2010年01月13日

個人の趣向・趣味でゆがめられた毛筆書道の世界

ってことで今回の記事のタイトルはひどいですね。
書道にケンカをうってるとしか思えない。

とめはねっ! 6巻よみました。

「とめはねっ!」の作品中にでてくる書道作品は、読者から作品をおくってもらって、それが作中でつかわれてることもあるとか。

で、6巻には左手で書いた書がつかわれてます。


ちなみに花塚さん、本来、右利きなのに、
左手で書いていらっしゃるそうです
が……どうやって?
(『とめはねっ! 鈴里高校』第六卷・河合克敏・小学館)


ということで。
はい、そう。
書家がねー、じぶんの作品に味をだそうとして、
わざと左手で字を書くことはね、
ときどき、あるらしいんですよ〜。
それは知ってました。

もちろん、だからといって「左手書字は問題ない」って言えないと思います。
「書家は左手で字を書いてるから、一般のひとだって左手書字は問題ない」
ってのは。まあ。ちょっと書道に詳しいひとに言われたことあるけどね。

冬、石油ストーブの前で
「あついよ〜」
って文句いったら「サーカスの火の輪くぐりをやってる人はもっと熱いんだから!」とか言われるようなもんです。

火の輪くぐりと一緒にされてもねえ。
という同じ気持ちで。毛筆芸術書道と一緒にされてもねえ。


ところで。
前に紹介した論文をもう一度引用します。


しかし、放置されるままの文字が多様化すればするほど、本項の冒頭に書いた「文字は読まれてこそ機能を発揮する」という言語の機能性に反して、判別力を失うことは明らかであろう。文字は個人的所有物ではない。個人の趣向・趣味で弄ばれてはかなわない。現実に他者が書き記したメモを解読することもできないという多様化と、判別力の低下が生じているではないか。この判別力の低下という現実こそが、字形的損傷の抱える最も大きな問題点であることは間違いない。(48p)

小竹光夫「縦書き書字における平仮名の字形的損傷について」書写書道教育研究』第18号 pp.41-50 2004)


強調は引用者によります。

右手利きの書家が、自分の書く字に味をだそうとしてわざと左手で書字するのは、個人の趣向・趣味ではないのでしょーか。

素人の、こどもの、実用硬筆ではさんざん横書きをすると字形が損傷するとかいうくせに、書家の毛筆芸術書道はなにやってもいいんですか?
芸術という名のもとに、個人の趣向・趣味で文字をもてあそんでいいんですか?

「とめはねっ!」のなかでは、ときどき、

読みやすい字=カッコワルイ・つまんない

っていう価値観がでてきます。

6巻にもあって。

読めることが
一番大事やったら、
「漢字の書」なんて、みんな
楷書だけ書いてたら
ええんちゃう?

読めるから
「ええ書」なんやなくて、
キレイやったり
カッコエエから、
「ええ書」なんや
ないの?

「かなの書」は、
平安朝の日本人が
キレイな書をとことん
追求して出来たんや。

それを、読めるか
読めへんかでしか
判断できないゆうのは
あまりにも浅はかな
モノの見方やと思わへん?
(「第六十六話 文部科学大臣賞」62p


はーっ。
「そんな汚い字じゃ誰もよめないでしょ!」
とか言われるんじゃないかと心配する日々を送っていた私にとっては、「読みやすい字ではつまらんとか、いい気なもんだな」という感想しかでません。

が。まあ、これは芸術書道の素養のない私のたわごとなので、無視していいけどね。


小竹氏の論文にあるように、書道教育では「読みやすい」がたいへん重要とされているのに。
「読みやすさ」を損傷する心配があるとして、小学生が早い段階から横書きをすることを危険視している論文があるのに。
とめはねをきちんとしろ、筆順を守れ、とかやかましくいわれてるのに。

書家はそうやってわざと左手で字を書いたりして文字をもてあそんでいるんですね。楽しそうですね。

小竹氏の言葉をもういちど引用します。

文字は個人的所有物ではない。個人の趣向・趣味で弄ばれてはかなわない。


ただし芸術という名目で書家には文字を弄ぶ特権がある。

と、つけたしておきましょうか。


うーんとね。
芸術という名目で文字を弄んでいいとおもいます。


だいたい、いまだと

毛筆=芸術
硬筆=実用

っていうおおまかなすみわけができていて、
まあ、それはそれでいいかな、とは思うんです。



ただし、学校教育のなかでだけ、


毛筆=実用

っていうわけのわからんことになっている。

これは、同じく小竹氏の報告による、
第一次ワーキング・グループ報告
「時代に対応する書写力の基本構想」(概要)
(『書写書道教育研究』第18号 pp.92-93)
のなかで、

「現代は硬筆で十分である」として、明らかに有効性がある毛筆を使用する場面を破棄する必要もない(93p)


と書かれていることからもわかります。
毛筆書道には「有効性」があるそうです。
その有効性ってなに?
と。
とても気になりますが。

この答えについては、
以下のサイトを紹介します。

上越教育大学書写書道研究室の押木秀樹氏のサイトです。
ついでに、押木氏は
第一次ワーキング・グループ報告
「時代に対応する書写力の基本構想」(概要)
(『書写書道教育研究』第18号 pp.92-93)
にも名前があります。

硬筆と毛筆の字には相関があるか?



現在、高校の書道の授業と違って、小中学校の書写の目標をまとめると<正しいこと・整っていること・速く書けること(中)>が中心となっていて、美しさや芸術性もしくは伝統といったことにはふれられていません。あくまで実用性が重視されていることがわかります。一方、小学校三年生より毛筆を使って授業をすることになっています。これは、毛筆で文字の学習をするのは、実用のための硬筆の字の基礎であるということになります。具体的には、
  ・字を大きく書くことで、字形が把握しやすい。
  ・漢字は、毛筆の使用の中で形成されてきたため、毛筆で書いた方が理解しやすい。
  ・はらい、はねなどの学習に毛筆が適している。

などが、その理由としてあげられています。もし、毛筆で学習しても、硬筆の字がうまくならないという結論がでたとしたら、上記の理論否定されることになります。


引用部分の強調は著者によるものです。
なるほど。硬筆で字をかくにも、毛筆は基礎となっていて、日本語の文字書字教育には必ず毛筆書写が必要だということをいいたいのですね。
で、おどろくことに、続きがこうです。

 さて、余談が長くなりました。実は、今のところ、この質問に答えられるだけの実証的なデータをもっていません。しかし、私個人の経験から次のようなことが言えるかと思います。毛筆がうまい人で、硬筆がうまい人もいるし、うまくない人もいる。程度の問題である。硬筆で書く字と、毛筆で書く字がよく似ていて、両者が関連していると思われる人もいる。という感じです。


え〜〜〜〜。
毛筆の有効性について、実証的なデータないの?
押木氏の個人の経験でしか言えてないの?
しかも、毛筆がうまい人で、硬筆がうまい人もいるし、うまくない人もいるの?
これって、べつに実用書字に毛筆が必要か、って、考えると。
必要なの?
ほんとうに?


ワーキング・グループ報告のなかで「明らかに有効性がある毛筆」と明言されているのに、その「明らかに有効性」の根拠が、押木氏(をはじめとする書写教育にたずさわる人の)個人の経験っていうレベルでしか言われてないんだ……
これはひどい。

「個人の経験」なんていう弱いものををよりどころにした「明らかに有効性がある毛筆」のために、私はあのわけのわかんない毛筆書道の時間をがまんして、書道の先生に「ぷっ、本当にまじめに書いたの?」とか言われていやな思いをしていたのか。

う〜ん。なんか。なんかひどい。ひどすぎる。

左手書字者の都合をまるっきり無視した毛筆書道教育は、
右手書字者の実用書字には有効であるから、左手書字者を犠牲にしてでも行われ続けてるのかとおもっていたのだけど。

むしろ、右手で字を書く人のためになってるかどうかさえ、
実証的なデータがまったくないままおこなわれているのか。
そしてその有効性ははなはだあやしいと私には見えるのだけど。

だって、毛筆の字がうまいひとでも硬筆がうまいとはかぎらないんでしょ?
いや、私は毛筆がうまい人は硬筆もうまいものと素人かんがえで素朴に考えていたのですが。
毛筆書道が実用書字の上達と相関があるとはまだ証明されてないのですね。

もしかしたら、日本の小学校に通ってるこどもが全員やらなければいけないと決まっている毛筆書道教育には、じつはなんの意味もない可能性だってあるってことなのか。

そりゃ、やっぱ、もう毛筆の時間つぶしてパソコン学習にあてるべきでしょう。それはしょうがない。

毛筆は、書家が余暇でやればいいんです。
小学校に通う子供が全員やらなければいけないことではない。


小学校に通うこどもが全員二次元美少女の素養が必要ではないのとまったく同様に。小学校に通うこどもが全員、書道の素養が必要なわけではないです。

好きな人だけがやればいいでしょう。

二次元美少女マニアが、二次元美少女を己の性癖にしたがって脳内で弄ぶように。
書道マニアは、個人の趣向・趣味で文字を弄んでいればいいでしょう。




posted by なかのまき at 22:26| Comment(2) | TrackBack(0) | 書道教育
この記事へのコメント
いっぱん:
毛筆=芸術
硬筆=実用
がっこー:
毛筆=実用

の根拠づけのねじれ、おもしろいです。
これは、あとから理屈をくっつけたたためにおきたねじれなんじゃないでしょうか。
つまり、学校に書道がまぎれこんだ
→それで飯をくう人間たちがあとづけの理屈が必要になったのででっちあげた。

いったん、まぎれこむと、教育学部の養成課程が強力な利益団体になるので、そこであれこれ言説がでっちあげられることになります。ほかの教科同様に。

どういう経緯で習字がまぎれこんだのか、しらべてくれませんか?戦後の教育課程審議会?みたいなものですこしは議論されているはずですが。どさくさまぎれの気がする。
Posted by kadoja at 2010年01月14日 14:21
kadojaさん

コメントありがとうございます。

>これは、あとから理屈をくっつけたたためにおきたねじれなんじゃないでしょうか。

私もそうおもいます。
書道教育が国語科教育に寄生しつづけるためには、毛筆さえも実用という性格づけが必要だったんでしょう。

>どういう経緯で習字がまぎれこんだのか、しらべてくれませんか?

わかりました。やってみます。
わくわくしますね。
Posted by なかのまき at 2010年01月14日 23:40
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