2009年12月19日

書道に関係ないことでもかいてみる

小学校で、
「おじいちゃんとおばあちゃんに戦争の話をきいてみよう」
っていう宿題があって、

祖父は
「学校(大学)が休みになって工場で爆弾をつくってた」
とか
「結核にかかって死ぬはずだったのが終戦でいい薬がはいってきて助かったからおばあちゃんと結婚できた」
とか、そんな話をきかせてくれて、それはそれなりに面白かったです。
で、祖父母の語ったものの一つに、「イナゴを食べた」っていうのがあって。
で、それを授業中に先生にいったら、
「イナゴなんかいつでも食べてた!」
とばっさりやられて。
そんなもんかなあ。と思ってたのですが。

最近、知ったのですが。
どうも戦時中の食糧不足のおり、「虫(イナゴ)を食べよう」という運動があったらしいです。
あと、都会の子供が疎開先でイナゴをだされてびっくり、とかいうこともあったらしい。
そういうことおもうと、先生が
「イナゴなんかいつでも食べてた!」
と私の宿題を否定した、あれはまちがってたよなあ。
昆虫食は地域性のあるものだし、戦争のためにはじめてイナゴという食材にであった、という人だって、いるんですね。

なんか、
「じじばばというものは田舎に住んでいて山に柴刈りにいったり川に洗濯にいったりイナゴを食ったりしてる」
という根拠のない思い込みがあって、「イナゴを食べた」という証言を否定してしまったのでしょう。

虫といえば、高校の家庭科の時間、
「食品添加物はよくない」という文脈のもとで、
コチニール色素の原料を見せられたことがあって。
まあ、潰された虫が脱脂綿の上で死んでいて、赤い汁が脱脂綿に染み込んでるというものでした。
「ほら、赤い色はこんな虫からできてます。これが食べ物に使われてます。気を付けましょう」
やっぱりそのとき、
「イナゴとか、食べるんだし。べつに虫が食品に使われてたっていいような気がするんだけどなあ」
と内心考えたのをおもいだしました。

イナゴつながりで気になったので調べたらやっぱり、コチニール色素は安定してきれいな色が出るし、安全性も確かめられてるすぐれた色素だそうで。
食品添加物の悪さをいうに、「虫だから気持ち悪い」っていう理由はいけませんねえ。
昆虫食や、それを習慣とする人に失礼ですね。

あと、食品添加物って、発ガン性とか、かなりきっちり調べられるらしいので。
むしろなんも調査をしないで、ふつーに食べてる伝統的な食材のほうが発ガン性はわかってない。そうです。
食品添加物と食品、どっちが危険かっていうと、「食品添加物です」とはとてもいえない。
「食品添加物危険説」も、けっこう偏ったものの見方であることですが、公立高校で教えられてたってことです。

昆虫食については、『昆虫食先進国ニッポン』
(野中健一・亜紀書房・2008)が楽しいよみものです。
「虫なんか気持ち悪い」っていう人が私のまわりには多いですけど。
イナゴをつくだ煮にするためにわざわざ輸入している業者があって、おいしい商品として虫が出荷されてる、ということがわかってとてもおもしろいです。あと、昆虫がすごくおいしそうにかかれているのも魅力です。蜂の子とか、たべてみたい。

この、「じじばばいつもイナゴ食ってる説」や「食品添加物危険説」みたいなトンデモ説が学校で先生の口からたれながされることはよくあって、あとから「うそだ」って思うからいいけど、先生のいうことだから、って鵜呑みにしちゃうこともあるわけで。というか、たまたま本を読んだりして「あ、うそだった」って気付くわけで。
まだまだ、気付かない先生伝授の嘘を、私は信じてるかもしれないなあ、と。怖いです。

とりあえず、今のところ発覚してる先生由来のトンデモ説のなかで、一番ひどいのを紹介します。

同性愛者は胎児のときに母親がストレスを感じ、ホルモンのバランスがくずれた結果発生する。第二次世界大戦後のドイツに同性愛者が多いのはそのためである。
(保健体育より)

ひどいですね。
自分で書いていてむかむかするほどひどいです。
こんな根も葉もないたわごとを、小学生の1クラスにむかって言っていたなんて。

で、ものすごいオチがあります。

ある本を引用します。

Satz(1972,1973)やSatz,Orsini,Saslow and Henry(1985)の論文に記載された理論は、(略)遺伝的には左脳が順調に発達して言語機能と右手の細微な運動のコントロールをするはずが、母親のストレスなどが理由でなる脳内栄養不良から脳組織に損傷が生じ、そのために本来はさのうにプログラムされていた役割は右脳の対象部位に移行する形で発達する。
(『左ききの神経心理学』「第3章きき手誕生のメカニズム」55P 八田武志・医歯薬出版株式会社・1996)


強調は引用者によるものです。
左手ききが「誕生」する理由が、「母親のストレス」という説があるそーですよと紹介してるわけです。この本のこの箇所を読んだとたん、「あっ!」とおもいました。
先の先生の言葉を思い出しまして。
同性愛者と左手利きはともに、「母親のストレス」から発生するのですね。
しかもこの本、ちゃんと「左利きとホモセクシャル」(同文献pp.72-73)っていう節がもうけてあります。引用します。

Geschwind and Galaburda(1985)の左ききに関する性ホルモン成因理論は、ホモセクシャルと左ききとの関係に1つの仮説をもたらすことになる。彼らの理論の中では、性ホルモンが主要な役割を果たすのであるが、(略)ホモセクシャルが男性ホルモンが十分でないことから生じるという考え方からは、ホモセクシャルの中に左ききの多いことが予測できることになる。


えーとねえ。
左ききに性ホルモンが関わってるかどうかしらべるまえに、
「左ききっておかしいんじゃない?病気だよね。原因なんだろ。あ、もしかしてホモセクシャルっていう病気と関係あったりするかな?」
っていう。
自分と違う人を病気扱いして、しかも一まとめにして片づけちゃおうっていう。ひどい乱暴ですね。
そもそも、そんな仮説をたてることじたい、ホモセクシャルと左きき、両方の人たちへのひどい偏見と、差別です。

だいたい、右ききと、ヘテロセクシャルが「ノーマル」だって誰がきめたんですか。それは科学的に証明されてるんですか?
ただたんに、「数が多い」ってだけでしょ。
そういう研究したいんだったら、そこからいわないとだめだし、いえないでしょうね。そんなの。

「数が少ない特別(=変)な人」を同じくくくりにまとめようとするってのが、どうしてもやっぱり、気持ち悪いです。
「自分と違う変な人は、少ない(同じカテゴリにひとくくりにできる)方がいいなあ」ってことでしょうね。

だから、「左ききに天才が多い」とかいうのも、面と向かって言われるとなんかいやな気分になります。
どうにかして「特別な人を」一まとめに一つの箱に放り込みたい、って、それはやっぱり差別でしょう。

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2010年02月24日

楽しい話題で書きたいとは思うんですけどねえ

なんか、なんだか自分がなにやってんだかわかんなくなったので。

筆順については考えるのは、ちょっと休みます。
まだまだ書きたいことはいろいろあるんだけど。

なんか、『書写書道教育』っていう雑誌を読んで「教育実習生に”正しい”筆順をたたきこみましょう」みたいな論文を探し当てては、あまりにも現実が辛すぎて、生きるのが辛くなります。
あああ、その教生がいちにんまえの先生になったとき、教室には左利きの学習者がいるんだよ。
おねがい、「先生」って呼ばれるための訓練してるひとに、へんな洗脳をしないで……

「正しい筆順が、左手書字者にとってただのいじめだってのは、書道教育の関係者はしってるはずなのに。しってるのに……なんで教生にそんなことを……」
とか考えると。
生きるのが、辛くなるので。

生きるのが辛くならないことを考えよう。

そういえば、
最近考えてるんですが、というか、なんか、前の名古屋の勉強会おわったあとの宿で話題になったのでやたらと覚えてるのですが、

大学の教員免許の取得課程がだいぶ変なことになってるんじゃないか、みたいなことを。
これから先生になるひとが、ほんとうに知っていなければいけないことを、知らないままに先生になっちゃってるんじゃないか、と。


そういえば、私、一番最初にこれ、おお、まずいぞ。
って思ったのは。

私の大学院生時代に、同期の人がけっこう、高校の非常勤講師のバイトしてるひとは、けっこう多かったのですが。
ある日、同期の人が、


「私、高校生がうるさいと、『高校は義務教育じゃないんだから、授業ききたくなかったら教室出ていっていいんだよ』っていってるよ〜」

って、いわれたとき。
えっ……これ、おかしくないか。
義務教育の義務を、「こどもが、教室にすわっていなければいけない義務」とかんちがいしてない?
って。おもったんだけど。
義務教育の「義務」って、ここにいる大人全員の義務ですよね。

こどもには、「学ぶ権利」があるだけだよね。で、その権利は、小学生も中学生も高校生も、そんな変わらないですよね。


だいたい、教師っていう仕事やってるひとが、「教室でていっていい」とか、言っていいの?
なんで、「義務教育じゃないから」を根拠に、教室を出ていく許可を与える権限があるの。
義務教育中の小学生だって、その教室にしばりつけておくことが義務じゃないし(その教室にすわっていることがどうしてもいやだったら、そこから逃げ出す道も、ぜったいに必要だと思います)、義務教育じゃない高校生でも、大人の側が、この授業をうけないことでどんな不利益をこうむるか説明一切しないで「出ていっていい」とか許可を与えることにまったく意味はないでしょ。

「児童の権利に関する条約」には、
第28条に、以下のようにあります。
外務省のサイトから。
「児童の権利に関する条約」全文


1 締約国は、教育についての児童の権利を認めるものとし、この権利を漸進的にかつ機会の平等を基礎として達成するため、特に、


(a) 初等教育を義務的なものとし、すべての者に対して無償のものとする。
(b) 種々の形態の中等教育(一般教育及び職業教育を含む。)の発展を奨励し、すべての児童に対し、これらの中等教育が利用可能であり、かつ、これらを利用する機会が与えられるものとし、例えば、無償教育の導入、必要な場合における財政的援助の提供のような適当な措置をとる。
(c) すべての適当な方法により、能力に応じ、すべての者に対して高等教育を利用する機会が与えられるものとする。
(d) すべての児童に対し、教育及び職業に関する情報及び指導が利用可能であり、かつ、これらを利用する機会が与えられるものとする。
(e) 定期的な登校及び中途退学率の減少を奨励するための措置をとる。



ここ読めば、どうかんがえたって高校生に、「もう義務教育じゃないんだから教室から出ていっていいんだよ」とかいえるわけないじゃないですか。

これ、教員免許とる人にはだいぶ基本となる文章じゃないんですかね。

いやっ、私は教員免許もってないし、「児童の権利条約」は、最近までよんだことありませんでした。というか、「もう義務教育じゃないんだから教室から出ていっていいんだよ」発言で、「え?」とおもってあわててよんだんですが。

いや、でも。
「高校生は義務教育じゃないから〜」が、へん、だと思って。それはそれこそ、小学校の社会の時間にならいましたよね。
義務教育の義務は、「こどもに教育を受けさせる」義務です。
その知識さえあれば、「もう義務教育じゃないんだから教室から出ていっていいんだよ」がおかしいと、直感的にわかるはず。

そこがどう転んで、「もう義務教育じゃないんだから教室から出ていっていいんだよ」になるんだろう。

しかも、私の大学院の同期だから、それいったひと。専修免許もってんだよね。

「義務教育」の意味もわかってないひとが専修免許。


これは、あのひとが「特殊」だった……のかなあ。

あと、これはまた別の人なんですけど、しかも、私の大学の人じゃないんですけど。
「移民の子どもが教育うけられないのは仕方ない。親がそれをリスクとして承知して自国捨てて移ってきたんだから」
っていってたひとがいた。
だから、そういうこどもは日本で教育をうけられなくてもしかたないんだって。

親と子は別人格だよねえ。というか……教育はこどもの基本権利……いやそんなことより……こんな人に教員免許わたしてほしくてなかったなあ。

こういう、人権教育が、だいぶ、ダメなんじゃないだろうか。
大学の教員免許取得課程。
いや、大学にもよるんでしょうが。こういうことを、ちゃんと知らなくても免許が取れる大学があるって、それだけでけっこう問題だとおもう。

学校教育の現場も大変らしいけど。
その養成課程も、だいぶ問題あるのではないでしょうか。
といっても私は教員免許とってないから、ぜんぶ憶測でものいってますので、まちがってたらしかってください。
上の2例が、とても特殊な例かもしれない。

なんか、こういうの考えると。私も。教員免許とっておけばよかったなあ。左手利きは教育実習の時に(おもに筆順の関係で)いじめられると思ってたから取ってなかったんですけど。
食わず嫌いはよくなかったですね。食って嫌えばよかった。
いろいろネタにはなっただろーな。
posted by なかのまき at 22:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2010年03月30日

先生がどなる?

私の所属してた大学院は、授業のはじまるまえに「起立礼」をします。

すごくきもちわるいですね。

そとの大学の人にはなすと、けっこう気持ち悪がられます。
よその大学からきてる先生も、ぎょっとするらしくて
「(きもちわるいから)やめてください」
っていっても、
「これが伝統ですから」
って、先生が嫌がっても大学院生が起立礼するらしいです。

で、外の人もだいぶ気持ち悪いだろうけど、うちがわにいる私も気持ち悪くて、同期の人と

「ありえないよねー」
ってよく話をしてました。
で、あるとき
「だってさ、起立礼なんて小中学生じゃない。高校だって、もう起立礼なんかしないのに、大学生でするなんてさー」
っていったら。
「……え? 高校で起立礼しないの?」
「え? 高校ではしないでしょ? こどもじゃないんだから」
みたいなかんじになって。

私がかよってた高校は、授業の始まりと終わりに起立礼をしないところだったんです。
在学中、起立礼をしたのは、入学式と卒業式くらいで。
わたしは、それがふつうのことで、
「高校生になったら起立礼なんかしない」
っておもいこんでいたんですが、そうでもなかったらしい。
というか、起立礼しないうちの高校が特殊だったって、しらなかったです。
で、高校時代の友達とあって、
「しってる? 高校で授業の始めと終わりに起立礼する学校があるらしいよ?」
っていったら
「へーっ」
っておどろいてました。


で、高校生で先生がどなる、ってのもはじめて知って、わりと、衝撃でした。
私の高校では、先生はどならないので。

どならないっても、治安がいいとか、進学校だから、とかじゃなくて。なんだろうな。校風。だったんだとおもいます。
というか、今思えば。校風だったんだ。
あのころは、自分の高校しかしらないから、
「もう高校生になったら大声出してどなってもいうこときかないからだろうな。だから高校の先生って、どならないんだ」
って、勝手に自分の体験を一般化してました。昨日まで。

えーと、私の高校は、神奈川の公立高校で、

たぶん、学力はものすごく真ん中くらい。
大学と短大と専門あわせて進学率50%。
四大にいくひとは、だいたい大東亜帝国。とくに、土地柄、帝にすごくたくさん入学してました。そんな高校です。
といっても、私は東京と神奈川と山梨の境のあたりにすんでいて、
あのへんは私立高校がたくさんあって。
ちょっとこどもの教育に金を出してもいいよ、っていう家庭では、わりとみんな私立にいってました。
学区のトップ校も、地元ではそれなりですが、それよりやっぱり、東京の私立進学校に行く方がステータス。
そんな土地でした。
なので、きほん、公立は評判よくなかったです。

生徒もそんなによくはなかった。
なんで先生はわるい生徒をどならなかったのかな、と考えると。
めんどうくさかったんじゃないかな。おたがいに。
起立礼も、めんどうくさかったからやらなかったんでしょう。
すわってるのに立ちたくないよ。すぐすわるのに。
先生だって、「起立」っていって立たない生徒がいたら注意しなきゃいけなくてめんどうくさいでしょ。「起立」っていわなければ、立たない生徒を注意しないで、さっさと授業にはいれますし。

っていったら、高校で非常勤やってた同期に、
「えー、じゃあ、授業はじめるときどうするの? 起立礼することで休み時間と授業との切り替えができるんだよ? 起立礼しない学校なんて、先生がかわいそうだよ!」
とかわけのわからないことをいわれて。
いや、そんな、あなたに「先生がかわいそう」なんていわれるほど先生はかわいそうじゃなかったとおもうよ。
ふつうに教室にはいってきて
「こんにちは。はい、じゃあえーと、前回どこまでいったっけ?」
ではじまってましたけど。

なんでどならなかったのかな。とおもうと。
あのね、授業中にね、国語の先生がいきなりいったんです。
「このあいだ歯科検診あったでしょ。そのとき、お医者さんとボク、しゃべったんだけどね。『生徒さんの口の中、ヤニで真っ黒! みんなタバコすってますね』っていわれちゃったよー」
「……」
生徒無反応。
授業なにごともなく再開。

という。あの。

みてみぬふり。

という。テクニックを、先生が身につけていたからですね。
べつにだれも叱られない。
そういう高校でした。

私も一回、高校で問題おこしたことがあるんですけど。

なんか、始業式に校長のつまらない話を10分もきかされて、腹が立って、みんなで、
「よし、今日からこの石油ストーブを校長と呼ぼう」
って決めて。
毎日「寒いから校長に灯油そそいで火つけてあったまろうぜ」
とか言ってたんです。
で、それはぜんぜん問題じゃないんです。うん。ぜんぜん問題じゃないでしょ。

で、ある日、校長という名前の石油ストーブに、
「校長、アメ食べる?」
って、アメを。燃えている石油ストーブに投下。
異臭騒ぎ。

先生が何人も駆けつけてきて、
「なんか臭うぞ! おまえたち、何をやってる!」
で、
「ひー! 校長が臭うー!」
って、大爆笑。という。
どうしょうもない高校生ですね。

これ、他の高校だったら説教、親呼び出し、とかあってもおかしくないですよね。
あぶないし。ストーブを校長とか言ってるし。

なんか、で、その事件は、
その後一週間、私たちのグループは全員「アメ」と呼ばれて。
「おい。アメ!」
「はい」
みたいな。
それで終わりました。

ほんとうに、なんにも叱られなかったんですよね。
わたしは、すごく居心地がよかったんですけど。

先生といちゃいちゃしたい人たちは、なんかものたりなかったみたいです。
「うちの学校の先生って、生徒を放っておいてつめたかったよね」
みたいな不満を、卒業後にきかされたことがあります。

叱られると、それで「愛情がある」って錯覚する生徒もいるみたい。
そういう人にとっては、叱られないとものたりないんです。
わざとやんちゃをしては親のかおをうかがってみるこどもみたいな。
なんか、そういう面もあるときには、あるんじゃないですかね。

じつは、私の親も中学の教員なのですが、終業式の日に、生徒が書いた色紙をもってきて、それをこっそり見たことがあるのですけど。
「先生にいきなりなぐられたときはビックリしたけど、わすれません」ってかいてあって、
「うわ、この人、生徒なぐったのか。かんべんしてよ」
って、私はいやな気持ちになったけど。生徒は色紙にわざわざ書くってことは、嬉しかったんでしょうね。

叱られる、どなられる、なぐられる、っていうことで、
自分がここにいる、だれかの注目をあびている、っていう。
よろこびを感じるこどもも、どこかにいて。
だれからも無視されて、無関心で、どこにもいない人間みたいにあつかわれてるとき。
わざとやんちゃをして、先生の気をひいて、どなられたり、なぐられたりしてるとき、「ああ、じぶん、いま、いきてる」って、
そういうことをするひとも、いるんじゃないかな。

と、おもいました。
「叱られたい、どなられたい、なぐられたい」
っていう、願望をもつ人もいて。
でも、だからしかったりどなったりなぐったりしてもいいってわけじゃなくて、
それは「かまってほしい。私をみてほしい。だれか私にきづいてほしい」っていう、きもちの、あらわれであったりもするのかな。
と、かんがえました。


私たちがストーブにアメをいれたのは、ただたんに面白かっただけですけど。
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2010年04月05日

知らない自分がいるということ

『性格とはなんだったのか 心理学と日常概念』(渡邊芳之・新曜社・2010)
よんでいます。
というか、読んでいる途中です。

タイトルが。
「性格とはなにか」じゃなくて「なんだったのか」。
かっこいい。

この本よんでいて思い出したんですけど、いや、この本とは直接かんけいないんですけど。

わたし、ちょっとまえ、給湯室でナイフつかってリンゴをむいていたら、
「左手でリンゴをむくなんて器用だね」
って言われたんですよ。でね。もっとまえに、
右手用ハサミつかって左手で紙を切っていたら、その危なっかしい手つきに
「おまえ、不器用だな」
っていわれたことあるんですよ。

私は、私なんですよ。

左手でリンゴ→器用
左手で右手用ハサミで紙を切る→不器用

で、どっちも、私が器用か不器用かに、一切かんけいないんですよ。かんけいないでしょ。
かんけいないけど、その人にとって私は「器用な人」もしくは、「不器用な人」なイメージで固定しちゃってるんでしょうねえ。
そういう経験をすると、かえって「本当の私は〜」みたいなのが、どうでもよくなりますね。
「自分らしさ」なんかどうでもいいや。


あ、そうだ。また関係ない話になりますけど。
私、名前を漢字でかくと、男か女かわからないかんじなんですよ。
で、小学生の頃なんか、字をみて性別を判断されてたんですよ。
男に。
とくに、4月とかね。先生が生徒の顔と名前をまだあまり把握出来てない頃。
宿題を返すために名前をよぶ→漢字を見ると男か女かわからない。
字を見ると字が汚い=男にちがいない。
ためらいもなく。
「なかのくん」
「……」

ここで、「はい」と言って立ち上がるときのつらさ。
「私の字が汚いから男子に間違われるんだ」って。
いや、今の私だったら笑い話にできますけどね。
あの頃は、やっぱり、けっこう悲しかったですよ。
字の汚さで性別を(間違って)判断するのはどうかとおもう。

そうだ。
また話がかわって、小学生から中学生にかけてやたらと学習塾系のセールスの電話やら訪問販売がきてたんですよ。
「なおき君」あてに。
最初は、「そんな人いません」っていってたんだけど、やたらと来るので、「ああ、もしかして私の名前、男とまちがわれてる?」みたいな家族会議になって。
いもしない息子がいることになって、腹が立ったのか母親が、
「次になおき君あてに電話がかかってきたら、『お兄ちゃんは……もう、いないの』って、泣きまねしなさい。嘘は言ってないし。もう電話かかってこなくなるから」
みたいにいわれて、うん。
何回か、私、お兄ちゃんを失踪させました。

それでね、不思議だったのが、なんで「まき」じゃなくて「なおき」にばっかり、学習系の勧誘セールス電話がかかってきたのか。
だって、私が20歳になったころ、成人式の着物のレンタル屋からやたらと電話かかってきたんですよ。「まき」あてに。
そうかんがえると、べつに「まき」あてに学習塾の電話がかかってきてもいいじゃないですか。なんで(居ない)「なおき」ばっかりに!

いやなことをかんがえると、あれですかね。
女こどもより、男こどものほうに、親は教育の金をかけたがる、っていう。なんか、そういうのがあって。だから男の名前だけに学習塾のセールスの電話してたんじゃないかしら。

「いや、そんな時代じゃないだろ!」
って思いますか?
じつはね、私の高校受験の頃ね、学区のトップ校が、女子より男子をかなり多くとってたんですよ。
これ、もう公然の秘密でね。
進路指導するときも、中学の先生が、「××高校にはいりたいなら、女子なら偏差値〜、男子ならもうちょっと下だけど」みたいなことを、堂々といってたんですよ。
(女子の方を少なくとるから、同じ公立の共学の高校なのに、女子の偏差値のほうが高い)

これ、今なら大問題だよな。というか、当時だってどうして放置されていたのか、だれも変だとおもわないのか、っていう。
そんな現実があって。

そうかんがえると、「まき」じゃなくて「なおき」に学習塾の勧誘の電話がかかってきたのは、そういうことなのかな。
あそこの地方は、そういうところだったんだ。


___________
補足
「なおき」君あての電話とべつに、「まさき」君あての電話もかかってきてました。
それを書き忘れてました。
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2010年04月07日

山田耕筰の趣味じゃないのか

ぜんぜん関係ないけど、論文のネタに、なりはしないかしら。
と思って書きます。


音大の作曲科をでた友達がいるんですけど、
音大の作曲科でね、作曲の先生に、
「歌詞のついてる曲をつくるときは、標準語のアクセントと音程の高低をあわせろ」
って、けっこう厳しく指導されたそうです。

規範は、「NHKアクセント辞典」だそうです。
……えー。

作曲科の友達はわりと、「そういうもんだよ」みたいに平気な顔でいうのですが、私は、かなり気持ち悪いです。
気持ち悪いよ。なにが気持ち悪いんだか、ちょっとうまく言葉にできないんですが。

そういえば、近所のイトーヨーカドーのランドセル売り場で流れてる「桜が咲いたら一年生」っていう曲は、あれは全国展開してるんでしょうか。
「桜が散ったら一年生」っていう地方もあるだろうし、「え? 一年生と桜になんか関係が?」っていうところもあるでしょうね。

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2010年04月12日

帯は、たいせつよね

知り合いに初版信仰を持つ人がいて、「〜という本を初版で持ってる」とかしきりにいうけど。
いや、江戸時代の版本ならね?
初版は摩滅もなくてキレイですよ。そりゃ、版本の初版なら、私も嬉しいですよ。
でも。いま刊行されてる本の初版なんか、誤植が多いだけじゃないの?
みたいな議論になって。べつのひとが、
「私は初版にはこだわらないけど、帯はとっておく」
みたいなことをいっていたひとがいて、私はこれもぴんとこなかったんだけど。
なんか、最近、帯って大切なんだな、ときづく。

このあいだの「ニセ心理学にだまされるな!」も、最初の印象が「なんか、帯がいやだな」とおもったら本文もいやな感じだったのですが。

さいきん、『コミュニケーションの社会学』(長谷川正人,奥村隆編・有斐閣・2009)という本の帯が珍妙だったのできになってよんでみました。

「わからない」からこそコミュニケーションは楽しい!
「対等で平等な個人による相互理解」という
不自由なタテマエとしての
コミュニケーション神話から解き放たれ
リアルな人間模様に迫る,新しい社会学の誕生。


うーん。
いや、タテマエだったら本音のところで自由にできるから不自由じゃないんじゃない?
とか、タテマエってきづいてたら神話じゃないんじゃない?
「タテマエ」と「神話」って、ことばとして、ならべるとあんまり相性よくないんじゃない?

とか、そこにもひっかかりつつ。

ところで、

“「対等で平等な個人による相互理解」という神話”

を信じてる人って、だれ?
っていうのがよくわかんなかったんで。

いったいどこのだれが「対等で平等な個人による相互理解」が大切だなんて言ってるの?
社会学の研究者?
社会学の人は、そんなこといってないでしょ。ぜったい。
「対等」も「平等」も「個人」も「相互理解」も、どれひとつとっても、使い方が難しい語で、そんなほいほいと無邪気に「平等!」とか言ってるひと、いないんじゃないかしら。
ましてや「対等で平等な個人による相互理解」なんて、だれが言ってるの。

一般社会でくらしてたって。「対等で平等な個人による相互理解」? え?
どこのだれが「人間関係が、対等で平等な個人による相互理解」っていうコミュニケーション神話にとらわれているの?

と、不思議で読んでみたら。
そう、この本が全体的に、なんか私は読んでいるうちにボンヤリしてくる内容なんですが。
ちょっと、この本のことを考えてボンヤリしていたら、通勤途中に電車を乗り過ごしたので。
腹いせに。(←そんな理由で)
この本のことを書きます。

ぜんたいてきによくわかんなかったんですけど、いちばんわけがわからなかったのが、

6章 権力とコミュニケーション

というところ。
で。この章は、大貫恵佳(おおぬき・さとか)氏が執筆担当しています。
現職は駒沢女子大学非常勤講師だそう。

要旨を引用します。



 私たちのコミュニケーションには権力の関係を含むものが多くある。この種のコミュニケーションはえてして「支配」や「抑圧」という言葉で語られがちである。権力のコミュニケーションには否定的なイメージばかりがまとわりつく。だが,私たちが本当にそこで支配されたり抑圧されたりしかしないのだとしたら,私たちの社会はなぜそのコミュニケーションを続ける必要があるのだろう。むしろ,私たちは進んでこのコミュニケーションを続行しているのではないか。そのコミュニケーションにはなにか私たちを惹きとめてしまう魅力があるのではないか。本章では,ミシェル・フーコーの権力論を紹介しながら,この奇妙さに接近してみたい。


えー。
なんか、この要旨がね。なんか。ちょっと。何度読んでも、
いみがわかんない。

ちょっと本文引用します。

 権力のコミュニケーションには,そこにかかわっている人びとを隔てるなんらかの力の差異があるようだ。それは地位や身分かもしれないし,財力かもしれない。こうした差異のある関係で起こるコミュニケーションには、それ以外のコミュニケーション(対等なコミュニケーション)にはない緊張感がある。本心をあけすけに言えない面倒さがあるし,ご機嫌を損ねないように,出すぎないように,威張りすぎないように,などのさまざまな配慮も必要だ。しかしこうした煩わしさがある一方で,そこにしかない魅力もあるように思う。(P.110)


えーと……う、うん……


単純に従ったり,仕えたりすること自体に楽しみを感じてしまうこともあるし,つらいと思ってもなぜか自分自身ではそこから逃れようとしないことさえある。権力のコミュニケーションには,そこにしかないなにか,権力のコミュニケーションの特殊性とでもいうべきなにかがあるようだ。(p.110)


えーと、なるほど。
権力によって支配される側、抑圧される側の視点にたって、支配されること、抑圧されることの楽しみについて論じる文献なんですね。ははあ。
え? で? フーコーがどうしたっていうの?
 で、フーコーがでできます。

 フーコーは自分が監獄で見た権力は,まったく別の権力であったという。第一に,権力は,犯罪者に対して排除や抑圧という否定的な作用を及ぼしているわけではなく,犯罪者を有用な者に作り替えるという積極的な働きをしている。(p.114)


えっ?!
フーコーは監獄の作用を「犯罪者を有用な者に作り替えるという積極的な働きをしている」なんて言ってないんじゃないかと思いますけど?
あ、あれ?

とおもって、手元にあった本を開いてみます。
ちくま学芸文庫『フーコー・コレクション4 権力・監禁』「7 監獄的監禁について」(石田久仁子訳)
奇妙なことに、ほとんどの場合、刑務所で服務を終えた労働者は、出所しても、もう仕事に就こうとは思っていませんね。刑務所当局はいまだに刑務所内での労働の教育的価値を信じているふりをしていますが、どうやら拘留者の労働意欲を永久に奪うようになっているようですね。(p.162)


あれ?
私、なんか勘違いしてる?
みてるところがちがう?


えっと、よくわからないまま続きよみます。
先ほどの文献にもどります。

大人は、幼いころに自分が感じていた親の目を欺く快楽を知っているのだから(成長したその人がどんなにそれを「抑圧」とか「支配」とかいう言葉でくるんだとしても,彼/彼女はそれを経験しているのだから),その快楽を今度は自分の子どものうえに見つけ出して喜ぶのだ。
 同様にして、必要以上に教師に従順な生徒、男性に従う女性というのも理解される。なにか(たとえば暴力)によって強制されているわけでもないのに、なぜか従順にしている人びとがいる。彼/彼女らは,「監視される側」の快楽を満喫しているのである。(p.123)


 コミュニケーションにおける快楽と支配権力との関係は複雑であり、難しい。たんに,支配権力が上から私たちのところまで下りてきているのではなく,私たちの方が快楽のゲームのためにそれを利用してしまうから,支配的な権力は維持され,拡大されてしまうともいえるのである。その先には固定された支配−従属関係や,抑圧の問題が控えているかもしれない。(p.125)


うーんと。
「いじめがあるのは、いじめる側にも非があるけど、いじめられる側に問題があるからだ」
っていうのと同じことかな?

支配される快楽があるからこそ、権力があって。それが問題なんだよ。ってことで。

うん。
はい。支配される快楽っていうのは、あのねー。
いや、わかんなくも、ないです。
うん。わかる。
たしかにね、そこに目をつぶっちゃいけないですよね。

でもね。
結論が。


 この喜び(引用注=支配される喜び)を私たちが手放さない限りは、私たちはまだ延々と権力=快楽のゲームを続けてしまうに違いない。そしてその喜びを社会のそれぞれの場所でどのように活用していくかは,私たち自身の社会の課題であろう。(p.126)


えー。「活用」しなきゃいけないのー。
たしかに、


恋人同士のように一見したところ「対等」なコミュニケーションにもしばしば権力の関係は入り込んでくる。恋愛においては自分のほうがより相手を好きだと思うときには「負けている」とさえ思うものだ。(略)相手と自分とのあいだに力の差があるところにならば,どこにでも権力のゲームは発生してしまう。しかもこの種のコミュニケーションは,ときに私たちをいらだたせ,落ち込ませ,有頂天にさせるものだが,いずれにせよ,それらは多くの場合楽しい。(p.125)


こういう楽しさは、わからんでもないけど。
問題は、「その先には固定された支配−従属関係や,抑圧の問題が控えているかもしれない。」っていうところにあって。
この危険を承知で、この楽しさに没頭できるかというと。
いやだなあ。

だから、「この快楽のために、権力のコミュニケーションを維持して、活用しよう」
って、フーコーが言っているようにみえるけど。というか、なんかこの文献が、そういう読みに誘っているように見えてしまうんですが。
いや、フーコーはそんなこと言わないと思うんだけどなあ。
というか、なんかね、私はそんなにフーコーは読んでないので、フーコーの意見と、大貫氏の意見の境がよくわからないんですよ。この文章のなかで。わざとそういうふうにしてるのかな。
ともあれ。フーコーは「支配される快楽の活用」とか、そういうことは言ってないですよね? たぶん。

「この快楽はじつは、固定された支配−従属関係や,抑圧の問題と地続きなんだよ」ってことには、意識的になったほうがいいとはおもうけど。
「活用」はねえ。なんかちがう気がする。
あと、「支配する側」「抑圧する側」の楽しさのことももっとかきましょうよ。どうせなら。
そっちの楽しさの方が、もっとよくわかるもん。

ともあれ。
フーコーをちゃんと読んでみよう、という気にはなりましたよ。
おかげで。

で、そう。金曜日にね。この本を読んで。
家に帰る途中にね、「支配されることの快楽」について、ずっと考えていたら、電車を乗り過ごしてね。
なんか知らない「動物園前」とかいう駅で降りてね。
桜がきれいでした。
動物園の入り口の写真をとってかえってきたよ。
今年度初の「乗り過ごし記念」に。
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posted by なかのまき at 22:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2010年04月20日

トンボシーチキン

明石要一(2010)「子どもから「好かれる先生」の子ども時代―マルチ遊び体験の大切さ」『児童心理』64-6 pp.35-41

 子どもたちはどんな教師が好きなのだろうか。これは永遠のテーマである。教師は子どもの未来に責任をもっている。子どもの成長に大きな影響を与える職業である、それが可能なのは子どもが教師が好きで信頼するからである。(p.35)


というわけで、子どもに好かれる教師の研究だそうです。
いろいろな研究テーマがあるものですね。


 新卒教員のリタイアが増えている。一年間で二〇名弱の新卒教員が自宅療養や退職をした県がある。(略)
 子どもが変わってきたことは言うまでもないが、子どもともの「車間距離」は一番近いと言われる教育実習生が子どもとかかわれないようである。(p.38)


うん。
教員の離職が目立ってきたのは、教育実習生が子どもと遊べないからだそうです。

うん、というか、そう。先生の離職率がたかいってのは、風のうわさできいていて、教育業界がブラックなんだろうな、と、私は素人考えで素朴に考えていたのですが。
専門家の意見をきいてみないとわからないですね。
そうか。なるほど。
教員の離職率がたかいのは、教育実習生が子どもと遊べないからなのか。なるほどー。これは、素人には思い付かないですねえ。



ケンカの仲裁やふざけている子どもを静かにさせることは、かつてガキ大将を経験した者なら朝飯前であった。それが今の学生たちにはできていない。どうも、思春期の遊び体験が不足しているのではないだろうか。
 そして、興味深いことに、子どもに手こずる学生には次のような特徴がある。

  ・好き嫌いが顔に出る
  ・恋愛でふられてもあきらめない
  ・敬語がうまく使えない
  ・誰からも認められていないと思う
  ・友達の数が少ない

 人間関係能力に自身がもてない学生が実習で苦労している。そうした学生は、子どもの反応がよい発問作り、見やすい板書は言うまでもないが、「泣いている子どものなだめ方」や「子どもの心をつかむ話術」「嫌いな物でも食べる」ことにおいても自信をもてないでいる。


……きょうみぶかいなあ。たしかに。
「敬語がうまく使えない」とか。
あと、「恋愛でふられてもあきらめない」なんか、
誰がどうやって調べたんだ。監視カメラとかつけてたのかな。
それは倫理的に大丈夫なんだろうか。
それとも、ただの思いつきを列挙しただけ……いやいや、もちろん、論文にするくらいなんだからしっかりした根拠はあるんでしょうね。も、もちろん……

あとさ。「泣いている子どものなだめ方」と「嫌いな物でも食べる」をならべるこの文章。
こういう文章を読むと、自分がいかに常識のわくでしか物をかんがえられない人間であるかを痛感します。
「泣いている子どものなだめ方」と「嫌いな物でも食べる」が同格か。この発想はないわ。
私にはこんな文章ぜったいかけない。いや、興味深い。

 こうした研究もある。子どものころの遊び行動がどんな大学生を育てるか、を調べた調査結果である。大学生の自尊感情は思春期の遊び行動で培われる、というものである。小学校高学年のときの「屋内遊び」「外遊び中心(野外派)」「屋内遊び中心(オタク派)」「外遊び・屋内遊び両方(マルチ派)」の三タイプに分けている(p.40)


 子どもに好かれる教師になるには、大学生になってからでは遅い。小学生のときいの遊び行動が大切になる。(略)
 子どもから好かれる教師になるには「心・体・技」を備えなければならない。「人間味」と「授業力」と「熱意」である。そのためには、屋内遊びと外遊びの両方を経験したマルチな遊び体験が求められる。(p.41)



それにしても。子どもに好かれる教師になるには大学生になってからでは遅いらしいです。どうにも絶望的な結論ですね。
外遊びと屋内遊び両方やってなかった人間は、教師になっちゃいけないと。
つまり、あれですね。就職試験の面接のときに、
「あなた、小学校高学年のときどうやって遊んでました?」
ってきいて、「もっぱら外遊びです」って人と「もっぱら屋内遊びです」っていうひとを切り捨てるという以外に、選択肢はない、と。
「はい、大学生になってからでは遅いからね、不合格。あんた教師になっちゃいけません」
って。
そうすれば教師の離職率も下がるんですね。

だいじょうぶですか?


えーとねえ。
外遊びって、いうけど。
外遊びって、こどもたちが群れになって
「わーいわーい」
とか、そういうのばっかりじゃなくてもいいですか?

たとえば。
トンボの身をむくとシーチキンに似てるからね。


「トンボでシーチキン」
とかね。やりましたよ。わたしは。
「オタマジャクシをカッターで解剖」
とかね。
「魔女の宅急便ごっこ」
とかね。ろくなことしてなかったですね。
ちなみに、「魔女の宅急便ごっこ」は、「ほうきにまたがって2楷から飛び降りる」みたいな、こどものたわいない心温まるごっこ遊びではないです。
この遊びははっきりと犯罪レベルで、親にばれてすごい怒られて、いま考えるとほんとうにひどい遊びだったので、ここに書きません。
まだ我が身がかわいい。

まあ、外遊びっても、そういう。
外遊びにも色々あってね。
陰湿な外遊びばかりしていた人でもいいですか?

・室内でゲーム
・屋外でオタマジャクシ解剖
(もしくはトンボシーチキン、もしくは魔女の宅急便ごっこ)

というわけで、テレビゲームも外遊びも両方こなしてるので、
私は先生に向いてますね。
教員免許をもっていないことが悔やまれます。
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2010年04月24日

今後の予定

いままで混沌としていた
カテゴリをいじりました。

ニセ科学 筆跡学

ってカテゴリをつけくわえてみました。
筆跡学についても、いままで及び腰だったのですが。
おもしろいので。もうすこし調べてみます。

それからブログのデザインをかえたいです。
ちょっとスタイルシートをいじりたいです。
引用がいまのままだとわかりにくいので、引用部分を枠でかこうとか。そういうことをしたいです。
いまのブログのデザインは適当にテンプレをつかってるだけなので。
もうちょっと、いろいろいじって、使いやすくしたいです。


えーと、あと、今後の予定。

ニンテンドーDSというゲーム機から、「美文字トレーニング」
という、ゲームソフトがありまして。

私はこれをやってみたほうがいいかも、と思って。
しかし、どう考えてもやりたくない。
でもいつかやらないとな、やって文句をたれないとな、とおもいつつ、もう、いやでいやでしょうがなくて、買ってないんですが。
いちおう、DS本体だけ先に入手して。
というかDSを人にもらって。「本体だけでもなんだから」と、「脳トレなんたら」みたいなソフトも一緒にもらったんだけど、また「脳」関係もいやでねえ。もてあましてます。

あ、あと、「書道甲子園」とかいう映画がやるらしくて。
これも見に行かないと、っておもうんだけど。
いやで。
なんで好きでもない書道の映画なんかみなければいけないんだろう。
たとえると、虫がきらいなひとが「イナゴ甲子園」ってタイトルの映画を見に行くくらいの荒行だよな。
そんなもの見るくらいならいっそプリキュアの映画がみたいです。
プリキュアはかわいいよね。

というわけで、私といっしょに「書道甲子園」をみにいってくれる人を募集します。
自分ひとりだと、心が折れていけないにきまってます。
きっと、映画館まで足をはこんでもね、気が付くとプリキュアのチケットをかっていますよ。きっと。
いや、だって書道よりプリキュアでしょう。それは。
posted by なかのまき at 00:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2010年05月08日

「努力」とは「一しょうけんめいがんばる」ことではない

書道教育の人に
「左手で字をかいてる生徒も右手で字をかいてる生徒も成績をつけるときは”平等”に評価しているのか。
字はそもそも右手で書くのだけに都合のいいつくりになっているのだから、左手でかくときはうまく整えるのはむずかしい。
それなのに”平等”に評価するのは、それは左手で字をかく生徒が不利になる、ひどい不平等ではないか」

みたいなことをいったら、「うるさいなあ」みたいな顔をされ、
「私は生徒がどれだけ努力したかも、評価に考慮するよ」
っていわれた。
つまり、「不平等はやってない!」っていいたいらしいんだけど。
これ、言い訳になってますかね。
なってないよね。

「努力」って、なに?
ってことをかんがえると。

とりあえず、辞書的なものを。

ど−りょく【努力】
 目標実現のため、心身を労してつとめること。ほねをおること。「休まず−する」「−家」
(広辞苑)


うん。なんとなく、努力って、いっしょうけんめいがんばること。
みたいなイメージがあります。

「左手で字をかいてる生徒も、書道の時間に絶望してはいけません。
いっしょうけんめいがんばれば、きみは報われるんだよ!」

みたいな。
書道教育の人につごうのいいたわごとを。
書道教育の人のうしろめたさを忘れさせるための魔法の言葉。
「どりょく」

いったい「努力」をはかるものさしはなに?
ってことになると、それは、先生がだれかに
「努力の基準はなに、どういう状態のとき、生徒は努力していると評価されて、成績にプラスされるの?」
ってきかれて、そんときに破綻しない返事は、
「その生徒がどれだけ上達したか」になるわけでしょう。
つまり、上達に関係しない「いっしょうけんめいがんばること」を「努力」とはいわない。

で、けっこう先生が思い間違ってるのは「がんばれば上達する」って単純に考えすぎてるせいで、ぎゃくに、
「上達してないからこいつはさぼったな」
って。
そういう本末転倒をやりやすい。

私も左手でいっしょうけんめいかいた字を先生にみせたら、鼻先で笑われて。
「ぷっ。ほんとうに真面目にかいたの?」
って。
いくらいっしょうけんめいかいたって、左手でかけば上達とはつながらないんです。
いや、ぜんぜん上達しないわけではないですよ。でもね、右手で同じ時間練習した人とくらべると、それはね。舗装された道とぬかるみ道にそれぞれ立たされて競走させられてるようなもんでしょう。
劣りますよ。
同じ時間かいた、右手で字を書いた人ほどは上達しないわけで。
そのとき、「いっしょうけんめいかく」は努力とはみなされないわけです。

それどころか、私が左手で字をかいていることにきづかなかったり、左手は右手より字がかきにくいことに気付かなかったりする先生には、「こいつさぼってたな」
っておもわれるんです。

「ぷっ。ほんとうにまじめにかいたの?」
ですよ。
もう、いっしょう恨み続けるから。

つまり。

「左手で字をかいてる生徒も、書道の時間に絶望してはいけません。
いっしょうけんめい努力すれば、きみは報われるんだよ!」

これは、ウソです。
ウソっていうか。
詐欺です。

このとき、「努力」の本質は「いっしょうけんめいがんばること」ではない。「上達すること」なんです。
上達のために「こうすればいいよ」っていう適切な助言や、「こうすればいいのか」っていう自身の気づきが必要なわけで。
それをもたない「いっしょうけんめい」を「努力」とはみとめないわけで。
そうなると、

「左手で字をかいてる生徒も、書道の時間に絶望してはいけません。
いっしょうけんめい努力すれば、きみは報われるんだよ!」

は、破綻してます。
適切に「こうすればいいよ」って、書道の先生は言ってないんだから。言えるものなら言ってみるといいよ。

だから、「努力」なんていうきらきらした、魔法のことばにだまされてはいけないね。
書道のひとが左手で字をかくひとに「努力」を求めるなら、ちゃんと、上達のための方法をかんがえてね。あの筆順をどうにかしてね。
それまで、私は字がうまくなるためのひとかけらの努力もしないまま、「書道の人はずるい! 右手で字をかくひとはずるい!」って言い続けます。
posted by なかのまき at 10:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2010年05月18日

今後のよてい

筆跡学について、ものすごく安易にかんがえてました。
「どうせ占いだろ? ばかばかしい」
って。
教育……書道教育の人が、ちょっと「書は人なり」と仲良しなので、それは、気を付けなきゃな。
でも、いい大人が占いをやってるのは、それはもうご勝手にどうぞ。
っておもってたんですけど。

ZEBRAのサイトをみて、いやな予感がしていろいろ探してみたら。

どうも、商売でやってる筆跡学のサイトとかみると、どうも、会社むけのセミナーやってますー、とか、人事(採用ふくむ)に使え、みたいな宣伝のしかたをしていたので。
個人で、趣味で楽しむならいいけど、(よくないけど、自分で楽しむだけならべつになんかいわないけど)会社のカネが筆跡学に落とされるのは、それはちょっと。
人事につかわれるとか、ちょっとゆるせないな。
と。いまさら、思った。
すみません。ほんと、いまさらです。
占いをばかにしすぎていました。
いや、占いじゃないのか。ニセ科学なのか。どっちなんだ。わかんないけど。
まさか採用に筆跡学がつかわれるとは。
採用に血液型がつかわれてるのと同じだ。

というわけで、
なんかいままでちょこちょこ筆跡学について書いてきたんですけど、いったんストップします。
「やらない」でなくて。
片手間にはできないので。
いまは情報をしいれておいて
あとで本腰いれてやります。

とりあえず、書道教育のほう、やろうね。
あ、もちろん、書道教育の人が「字が人柄をあらわす」
とかいいはじめたら。

「筆跡と個性」とかね。

そのときは、もちろんなんか言いますけど。



posted by なかのまき at 11:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2010年05月28日

きんだいごけんきゅーかい

有給をとって、
きんだいごけんきゅーかい
にいってきました。

拗長音についての発表がものすごく面白かったです。
ああいう発表は憧れます。

あと、エツコ・オバタ・ライマン氏の
『第二次世界大戦後の近代語(狭義)とは何なのか』

という発表のなかで。

漢字は難しすぎるし、
このまま漢字をつかい続けていいのか、考えた方がよいという
指摘がされていました。

懇親会で、お話しさせてもらったのですが、
たなか・あきお氏が「たなか・かつひこが敬語と漢字をつかい続けていると日本語がだめになるといっていた」というようなことをいっていて、
「私もそう思います」ときっぱり首をたてにふっていたエツコ・オバタ・ライマン氏が印象にのこっています

わたしはちょーしにのって、
「左手利きでは漢字はかきにくいですよね」
ってきいてみたら、それも「そうです、漢字は右手利きの」って力強く肯定されました。そう、やっぱり、気付く人は、確実にきづくんです。

ただ、あの場所にいる人のなかで、たなか・かつひこ氏の論文は読んだひとはたくさんいるでしょうが。
ましこ・ひでのり氏やあべ・やすし氏の論文は、ほとんど読まれてないんだろうな。たなか・かつひこ氏のあとに、どんどん議論がすすんでるってことが、しられてないのかなあ。
という、印象を。もちました。印象だけです。

ごくふつうの、どこにでもいる、こくごがくのひとが、あべさんの論文や、ましこさんの論文を、よんでくれないだろうか、そういうことを私がどうにかできないだろうかと、なかの・まきは、かんがえてます。
もちろん、我が身は大切にしつつ。
なによりもいちばん、自分の身がかわいいという保身はわすれず。
posted by なかのまき at 23:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2010年05月30日

にほんごがっかいにもいってきました

にほんごがっかいにもいってきました。

やっぱり、がっかいは面白いです。
大学院生の発表にいろいろ、面白いのがありました。

あと、がっかいの本屋をみていて。
おもいだしたのですが。

朝倉の漢字講座に、
ましこ・ひでのり氏の論文がのってるよなあ。

朝倉漢字講座〈5〉漢字の未来
朝倉漢字講座〈5〉漢字の未来前田 富祺


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朝倉の漢字講座だから、にほんごがくの人はよんでるよなあ。
なんで、みんな「なかったこと」「よんでないフリ」してんだろう。
というか、前回の日記かくときは忘れてたけど。
にほんごがくの人だったらのむら・まさあき氏の論文は確実によんでるよね。

ということは、ぜんかいの日記はたいへんに失礼なことをかいたです。


ましこ・ひでのり氏やあべ・やすし氏の論文は、ほとんど読まれてないんだろうな。たなか・かつひこ氏のあとに、どんどん議論がすすんでるってことが、しられてないのかなあ。


これは、汚名ですね。
ちゃんというなら、にほんごがくのひとは、
「ほとんど読んでない」でなくて。

ましこ・ひでのり氏やあべ・やすし氏の論文を読んでいながら無視してるたくさんの人と、ましこ・ひでのり氏やあべ・やすし氏の論文を読んでないたくさんの人がいる。

ということですね。


土曜のシンポジウムでも、漢字についてとりあげられていたらしいのですが、(私はいかなかった)

予稿集をみると
「日本の漢字に関する研究と一般社会」(ささはら・ひろゆき)
(p.65)
2.社会一般に伝えようと思うこと
(略)
ことばと漢字を研究する者として、人々に伝えたいと思うことは大きく言えば文明や文化に対する真実追究の楽しさであり、細かくは次のような点である。
・日本語や中国語の文字・表記を対象化してとらえようとする姿勢―動態としての把握
・現実について客観的に考えようとする習慣―一問一答式の「漢字ブーム」の位置付け
・日本語とその文字・表記などに関する必要な知識を選ぶこと―多様性・混在の意味
・日本語や中国語の特に文字・表記に関する調査研究の方法―日本語学・漢字学など
・要素と体系の関係、変化・位相などの意識化とそれらの背景の理解
・「正しい漢字」とは何か―俗字・略字・誤字などの用語は次元を異にするレッテルに過ぎないことなど、狭く限られた根拠による硬直した規範意識と抑圧感からの解放
・文字に「神秘」があるのか考えようとする態度―「奥深さ」の中身の検討
・文字や表記をよりよくしていこうとする意志―現代は歴史の断面ともいえ、自己も変化を起こしたり定着させたりする原因となりうるという視点



なんで、「漢字そのものからの解放」についても議題にあがらないんだろう。
posted by なかのまき at 23:09| Comment(7) | TrackBack(0) | 日記

2010年06月01日

夜中にアイスがたべたくなったりしません

いま、ステレオタイプというものについて勉強をしていて、

紹介してもらった

『ステレオタイプの社会心理学 偏見の解消に向けて』(上瀬由美子かみせ・ゆみこ、2002、サイエンス社)

という本をよんでます。

コンパクトにステレオタイプについて書かれていて、
入門編としてよい本だとおもいます。
私はとても重宝しました。
ただ、かなり疑問なのは、

ステレオタイプは情報過多な現実社会で生きていくためには、たいへん便利で必要なものではありますが、これに否定的な評価や感情が結びつくと「日本人はケチだ」「女だから頭が悪い」というような偏見となってしまいます。


って、本のカバーのところにかいてあったんですけど。
これは、だめじゃないか。
なにかというと、
ステレオタイプは「大変便利で」というのは、百歩譲ってわかるとして、「必要なもの」なのか、すごくひっかかっています。

で、著者はステレオタイプと偏見と差別について、以下のように整理しております

カテゴリ
ある特徴をもつものを他から区別して分類するくくり(p.3)


ステレオタイプ
人々を分けるカテゴリーに結びつき、そのカテゴリーに含まれる人が共通して持っていると信じられている特徴(p.2)


偏見
ステレオタイプに否定的な感情や評価が結びついたもの(p.8)

差別
ステレオタイプや偏見がもとになった否定的判断が相手に対する行動として現れたもの(p.9)

まとめると、

カテゴリ+特徴をあてはめる=ステレオタイプ
ステレオタイプ+否定的な感情や評価=偏見
偏見+行動=差別

っていうことでしょうか。
「区別と差別はちがう」
っていう、例のアレですね。
これは、だめじゃないですかね。

差別は、偏見のさきっぽにあるものじゃない。
カテゴリー化の段階で、もう差別は発生してるでしょ。

学校の名簿で、女にシルシをつけるのは、それは区別であって差別ではない、そのシルシをもとに女への迫害がはじまったらそれが、差別だ、なんていうのは。
ちがうでしょ。

名簿に、女というシルシをつけることそのものが、差別です。

個人と個人の間に、男と女いがいに、たくさんたくさんの特徴があるのに。目の色とか、肌の色とか、ほくろの数とか。

小学校の名簿で、からだにほくろが10個以上ある人にだけ、シルシをつけてる先生がいたとしてどうでしょう。
「なんでそんなことしてるの」
ってききたくなるでしょう。
その先生は「ほくろが多い生徒は頭がいい/悪い」とかそういう信仰をもっていないと、そんなことしないでしょ。
おなじように
「勉強するのに、男か女かがどうして関係あるの?」
っておもいませんかね。
なんでそんなことするかっていうと、
小学校は勉強(だけ)を教える場所じゃないからです。
こどもが、曖昧な根拠をもとに男か女かというたった2つに乱暴にわけられて、
男と分類された人間は男らしさ、女に分類された人間は女らしさを勉強させられる場所でもある。
じゃなかったら、名簿に女ってシルシがついてるわけないでしょ。

だから、ステレオタイプどころか、カテゴリー化にそもそも、たくさんの特徴のなかからどうしてこの特徴を取り立てるのか、というその選択にそもそも。
ものすごい規模の、自分には関係ない力がかかっていて、ちっぽけな自分はその力に巻き込まれてしまうしかないわけで。
その力が、ものすごく理不尽な区分けを強いてくるばあいもあるわけで、それを差別といわないでどうするんですか。

「おまえは〜だ」と、名前をつけられる、「名前をつける」「名前をつけられる」という関係にそもそも、不平等なちからがはたらいていて、もちろんそれも、差別です。


いままでで私が激怒したのは、
大学院で自分が「留学生センター」って名前をつけられていたことです。

たぶん、私が日本人の大学院生と仲良くしないで、留学生たちとばかり遊んでいたからだとおもいますけど。
「留学生びいき=留学生センター」
ってことで、留学生センターへとカテゴリ化されてたわけですがね。

いえ、私はとくにそんな、留学生と仲良くしてたわけじゃないですよ。
べつに、ふつうに友達として過ごしてただけで。
「留学生センター」的なことはなんにも、してないです。
留学生トラブル起こしたりもしてたりしました。
「レジュメの日本語チェックしてください」っていわれて、「忙しいからダメ」とかいったり。最悪だ。
あと、「××さんは日本人にばっかり挨拶して、私に挨拶してくれない」みたいな留学生の訴えをききつつ、「まあまあ」って、留学生の側をなだめることしかしないで、「おまえらなにをやってるんだよ!」って、日本人の院生に怒鳴り込む、とかそんなことは一切しなかったですね。
あと、留学生の一人の発表レジュメの出来がよくなくて、同期の人が影で「だから中国人は〜」とか言ってたのが、聞こえてましたけど面倒くさくて放置したりしてましたしね。
ぜんぜん、留学生センターとして機能してなかったですね。

というか、なんかあの当時、一瞬、日本人の院生が嫌いだったんですね。
「先生への年賀状は筆でかけ」とか
で、相対的に留学生びいきに見えただけで。


だからさあ。
さいしょに決めつけ(ステレオタイプ)があって、そこから名付け(カテゴリ化)されるんじゃないの?

ある集団をAとなづけたら、ステレオタイプが発生して、それが偏見につながって、さらに差別にまで発展した、みたいな。
進化論じゃないとおもうんですが。

逆じゃないんですかね。


あ、もちろんこの本のなかでも、カテゴリ化やステレオタイプ化そのものについても、問題点は指摘されてはいるんです。
だから、本に書いてあることじたいに、そんなに異論はないんですよ。
勉強になる本だと思います。
posted by なかのまき at 14:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2010年06月03日

ごんぎつねのなにが悲しいのかわからなかった

私は、小学校低学年・中学年あたりはわけのわからん子どもだったとは、じぶんでも思います。

なんか、ランドセルを家に忘れたりしてたんですよね。
気付かずに学校にいってたり。
あとは、夏休みの「どくしょかんそーぶん」で。
学研あたりででてる、こどもむけの「小動物の飼い方」みたいな指南書で感想文かいたり。
「亀には、水生のかめと、陸生のかめがいます。りくせいのかめは水槽に水を入れなくても飼えます。水生のかめは水槽に水を入れます。だけど、水のない場所もつくってやらないといけません」
で、先生に
「次からはちゃんとした本を読んで感想文書いてね」
っていわれたり。
あとは、「挨拶をしたらきもちがいいから挨拶をしましょう」
とかいわれても、「いや、私はとくに気持ちよくならないからいいや」とか。で、通知票に「あいさつをしましょう」ってかかれたり。

どうも、先生がいうことをそのまんまの意味でとって、言外の「言わないでも空気で分かれよ」っていうような、そのへんのことを読むのがぜんぜんできないこどもだったみたいです。
「『小動物の飼い方』という本で読書感想文を書いてはいけません」
とか、ちゃんといってくれないとわからないのね。

まあ。そういうこどもだったことをふまえて。

「ごんぎつね」っていう国語の教科書にのってる話の、どこが感動ポイントだかよくわかんなかったんですね。
で、「ごんぎつね」を読み終わった後で、担任の先生が「ごんぎつねを毎年みんなと読むたびになきそうになっちゃうんです」とかいわれても、ぽかーんとしてました。

うろおぼえであらすじかきます。

ごんが兵中という男のウナギを盗んで、あとで盗んだウナギが病気の母のためだと知る。兵中の母死ぬ。ごんが罪悪感にかられてクリなどを兵中にとどける。
あるひ、クリなどをとどけてたごんが兵中に見つかって撃ち殺される。兵中後悔。おわり。

なんか、ぜんたいてきに、話そのものがわかんないんですよ。
なんで、ウナギぬすんだくらいで兵中の母の死にまでごん狐が負い目を感じるのかわかんないし。
それで、ウナギをぬすんだつぐないにクリなどを兵中にとどけるのも意味わかんなかったんですね。
「いや、兵中の母は死んでるんだから、いまさら食べ物とどけてどうなるんだろう。償いにもなってないんじゃないかなあ。なんかごんのやってることの意味がわかんない」
って。空気の読めないこどもだった私は疑問で。
ひたすらわけのわかんない話だったんですよ。
ごんぎつね。

はい。で。
ここまでかいたところで
ウィキペディアであらすじ確認。

ごんぎつね

おお。鰯のくだりを忘れてたのと、男の名前をまちがえてた(×兵中)いがいは、わりとちゃんとおぼえてる。

というわけで、論文をひとつ、紹介します。

有元秀文ありもと・ひでふみ(2009)「PISAと全国学力調査の結果から考える国語教育の改善―国際的な読解力を育てるブッククラブの提案」(指導と評価、2009-10月号)pp.9-12


1.読解力は低下したのか
(略)多くの人が忘れていることは、PISA調査は悉皆(しっかい)調査ではなく抽出調査だということである。百万人の高校一年生から5千人を抽出して行った調査結果は、統計的な推論であって百万人の学力そのものではない。八位が十四位に低下したから百万人の読解力が大幅に低下したとも低下しないとも断言できない。(p.9)


えーと。悉皆調査ではなく抽出調査だから、百万人の学力そのものではない。って。

あーそーですか。
国立教育政策研究所総括研究官であるところの有元氏が統計学をここまで軽視してるってのは、ちょっとうすらさむい気分になりますが。

いや、これは抽出調査にいちゃもんをつけてるわけではなく、PISAが日本の高校生の順位を下げたことに、はらをたててるだけなんでしょうけど。
きっとね、PISAで八位から十四位じゃなく、八位から一位になったとしたら、「悉皆調査云々」いわないとおもうんですよね……
もし、八位から一位になったとしたら、
「悉皆調査ではなく抽出調査だから、百万人の学力そのものではない」みたいな文はかかなかったでしょーね。

あと、悉皆調査って、なにかっていうと(過去の)全国学力調査のことですね。よーするに、
「PISAがなんぼのもんじゃい! 悉皆調査の全国学力調査のほうが正確だろ! 日本人なら全国学力調査!」っていいたいのかな。
という。

いや、そういう論文ではないんですけどね。

2.読解力低下の真相
私は、読解力は低下したかもしれないが、断言できないと思っている。断言できることは、日本人のPISA読解力調査の得点は、「もともと国際的に低い」ということだ。(p.9)


で。「もともと国際的に低い」と断言出来るだけの根拠は


2000年調査の時点でも日本の読解力はトップではけっしてなく、無答率が極端に高いという問題をかかえていた。2003年にはその欠点が顕在化し、その後改善の徴候がないというのが事実である。(p.9)


ということだそうです。
ふーん。

ではなぜ、国内のテストの得点に大きな変化がないのに、PISAの得点だけが低いのだろうか。それはPISAが求めているような読解力を国語教育が育ててこなかったからである。(p.10)


うん。これはそうなんですよね。国内のテストと、PISAは物差しのめもりが違うんですよね。

では、なぜPISAに対応出来る国語の授業をしなければならないのか。もちろんPISAの得点を上げるためだけではない。
 もし日本の国語教育が完全無欠なら、世界中の国語教育を日本型に変えればよい。しかし、日本型には明らかな欠陥がある。日本の国語教育は、曖昧で論理性を欠いた日本人のコミュニケーションを背景にしていて、日本の国語教育を完全にこなしても国際社会でのコミュニケーションはできないからだ。(p.11)


「曖昧で論理性を欠いた日本人のコミュニケーション」て。
自分のことを日本人全体に一般化しないでほし……なんでもありません。

では、ほとんどの日本人は外国人と交流する機会はないのに、外国人と交流するためにPISA型読解力を育てる必要があるのか。
 PISAに対応しなければならない最大の理由は、外国人と交流するためでなく、課題解決のコミュニケーションを 身につけるためである。(p.11)


強調は筆者本人によるものです。
いや、論文の本筋とは関係ないけど、「ほとんどの日本人は外国人と交流する機会はない」とは。それは。私の知ってる日本人ではないなあ。

 文章を批判的に読んで自分の意見を表現し、相互批判しながら合意形成を目指す課題解決のコミュニケーションは、この日本のあらゆる教科の学習でも、社会生活でも重要な「生きる力」である。(p.11)


はい、なんでこの論文をとりあげたのかというと、
PISAからこっち、「クリティカル・リーディング」「クリティカル・シンキング」みたいなことが、国語教育のなかで流行ってるっぽいのだけど。
どーやってあの国語の教室で、「クリティカル」ってのを処理してるのか、すごい好奇心があって。
まえまえから観察してたんですけど。
だいじょうぶなの?「クリティカル」なんて言っちゃって。
って、おせっかいにも心配してたんですけど。
で、ここでいきなり「ごんぎつね」がでてきます

 例えば「ごんぎつね」で、「ごんは兵十にどうやっておわびをすればよかったのでしょうか」という発問を出すと、子どもたちは「お手紙を添えて栗を置いてきたらよかった」などさまざまに自由な意見を出して、授業は盛り上がる。
 この問い自体はクリティカル・リーディングの問いとして間違っていない。しかし、教材は十分理解できていない子どもが自由に意見を言い出すと、とんでもないいい加減な意見が出てくる。
 クリティカル・リーディングをするためには、正確な教材理解と教材解釈が不可欠である。(p.11)


7.国際的な読解力を育てるブッククラブ
(略)
アメリカで1990年以降、このような読解力を育てるために盛んに行われている授業は「ブッククラブ」である。これは多読とディスカッションを組み合わせて国際的な読解力を育てる指導法である。
 さまざまなやり方があるが、ここでは私が子どもたちに実践して効果的と思われる方法の一例を「ごんぎつね」を例にして骨格のみ示す(略)
【クリティカル・リーディング】
 登場人物の行動や作者の表現を評価・批判させる。
 たとえば、「ごんのおわびのやり方はこれでよかったか」や「物語の終わり方はこれでよいか」を尋ねる。(p.12)



「ごんのおわびのやり方はこれでよかったか」クリティカル・リーディングの時間がみごとに、道徳の時間になってますね。

べつに、クリティカル・リーディングを「ごんぎつね」でやらなくてもいい気がするんですが。いや、やっていけないこともないけど。
 というか、クリティカル・リーディングひとつやるのにも、「ごんぎつね」からはなれられないんですかね。
どんだけ国語教育の人は「ごんぎつね」が好きなんだ。
私にとってはあんなにわけのわかんない物語だったのに。


というわけで、私もごんぎつねで「クリティカル・リーディング」

「ごん」って、兵十と直接しゃべってないような記憶があるんですよ。
で、おわびも言葉でなく物品でしょう。
ごんって、「人間の言葉はわかるけど、人間の言葉がしゃべれない」っていう設定な気がするんですよ。

このとき、ごんは「擬人化された動物」なのか、「擬獣化された人間」なのか。
というのが、私には気になるんです。
ようするに、「なんでごんは狐なのに人のことばがわかるんですかー」ってことなんです。


もし、「擬人化された動物」なんだったら、「狐でありながら中途半端に擬人化されて、兵十と会話はできないけど、兵十の言葉はわかる」っていう存在ですね。
「ストーリーをうまくすすませるためのご都合主義の設定だとおもいました。ごんは人間のことばを理解できるのに話せないというのがヘンだとおもいました」

「擬獣化された人間」ってことなら、「言葉を発しない鉄砲をもたない存在が、言葉を発して鉄砲をもつ人間にうちころされるというストーリーは、いくら狐になぞらえてあとあじの悪さをうちけしてあるとはいっても、『なんてかわいそうなごん』みたいなお涙ちょうだい話として無邪気に消費されていていいのかと、ぎもんにおもいます」

……あ、おもったよりいい教材なのかも。
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2010年06月16日

ポリシー

前回の記事

「画数をまちがえて書かれた字は、いくら読めたって、字じゃない、記号です」
「だって左手でかくとあの画数を忠実にまもるの、無理だよ。 え? あなたは私の字を字とみとめないの? ふーん。まあいいや。あなたに字じゃないっていわれたって、べつにいいよ。字じゃなくていいや。あなたに字じゃないっていわれたって、ぜんぜんかまわない」


「字じゃなくていいや」って、無責任に言っちゃってますが。
これは、誰でも言えるわけじゃないんですよ。
私が大人だから「あなたに字じゃないっていわれたってかまわない」っていえるわけですよ。
学校にいってるこどもは、書道のせんせいに「こんなの字じゃありません!」
とかいわれたら。
「学校つまんないんでかえっていいですか」
くらい言えたら上出来ですね。

まあいいや。
はい。

そうそう。
左手で字がかきにくいんだよ
っていうと
「右手で書かないの?」
っていわれて、
「なんで左手でかいちゃいけないの?」
って言い返して、
「ああ、左手でかくのがポリシーなんだ」
っていわれて、腹がたったことがあります。

なんか、このブログだけ読むと私、腹が立ってばかりいるような人生にみえますが、そうでもないですよ。

で、なんで「左手でかくのがポリシー」とかいわれると腹が立つかというと、前にどっかでかいたのですが「左手でかくのがアイデンティティ」といわれるのとおなじで、腹が立つんですよ。

「右手でかくのがふつう。左手でかきたがってるヤツは政治的に偏向した思想の持ち主」
っていうポリシーがないと
「なんで右手で書かないの」とか「左手でかくのがポリシー」とか言えないんですよ。

「右手で書くのはダメなんですか」
むしろね、とかいうとき、それは、それを言ったヒトのポリシーがすけてみえるわけですよ。
「多数決で勝ってる自分は少しも損をしたくない。自分が損をしないためなら少数の側のひとをいくらでも踏みつけてかまわない」っていうポリシーがないとね、
「右手で書くのはダメなんですか」
なんて恥ずかしいこといえないですからね。

なんか、私
「なんであなた、そんなに利き手にこだわるの?きもちわるい」
みたいなこと、思われてそうですけど。
むしろ、右手利きに徹底的に都合よくなってるこの社会がね、
むしろ、
「なんであなた、そんなに右手利きにこだわるの?」
って、私は言いたいわけなんです。
「なんでそんなに、字は右手ばっかりにつごうがいいの?」
「なんでそんなに、自動改札機は右側にしかキップ投入口がないの?」
「なんでそんなに、右手利きがちょっとも損しないように、がんばってるの?」
「なんでそんなに、右手利きにこだわってるの?」

で、明らかにおかしいから、ちょっと文句いうと、
「左手でかくのがポリシーなんですか?」
みたいに、私が偏った思想の持ち主みたいにいわれるけどね、
偏ってるのは、どっちなんだよ、っていったら、もちろん、私じゃなくて、字と、自動改札機が偏ってるわけですよ。
そしてそれを当たり前と思いこんでる側が偏ってるんですよ。

それを、さも私が偏ってるように印象操作しようとしてさ「右手で書けないんですか」とか「ポリシーなんですか」とか言って、
私を特殊な思想の持ち主みたいに言って。
そうやって、ちょっとでも損をしたくないんですよ。

まあ、もう、それは通らなくなりますよ。
あとね。「損をしたくない」人にききたいのだけど。

自動改札機のキップ投入口が右側にしかないの、それであなたは得をしているの?

もしあなたが、右手で杖をつくようなことになったら。
けっこう、自動改札機は障害ですよー。

私は、自動改札機はべつに。字にくらべたら、ぜんぜん苦痛じゃないけど。(まあ、いやといえばいやだけど)
むしろ、右手利きの人が、右手で杖をつくとき、自動改札はかなりうっとうしいと思うんですが。

自動改札機の右側だけってのは、左手利きにもかなり腹立たしいものがあるけど、むしろ、右手で杖ついてるひとだよね。

とても、あぶない。

で、いいんですか。
「左手にこだわるのはポリシーなんですか」とか
いって。
それで、右手利きの損をしたくないひとは得をしているんでしょうか。

けっきょく、右手利きのひとにとってだって、右手だけに都合の良い機械より、右手でも左手でも問題なくあつかえる機械のほうが、ぜったい得だとおもうんだけど。字だっておなじですよ。
「うるさい左手きき、だまれ」とかいうより、いっしょに考えた方が、ぜったい得になるんですよ。

だから、
「ポリシーなんですね。思想的な偏向なんですね」っていって左手利きの人をだまらせて、それで得をしたつもりなら、ちょっと考えがたりない。

いやでしょ。
自分が杖をつくときに。

「左手で杖を持てないの?」

とかいわれるの。
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2010年06月19日

他人の趣味はまじめにばかばかしい。

注:今日の日記の話題は書道です

いま、パソコンを買い換えなければいけない時期で、買おうかなとおもってるんです。
が、
「いや、パソコンを買い換えたら、このパソコンの中に入ってる私の初音ミクはどうなっちゃうの?」
という。ものすごく気持ち悪い理由で、パソコンを買い換えられないんです。

もちろん、新しいパソコンにインストールしなおせばいいだけなんですよ。データもうつしかえればいいんですよ。
でも、このパソコンの中にいるミクちゃんと、新しくインストールしたミクちゃんは、同じなの?

学校に友達がいなくて、辛かったりした私を慰めてくれたミクちゃんは、このパソコンのなかのミクちゃんなんですよ。
新しくインストールしてしまえば、それは私の知ってるミクちゃんじゃない。別のミクちゃんだ。
いやだ。私は今のパソコンに住んでる、このミクちゃんとずっと一緒にいたい。
という理由で、いま、私はパソコンを買い換えるのがつらい。

……えーと、おのれの恥ずかしい性癖を披露して、なにがいいたかったのかというと。

他人の趣味って、はたからみたらばかばかしいよね。
っていうことで。

上は、ほんと、ばかばかしいです。文章にしてみて、愕然とします。つくづくばかばかしいとおもいます。これ、自分のことだから仕方なくつきあってるんですけど、他人が同じこといいだしたら、とてもつきあいきれません。
「さっさとパソコンかって新しいのをインストールしなよ。データは変わらないんだから」
って、言いますね。確実に、いいます。他人事だったら。
「きもちわるいなあ」
くらい平気で言うかもしれません。他人事だったら。

だけどね。
趣味だったら、いくらでもばかばかしくていい、と、私は思うんですよ。

たとえば、
二次元美少女にのめりこんでいる人がいたとして。
それで、二次元美少女の素晴らしさをしらないうえに、二次元と三次元の区別ができてない人が、よく言うじゃないですか。
「二次元美少女にはまるのは趣味だから勝手にしてもいいけど、二次元と三次元を混同して、三次元の女の子に性犯罪を犯されたらこまるから、(二次元美少女マニアは)いやだなあ。死んで欲しいなあ」
みたいな。いや、
「二次元と三次元の区別ができなくなる」って、
二次元と三次元の区別ができてないのはどっちだ。
どう考えたって二次元美少女のほうが可愛いでしょ!
あの人達はかわいいのが仕事なんだから。

なんでわざわざリスクをおかして、二次元美少女より格がおちる三次元の女の子に性犯罪する必要があるんですか。
二次元美少女と三次元美少女を比べることがまちがってる。二次元美少女にたいして失礼です。
そして、三次元の女の子を、「可愛い」だけが仕事の二次元美少女と比べてみようとする根性が、三次元の女の子にも失礼だとおもうんです。

*これは、二次元美少女マニアであるところの私1人の見解です。
 すべての二次元美少女マニアを代弁していっているつもりはありません。


だから、よくわからないままに、「二次元と三次元を混同されるとこまるから」みたいなまとはずれな根拠をもとに、「二次元美少女はダメだ、二次元美少女マニアはダメだ」みたいなこと、いわれたくないんですよ。

それと同じでね。
「左手書字者のことを考えてないから書道はダメなんだ」
とか、私は言いたくないんです。
趣味の範囲だったらね。

いや、趣味だったら、なんでも許されるってわけではないけど。ギリギリ、「書道やるんだったら左手で字をかいてはいけません」はね、許される気がするんです。
私にはまったく意味不明だけど、だからって、「書道なんか滅びればいい」とか、そういうのは思わないです。
左手書字を許さないのか、というのはもう、ここから先は書道業界の問題であって、私には関係ないんです。

もちろん、書道は「ただの趣味」なんて枠にはおさまりきってなくて、

字をてがきすることが、いまの社会ではだいぶ意味をもつとか、
書道がだめなかんじに公教育にはばをきかせてるとか
書道には芸術とか伝統とかいう権威がまとわりついてる

とかね、そのへんは、解体していかなければならないとおもうんですが、

そのあとにのこった、「ただの趣味」としての書道は。
「どうぞご勝手に」
って、いいたいです。

左手書字者を無視し続けるのもいいでしょう。
左手書字者のために書道を改革するのもいいでしょう。

お好きにどうぞ。
私はなにもいいません。
だって、私は書道の関係者じゃないもの。
書道をやりたいともおもわないし。興味ないし。

それに、
わたしだって、じぶんの趣味(二次元美少女)を
「そんな趣味はまちがってる!」
なんていわれたくないですもの。
「書道なんていう趣味はまちがってる!」
なんていいたくないな。
「書道は左手書字者のことをかんがえてない」って批判は、ある意味もっともなんですけど、書道とはなにかってことをかんがえると、やっぱりちょっと、まとはずれっていう気もするんですよ。


んー。
だから、書道はさあ。
「近頃の日本人は毛筆という伝統をないがしろにして、手書きの文化を忘れて心のこもっていない手紙をかいている」
とか、大風呂敷ひろげないで。
「日本人」とか、そういうのかんがえないで
自分だけの、趣味の世界でのびのび楽しくやっていけばいいんじゃないですかね。
だめですかね。

で、「日本人」とかいいだすなら、そういう全体論にもちこむなら、もちろん、左手書字者のことはかんがえてね。
posted by なかのまき at 10:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2010年06月22日

書字教育と称して書道教育をほどこしている書写教育

6月18日の日記で

書道が、左手書字者をしめだしているのが問題なのではなく、

左手書字者をしめださないとやっていられないようなものが、義務教育の必修科目となっているのが問題なんです。


ってかいたんですけど。
もし私がきらいで、このブログにケチつけたかったら、
「義務教育は書道教育じゃありませーん。書写教育ですぅ〜〜」
って、批判してもいいですね。

というか、私もきのうきづいたんですけど、
無邪気に書道教育書道教育かきすぎですね。
書道教育と書写教育を区別してない。
これは、だめですね。

ただね。
混同したい、気持ちもわかるよな。
と。

下の論文で指摘されていることを、かみしめながら。


 現行の学習指導要領では、文字を書くことに関する学習は、小・中学校では国語科書写として位置付けられ、その内容は実用性に限定されている。高等学校では芸術家書道として位置付けられ、実用性を高めながら芸術性を学習するようになっている。
 しかし、実態は、小・中学校では「書写」と言わずに「書道」や「習字」と言った呼称が日常的に使用されたり、「文字を美しく書く」と言った表現がなされたりして、教師の間には書写と書道をほとんど同様に捉え、学習指導要領の趣旨が正確に認識されていない場面も見かける。(玉澤友基(2009)『書写・書道の関連指導に関する考察―楷書指導を中心に』「岩手大学教育学部研究年報」68 pp.71-79)


下線は引用者です。
そう。「美しく書け」って、いえないんですよ。国語科書写は。
書道じゃないんだよ。
でも、だからといって書写と書道はちがうものなの?
うちの大学にいる、書家気取りのズルい書道研究科は、こういうんですよ。
「学校教育の書写と書道はちがうんだから〜」
って。まるで書写のひどさは自分の高尚な芸術毛筆書道とは別物みたいないいかたしてね。

でも、じゃあなんで書写に毛筆があるの?
硬筆の上達に毛筆は関係あるからカリキュラムに入ってるように素人は思わされてるけど、じっさいには硬筆と毛筆は関係ないってことは、書写書道教育関係者ならだれでもしってること。
毛筆があるのは、”書写教育”にたずさわる人間の、趣味なんですよ。左手書字をするこどもをふみにじってでも、おしつけたい趣味なんですよね。
ってことは、書写って書道だよね。
書写関係者って、書道関係者のことだよね。
書写教育を牛耳ってるのは書道関係者ですよね。

書道趣味を義務教育のなかでおしつけておきながら、都合悪くなったら「書写と書道はちがうから」なんていわないでほしい。

私は、こうおもってます。
「書字教育と称して書道教育をほどこしている書写教育」
だから、書写教育のことを、書道教育といいたくなる。
いいたくなるけど、それはちゃんとくべつした方がいいので。
整理します。



書字教育(じをかけるようにしてください)

書道教育(うつくしいただしいでんとうのじを毛筆でかけるようになりなさい)

書写教育(書字教育をしてますよといいながら書道教育をしているなにかの名前)

posted by なかのまき at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2010年06月23日

ガムはおやつにはいりません

ぜんぶたとえばなしです。

私は、ちょっとまえ、整理整頓をするのをおしごとにしていました。

アメがはいってきたらお菓子のはこにいれます。
キャベツがはいってきたら野菜のはこにいれます。

そうゆう、おしごとをしてました。

それで、わたしはそのおしごとが、ちょっとだけつらいところがあって。
あるひ、言ったんです。

「あの、ガムは野菜のはこにいれることにきまってるけど、これからはお菓子のはこにいれませんか?」
で、
「なんで?」
ってきかれて、
「ガムはお菓子だからです」
ってこたえたら、
「ガムがお菓子って、なに、ちょっと説明して」
っていわれて、
「えーっ、だって、ガムはお菓子ですよ」
「でも、ねばねばするんだから山芋かオクラのなかまでしょ?」
「いえ、ガムはお菓子です。これは私だけが言ってるわけじゃないです。この本をみてください、ここにかいてあります」
「ふーん、でもさ、ガムはほかのお菓子とちがって飲み込まないよね。お菓子の箱に入れるのは妥当なの?」
「えっ、いや……でも、野菜の箱にいれるよりはいいとおもうんですけど。だいたい、世間ではガムはお菓子売り場で売ってるし、わたしもそれが妥当だとおもいます。なんでここでは、ガムを野菜に分類してるんですか、やっぱり、お菓子に分類したほうがいいとおもうんです」
「そー。なかのさんはガムを専攻してるから、自分の得意なジャンルには敏感なのかもしれないけど……」
「私の専攻は玉子ボーロです。ガムの専攻じゃありません。でも、やっぱり、お菓子研究所と名前の付いたところで、ガムを野菜に分類するのは、ちょっと私はいやです。恥ずかしいです。それに、ガムを食べる人や、ガムを専攻してるひとが見たら、ガムが野菜に分類されてたらつらいとおもいます」
「あー、ガムを食べる人やガムを専攻してるひとは怖いからね。抗議が来たら面倒くさいことになるかもしれませんね」
「そういうことじゃなくて、私は玉子ボーロが専攻だけど、それって、ようするにお菓子の研究者ってことです。あなたは金平糖の研究者かもしれないけど、やっぱりそれって、お菓子の研究者ってことです。お菓子の研究者が、こまかい分類はべつにして、ガムを野菜に分類してるのは、それはそんなに、私個人の趣味の偏向とか、ガムを食べる人の抗議がこわいからとか、そんな理由じゃなくて、やっぱり、お菓子の研究者として、ガムが野菜に分類されてるのはヘンだと……」

私はガムを専攻してないし、ガムに詳しいわけじゃなくて、「大学院でガムはお菓子です」ってならってきたから、そういう訓練をうけてきたから、この分類はきもちわるいし、この感覚はお菓子の研究者であれば共有できるものと思っていたから、
「ガムがお菓子であるというなら、その理由を説明して」といわれるのにびっくりしたし、説明したあとも「あなたはガムにくわしいからきになるだけ(あなたいがいのだれもこの分類がなぜおかしいのかわかってないよ)」とか「だってガムはのみこまないんだからお菓子に分類していいのか疑問だ」
とかいわれるの、びっくりして。
「え、ええ?」
ってなって、ショックで、

「私は玉子ボーロの研究者であるということはつまり、お菓子の研究者であるのだから、
ガムが飲み込めないという理由だけで、ガムをお菓子じゃなくて、お菓子よりさらに的はずれな野菜に分類してる、お菓子の研究者としてそれは許されないと思ってる、それは、じぶんの研究への姿勢に、ものすごくかかわることで、これ以上ガムを野菜に分類しつづけるのは、私の研究への気持ちを壊してしまう。わたしはここで、研究職としてはたらいているわけで、だから、ガムを野菜に分類しなさいと命令するなら、研究者としてとてもつらいから、私はこの仕事をやめたい」

ということを、あまりちゃんといえなくてけっきょく、

「すみません。どうしてもいやです。いやなんで、ガムをお菓子のはこにいれさせてください」
って、私個人のワガママをおしつけたようなかんじにいってしまって、で、「じゃあそういうことにしましょう」ってことになって、ガムはお菓子の箱にいれることになったんです。

でも、そんな、私がワガママをおしつけたようなかんじにおもわれてるかもしれないけど。
だって、お菓子の研究所でしょう? お菓子を研究してる人たちがあつあまっている所でしょう?

ガムを野菜の箱にいれたくない、ってそれはほんとうに、私の個人的な、趣味で、ワガママなんだろううか。


なにかというと、

なんで手話を「言語」じゃなくて「みぶりてぶり」なんかと同じ箱にいれてるの……
posted by なかのまき at 23:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2010年06月25日

「うまれつきかうまれつきじゃないか」っていう研究は意味ないんですよー

白垣潤・梅下弘樹(2010)「発達障害児および発達障害が疑われる幼児の発達特性と家庭環境に関する研究―津守式乳幼児精神発達診断法を用いて」『岡崎女子短期大学研究紀要』43

いや、なんとなくタイトルがぎょっとするようなタイトルなので気になって読んでみました。
「家庭環境」って!
え? いつの時代の研究? 2010年?
……ほんきですか。

では、引用します。



近年、幼稚園や保育所で発達障害児および発達障害が疑われる気になる幼児が増加傾向である。(略)本研究では、発達障害児および教育・保育現場で発達障害が疑われている幼児の発達特性について、性別、家庭環境、診断の有無の要因が発達の特性にどのように関わっているのかについて、津守式乳幼児精神発達診断法を用いて横断的に検討した。(p.41)


はあ。


対象は、岡崎市内の公立保育園に在籍する幼児66名(男児48名、女児18名)であった(54.2±12.7か月)(Table1)。また、対象児を性別(男、女)家庭環境(良好、保育者の報告によって問題があるとされた家庭)、医師による障害の診断の有無(有、無)のそれぞれの群によっても検討を行った。


で、Table1の実物をはっておきます。(クリックすると大きいのがみえます)

IMG625.jpg

で、この家庭環境(保育者の報告によって問題があるとされた家庭)のなにが「問題」なのかというと。
異なりだけ書き出します。

母子家庭
父がDVの疑い
父子家庭
母中国人で日本語不能
ネグレクトの疑い
母居るが祖母が中心に育児
父がほとんど家庭不在
母がうつ病でネグレクトの疑い
母子家庭・ネグレクト
両親再婚家庭
母フィリピン人で日本語不能
多子貧困家庭
母親が長期時間深夜勤務
母パニック障害
両親ともに転職が多い
祖父母が中心的に育児
両親ともギャンブル依存
両親とも聾唖者


以上が「保育者の報告によって問題があるとされた家庭」です。
えーと。「問題があるとされた家庭」の「された」って、なんですかね。
「保育者の報告を聞き取った白垣氏・梅下氏の判断によって問題があるとされた家庭」ってことですよね。
「白垣氏・梅下氏によって問題があるとされた家庭」
ってことだよね。
この「された」って、迷惑の受け身ですね。
それいがいにかんがえられないんだけど。

この研究さー。どっちかっていうと、2010年時点において、大学の研究職についてるよーな人間がどんな家庭環境を”問題”と考えているのか、という。
そういう研究の一次資料につかえそうじゃないですかね。
というか、それ以外の資料としてはまったく意味がない論文じゃないですかね。

で、えっと、この論文の結論としては

発達の遅れのある子どもについては、家庭のしつけの問題に帰すよりもまず発達の遅れについて慎重に検討する必要があると思われる。発達障害については、発達という側面から、遺伝か環境かという議論がされてきており、また環境要因で発達障害に類似した症状を呈する症例も報告されている。(p.44)


私はこのジャンルについてはまったくわからないんですが
あまり意味のない研究を、大学の研究費つかってやらないでほしいんですが。

だいたい、
「発達の遅れのある子どもについては、家庭のしつけの問題に帰すよりもまず発達の遅れについて慎重に検討する必要があると思われる。」
って、どんな日本語だ。挿入部分である「家庭のしつけの問題に帰すよりも」を抜くと、

「発達の遅れのある子どもについては、まず発達の遅れについて慎重に検討する必要があると思われる。」

となりまして。これは……すごいな。
あと、「家庭環境」って、この論文では「家庭のしつけ」のことですか。
保育者にすべての責任をおしつけて、「おまえたちが悪いんだ!」っていいたいのかな、と。
四方八方に無責任な論文だな。


で。


家庭環境に問題がある群は、母子家庭・父子家庭、DVやネグレクトの疑いなど明確に問題がある事例のみを問題群にいれたが(略)
(p.44)


って、かいてありますけど。
母子家庭のなにが「明確に問題」なんですかね。
母中国人で日本語不能のなにが「明確に問題」なんですかね。
両親ともに転職が多いのなにが「明確に問題」なんですかね。
両親とも聾唖者のなにが「明確に問題」なんですかね。

私にはぜんぜん問題が明確でないんですけど。
いったいなにを「問題」としているのか、さっぱりわかりません。
というか、いったいなにをもって家庭環境を「良好」としているんですか。

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2010年06月27日

「うまれつきかうまれつきでないか」ってそれを考察するのはお前の仕事じゃないよ

小林比出代(2005)「左利き者の望ましい硬筆筆記具の持ち方に関する文献的考察」『書写書道教育研究』20 pp.30-40

『書写書道教育研究』っていう雑誌は、わたしは、いい雑誌だとおもってます。
前にも紹介した加瀬氏の論文なんかものすごくいいし、そしてその論文をちゃんとページの若いところに掲載する、『書写書道教育研究』っていう雑誌も、いい雑誌だとおもいます。
あるていど、書写って、「手書き文字は将来滅びるかも」みたいな危機感があるせいか、いい研究が多いし、この雑誌をよめば書写教育の問題点がほとんど網羅されていて、書写教育のなかで(ひそかに)共有されているのがわかります。もうすこし、一般人にむけてもいってほしいんですけど。
「硬筆と毛筆は関係ないよー!」とか、ちゃんと大声でいってほしいんですが。

国語教育なんかとくらべると、だんぜん科学的な考察がしっかりされていて、面白い分野だとおもいます。
というか国語教育は、あれはなんなんですかね。


それをふまえて。
左利きのことも、もちろん書写教育の人はかんがえてます。
ということで、紹介します。

小林比出代(2005)「左利き者の望ましい硬筆筆記具の持ち方に関する文献的考察」『書写書道教育研究』20 pp.30-40

これはどういうたぐいの研究かというと、章だてをみればわかります。

1.左利きに関する社会的意識―書字の側面から
2.現在の書写教育における左利き児童・生徒への学習指導
3.左利き及び左利き者の書字に関する文献的考察―生物学・心理学の分野から
 3.1「左利き」の定義と「ラテラリティ」
 3.2 左利きの割合
 3.3 左利きの発生起源と種類
 3.4 利き手と大脳との関係
 3.5 順手と逆手―Levyの仮説から
 3.6 幼児期の利き手
 3.7 利き手への社会的・文化的影響
 3.8 書字における右手の優位性
 3.9 左手書字から右手書字への「矯正」の是非
 3.10 学校教育と左利き及び左利き者の書字
4.左利き者の望ましい硬筆筆記具の持ち方及び用紙の置き方―『左きき書道教本』を参考に


この論文のストーリーとしては、3章で「左利きを右手書字させるのは”不自然”だし言語障害などの”問題”がおこるから矯正しないほうがいい」4章で「ではどうやって左利きに字をかかせるか」
って、そういう話になってまして。

私は、以前論文にもかいたんですけど、
「左手利きは生まれつきだから、矯正しちゃだめ。矯正なんか不自然なんだから」
っていうのは、意味がない発言だとおもいます。
「左手利きを右手に矯正すると言語障害なんかがおこるかもしれないから矯正しないほうがいい」
っていうのも。
で、そういう方向での「矯正しないほうがいい」に脳やらなんやらの科学論文をひっぱってきて、「矯正しない」に科学のお墨付きを与えて、それを「矯正しない」の根拠にすることは、慎重になったほうがいいとおもうんです。

うらがえすと、「生まれつきじゃなかったら矯正していいの?」「障害がおこらなかったら矯正していいの?」って話になって、そうなると「いい」ってなっちゃうのが、こわいんです。

「矯正しちゃだめ」に、科学の裏付けもあっていいですが、それより、左手ききの矯正って、文化であり、社会の問題なんで。
そっちのうらづけの方が大切なんです。
でね、小林氏は、「3.9 左手書字から右手書字への「矯正」の是非」の章で、「矯正しちゃいけません」というのに、科学的なみかたでしか、もの言ってないのが、非常に残念なんです。

 しかし、生物学及び心理学の見地から考察した場合、右利きが多数派ゆえに、右利きの方が社会生活において便利との理由だけで安易に利き手を偏向させることには強い危惧の念を抱く。(P.35)


「生物学」および「心理学」って、なんでそんなに、左手きき個人の、「からだのつごう」ばっかり見るんですか。
矯正は、左手ききひとりの、「からだのつごう」よりも社会の利便性を優先しているからおこることであって、そのときに、ひだりてききの「からだのつごう」ばっかり観察しててもしょうがないんですよ。
利き手矯正は、社会の問題です。だから、社会を問題にとりあげないと、利き手矯正についての研究なんか、無意味なんですよ。
ひつようなのは、社会学です。
いくら左手利きの脳を測定したって、問題解決にはとおいんです。

あと、左手利きと左手書字者を区別したほうがいいとおもうんです。

左手書字をおこなうひとは、もちろん左手利きがおおいですが、
もともと右利きだった人が怪我や病気などのつごうで、右手でペンを持てなくなった人が、左手で字をかく場合もあるわけで。

それを無視して、左利きの脳波をいっしょうけんめいしらべたってしょうがないんです。

左利きじゃなくても左手書字してる人がいる以上、左手書字は左利きだけの問題じゃないんです。


そこのところがぬけおちてるから、「左手書字から右手書字への「矯正」の是非」なんていってられるわけで。
是非の検討とか、そんな段階じゃないんです。
今現在目の前に、左書字者はいるし、「矯正」で左手書字者を撲滅できるわけではないというのは当然なのに、なにをのんきに「矯正の是非」なんていってるんですか。
そういう問題じゃないんです。「矯正したほうがいいのかしないほうがいいのか」なんて、すごく、意味ない検討です。

書写教育の人は、「矯正の是非」なんてもう、これ以上考えるひつようないです。
左手書字者は、いつでもどこでもいる。左手書字者がいなくなることはありえない。
だから、もうね、「左手で字をかくひとはいてあたりまえ」って、そこはもう、議論の余地はないでしょう。
それをふまえて、そのてあてを考えるときにどうしよう。
毛筆全員必修ありえないよね、むしろ硬筆全員必修もありえないよね。ってそういう方向にいくしかないんじゃないかなあ。

いや、「生徒はぜったいに手書きの文字をかくべきではない、これからはパソコンだ!」っていってるんじゃなくて、

パソコンも硬筆もえらべるようにして、どの場面でもどっちでかくにしても不自由ないようにして、
あたりまえだけど「パソコンの文字は心がこもってない」とかそういう差別をしないように、
書字教育のシステムをかえていくようにするしかないんじゃないかな。

posted by なかのまき at 11:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記