2012年02月08日

女尊男卑という差別

森山美雪2010「異文化トレーニングにおける大学生の学び―シミュレーション「アルバトロス」の効果について」『異文化コミュニケーション13 pp.105-119

異文化トレーニング「アルバトロス」というものがある。
アルバトロスという架空の文化では、女尊男卑の思想がねづいている。

・聖なる大地を踏みしめることができるのは女性だけで、男性は椅子に座らなければならない。
・食べ物は女性だけが自分でたべることができる、男性が先に食べて毒見をして女性を守る

そのため、女性が床に正座をし、男性はイスにすわる。女性は食べ物を男性に手渡してやり、男性が先に食べ、女性はその後にたべるという風習がある。

しかし、女性を床にすわらせ、男性に給仕をするすがたが、男尊女卑にみえてしまう。

森山氏は、日本の大学で実際にこのトレーニングを行い、その際のグループディスカッションにでた
学生の言葉を以下のように紹介している。


「教育が悪い」「小学校から男女平等についてよく聞かされていて、男尊女卑という概念をならったので、アルバトロス文化をそう思い込んでしまった」「差別という言葉を習うので、この状況を差別と解釈した。差別ということばを知らなかったらそうは思わない」(前掲森山2010:110)

ここ、なにがおかしいかというと、

男性・女性という性差より、
「床に正座してる人物が下位、椅子に座る人物が上位」「食物を用意する人間が下位、受け取る人間が上位」「食物を先に食べる人物が上位、あとに食べる人間が上位」という判断が先にあって、それぞれ男性・女性にわかれていたので、結果的に男尊女卑にみえてしまったのであるのだから、

問題とするべきは、誤解の原因は、性差ではなく、椅子と地面、給仕する/される、食物を先に食べる、後にたべる。の対立の方だとおもうのですが。

で、その点にかんしては教育が悪いですかね?
椅子に座るほうが上位で床に正座する方が下位とか、学校で教えはしないでしょうが。
上にあげた学生の分析は、足りないと思うのだけど。というか、まちがってない?

これ、だって性差ではなく、たとえば若者は床にすわり、老人は椅子に座る。老人が食べ物を先にたべ、若者が後から食べる。いっけん老人をうやまう文化かとおもえば、じつは若尊老卑の文化でした。も、なりたちますよね。

だから、教育が悪い、男女差別、男尊女卑なんていうことばをならったからこそ、「小学校から学んできた差別の知識が公正に見る目を曇らせた。(森山2010:113)」といういい方も、おかしい。

人間を男と女に乱暴に二分して、男とされた人間を毒見役につかう文化なんて、差別的じゃないですか。男女差別ですよ。教育が役にたったじゃないですか。
差別ということばをしっていたから、この文化を正しく、差別的であると、判断できたのだから。
posted by なかのまき at 23:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2012年02月13日

教育用語の特殊

図書文化から「指導と評価」という教育系の雑誌が発刊されている。

この雑誌の、57号(2011年12月号)
で、

「学校文化・学級文化」

という特集がくまれていた。ちょっと期待しながら手にとったら、表紙に「よい学校文化を育てる」とかかいてあって。
よい学校文化って。

よいスクールカーストを育てる!
とか
よい隠れたカリキュラムを育てる!
とかそんなかんじですか?

と、ひとしきりわらわせてもらったのち、中身をみたら、ほんとに「よりよい隠れたカリキュラム」っぽいことかいてあるし!

巻頭の

竹内洋(たけうち・よう)「学校文化」 pp.4-7
この論文に、以下のようにありました。

施設や公式カリキュラムがいくら同一でも、(略)隠れたカリキュラム(言明されることなく無意識に伝達されてしまうカリキュラム)がちがっており、そのことが、アウトプット(卒業生の資質)に影響を及ぼすという説明になる。(略)
宝塚音楽学校の新入生は掃除で始まり掃除で終わる。しかし、生徒はそうした雑事も将来のスターの第一歩がここから始まるとして意味づける。身が入るだろう。ところができたてで、伝統に裏づけられた学校文化が定着していない京都音楽学校で同じことをやらせても、そうはいかない。どうして将来のダンサーにこんなことをさせるのだろうか、あるいは、理事長がケチだから掃除してもらう人を雇わないで倹約してるんだ、という解釈にさえなってしまう。


ちなみに、京都音楽学校とは、竹内氏のあたまのなかにある、非実在の音楽学校です。
学校文化とか、隠れたカリキュラムって、社会学のタームで、しばしば否定的な意味をともなうものだったようなきがしますが、教育の世界ではなんかちがうつかわれかたしてます。
隠れたカリキュラムって、教育者側が、そんなに推奨していいのですかね。

教育関係ちょっと特殊なタームの使い方してるので、注意したほうがいいですね。
あと、もうひとつ紹介します。

金子書房『児童心理』943号(2012年1月号)で「規範感覚を育てる」という特集がくまれていました。
これも、「規範意識をそだてる」みたいなことがかいてあって、なんか私の知ってる規範意識とちがう。

まあ。それはいいとして。


この特集のなかであった文がひどいので紹介します。

姫田佳子(ひめた・けいこ)「クラスみんなでHAPPYになるために」(pp.50-51)

全員で話し合いのルールを決めた。その内容は、
・友達の話はしっかり聞く。
・理由を言う
・否定の意見を言う時は代替案を出す。
・言いたいことはしっかり言って、決まったことには文句を言わない。


このルールの内容、びっくりしましたが。

なにがって、「否定の意見を言う時は代替案を出す」いや、これまちがってるでしょ。
何かを否定するときは、根拠をだせばそれで十分。代替案、いらない。
否定の意見をいうときに、代替案なんかかならずしも出す必要ない。
そしてなぜ、代替案提出義務があるのは、「否定の意見を言う時」限定なのですか?
否定をする側にのみ、一方的に代替案の提出を課すのは、おかしい。
「いっしょに代替案をかんがえる」とかなら、まあ。わからないでもないけど。

そのつぎの、「決まったことに文句を言わない」もだめでしょうが。
リセットや前に戻る機能がついてないシステムは、あぶなすぎる。
なにかをやりはじめてから、不具合に気がついて修正の必要がでてくることなんか、いくらでもあるはず。
そこで「決まったことだから文句を言わない」みたいなしばりは、害でしかないとおもいます。

話し合いのルールといいつつ、けっきょく、「否定意見・文句を言うな」というおどしにみえます。


あ、あと、これはこのブログのことなんですが、
「誰かを批判するときはwikipediaをつかうな、wikipediaにのっている参考文献を引用しろ」
みたいな謎ルールをわざわざメールでおくってくる人がいました。
「批判するなら」うwikipediaだめ、って、どういうリクツですか?
批判しないなら、つかっていいの?
ちょっとよくわからない。

私は、wikipediaは、有効な場面ではつかってますし、一方、ネットでは見られないわりとマニアックな一次資料を紹介してる方だとおもいますけどね。
ちなみに、ほんとうにちゃんと文献にあたりたいなら、wikipediaの参考文献だけでは、足りませんので、ちゃんと自分でしらべますから。


なんか、批判する側はよっぽど 清く正しく批判しなければいけない、という根拠のない信念が、うっすらとありそうですね。
批判するにはもちろん、言動に責任は生じます。しかしね、それいったら、だれかをほめたり、好意的に評価する場合にだって、同様の責任は、いやおうもなく生じている。
たとえば、差別をおこなうひとを褒めれば、ほめているがわだって差別に加担することになるんです。
肯定的な評価をくだすときにはいくらでも無責任でもかまわないんですか?

「批判するなら〜しろ」みたいないいかたは、無意味です。同様に、
「否定的な意見を言うなら代替案を出せ」も、無意味です。

否定・批判をするという行為と、それをおこなう人に、必要以上にしばりをかけたがるのは、なんででしょう。
くだらない意見への肯定はあまりにも無責任に行なわれているのに。

「否定的な意見いうとめんどうくさいから、いやだけど、とりあえずハイっていっておけばいいや。はいはい」
みたいな人間を量産したいのですか?
posted by なかのまき at 21:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2012年02月14日

教育雑誌の曲芸的読解力

ちょっとまえ、

いじめられてる桐壺更衣萌え〜な論文

という記事をかいたことありました。

女の子が女の子にいじめられるという設定に萌えているいじめにあって死んだ桐壺の更衣を「どんなにいじめられても何もやり返すわけでもなく、自分の運命を受け入れて生きていこうとする強い人だと思う。」という感想文をかかせていた国語教育の論文を紹介したことがあります。



あと、

なんでもない、ごくふつの、どこにでもある国語教育

という記事で、
棄老の物語で、みずから石で歯を折るなどして、すてられようとするおりん婆さんの姿勢を、一般に母親なら共有している「母性」と評した国語教育の論文とか。

あと、
知恵と真実と救いの「かさこじぞう」
という記事で

じいさんが石地蔵にかさをかぶせたら、モチをもってくる、というかさこじぞうにたいして「人生の真実や知恵」「正しい行いをする者は救われる」がこの物語のテーマだと主張するものだとか。


国語教育の作品読解力の曲芸力が、いちいちおもしろいんですが。
またちょっとみつけたので紹介します。

金子書房『児童心理』943号(2012年1月号)より

岩宮恵子(いわみや・けいこ)「思春期と喪失―「海のトリトン」から考える」(pp116-122)

アニメ版の「海のトリトン」は、私はみたことないのですが、
名前と、その評価は一応しっていました。

アニメの歴史に残るものであること。
あと、主人公の正義がくつがえされるという結末が、当時の視聴者にとって、衝撃的だったこと。

これくらいだけですが、「正義とはなにか」がテーマとしてものすごく重くのしかかるアニメだということは、なんとなく知ってます。

さて。教育系雑誌の読解力にかかると、こんなかんじになります。


子どもが、親や周囲の人たちに対して反省の欠片もなく、暴言を吐いたり暴力を振るったり、完全に無視をしたりしているとき、彼らのこころのなかでは、「自分のほうが善に決まっている」という感覚がある。自分を不当に扱い、不当に貶めている状態をつくっている敵と戦っているだけなのだという感覚がこころの大半を占めているのだ。敵と思っていた相手にも、実は深い事情があるということがこころにすとんと落ちたときから、無邪気な子どもである自分を失い、複雑な葛藤を抱えることになっていくのである。(p.121)


正義とはなにか、という、大人だって難しいテーマのはずなのに、こどもの「おとなはみんな、わかってくれない! きたないよ、おとななんか!」という、かんしゃくのレベルにまとめられてる!


善のなかに悪が含まれることもその逆もあり、そして悪もまた自分自身の身の内にもあるものだという強烈な実感をもつことが、思春期のテーマなのである。だから、人の悪口を言いたくなる自分とか、人を排除することに喜びを感じる自分という「悪」がこころからあふれて表面に顔を出しやすくもなる。自分の身の内に悪を引き受けることができないときほど、その「悪」が外のものに投影されてしまうのである。(p.112)


トリトンがポセイドン族をたおしたのは、白いイルカの助言と、両親の遺言によるものであるはずなのだけど……自分の内なる悪をみとめたくないトリトンが外部(ポセイドン族)に悪を投影した妄想劇という解釈ですか。両親の遺言どこいったの……


これ、すなおに解釈するなら、親やまわりのものから注入された価値観が、くつがえされたときの衝撃、という最終回であって、これについてはトリトンが浅はかだったとかそういうこともいえないし、英雄としてまつりあげられたあげくにはしごをはずされた者の悲劇とか。そういうことになるとおもうのだけど。

教育雑誌の文章にかかると、反抗期の子どもが被害妄想を克服する物語になっちゃうんですね。

あと、ほんとに、悪口(否定的意見)を口から出すことを嫌悪してますね。教育のひと。


posted by なかのまき at 22:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2012年02月17日

道徳教育の感傷

今日はちょっと古い資料を。

宇佐美寛(うさみ・ひろし)1987「「道徳」授業の不道徳性」『現代教育科学』No.307

宇佐美氏は、道徳教育を専門にしている人のようです。
この論文は、「きつねとぶどう」という小学2年生用道徳の資料を紹介して、この道徳用資料の不道徳性について指摘しています。
おもしろい論文です。

まず、「きつねとぶどう」という道徳資料のあらすじ。

おかあさんぎつねと、子ぎつねが巣穴のなかでくらしています。
ある日子ぎつねが「おなかが すいた」とないて、おかあさんぎつねが、やまを3つこえて、「ぶどうの 村」にいって、ぶどうをひとふさ「いただき」ます。(ようするに、ぬすみ)
ぶどうをもって帰り、あともうすこしで子ぎつねのところに、おかあさんぎつねがたどりつこうとしたとき、わんわんと、犬のなきごえがします。りょうしが、近くにきています。
おかあさんぎつねが、
「コーン、あぶない、早く にげなさい。」
とさけんで、子ぎつねはあなをとびだして、やまおくへ逃げます。

で、にげた子ぎつねはおかあさんぎつねをさがしているうちに何年も時が経過して、大きくなります。
あるとき、むかしすんでいた巣穴のちかくにきたときに、一本のぶどうの木をみつけます。
昔はなかったのに、と不思議におもいながらぶどうをたべてみたら おいしかった。
では、以下原文を引用します。

その とき ふと 子ぎつねは、
「まって おいで。 おいしい ものを、 もってきて あげるから。」
と いった おかあさんの ことばを、 思い出しました。
ぶどうの 木のはえて いる わけが わかりました。
子ぎつねは、 どこに いるのか わからない おかあさんに、 声を あげて おれいを いいました。
「おかあさん、 どうも ありがとう」(坪田譲治の作品による)(宇佐美1987:52)


で、
宇佐美氏はこの教材にたいして、このように述べています。


「教科用書」には赤い字で次のように書いてある。

〔ねらい〕父母やまわりの人びとの愛情に対し、感謝し尊敬する心情を育てる。

本書のおさえどころ…〔略〕…母ぎつねの行動について考えさせ、心情に訴えて尊敬感情の気持ちを育てる。

留意点・自分が犠牲になっても、子どもを助けようとした母ぎつねの気持ちをわからせる。(同:52)


はい。毎度安定のひどさ。
誰かを犠牲にしないと道徳は成り立たないんですかね。


これにたいして、宇佐美氏は厳しく批判します。

これをよんで、子どもは疑問をかんじるはずであるとして、この物語の問題点をあげます。
母ぎつねにエサをはこんでもらわなければいけない年頃の子ぎつねが、どうやってひとりで大きくなったのか。なぜ子ぎつねをおいて山3つもこえた遠くまで食物をとりにいかなければいけなかったのか。ぶどうをぬすむのはよくないのではないか。

など。

そして、以下のようにまとめています。

「きつねとぶどう」は、文学作品として、だめなのである。「おかあさん」の「ぎせい」が、全体の事実関係とまとまりをなしていない。他の部分の事実が「こういう行動ではない可能性もあったのではないか」という問いを誘発する。いいかえれば、「ぎせい」がもの欲しげに感傷的に浮き上がっている。こういう作品を価値あるものとして肯定的に子どもに与えるべきではない。(同:54)



この「きつねとぶどう」の資料・授業は例外的なものではない。すでに述べたような特性は、広く見られる。あえて、くり返しまとめる。
資料はおざなりで感傷的である。すなわち、当然必要であるはずの事実が書かれていない。また、書かれていること相互の間に矛盾がある。筆者が強調したい道徳的意義だけが作品全体の中で浮き上がって、しらけたものを感じさせる。(同:57)



この宇佐美氏の道徳教材批判が、教育の分野においてちゃんと受け止められて、まじめに議論されてきたとは、残念ながら考えられません。

ちょっとまえにインターネットでも話題になり、テレビでもとりあげられたのでご存知のかたもおおいかとおもいますが、埼玉県で道徳教材として、「天使の声」という教材が作成されました。

こちらのリンク先なども参照ください。

犠牲になった南三陸町職員の方が、道徳の教材にされることへの反応。

だれか(特に女性)の犠牲的な死を、「おもいやり」と、感傷的に道徳教材にしたてあげて消費してくることは、昔からさかんにされてきて、そして今年もまたひとつ、教材がつくられました。
私はこのような道徳教育のありかたに、反対します。
posted by なかのまき at 20:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 国語教育

2012年02月24日

先生が、こまるから

前回紹介した」1987年の教育雑誌、『現代教育科学』No.307 に、作文が紹介されていました。

固有名詞のところは、改変にあたりますが、伏せました。
ちょっと、ネットでかくにはためらわれるので。

クラスメイトへの教師のひどい暴言を、児童が作文(綴方)で告発します。

〇〇くんへの差別について
                     四年 〇〇
音楽の時間になりました。はじめのうち、A先生は、わたくしたちをおこったりしていました。
「今日は、このクラス、本当に歌がへたになったね。」と、ずっといっていました。私は、(それはそうでしょう。だって、A先生が前の音楽の時間、〇〇くんのことをサルなんていうんだもん。歌なんかうたう気になれない)と思っていました。そして、先生は〇〇くんの方をむいて、ゆびをさして、
「その子、ちゃんとして。」といいました。(略)先生は、じゅんび室にいって、カセットをとってきて、
「また、この子がうるさいとこまるから、じゅんび室にいきなさい。」といって、〇〇くんをじゅんび室につれていきました。そして
「この子、どろぼうしないでしょ。」といいました。
「しないに、きまっているよう。」
「しないよう。」
と、私たちはおこりながらいいました。……(『現代教育科学』No.307 p.119)



いろいろ衝撃的な内容です。
もっとながく紹介されていて、よんでいてとてもおもしろかったです。

ただ、これ、いまだったら「人(先生)の悪口をかいた悪い作文」っていう評価になりそう。
とりあえず。87年ころの小学生は、教師の批判を作文のなかですることをゆるされていたようです。
いつから、「人の悪口をいわない」が教室を支配するようになったのでしょう。

参考程度に。

私は、遠足に行った動物園の感想文をかかされて「動物がみんな寝ていたのでつまらなかった」とかいて怒られたことあり。
posted by なかのまき at 21:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記