2009年11月30日

書道とはなんだ

先の記事をかいて、よみかえすと、
私がいろいろなことを混同していたことがわかる。

というか、書道の人もそのときどきでうまく玉虫色につかいわけてるフシがあるので、
ちゃんと整理しておいたほうがよいでしょう。

書道ってひとくくりにしてるなかで、

・毛筆なのか、硬筆なのか
・実用書道なのか、芸術書道なのか

これをはっきりさせてなんかいわないとどうしょうもなさそうです。

なんでそう思ったのかというと、

書道の人は硬筆のことなんかどうでもいいんじゃね?

とおもったから。

横書きのことについてなんとも聞こえてこないのは、
横書きは毛筆の世界をおびやかさないから。
横書きは硬筆のなかだけの話だから。

毛筆だけ大切なんでしょ。
毛筆の世界だけ、守っていればいいんでしょ。
だから、横書きがこんなに増えても、それが硬筆の世界に限ってであるかぎり、書道の人はちっともなんとも思わなかった。
なんとも思わないで、放置していた。

で、石川九楊氏は例外的に硬筆で横書き書道のことを考えてる人である。
そういう意味では、石川九楊氏はとてもマトモなのです。
まともに、硬筆横書きが書道のリクツにあわない、ってことをちゃんと考えて、ちゃんと考えた結果、オカルトに行っちゃった。と。


東アジアでは古代宗教を失うことと引き替えに誕生した漢字(篆書体)により、書字中心の言葉が成立し、それ以来、文字を「縦」に書くことが宗教を代替することになりました。(略)西欧においては宗教=神が担っている機能を東アジアでは縦書きが代行しているのです。
(石川九楊『縦に書け! 横書きが日本人を壊している』135ページ・祥伝社・2005)



縦書き様をあがめたてまつる一神教の開祖様になっちゃってますね。
いったいどうしちゃったんでしょうね。

まあ、この開祖様のことはとりあえず置いておいて、

印象として。
書道とは毛筆のことである。
実用書道より芸術書道がえらいのである。
っていうメッセージはかんじるんです。
書道の人から。

だから、硬筆にしか関係ない横書きのことなんか、どーでもいいわけです。
そういう意味では、書道の人が横書きについてなーんにも言わないのは、筋が通ってないこともないかなーとも。
考えますが。

でも、なんかそれだとパソコン・ケータイの出現で毛筆の衰退を心配するっていう、そのよくわかんないリクツに説明をつけられないので、この思いつき(硬筆のことはどーでもよかったから、横書きについてはなんにも考えなかった〜)は、もしかしてまちがってるかもしれませんが。
だって、硬筆のことがどうでもいいのなら、パソコンなんかさらに毛筆書道にはどうでもいいことでしょう。

さて。「とめはねっ!」も、毛筆の、芸術書道について特に重点的にあつかったマンガです。

だけど、実用書道と芸術書道、毛筆と硬筆はそれぞれまったく別々に考えることも、もちろんできないわけで。

特に、ケータイ・パソコン叩きについては。
この作品中でも、だいぶケータイ・パソコンが悪者になってますが、
ケータイ・パソコン打ち出し文字ってのは、せいぜい実用書道となわばり争いをする程度のもので。
芸術書道をもっぱらにやってる、鈴里高校の書道部の活動には関係ないよね。

高校生が教室にパソコンを持ち込んで、パソコンで板書のノートをとっていたとして、
それで「書道部がパソコンにおびやかされている」
とか、思わないでしょう。
だって、書道部の生徒だって教室では鉛筆とペンをつかっているんでしょう?

鉛筆とペンがパソコンにかわったところで、それが毛筆書道となんか関係あるの?
いいじゃない。課外活動の書道を邪魔する人なんか誰もいないんだから。

ちょこっと、硬筆がパソコンにとってかわられても。
きっとこれからも、「にほんのでんとーぶんかとしてのしょどー」を守りたいって思う人だって、鉄道模型を愛好する趣味人と同じ程度には棲息しつづけるでしょう。
余暇に「結構なご趣味」の範囲で毛筆をたのしんでいればいいじゃない、と思うんですが。

そういうもんでもないらしいです。
ケータイ・パソコンのせいで毛筆書道も衰退しているらしいです。
このへん、ちょっと本当によくわかんないんですけどね。
わからないんですが、作品でそういうメッセージが出てる以上、
「はあ、そんなもんですか」
とおもっておくしかないですけど。

なんか、やっぱり、わかんないんです。


・横書き問題においては、「それは硬筆の問題だ。書道とは毛筆のことだからそれにかんしては知らない、どうでもいい」として放置している

・パソコンケータイ叩きについては、実用書道も芸術書道もいっしょくたにして、「パソコンが毛筆でかく芸術書道を滅ぼす」と悲観的になっている。

この2つの態度の違い。
戦略としてやってるのだとしたら、いったいなんのメリットがあるのかな。

パソコン・ケータイ問題については「時代の波に呑まれた可哀想な弱者」を演じられるっていうのはあるかもしれません。
横書きについては「あなたたちがちゃんと横書きに対応すればいいでしょ」って、100%の同情をもらうことは難しい、ってのがあるかな、とは思うのですが。

同情なんか売ってもしょうがない気がするので。
ちがう気もする。


まとめ:
まったくわかりません。
posted by なかのまき at 23:09| Comment(8) | TrackBack(0) | 書道教育
この記事へのコメント
こんにちは。ツイッター経由できました。んー。というか、今や学校教育では硬筆の方が主になっていて、指導要領でも硬筆に資するための毛筆、という位置づけです。つまり、毛筆はいわば追い出されてしまったわけで、芸術として開き直っている、というのがわたしの見立てです。
Posted by gorge at 2011年04月09日 10:19
gorgeさん
コメントありがとうございます。

「芸術として開き直っている」というのはそうであるとおもいます。

えーと、確認したいのですが、
「というか」というのは、私のどの意見への訂正提案でしょうか。いろいろごちゃごちゃ書いているまとまっていない記事なので、指摘していただけるとありがたいです。

それと、
「今や」というのはいつと比較してのことでしょう。
「いわば追い出された」というのは、いつの話のことでしょう。

加瀬琴已(2002)「戦後の教育課程における毛筆の位置付け」『書写書道教育研究』16 pp.11-21

によれば、毛筆書写のいちづけは、すくなくとも、戦後は一貫して「硬筆の基礎」であったかと理解してます。

また、
「毛筆がいわば追い出されてしまった」から「芸術として開き直っている」というご意見と理解しましたが、因果が逆ではないでしょうか。

毛筆書道が芸術に執着して左横書きや左手書字者のことをまったく考えなかったくせに「硬筆の基礎」と意味不明な名目で存在しているから、現在、教育現場で毛筆が軽視されるのではないでしょうか。

ご意見をおきかせください。
Posted by なかのまき at 2011年04月12日 19:01
というか、というのは特定の部分に、という意味ではなく全体になんとなく、という感じです。訂正提案というわけでもないのですが、なかのさんの横書きあるいは左手書きについての問題意識の大きさがもう一つ理解できていないことへの漠とした違和感の表現です。

今や、というのは旧来の規範からして、というくらいの意味でした。歴史的にやはり毛筆は東アジアでは圧倒的だったはずでが、日本の教育現場で硬筆と毛筆が逆転し始めたのは、和紙と毛筆から鉛筆と用紙に変化したなどの教育環境の変化の影響が大きいと思うのですが、明治中期から大正にかけてのことではないかと思います。ここで毛筆は初等教育のすべての基礎という場所を失ってしまった。
戦後には硬筆も国語にぶら下がるということになって、毛筆はその基礎というへんてこな位置を与えられた。これが私の言おうとしている「追い出されてしまった」で、行き場を失った毛筆が、明治からの美術制度の変化と相まって、芸術として新たな位置を見出した、という順なのではないかと思います。

ただしここには生活様式の変化や文字「入力」の変化といった、いろいろな問題が絡んでいると思うので、一元的な整理はできにくいと思います。ことはかつて、教育・学問の最初の基礎であった毛筆書道がその位置を奪われてしまったわけだから、そのあがきをこの百年やっているということかもしれません。
硬筆との関係はちょっとよくわかりません。放置しているわけでもないと思いますが。

横書き問題に関しては、横書き作品を書いている書家もいるみたいですが、石川氏のようなのはともかく、書と横書きがそぐわない感じがするのは確かです。
こちらもまだうまく整理できていません。

ところで、最近、信廣友江『占領期小学校習字』という本も出ているようですね。

とりいそぎ。
Posted by gorge at 2011年04月13日 16:13
gorgeさん コメントありがとうございます。

よくわかりました。
だいたい、考えていることはそうかけはなれてもいないのかなという感想です。

私の個人的な感想としては、毛筆は国語科からはなれて芸術科目となってほしいです。

>なかのさんの横書きあるいは左手書きについての問題意識の大きさがもう一つ理解できていない……

左手書字と毛筆書道にかんしては、私だけじゃなく、いろいろな書道関係者も論文かいてます。また、これは頭で考えるより、いちど筆をもって左手で字をかいてみればふにおちるのではないかとおもいます。大問題です。

さて、いただいたコメントへの感想が2点あります。

ひとつめは、なんか、「毛筆書道は権威があってよかった。いまは衰退している」みたいな話を書道関係者からきくのですが、それは被害妄想ではないでしょうか。

単純にかんがえて、歴史的には、「毛筆書道が義務教育の国語科必修である時期」が、「生涯で毛筆で字をかいたことのある人」のわりあいは、いちばん多いのではないでしょうか。
つまり、今です。

「生涯でいちども毛筆で字を書いたことがない人」のわりあいは、今よりも江戸時代以前の方が多いのではないでしょうか。
私はいまが、そこまで書道暗黒時代とはおもえません。むしろ国語科にぶらさがって必修科目となっていることにより、毛筆書道はいまだかつてない影響力をもって重くのしかかってきているように感じられます。

2つめとして、
戦後、国語科に毛筆必修をむりやりねじこんだのは書道関係者であることが、

加瀬琴已(2002)「戦後の教育課程における毛筆の位置付け」『書写書道教育研究』16 pp.11-21

によってあきらかにされています。
国語教師や「左利き友の会」の反対をおしきって、芸術科目ではなく国語科に毛筆書道をおしこんだのは、「全国書道研究会」という書道関係者の組織です。

「戦後には硬筆も国語にぶら下がるということになって、毛筆はその基礎というへんてこな位置を与えられた。」

とかかれていますが、それは書道関係者がみずからまねいたことであるという経緯をふまえれば、やはり書道関係者は他人ごととかんがえずに「硬筆の基礎」の根拠をだしていかなければいけないでしょう。もしくは、「硬筆の基礎」というのをひっこめて義務教育の国語科必修から撤退していただくか。
Posted by なかのまき at 2011年04月13日 21:47
はじめてこちらを見せて頂きました。
とても興味深いので、また寄らせていただきます。

さて、パソコンによって書道は衰退するか、ということについては私は別に衰退しないと考えます。全く別の志向から行うものについて、衰退の責任を負わされているようにしか思えません。

多くの方が参加されていて、論点がいろいろ飛んでいますので感覚的にしかコメントできませんが、少しだけ。

毛筆書写は、硬筆書写の「文字の正しい形を知り、整った書き方を学ぶ」を、「筆と言う特性から生まれた文字を、書字原理から学ぶ」、という意義づけによって行われています。だから、書写を「書道」とか「お習字」と言っているのは、意味的に全くの誤用だというのは、御存じのとおりです。

毛筆は芸術でなければならないと考える戦前の「手習い」書道を学んだ人々の大半にとってみれば、国語科書写というのは理解できなかったでしょうし、それこそ押し込んで生き延びる言い訳でしかなかったのだと思います。

今でも、その書道とかお習字と勘違いしている教員が、背伸びした「書」を学ばせて上手に書けた、元気に大きな字が書けた、楽しく授業ができたと得意げに発表していたりするのですが、趣旨をはき違えていて悲しい限りです。

今の教育の課題として、言語力が叫ばれていますが、言語力の基礎として書写の出る幕はあると思いますが、小学校では書道やお習字には学校教育で言語力を育てる一翼を担う力は有りません。あくまで書写は、言語領域として言語の基礎を作る教科として意義を持っています。

但し私個人は、今日型の書写は小学校までで十分だと思っています。中学校からは、書道表現という新しい次元で、言語力を高めるに資する教科としてあっていくべきだと思うのです。(もちろん、中学になると学ぶ行書は、教養としては必要ですが、元々授業が行われず、学ばない人が多い現状を見ても、それほど必要性がないのでしょう。法律なので仕方なくとも授業は必要なのですが)

日本人に求められる言語力を中心とした国語科書写・芸術科書道を模索していってほしいなと考えています。
Posted by ミストラル at 2011年05月08日 03:08
ミストラルさん、コメントありがとうございます。

>全く別の志向から行うものについて、衰退の責任を負わされているようにしか思えません。

同意いたします。

さて、
わたしはあまり抽象的な話が得意ではないので、質問しますが、


>毛筆書写は、硬筆書写の「文字の正しい形を知り、整った書き方を学ぶ」を、「筆と言う特性から生まれた文字を、書字原理から学ぶ」、という意義づけによって行われています。

「文字の正しい形」というものはあるのでしょうか。
左手でかく字と右手で書く字は字形がかわりますが、どちらか一方だけが正しいというものでしょうか。
たとえば、私は左手で字を書きます。国がまえなどはかきにくいのでひとふでで四角くかこってしまいます。これは「正しくない」のでしょうか。

また、漢字カタカナひらがなの「筆から生まれた」ゆえの特性とは、具体的に何をさすのでしょうか。
また、それは小学校で全員が毛筆をならわなければ書字行為に致命的な欠陥がでるほどの特性でしょうか。

>私個人は、今日型の書写は小学校までで十分だと思っています。

私は、今日型の小学校の書写はまったく不十分だと思うと同時に、いらないことをやりすぎだと感じています。

不十分な点は2点です。
(1)左横がきをする場合の書きやすい字のかきかたの提案
(2)左手書字をする児童へのてあて

やり過ぎだと思う点は、「硬筆書字の基礎」とうそをついて毛筆を全員必修にしているところです。

>日本人に求められる言語力を中心とした国語科書写・芸術科書道を模索していってほしいなと考えています。

公立の小中学校にはたくさんの、日本語を第一言語としない人や、日本国籍をもっていない人が教室にすわっているとおもうのですが、それでも「日本人」中心なのでしょうか。

私のいいたいことは単純で、書写の毛筆全員必修をやめてください、というそれだけです。
そのかわり、書字教育をやるのであれば横書きでかくときと、左手書字でかくときの書字能力についても十分に学習機会を保証してほしい。そういうことをのぞんでいます。

「日本社会に求められる言語力」というものは、小学校で毛筆をまなばないと身につかないものなのでしょうか。

私がずっと問い続けているのはその点です。
なにかお考えがあれば、おしえてください。
Posted by なかのまき at 2011年05月11日 19:55
Mixiにいらっしゃらないようなので、こちらに失礼します。

今、Twitter拝見したのですが、英語の綴り字も、変わっていることは変わっているのですよね。

欽定訳聖書の綴り字は現行のものと異なっていると聞いています。

スペインなどで成功した綴り字法変更が日本で過去2回成功しているということは、日本は弱小国だったと、そういうことなのですかね。

それも一つの見方でしょうし、当時を見れば事実でしょう。

中国の簡体字も、弱小国だったからなのでしょうかね。

もちろん、高麗半島の漢字ハングル交じりからハングル専用文への変更も、米中ソにもてあそばれる弱小国だったからこそ出来た業なのでしょうね。

「さうですか、さうですか」と言いたくなります。

面白いことが言われていたものですね。

当時の文部省と同じような見解を発表している人、見つかるといいですね。

地域的なものであってはならないとされること、山口の人や青森の人と私が同じ綴り字でものを書くことを強制されないと成り立たない社会は抽象的すぎて気に入りません。

とかく「よそもの」であることを忘れがちになりますよね。
Posted by おげんきですか at 2011年07月31日 01:54
今日は
毛筆はシュタイナー教育の
フォルメン線描につながるのでしょう
そういった意味で価値があるのではないでしょうか
Posted by kurtag at 2011年08月04日 14:44
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