2012年02月13日

教育用語の特殊

図書文化から「指導と評価」という教育系の雑誌が発刊されている。

この雑誌の、57号(2011年12月号)
で、

「学校文化・学級文化」

という特集がくまれていた。ちょっと期待しながら手にとったら、表紙に「よい学校文化を育てる」とかかいてあって。
よい学校文化って。

よいスクールカーストを育てる!
とか
よい隠れたカリキュラムを育てる!
とかそんなかんじですか?

と、ひとしきりわらわせてもらったのち、中身をみたら、ほんとに「よりよい隠れたカリキュラム」っぽいことかいてあるし!

巻頭の

竹内洋(たけうち・よう)「学校文化」 pp.4-7
この論文に、以下のようにありました。

施設や公式カリキュラムがいくら同一でも、(略)隠れたカリキュラム(言明されることなく無意識に伝達されてしまうカリキュラム)がちがっており、そのことが、アウトプット(卒業生の資質)に影響を及ぼすという説明になる。(略)
宝塚音楽学校の新入生は掃除で始まり掃除で終わる。しかし、生徒はそうした雑事も将来のスターの第一歩がここから始まるとして意味づける。身が入るだろう。ところができたてで、伝統に裏づけられた学校文化が定着していない京都音楽学校で同じことをやらせても、そうはいかない。どうして将来のダンサーにこんなことをさせるのだろうか、あるいは、理事長がケチだから掃除してもらう人を雇わないで倹約してるんだ、という解釈にさえなってしまう。


ちなみに、京都音楽学校とは、竹内氏のあたまのなかにある、非実在の音楽学校です。
学校文化とか、隠れたカリキュラムって、社会学のタームで、しばしば否定的な意味をともなうものだったようなきがしますが、教育の世界ではなんかちがうつかわれかたしてます。
隠れたカリキュラムって、教育者側が、そんなに推奨していいのですかね。

教育関係ちょっと特殊なタームの使い方してるので、注意したほうがいいですね。
あと、もうひとつ紹介します。

金子書房『児童心理』943号(2012年1月号)で「規範感覚を育てる」という特集がくまれていました。
これも、「規範意識をそだてる」みたいなことがかいてあって、なんか私の知ってる規範意識とちがう。

まあ。それはいいとして。


この特集のなかであった文がひどいので紹介します。

姫田佳子(ひめた・けいこ)「クラスみんなでHAPPYになるために」(pp.50-51)

全員で話し合いのルールを決めた。その内容は、
・友達の話はしっかり聞く。
・理由を言う
・否定の意見を言う時は代替案を出す。
・言いたいことはしっかり言って、決まったことには文句を言わない。


このルールの内容、びっくりしましたが。

なにがって、「否定の意見を言う時は代替案を出す」いや、これまちがってるでしょ。
何かを否定するときは、根拠をだせばそれで十分。代替案、いらない。
否定の意見をいうときに、代替案なんかかならずしも出す必要ない。
そしてなぜ、代替案提出義務があるのは、「否定の意見を言う時」限定なのですか?
否定をする側にのみ、一方的に代替案の提出を課すのは、おかしい。
「いっしょに代替案をかんがえる」とかなら、まあ。わからないでもないけど。

そのつぎの、「決まったことに文句を言わない」もだめでしょうが。
リセットや前に戻る機能がついてないシステムは、あぶなすぎる。
なにかをやりはじめてから、不具合に気がついて修正の必要がでてくることなんか、いくらでもあるはず。
そこで「決まったことだから文句を言わない」みたいなしばりは、害でしかないとおもいます。

話し合いのルールといいつつ、けっきょく、「否定意見・文句を言うな」というおどしにみえます。


あ、あと、これはこのブログのことなんですが、
「誰かを批判するときはwikipediaをつかうな、wikipediaにのっている参考文献を引用しろ」
みたいな謎ルールをわざわざメールでおくってくる人がいました。
「批判するなら」うwikipediaだめ、って、どういうリクツですか?
批判しないなら、つかっていいの?
ちょっとよくわからない。

私は、wikipediaは、有効な場面ではつかってますし、一方、ネットでは見られないわりとマニアックな一次資料を紹介してる方だとおもいますけどね。
ちなみに、ほんとうにちゃんと文献にあたりたいなら、wikipediaの参考文献だけでは、足りませんので、ちゃんと自分でしらべますから。


なんか、批判する側はよっぽど 清く正しく批判しなければいけない、という根拠のない信念が、うっすらとありそうですね。
批判するにはもちろん、言動に責任は生じます。しかしね、それいったら、だれかをほめたり、好意的に評価する場合にだって、同様の責任は、いやおうもなく生じている。
たとえば、差別をおこなうひとを褒めれば、ほめているがわだって差別に加担することになるんです。
肯定的な評価をくだすときにはいくらでも無責任でもかまわないんですか?

「批判するなら〜しろ」みたいないいかたは、無意味です。同様に、
「否定的な意見を言うなら代替案を出せ」も、無意味です。

否定・批判をするという行為と、それをおこなう人に、必要以上にしばりをかけたがるのは、なんででしょう。
くだらない意見への肯定はあまりにも無責任に行なわれているのに。

「否定的な意見いうとめんどうくさいから、いやだけど、とりあえずハイっていっておけばいいや。はいはい」
みたいな人間を量産したいのですか?
posted by なかのまき at 21:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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