2009年12月11日

横書き書字についての論文(つけたし)

まだやるのか、と
自分でもおもいながらつけたし。


つぎから面白おかしく「とめはねっ!」について書きますよ。



小竹光夫「縦書き書字における平仮名の字形的損傷について」書写書道教育研究』第18号 pp.41-50 2004)

(1)〜(4)のまとめ。


横書き書字をすると字形が損傷します。
横書き用の字形を工夫することは民族の宿命でできません。
また、(とくに実証されているわけでもない)「判別力の低下」をふせぐために、

この立場から考えるならば、字形(字体)がイメージとして定着する以前に、日常生活に多いからという理由だけで横書き書式の題材を導入すること自体が危険であり、文字の伝達交流という機能性に大きな損傷を与えるものである。横書きで生成され、その運動性や「連係ストローク」を内在させている場合。書き進める方向を厳密に守り、文字の規則性や規範の定着に勤めることが重要である。(50p)


ということです。


まあ。横書き用の書道の論文というか。
「こどもは横書きしちゃだめ!」っていう書道の論文ってことで。

どうなんだろ。やっぱり、本気で横書き用の書道を考えてる文献はないっていう結論でいいんでしょうか。

さて。紹介した論文と同じ号に、

第一次ワーキング・グループ報告
「時代に対応する書写力の基本構想」(概要)
(書写書道教育研究』第18号 pp.92-93)

という報告があって、報告者がこの論文とおなじ小竹氏なのですが。
ここの文章がよいので、ご紹介します。


【国語科書写としての立場の再確認】
 求められているのは、客観的で妥当な考察であろう。いわゆる「思い入れ」や「思い込み」を抱えたままの書写教育の側が、いかように見事な意義や価値を論じても、それが周辺領域、ひいては国語力との相関や客観性が感じられないのでは、我田引水として、あるいは自画自賛として放置されることになる。「書写で養う力とは何か」と問われて、「集中力」や「精神力」と応えるのでは、まるで「行儀」・「躾」の時間ではないか。


【書写教育への理解を妨げるもの】
(略)
 構造的に考えれば、「文字(語・文・文章)」という行為が先にあり、その後に書写用具や学習用具の選択・吟味があるはずである。つまり、「毛筆書写がなくなると書写は滅ぶ」との発言に象徴されるような、「毛筆書写あっての書写」という意識自体に主客の転倒があるだろう」(略)「何が何でも毛筆書写を守る」という論調は、極論すれば「毛筆書写が残れば、後はどうでもいい」という、投げやりな風潮さえ生み出しかねない怖さを持っているのではないだろうか。



【書写における毛筆の必要性】
(略)
 国語科教育関係者の一部には、「毛筆と聞いただけで嫌悪感を示す」という状況さえある。国語科の授業時間を割きながら、毛筆依存の習字を繰り返されてはたまらないという思いからであろう。毛筆依存、毛筆偏重の習字教育が事実とするならば、「国語科書写」と名乗るにふさわしい内容、方向性を求めて行かなければなるまい。
(略)
 一方、「毛筆書写」にこだわる意識の中には、独立教科として存在していた過去の「習字教育」の残像が、未だ見え隠れしている場合もある。(略)「硬筆書写だけになったら、それこそ国語科の中に取り込まれてしまって消えてしまうのではないか。」という不安感を増幅させ、毛筆への一掃の固執という針の振れを生じさせている。(略)「毛筆」のみを掲げて独自性を主張することの限界を、我々は深く考えていかなければならない。


だらだらと引用してすみません。
でも、すごくまっとうなことが書いてあります。
ので、とても紹介したい。

そして、私が以前、おもいつき程度にかいたこと

書道のひとって、毛筆だけが大切で硬筆のことなんかどうでもいいんじゃない?

が、筋として悪くなかったことがわかります。

あと、硬筆は素人(国語科教師)でも教えられる(かもしれない)から、書道の人は専門的な技術が必要(に見える)毛筆に固執してしまう、
って。
なるほど。言われてみればそのとおりですね。

書道教育はなんのためにあるのか。
いままで書道教育でご飯を食べてきた人が、明日もご飯を食べられるようにするために存在する。

この文章は、隅から隅までどこもまっとうです。
「民族の宿命」とか書いてある論文と同じ雑誌の記事かとおもうと、うちひしがれた私でも、書道教育にたいしてのかすかな希望が。わいてきます。
これはいい文章です。ただ、2004年ではなく20年前くらいに書かれてたらもっと評価できたのに。
2004年って……そこまでよく放置したよ。

ただ、まっとうなのですが、一カ所だけ、首をかしげたくなるところがあるのです。
「明らかに有効性がある毛筆を使用する場面を破棄する必要もない」(93p)という文章です。これだけ。

「明らかに有効性がある」って、「有効性」ってなんのことですか。
「有効性」とは、なにをいっているのか。
それなりに読める字を書くための有効性なのか、「美しい字」を書くための有効性なのか。
「有効性」に対して説得力のあるデータを出せますか?

あと、「明らかに有効性」があるなら、左手書字をする児童・生徒を教室の中で空気にしておいちゃいけません。

左手書字者を空気にしておいてますけど、左手書字者だって(おのおのが個人的に教師の指導にたよらないで努力をつめば)それなりに読める字は書けるのだから、読める字にたいしては、「明らかに有効性」はないでしょ。毛筆に。

「美しい字」を書くための有用性でしかないのなら、
100人中、右手書字の90人が「美しい字」を書くために左手書字の10人を犠牲にしている、というそれを「有用性」と言っていいのか。



硬筆だってよくないけど、毛筆書写教育は左手書字者にとっては、はっきりマイナスです。
 普段左手で字を書いてるのに毛筆の時だけ右手で書かされたり、左手で筆を持ちながら水平の線を左から右へ押し書きするように指導されたり。
それで、「右手でうまく書ければ左手で字を書いても上手になるから」とか根拠のないことをいわれたりして。
「左で字を書いても字がうまい(ごく一部の特異な)人もいるんだから(お前の字の下手さはただの努力不足だ)」とか変なことをいわれたりして。
いくら努力してもまわりの上達についていけないので、「劣等感」と「努力なんかしてもムダという価値観」を身につけたり。出来上がった半紙を見せにいって「ぷっ。ほんとにまじめにかいたの?」と鼻先で笑われて教師への不信感を抱いたり。
字が右手につごうのよいつくりで、左手書字の都合なんか考えていないということに気付いたときの不平等感とか。
ほんとうは自分のせいではないのに、「お前がダメなんだ」といわれつづけたおかげで自分が悪いと思いこんでいた過去をふりかえって腹が立ったり。
あげくに、学校卒業して10年20年たつのにいまだに怨念がはれずに
こんな暗いブログを立ち上げて時間と金を書道教育批判のためにムダにつかったり。
そんな、マイナスのことばかりです。
現状の左手書字者空気主義教書写書道育法を続けるのなら。

そして、今後もそうやって「毛筆の独自性」を守っていくのですか。
そんなやり口でやっていて、
「書道は将来滅びるかも」
とかいわれても……ねえ。
滅びれば?
posted by なかのまき at 23:52| Comment(3) | TrackBack(0) | 書道教育
この記事へのコメント
全部読みました!
納得しましたよ!!
とりあえず、既得権益を守るようになると、いろいろ歪みがでてくるのですね…。
というか先生、ひどくないですか?
先生こそ、長年の経験で、左利きの児童にとって字が書きにくそうであることを早く悟ってもよかったのでは?
Posted by Y Selection at 2009年12月13日 15:50
Y Selectionさん
コメントありがとうございます。

最近の書道の先生は、
書道が右手書字者の都合しかかんがえていない(結果的に左手書字者に不都合が生じる)ということは、きづいているとおもいます。
確実に。
きづいていて、放置してるんです。

なんで放置してるか本当によくわかんないんですけど。

たぶん、それ真剣に考えはじめるとけっきょく、「毛筆いらないよね」って話になっちゃうので。

やはり、既得権益がらみでしょうか。
しかし、そんなことやってると結果的に書写・書道教育の首をしめることになるとはおもうんですけどねえ。
まあ、書写・書道教育の首はしめても、毛筆芸術書道の首はしめないので、どっか他人事なんでしょう。
Posted by なかのまき at 2009年12月17日 22:22
地方で書道教室をしています。
横書きの書の方法を細々と探っていきたいと思います。
Posted by そら at 2013年08月20日 17:29
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