2010年04月12日

帯は、たいせつよね

知り合いに初版信仰を持つ人がいて、「〜という本を初版で持ってる」とかしきりにいうけど。
いや、江戸時代の版本ならね?
初版は摩滅もなくてキレイですよ。そりゃ、版本の初版なら、私も嬉しいですよ。
でも。いま刊行されてる本の初版なんか、誤植が多いだけじゃないの?
みたいな議論になって。べつのひとが、
「私は初版にはこだわらないけど、帯はとっておく」
みたいなことをいっていたひとがいて、私はこれもぴんとこなかったんだけど。
なんか、最近、帯って大切なんだな、ときづく。

このあいだの「ニセ心理学にだまされるな!」も、最初の印象が「なんか、帯がいやだな」とおもったら本文もいやな感じだったのですが。

さいきん、『コミュニケーションの社会学』(長谷川正人,奥村隆編・有斐閣・2009)という本の帯が珍妙だったのできになってよんでみました。

「わからない」からこそコミュニケーションは楽しい!
「対等で平等な個人による相互理解」という
不自由なタテマエとしての
コミュニケーション神話から解き放たれ
リアルな人間模様に迫る,新しい社会学の誕生。


うーん。
いや、タテマエだったら本音のところで自由にできるから不自由じゃないんじゃない?
とか、タテマエってきづいてたら神話じゃないんじゃない?
「タテマエ」と「神話」って、ことばとして、ならべるとあんまり相性よくないんじゃない?

とか、そこにもひっかかりつつ。

ところで、

“「対等で平等な個人による相互理解」という神話”

を信じてる人って、だれ?
っていうのがよくわかんなかったんで。

いったいどこのだれが「対等で平等な個人による相互理解」が大切だなんて言ってるの?
社会学の研究者?
社会学の人は、そんなこといってないでしょ。ぜったい。
「対等」も「平等」も「個人」も「相互理解」も、どれひとつとっても、使い方が難しい語で、そんなほいほいと無邪気に「平等!」とか言ってるひと、いないんじゃないかしら。
ましてや「対等で平等な個人による相互理解」なんて、だれが言ってるの。

一般社会でくらしてたって。「対等で平等な個人による相互理解」? え?
どこのだれが「人間関係が、対等で平等な個人による相互理解」っていうコミュニケーション神話にとらわれているの?

と、不思議で読んでみたら。
そう、この本が全体的に、なんか私は読んでいるうちにボンヤリしてくる内容なんですが。
ちょっと、この本のことを考えてボンヤリしていたら、通勤途中に電車を乗り過ごしたので。
腹いせに。(←そんな理由で)
この本のことを書きます。

ぜんたいてきによくわかんなかったんですけど、いちばんわけがわからなかったのが、

6章 権力とコミュニケーション

というところ。
で。この章は、大貫恵佳(おおぬき・さとか)氏が執筆担当しています。
現職は駒沢女子大学非常勤講師だそう。

要旨を引用します。



 私たちのコミュニケーションには権力の関係を含むものが多くある。この種のコミュニケーションはえてして「支配」や「抑圧」という言葉で語られがちである。権力のコミュニケーションには否定的なイメージばかりがまとわりつく。だが,私たちが本当にそこで支配されたり抑圧されたりしかしないのだとしたら,私たちの社会はなぜそのコミュニケーションを続ける必要があるのだろう。むしろ,私たちは進んでこのコミュニケーションを続行しているのではないか。そのコミュニケーションにはなにか私たちを惹きとめてしまう魅力があるのではないか。本章では,ミシェル・フーコーの権力論を紹介しながら,この奇妙さに接近してみたい。


えー。
なんか、この要旨がね。なんか。ちょっと。何度読んでも、
いみがわかんない。

ちょっと本文引用します。

 権力のコミュニケーションには,そこにかかわっている人びとを隔てるなんらかの力の差異があるようだ。それは地位や身分かもしれないし,財力かもしれない。こうした差異のある関係で起こるコミュニケーションには、それ以外のコミュニケーション(対等なコミュニケーション)にはない緊張感がある。本心をあけすけに言えない面倒さがあるし,ご機嫌を損ねないように,出すぎないように,威張りすぎないように,などのさまざまな配慮も必要だ。しかしこうした煩わしさがある一方で,そこにしかない魅力もあるように思う。(P.110)


えーと……う、うん……


単純に従ったり,仕えたりすること自体に楽しみを感じてしまうこともあるし,つらいと思ってもなぜか自分自身ではそこから逃れようとしないことさえある。権力のコミュニケーションには,そこにしかないなにか,権力のコミュニケーションの特殊性とでもいうべきなにかがあるようだ。(p.110)


えーと、なるほど。
権力によって支配される側、抑圧される側の視点にたって、支配されること、抑圧されることの楽しみについて論じる文献なんですね。ははあ。
え? で? フーコーがどうしたっていうの?
 で、フーコーがでできます。

 フーコーは自分が監獄で見た権力は,まったく別の権力であったという。第一に,権力は,犯罪者に対して排除や抑圧という否定的な作用を及ぼしているわけではなく,犯罪者を有用な者に作り替えるという積極的な働きをしている。(p.114)


えっ?!
フーコーは監獄の作用を「犯罪者を有用な者に作り替えるという積極的な働きをしている」なんて言ってないんじゃないかと思いますけど?
あ、あれ?

とおもって、手元にあった本を開いてみます。
ちくま学芸文庫『フーコー・コレクション4 権力・監禁』「7 監獄的監禁について」(石田久仁子訳)
奇妙なことに、ほとんどの場合、刑務所で服務を終えた労働者は、出所しても、もう仕事に就こうとは思っていませんね。刑務所当局はいまだに刑務所内での労働の教育的価値を信じているふりをしていますが、どうやら拘留者の労働意欲を永久に奪うようになっているようですね。(p.162)


あれ?
私、なんか勘違いしてる?
みてるところがちがう?


えっと、よくわからないまま続きよみます。
先ほどの文献にもどります。

大人は、幼いころに自分が感じていた親の目を欺く快楽を知っているのだから(成長したその人がどんなにそれを「抑圧」とか「支配」とかいう言葉でくるんだとしても,彼/彼女はそれを経験しているのだから),その快楽を今度は自分の子どものうえに見つけ出して喜ぶのだ。
 同様にして、必要以上に教師に従順な生徒、男性に従う女性というのも理解される。なにか(たとえば暴力)によって強制されているわけでもないのに、なぜか従順にしている人びとがいる。彼/彼女らは,「監視される側」の快楽を満喫しているのである。(p.123)


 コミュニケーションにおける快楽と支配権力との関係は複雑であり、難しい。たんに,支配権力が上から私たちのところまで下りてきているのではなく,私たちの方が快楽のゲームのためにそれを利用してしまうから,支配的な権力は維持され,拡大されてしまうともいえるのである。その先には固定された支配−従属関係や,抑圧の問題が控えているかもしれない。(p.125)


うーんと。
「いじめがあるのは、いじめる側にも非があるけど、いじめられる側に問題があるからだ」
っていうのと同じことかな?

支配される快楽があるからこそ、権力があって。それが問題なんだよ。ってことで。

うん。
はい。支配される快楽っていうのは、あのねー。
いや、わかんなくも、ないです。
うん。わかる。
たしかにね、そこに目をつぶっちゃいけないですよね。

でもね。
結論が。


 この喜び(引用注=支配される喜び)を私たちが手放さない限りは、私たちはまだ延々と権力=快楽のゲームを続けてしまうに違いない。そしてその喜びを社会のそれぞれの場所でどのように活用していくかは,私たち自身の社会の課題であろう。(p.126)


えー。「活用」しなきゃいけないのー。
たしかに、


恋人同士のように一見したところ「対等」なコミュニケーションにもしばしば権力の関係は入り込んでくる。恋愛においては自分のほうがより相手を好きだと思うときには「負けている」とさえ思うものだ。(略)相手と自分とのあいだに力の差があるところにならば,どこにでも権力のゲームは発生してしまう。しかもこの種のコミュニケーションは,ときに私たちをいらだたせ,落ち込ませ,有頂天にさせるものだが,いずれにせよ,それらは多くの場合楽しい。(p.125)


こういう楽しさは、わからんでもないけど。
問題は、「その先には固定された支配−従属関係や,抑圧の問題が控えているかもしれない。」っていうところにあって。
この危険を承知で、この楽しさに没頭できるかというと。
いやだなあ。

だから、「この快楽のために、権力のコミュニケーションを維持して、活用しよう」
って、フーコーが言っているようにみえるけど。というか、なんかこの文献が、そういう読みに誘っているように見えてしまうんですが。
いや、フーコーはそんなこと言わないと思うんだけどなあ。
というか、なんかね、私はそんなにフーコーは読んでないので、フーコーの意見と、大貫氏の意見の境がよくわからないんですよ。この文章のなかで。わざとそういうふうにしてるのかな。
ともあれ。フーコーは「支配される快楽の活用」とか、そういうことは言ってないですよね? たぶん。

「この快楽はじつは、固定された支配−従属関係や,抑圧の問題と地続きなんだよ」ってことには、意識的になったほうがいいとはおもうけど。
「活用」はねえ。なんかちがう気がする。
あと、「支配する側」「抑圧する側」の楽しさのことももっとかきましょうよ。どうせなら。
そっちの楽しさの方が、もっとよくわかるもん。

ともあれ。
フーコーをちゃんと読んでみよう、という気にはなりましたよ。
おかげで。

で、そう。金曜日にね。この本を読んで。
家に帰る途中にね、「支配されることの快楽」について、ずっと考えていたら、電車を乗り過ごしてね。
なんか知らない「動物園前」とかいう駅で降りてね。
桜がきれいでした。
動物園の入り口の写真をとってかえってきたよ。
今年度初の「乗り過ごし記念」に。
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posted by なかのまき at 22:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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