2012年02月14日

教育雑誌の曲芸的読解力

ちょっとまえ、

いじめられてる桐壺更衣萌え〜な論文

という記事をかいたことありました。

女の子が女の子にいじめられるという設定に萌えているいじめにあって死んだ桐壺の更衣を「どんなにいじめられても何もやり返すわけでもなく、自分の運命を受け入れて生きていこうとする強い人だと思う。」という感想文をかかせていた国語教育の論文を紹介したことがあります。



あと、

なんでもない、ごくふつの、どこにでもある国語教育

という記事で、
棄老の物語で、みずから石で歯を折るなどして、すてられようとするおりん婆さんの姿勢を、一般に母親なら共有している「母性」と評した国語教育の論文とか。

あと、
知恵と真実と救いの「かさこじぞう」
という記事で

じいさんが石地蔵にかさをかぶせたら、モチをもってくる、というかさこじぞうにたいして「人生の真実や知恵」「正しい行いをする者は救われる」がこの物語のテーマだと主張するものだとか。


国語教育の作品読解力の曲芸力が、いちいちおもしろいんですが。
またちょっとみつけたので紹介します。

金子書房『児童心理』943号(2012年1月号)より

岩宮恵子(いわみや・けいこ)「思春期と喪失―「海のトリトン」から考える」(pp116-122)

アニメ版の「海のトリトン」は、私はみたことないのですが、
名前と、その評価は一応しっていました。

アニメの歴史に残るものであること。
あと、主人公の正義がくつがえされるという結末が、当時の視聴者にとって、衝撃的だったこと。

これくらいだけですが、「正義とはなにか」がテーマとしてものすごく重くのしかかるアニメだということは、なんとなく知ってます。

さて。教育系雑誌の読解力にかかると、こんなかんじになります。


子どもが、親や周囲の人たちに対して反省の欠片もなく、暴言を吐いたり暴力を振るったり、完全に無視をしたりしているとき、彼らのこころのなかでは、「自分のほうが善に決まっている」という感覚がある。自分を不当に扱い、不当に貶めている状態をつくっている敵と戦っているだけなのだという感覚がこころの大半を占めているのだ。敵と思っていた相手にも、実は深い事情があるということがこころにすとんと落ちたときから、無邪気な子どもである自分を失い、複雑な葛藤を抱えることになっていくのである。(p.121)


正義とはなにか、という、大人だって難しいテーマのはずなのに、こどもの「おとなはみんな、わかってくれない! きたないよ、おとななんか!」という、かんしゃくのレベルにまとめられてる!


善のなかに悪が含まれることもその逆もあり、そして悪もまた自分自身の身の内にもあるものだという強烈な実感をもつことが、思春期のテーマなのである。だから、人の悪口を言いたくなる自分とか、人を排除することに喜びを感じる自分という「悪」がこころからあふれて表面に顔を出しやすくもなる。自分の身の内に悪を引き受けることができないときほど、その「悪」が外のものに投影されてしまうのである。(p.112)


トリトンがポセイドン族をたおしたのは、白いイルカの助言と、両親の遺言によるものであるはずなのだけど……自分の内なる悪をみとめたくないトリトンが外部(ポセイドン族)に悪を投影した妄想劇という解釈ですか。両親の遺言どこいったの……


これ、すなおに解釈するなら、親やまわりのものから注入された価値観が、くつがえされたときの衝撃、という最終回であって、これについてはトリトンが浅はかだったとかそういうこともいえないし、英雄としてまつりあげられたあげくにはしごをはずされた者の悲劇とか。そういうことになるとおもうのだけど。

教育雑誌の文章にかかると、反抗期の子どもが被害妄想を克服する物語になっちゃうんですね。

あと、ほんとに、悪口(否定的意見)を口から出すことを嫌悪してますね。教育のひと。


posted by なかのまき at 22:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
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