2011年03月03日

夢物語としてのかさこじぞう

伊藤龍平(いとう・りょうへい)2009「昔話唱歌・唱歌劇と植民地下台湾の国語教育」『國學院雑誌』110−11 pp.421-433

この論文がおもしろいので、どこを引用しようかまよったので、とりあえず一箇所だけ引用します。

例えば、近代以降もっとも有名となった「桃太郎」(大成名は「桃の子太郎」)の場合を考えてみよう。近世期の絵巻や草双紙の「桃太郎」は、川上から流れてきた不思議な桃を食べて若返った爺と婆が男の子を産むという所謂「回春型」の筋が一般的であった。それが近代になって教材説話化された際に、おそらくセックスの問題を回避するためだと思わるが、桃から直接、男の子が産まれる「果生型」の筋が採択され、それ以前に一般的だった「回春型」の「桃太郎」は駆逐されていった。同時に桃太郎の行き先も鬼ヶ島に限定され、在地伝承に散見される「山行き型」や「地獄行き型」などのタイプも顧みられなくなっていった。かつて野村純一が指摘した、犬・猿・雉の従者たちが登場せず、何もしないで寝てばかりいる「寝太郎型」の桃太郎や、便所の屋根から落ちる慌て者の桃太郎もまた然り。「桃太郎」といえば、桃から生まれた男の子が、お爺さん・お婆さんに育てられて成長し、やがてキビ団子を携えて、犬・猿・雉とともに鬼ヶ島へ鬼退治にいくものとの共通観念が全国的に定着したのである。
 事態は学会においても変わらず、研究者たちの多くも「統合」への夢を胸にフィールドを歩いていた。(略)
こうして、どこにもないが誰でも知っている「昔話」が大量に生まれた。唱歌や唱歌遊戯、唱歌劇の「桃太郎」は、いずれもカノン化の果てに生成したものである。(p.430)


わたし、この部分をよんでびっくりしたんですが、そうでもないですか?
私は回春型のももたろうとか、寝太郎型のももたろうとか、全然しらなかったー。
というわけで、

みんなが、「ももたろう」のストーリーをどうとらえているのか。
「ももたろう」の「ふつーのはなし」をしりたくて、wikipediaをひいてみました。
そしたら、この記事の「概要」が、いいのねー。
たぶん、民俗学にくわしい人がかいてる。


桃太郎の物語は、いくつかの場面で出典により違いがある。ただし、物語後半にある鬼との戦いの場面では、概ねどの書籍でも桃太郎側の視点での勧善懲悪物語となっている。

桃太郎の出生に関しては、桃から生まれたとする場合や、桃を食べた老夫婦が若返って子供を産んだとする場合がある。

桃太郎の成長過程については、お爺さんとお婆さんの期待通り働き者に育ったとする場合や、三年寝太郎のように力持ちで大きな体に育つが怠け者で寝てばかりいるとする場合がある。

成長した桃太郎は、鬼ヶ島の鬼が人々を苦しめていることを理由に鬼退治に旅立つが、その決意を自発的に行う場合と、村人や殿などに言われて消極的に行う場合とがある。

出征時には両親から黍団子を餞別に貰う。道中、遭遇するイヌ、サル、キジにその黍団子を分け与えて家来にする。

鬼ヶ島での鬼との戦いで勝利をおさめ、鬼が方々から奪っていった財宝を持って帰り、最終的に郷里のお爺さん・お婆さんの元に帰って幸せに暮らしたとして物語は締めくくられる。
桃太郎-wikipedia)


さて、というわけで、なにも学術論文をよまなくてもその気になれば昔話の多様性はネット上できがるに知ることができる時代になりました。

それをふまえて。
かさこじぞうのあつかいについて、いろいろ国語教育の論文をよんでみたのですが。

いろいろわかったことがあります。


まず、民話「笠地蔵」は教科書に採択されるにあたって、岩崎京子氏の再話によるものを採用した。
また、それによって、岩崎京子版「かさこじぞう」がカノン化した。

教室のなかでの「かさこじぞう」のあつかいについては、多くの実践研究論文では、貧乏ななかでも賢く、冷静で、前向きにおたがいにきづかいあったじいさまとばあさまの心の交流を中心にとらえているようです。
じいさんの地蔵信仰と、コメやモチをもってくる場面は、庶民の夢物語・ファンタジーとしてわりとさらりとながすのが主流な気がしました。
まあ。「かさこじぞうの」の国語教育におけるあつかいが、ふつうは

「正しい行いをするものは救われる」

じゃないということがわかって、安心しましたよ。

あとなんか、ネット読んでいて目について、一次資料にあたってウラとってないんだけど。
1980年代に教科書の「かさこじぞう」って自民党に「貧乏くさい話」と批判されたの?
このへんはちょっと時間あるときに調べます。

なんか、学習指導要領の変更で神話の導入って、どうするの。
って話をかこうかな、とおもってたんですが、
しらべはじめると、昔話もすごいむずかしいねえ。

道徳教育と縁をきったらもうすこし、楽になりそうではあるけど。
posted by なかのまき at 23:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2011年03月09日

国語教育と筆跡学とニセ科学

今日は国語教育と筆跡学のかかわりについて書きます。

『教育科学国語教育』732号


漢字の基本指導―漢字練習の試み
という特集がありました。

河隅道子(2011)「漢字の基本指導―書写 一年生書写教材「びわの実」を通して」

生徒は基本の点画を守りながら「きれいな字」を書こうとする。それは「文字」を美しく書くだけでなく、自らの内面を筆に乗せて表現しようとする姿でもある。投げやりに書けば投げやりな自分が。精魂込めれば端正に。できあがった作品には、一生懸命なそれぞれの姿が表現されており、自らの心の有りようこそがそこに残されている。(p.46)


山田高広(2011)「漢字嫌い」をなくす指導原理

私は初任の頃から、次のように思ってきた。

字は、その人にとって、顔なのだ。

生徒はよく、書写などをさせると、「字が下手だから」という言い方をする。
私はにこっとしてこう言う。

上手、下手ってあんまり関係ないよ。
丁寧に書くか書かないかの方が大事だな。
丁寧に書いた字は、必ず相手にあなたのよさが伝わる。(p.93)


こういう、国語の先生のものいいが、
字面の形と人間の内面を結びつける思想が、
ニセ科学である筆跡学・筆跡診断と無関係に成立できるものでしょうか。

私は、国語教育の現場のことはわかりません。
「専門家でもないお前になにがわかる!」
ということはできます。

「おまえがこどものときにであった筆跡学よりの教師は、たまたまおかしい教師に出会っただけだ。
おまえの個人的な体験を根拠に国語教師のすべてが、筆跡学に傾向しているとおもわれるのは心外だ!」
という批判は、それはまとを外してはいません。
ただし、本当にそれは、「とある思想的に偏った国語教師個人の問題」に帰してしまってよいのでしょうか。
私は国語教育の現場のことはわかりません。
でもわからないなりに、判断できることはあります。

たとえばなしをします。
たとえば、「教育科学理科教育」という雑誌があったとします。で、「水にありがとうというと美しい結晶ができます」という論文が2本のっていたとしたら、それは、理科教育が危ない。って思います。

たくさんの理科教師のなかでただの一人も、「水にありがとう」を信じてしまった人がいたり、信じていないけど道徳に都合いいからと教室の中で垂れ流してしまうひとがいない、ということは難しいでしょう。
どうしたってハマる人はハマる。
それを「理科教育全体の問題」ととらえてしまえば、それは問題でしょう。

しかし、それと「教育科学理科教育」という雑誌に「水にありがとう」論文が2本のることとは、ちがう。それは「個人的におかしい教師のしわざ」ではすまされないわけで。
その雑誌をつくるにはたくさんの人の手がかかっている。その雑誌はたくさんの人に読まれる。
あきらかに理科教育からみておかしなことを真顔でいう論文が、どうどうと「教育科学理科教育」という雑誌にのってしまって、なんの批判もよせられないのであれば。
それは一人二人の特殊な人のせいにすることはできないでしょう。理科教育全体の問題です。もう一度書きますが、これはたとえ話です。事実に基づいた発言ではありません。

では、事実に基づいた発言にもどります。
すくなくとも、『教育科学国語教育』という雑誌で「自らの内面を筆に乗せて表現」とか「丁寧に書いた字は、必ず相手にあなたのよさが伝わる」とかあやしさ満開な記事をのせてしまい、それにたいして反論記事や訂正記事が一切だされない。
この2本の論文を掲載したのは『教育科学国語教育』という雑誌です。
しかも、「国語教育ビックリトンデモ教案大特集w」とかそういう特集なわけじゃないんですよ?
「ああ、いいこといってるなあ」みたいなかんじで読まれることを期待されている論文です。

これをもって、「国語教育は筆跡と人間の内面を結びつける発言に寛容である。」と判断します。

また、その字面と人間の中身を強引に結びつけることをためらわない考え方に、筆跡学や筆跡診断を助長するおそれを指摘します。

筆跡診断がいかなるものであるかについては、おもしろいものをみつけました。

日本筆跡診断士協会のサイトより以下のページを紹介します。

筆跡診断とは?―日本筆跡診断士協会

引用します。

筆跡特徴とは
(略)

海外での状況

西洋では長い研究の歴史があり、特にフランス・ドイツ・スイス・アメリカで盛んである。フランスでは19世紀末以来、筆跡診断士(グラフォログと称する)は国家資格に準ずる資格となって、医師・弁護士・会計士等と同等の権威を持っている。

(参考外部リンク)
http://en.wikipedia.org/wiki/Graphology
http://www.graphology.ws/grapholinks01.htm


で、ここのひとつめのリンク(英語版ウィキペディア)をクリックしてみてください。

Graphology-Wikipedia, The free encyclopedia

この記事ですが、一行目にこんなことが書いてあります。


Graphology is the pseudoscientific study and analysis of handwriting especially in relation to human psychology.

「筆跡学・筆跡診断はニセ科学(pseudoscience)だ」って書いてあるページに、リンク貼ってる日本筆跡診断士協会は、あるいみものすごく良心的ではありますね……

posted by なかのまき at 21:36| Comment(0) | TrackBack(0) | ニセ科学;筆跡学

2011年03月10日

筆跡学は迷惑だ。

前回の記事で、
「筆跡学はニセ科学だからいけないんだ!」

みたいな書き方をしてきもちわるいな。
それって、ようするに「科学様の権威の前にひれふしなさい、愚か者よ」っていう言い方にみえる。
あ、今回の私の記事に限りです。
他の方のやってることについては、それぞれその人の背景には事情があるわけで。
それとは関係なく。

国語教育と筆跡と心のありかたについて考えるとき、
「筆跡学はニセ科学だから筆跡と心を結びつけちゃいけない」
みたいないいかたは、あまりよくない。

なぜなら、そりゃ、ニセ科学でもかまわないでしょ。
「「文字」を美しく書くだけでなく、自らの内面を筆に乗せて表現しようとする」
「字は、その人にとって、顔なのだ。」
なんていう発言を平気でできてしまうような人にとって、それが科学的かどうかなんか、どうでもいいことでしょう。

「そりゃ、実証はできないかもしれないけど、そういうのってぜったいある」
「今の科学ではわかっていないこともいっぱいある」
「何でもかんでも科学のものさしではかればいいってものじゃない」

みたいな話になるよね。きっと。

「字の形から人の性格や心のありようをよむことができるとは、いまの段階ではものすごく言いにくい」
という見解をふまえつつも、中心としてとらえなければいけないのは、

「筆跡学はニセ科学だから国語教師はこどもの筆跡から心を憶測するのはやめてほしい」

ではなく、

「ひじょうに迷惑だから国語教師はこどもの筆跡から心を憶測するのはやめてほしい」

だよな。

で、その迷惑の根拠のひとつとして、

字を見れば心がわかるというのは悪質なヨタ話だから。

という情報はあってもいいでしょう。くわえて、

「美しい字」とやらを書くためには「左手で書かないこと」など、身体の都合に大きく左右される。というか、それは個人の身体に責任があるわけではなく、手書きの文字に意味不明に重苦しい価値観をおく教育の構造の欠陥でしかないわけで。にもかかわらず、そういう都合をぜんぶ無視して、あたかもすべてが「心の問題」や「努力の問題」であるかのように言われる。
そして、「美しい字」とされるものにどれだけ適合しているかしていないか、という視覚的な情報は他人を評価するときにバイアスとしておおきく影響する。
字面から人の心を憶測しようとするのは、害ばかりでえきがない。

そういう面をしっかりいわなければいけない。

本当は、ニセ科学は科学だけではなく、社会にも深く関わるものだ。
それはもう、すでに指摘されていることであって。
だから、「筆跡学はニセ科学だからダメなんだ」でも、本当は、いいはずなんだけどね。
あまり文系の人にそういう意識がないよな。
posted by なかのまき at 22:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記