2010年06月27日

「うまれつきかうまれつきでないか」ってそれを考察するのはお前の仕事じゃないよ

小林比出代(2005)「左利き者の望ましい硬筆筆記具の持ち方に関する文献的考察」『書写書道教育研究』20 pp.30-40

『書写書道教育研究』っていう雑誌は、わたしは、いい雑誌だとおもってます。
前にも紹介した加瀬氏の論文なんかものすごくいいし、そしてその論文をちゃんとページの若いところに掲載する、『書写書道教育研究』っていう雑誌も、いい雑誌だとおもいます。
あるていど、書写って、「手書き文字は将来滅びるかも」みたいな危機感があるせいか、いい研究が多いし、この雑誌をよめば書写教育の問題点がほとんど網羅されていて、書写教育のなかで(ひそかに)共有されているのがわかります。もうすこし、一般人にむけてもいってほしいんですけど。
「硬筆と毛筆は関係ないよー!」とか、ちゃんと大声でいってほしいんですが。

国語教育なんかとくらべると、だんぜん科学的な考察がしっかりされていて、面白い分野だとおもいます。
というか国語教育は、あれはなんなんですかね。


それをふまえて。
左利きのことも、もちろん書写教育の人はかんがえてます。
ということで、紹介します。

小林比出代(2005)「左利き者の望ましい硬筆筆記具の持ち方に関する文献的考察」『書写書道教育研究』20 pp.30-40

これはどういうたぐいの研究かというと、章だてをみればわかります。

1.左利きに関する社会的意識―書字の側面から
2.現在の書写教育における左利き児童・生徒への学習指導
3.左利き及び左利き者の書字に関する文献的考察―生物学・心理学の分野から
 3.1「左利き」の定義と「ラテラリティ」
 3.2 左利きの割合
 3.3 左利きの発生起源と種類
 3.4 利き手と大脳との関係
 3.5 順手と逆手―Levyの仮説から
 3.6 幼児期の利き手
 3.7 利き手への社会的・文化的影響
 3.8 書字における右手の優位性
 3.9 左手書字から右手書字への「矯正」の是非
 3.10 学校教育と左利き及び左利き者の書字
4.左利き者の望ましい硬筆筆記具の持ち方及び用紙の置き方―『左きき書道教本』を参考に


この論文のストーリーとしては、3章で「左利きを右手書字させるのは”不自然”だし言語障害などの”問題”がおこるから矯正しないほうがいい」4章で「ではどうやって左利きに字をかかせるか」
って、そういう話になってまして。

私は、以前論文にもかいたんですけど、
「左手利きは生まれつきだから、矯正しちゃだめ。矯正なんか不自然なんだから」
っていうのは、意味がない発言だとおもいます。
「左手利きを右手に矯正すると言語障害なんかがおこるかもしれないから矯正しないほうがいい」
っていうのも。
で、そういう方向での「矯正しないほうがいい」に脳やらなんやらの科学論文をひっぱってきて、「矯正しない」に科学のお墨付きを与えて、それを「矯正しない」の根拠にすることは、慎重になったほうがいいとおもうんです。

うらがえすと、「生まれつきじゃなかったら矯正していいの?」「障害がおこらなかったら矯正していいの?」って話になって、そうなると「いい」ってなっちゃうのが、こわいんです。

「矯正しちゃだめ」に、科学の裏付けもあっていいですが、それより、左手ききの矯正って、文化であり、社会の問題なんで。
そっちのうらづけの方が大切なんです。
でね、小林氏は、「3.9 左手書字から右手書字への「矯正」の是非」の章で、「矯正しちゃいけません」というのに、科学的なみかたでしか、もの言ってないのが、非常に残念なんです。

 しかし、生物学及び心理学の見地から考察した場合、右利きが多数派ゆえに、右利きの方が社会生活において便利との理由だけで安易に利き手を偏向させることには強い危惧の念を抱く。(P.35)


「生物学」および「心理学」って、なんでそんなに、左手きき個人の、「からだのつごう」ばっかり見るんですか。
矯正は、左手ききひとりの、「からだのつごう」よりも社会の利便性を優先しているからおこることであって、そのときに、ひだりてききの「からだのつごう」ばっかり観察しててもしょうがないんですよ。
利き手矯正は、社会の問題です。だから、社会を問題にとりあげないと、利き手矯正についての研究なんか、無意味なんですよ。
ひつようなのは、社会学です。
いくら左手利きの脳を測定したって、問題解決にはとおいんです。

あと、左手利きと左手書字者を区別したほうがいいとおもうんです。

左手書字をおこなうひとは、もちろん左手利きがおおいですが、
もともと右利きだった人が怪我や病気などのつごうで、右手でペンを持てなくなった人が、左手で字をかく場合もあるわけで。

それを無視して、左利きの脳波をいっしょうけんめいしらべたってしょうがないんです。

左利きじゃなくても左手書字してる人がいる以上、左手書字は左利きだけの問題じゃないんです。


そこのところがぬけおちてるから、「左手書字から右手書字への「矯正」の是非」なんていってられるわけで。
是非の検討とか、そんな段階じゃないんです。
今現在目の前に、左書字者はいるし、「矯正」で左手書字者を撲滅できるわけではないというのは当然なのに、なにをのんきに「矯正の是非」なんていってるんですか。
そういう問題じゃないんです。「矯正したほうがいいのかしないほうがいいのか」なんて、すごく、意味ない検討です。

書写教育の人は、「矯正の是非」なんてもう、これ以上考えるひつようないです。
左手書字者は、いつでもどこでもいる。左手書字者がいなくなることはありえない。
だから、もうね、「左手で字をかくひとはいてあたりまえ」って、そこはもう、議論の余地はないでしょう。
それをふまえて、そのてあてを考えるときにどうしよう。
毛筆全員必修ありえないよね、むしろ硬筆全員必修もありえないよね。ってそういう方向にいくしかないんじゃないかなあ。

いや、「生徒はぜったいに手書きの文字をかくべきではない、これからはパソコンだ!」っていってるんじゃなくて、

パソコンも硬筆もえらべるようにして、どの場面でもどっちでかくにしても不自由ないようにして、
あたりまえだけど「パソコンの文字は心がこもってない」とかそういう差別をしないように、
書字教育のシステムをかえていくようにするしかないんじゃないかな。

posted by なかのまき at 11:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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