2010年10月27日

いじめられてる桐壺更衣萌え〜な論文

宮武里衣(みやたけ・りえ)2009「人間関係に視点をおいた「源氏物語」の指導」『解釈(解釈学会)』55 pp.36-45

 数ある教科の中でも、残念ながら古典は高校生にあまり好かれていない。(略)
 この現状をそのまま受け止めれば、高校生に古典を好きになってもらうことは難しいことになる。では、どうしたら、「高校生に好かれる古典」になり得るのであろうか。生徒たちが学習したいと感じられるような古典教育を、どうすれば実践できるのだろうか。p.36


いや、好きかどうかはともかく、受験科目だから、古典につきあってくれる学生は一定数いるよ。
それは心配しなくていいとおもいます。需要はありますよ。
さて。
国語教育がたいへんなことになってることは、けっこうこのブログでかいてますし、国語教育のへんな論文はみなれてるのですが、久々に大物がひっかかったのでご紹介します。

古典は長い間我が国で大切にされ、読み継がれて来たものである。多くの人々によって、すでに高い評価がなされているものである。「生き方」という大きなテーマを、評価が定まったものに寄りかかって考えることは意義のあることではないだろうか。(p.37)



また、古典教育は言語の教育でもある。昨今、若者の言葉の乱れは様々な場で話題になり、嘆かれている。一方で古語は「今の言葉ではない」という理由で高校生にはあっさり切り捨てられている。しかし、考えてみれば、高校生の使っている言葉は、古語から連綿と続いている日本語の歴史に連なっているのである。(p.37)


いや、まだですよ。ここでつっこんだら負けです。
これくらいのヨタ話は、国語教育の論文にはごろごろしてますんで。

このあと、高校生に好きになってもらうための古典の授業の実践報告があります。
源氏物語の桐壺の巻の冒頭ぶぶんを読むというこころみがなされます。
で、まとめ。

単元の最後に書かせた、「登場人物の生き方についてどうかんがえますか」という問いの回答が以下である。

A どんなにいじめられても何もやり返すわけでもなく、自分の運命を受け入れて生きていこうとする強い人だと思う。受け入れてやり返さなかったのは、身分のせいもあるだろうが、いじめをする人たちの気持ちを理解していたからではないだろうか。そう思うと、よりいっそう桐壺更衣という女性はすごい人だと思う。(女子)
B 桐壺更衣はたとえいじめられて、病気になっても頑張って耐えて、しかもだれもうらんでいなかったと思う。おなじ人間として尊敬する。(男子)
C 身分が低くありながらも、帝に寵愛され、しかも帝は一途で浮気しなかったので、その点では幸せだったと思う。しかし、ひどいいじめにあったのは可愛そうとしか言いようがない。話をすることもできないくらい苦しいのに、最期に帝と生きて一緒にいたいと考えられるほど、前向きで現実的で、心の強い人だから、もし、病気にならなかったら、周囲の人と和解できたのではないかと思う。(女子)
(略)

 単元の始めでは、源氏物語を「ドロドロした物語」「昼のメロドラマみたい」などと、表面的に評価していた生徒たちが、単元を終えた後には、登場人物をまるで自分の周囲にいる人のように考えるようになったことは、大きな進歩である。


えーと。「国語の授業はまるで道徳」ってのは、ものすごく耳たこな国語科教育批判ですが。

で……なんで、生徒にこんな不道徳な感想を書かせるような授業やってるの?
そしてそんな不道徳な感想を堂々と論文で紹介するの?

桐壺更衣ってのは、身分が低いのに帝に寵愛されて、権力のバランスが崩れるのをおそれた周囲にいやがらせにあってそのせいで病気になって死んだ人ですね。

なぜ、そんな境遇で死んだ人を「同じ人間として尊敬する」なんてかくの? 不謹慎じゃないの。
これ、昔話だから許容されるけど、「桐壺更衣」を現代人の名前にかえてみたら、どうですか。桐壺更衣を現代人の名前にかえてよんでみたら? なんでもいいけど。たとえば。「山田花子」でも「小和田雅子」でも。なんでもいいけど。冗談じゃなくなるでしょう。

なんで、「たえしのんで死んだ桐壺更衣萌え〜」という特殊な嗜好をもつ人間の感想ばかり3つも、ならべて出すの?
いや、たしかに、わりと、百合界隈に「女の子が女の子に陰惨にいじめられる」という設定を嗜好する層があるんですよ。それですよね?
でもその趣味、ちょっと、道徳と区別が付かないのがウリの国語の時間にふさわしくないんじゃないの? たえしのんだ結果、人が死んでるんだよ?
いいの?

……と、おもわず個人の趣味・嗜好に矮小化して茶化さないと腹が立ってしかたがない
まだ、趣味であったほうが救いがある。

これ、本気で道徳なんでしょ。

弱いモノはたえ忍んで死ね、っていう。

そういう道徳なんでしょう。いつの時代の道徳なんだかしらないけど。
2010年の国語教育のなかの道徳なんだよね。救いがない。泣きたい。

この3つの生徒の感想。ぜんぶ、桐壺更衣の「たえしのんで誰もうらまないで死んだ」という姿勢を評価してるんですよ。

しかも、
「どんなにいじめられても何もやり返すわけでもなく」「自分の運命を受け入れて生きていこうとする強い人」「受け入れてやり返さなかったのは、身分のせいもあるだろう」「いじめをする人たちの気持ちを理解」「はたとえいじめられて、病気になっても頑張って耐えて」「しかもだれもうらんでいなかった」「話をすることもできないくらい苦しいのに前向きで現実的」「病気にならなかったら、周囲の人と和解できた」
なんでこんなに、強い立場の人間のことは無視して、弱い立場にばかり負荷がかかるんですかね。たえしのべとか、だれもうらむな、とか、つよくなれ、とか前向きになれとか、周囲の人と和解しろ、とか。これ、ただの奴隷根性だよ。
あげくに、奴隷根性発揮して死んでしまった人を、「すごい人だと思う」「同じ人間として尊敬する」と美化するような感想を書けと強要する。

えーと、ここはどんな奴隷養成所ですか?
どんだけ野蛮な場所なんだ。学校って。かわいそうに。

それで、教師は「登場人物をまるで自分の周囲にいる人のように考えるようになったことは、大きな進歩である。」とひとり悦にいる。

私の周囲にこんな奴隷は1人もいません!

posted by なかのまき at 23:17| Comment(4) | TrackBack(0) | 国語教育
この記事へのコメント
すいません。まけました。そーそーに つっこんでしまってw
Posted by kadoja at 2010年10月28日 10:41
そーですねぇ。
前半部分のような記述にたいしても、いちどまともにつっこんだ方がいいんですよね。
今回は、国語教育と奴隷教育の共演という独創性を評価してブログにとりあげました。

「古代から連綿と続く日本語」あたりにつっこむなら、国語教育の世界で影響力のあるおおものの論文でやったほうがいでしょう。
検討してみます。
Posted by なかのまき at 2010年10月28日 22:56
>今回は、国語教育と奴隷教育の共演という独創性を評価
>してブログにとりあげました。

このじれー、「国語教育と道徳教育」とゆー、とんでもりょーいきが たがいお たかめあったけっか、ぶっとんでしまった、とゆーはなしですねー。
そいや「理科教育と道徳教育の共演」ってのもありました。
「みずわ かたる」ってやつ。
道徳教育=トンデモばいぞーしょくばい、ってとこでしょーか。
きょーいんよーせー ぎょーかいでわ、どーとくきょーいくが いってーの せーりょくお しめているよーですが、
だれか、そのなかみ あばく ひつよーがあります。
Posted by kadoja at 2010年10月29日 07:43
がっこーのせんせえがどうして平気でこんなことをかけるくらいに、よくしつけられているのか、まえまえから疑問でした。

もともとこういう資質をもったひとがせんせえになるのか、それとも教員養成や現場での洗脳のたまものなのか。

まあ、両方という可能性もあるかもしれません。


Posted by なかのまき at 2010年11月01日 21:36
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