記するのだそうだ。つまり点字では、「私は」は「わたしわ」となるため、「こんにちは」は「こんにちわ」となるのだとか。当サイトでは、点字の表記を間違っているとするものではなく、別の表記の仕方だと考えてる。ちなみにAlumiさんは、メールやネット上の表記では「こんにちは」を使っていらっしゃるそうだ。勉強になる。(『こんにちわ』撲滅委員会会長)


ちょっといらないところまで引用したのは、「タイプミス?」という項にわざわざ点字の話をもってきている悪意をかんじとってもらいたかったから。

重要なところだけ。抜き出します。


「点字」の表記では、「て に を は」の「は」は、「わ」と表記するのだそうだ。つまり点字では、「私は」は「わたしわ」となるため、「こんにちは」は「こんにちわ」となるのだとか。当サイトでは、点字の表記を間違っているとするものではなく、別の表記の仕方だと考えてる。ちなみにAlumiさんは、メールやネット上の表記では「こんにちは」を使っていらっしゃるそうだ。勉強になる。(『こんにちわ』撲滅委員会会長)


点字では墨字の助詞の「は」を「わ」に相当する字でかく。
これはいい。

「点字の表記を間違っているとするものではなく、別の表記の仕方だと考えてる。」

ここも、べつにわざわざかく必要もないほど当たり前のことだ。
墨字で「こんにちは」が正しいとされるのは、墨字の表記の仕方であり、
点字で「こんにちわ」とかくのは点字の表記の仕方である。

べつにどちらの表記がより正しいとかより間違っているなどということはない。
日本語で文章をかくとき、
墨字ではあいさつの「こんにちは」は「こんにちは」と表記する。
点字では「こんにちわ」と表記する。

さて。これを確認して。
このページの「はじめに」のところにもどろう。こう書いてある。


はじめに

言葉は変わる。いずれ「こんにちわ」が「こんにちは」よりも優勢になり、常識になる時代も来るかもしれない。しかしそんな中、あえて「こんにちは」を死守したいと考える団体が、今あってもいいのではないか。

「正しい日本語」とまで話を広げるつもりはない。当団体は「『こんにちわ』撲滅委員会」で「正しい日本語推奨委員会」ではないからだ。このサイトは「2000年代初頭」の「日本語の挨拶『こんにちは』」にこだわるという趣旨のサイトだということをまず言っておきたい。

例えば英語では Hello 、スペイン語では Holaと書く。もし日本人が、「『ハロー』と発音するから Hallo でいいじゃない」、「『オラ』だからそのまま Ola と書いても間違いじゃない」「そんなのどうだっていい」「言葉は変わるんだから」……などと言ったら、その言語を母語とする外国人は「でもそれは間違っている」と返す人が大半だろう。

母語なのに Hallo、 Ola と書いている英語圏人、スペイン語圏人をあなたはどう思うのか? 日本人なのに挨拶の言葉一つまともに書けない人をどう思うのか? また外国人に指摘されたときにどう弁明するのか?

 子供に国際化だ、英語教育だという前に、まずは自分の国の言葉で挨拶ができる人間を育てるべきなのではないだろうか。




「「日本語の挨拶『こんにちは』」にこだわるという趣旨のサイト」「日本人なのに挨拶の言葉一つまともに書けない人をどう思うのか?」という文句が目に付く。

点字は日本語ではないのか。点字で「こんにちわ」と表記する人は「日本人なのに挨拶の言葉一つまともに書けない人」なのか。



「「日本語の挨拶『こんにちは』」にこだわるという趣旨のサイト」「日本人なのに挨拶の言葉一つまともに書けない人をどう思うのか?」




点字の表記を間違っているとするものではなく、別の表記の仕方だと考えてる。


たった1ページのほんのちょっとした間にここまでの矛盾をかかえて平然としていられるのは、ここに、『こんにちわ』撲滅委員会会長という人が頭の中で壮大なつじつまあわせをおこなったと考えないと説明できないわけなのだけど。


なんか、私は、「文法的アプローチうんぬん」のところも、「あー、へんなこといってるな。どうしょうもないなー」とは思うのですが、おおもとの「現代仮名遣い」がわけわかんないこと書いてあるからしかたがないかな、とも思います。

だけど、この壮大なつじつまあわせの部分は、非常に気になるんです。こわい。
だって。ここは専門知識なくても判断できるところでしょう。点字では「こんにちわ」とかくということをふまえつつも、だけど日本語の正しい表記は「こんにちは」である、と書いて平然としていられるわけで。点字は日本語じゃないの?おかしくない?って、それは判断できるでしょう。

この、壮大なつじつまあわせのことが、最近、私は本当に気になります。

専門知識の有無のもんだいじゃなくて、それいぜんのところでつじつまあわせが破綻しているのに当人にその意識がない。

ただ、はたからみれば「どうしてこんなわけのわかんないところで破綻してるんだ」っておもえるのに、当人は平気で破綻していられる、この状態ってべつにめずらしいことでもなんでもなく、わりとちょくちょく見かけるわけで。

たとえば、前にこのブログでもとりあげたことあります。

「それは、よくあるダブルスタンダードですね」

っていう記事。これは川口義一・横溝紳一郎(2005)『成長する教師のための日本語ガイドブック』第3章 日本語の授業の実際(4技能の指導:理論と実践) pp.190-181
にある「書き順は大切。ぜったいに守らないとダメ。だけど左手書字者のことは放置」っていう壮大なつじつまあわせについて述べたものです。


これは、個人サイトでもなく、出版社を通した本なわけで、いろんな人のチェックをくぐりぬけているわけで、こうなってくると

「ああ、これをかいた人が個人的に馬鹿だからだね」

とか、そういう問題でもないわけで。

リクツの矛盾自体もそうだけど、それをうまいことはぎあわせてしまう壮大なつじつまあわせという行為。
ここをものすごく、注目してかんがえなければいけないなあ。と。
と、さいきん考えてます。


壮大なつじつまあわせって、はやりことばでいうなら、認知的不協和の回避っていうやつ。

posted by なかのまき at 21:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2010年12月13日

「うまれつき」のうさんくささ

「うまれつきかうまれつきでないか」ってそれを考察するのはお前の仕事じゃないよ

という記事をかいたのだけど、
うまれつきかうまれつきでないか、
という問いには私はすごくこだわっている。

というか、
「うまれつきかうまれつきでないか」というどうでもいいことをこだわる人にこだわらないではいられない。


ひだりてききのうまれつきうまれつきでないを、なんか科学的に解明するという、研究があって、それそのものはいいんだけど、それになんか意味をもたせちゃだめだよね。

「左利きは右脳人間だから芸術に向いてる」
とか
「左利きは生まれつき天才が多い」
とか
「左利きは性ホルモンの関係で発生するから同性愛者が多い」
とかね。

八田武志(はった・たけし)1996『左ききの神経心理学』(医歯薬出版株式会社)

第3章 きき手誕生のメカニズム

より
なんで左利きが発生するかの説を紹介します。



1.遺伝説
2.脳損傷説
本来なら右ききになるはずが、左脳にごくわずかの損傷があるために右脳にその役割を肩代わりさせ、それによって左手の使用が多くなる(略)すなわち、未熟児出産や難産による仮死状態での出産などにより、脳に損傷が生じたために左利きになる(略)そして、臨床心理学の対象となる知恵遅れ、吃音、学習障害、自閉症などの子どもに左ききが多い(p.54)
3.脳梁発達説
左ききが生まれる原因に脳梁における交連線維の軸索の欠落が考えられることを裏付ける資料として、未熟児のきき手についての調査報告があげられる。(略)未熟児の中で右ききでない子どもに、IQが低いことと言葉の発達が遅いことも見いだされた。(p.62)
4.脳内ホルモン説
左ききが男性ホルモンの異常な分泌によるという考え方は、左ききに自己免疫不全や免疫疾患などが多くなることを示唆している。自己免疫に関係するものには、潰瘍性大腸炎、小児脂肪便症、糖尿病、甲状腺障害、リウマチなどがある。左ききにこのような病気が多くみられるかどうかを多くの研究者が検討している。(p.67)
(略)ホモセクシャルが男性ホルモンが十分でないことから生じるという考え方からは、ホモセクシャルの中に左ききの多いことが予測できることになる。この予測の妥当性をいくつかの研究が検討している。(p.73)


……うーん。まあ、わかりました。八田氏にとっては、
左手ききは正常な右手ききからまちがって発生した異形ってことなんですね。

ひどいな。
いえ。ちょっと、感情的にはひどい、としかいいようがないですが。
まあ。
こういう研究があってもいけないわけではないですね。
そして、そういう結論がででも、かまいません。
男性ホルモンがくるったおかげで私が左手ききになったとか、
そういう結論がでてもかまいません。

いまのところ出てませんが

まあ。
もし将来、左手ききの発生はホルモンのせいということになったとしたって。
いいですよ。「うまれつき」だとわかったとしても。いいですよ。

で、それと、

左手ききを矯正していいかいけないかはまったく関係ありませんからね。

なにかというと、
「左手きき矯正はよくない」
の根拠に「うまれつきだから」をもってきてはいけません。

これについては、

伊野真一(いの・しんいち)2005「脱アイデンティティの政治」『脱アイデンティティ』(上野千鶴子編・勁草書房)pp.43-76

より

2.アイデンティティの生物学的基礎論―性的指向をめぐって

これまでのアイデンティティの政治において、同性愛者がどのように定義されているのか、何が前提とされているのかを検討してみよう。(略)
 原告でアカーの裁判闘争(引用注:「府中青年の家」裁判)本部長であった風間孝は、(略)「同性愛者は人口の10%といわれる。同性を好きになるか、異性を好きになるかという性的指向は、人種や性別と同じように個人の意思で選択できないこと」と語っている。(毎日新聞1994年3月29日)(略)
さらに風間は、性的指向に「本人の意思では選択や転換ができない」という意味を与える他に、「指向」「志向」という言葉を使うことが同性愛を私的領域の問題とみなすことにつながるのだとする。今日では、orientationの訳語として「指向」を選択するという問題から離れて、「嗜好」「志向」と記述されること自体が誤りであるという主張が様々な書き手の著作に散見されるようになっている。しかし本来的には、「嗜好」「指向」であったとしても差別されていいわけでもない。


これは同性愛者の例なのですが、私は伊野氏に強く賛同します。
うまれつきだろうとうまれつきでなかろうと、差別しちゃだめなんですよ。

あまりいろいろなことを一緒にかんがえてはいけないのですが、左手きき矯正にも、伊野氏のいうことはあてはまると私はかんがえます。

小林比出代(2005)「左利き者の望ましい硬筆筆記具の持ち方に関する文献的考察」『書写書道教育研究』20 pp.30-40



 3.9 左手書字から右手書字への「矯正」の是非

という章があるのですが、
ここには「左手ききの矯正は脳やなんかに悪い影響を与えるからしちゃいけません」
みたいなことがかいてあるんですが、おかしいでしょ。

もし脳に悪い影響がなければ矯正していいの?

そうじゃなくて、左利きのききて矯正がいけないのは、
マジョリティがマイノリティをおしつぶすことがいけないから、いけないんでしょ。
そこに「うまれつきうまれつきでない」という生物学的な判断は一切不要なんです。

左利き矯正は、マイノリティをマジョリティへ同化させる差別です。
つまり、「矯正の是非」とは「差別の是非」でしかないわけです。
「矯正していいかしていけないか」という問いは要するに「差別していいかいけないか」
という問いです。
その設問になんの意味があるの?

そして、その答えが「生まれつきだから矯正しちゃだめ」って。
うまれつきじゃなければ矯正していいの?
うまれつきじゃなかったら差別していいの?

もちろん、「左手ききはうまれつきだから矯正しちゃダメ」が説得力があった、戦略として生物学的根拠を採用した、その経緯はしっておかなければいけないし、それを根拠に行った過去の運動に意味がなかったとか、間違ってたとかいう判断をくだしたいわけではないです。

ただ、これからはそれを根拠として使い続けることは、むしろ危険だとおもう。
「うまれつきだから」という、生物学的根拠におすがりしちゃ、だめでしょう。
生物学という科学様をまつりあげられて、お守りがわりにつかっちゃだめです。

posted by なかのまき at 19:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2010年12月26日

かどやひでのり・あべやすし著『識字の社会言語学』(生活書院・2010)

かどやひでのり・あべやすし著『識字の社会言語学』(生活書院・2010)
とどきましたので紹介します。

目次を転載します。

はじめに(かどやひでのり)
第1章 日本の識字運動再考(かどやひでのり)
第2章 均質な文字社会という神話──識字率から読書権へ(あべやすし)
第3章 てがき文字へのまなざし──文字とからだの多様性をめぐって(あべやすし)
第4章 識字率の神話──「日本人の読み書き能力調査」(1948)の再検証(角知行)
第5章 近世後期における読み書き能力の効用──手習塾分析を通して(鈴木理恵)
第6章 識字は個人の責任か?──識字運動でかたられてきたこと、かたられてこなかったこと(ふくむら しょうへい)  
第8章 識字のユニバーサルデザイン(あべ・やすし)
第9章 識字の社会言語学をよむ──あとがきにかえて(あべ やすし)


ほら。目次みてるだけでこれは読まないと。っておもいますね。
このブログととくに大きくかかわるのは、第3章です。


第3章 てがき文字へのまなざし──文字とからだの多様性をめぐって(あべやすし)
        1 はじめに
        2 「文字はひとをあらわす」という社会的通念 
        3 ひだりききへのまなざし 
        4 てさきが不器用なひとへのまなざし 
        5 文字をかくということ/よむということ  
        6 文字の規範をといなおす
        7 おわりに



章だてをみるとわかるように、左手書字についてふれられています。
あと、筆跡診断について。
筆跡診断というか、「書はひとなり」について。


ここで重要なのは、筆跡研究の科学的妥当性よりも、筆跡で性格をしりたい、あるいは、筆跡から性格を診断したいという欲望そのものの問題性ではないだろうか。さらにいえば、筆跡によって人事の決定が左右されるような、てがき文字の社会的位置こそが問題なのではないだろうか。(p.122)


この問いかけにはとても意味があります。
学校の書写・書道の先生が「筆跡から性格の診断をしたい」という欲望をむきだしにしているさまは、このブログで何回かとりあげています。これはとても問題だと私はおもっています。
紙に書かれた字の形から、他人の心の中に侵入したいという欲望はほんとうにグロテスクだ。
そしてそれが「よくあること」と受け入れられている社会もグロテスクだ。

あとは、
「てがき文字へのまなざし──文字とからだの多様性をめぐって」というタイトルのなかに、左手書字の問題を位置づけてくれたのは、私はとてもうれしいです。
私も左手書字の論文をかきながら、「左手利きの人ってカワイソー」っていう文脈じゃなくて、もっとおおきい研究のながれの一つになってほしいな。
ってずっとおもっていたんです。
学校(社会)という場のなかで、どんなふうに、都合の悪い少数者は黙殺されてきたのか、抑圧されてきたのか、その具体例の1つとして使って欲しいな。と、そういう研究のなかで引用してほしいな、ゆくゆくは。とおもっていたので。こんなにはやく願いがかなってしまいました。
これはうれしい。

で、注文としては、左手書字については、ひだりききはひだりききでいいんだけど、左手書字をしているのはひだりてききだけではなく、怪我や病気で右手でペンをもてなくなった右手ききのひともいて、そういう人もものすごく苦労しているみたいで、そういう論文も何本かあるので、それについても触れてあればもっとよかったかな。
とおもいます。というか、これは私が自分の論文でかかなければいけなかったことだー。
1月の改稿のときに……。

っていうのと、関連して「みぎきき」「ひだりきき」ってそんなにきっぱりわけられるものなのかな。区別する必要はあるのかな。
これはちょっと、本の内容から離れちゃうのですが、つねづねおもってるんですが。
「利き手」「私は右利き」「私は左利き」っていう個人の属性にゲタをあずけないで、「右手でも左手でもいつでもどっちでも問題なくつかえる道具と、道具を用意する社会がほしい」っていわないとな。
と。私は考えています。
右利きのひとでも、大きな大切な荷物を右手でかかえているとき、切符を左手でもって自動改札口をくぐるのはおっくう。とか、そういう声は聞くので。
あと、自動改札口は、右手で杖ついてるひとが本当に不便そうです。これはすぐにどうにかしろ。けが人が出るよ。
そう考えると、「みぎききかひだりききか」という個人の属性はわりと、どうでもよくなるんじゃないかな。結果的に。

そんなわけで。
このブログをよんでもらってる人には、おすすめしたいです。
『識字の社会言語学』
書道・書写のせんせえ、読んで欲しいな。ほんとうに。
posted by なかのまき at 23:00| Comment(4) | TrackBack(1) | 日記