2010年02月05日

それはよくあるダブルスタンダードですね。

hi.jpg
ミドリの線でかこったところが
「筆順の知識は必要不可欠。漢字の正しい筆順をきちんとしどうしておかねばならない。」って書いてあるところ。

アカの線でかこったところが、
「左手で書く場合には、筆順に従うとかきづらくなる場合がでてくるので、原則を一応示し、形に響くような逸脱した書き方は避けるように指導すればいい」
とかかいてあるところ。

見開き1ページでここまであざやかに矛盾してる出版物って、めずらしくないですか?


ってところに、
に、フォームメールで

「よくあるダブルスタンダードじゃないですか?」

ってコメントをいただきました。
ありがとうございます。
メールフォーム置いて良かった。


というわけで石田(1987)はあとまわしにして。
この件で。

hi.jpg

こういう矛盾は、たしかによくあることです。
しかし、それにしたって↑画像をわざわざ出して見せたように、ここまで激しいのは珍しいんじゃないかなー、と思ってたのですが。

見開き1ページでここまであざやかに矛盾してる出版物って、めずらしくないですか?


ってところは、

見開き1ページでここまであざやかに矛盾してる出版物って、よくあるダブルスタンダードだけど、私はゆるせない。


って書いた方がよかったのかもしれない。
こんなの、ぜんぜん珍しくないのかも。

えーと、なんか私、ダブルスタンダードって言葉はなんかいままで、いまひとつ適当につかってたので、
ちょっと勉強。
基本的な文献。
野村一夫(1996)「ダブル・スタンダードの理論のために」『法政大学教養部紀要』第98号社会科学 pp.1-30

ネットにありますのでリンクします。

ソキウスhttp://socius.jp(野村一夫)より 

「ダブル・スタンダード理論のために」


内集団の美徳と外集団の悪徳

 あるひとつの特性が、ある集団では美徳とみなされ、ある集団では悪徳とみなされる。マートンはこれをドナルド・ヤングにならって「内集団の美徳と外集団の悪徳」と呼んだ。「『すればするで非難され』、『しなければしないで非難される』過程「何をなそうとそれとはかかわりなしに、徹頭徹尾非難される」事態が、さまざまな民族的・人種的関係において存在すると指摘し、その社会学的分析に乗りだすのである。

 また、これと似たものに、同じひとつの社会規範が、ある集団には厳密に適用され、異なる集団にはまったく適用されないという現象がある。あるいは、ひとつの社会規範が、ある集団には柔軟に運用されるのに、異なる集団には厳密に運用されるという現象がある。古くはマックス・ウェーバーが「対内道徳と対外道徳の二元論」と呼んだものがそれである。
(略)
わたしは、マートンやウェーバーが指摘するこのような現象を総括的に表象する概念として「ダブル・スタンダード」(double standard)をあてたいと思う。


下線は私が引きました。

あ、これですね。

うん。やっぱり、右手書字者に「筆順は必要不可欠」っていって左手書字者には「(筆順は)原則を一応示し、形に響くような逸脱した書き方は避けるように」指導する。
って、これ。

「同じひとつの社会規範が、ある集団には厳密に適用され、異なる集団にはまったく適用されない」

ですね。

そうかんがえると、
ほんとうに、これ、「よくあるダブルスタンダード」ですね。
で、これはなにかというと、


 これらはたんに対応が矛盾しているとか一貫性がないといったレベルでダブル・スタンダードなのではない。かかわる人びとを拘束するひとつの首尾一貫したシステムとしてダブル・スタンダードなのである。すなわち、ダブル・スタンダードはジンメル流にいえば一種の社会学的形式なのであり、そして、ここまでの記述から推測できるように、それはしばしば支配層に対する「無視できない少数派」に対して行使される〈支配の形〉となっている。女性、非西欧人、新宗教、犯罪者、在日外国人、在野の研究者、非主流派……。もちろんこの場合の「少数派」とは人数の多寡ではなく支配的社会構造における占有度をいう。(同文献)


ようするに、なにかというと、下線部をひいたところです。

支配層=右手書字者を中心に考える日本語教育・日本語教師
無視出来ない少数派=左手書字をおこなう学習者

「筆順は大切だよ、でも左手書字者のことは面倒みないよ。指導して欲しければ右利きになりなさい」
が、支配層である日本語教育関係者によって左手書字者に対して行使される<支配の形>なのです。


そう考えると、ダブルスタンダードが世間にまかり通るのは、それを支えてる人たちがいるからであって、それを支えている張本人、日本語教育関係者が書いてる本なのだから。
『成長する教師のための日本語ガイドブック』という名前の書物で、「わたしたち、ダブルスタンダードしてます! 成長する教師たちもダブルスタンダードするといいよ!」って明言しても、そんなにおかしいことはない。

それにしても、ここまですごくあからさまに「ダブルスタンダードしてますぅ」って、書いちゃうのって、
「少数の人々はないがしろにします」って言っちゃうのなんか、いまどき流行にのってないし、珍しいんじゃないのかなあ?
いくらなんでも、外聞が悪いからもう少しとりつくろうものじゃないかなあ?
日本語教育なんか、いちばん、「自分とちがう人たちと一緒にいきよう」とか、そういうのに敏感なジャンルじゃないのかなあ。

とか思っていたのだけど、ここにあるものはどこにだってある。
べつに珍しいものではないのかもしれません。

私が、「ここまであざやかに矛盾するのって珍しいんじゃない?」
っていう感想を言ったのは、それは、やっぱり私がおかしかったんです。


 集団内における規範や習慣はよそ者には適用されないということが生じる。しかも、そうすることへの疑問は封じられてしまうのが常である。社会秩序とはそうしたものであり、それは自明な日常生活を生きる人びとの「心の習慣」として沈殿する。(略)
 なるほど、ダブル・スタンダードによって不利益を受け、それゆえダブル・スタンダードをよく認識しうる立場におかれる人たちは、当該社会におけるよそ者である。この人たちの視点から見ると、ダブル・スタンダードは個人を超えた「社会的なるもの」、動かしがたい自然史的事象として、すなわち「権力作用」として現れる。よそ者の視点とは、自明性におおわれたダブル・スタンダードを「権力作用」として発見する眼でもある。
(同文献より)


右手書字者にとっては、「筆順は大切。でも左手利きの人は適当にやっていればいいじゃない」は自明のことなのです。なにも疑問を持つ必要がない。
この矛盾に、気付かなくてあたりまえなんです。
私は、「ダブル・スタンダードによって不利益を受け」るので、「自明性におおわれたダブル・スタンダードを「権力作用」として発見する」のです。

そういう目でかんがえると、それを矛盾と考えない人たちが「普通」(=支配層)であって、矛盾が見えてしまう私の方が、「珍しい」(=少数派)かもしれないです。

私は、自分の感覚をいちばん正しいものとかんがえて、その基準でものを言ってしまっていました。
でも、「珍しい」のはどっちだ、と考えると。私なんだ。

本当は、私は、「珍しい」じゃなくて、「ゆるせない」っていう感想を言わなければいけなかったんですね。やっぱり。

というわけで、石田(1987)はまた次の記事で。
posted by なかのまき at 22:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 書道教育
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