2010年02月22日

国語学と筆順幻想

西崎亨「龍角寺五斗蒔瓦窯跡出土文字瓦に見る文字生活 : 筆順・字形と文字の習熟度」『武庫川女子大学紀要 人文・社会科学編』51 pp.1-8(2003)
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ってこととで今日は国語学だよ。

とりあえず要旨をちょっと引用します。

従来、上代における文字の普及とその習熟度を考える資料としては、伝世資料に限定されていた。(略)筆順・字形等の多様さは文字の習熟度とは無関係ではない。筆順・字形の多様さは文字の習熟度と相関する。(略)(p.1)


なんのことだろう。よくわかんないや。
本文いきます。

平川南氏は、蛇喰遺跡出土の篦書き文字の中の、「由」字の筆順を検討した結果として、7種類の筆順を示している。(略)
 この多種類の筆順の存する事実について、平川は「通常同一人物が数種類の筆順で文字を記すことは無いだろう」として、
 この事実は古代地方社会における文字の習熟の問題を象徴的に示しているといってよい。しかも八世紀後半から九世紀前半という時期は、一般的には律令行政が末端まで浸透し、文字が村落に普及したとされている。墨書土器が広範囲かつ多量に分布しhじめた時期である。それにもかかわらず、須恵器工人の文字の習熟度は、「由」の筆順さえ十分に習得しない状況であったのである。
 と記す。


えーと、蛇喰遺跡ってのは、島根県玉湯町にある遺跡だそうです。
で、平川氏のこの研究をうけて、西崎氏は千葉県印旛郡栄町にある、龍角寺五斗蒔瓦窯跡から出土した篦書きの文字瓦の筆順を調査した、小牧美知枝氏の研究を紹介します。
そこでも、「朝」や「神」「麻」「衣」「土」などの字が、複数の筆順
で書かれていたそうです。
また、「寺」「大」の字に、出土する遺跡によって、筆順が異なるものがあったそうです。
これをうけて、以下が、西崎氏の分析です。


ところで、字形をも含めて筆順は、小牧美知枝氏の研究で、記載者の集団と慣例政のあることが明らかになり、また時代の新旧とも関わりのあることが予想される。そして、なによりも筆順の多様は文字習得の程度・文字に対しての理解度を知る手がかりになるものとしての認識が必要なのではないか。


で。ついでに朝鮮半島の刻書と、日本で出土した刻書土器の筆順がいっしょのものがあったりなかったり、ということもあったらしいです。
まとめにはいります。西崎氏は、以下のように述べています。

 同一文字に複数の筆順が認められる場合、文字に対しての理解度の差異と筆順の相違とは無関係ではあるまい。五斗蒔瓦窯跡出土文字瓦の「朝」字に見られるような、筆順と字形の多さは、文字に十分に習熟していない状況を示すものである。(p.8)


下線部は、私がひきました。
なんで?


ともかく、五斗蒔瓦窯跡出土文字瓦は、その地域に生活した人―瓦製作に関わった工人―の文字に対しての、理解度・習熟度を知る資料となる。文字についての理解度の低さが、異体字を含む字形の多様さにつながる。更には筆順の多様にもつながる。(p.8)


え、だからどうして?
なぜ、筆順がいろいろあることが、瓦作った人が文字に対しての理解度が低かったって、そういうことになるんですか?


これは、なんの前提もなく、いきなり「筆順と字形の多さは、文字に十分に習熟していない状況を示すものである。」とか。
いきなりこれ言われたら、

「この世には、漢字を習得したすべての人が了承している永久不変唯一絶対の”正しい筆順”が存在する」

っていう前提が私になければ、納得出来ない結論だとおもうんですけど。
いや、私にそんな前提ありませんよ。


瓦作った人の文字の習熟度を、筆順によって知りたいなら、とりあえず、筆順が、習熟度をはかるためのめやすとして信頼できるものなのか、示すべきですね。

いきなり古代の人つかまえて、「筆順が正しくないし統一とれてないからこいつらバカ」とかいわれても。いや、そもそも筆順てなに?って話になりませんかね。


こういう話したいなら、

佐藤稔(1981)「異体字と筆順と」『秋田大学教育学部研究紀要人文科学・社会科学』31 pp.1-11

これを、読む必要があるでしょう。
この論文はすてきです。


1.はじめに
 平凡な日常生活において極めて常識的なこととして済まされていることでも、一旦疑ってかかると、その”常識”がまったく根拠のない盲信に基づくものであることが判明することがある。きちんとしたデータに基礎を置かない予測・予断とは、それだけに脆い性格を内に有していると覚悟しておかなければならない。(p.1)


と。なかなか、かっこうよくはじまります。

で、この論文でも、西崎氏とおなじように鑿打ちの文字をしらべた結果、

 ところで、現代通行の一般的な筆順と異なる(2)の如き例は、限られた範囲で調べてみただけでも、必ずしも希なものではなさそうである。(p.4)


と佐藤氏は述べています。
で、これでいきなり「筆順と字形の多さは、文字に十分に習熟していない状況を示すものである」とか言ってしまうとわけわからんのですが、佐藤氏はそうは言いません。


 これらは、どちらかと言えば”異例”の側に属するものではあろうが、そうした異例が比較的目につくというのが、鏤刻された文字に窺える特色ということになろうか。とは言え、そのことが直ちに、材質の粗密・不均衡にのって彫りにくさが生じて筆順を変えざるを得なかったという見方にのみ結びつくものかどうか、疑いの存するところである。(p.4)


と、慎重です。

その後、佐藤氏は額字を検討したり、光明天皇の作と伝えられる「鳥毛帖成文書屏風」の文字を見たりします。

で、やっぱり、今の筆順と違う漢字がみつかります。
たとえば、唐招提寺の額字。
IMG.jpg


<王><国>二字では、それが異なっている。「王」の部分を注視すると、ともに、第二画が中央の横画で、第三画に縦棒を引いていると理解出来るのである。
 これらの例についても、先に述べた鑿で打った文字の場合と同様、材質等の事情から彫り易さを求めて筆順を一時的に変更したものはないかとか、書き手の筆順そのものではなくあまり高度の識字層でない彫り工の筆順であろうとか、当時通行し得た筆順の一つが顕現したものであろうとか、生み出される解釈は、ひとつにとどまらない。(p.6)


これが、まあ、穏当な解釈でしょう。
いきなり「筆順と字形の多さは、文字に十分に習熟していない状況を示すものである。」とかいうのはどうかしてますね。

で、この答えは、

佐藤氏式に言えば、「当時通行し得た筆順の一つが顕現したものであろう」です。
これは松本仁志(1998)「筆順史研究の構想」『広島大学学校教育学部紀要』2 pp.1-9の冒頭にに答えが出てます。

本文リンクしておきます。こちら。

「過去の筆順書で基準とされた筆順」なんですよ。この王の筆順は。
 むしろ、これが「正しい」筆順だった。


つまり、松本氏も再三指摘していますが、


時代により、「正しい」とされる筆順は変化しているのです。

最後に、佐藤氏は
筆で書かれた「臣」の字を点検します。
「臣」の、総画数は何画ですか?
ときかれて。七画です、って答えるのが、正しいです。今はね。
で、だいたい過去の写本をみても、やっぱり縦画を最後にかく、七画で書かれていたようです。

ただ、中国の権威ある字典、
『字彙』『正字通』『康煕字典』では、臣は六画の字とされています。また、その字典の影響を受けた日本の『異体字弁』も六画』『正楷字覧』も同様です。また、その他(当時)流通していた漢和辞典でも多く、「臣」を六画としていたそうです。

で、六画っていうのは、『説文解字』の篆文が根拠となる、由緒のある筆順です。
だけど、それはただ「正しい」だけで、実際は広く、七画で書かれていたそうです。
 佐藤氏はこう述べています。


 結局、『異体字弁』『正楷字覧』に示す如き”起横六画”の<臣>字は、前代に皆無では無かったにしても、在来の生きた筆順の実勢を伝えたものと見ることができないと言うべきであろう。(略)
 世の多くが、”規範”とするものに従っていれば、それは文字通り規範として遇されてよい。しかし、規範とするものに、世の大多数が世を向けているようであれば、それはもはや規範としての意味も力も失ったものと見なければならない。(p.9)


……面白い論文なのですが、わりと、当たり前のことを言ってる印象でしょう。
筆順の規範は、時代や場所によっていろいろ変わってきているし、1つじゃない。

今の私の目からみれば、なんていうことのない、まっとうな結論なんです。「へー、勉強になったな」とは思うし、結論に異議はないのですが。
なぜ、佐藤氏はすてきな「はじめに」の文章をつけてまで、この論文を書いたのか。

「平凡な日常生活において極めて常識的なこととして済まされていることでも、一旦疑ってかかると、その”常識”がまったく根拠のない盲信に基づくものであることが判明することがある」と、佐藤氏は論文の冒頭で書いています。
これは、やっぱり、国語学者の中にも、「正しい筆順」を盲信していた人が、多くいたんだろうな、ということがうかがえます。

それで、「筆順を、いつでもどこでも変わらない正しいものがあるなんて、思わない方がいいだろう」って、そういうメッセージが、この論文にはこめられている。

 筆順については、いろいろ問題があるし、わかっていないことも多い。自分の感覚だけに頼らないで、ちゃんと検証しなければいけないことがいろいろある。
 たった1つの正しい筆順があるなんていう思い込みは、間違っているんです。

ただし、その佐藤氏のまっとうな指摘を、国語学者が知識として共有しているとは、とても思えません。現状見ても。
とりあえず、「正しい筆順」幻想を持っている人は結構多いでしょう。


少なくとも、いま、「正しい」とされている筆順と違う筆順で書かれた文字が出土したって、無邪気に「筆順と字形の多さは、文字に十分に習熟していない状況を示すものである。」とか論文に書くのは、それは、まともな研究ではないと思います。
posted by なかのまき at 20:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 書道教育
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