2011年02月24日

自己犠牲と諦念の「かさこじぞう」

今日もかさこじぞうのはなしをしよう。

「伝承文学」という学問のジャンルがあります。
民俗学ともいうのかな。
各地の民話や伝説などを採取して、研究しているものです。

で、各地から採取してみると、あたりまえだけど、いろいろなバリエーションがあるわけです。
ひとくちに「かさこじぞう」といっても、じいさんの行いやばあさんの性格にさまざまな変種があって、それを整理してとても面白くまとめた論文がありましたので紹介します。

中村一基(なかむら・かずもと)1988「民話「笠地蔵」の〔構成要素〕〔変容過程〕考―岩手の伝承を中心に」『岩手大学教育学部附属教育工学センター教育工学研究』10 pp.55-62

この論文がすごいおもしろい。

まず、「笠地蔵」について、中村氏は


民話「笠地蔵」は、民話教材「かさこ地蔵」(岩崎京子再話)として現在使用されているすべての小学校二年国語教科書に入っている。(p.55)


と指摘しています。昔話はいろいろあれど、なぜ「かさこじぞう」
いや、他の物語があまりにも、教室のなかで教えられるにはふさわしくないのでしょうねえ。

桃太郎や一寸法師は血なまぐさいし。カチカチ山は婆汁なんてでてきちゃうし。さるかに合戦も殺伐としすぎています。
こんななかで、「かさこじぞう」は悪い人もでてこないし、血なまぐさい展開にもならない、ふわふわ昔話です。
そんなところがうけて、多くの教科書で採択されたわけですね。

そういうわけで、中村氏は「かさこじぞう」を国語教育的に重要な民話として、とりあげ、分析しています。
それではみていきましょう。

「笠地蔵」は、貧乏なおじいさんおばあさんがいて、大晦日に年越しのモチを買うために、おじいさんが町になにかを売りに行って、じぞうに何かをかぶせて恩返しになにかをもらう。
と、このおおまかなあらすじは共通しているようです。

とにかく大切なのは、このおじいさんおばあさんは、とても貧しい。ということです。

で、おじいさんは大晦日をむかえるためのお金の工面のために、なにかを売りに行きます。
国語教科書だと、おじいさんが自分で作ったかさ、ですね。
が、じつは、各地の民話にはこんなバリエーションがあります。

・おじいさんとおばあさんがつくったかさ
・おじいさんが山でとった柴
・おばあさんがためておいた糸臍コ
・おばあさんがおった布
・おばあさんが大切にしていた鏡

鏡はせつないわー。

で、おじいさんが地蔵にかさをかぶせるタイミング
教科書では、売れ残ったかさをおじぞうさんにかぶせてあげます。
が、じつはこんなバリエーションがあります。

(1)おじいさんがかさを売りに行く途中で、寒そうな地蔵にかさをかぶせてかえってくる。(かさをうってない)
(2)町で(ばあさんがつくった)布を売って、その金でかさを買って地蔵にかぶせた。
(3)町で(ばあさんのたいせつな)鏡を売って、その金でかさを買って地蔵にかぶせた
(4)売れなかったかさを地蔵にかぶせた
(5)売れなかった布を地蔵にかぶせた
(6)糸臍コが売れない。かさ売りとしりあって交換

……えー。ものによって
だいぶ印象がかわりますねー。
(4)が教科書パターン
だが。

(1)とか(2)とか(3)とかじいさんなにやってるの。
地蔵に親切にしてるよゆうがあったらばあさんにモチを買ってやれよ!
(2)と(3)はひどいだろう。とくに(3)!

そして、かさを地蔵にかぶせてきた、と報告したときのばあさんの反応も、バリエーションが。
まず、ばあさん怒らないタイプがあって、そのほかに、じつは、おばあさんが怒る話もある。

・濡れた石地蔵にかさをかぶせる。そのことをきいたばあさん怒る

・旅人が来訪して、宿を乞う。ばあさんは拒否する。けど結局とめる。朝、旅人が地蔵と化して鼻からコメをだしていた。

・じいさんが雨・雪に濡れた石地蔵にかさをかぶせる。一体だけかぶせるかさがなく、背負って家に連れてくる。それを見てばあさんは怒る。


地蔵を背負って帰ってくるじいさん……行動的だね。
さて。昔話には「よいじいさんとわるいばあさんの夫婦」というのがでてきます。
有名なのは、したきりスズメですね。
よくばりばあさんがおおきいつづらをもってかえってひどいめにあうやつです。

では、おじぞうさんにかさをかぶせたことをおこったかさこじぞうのばあさんは、
したきりスズメのよくばりばあさん並のわるいばあさんなのでしょうか。

中村氏はこう分析します。

婆の怒りは〔欲心〕からでなく、〔現世利益を願う心〕からである。両者は同一ではない。貧しい民衆の感情という視点からは、米や餅を買ってせめて人並みの正月を迎えたいという現世利益を願う婆の方が、わざわざ笠を買って地蔵に被せる爺よりも自然である。(略)そして、この自然さに拮抗できるのは、爺の異常なほどの善良さ、或いは強い〔地蔵信仰〕心のみであろう。則ち、渡したものが売れなかった時の爺の行為に対して、婆が持った感情は信仰心ではなく、多くの場合〔諦念〕であったという事を忘れてはならない。(p.58)



婆の怒りは欲心からではない。爺が自分たちの生活に余りに無頓着である事に対する怒りである。
このような婆との軋轢を抱え込んだ爺の自己犠牲によって、「笠地蔵」の地蔵信仰への変容は完成する。
 この〔変容過程〕考で明らかになったと思われるが、教材「笠地蔵」は民話「笠地蔵」が最終的に入っていった爺の地蔵信仰と婆の生活者意識との亀裂の問題を避けている。爺の行為を地蔵信仰の共有によって肯定するのではなく、婆は諦念によって肯定していたのである。(略)人並みとは言わないまでもせめてささやかな正月の準備が出来ればという願いを籠めての切り札としての布(鏡)であった以上、それが可能となるのを態々否定した爺の行為は許されないのは当然であろう。(p.61)


地蔵にかさをかぶせたじいさんに対して怒るパターンのばあさんの怒りは、貧乏な二人の生活をかんがえると自然なものである。
また、おこらないで「それはよいことをした」というばあさんだって、それは爺さんに共感しているわけじゃない。じいさんの「異常なほどの善良さ、或いは強い〔地蔵信仰〕心」にたいする諦念がいわせているのだ。
という指摘です。

さて。ここまでみてきたところで。
かさこじぞうにいろいろなバリエーションがありつつ、共通しているのは、
爺の強烈な地蔵信仰です。

つまり、かさこじぞうのテーマは、地蔵信仰。
「自分を犠牲にしてまでいちずに神様をしんじるものは救われる」
です。

けっして
左近妙子(佐賀県唐津市呼子小学校)(2010)「日本語で考え、伝える基礎を楽しく」『教育科学国語教育(明治図書出版)』734号 pp.39-42
にあるような、

「正しい行いをする者は救われる」

ではありません。
というか、地蔵信仰を「正しい行い」とするならそれは、特定の宗教へ誘導する宗教教育です。
これを「正しい」という国語教師はそのへんの自覚はあるんですか。

あと、この論文からわかるのは、
ひとつの民話が教科書にのることで、
都合の悪い他のバリエーションがぜんぶ、どこかへおいやられてしまうことのおそろしさです。
私はこの論文をよむまで、まさに、教科書的かさこじぞうしかしりませんでした。
ばあさんが怒ったり、じいさんがばあさんの鏡を売った金で笠をかったりするタイプの民話は、全部わすれられてしまうのです。

そして残るのは、教育的に都合のいいバリエーションだけ。

じいさんはばあさんの鏡を売った金でかさをかわない。
ばあさんはおこらない。
悪人がでてこない。
貧乏を我慢して、ふまんをもたずに自己犠牲をはらってまでいちずに石人形を信じればそのうちどこからか、モチとコメをめぐんでくれるよ。

という。
なんかちょっと、よくかんがえるといちばんおそろしいストーリーだけがのこった。
posted by なかのまき at 20:17| Comment(2) | TrackBack(0) | 国語教育