2011年05月11日

ぼくが、フンになろう。

「スイミーはどうして目になろうとしたのだろう?」

(1)赤い魚の群れの中で、自分だけが黒かったから
(2)まぐろのこわさを知っている自分が先頭で指揮をとって仲間を導き、大きな魚を追い出すため。
(3)同じ赤い色をした以前の仲間をすべて失って孤独になった自分が再び元気になれたのは、海の中のすばらしいもの・おもしろいものをいっぱい見たからであって、それらを見た(それらを知っている)自分の「目」を仲間のために使って、今度は仲間たちにもそれらをいっぱい見せてやりたかったから。

(1)(2)だけで止まらないように。スイミーはその目で何を見てきたのだろうと再読し、(だからその目をどう使おうとしているのだろう、と考えたい。(渥見2010:1)



「スイミー」という絵本があります。
レオ=レオニさんという人の作で、日本語版は谷川俊太郎が訳してます。

小学校3年生の教科書にも一部採録されているので有名で、読んだことある人もいるのではないでしょうか。

あらすじは、
スイミーという黒い小魚がいて、あるひまぐろに仲間をぜんぶたべられて、おちこんで、たちなおって、別の小魚の群れとであい、おおきな魚におびえる小魚たちに、「みんなでおおきな魚のフリをしよう」みたいな提案をして実行してうまくいった。

というものです。
で、ここで重要なのは、スイミーは黒いけど、スイミー以外の小魚はみんな赤いのです。
練習のすえ、おおきな魚の形でおよげるようになったとき、ひとりだけ黒かったスイミーが「ぼくが、目になろう」っていったんです。
その様子は、絵本できれいにえがかれています。

さて。冒頭の引用はそのスイミーが「ぼくが、目になろう」っていった理由について。
出典は

渥見秀夫(2010)「ごん狐はオスかメスか―文学教材をもっと楽しく読むために」『愛媛国文と教育』42

私も光村の教科書でスイミーをよんだんだけど、あれ、「仲間を導く」的な描写ってあったっけ?
と。思い起こしてみて。どうも覚えがない。
(1)(2)だけで止まるな、といわれてますが、私は(1)でとまって、(2)にすらたどりつけてないですけどね。

たまたま図書館に光村教科書があったのでたしかめてみました。


みんなが、 一ぴきの 大きな 魚みたいに およげるように なった とき、 スイミーは 言った。
「ぼくが、目になろう。」
朝の つめたい 水の中を、 ひるの かがやく 光の 中を、
みんなは およぎ、 大きな 魚を おい出した。(『たんぽぽ』(光村図書出版)


んー。やっぱり、スイミーが「仲間をみちびく」とか、いってないです。

しいていうなら、引用箇所の直前に


スイミーは 教えた。 けっして、 はなればなれに ならないこと。 みんな、もち場を まもる こと。


という文言はあります。でも、「目になろう」といったのは、そのあとの話なので。関係ないようにおもう。
スイミーが「仲間を導く」という意図でもって「目になろう」といったかどうかは、よみとれません。
そうともそうでないとも。

しかしどうやら、「ぼくが、目になろう」というのは、スイミーが群れのリーダーになることの決意表明ととらえる国語教育の論文が、かなりありました。っていうか、これがたぶん主流。
たとえば、以下の文章のようなの。


阿部昇(2011)「指導と評価を一体化した授業づくり―小学校国語」『指導と評価』57

「スイミー」では、最後にスイミーたちが大きなまぐろを追い出していくところが山場である。そして、その過程でスイミーが「ぼくが、目になろう。」と叫ぶところが、クライマックス(最高潮)と言える。
「目」は見る役割を担う重要な器官である。ここでは、目が位置付くことによってスイミーたち小さな魚がつくる大きな魚が完成するという意味がある。が、同時に先を見通す目の役割をスイミーが担うことをスイミー自信が宣言したとも読める。つまり、スイミーは自分がリーダーになることを宣言したということである。


これ以外にもいくつかありましたが。


重政有里(2004)「『スイミー』の主題について―レオ・レオニの意図した主題」『香川大学国文研究』29に従来の学説についてまとめてありました。そのなかで、鶴田清司氏がスイミーの主題について以下のようにまとめているそうです。

(1)仲間がみんなで力をあわせること(協力・連携)の大切さ
(2)主人公が悲しい経験を乗り越えて集団のリーダーとして変化・成長したことのすばらしさ
(3)一人ひとりの個性や資質のちがいが仲間全体の力を高めることになること

うん。やっぱり、スイミーをむれのリーダーととらえる考え方がそうめずらしいものではなかったことがわかります。

で、私はわりと、書いてあることだけしか理解できないこどもだったので、
「仲間を導く」「リーダーになることを宣言」と読め、といわれてもこまるとおもうんですわ。
「そんなんどこにも書いてないじゃん」
くらいはおもったんじゃないかなあ。こんなこと先生にいわれたら。
「国語のよみは答えが一つじゃない、だからおもしろい」
ってのはよくきくけど、
「ぼくが、目になろう」といったときのスイミーの気持ちについて、
「黒かったから」と「群れのリーダーになろうとおもったから」は同等に価値のある答えですかね。

というか、「黒かったから」派にとっては、「ぼくが、目になろう」っていったときのスイミーについては、気持ちもへったくれもないですよね。単純に黒いから目になるっていってるだけなんで。そもそも、「ぼくが、目になろう」といったときのスイミーの気持ちをとりたてる必要があるときに意味があるといかけなので、「黒かったから」とこたえたら空気よめない発言であることだ。

さてそれはともかく、スイミーをリーダーとして読むと、なんか、
「スイミー様のおみちびきのもとしゅくしゅくとマスゲームをとりおこなう弱くて臆病な凡百の赤小魚たちがしあわせになりました」
みたいなこわい全体主義が頭をよぎります。

掃除当番をさぼろうとすると
「みんな、もち場を まもる こと」

授業中に立ち上がったら
「みんな、もち場を まもる こと」

かぜをひいてやすもうとすると
「みんな、もち場を まもる こと」

学校休んでディズニーランドにあそびにいこうとしたら
「みんな、もち場を まもる こと」

と、スイミー様におどされそうな。
いや、教科書に書いてある以上のことを読み取るな、といわれたら、そうですけど。
スイミーをリーダーと解釈するとやはり、スイミー以外の赤小魚が徹底的に没個性なのがほんと、きになってくる。
「みんな、もち場を まもる こと」でほんとうに、赤小魚たちはのぞんだくらしを手に入れることができたのだろうか。
そんな疑問がわいてきたところで、おもしろい文章をみつけたのでしょうかいします。
今回の記事はこれを紹介したいがためだけに書きました。

本をめぐる読み物 スイミーと肛門
posted by なかのまき at 00:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記