2011年11月27日

文化は差別を免責しない(1)

シミュレーション「アルバトロス」というものがあるらしい。

そしてこれを紹介する論文があって、

森山美雪(もりやま・みゆき)2010「異文化トレーニングにおける大学生の学び―シミュレーション「アルバトロス」の効果について」『異文化コミュニケーション』13 105-119

これについて考えたことをかきます。

シミュレーション「アルバトロス」というのは


アルバトロスという架空の国での歓迎の儀式体験と、そのあとに続くディスカッションとの2部構成になっている。参加者は、儀式での性別による待遇の違いからアルバトロスを「男尊女卑」の文化と思い込んだかについて振り返りを行う。森山(2010:109)


このような目的でおこなわれます。
で、紹介する論文は、このシミュレーションを使った大学の授業の実践報告の形をとります。
10名の学生がじっさいにシミュレーションで参加をすることになっていて、(参加してない学生は見学)
ただし、参加する学生にもこのシミュレーションの趣旨を把握しているわけではない。

この授業でおこなわれた実際の手順については、
まず、以下の手順の寸劇をおこないます。

(1)用意された椅子7脚に訪問者女性(VF)全員と訪問者男性(VF)数名が座り、VMの残りは床に腰をおろし、儀式の始まりを待つ。
(2)アルバトロス男性(AM)、アルバトロス女性(AF)の順に入場。全身を覆う服を着用し、AMは靴を履き、AFは裸足。
(3)アルバトロス女性は「スー」と言いながら訪問者女性を床に座らせ、裸足になるように求める。訪問者男性には椅子に座るよう促す。
(4)あいさつ。アルバトロス男性は椅子に着席。アルバトロス女性はアルバトロス男性の足元で正座。アルバトロス男性はアルバトロス女性の頭に手を触れながら頭をさげ、アルバトロス女性は床に手をついてお辞儀をする。
(5)アルバトロス女性がアルバトロス男性、訪問者男性の順にクッキーを食べやすいように差し出す。男性は美味しそうに食べる。その後、アルバトロス女性は箱ごと渡されたクッキーを食べる。
(6)アルバトロス女性がアルバトロス男性、訪問者男性の順に飲み物をコッピに注いで渡す。男性は美味しそうに飲む、最後に、訪問者女性が飲み物の容器とコップを渡されて自分で注いで飲む。
(7)アルバトロス女性とアルバトロス男声が相談をして訪問者女性を一人選ぶ。
(8)あいさつ。アルバトロス男性は椅子に着席。アルバトロス女性とさきほどえらばれた訪問者女性がその両側に正座する。アルバトロス男性は両側の二人の女性の頭に手を触れながら頭を下げる。女性は床に手をついてお辞儀。
(9)アルバトロス男性が先頭に立ち、訪問者女性とアルバトロス女性が後ろについて退場。
(森山(2010:109−110)を要約)


そして、これを見た後「アルバトロスとはどのような文化か」についてディスカッション。
「男尊女卑」という感想をひきだしておいて、ねたばらしをおこなう。


「アルバトロスは女性を尊敬する文化で神が宿ると考えられている聖なる大地を踏みしめることができるのは女性だけで、男性は靴をはき椅子に座らなければならない。食べ物は女性だけが自分で食べることができ、男性が先に食べるのは毒が入っている場合を考え女性の盾となるため」(森山2010:110)


これをうけ、
「なぜアルバトロスを男尊女卑の文化だと思ったのか」についてディスカッションのあと、全体のディスカッションを行う。

全体のディスカッションにおいて紹介されている学生の意見がけっこうひどい。

グループディスカッション中に「教育が悪い」という言葉が何度も発せられた。
「小学校から男女平等についてよく聞かされていて、男尊女卑という概念を習ったので、アルバトロス文化をそう思い込んでしまった」
「差別ということばを習うので、この状況を差別と解釈した。差別ということばを知らなかったらそうは思わない。ことばが物事を解釈する枠組みとなっている」(森山2010:110)


いろいろな混乱がみられるようですが、
どちらにしろ、アルバトロス文化は差別的です。
男尊女卑だろうが女尊男卑だろうが、どっちに解釈したとしても、男女差別。

なぜ男尊女卑だけが差別とみなされているような発言をするのか。
そしてそれを教育のせいにするのか。
小学校教育では「男尊女卑は差別だけど女尊男卑は差別じゃない」というトンチキなことをおしえるものか?
人間を性別で待遇の差をかえたりしてはいけない、というあたりまえのことをいうだけでしょう。

あと、差別は社会の構造に関するものであって、心の問題ではないので、
個人があることがらについて差別と思うか差別と思わないかは、
そのことがらが実際に差別であるかどうかにはまったくかんけいないでしょう。
「ことばが物事を解釈する枠組みとなっている」というのはあまりにも乱暴すぎる。
差別は個々人の「ことば」や「解釈」の問題だけではないので。


森山氏は学生の意見をうけてこうまとめています。

日本文化の視点からアルバトロス文化を解釈してしまった。常識と先入観から思い込み、固定観念に縛られ、日本/自分の価値観を基準に考えた。(略)そもそも他の文化のことをよく知らないし、他の文化のことは考えにも及ばなかった。女尊男卑があるなんて思いもせず、想像力がなく多角的に見られなかった。エスノセントリズムのせいで、他の文化を間違っている、異常、劣っていると感じた。(森山:112)


私は、アルバトロスが架空の文化であるということにうさんくささを感じます。

人間というものは、程度の差こそあれ、男性優遇の社会をつくっている傾向があることは知識として知っているひともいるはず。しかも、これはわりといろんな研究ではっきりしてるでしょう。

こういう研究成果、知識を、「架空の文化」を理解するために捨てろ、それが異文化トレーニングとやらに有効なんだ、というのであれば。
男女差別は文化の差をこえたレベルにあるものなのに、そういうたぐいの差別問題を、架空の文化をでっちあげてまでむりやり個別の文化におとしこもうとすることを「異文化トレーニング」とよぶのか。


文化の間に優劣や間違いはない、という考え方は文化相対主義とよばれます。
これはとても大切な考え方を含むとともに、ある面においてはその限界性を批判されています。

たとえば実在する首狩りという文化。女性器切除(女子割礼とかいわれることもある)という文化。
そういう風習にたいして、文化相対主義はどうむきあうのか。

「文化だから尊重」するのか。

くもりない文化相対主義者なら、「そのとおりだ」とこたえなければならないでしょう。
たとえ人殺しであっても他者(しかも子供)を傷つけることも、そして差別も、それが文化でありさえすれば、
「文化には優劣も異常もない」とこたえなければならない。

森山氏はこのような学生の声も紹介している。

学生Bは「私達が男女差別だと思うことが普通のこととして行われている場合、差別といえるのだろうか」と自問している。結論には及ばなかったが、男女差別だと決めてかからなかったのは、1回目の授業で行った「コミュニケーションとは」のディスカッションが活かせたからだと自己分析している。(森山2010:115)


これは、結論くらいだしてほしい。
普通に行われていることに差別はいくらでもひそんでいる。
差別かどうかと文化かどうかは、独立している。
アルバトロス文化は、女尊男卑という男女差別がおこなわれている。

そのうえで、くもりのない文化相対主義者であるならば、
「たとえ差別でも文化だからまちがいではない」と結論づけるべきなのだ。



長くなったので
続きはまた後日。
posted by なかのまき at 19:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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