2011年03月10日

筆跡学は迷惑だ。

前回の記事で、
「筆跡学はニセ科学だからいけないんだ!」

みたいな書き方をしてきもちわるいな。
それって、ようするに「科学様の権威の前にひれふしなさい、愚か者よ」っていう言い方にみえる。
あ、今回の私の記事に限りです。
他の方のやってることについては、それぞれその人の背景には事情があるわけで。
それとは関係なく。

国語教育と筆跡と心のありかたについて考えるとき、
「筆跡学はニセ科学だから筆跡と心を結びつけちゃいけない」
みたいないいかたは、あまりよくない。

なぜなら、そりゃ、ニセ科学でもかまわないでしょ。
「「文字」を美しく書くだけでなく、自らの内面を筆に乗せて表現しようとする」
「字は、その人にとって、顔なのだ。」
なんていう発言を平気でできてしまうような人にとって、それが科学的かどうかなんか、どうでもいいことでしょう。

「そりゃ、実証はできないかもしれないけど、そういうのってぜったいある」
「今の科学ではわかっていないこともいっぱいある」
「何でもかんでも科学のものさしではかればいいってものじゃない」

みたいな話になるよね。きっと。

「字の形から人の性格や心のありようをよむことができるとは、いまの段階ではものすごく言いにくい」
という見解をふまえつつも、中心としてとらえなければいけないのは、

「筆跡学はニセ科学だから国語教師はこどもの筆跡から心を憶測するのはやめてほしい」

ではなく、

「ひじょうに迷惑だから国語教師はこどもの筆跡から心を憶測するのはやめてほしい」

だよな。

で、その迷惑の根拠のひとつとして、

字を見れば心がわかるというのは悪質なヨタ話だから。

という情報はあってもいいでしょう。くわえて、

「美しい字」とやらを書くためには「左手で書かないこと」など、身体の都合に大きく左右される。というか、それは個人の身体に責任があるわけではなく、手書きの文字に意味不明に重苦しい価値観をおく教育の構造の欠陥でしかないわけで。にもかかわらず、そういう都合をぜんぶ無視して、あたかもすべてが「心の問題」や「努力の問題」であるかのように言われる。
そして、「美しい字」とされるものにどれだけ適合しているかしていないか、という視覚的な情報は他人を評価するときにバイアスとしておおきく影響する。
字面から人の心を憶測しようとするのは、害ばかりでえきがない。

そういう面をしっかりいわなければいけない。

本当は、ニセ科学は科学だけではなく、社会にも深く関わるものだ。
それはもう、すでに指摘されていることであって。
だから、「筆跡学はニセ科学だからダメなんだ」でも、本当は、いいはずなんだけどね。
あまり文系の人にそういう意識がないよな。
posted by なかのまき at 22:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/43783886
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック