2010年01月20日

2009年4月1日 「書は人なり」の典拠

ネタは色々あるのだけどまとまらないので、おもいつくかぎりくだらない記事を。

「書は人なり」の典拠がわかりません。
調べてみたけど出てきません。

もしかして、「書は人なり」って現代語なんじゃない?
という気が。
現代語だとすると、これは、語尾にナリをつけてる人物、つまりコロスケの言葉でしょうね。
ここから、「書は人なり」の典拠は『キテレツ大百科』でしょう。
週末に国会図書館かブックオフにいって『キテレツ大百科』をまとめて読んできます。
きっと
「書は人ナリよ〜、キテレツ〜!」
とかいってるコロスケのセリフがあるにちがいありません。

そして、書と人格との関係をのべたわりと古い文献をみつけたので紹介します。

大蔵虎明『わらんべ草』です。

狂言の芸論書というかんじのものです。
成立は奥書に万治3年(1660年)とあります。

火曜日はたまたま学校にいって、私の先生に「「わらんべ草」を見たいのですけど」……ときいてみたら、「『古本能狂言集』にはいってるんじゃない?」
といわれて、言われるままにみてみたのがこれ。

CA2SAZVA.jpg

(笹野堅『古本能狂言集』・岩波書店・昭和19年)

影印か……い、いや、仕方ないので読みました。
はい。ちゃんと読みましたよ……もちろん

岩波文庫で
『わらんべ草』(笹野堅・岩波書店・昭和37年)

岩波文庫いがいにも翻刻は出てるらしいですが。
とりあえずいちばん手軽な岩波文庫で。
い、いえ、もちろん「年賀状を筆で書かなければ失礼」な学校ですからね。先生の指導をむげにしたりはしませんよ。『古本能狂言集』の写本もいつか読みますよ、きっと。たぶん、おそらく。

さて。
とりあえず岩波文庫版で。

『わらんべ草』二巻二十七段 pp.148-153

○狂言のおしへ、まち\/ありといへども、(略)
王義之ハ、古今第一の書なり、しかも人がらも、世に勝れたれど、唯能書とばかりよバれて、其人がらを論ぜず。これ義之が為にハ、口惜き事也



書がうまくて、しかも人がらもいいってことで王義之がひきあいにだされてます。
王義之は「とめはねっ!」にもでてくる、書道の、すごいえらい人です。

ただ、やっぱり「わらんべ草」の本文から。
とりあえず、この当時はむしろ「書は人なり」ではなかったことがうかがえるのですがどーでしょう。
字のうまさばかり知られて、人がらについてあれこれ論じていないけど、じつは王義之って、人柄だっていいんだよー。
という主旨ですね。
ここではあきらかに、人がらと書はべつだてで語られてますね。

まあ。それはともかく。
私が書道の人で、「書は人なり」といいたかったら、ここの部分をしきりと引用するでしょう。
都合のいいこと書いてあるから。
あ、でも「書は人なり」が大昔からの伝統ではないってことはバレるので、よくないか。

まあ、「わらんべ草」は無視するにしても、王義之さんの人柄がいいという情報は書道の人には美味しい情報ですね。

さて、それにしても虎明さんはどうして王義之の人がらを知っていたんですかね。
また典拠にあたらなきゃいけないでしょうが、めんどうくさいので。

またまたウィキペディアさんに。

王羲之

けっこう細かくかいてあるので、王義之さんの人柄のよさについても言及があるでしょう。
と、読んでみました。

略歴

王羲之は魏晋南北朝時代を代表する門閥貴族、琅邪王氏の家に生まれ、東晋建国の元勲であった同族の王導や王敦らから一族期待の若者として将来を嘱望されていた。東晋の有力者である郗鑒の目にとまりその女婿となり、またもう一人の有力者であった征西将軍・庾亮からは、彼の幕僚に請われて就任し、その人格と識見を称えられた


おお。やっぱ、人格がすぐれていたようですね。
では、実際にどんな方だったのでしょうか。
同じくウィキペディアに、逸話が記されています。


逸話

王羲之には次のような逸話がある。

・王羲之は幼い頃から鵞鳥が大好きであった。ある日のこと、一軒の家の前を通ると、鵞鳥の鳴き声が聞こえてきたので、譲って欲しいと頼んだところ、一人の老婆が出て来てこれを断った。翌日、鳴き声だけでも聞かせてもらおうと、友人の一人を伴って、老婆の家に赴いた。この姿を家の窓から見つけた老婆は、すぐさま鵞鳥を焼いて食ってしまった。そして、老婆は彼に「鵞鳥は今食ってしまったところだよ」と答え、羲之は大変がっかりし、一日中溜め息をついていた。
それから数日後、鵞鳥をたくさん飼っている所を教えてくれる人がおり、その人に山の向こうの道観に案内され、道士に一羽でもいいから譲って欲しいと頼んだところ、道士はこの人が王羲之と知って、「老子の道徳経を書いて下さるなら、これらの鵞鳥を何羽でもあなたに差し上げます」と申した。彼は鵞鳥欲しさに張りきって道徳経一巻を書きあげ、それを持参して行って鵞鳥を貰い、ずっと可愛がったと言う。
・王羲之は興に乗ると手近な物に字を書いてしまう習性があった。ある日のこと、嘗て門人の家に行き、机の表面が非常に滑らかなのを見てそれに字を書いたのだが、門人の父親がこの落書きを見つけて削ってしまい、後でこれに気付いた門人は、何日もふさぎ込んでいたと言う。
またある日のこと、羲之が町の中を歩いていると、一人の老婆が扇を売っており、彼は興にのって、売っている扇の何本かに五文字ずつ字を書いたところ、老婆は「どうしてくれる」と色をなして詰った。すると彼は「『これは王羲之という人が書いたものです』と言って売れば、少し高くいっても、きっと買ってくれます」と言ってその場を立ち去っていった。
数日後、同じ場所を通ると、先日の老婆が彼を見つけて、「今日はこの扇に全部書いてください」と頼んだのだが、彼はただ微笑んだだけで、そのまま立ち去っていったと言う。



……えーと、この逸話、王義之さんの人柄のよさがうかがえないのですが。
一つ目の逸話は、まったく意味がわからないのでおくとして、二つ目の逸話は、老婆の売り物の扇に無断で字を書いて「王義之ですけど何か?」な態度がけっこうしゃくにさわります。

いやいやいや。しかし、大昔の人を今の私の価値観で判断してはいけません。この逸話にはかならず、なにか王義之さんの人柄のよさがにじみでてるはず。
よくかんがえましょう。

えーと、ガチョウの話は、うーんと、「動物が好きだなんて、王義之さんは心のやさしい人なんだね!」でしょうか。
次。
老婆の扇に字を書くのは、商品価値をたかめた結果になるわけで、「お金はだいじだよ」
ってことですね。うん。お金は大事ですね。

また、脚注にある

4^ 『晋書』王羲之伝によると、王羲之は前任の会稽内史であった王述を軽んじていた上、彼が母の喪に服していたときも、一度しか弔問に訪ねなかったことから、王述は王羲之を恨むようになったという。また『世説新語』仇隙篇によると、王羲之は王述の母の弔問に赴くといっては、たびたび取り下げ、ようやく訪れたときも、喪主の王述が哭礼している前に進み出ず、そのまま帰ってしまうなど、王述を大いに侮辱したという。


というエピソードについてはえーとえーと。
……「自分に素直に生きよう」かな?


今日のまとめとしては、
「書は人なり」の典拠が『キテレツ大百科』であったという発見もかなりおもしろいのですが、それ以上に
ウィキペディアの記事がとても面白い。
ってことで。


posted by なかのまき at 23:35| Comment(0) | TrackBack(0) | ニセ科学;筆跡学
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