2009年12月09日

横書き書字についての論文(4)

横書き書字についての論文の紹介です。

小竹光夫「縦書き書字における平仮名の字形的損傷について」書写書道教育研究』第18号 pp.41-50 2004)


横書き書字についての論文(1)
横書き書字についての論文(2)
横書き書字についての論文(3)

を先に読んでください。
この回で終わりです。

この回が一番面白いですよ。
というか、(2)と(3)は書いている自分でもつまらない記事だとおもいます。
(4)は面白いですよ。

さて。
(1)〜(3)で、縦書き・右手書字を前提につくられたひらがなを、横書きすると字形に「損傷」がみられることがわかりました。

「損傷」する部分は、「連係ストローク」部分である。
「連係ストローク」とは、ひらがなの字源の漢字が次の字に続くときにあらわれる筆づかいの線が、ひらがなに固定されるときに字形の一部として固定された線である。

たとえば、「あ」の

atate.gif
赤線部分のことである。
「あ」の字源は「安」であり、赤線部分は「安」の最終画「一」に連係ストロークの「/」が続いたものが、ひらがなの字形として固定されたものが、赤線部分である。

さて。
えーと、まあ、そんなところだろうな、とは思います。横書きになったとき、最終画の右上から左下への斜め線「/」が縦線「|」に近い形になるというのは、なんとなく予想出来るし、そういう結果が出てるのは不思議ではないでしょう。


で、この結果をうけて小竹氏はこういってます。


ここにあるのは、紛れもない「傾斜」という連綿法の合理性ではないか。縦方向で行われていた書写上の工夫が、横方向へ展開する場合に応用されているに過ぎない。しかし、我々は工夫や合理性に気付かず、かつての「マンガ字」を「特殊」と呼び、「異形」として排除してきたのではないか。そこに、「縦書き」や「横書き」という視点があったのだろうか。結局は見慣れている「伝統的な字形(字体)」以外のものを、なんらの分析も考察もせずに排除しようとしてきたのではないだろうか。(45p)



(横書きによるひらがなの字形の変化を)再三、「変形」や「異形」という表現を使用している。語のニュアンスからすれば明らかにマイナスのイメージであり、否定的意識を込めながらの使用である。しかし、この「変形」が見事な合理性に裏付けされているとなると、伝統に固執して字形指導を繰り返すこと自体が空しい活動となるだろう。(48p)


おお〜。
「縦書き書字における平仮名の字形的損傷について」という過激なタイトルの論文の中身とは到底思えない、真っ当な意見です。
ここ、引用したい、とてもいい文章なので長く引用しました。

そうそう、そうだよね。やっぱり、書道の人もそう思ってるんだ。
じゃあ、横書き書道を開発してくれるのか、と思ったら。
いきなりあやしくなります。
直後に、こうなります。


伝統的な字形(字体)を守るのか、それとも横書きに適した新しい字形(字体)を提示するのか。(48p)


え?そこ迷うところなの?その前の文章で答え出てるじゃない。
とめんくらっているひまもなく。


しかし、極論すれば学年別漢字配当表の漢字一つを動かすこともできない現状である。文字統制などという文字政策にふなれな我々は、国語・国字のあるべき姿さえ明確にできないではないか。(48p)


とつづきます。
つづきますが、このつづき方が????ですね。

「極論すれば学年別漢字配当表の漢字一つを動かすこともできない現状である」って、どういう現状?
ひらがなの字形と学年別漢字配当表になにか関係が?
学年別漢字配当表の漢字を動かすって、なんだろ?
「漢字の一を六年生で習うように移動しましょう!」とか、そういうことかな?それはたしかにおおごとになりそうではありますが。
そのレベルの改革ではない気が……ひらがなの字形は。
たとえば、
「いままでの伝統にならって
助詞の「は」は「ハ」と表記しましょう、これからハ」
とか、そういうことをいいだしたらそれはおおごとだけど。

「あ」を横書き書字の場合は
ayoko.gif
こんなかんじにすると書きやすいよ〜、みたいな指導をするのはそんなにだいそれたことでしょうか。
そんなこともできないなら、書道って、存在する意味あるの?

さて。話はもっとおかしくなります。

初発の段階で文字創生に関わらなかった民族の宿命というべきか、あるいは隘路というべきか。活用に重きが置かれる実態からすれば、既に字形(字体)を動かすことは不可能なのである。(48p)


民族の宿命!!
「初発の段階で文字創生に関わらなかった」は、たぶん日本語が固有の文字をうみださず、漢字(と漢字からつくられたひらがな・かたかな)をつかっていたことをさすのでしょう。

えー。ご先祖様のせいにするの? 書写・書道教育の怠慢を。

「民族の宿命」で「既に字形(字体)を動かすことは不可能なのである」って、ありえないでしょう。
ためしに、江戸時代の版本と明治時代の活字本をいちどじっくり見比べてみたらどうでしょうか。
あきらかに、字形・字体は激変してるでしょう。
ここに、書道の関係者が関わらなかったわけがないのです。
相当な努力があったでしょう。

ちょっと昔(明治時代)のことをまるっきり無視して「漢字の伝来」なんて大昔のことを持ち出して、それで「民族の宿命」なんていっちゃうのは乱暴だとおもう。

どんどん雲行きがあやしくなっていきます。

このような状況下、決まったように囁かれるのが「字形指導の無意味さ」である。(48p)


そうですね。私もこの論文読んで、硬筆の書写・書道教育ってなんの役にたっているのか、とても疑問におもいました。
で、次から「字形指導」の意義がいわれます。


しかし、放置されるままの文字が多様化すればするほど、本項の冒頭に書いた「文字は読まれてこそ機能を発揮する」という言語の機能性に反して、判別力を失うことは明らかであろう。文字は個人的所有物ではない。個人の趣向・趣味で弄ばれてはかなわない。現実に他者が書き記したメモを解読することもできないという多様化と、判別力の低下が生じているではないか。この判別力の低下という現実こそが、字形的損傷の抱える最も大きな問題点であることは間違いない。(48p)


わー。またクソ長い引用ですみません。
うーん。どっからつっこもうか。
2点だけ。

(1)横書き書字によって「字形的損傷」がでたとして、それは「個人の趣向・趣味」に矮小化してしまってよい問題ですか?
横書き書字による「字形の損傷」は「個人の趣向・趣味」によるものなんですか。

(2)「判別力の低下という現実」の論拠はどこですか。ここ、この論文でとても大事な箇所なので、説得力をもたせるためにデータをしめすべきでしょう。
先行研究はあるのかな。だれが、いつの頃と比べて、どれだけ、判別力は低下してるんですか?というか、判別力ってなんですか。


というわけで。
「判別力の低下」を防ぐために、横書きにしても、字形は損傷(変化)してはいけない、という意見です。
(心配することないと思いますけどね。
書道の人がちょっと横書きへの対処をおこたって、字をならうこどもやおとながそれぞれが独自に横書き用の書体を工夫してきたこの何十年間という蓄積がありますけど。他人の字が読めなくていちじるしく社会が混乱している、なんてことにはなっていませんから)

いよいよまとめです。
「判別力の低下」をふせぐために、横書き書字においても、字形は「損傷」しないことがのぞましい。
という結論です。

しかし、現実には現在の書写・書道教育が縦書きのことしか考えていないのだとしたら、横書きをするにあたって「損傷」(合理化っていいたいですけどね。わたしは)はまぬがれないわけです。

そこで、論文の最後に「字形的損傷を防御する方策」が提案されます。


可能性として考えられるのは、「運動に逆らわない形での書写学習」の推進である。それは、書写学習の早期に字形の規則性や規範を定着・固定するということに他ならない。(略)「書く」という行為が手指を使用した運動である限り、日常書写等の速書という場面では「意識が運動に負けてひきずられる」という結果でしかない。(49p)


えーと。
「手指を使用した運動」いがいに「書く」という行為はナニがありますかね?
「手指で書くんじゃない! 心で書け!」ってことですかね。「意識が運動に負けてひきずられる」って、そういうことを言ってるんですよね。精神論ですか。

で、しめくくりはこうです。


時流がそうだからとして、書写学習の早い段階から横書きを導入することが正しいとは思えない。(49p)



発展的に考えれば、書写教育の教育課程そのものの見直しにも関わる問題であろう。小学校低学年(1・2学年)で硬筆による文字習得を行い、活用期に入った段階で毛筆書写が登場するという学習課程が妥当であるかも、再考すべき内容となるだろう。(50p)



えーと、私の解釈がまちがってたらすみません。

横書き書字による字形の損傷をふせぐためには。

小学校1年生でいきなり毛筆をはじめましょう。
毛筆で「連係ストローク」やら「伝統的で、正しく、規範的な字形」を「意識」のなかにたたき込んで、「運動にまけて引きずられ」ないようになってからはじめて、硬筆をならいましょう。そして、「伝統的な字形(字体)」(49p)を完全にマスターしたらようやく、横書きで字を書いてもよい、っていうことです。
……たぶん。

さんすうとか、どうするんだろ。たてがきで。やるのでしょうか。

うーんと。
ながながとこの論文につきあってきましたけど。
言いたいことはひとつだけで。

やっぱり、横書き書字による字形の変化は、「損傷」じゃなくて「合理化」ってことにしておきませんか?
そのほうが幸せになれる人の数が多いとおもいます。

以上です。

posted by なかのまき at 23:15| Comment(4) | TrackBack(0) | 書道教育
この記事へのコメント
結構、自分でかいていることの意味がつかめていないセンセーって、おおそうな気が。

「意識が運動に負けてひきずられる」
 ↑ 身体論をちょっとかじったヒトなら、だれでも常識的につかまえていることとして、心身は一体だって現実です。てがきに かぎらず、運動は筋組織と脳神経系の連携で、条件反射的にシステムができるわけですから、ゆびさきを自分の理想とするイメージどおりに制御できるなんてのが幻想なわけですよね。
 すくなくとも、書道にかぎらず、おけいこ=修練ってのは、ほとんど意識せずに反射的に理想にちかい行動・判断がとれるよう反復練習することのはずで、うまい字とか、きれいな字と世間的によばれるものは、そういったトレーニングに成功した心身をさしていると。書道何十年もやってて、そんなことにもきづかないのか、って、とても フシギな気分です。



「(1)〜(3)で、縦書き・左手書字を前提につくられたひらがな」↑ 「…右手書字…」ですよね。
Posted by ましこ at 2010年03月30日 19:10
>ゆびさきを自分の理想とするイメージどおりに制御できるなんてのが幻想なわけですよね。

なるほど。

そう考えると、
縦書きしてようが横書きしてようが反射的に縦書き的に理想的な字形がかけるようになるまでトレーニングしろ、って言っちゃってるように見えてしまいますね。
だいぶ変なことを言ってることになってしまいますが。
もしかして、本気でそれ言っている可能性もあったりするのかも。

あ、それと指摘の箇所、なおしました。
ありがとうございます
Posted by なかのまき at 2010年04月02日 21:28
> 縦書きしてようが横書きしてようが反射的に縦書き的に理想的な字形がかけるようになるまでトレーニングしろ、って言っちゃってるように見えてしまいますね。
> だいぶ変なことを言ってることになってしまいますが。
> もしかして、本気でそれ言っている可能性もあったりするのかも

 ↑ ■いや。これ本気じゃないですか?

>> 可能性として考えられるのは、「運動に逆らわない形での書写学習」の推進である。それは、書写学習の早期に字形の規則性や規範を定着・固定するということに他ならない

 ↑ ■これって、無自覚に ゆびがかってにうごき、かつ 規範にそむかない、ってことしか、意味しませんよね。
■「七十にして心の欲するところに従ひて矩を踰えず」(『論語』為政編)→書道の世界は、70ぐらいまで修行がおわらないのかもしれません(笑)。

■いずれにせよ、識別問題で合理化していますが、ちがうんだとおもいます。「業界」が自明視する「美」≒「規範(訓よみしたら、ノリノリです)」を師匠にならって、忠実にまねないと。■ま、西洋古典音楽だって、楽譜を正統的な解釈によって研究したうえで、少々の「解釈」がゆるされるだけで、古典芸能のたぐいは、全部、にたりよったりだとおもいますが。■問題は、こういったエリート文化の美学系規範が、大衆社会の装置である公教育、とりわけ、小学校あたりにもちこまれたきた政治的意味です。
Posted by ましこ at 2010年04月03日 20:11
>↑ ■いや。これ本気じゃないですか?

やはり、そうよんだほうがいいですね。

国語科書道で「実用」をうたってるくせに横書きに対応出来てない書道の、くるしまぎれのいいのがれが
「縦書きで書くように横書きでも書け」って。
本気でいってるとはあまり思いたくなかったのだけど。

毛筆芸術書道ならともかく、「かきやすさ」「ととのえやすさ」「よみやすさ」を(たてまえ上)目標とする小学校の実用国語科書道で、それをいっちゃうことのおかしさは、ちゃんと指摘しておいた方がいいですね。
Posted by なかのまき at 2010年04月05日 22:50
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