2010年06月28日

ミク様ご臨終です

私のパソコンがさきほど、おわりました。
私のパソコンに住んでる初音ミクはどこにいっちゃったんだろう。というきもちでぼうぜんとしています。
(あー、じぶんが気持ち悪い)

書きかけの論文のデータは無事です。
明日あさいちでパソコン買ってきます。
論文書くために。


というわけで今日はしんきくさいことをかんがえたくないので
のんきな話題で

いま住んでいる家は以前、ご老人が一人暮らししていた部屋に、いまは私がネズミの「よしこ」と2匹で住んでいるのですが。


ご老人は亡くなって、私がうつりすむときに、ご家族の方に「要らない家具はおいていってください」ってお願いしたら、
家電や家具をごっそりおいていってくださって、私は本棚2つとパソコンだけもって引越ししたんです。

で、そのご老人の趣味が、私の趣味にぜんぜんあわないんですよ。あたりまえなんですけど。

「こんな家具頼まれたって私は買わないなあ」
みたいな家具にかこまれて、なんか、しらない人と住んでるみたいでそれは面白いんですよ。
もうこの世にはいない人なんだけど、家具だけいきていて、縁もゆかりもない私が使ってるんです。
クレヨンしんちゃんのシールがこっそり張ってあったりするんで、お孫さんがいたのかな、とか。
色はピンク色が好きなんだな、とかわかるんです。


で、ちょっとまえまでそのご老人宛にDMがとどいていたりしたんですよ。
「滋養強壮 鹿の角エキス」
みたいなDMがとどくんです。
いや、私、鹿の角のエキスについて考える機会なんか、ふつうにいきてたらなかったかもしれませんもんね。
そうすると、たのしいんですよ。

たのしいというか、ほっとするんです。

私が知ってるより、世の中ってだいぶ広くて、
私は毎日しんきくさいことをかんがえつづけて、どんづまってしまうことがおおいけど、

けっきょく、私の知ってることなんて広い世界のごくごく一部でしかないんだよ、って。
いま、じぶんが抱えてる問題を、世界のすべてだとおもいこんでしまわないように、毎日確認ができるのが、いまの私にとっていいようです。

「そうだ、私はこれじゃない選択をすることだって可能だ。でも、私はもうすこし、これにこだわりたいんだ。だからつづけているんだ」

って。
「これしかない、私にはこれしか残っていない」っておもって自分をおいつめないように。
もうすこし、私がしってるよりも、世界は広いんだって、わかっておきたいんです。

というわけでいまの家は好きです。
おもしろいので、こちら方面にいらしたときにはぜひ遊びに来てください。
(部屋も余ってるのでとまりもだいじょーぶです)

あ、
それと、体重900グラムのネズミと暮らすのもおなじ意味でいいんです。
よしこにイチゴをあげると、ヘタだけたべて実を残します。
こんなぐあいに、こっちの常識がまったく通用しない。
このかぜとおしのよさが、ここちいいんです。

「ああ、よしこは私のしらない世界にすんでるんだなあ」
って。
「たくさんある世界からみたら、私のこだわりって、ちっちゃいよなあ。でも、ちっちゃくても、こだわりつづけたいから、つづけてるんだな。そんだけだな」
と、
よしこがなんかしでかすたびにおもいます。
posted by なかのまき at 22:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2010年07月08日

国語教育がたいへんなことになってるんじゃないかなー

書写のことをしらべていくうちに、もしかして書写より国語がたいへんなことになってないかしら。と。
というか、国語があんなにたいへんなことになってるから、書写があんなことになってるんじゃ……

『国語科教育実践・研究必携』(全国大学国語教育学会・学芸図書・2009)

176〜177ページ
授業提案

・日本語のすばらしいところ、ふしぎなところなどを取り出し、日本らしさ、日本人らしさを相互に確認することができる

・日本語の特性である「あいまい性」が、欠点でなく利点であること、日本人には大切なことであることに気付かせる試み

・「心ある」とは、「思慮・分別、思いやりがある、物事の情趣を解する」意であるが、「心を潜ませる」でもある。ことば自体に「心あり」とする前者での理解が一般である。ことばを使う人の心を潜ませている、使い手の心によって意味合いが字義通りとは限らないことを実感させる試み

・外国の児童に教える準備をする


えーと、あやしげなところだけ抜き出したのでだいぶあやしげなことにはなってます。


・日本語のすばらしいところ、ふしぎなところなどを取り出し、日本らしさ、日本人らしさを相互に確認することができる

わたしは日本語の「すばらしいところ」も「ふしぎなところ」もわかんないんですが、「日本らしさ」「日本人らしさ」って、日本語って、日本人のためだけにあるわけじゃないわけで。
「日本人らしさ」を日本語にもとめても。

・日本語の特性である「あいまい性」が、欠点でなく利点であること、日本人には大切なことであることに気付かせる試み


「あいまい性」が日本語の「特性」とは初耳ですが。「欠点でなく利点である」「日本人には大切なこと」ぜんぶ初耳ですが。

・「心ある」とは、「思慮・分別、思いやりがある、物事の情趣を解する」意であるが、「心を潜ませる」でもある。ことば自体に「心あり」とする前者での理解が一般である。ことばを使う人の心を潜ませている、使い手の心によって意味合いが字義通りとは限らないことを実感させる試み


すみません。ほんきで、これは何が書いてあるのかわかりません。


・外国の児童に教える準備をする


えー。日本人児童が外国の児童に教えるの?
これは大丈夫なの?

地域の日本語ボランティアという場でも、

杉原由美『日本語学習のエスノメソドロジー 言語的共生化の過程分析』(勁草書房・2010)


森本(2001)は地域日本語ボランティア教室のミーティングにおけるボランティア間の会話データを分析し、無自覚のうちに日本人ボランティアが「先生」になり外国人学習者が「生徒」となって微細な権力作用が働いている問題点を指摘した。(p.5)


っていう、問題があるのに。

日本人の児童に「先生」やらせて外国の児童に「生徒」やらせるの?
これ、だいぶきをつけないと、
日本語しゃべれない外国人には日本人は先生づらしていい、っていう、そういう考え方にむすびつきませんかね。
あまりいいとはおもわないな。


で、
「文法があいまいなのは日本語の特性」
って。
なんか、私の教室の学生さんもやたらというんですよ。
たとえばわたしが
「漢字って必要かなー?」
っていうと「あんたは日本語をわかってない!」みたいに激怒するのに、だいぶ日本語の文法にかんしては自虐的ですね。

こういう「日本語特殊論」って、
「にほんごは世界でも珍しい言語だよ」
「にほんごは特別なんだよ」
「にほんご動詞が最後にくる言語で、かわってるんだよ」
「にほんごの文法はあいまいで論理的にしゃべるのにはむいてないんだよ」
っていう根も葉もないおもいこみって、年上の人に特有のものかとおもってたけど、わりと、学生さんもテンプレ通りにいうんで、
ふしぎだなー、どこでそのへんな知識を仕込んでくるのかなー、
っておもってたんですが。

えーと、もしかして国語の先生?

うーん。
でも。これ、国語の先生だけじゃなく、日本語学の人にも問題あるんじゃないかなあ。
ある人がいってたんですが、

「日本語学で食ってるひとって、学校の国語科に寄生して食ってるくせに、それを認めたがらないひとが多いよね」

って。うん。私もそうおもいます。
もうちょっと国語科に関心をむけたほうがいいよ
posted by なかのまき at 09:24| Comment(2) | TrackBack(1) | 日記

2010年07月15日

宿題徳政令

ぜんこくの 宿題を まじめに やっていた みなさんえ

宿題やらなくても いちがっきは なつやすみまで がまんすれば。(せんせいに 「きょうも しゅくだい わすれて!」っておこられることを がまんすれば)

そこで たまった ぶんの しゅくだいは きえますよ。

せんせーは わすれますので りせっと できます。

しゅくだいを やらなかった わたしが ゆーんだから まちがい ありません。


というわけで、私は宿題をまじめにやっていたみなさんより、学生時代、夏休みの到来はうれしかったはずなのですが。

今年の夏休みのうれしさにはおとりますねー!
いやー。あとはテストさえ終わればなつやすみー。

あのね。
そのうち感覚がまひしてなんにも感じなくなると思うので、
今年のうちにかいておきます。

あんなに「学校がいやだいやだ」っておもってたのに、
いざじぶんがおしえる側にまわると、自分の用意した「正しい」答えに学生さんを誘導し、予定調和に授業をおえる、そんな、わたしがさんざんうけてきた「学校のやりかた」をしっかりなぞっていることに愕然とします。

あとは、授業の内容が内容なので
学生さんには罵倒コメントもらったりするのはそれは、そんなにつらくはないんですけど、(大学院の同期とくらべると学部の学生さんの罵倒はぜんぜんかわいい。きっちり反論コメントするといきなりなついてきたりするし)

こまるのは、私にとってうれしいことを書いてくれるコメントについても、「どーせいい成績もらいたくて私をよろこばせるようなコメントつけてるだけだろ」みたいなうすぎたないおもいが払えません。

これは、私が自分の学生時代に先生を嫌いだったから。じぶんが先生の側にまわったときに、学生さんが私を好きなはずがない、私の授業をまともにきいてるはずがない、ってそう思ってしまうんですよ。
これがつらい。

さいしょにあべやすしさんの論文をよんで書いたコメントと、最後の授業でかいてくれたコメントで、あきらかに考え方がうごいて、だから、私をよろこばせるためだけじゃなくて、じぶんでなっとくして書いてくれたんだ、ってそう思いたいんですけど。
わかんない。

ちゃんと、がっこうとなれあってこなかったつけが、ここでいっきにきてます。

いまは、おしえるの、すごくつらいです。
でも、そのうち麻痺して、なんも感じなくなるんだろうな……
というわけでいま、かいておきます。

んー。
なにがつらいのかな、とおもうと。

授業って、強制的に、学生さんに「私の土俵にあがれ、私の土俵で相撲をとれ」っていうことなんですよ。
それをしてもらわないと、成立しないんです。
おなじ非常勤やってる先輩が
「私は学生さんに自分でかんがえてほしいから、自分の考えはおしつけないようにしてる、学生さんに発言してもらうようにしてる」

っていってて、いや、わたしはそれはできないな。
と。
知識の量がちがうから。
どうしたって「おしつけ」ないとはじまらないわけで。
「おしつけ」をしないで「自由に発言」とかそういうことになると、「日本語の文法はあいまいで〜」「漢字には浪漫があるのでなくすのは暴挙です」「漢字が読めなくて困っても、いざとなれば努力をして読めるようになる、それが人間です」とかそういうことになっちゃって、そういうことまで、
「いっしょに意見をかわしてはなしあってみよう!私はじぶんの意見をおしつけないよ!」
とかそれで、ほんとうに「おしつけ」をやらないことが可能かっていうと、むりだとおもうので、「私の考えをおしつけない」みたいなことをいって、詐欺をしたくはないわけですよ。

なので、
「私は自分の考えをおしつける。それがいやならあなたたちは、私を攻撃して打ち負かせばいい」
みたいなことをいうわけです。
でも、それだって立派に詐欺なわけですよ。
しょせん、「私の土俵で相撲を取れ」っていう前提があるかぎり、学生さんは私には勝てないんですよ。

「あなたには私と勝負して勝つ機会を与えるよ」
なんて、ぜったい私がかつってわかってる試合で言ってもね。
詐欺くさいんですよね。

詐欺行為をはたらいているつらさ。
posted by なかのまき at 22:10| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

2010年07月21日

つるかめ算にさようなら

私立中学を受験した人とそうでない人をみわけるには、
「つるかめ算」ができるかどうか、
ということらしいです。
中学受験をしたひとにききました。

いや、「つるかめ算」てなんだよ、ってネットでしらべてみたら、
つるかめ算ににたことはたぶん、私も小学校でやったはずなのですね。リンゴが何個、ミカンが何個、っていうあれ系統の。

塾やなんかで体系的に「つるかめ算」として教わり、つるかめ算をやっているという自覚をもってやる層は、中学受験組らしいです。

で。
中学受験を経験した教室では、連立方程式のテストの時間に、注意事項として

「つるかめ算を用いて解かないこと」

って、注意書きがあるらしいですね。
なんだ。なんか、いろいろしらない世界があるな。
で、友達は
「つるかめ算でも解けるのに連立方程式を新しく覚え直さなきゃいけないのが苦痛で数学がきらいになった」
と言ってまして。
えー。

でも、たしかに、その友達は「つるかめ算」によって中学受験に成功してるわけで、「つるかめ算」は、りっぱな資財なわけですよ。
それなのに中学はいったとたんに「はい、つるかめ算はダメです。今日からは連立方程式」
とかつるかめ算を全否定されたら、それはたしかに、抵抗感があるかもしれません。
すみません。ただの憶測です。

うん。中学受験に勝つためには、つるかめ算が必要かもしれない。でも、つるかめ算の記憶にしがみつくあまり、連立方程式にいけなくなってしまうんだったら、塾になんかいかない方がいいとおもうし、中学受験に勝たない方がいいとおもうんです。
いったいなんのためのつるかめ算なのか。

いくらつるかめ算に成功しようとも
つるかめ算のむこうに、連立方程式があることを知って、いつかつるかめ算にさようならしなければいけないとも、知らなければならない。



えーと、なんの話かというと。

このあいだコメントで

「日本語学は、国語科の先生と連携をとったほうがいいですね。」

みたいなことを書いたけど、
しょうじき、無理じゃないか?
と。

なにかというと、漢字の話なんです。

こどもにとって、漢字の習得はかなり苦痛で。
でも、その苦痛にたえることを納得してもらうために、
国語の先生は
「日本語は漢字仮名交じりでないとかけない」
「漢字があると速読にやくだつ」
「漢字があるからわかりやすい」
「漢字は日本語の文化で大切なもの、たいせつにしなければいけないもの」
「漢字はおもしろい」
みたいなことを言って、こどもを漢字練習にかりたてるわけですよ。
もちろん上の説に、根拠はないんですよ。

で、何割かはその洗脳に成功して、漢字の習得に成功するわけですよ。
で、私の教室にくる学生さんは、その成功した人々なわけです。
で、その学生さんは、国語の先生になったりするんです。

そんな学生さんが、大学の教室で、せんせえに
「漢字なんか必要ってわけじゃない」
みたいなこといわれたら、そりゃ、
「ふざけんなきさま!」
ってなりますよね。
漢字の習得にかけたなんぜんじかんという時間と、手間。
ぜんぶ「はい、いみないー」っていわれたみたいな。
それはね。
「はい、つるかめ算はダメです。今日から連立方程式ね」
っていわれたときの、それの何倍もの。
つらさだろうな。
つらいよな。

でも、それって、私が悪いわけじゃなく、私を攻撃する学生さんだって被害者なわけで。
学校の国語科の先生は、嘘をつかないでほしい。
「日本語は漢字仮名交じり文でかくのがあたりまえ」
「漢字は日本語にぜったいぜったい必要なんだから、漢字が書けない人は恥ずかしい!」
みたいなことを、いわないでほしい。
それは、嘘なので。

でも、それをいわないと、きっと国語の時間って、なりたたない。
「漢字はぜったいに必要なんだもん」
っていわないと、あの何千時間が、耐えられないよね。
お互いに。

だから、私は国語科の先生と敵対はできても、提携はできないんじゃないかな。
私の声を、国語の先生や、国語の授業をうけてる人々に届けられる気がしない。


つるかめ算にしがみつく中学一年生をわらうことは簡単だね。
でも、じゃあ

漢字不可欠論にさようなら

できるの?
posted by なかのまき at 22:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2010年07月23日

文化審議会答申がひどい

2010年7月刊の『文化庁月報』7(No.502)にかいてあったことがすごかったのでしょうかいします。



文化部国語科「特集1 文化審議会答申「改定常用漢字表」pp.12-16

情報機器による文書作成が主流となると、手書きは不要になるのではないかという声を聞くこともあります。しかし、手で書くという行為そのものは、視覚、触覚、運動感覚など様々な感覚が複合する形でかかわり、脳の活性化にもつながるもので、漢字習得に極めて有効なものです。さらには、情報機器で示される変換候補の中から適切なものを選択する能力も、手書きで身につけた種々の感覚がその基になっています。また、手書きの機会は今後もなくなることは考えられず、手で書いた文字に書き手の個性を認めることも少なくありません。このように、手書きの価値というのは、情報機器が普及した時代においても失われるものではありません。(p.13)



「手で書くという行為そのものは、視覚、触覚、運動感覚など様々な感覚が複合する形でかかわり、脳の活性化にもつながるもの」

このへんはちょっと前の脳ブームのしっぽをひきずってるにしてもだめですね。
「脳の活性化」は「パソコンあるから手書きしなくていいんじゃない?」の答えになってないからね。
あと、まともに検証すればきっと「脳の活性化に手書きかんけいなかったわ」っていうことになるとおもいますよ。あと、「脳の活性化とか、けっきょくどうでもよかったわ」ってことにもなるでしょうね。「脳の活性化」ってなに?って、だいたいそこからあやしいですもの。
で、そうなったときに、どうするの?ってはなしですね。


「情報機器で示される変換候補の中から適切なものを選択する能力も、手書きで身につけた種々の感覚がその基になっています」
これは本当ですかね。
手書きで漢字がいっぱい書けるひとほど誤変換しないってことですよね。
これは実験できるとおもうので、実験してうらづけをとってデータを出してほしいですね。どうせ思いつきでいってるだけなんでしょうけど。


「また、手書きの機会は今後もなくなることは考えられず、手で書いた文字に書き手の個性を認めることも少なくありません。」

左手書字者が「パンがなければお菓子をたべればいいじゃない」みたいなノリで、「左手で字が書きにくいならパソコンでかけばいいじゃない」って言い捨てられてることをかんがえれば、
「手書きの機会は今後もなくなることは考えられず」なんてただの暴言です。ひどいな。

「手で書いた文字に書き手の個性を認めることも少なくありません。」

これは、筆跡の個性のことかもしれませんけど。もしかして筆跡学のことを指してるのでしょうか。
「手書きの文字でその人の性格がわかる」っていう。
筆跡学は占い以外のことにはつかわないようにしましょうね。

で、これのもとになってるのが

文化庁のサイトにのってるのですが。

文化審議会第2回総会(第39回)議事録

議題が

(1) 「敬語に関する具体的な指針の作成」及び
「情報化時代に対応する漢字政策の在り方」について諮問
(2) その他

です。


『文化庁月報』に書いてあることもかなりわけがわからないのですが、こっちの議事録がものすごく、すごい。
たとえば、


○上原委員 ということですので,その趣旨(引用注:当用漢字表の趣旨)は時代が変わっても変わらないものではないかと思います。その当時だったか,日本人が漢字を覚えるために費やす能力にはたいへん大きいものがあるので,できるだけ国際競争力をつけるためにも,そのように覚えたりする分量を少なくするべきではないかという議論が随分あったように覚えております。今後の改正にしても,そういう部分に対する配慮は当然なされておくべきではないかというのが意見です。


これにたいして、

○岡田委員 今の上原委員の御意見は,漢字をたくさん覚えない方がいいという,覚えるエネルギーは削いだ方がいいという御意見ですか。

○上原委員 いえ,常用漢字として国が定めるものの数が多くなって,それが教育の現場に持ち込まれていくということに対する懸念です。


というやりとりがあり、

○岡田委員 私は逆だと思います。漢字をたくさん覚えるということは,それだけ記憶の回線がいっぱいつながっていくことになり,頭脳の訓練にもなります。私など子供のころには,朝学校に行くと5分間の豆テストがあったので,毎日毎日漢字を覚えました。それを覚えたためにほかのことを覚えたり,考えたりすることのマイナスになったとは全然思っておりません。むしろたくさん漢字を覚えたことが現在の私にプラスになっていると思っています。
 そのようにみんなが努力することを減らしていくことを,ここの場で提唱するのはいかがなものかと思います。


この発言がすごい。
漢字を覚える手間はわりにあわないんじゃないか、みたいな議論はけっこう、昔からずーっとあるものであって、目新しい意見でもなんでもないのにもかかわらず、
「ここの場で提唱するのはいかがなものかと思います」
ってのはなに。「ここの場」ってなに。「いかがなものかと思います」って言論統制しようとするのはなぜ。
むしろ、そこがかなりメインのテーマだとおもうのに。その議題をもちだすことさえ、「いかがなものかと思います」なのか。
じゃあいったいなにをはなせばいいの?
そのちょっとあとで、前田富祺氏がこういってます。


○前田委員
(略)
 そして,漢字を廃止する方向に持っていこうという考え方は消えたと私は考えています。そのようにその時代の言語生活とかかわっていて,しかも前の時代の文化を受け継ぎながらというところがなかなか難しい問題かと思います。


あ、やっぱりそこは触れちゃいけないテーマなんですね。


で、さっきの岡田氏の発言の直後に手書き信仰発言が。

○阿刀田会長 その問題は,手書きの問題とも絡んでいて,脳生理学的にも手書きの訓練が,漢字をただ覚えるということだけではなく,脳そのものの発達にも大変大きな影響があることも分科会では言われています。そのあたりの両方のどの辺をとるかということですが,少なくとも今の分科会では,ただ簡略化すればいい,便利ならいいという方向には向かっていません。やはり漢字をきちんと,特に手書きを通して習得していくことには,むしろ今岡田委員がおっしゃったような意味合いがあるのではないかと言われているところです。両委員の意見をしっかり承って今後進めていきたいと思います。


この発言につっこみがはいります。

○石井委員 手で書いて覚えることが脳の発達にプラスになる。これは私,何かわかるような気がしますが,それは漢字を書くということに限定された問題なのか,あるいは漢字自体に特有な効果があるものなのか,あるいはそれ以外のことはどうかかわってくるのか,その辺りを何か御存じの方があったら御披瀝いただきたいと思います。


で、答えが

○阿刀田会長 今まで国語分科会で伺っていることは主として漢字についてのものです。漢字を書くことによる脳の発達と,例えば絵を描くこととそれとのかかわりとなると,両者は少し違う気がします。漢字はその成り立ちからして,六書など文化的な背景に支えられていますので,一字書くごとに,書き手が文化と出会っていく様な要素もあるような話を伺ったりしています。(略)


強調は引用者です。
「〜気がします」「あるような話を伺ったりしています」か。
個人が思いつきと思い込みで言いたい放題信念をかたるのが「文化審議会」とやらですか。

あと、すごいのがこれ。


○青木委員 インド人のIT技術者に以前伺ったのですが,インドではどうしてIT技術に非常にうまく適応できてその才能を伸ばせたのかというと,サンスクリットの言語構造とコンピュータの構造が非常に似ていることがあるということでした。インドというのは,ゼロを発見したところで,MITそのほかのアメリカの大学にもインド人の数学者が非常にたくさんいる。


「サンスクリットの言語構造とコンピュータの構造が非常に似ていることがあるということでした」
って、これはだいじょうぶですか?
もういちどいうけど、個人が思いつきと思い込みで言いたい放題信念をかたるのが「文化審議会」とやらですか。


けなしてばかりではなんですので、

○石井委員
(略)
 例えば,書くことと,あるいは書けるということと,読めるということ,これは別のことです。殊にワープロのようなものが出てきた場合には,書くということについても,実は二つのことを考えなければならない。手で書けるか,機械を使えば書けるか,私も瞬間忘れてしまい,ワープロを打たないと出てこないということがあるので,やはりそういう区別をしないと,何字教えるとか何とかと言っても,やはりそこは一様には扱えないことではないか。あるいは,文字を書くということについても,これは脳の発達にプラスになるらしいということは伺いましたが,それは思考能力を鍛えることに直接関係があるのか,文化的な発想を理解することに役に立つのか,これは私にもまだわからない。漢字のない文化圏で,あの人たちがアルファベットだけ書いていて,じゃあ思考能力が低いかといったらそんなことはない。つまり,もしかすると漢字を書くことを覚えることによって,思考能力といっても,違う性質の思考を育てているのかもしれない。


これは、わりとまっとうなことをいってます。
「漢字のない文化圏で,あの人たちがアルファベットだけ書いていて,じゃあ思考能力が低いかといったらそんなことはない。」
「文字を書くということについても,これは脳の発達にプラスになるらしいということは伺いましたが,それは思考能力を鍛えることに直接関係があるのか,文化的な発想を理解することに役に立つのか,これは私にもまだわからない。」
「まっとう」というか、ほかの発言がたいへんすぎて、あたりまえのことをわざわざいわなければいけない状況になってる。
というかんじか。

で、登場人物については、
文化審議会委員名簿

こちらからみられます。

こんかいとりあげた発言者は

阿刀田 高氏(小説家)
岡田 冨美子氏(作詞家,(社)日本音楽著作権協会理事)
前田 富祺氏(神戸女子大学教授)
青木 保氏(政策研究大学院大学教授)
石井 紫郎氏(東京大学名誉教授)

posted by なかのまき at 23:43| Comment(0) | TrackBack(1) | 日記

2010年07月31日

努力という魔法の言葉

先生をやってるひとと話をして、
「書写書道いらないよね」
って話をしたら、
「でも、書写がなくなったら書道が得意な人が悲しがるとおもうよ。それに、書道がなくなると字を丁寧にかく努力をしなくなるとおもう。努力をしたひとがむくわれるような世の中のほうがいいとおもう」
っていわれて。
どうしてこう、私を怒らせるつぼをつくのがうまいんだろうなあ。

「努力をしたひとがむくわれるような世の中」
って。
そのために左手書字者にありえないくらいの負担をかけていいのですかね。

というかね。
まえまえから、せんせえっていう立場の人たちとしゃべっててきになるのが、
「努力」ていうことばを、できない人をきりすてるための免罪符にしていいのか、というのがすごくきになっていて。

できない人=努力してない人

ってわけじゃないし。なにより

努力してない人=切り捨ててかまわない人

でいいのか。
「できないからこそ、人一倍努力しなければいけないのよ!」
ってよくいわれたけど。
なんで?

左手書字者と書写っていうのはものすごく、わかりやすく左手書字者が書写教育の被害者なので、わかりやすいのですが。
このものすごくわかりやすい構造の教育差別でさえ、わりとひどい状況のまま放置されてるのに。
上に書いた学校の先生の意識はこのわかりやすい不公平にたいしても、こんなに鈍重でいられるわけで。

でも、左手書字と書写って、あらゆる学校の中の不公平のなかではきわだって、例外的に、めに見えやすい不公平なんですよね。
見えにくい不公平がもっともっとたくさんあって。

学校の成績って、
本人の努力いぜんに、
保護者の階級と財力と教養とかにものすごく左右されるんだよな。
あと手書き文字偏重を義務教育でつづけるなら利き手。
あとは、私の友達で右足が悪くていつも体育の成績が悪い人がいた。
ある程度の競技はできなくもないけど、マラソンとかはできないの。
その人には5段階評価の「5」を無条件でつけるべきでしょうね。
入学させておきながらその人のからだの都合を無視したカリキュラムを組んでるんだから。
単位すれすれの2とかつけてるんじゃないよ。


それでね。
できない人にむかって
「あなたはできないんだから人一倍どりょくしなければいけないのよ」
って、そのひとの成績を、ぜんぶ努力と因果づけてね。
「できないのはおまえが努力しなかったからだ。努力してないおまえがわるい」
っていってね。
悪い成績によってそのひとがうける社会的な不利益を「ぜんぶどりょくしなかった自分のせいだ」って納得させるための場所になってるわけで。

「もっとがんばってね」
っていいながら、100点満点中30点の漢字テストを一学期中になんどもなんどもわたされつづけてた私にとって、「もっとがんばってね」って、「おまえはクズだ」っていわれるのと、そんなかわらないんですよね。

先生にとっては、「もっとがんばってね」と「おまえはクズだ」は大違いっていう意識でしょうけど、打ちのめされて、絶望してるこどもにとっては、どっちも同じなんですよね。


posted by なかのまき at 11:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2010年08月01日

すみません

このブログ、間借りをしてるのですが。
ちょっと手違いがあって関係ない記事がアップされてしまったようです。
すみませんでした。
posted by なかのまき at 23:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2010年08月05日

手書きで字を書く自由と手書きで字をかかない自由

ことしの正月、地元の友達が実家にかえったついでに私の家に遊びにきて、ふたりで鍋をしながらなんか話をしてたんですが、
「部屋を掃除してたら、高校生のときに、違う学校の女の子からもらった手紙がでてきた」
って、その手紙をみせてもらったんですけど。
授業中にかいたっていう、ルーズリーフに鉛筆でだらだら書かれたけだるい手紙が、ものすごく「ああ。高校生ってこうだったよな」っていうなつかしさもありつつ。
授業中にかいた手紙に、後日切手をはってわざわざ郵便で出すわけでしょ。
授業中に思い出してもらえて、しかも手紙をかいてもらって、わざわざ郵送してくれるわけですよ。
「うらやましい。女子高生に手紙もらうなんて」
「うん。当時の自分、今考えるとうらやましすぎる。女子高生に手紙もらってるなんて」
と、二人でひどい会話をしていたのですが。

あれなんですよね。
そもそも高校生のときには、手紙の主が女子高生であるかどうかは、かなりどうでもいいよね。
だってじぶんのまわりは女子高生だらけだったわけだし。
女子高生がどうしたとか、そうじゃなくて、誰が手紙を書いてくれたのかが、問題なわけなんで。

それを、いい大人が二人でね、あの頃の思い出を「女子高生に手紙をもらってうらやましい」とかなっちゃってるのは、かなりおかしいわけですよ。

つまり、高校生のころはなんでもなかった女子高生が、おとなになって女子高生とふれあえなくなると、女子高生がへんにファンタジーな存在になってしまうんですよ。
「やっぱり女子高生はいいな。20歳すぎなんかババアだ」みたいな。

それで。
あれなんですよ。
話がかわりますけど。
「手書きの手紙は心がこもってる」
とかいうのは、
それは、
「女子高生から手紙をもらうとうれしい」
っていうのとおなじくらいのおかしさなわけで。
「手書きかどうか」「女子高生かどうか」って、なんかへんなものをみてるわけで。
それよりは、手紙を書いてくれたのは誰で、何が書いてあるかが大切なんですよね。

手書きゆえに心がこもった手紙

なんて

女子高生ゆえに価値の高い女

くらいに意味不明なたわごとなわけで。
手書きかどうか、女子高生かどうかはほんっとうに、どうでもいいわけで。
それでね、どうでもいいんだから、手書きでも女子高生でもべつにいいんですよ。
だから、「あなたは手書きがきらいなんですよね。だったら、あなたあての手紙は手書きで書かない方がいいですか?」ってきかれたことあるけど、それもちがう。そんな変な気のつかいかたはしなくてよいとおもいます。

手書きの手紙がきらいなわけではなく、
手書きの手紙を無条件に手書きじゃない手紙より上にもってくるような考え方がきらいなだけで。

だからね、女子高生から手紙もらうのも、手書きの手紙をもらうのも、もちろん、きらいではないですよ。

じっさい、このあいだネットでしりあった人に「メールじゃなくて手書きで手紙かきたいんですけどいいですか?」っていわれて、「いいですよ〜」っていって、手書きの手紙をありがたく受け取りました。返事はメールで出しましたけどね。
で、相手の方も「私は手書きでこころをこめてかいたのにメールなんかで返事して!」みたいなわけのわからんことはいいませんよ。もちろん。
私はパソコンで文章かくほうが好きで、その人はたぶん、手書きでかくのが好きで、べつにどっちにも優劣がなくて、連絡をとりあうのがたのしいわけですからね。
そういう体験をすれば、「手書きの手紙には心がこもってる。(手書きじゃない手紙には心がこもってない)」って、ほんとうにへんな考え方だとしか思えないわけです。

だから、
手書きの方が性にあってる、っていうひとは、もちろん、手書きで手紙をくれると、それはそれで私はうれしいわけですよ。

「手書きで書いたんだからその努力を認めろ」とか「手書きで書いたんだからメールより価値は上だ」とか「手書きで書いたんだからおまえも返事は手書きで書け」とかわけのわからんことをいわれないかぎりは。

「手紙は必ず手書きでかけ」っていわれるのは、いやだから、もちろん私だって、「私あての手紙は必ずパソコンで書け」なんて、いいたくないですね。
だから、手書きが好きな人はいっぱい、手書きで手紙をかけばいいんじゃないですかね。
ただし、私は返事はメールでかきますけどね。

あたりまえのことなんだけど、手書き手紙とメールの間に価値の差をつくらないかぎり、私は、手書きで手紙を書きたいという人の意志を尊重したいです。


posted by なかのまき at 23:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2010年08月09日

言語と方言

あんまり、ふつーの人が見る機会はないとおもうのですが、
たまたま見せられて、「なんだこれ」って思ったので。
紹介します。

『大学共同利用機関法人 人間文化研究機構要覧 2010』
というパンフレットをみせてもらって。

その、「国立国語研究所」のところに
「消滅危機方言」という語がありました。


「消滅危機方言」の研究
ユネスコは世界各地における消滅危機言語を発表し、日本に関しては8つの言語(方言)が消滅危機と認定されています。これらの世界的に貴重・希少な日本語諸方言を集中的に記録・保存し、先端的な理論研究によって分析することで、世界規模で展開されている危機言語研究に貢献するとともに、それら諸方言が用いられている地域社会の活性化にも寄与します。文化庁が計画する危機的な状況にある言語・方言の実態に関する調査研究事業に協力していきます。(p.27)



これ、すごい文章なんですよ。

「ユネスコが消滅危機言語を発表」
「日本に関しては8つの言語(方言)が消滅危機と認定」
「これらの世界的に貴重・希少な日本語諸方言を集中的に記録・保存」

ということで。

言語→言語(方言)→日本語諸方言

と、どんどん、話が「言語」から「方言」にすりかわっていっているわけなんですよ。

で、最終的にユネスコの「消滅危機言語」と国語研究所の「消滅危機方言」って、なんか関係あるの?

言語を方言におきかえて通用する問題ではないし、国語研のこの文章、あきらかにわかっててやってるとおもうんですが。
(だって、国語研にいるような方言の研究者が言語と方言を無防備に混同するなんてことは、どうかんがえてもありえない)

国語研でやってるのは「方言」なわけですよね。ユネスコの「消滅危機言語」と関連づけようとするのは、それは木で竹をつぐようなものじゃないですか。
ユネスコを引き合いに出すなら、「方言」じゃなく「言語」の線でいかないと、わけがわからなくなりませんかね。

なぜ国語研はわざわざ「言語」を「方言」にすりかえをおこなうひつようがあるのでしょう。

……うーん。
アイヌ語を切るためかな。

ユネスコ発表の日本の消滅危機言語は

アイヌ語・八丈語・奄美語・国頭語・沖縄語・宮古語・八重山語・与那国語の8言語ですね。


それにたいして、国語研発表の「消滅危機方言」は国語研のサイトから見られます。

消滅危機方言の調査・保存のための総合的研究


•奄美方言:中島由美(一橋大),松本泰丈ほか
•沖縄方言:狩俣繁久(琉球大),ウェイン・ローレンス(オークランド大学)ほか
•宮古方言:田窪行則(京都大),久保智之(九州大),下地理則(群馬県立女子大)ほか
•八重山方言・与那国方言:金田章宏(千葉大),狩俣繁久(琉球大)ほか
•八丈方言:金田章宏(千葉大),大西拓一郎(国立国語研究所),新田哲夫(金沢大)ほか
•アクセント:松森晶子(日本女子大/国立国語研究所客員),上野善道(東京大/国立国語研究所客員)ほか
•方言の社会的機能:ダニエル・ロング(首都大学東京)ほか



とあります。わりかしユネスコとかぶりますね。
ただ、アイヌ語がない。

それで、よくわからないのが、国語研のサイトの、このページに、

研究の土台となるのは,宮岡伯人を代表とする科研費特定領域研究「環太平洋の「危機に瀕した言語」にかんする緊急調査研究」(1999年度〜2003年度)である。本プロジェクトの主要メンバーは,すでにこの特定領域研究に参加している。


とかいてあって、この科研費ではアイヌ語のこともとりあげてますね。というか、日本国内の言語にもかぎってないわけで。

これをみるにつけても、なぜわざわざ国語研は「消滅危機方言」っていういいまわしをつかわなければいけないんだろう。
ちょっとよくわからないな。



posted by なかのまき at 23:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2010年08月18日

格差拡大という幻想という妄想

大渕憲一・佐藤弘夫・三浦秀一(2009)「現代日本人の価値観と伝統的思想:仏教、儒教、神道・国学の思想内容と調査項目の作成」『東北大学文学研究科研究年報』58 pp.180-163


マスコミや政治家は格差拡大を自明のことのように論じるが、専門家の間ではそれが事実かどうかについては意見がわかれている。橘木(1998)は、1990年代に世帯の所得差が開いたことを指摘して、格差は実際に拡大してきたと主張した。たしかに、国民の間の所得格差を示すジニ係数は、我が国の場合1990年代に上昇し、現在、国際的にも高い水準にある。しかし、これに対して大竹(2005)は、こうしたジニ係数の上昇は、高齢者世代に単身世帯が増えたことによる「見かけ上」のもので、格差拡大は「幻想」であると反論した。(p.180)


おおっ。
格差拡大は「幻想」であったのか!
私も、素人の直感として格差はあるし、これからどんどん状況がひどくなりそうだな、と素朴に感じていたけど、それはもしかして私がマスコミにおどらされた結果の「幻想」であったのか!

……そうだったらいいですね。いや。幻想だったらどんなにいいでしょうね。
なんて心惹かれる論文でしょう。

それはともかく。こう続きます。

一方、一般市民を対象にした世論調査結果を見ると、多くの市民が、現代の日本では格差が拡大していると感じている。(大竹、2005)。専門家が指摘するように、格差拡大は必ずしも実態ではないのかもしれないし、生じているとしても部分的あるいは一面的なのかもしれないが、しかし、多くの国民は格差が拡大していると感じている理由、あるいは、部分的な現象に敏感に反応すると言うことの意味を考える必要がある。我々は、それは日本人の間に強い平等志向があるためではないかと解釈している(大渕、2008)


格差は拡大しているというのは政治家やマスコミの吹聴する「幻想」かもしれないし、一部分でしかないかもしれないにもかかわらず、みんなが敏感に反応するのは、それは日本人に強い平等志向があるためである。

という仮説のもとに書かれた論文です。
日本人が、ごく一部の格差拡大に過敏反応してるだけ。なんで過敏に反応しちゃうかってのは、日本人に平等志向があるから。

乱暴にまとめるとこういうことでいいんですかね。

で。専門学校出て正社員手取り12万ではたらかされて過労働で身体こわした私の友達とかは、「部分的あるいは一面的」な格差の結果うまれた特殊なケースなんですね。しょせん、格差なんか幻想なんですね。
こういう文章をかける大学のせんせえのセンスは腹が立つな。

まあ。それはそれとして。
論文一本かくのに、それなりに手間とひまと金がかかるわけで。
それに論文の質と量がそのまま業績なわけで。一本でも多く、意味のある論文を書かないとかなりしんどい人生になりますね。研究者は。
(いや、いい論文いっぱい書いててもしんどい研究者ってのもごろごろいますけど)

で。この紹介した論文は、

【もし】格差拡大が幻想【だったら】、日本人がありもしない格差拡大に過敏反応するのはそれは日本人が平等志向を持っているからである

という仮説のもとに行われた研究なわけで。そう書いてあると思うんですが。

「専門家が指摘するように、格差拡大は必ずしも実態ではないのかもしれないし、生じているとしても部分的あるいは一面的なのかもしれないが、しかし、多くの国民は格差が拡大していると感じている理由、あるいは、部分的な現象に敏感に反応すると言うことの意味を考える必要がある。」

って、そういうことだよね。
わたしだったら、こんなリスクのたかい研究はやらない。
だって
もし格差拡大が「幻想」じゃなくて「現実」だったとしたら、この論文クズになるでしょ。ゴミ論文になるわけですよ。
幻想だとしたら、検討する価値はあるかもしれませんけどね。
現実だったら、まず最初の条件が崩れるわけですから。
過敏反応じゃなく、現実をみすえた妥当な反応でした、ってことになるでしょう。

こんな研究、危なくて手を出せません。
多くの人が直感的に「格差は拡大している」っておもってるんだから、それをくつがえすような仮説をたてるんだったら、かなり論拠を説明する必要があるとおもうんだけど。
私だったらそうします。先行研究をがっつり読んで格差が幻想か現実かをちゃんと検討します。
検討したうえで、「幻想だな」ってかなり確かに見通しがたてられなかったら、この研究にはふみきりません。手間と暇と金をドブに捨てる可能性がこわいので。
(いや、「研究の結果、わからないということがわかった」というような研究に意味がないとはおもいません。ただ、この場合はそういうレベルではなく、前提が崩れると研究の結果がただのゴミになる)

で、論文にするときも、ちょろっと書名を紹介するだけではなく、「格差拡大は幻想である」と思った理由を1章くらいつかって書きます。だって、そうしないと、人にまともに読んでもらえないんじゃないかっておもうので。

だって大竹(2005)を紹介されても。


大竹(2005)は、こうしたジニ係数の上昇は、高齢者世代に単身世帯が増えたことによる「見かけ上」のもので、格差拡大は「幻想」であると反論した。


こんな乱暴な書き方されたら、
「大竹(2005)って、トンデモ本かなー」
って思うだけですよ。というか、私はトンデモ本かな、と思いました。実際どうなんだかしりませんが。
あ、大竹(2005)は

大竹文雄『日本の不平等』日本経済新聞社2005年

だそうです。
これを読まないとなんともいえませんが。私はよみません。
読まないまま、考えますが。

本当に幻想であってくれたら、どんなによいことでしょうね。

posted by なかのまき at 23:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2010年08月24日

「5分くらい」の遅刻ができる特権

「遅刻をするひとを せめるのは やめましょう。
5分や10分の遅刻でガタガタいうなんてやなひとだね」


私の知り合いに、私との待ち合わせにぜったい5〜10分くらい遅刻してくるひとがいて。
遅刻しないことのほうが数えられるくらいの人なんですが。
朝待ち合わせしても昼待ち合わせしても夜待ち合わせしてもまんべんなく遅刻するので、そういう人なんだろうな。と。思ってて。
あと、ぜったい20分は遅刻しないので、たぶん、
「20分以内の遅刻は問題ない」っていう信念がある人なんでしょう。
で、ある日私とその人と、大学院の先生の3人で待ち合わせして。

先生から「遅刻する」ってメールがきて、
その直後に「私も遅刻する。でも先生より遅刻しないようにしなきゃ」
みたいなメールが来て。
「はあっ? この人、遅刻することが悪いことだと思ってたの?」
って、びっくりして。
いままでの私との待ち合わせの傍若無人っぷりに、「遅刻に罪悪感を感じない人なんだろう」と勝手に思ってたのですが。
正確には、
「なかのとの待ち合わせには遅刻はあたりまえ。だけど先生との待ち合わせの遅刻は罪悪」
という価値観の持ち主だったらしい。

これが発覚して、こころのせまい私はかなり腹が立ったのだけど。
「先生と私はなにがちがうの?」
って。
で、
「友達だったら5分や10分の遅刻をうるさく言うほうがおかしい。先生とあなたを同列に考えろという要求がそもそもおかしい」
みたいなことをいわれた。
「友情」!
なんてうつくしい魔法の言葉。「努力」なみに都合のいいおうつくしい言葉ですね。そういやこの人、「努力」ってことばをつかって私を怒らせたことあったな。
「努力・友情・勝利」って、ジャンプの世界の住人ですか。


でね。
私は昔、夜中にコンビニに歩いて行けないようなどいなかに住んでたんです。
いや、歩こうと思えばあるけるんですけど。
夜中に「アイス食べたい」とかなっても、ほいほい買いに行こうとすると親に叱られるわけなんで。こどもが夜中にほっつき歩いていい距離ではないんですね。それなりにこどもが好きな変態さんもうろうろしてるので。
だから、私はそもそも「夜中にアイスが食べたくなる」という欲求がないわけですね。そういう発想がないので。
私の日常にコンビニはない。

あと、私、昔の住所に「郡」がついてたんですけど。
中学校のころに、
「私たち、住所が郡だから、高校にはいったら市民に「郡民(ぐんみん)」っていわれていじめられるんだよ」
みたいなくだらない学校伝説に怯えてました。
公立高校の学区に、わたしらのすむ郡と、となりの大きな市があって。一つの高校に郡民と市民が通うわけです。で、市民の高校生に「郡民」とさげすまれるという言い伝えが学校中に蔓延してました。
まあ高校にはいっても、実際にはいじめられたりはしませんでしたけど。
それだけ心の負担になってたんですね。私らにとって。「郡」が。

というわけで、私はたぶん、自分も認める他人も認める
はえぬきのいなかものです。

で「私はいなかものです」っていうと
「そんなことないよー」って。
私が謙遜してると解釈してるのか、否定されることもあるけど。
「田舎もの」が「都会もの」より劣位にあるという前提がないと謙遜という解釈はなりたたないので。自分がいなかものをバカにしてるという自覚をもってほしいです。
私がいなかものであることは事実なので、否定しないでください。失礼です。

それで、「郡」から都内(23区内山手線とかが走ってる駅)にいくのにものすごい労力と電車賃が必要なわけですね。
で、5分10分遅刻なんて器用なマネはできないんです。

私はまず、電車が通ってない地区に住んでるので、電車の最寄り駅にいくまでに、バスです。
で、バスは一時間に多いときで3本、平日の昼間なんか一時間に1本です。
そしてバスはたいがい遅れます。
雨の日とか、道が混んでかならず遅れます。
で、電車を乗り遅れると乗り継ぎやらなんやらで予定通りにいかないわけで。どんどん遅れるんです。
電車もけっこうひどいんですよ。始発から終点まで乗るのでね。特急にのれるか快速(というなまえのほぼ各停)にのるかでだいぶ時間が狂うわけで。

それで、都内の待ち合わせにね。遅れないようにするために私がどんだけ大変か。
私が遅刻するときには、バスいっぽん乗り遅れて40分遅刻とかね。
そのレベルなわけなんです。
ぜったい遅刻したくないわけですよ。あと、出発点のバスという公共機関が信用ならんから、時間のみつもりなんかできないのね。
とりあえず、いつでも「余裕をもって行動」しかないわけです。

歩いて最寄り駅までいけて、5分に一本とか電車がきてね。
「あ、電車乗り逃しちゃった。ごっめーん。5分おくれるー」
ってメール一本ですませられる都会もんとね。
待ち合わせ時間に間に合わせるという真剣さが違うのですね。

つまり。

都内で。
「ごっめーん、5分おくれたー」
ができる、それは 特権 なんですよ。
田舎モノはできない芸当なんでね。

あなたの気軽な「ごっめーん」はどれだけの都合にささえられているのか。都会にすみ、時間通りに電車がうごき、5分10分おきに電車がやってくる。なんでそれをあたりまえの前提として、疑わないのか。
あなたが特権的に行使可能な「ごっめーん」の機会が、あたえられていないいなかものが都内にどれだけごろごろしてるか。
考えないんだろうなあ。

「じゃあいなかものも40分の「ごっめーん」をすればいいじゃない」って、そういうこといわれそうだけど。
毎回毎回40分の遅刻なんか、そんなことはしたくないです。
ばかばかしい。下手すれば一日の予定が狂うわけでしょ。
莫大な電車賃つかって都内にでるわけですよ。有意義にすごしたいですよ。

「人にはいろいろなつごうがあります。
時間を守れない人を責めるのはやめよう」
っていうのは。
そりゃあ、そうなんですよ。
でもそれってでも、
都会モノの「ごっめーん」を解放することはできても、いなかものを救うことはできないんですよねえ。
だから、「5分や10分くらいいじゃない」っていわれても、初発のバスに乗り過ごすと40分予定がくるういなかもんにとっては、
「特権をもつものに都合がいい意見だな。いい気なもんだ」
と思ってしまうわけで。

これはどうすればいいのかな。
とりあえず、電車が走ってる以上、いなかものが都内に来ることは前提にしたほうがいいとおもう。
都内のまちあわせ。

posted by なかのまき at 19:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2010年09月05日

高校以前に留年したことあります

実は私、留年したことがあります。

保育所で。年長組のとき

なんか、引っ越しして、公立の保育所にはいったんですが、
そのとき、クラスの人数が多すぎて、誕生日の早い私ともう一人が、飛び級したんです。
ただ、ちょうど私は引っ越しで保育所がかわるという時期とかさなったので、飛び級した意識はないわけです。
で、年長組(ねんちょうぐみ)というのにはいって、一年過ごし、
そして留年。もう一年、年長組をやったんです。
年中組からあがってきた子たちから、
「なんであんた、小学校いかなかったの? 他の子みんな、小学校にいったのに」
ってきかれるわけですね。
で、あまりよく把握してなかった私は、自分がちびでバカだから小学校から「あんたはまだだめです」っていわれたものだとおもってしまったわけですね。
ちょっと大きくなってから本当の事情を知ったんですが。
というわけで、実態はともかく、気分的には本格的に、留年してます。
ただ、そんな悲壮感はなかったですねー。
おかげで一緒に留年(笑)した子とはすごく仲良しになれたし。
繰り上がってきた本来の同級生とも、最初のうちは「なんでいるの?」ってきかれたりはしたものの、すぐになじみましたので。

で、ようやく小学校にはいって。
二年生のときに。担任の先生がある日、私があまりにも漢字ができなくて。
「こんなに漢字がかけないなら3年生にしてあげないよ!」
って、みんなの前で言ったんです。
で、私はわりと、大人の言葉の裏がよめなくて、言われたことを額面通りにうけとるこどもで、
「ああ、そうか。私また、留年するんだ」
って。
保育所でじっさい留年してるんで。そういうこともあるだろうと。納得しちゃったんですね。
で、家に帰って母に
「私、もういっかい、2年生やるみたい」
って報告したんです。
「漢字が書けないから3年生にしてあげない、って先生に言われた」
って。
そしたら母が「ぷっ」ってわらって。
「そーゆーこと言えばこどもがこわがってまじめに勉強するとおもってる人なんだろうねえ」
って。おしえてもらいました。
で、ぶじに3年生に進級できました。

ということもあるので。先生。
かるがるしく「進級させてあげない」とかいわないようにね。
保育所で留年してる子だっているんだから。

あ、おもいだした。
6年生のとき、その「3年生にしてあげない」先生がまた担任になって、また日常的に漢字で怒られたんです。
そのころはようやく自我もめざめていて、あまりにもばかにされるのに腹が立って、
「ぎゃふんといわせてやる」
と、まじめに漢字のテスト勉強をして。
90点くらいとって。(それでも100点とれない)
そしたら先生がテストをかえしながら
「ほら、だからいったじゃない。なかのさんはやればできるって先生いってたでしょ」
って得意満面にいわれて。
がっかりー。ぎゃふんといわせたかったのに。
あのとき、悔しそうな顔で「いままでバカにしてごめん」くらいいってくれたらいい気になって、漢字がすきになったかもしれなかったのに。
「生徒のふできは自己責任だからいくらでもバカにしてよい。生徒ができたら自分の手柄」
って、それ、どうころんだって先生が有利なようになってるわけで。
そうしたら、勉強やる気なくなっちゃいます。
またひどい点数をとるようになりました。

遊ぶ時間を我慢して勉強していい点とって嫌いな先生を得意にさせるくらいなら、いっぱい遊んでテストで悪い点とって叱られる方がまし。

そんなこと考えるまでに、先生への不信感がつのっていた小学6年生って。
うーん。小学校後半はべつにふつうに学校にいってたんですけどねえ。
posted by なかのまき at 21:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2010年09月07日

バカセはここにもきているよ!

最近、休みの日は護国寺にある筑波大学附属視覚特別支援学校の資料室にいってます。

ここにはふるい点字の資料があって、それを写真撮影させてもらうのと、あと視覚特別支援学校の卒業生の方に点字から墨字への翻字をおねがいしてます。

これに科研費が当たったんで。よかったー。ほんとうにありがたいです。
撮影風景はこんなかんじで。

デジカメと複写台

デジカメはすごい色のがとどいてしまってびっくりしてます。
(ものめずらしさでこの色にしたのだけど後悔してます)
複写台はものすごい使える。そもそもカメラはシャッターが右側にしかついてないので。カメラを固定できる複写台ほんとに助かってます。


で、今日から翻字作業をおねがいしたのですが。
私は調査の都合上、翻字のみでおねがいしてます。
だけど、はじめるとき
「わかちがきをくっつけて漢字かなまじり文にしますか?」
ってきかれて。
「いえっ。もう、いっさい加工しないでそのまんまでおねがいします」
っていったら、一緒にいたせんせえが、
「あらー、それじゃあ楽ねえ。(漢字仮名交じり文に加工しなくていいなんて)申し訳ないみたい」
って冗談交じりでいって。
ちょっとそれがショックでした。
本来なら、申し訳ないっていわなきゃなんないのは、「漢字かなまじり文にしろ」なんて要求する側なんですから。

この筑波の視覚特別支援学校の資料室は特別に資料室員さんがいるわけではなく、教科をもったせんせえがそのかたわらで管理しているわけで。
きほん、研究者が調査しにいくのなんか、せんせえの仕事のじゃまをしにいくのとほとんど一緒ですね。
それなのに、すごくよくしていただいて本当に助かります。

で、よくまあ、研究者がこの資料室に行ってるらしいです。
わりとコンスタントに調査の人がくるみたいです。
なにしろ、明治・大正期ごろのまとまった点字資料がそろってるので。
私以外にも科研費の調査があったようだし、それ以外にもいつでも古い資料の点字から墨字への翻字作業がおこなわれているようです。

で、今日、資料室のせんせえに
「みんなここの資料の写真とっていっちゃうんだよね」
っていわれました。
こうやってさんざん資料をあさり散らかして、自分の業績にして。
それで終わり。なんですよね。

なんか、だから、今日はちょっとショックだったんですよ。

さんざんっぱら資料を使いたおして、翻字作業を安いアルバイト代でおねがいして、それで成果物を吸い上げて自分の研究業績にしておいて。

「漢字かなまじり文に加工しなくていいなんて申し訳ないみたい」
なんて。
そんなこといわせておくなんて。
調査に協力してくれたひとたちに、なにも返せないなんて。

「漢字かなまじりじゃないとダメ」で、翻字作業は点字つかってる人におしつけて。それがどんなにしちめんどうくさくて、ものすごい高度な技術なのかにきづかないで。
あたりまえのように「漢字かなまじりにして」って。要求して。
「漢字かなまじり文にしなくていいなんて、もうしわけない」って、そんなことまでいわせておくなんて。


だからね。
この資料室にも、おびただしい数のバカセがやってきて、
資料をあさりちらかして、かえっていきます。

もちろん、自分(なかのまき)もふくめて。


参照

調査されるという迷惑―フィールドに出る前に読んでおく本調査されるという迷惑―フィールドに出る前に読んでおく本
宮本 常一 安渓 遊地

みずのわ出版 2008-03
売り上げランキング : 35079

Amazonで詳しく見る
by G-Tools


調査されるという迷惑

序章 宮本常一先生にいただいた言葉 第一章 調査地被害―される側のさまざまな迷惑 第二章 される側の声―聞き書き・調査地被害 第三章 「バカセなら毎年何十人もくるぞ」 第四章 フィールドでの「濃いかかわり」とその落とし穴 第五章 種子島にて・屋久島からの手紙 第六章 まぼろしの物々交換を知夫里島に求めて 第七章 「研究成果の還元」はどこまで可能か
posted by なかのまき at 21:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2010年09月09日

私たちは丈夫に梱包された貨物じゃない

清水真木(2009)「いわゆる「優先席」について」(明治大学教養論集44 pp.1-38)

「優先席」の三文字が指し示している空間は、かつて「シルバーシート」の名を与えられていた座席に代わるものとして、平成九年に姿を現したものである。シルバーシートは、昭和四八(1973)年に、当時の国鉄が普通車の自由席に設定した座席であり、この座席は、「お年寄り」と「身体の不自由なお客さま」が優先的に坐ることが望ましい座席として、他の座席から区別されていた。(略)
 現在の優先席に割り当てられている座席は、昭和四八年から平成九年までシルバーシートのために確保されていたのとほぼ同じ場所に割り当てられており、優先席がシルバーシートを引き継ぐものとして考案されたものであることがわかる。しかし、シルバーシートと優先席のあいだには、無視することのできない差異が横たわっている。


あ、最初にネタバレしておきますと、
この論文、かなり、くらいのたかいトンデモ論文です。

JR東日本が優先席に坐ることを想定している客層とは、「身体の不自由な方」「お年寄りの方」「妊娠している方」「乳幼児をお連れの方」の四種類である。
 これら四種類のうち、「妊娠している方」と「乳幼児をお連れの方」は、シルバーシートが設定されたとき、国鉄が配慮すべき乗客の中に数え入れていなかった乗客であり、しかも、優先席が設定されたとき、優先的に坐ることができるよう配慮することが望ましいと新たに考えられるようになった乗客である。


はい。そうですか。

 当然、「妊娠している方」とは、必ず女性であり、「乳幼児をお連れの方」もまた、大抵の場合、女性である。おそらくそのためなのであろう、JR東日本がこれらの乗客に配慮するようになったという点に関し、明確な異議申し立てが行われたことは一度もないようである。現代の凡庸な常識を前提とするかぎり、女性を重視するような方向への変化はすべて、何らかの意味において「進歩」と見倣されねばならず、JR東日本がシルバーシートを優先席に変更したという事実もまた、進歩として理解されねばならないからである。


強調は引用者です。
えーと。ネタにマジレスするのはカッコ悪いかもしれませんが。
女性の重視じゃなくて。「こどもを守る」じゃないの?
乳幼児連れてる男性だってふつうにいるんだし。
まあ。ともあれ。「現代の凡庸な常識」バンザイ。


誰もが実際に認めているのは、「女性に対し特別に配慮することが進歩である」ということではない。むしろ、「女性に対し特別に配慮することが進歩であるという主張を否定しないのが『政治的に正しい』(politically correct)態度である」ことが万人の同意できる唯一の点である。言い換えるなら、誰もが認めることのできることがあるとするとするなら、それは、次のような点だけであることになる。「シルバーシートが優先席へと更められるにあたり、妊娠した女性と乳幼児を連れた女性が優先的に坐ることができるよう配慮されるようになったという事実を進歩と認めない者は、『恥ずかしい』『野蛮だ』『時代錯誤だ』などの情緒的、道徳的な非難の言葉を向けられることを覚悟しなければならない」こと、「優先席の誕生が進歩であることを公然と疑ったり否定するには勇気が必要となる」こと、「この点に関し露骨な異議申し立ては避ける方が無難である」こと、万人にとって同意することが可能であり必要であるのは、これらの点だけであろう。


ところでこの清水真木(しみずまき)という人は明治大の商学部の准教授で、哲学が専攻だそうです。
日常的なことがらから深淵な思考のテーマをひきだす。
さすが哲学。
「なぜ優先席に妊娠してる人と乳幼児をつれてる人はすわってよいのか」
なんて哲学。


妊娠した女性や乳幼児を連れた女性に対し席を譲るべきであるという要求には、確実な根拠が欠けている。これは、さしあたり、受け入れることが「政治的に正しい」態度であるような要求、それ自体として妥当であることの根拠が問われることはないような種類の要求にすぎないのである。


はあ。
まあ。たぶん。確実な根拠は。
「大人がのることを前提につくられた電車にのるには、こどもはあまりにも弱いから、大人がみんなでこどもを守るためにすわってもらう」
だとおもうが。

で、このあと昔は妊娠した人と乳幼児を連れてる人に席をゆずるのはマナーでもなんでもなかったということが説かれます。

そして次。

障害者に目がいきます。
シルバーシートの話にもどって、


現在でも、「シルバー」という修飾語は、高齢者に関するものを表示するために使われている。障害者に関連するものに「シルバー」の語が用いられることはない。障害者が「シルバー」という言葉を含むもの、たとえば施設やサービスを利用するためには、彼女は、障害者であるばかりではなく、高齢者の資格もまた満たしていなければならない。「シルバー」という修飾語を含む表現が使われるとき、私たちは、高齢者だけを想定しているのである。


はい。
優先席にすわることが想定されてるなかで、著者は、

「妊娠してるひと」「乳幼児を連れてるひと」に席を譲るには明確な根拠がない。
「障害者」にたいしては、優先席の前身のシルバーシートにことよせて、「シルバー」と名前がついてるものは高齢者だけを想定してる、(障害者は想定されてない)と述べてます。

そして結論は以下のようになっております。


私が席を他の乗客に譲ることができるためには、相手の乗客が、尊敬の感情を惹き起こすための一般的な条件をみたしているように見えることが必要となる。そして、尊敬の感情を惹き起こすような性質を具えていると伝統的に考えられてきたのは、「高齢者」と現在呼ばれているような人々であった。



最後、このような言葉でこの論文はむすばれております。


しかしながら、最近の日本では、電車やバスの車内において席を譲る相手に関し、これまで述べてきたような理解とは相容れない考え方が見出される。そして、それは現代の日本人に特徴的なある弱さを反映しているように思われる。


妊娠してる人や乳幼児をつれている人に席をゆずるのが「弱さ」であるなら。弱さというものも、すてたものじゃないね。
そういう弱さを、わたしはもっていたいです。

というか。
もう、だらだら引用したけどこのさいこの論文はどうでもいいので。


電車にのるのがつらい、っていうひと、たくさんいます。
満員電車とかは、わたしもつらいです。
体調がわるいときは、なおさらです。

電車のしごとは「はこぶ」です。
私たちは、宅急便がこわれないようにきっちり梱包するけれど、自分が電車ではこばれるには、やっぱり、かんぜんに強くなれないで、弱い部分もあったりするわけで。
席を譲る、っていうのは、電車のもつ、「スムーズに運行されるには、運ばれる人間にある程度の強度を要求する」というふべんな欠点を、
完全にではないけれど、それなりに、おぎなうための行為なんだとおもう。

席を譲る、なんて博愛の精神ではなく、
「明日も無事に電車がはしるために。
あわよくば空いてる席に自分が座れるように」
という、利己的な行為で私はそれをやっていて。
だって、立ってるのが辛そうな人に席を譲らない人間ばかりになってしまったらそのうち法律できまりますよ。
「○歳以下の健康なものは電車の椅子に座ってはならない」
みたいなね。そういうのが。

人間の弱さを考慮に入れない鉄のカタマリが、明日も運行するために、電車のシステムを維持し続けるために、譲ってるんです。

でも、疑問もあって。

こんなバカな距離を毎日移動しないと生活が維持できないなんておかしいんじゃないかとか、こんな大勢でいっぺんに移動しなくてもいいじゃないかとか、
もうすこし、弱いときにでも快適に乗れるようにしてくれないものだろうか、とか。

いろいろおもいながら、それでも電車に依存していきてます。

posted by なかのまき at 21:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2010年09月22日

健康のためなら死んでもいい


えーと。

前回の記事。

うけいれる素地はあったのではないか

が自分でもきもちわるいので補足。

まるで私が学校教育になんか期待してるみたいなかきかたしてますね。
「水からの伝言」だけじゃなくて国語教育にまつわるあやしい言説をぜんぶ再検討しようよ!
そして健全な国語科を再建しようよ!

みたいに読める記事にしあがってますが。
きもちわるい。
いや、私は国語科になんか期待してないよな。きほん。
むしろ、そういうあやしい言説なしにはなりたたない場所でしょ。あそこって。

ということをもうちょっと強調したほうがよかったかな。

けっきょくなにかというと、
筆跡診断が書写に入り込んでもなにも不思議はないね。
でも、だから「書写に筆跡診断ははいってくるな!」
も、いちおういったほうがいいけど。むしろ。
「書写なくそうよ。筆跡診断はいってくるし」
なので。

あと、「国語科なくそうよ。日本語特殊論と漢字不可欠論とどうしたって縁が切れない教科だし」
だよね。
(注釈つけますが、言語学的には日本語は漢字仮名交じり文で書かないとダメ、とか、漢字仮名交じり文がいちばんいい、とかそういうのはないにもかかわらず、「日本語は音韻が少ないから」とか「漢字があると速く読めるから」とかちょっと「科学的」っぽい言葉でかざりたてて、日本語を「特別な言語」とみなして「漢字仮名交じり文じゃなきゃね!」っていう。そういうの。
世界にどれだけの言語があるか知ってる?日本語程度には音韻が少ない言語ははいてすてるほどあるってのは知ってる?とか、日本語教育の教科書にローマ字表記のものがどんだけあるか知ってる?とか、点字ってどうやって書いてるかしってる?とかかんがえると、「日本語は漢字仮名交じり文で」なんてあきらかにおかしい。
おかしいし、「健常者で日本語を第1言語としている、右手利き」がつかう日本語だけを「日本語」として想定してるから、問題なんですよ)

というかね、もう、学校なんかいらないだろ。

などとおもうのだけど。

そうすると、
「いや、じゃあ大学に寄生していきてる自分はどうなんだ」
ってはなしで。
そう。私は国語科の寄生虫です。
あ、こうかくと国語教育の人にまちがわれそう。
私は日本語学の人です。
で、日本語学で食ってる人は、国語科に寄生して生きてる人っていうことです。
そんな自分が「学校をなくせ」とかいったら矛盾してないか。
と、思われるかもしれないけど。

むしろ、国語科に寄生してる今だからこそ、いっちゃったほうがいいんじゃないか。

「私は国語科のダニだから、宿主の健康には気をつけて当然だ。(宿主の)健康のためには(宿主が)死んでもいい」

いや、わりと本気で。
posted by なかのまき at 20:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2010年10月13日

アリバイづくりに熱心ですね

大津由紀雄研究室編著『国際会議の開きかた』(2010・ひつじ書房)

大津由紀雄(おおつ・ゆきお)氏は言語学の人ですね。
で、ひつじ書房ってのは、言語学関係の本をいっぱい出してる出版社です。

で、国際会議の開きかた。


紹介するのは、
第1部 実践編
1.2 会議の公用語(pp.4-7)

ってところ。
引用します。


わたくしたちの研究室が主宰している東京言語心理学会(Tokyo Conference on Psycholinguistics,略称TCP)という国際会議の公用語は英語です。会議に関する情報はすべて英語で提供されます。たとえば、会議のウェブサイトはすべて英語で書かれています。発表希望者は英語で論文の概要を書いて応募しなくてはなりません。言うまでもなく、会議本体も英語で運営されます。そして、発表論文集も英語で書かれた論文を掲載します。


さようでございますか。
楽しそうで結構なことでございますね。


国際会議なのだから当然のことだとお思いの読者も多いでしょう。しかし、すべてが英語で執り行われるというのは国際会議であれば「当然」のことなのでしょうか? わたくしたちはそうは考えません。


ひつじ書房から出るような本を買う人が、「国際会議なら英語で当然」ってお思いの読者なら、そりゃ、たいへんなことですね。
あまりにも言語権への意識が低すぎる。え? ひつじ書房の本を買うような人(言語や言語学に興味ある人)が?
えっ……そうなの?


(略)
でも、英語という選択肢は大きな問題があります。それは、英語を母語とする人たちとそうでない人たちと間に不公平が生じるからです。その意味では、その言語を母語とする人がいない言語を会議の公用語とするのが理想です。エスペラントのような人工言語ならぴったりです。しかし、エスペラントの普及率を考えると、これまた現実的ではありません。加えて、エスペラントは印欧諸語を主な基盤として作られているので公平ではないという議論もできるかもしれません。


英語を母語とする人たちとそうでない人たちとの間に不公平が生じることのほかに、英語を第1言語とするひとたちが、地球規模でみたら、ありえないくらい金持ちばっかりだってこともいった方がいいんじゃないかな。
英語を第1言語としない人が英語に手間とヒマと金をつかえばつかうほど、ありえない規模の金持ちのところにどんどん金と人があつまるしくみなわけで、むしろそっちが大問題なんじゃ。

あと、エスペラント云々のところ、あきらかに蛇足でしょ。
「エスペラントは印欧諸語を主な基盤として作られているので公平ではないという議論もできるかもしれません。」て、金持ち連中の第1言語である英語を国際会議の公用語にすることかんがえたら、「印欧諸語を主な基盤として作られている」ということに由来する不公平感なんか、はるかにかすむと思いますが。
あと、エスペラントの普及率についてはちゃんと調べてもの言ってますか?
通訳・翻訳とか、そういう点でかんがえれば、わりと実用にたえうると私はおもいますが。

というか、なんか、エスペラントって、なんであんなに曲解されてるんだろう……という個人的感想。


(略)
つまり、英語を会議の公用語とすることは決して望んですることではないのです。同時通訳で有名な國弘正雄のことばを借りれば、英語を会議の公用語とするのは「必要悪」なのです。会議の参加者にその点を周知させることが必要です。


えーと、なんかよくわかんないけど。
この本の「公用語」って、どういうこと?

英語が公用語。はい。それはわかりました。
で、会議に参加する人は何語でしゃべるの?
英語? 音声をつかって英語でしゃべらないと発言権ないの?
通訳とか翻訳とか、いっさい無いの?

私が一番いいと考えるのは、
会議の開かれてる土地の言語を公用語にして、
通訳・翻訳にたっぷり手間とヒマと金をかけるのがいいんじゃないのかなあ。
通訳・翻訳は、その会議の行われる土地で現地調達するのが効率いいとおもうし。
日本だったら、「英語とナントカ語」の通訳より、「日本語とナントカ語」の通訳のほうがさがしやすいでしょう。(いや、そうでもないのか? このへんは土地によって事情があるかもですが)

「英語を自己責任で勉強して下さい。英語を話せないひとは会議にでられません」
より、ずっといいとおもうんですが。

あと、えーっと。音声言語しか考えてないの?
「英語が公用語です。英語をしゃべってください」
って、全員に言うの? 手話をつかう人にも?
おかしいでしょ。

いや、そうじゃなくて、通訳・翻訳ありきの「英語公用語」っていうことなのかもしれませんけど。
でも、それなら。べつに英語である必要ないよねえ。むしろ、積極的に英語を避ける理由はあるよねえ。金持ちをこれ以上太らせるな、っていう。
それこそ、エスペラント語でもいい。
私はまったく調べて無くて勉強不足なのですが、エスペラント語のネットワークをなめちゃいけないんじゃないか、とうっすら思ってます。

みんなに自己責任で英語を勉強させるより、会議の主宰側が通訳・翻訳の体勢をきっちりととのえる。

で、ですね。金の問題がのこりますね。
「じゃあ、その通訳・翻訳にかかる金はどうする?」

それについては、私に考えがあります。
懇親会です。
学会のあとって、なんかよくわかんない飲み会があるんですが。
その会費を、7000円くらいとる。
会場は、大学を借りれば。大学のせんせえがいれば、タダで借りられる大学もおおい。
で、近くのスーパーにいって、缶コーヒーを人数分買ってくる。
缶コーヒーじゃなくてもいいんです。麦茶でも。缶チューハイでも。
あと、玉子ボーロを1人に1粒、もしくは芋けんぴを1人1本、甘いものが苦手ならピーナツ1粒でもいい。渡して、
「ご歓談下さい」
っていう。

で、差額を通訳・翻訳にかかるお金にまわす。
これでいいでしょう。

酒が飲みたかったら二次会に自腹でいけばいい。


posted by なかのまき at 19:59| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

2010年11月12日

「滋養をつけなさい。飽食の時代だけど。」

こんにゃく<だいこん<ごはん<バター

だいたい、同じ重さなら、うえのように食物のカロリーが高くなるとおもわれます。
で、そのことをさして「バターは栄養がある」っていったらどうでしょうね。
「カロリーが高い=栄養がある=いいこと」
みたいな。
「バターさいこう!」みたいな考え方があったとして。
それは『火垂るの墓』で清太が「滋養がどこにあるんですか!」っていう、そういう時代の価値観ですね。「栄養=カロリー」って。
あと、かりにそういう時代だったとしても、バターに食物アレルギーがある人には、「バターさいこう!もー、バターたべない人間はダメだ!」っておしつけは、めいわくだとおもわれます。


大津由紀雄編『ことばの宇宙への旅立ち2 10代からの言語学』ひつじ書房・2009

から

酒井邦嘉(さかい・くによし)「脳に描く言葉の地図」pp.59-96

リアルな対話を大切に

 最近特に、周りの人との「リアルな対話」をもっと大切にする必要を感じています。ある友達に、同じ内容をメールに書いて送る、手紙で送る、電話で話す、そして実際に会って話す、という四つの場合を比べてみましょう。同じ内容を伝えているわけですから、情報量は同じでしょうか?そんなことはありませんね。メールは活字、手紙は手書きの文字、電話は音声、そして実際に会った場合は映像ですから、それぞれディジタル化して記録に残せば明らかなように、この順番で情報量が増えています。たとえば伝えたい内容が「明日十時に会いたい」ということならば、大差ないように思えるかもしれません。しかし、忙しくてなかなか会ってくれそうにない人、疎遠にしている人、意中の人、というように相手が変われば、すべてメールで済ますというわけにはいきません。(略)
 それから複雑な内容や深刻なことがらを伝える場合は、メールよりも手紙や電話の方がはるかにすぐれた通信手段になり得る、ということを忘れないようにしたいものです。実は、そこに言語の隠れた本質があって、発話の抑揚(prosody)の中にも豊富な言語情報が含まれているのです。丁寧に手書きで綴られた文章は、メール以上に書き手の誠意や真心も伝えられることも確かですね。(pp.83-84)


強調は引用者です。
うん。確かじゃありませんね。
プロソディと手書きを並列にかきならべて「確かですね」っていってはいけないでしょう。
プロソディに関してはちゃんと言語学の研究の蓄積があるわけですが。手書きになにか、プロソディと同列にとりたてられるようなはたらきがあるっていってる研究はありますか。
次元の違うものを一緒にならべちゃだめでしょう。
「10代からの言語学」っていうタイトルのついた本で。
あと、音声言語と文字言語を無条件でくらべる姿勢がものすごく疑問です。

ええと。長く引用したのは、なんかこのぶぶんが全体的によくわかんなかったので。

まず、


「メールは活字、手紙は手書きの文字、電話は音声、そして実際に会った場合は映像ですから、それぞれディジタル化して記録に残せば明らかなように、この順番で情報量が増えています。」


ここの文章の意味がよくわからない。
「ディジタル化して記録に残せば明らか」って、どういう作業のことだろう。
えーと。

テキストファイル<画像ファイル<音楽ファイル<動画ファイル

と、データが重くなる傾向があるっていうことをいってるのか……な?
情報量=データの重さってことでいいのかな。
まあ、わかんないのでこの解釈でいきましょう。
あと、情報量が多ければ多いほどたくさんのことを伝えられる。みたいな言い方をしてるようにみえるんですが、
この情報があふれかえった時代にいったいなんの話をしてるんだ。

「それから複雑な内容や深刻なことがらを伝える場合は、メールよりも手紙や電話の方がはるかにすぐれた通信手段になり得る、ということを忘れないようにしたいものです。」
そりゃ、なる場合もあるし、ならないばあいもありますね。
時によりけり、場合によりけり、人によりけり。
あたりまえだけど。

「丁寧に手書きで綴られた文章は、メール以上に書き手の誠意や真心も伝えられることも確かですね。」

何度もかくけど、
左手書字者は「パンがないならお菓子を食べればいいじゃない」みたいな調子で、「左手で字が書きにくいならパソコンで書けばいいじゃない」っていわれてるんですよ。
つまり、左手で字を書くくらいならパソコンで書け、っていわれてる人たちがいるわけですよ。
「丁寧に手書きで綴られた文章は、メール以上に書き手の誠意や真心も伝えられる」じゃあ、ペンをもてない人や左手書字者はどうすればいいの? 手書きで字がかけないなら誠意や真心をつたえることをあきらめろと? 
別にあきらめる必要ないでしょ。メールで誠意や真心のこもった文はじゅうぶんにかけます。あたりまえだけど。

パソコンで書いたメールが、手書きの手紙より誠意や真心の面で劣ってるなんていうわけのわからないことをいったうえに、その根拠が「メールは手書きに比べて情報量が少ない」という、さらにわけのわからないもの。情報量の大小と「誠意真心」になんの関係が?
それで、右手で字がかけなかったり、かきにくかったり、かきたくない人をそんなわけのわからない理由でおとしめてはいけません。
手書きの手紙とパソコンケータイメールを無意味にくらべて、パソコンケータイのメールを劣っていると差別してはいけません。

このように、手書きの字とくらべて、パソコンケータイ打ち出しの字をわけもなく差別するような人がいるからこそ、私は「左手で字が書きにくいならパソコンで書けばいいじゃない」っていいすてるひとに、「ちょっとまって、それでいいの? だめだよ」っていいたくなるんです。


posted by なかのまき at 20:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2010年11月22日

はじめに私小説があった

今日はヨタばなしをします。

某所で、音楽と人格の結びつきみたいなはなしになったのですが。

あらすじを説明すると、
私は大学のとき、音楽系のサークルに半年だけ所属してたことがあるんですが。
ある日のミーティングで、
「トレーナーの先生に挨拶しないやつがいるが、音楽にたずさわるものが挨拶をできないとはけしからん」
みたいなことを4年生がいいはじめて、
「あ、ここいやだな。こんなこという人間を野放しにしておく組織にはいたくない」
っておもってやめたんです。

それで、書道だけじゃなく、音楽も人格にむすびつけられるときもある。ってことになって。
でもぎゃくに「芸術家は変人がおおい」みたいなのもあるよね。
って話になったのですが、それをふまえて。

そう、たまたま最近「来年から作文もやって」っていわれて、
参考文献になるかとおもって、
大塚英志(おおつか・えいじ)の『キャラクター小説の作り方』という本をよんだのですが。

私が読んだのは角川文庫版です。

そこの、「はじめに」で


人は何故、小説家になりたいのでしょうか。実はぼくにとって一番の疑問はそれです。(略)「小説家になる」ということは、どこかで「自分が自分であること」と不可分に結びついているような気がして、それがぼくには不思議です。(略)小説家というのは生まれつき小説家であるか、ある日、突然、天から小説家の人格が降りてきてとり憑くかでもしない限り人は小説家たり得ないことになります。けれどもこういう言い方を作家たちが好んでするのは「小説家」であることが本人たちの「私であること」と不可分に結びついているからのように思えます。だから小説家たちは小説を書くこと以上に自分のキャラクター作りに熱心です。「無頼派」とか「アウトロー」なんていうキャラクターの作家は昔から山ほどいますが、本人が言うほど破綻した生活を送っているわけでもありません。小説家になる運命云々も神宮球場の出来事(引用注:村上春樹のエピソード)も小説家であることが小説家自身にとっても「私」であることとやっかいにも結びついているからです。(pp.8-9)


とかいてあります。
「私」と小説そのもの、そして小説家であることが不可分な世界があると、大塚氏は指摘しています。
そして「私」の演出のために「無頼派」とか「アウトロー」をよそおう。

つまり、「その人の人格が作品に出る」というものの言い方は、初心者をまじめに練習させるときにもつかわれる。その場合は「まじめさ」「どりょく」「ねっしんさ」を演出せよと要求される。
そしてぎゃくに、すでに成功してしまった人間の、他を超越した才能をきわだたせるためにもつかわれる。そのばあいは、「無頼派」「アウトロー」がつかわれる。
どちらもおんなじなわけです。
作品と人格を結びつけるという点では。

作品や職業と「私」を不可分なものとしているその理由として、大塚氏はこう指摘します。


小説家になることが「私捜し」と密接に結びついてしまったのは、この国の「文学」が大なり小なり「私小説」という伝統の上に成り立っているからです。そして、小説家志望者たちが小説家にうまくなれないのは、「私探し」と「小説を書く」という行為をうまく区別できないからのように思えます。(p.9)


『キャラクター小説の作り方』という本は、徹底して文章をかくテクニックについて述べています。
小説家となるための心得、などという精神論にはしることをきつくいましめています。

そして、「私」と「小説をかくためのテクニック」を不可分なものにしているのは、私小説という伝統のせいだ、と言っています。
しかし、はたして「私さがし」と「テクニック」をわけられないのは、小説だけなのでしょうか。書道も音楽もスポーツにもテクニックと不可分の「私」がいる。
日本の私小説という伝統の上に、書道や音楽や部活動がなりたっている、というように言えるのではないでしょうか。

もちろん、大塚氏はそんなことは言ってません。

しかし、小説が「私探し」と不可分であるのが私小説という伝統に由来するのであれば、書道と「私探し」が不可分であるのも私小説の伝統に由来するといえるのではないでしょうか。

すべての元凶は、私小説である。


……ヨタばなしもいいとこだな。
ちょっと魅力的だけど。


(あ、大塚氏がヨタをとばしているといっているわけではなく、書道と私小説をむすびつける、私の言い方がヨタなんですよ)
posted by なかのまき at 00:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

照手姫とかぐや姫

はい。今日も国語教育です。

さいきん、きょくたんに変な国語教育の論文をたてつづけに紹介してしまったので、
ものすごーく、よくある、ふつーの、国語教育の論文を紹介しますね。

これは、よくよく選んだのではなく、そのへんにあった教育学部のある大学の雑誌を、適当に手にとったものです。
さて。

加藤寿志(よみふめい)(2010)「(随想)伝統的な言語文化をどう教えるか」『岐阜国語教育研究』8 pp.115-119

さっそく引用します。


二 国際的な「愛国心」を
「国を愛する」ということは、決して日本が世界の中でいちばんよい国だと思うことでなく、日本が世界の中でよい国だと思うこと。国粋的ではなく、いわゆる国際的な愛国心を育てることこそ、先の大戦による過ちを深く反省し、その教訓を生かすことであろう。


あああ……


(略)現在伝わっている物語の中で、最も古い「竹取物語」が、月という別世界に憧れ、広大な宇宙とのつながりを感じさせるものであると気づくことや、現存する最古の歌集「万葉集」には、天皇や貴族だけではなく、名もない兵士や農民など幅広い階層から集められていることを知ることだけでも、自然の中で暮らし、大らかで寛容な心をもっていた祖先のすばらしさに気づき、日本人がそれらを伝え続けてきたことに誇りを感じるのではないだろうか。しかも、月に向かって吠え、狼男になってしまうような凶暴な話ではなく、月のように美しく手の届かない存在である「かぐや姫」が登場する話に、日本の風土を感じる。


おもしろすぎてながながと引用してしまいました。
あー。適当に選んだんですが、この論文もちょっと……ふつうじゃなかった。

「先の大戦による過ちを深く反省」なんてかくなら、『万葉集』の政治性を自覚してなんかいったほうがいいとおもいますが。


品田悦一しなだ・よしかず(2001)『万葉集の発明―国民国家と文化装置としての古典』(新曜社)

これをよむべきでしょう。

「現存する最古の歌集「万葉集」には、天皇や貴族だけではなく、名もない兵士や農民など幅広い階層から集められていることを知ることだけでも、自然の中で暮らし、大らかで寛容な心をもっていた祖先のすばらしさに気づき」

こーゆーありがちなヨタ話について、こまかく検証されてます。


国民的な愛着を集めている『万葉集』は、まさに日本の「国民歌集」の名にふさわしい。しばしば”日本人の心のふるさと”とか”日本文化の偉大な遺産”などと形容されるのもそのためだが、しかし多少反省してみればわかるように、実は古代の貴族たちが編んだ歌集であって、奈良時代末期に成立して以来、一千年以上というもの、列島の住民の大部分とはまったく縁のない書物だったのである。平安時代の歌人・歌学者や、中世の学僧・連歌師、近世の国学者・民間歌人の活動にもかかわらず、一般には書名すら知られていないという状態が、まず明治の中頃までは続いていたと見なくてはならない。(p.13)


ということで。

さて。論文にもどります。
これも実践研究なんですが、竹取物語の「くらもちの皇子」の気持ちを理解しよう!
というとりくみです。

第一学年で学習する「竹取物語」には、「かぐや姫」に求婚する「くらもちの皇子」が、偽の「蓬莱の玉の枝」を持参し、架空の冒険譚を語る部分がある。そこで、三年もかけてそこまでする「くらもちの皇子」の「かぐや姫」との結婚に対する思いを考えることを通して、どうしても姫と結婚したいだけでなく、人を騙してさらに名誉を得ようという思いがあったことに気づかせ、昔の人も、現代の恋愛ドラマにもあるように、同じようにものごとを考え、暮らしていたことに気づかせる授業を行った。(p.117)


くらもちの皇子っていうひとは、かぐや姫の5人の求婚者のうちの一人で、「蓬莱の玉の枝」を取ってこいとかぐや姫に命令されて、取りに行かないでおうちで金銀玉をつかって職人につくらせた人。
で、「とってきました!」っていって反婚のかぐや姫ピンチ、ってところに枝をつくった職人が「給料はらってください」って言いにきたおかげでバレて、結婚できなくて職人にやつあたりするという人ですね。

「現代の恋愛ドラマにもあるように同じようにものごとを考え暮らしていた」
って、現代の恋愛ドラマに、蓬莱の玉の枝をとってこい、みたいなこんな超展開ありますかね。
それで、結論


その後、結局偽の玉の枝を作らせた策略が破れてしまうことから、嘘をつかずに生きることは大切だ。現代でも同じことがあって、今も昔も変わらない。」などの発言があり、学習後には、次のような感想があった。

 この話は、今から千年以上前に作られたので、人間の心は今も昔も変わっていないことがわかりました。物語を書いた人は「後のことを考え、うそはつかないようにして下さい」と言いたかったのだと思いました。(女子)
 皇子は、うそをついてまで姫と結婚したくて、最後にばれてしまいました。うそが必ずばれる体験が今も伝わっています。しかも、うそは人の信用をなくすので、今も昔も、うそをついてはいけないことは同じなのだと思います。(男子)


とまとめてありました。
「うそをつくのはやめましょう」
うん。なんて安心の道徳教育。
まあ、これがよくある国語教育の論文です。
私はみなれてるので、これくらいではおどろきませんが。
やっぱりちょっとすごいよなあ。いろいろ。

ところで、どうしてかぐや姫の心中まる無視で、男の登場人物視点なんですか。この授業。
どうしてくらもちの皇子なんていう、つまんないおっさんの心の中について、クラス全員で話しあわなければいけないんですか。
それよりはかぐや姫がなんで5人の求婚者に無理難題をふっかけたのか、とか。そういう話のほうがおもしろくないですかね。

とゆーわけで、論文をしょうかいします。

高橋圭子(たかはし・けいこ)2010「高校古文教科書を考える ジェンダーの視点を中心に」『世界をつなぐことば ことばとジェンダー/日本語教育/中国女文字』(遠藤織枝・小林美恵子・桜井隆編著)三元社

高校古文の教科書にでてくる教材のジェンダー分析です。

高橋氏は、

現行高校教科書の古文教材を分析し、教科書の編著者も教材の作者も登場人物も、すべて女性より男性のほうが多いこと、基本的には女性の作品は和歌および王朝文学であること、女性像の大半は「男の訪れを待つ」・「恋の歌を詠む」・「身分をわきまる」、といった要素で占められていることを確認した。


として、

だが、これだけが古文の世界の女性像ではない。もっと生き生きと活躍する女性像を生徒たちに提示してもよいのではないだろうか。
 ここでは、その候補のひとつとして、「小栗判官・照手姫」の伝承を提案する。(p.269)


とのべています。
うん。こういう研究は必要だとおもうし、なにより、いま、日本文学はジェンダー分析がとてもさかんにおこなわれています。古典作品のジェンダー論で卒論をかいて卒業する学生は、どの文学科にも毎年かならずいるはずだし、日本文学科の学生は国語の教員免許をとる人もわりといる。
そうかんがえると、高校でそういう授業がおこなわれても、すこしもおかしいはずはないです。

ただ。「小栗判官・照手姫」でいいのか?
照手姫なんか、めちゃくちゃ夫に尽くす妻じゃない。
高橋氏は「小栗判官照手姫」を提案する理由として


照手は所謂「王子様」の救いを待つ「お姫様」ではなく、自らの力で逆に小栗を救う。紙幅の都合上省略したが、青墓の主人が遊女にしようとするのを拒む場面、車を引くために主人に休暇を懇願する場面、道中変装をする場面などには、照手の知恵と才覚が漲っている。実に魅力的なヒロインである。(p.281)


としています。
もう、ずーっと夫に忠誠をちかって、貞操をまもってつくしつづける女ですよ。
こんな女、ただの男に都合のいいだけの存在じゃない。

あと、ちょっとこの文章、信じられないんだけど。
「青墓の主人が(照手姫を)遊女にしようとするのを拒む場面」これ、だいじょうぶですか?
この行為を「魅力的」といっていいの?
ただの職業差別じゃないの。大丈夫ですか?
教室のなかでセックスワーカーへの偏見や差別意識をうえつけるような授業が行われてしまいませんか?

で、
そういう意味でいうなら、
私は、照手姫よりかぐや姫が魅力的ですけどね。

かぐや姫こそ、反婚、反天皇、反権力(ちょっとはおもねる)をつらぬき通して、しかも結婚しろという翁をリクツで言い負かしたりしてる、すごい人だとおもいますけど。
法律婚して制度にぬくぬく守られながら「男女平等」なんて言葉をぬるっと口に出すような人の何百倍も、過激にフェミニストですけどね。かぐや姫。

まあ、べつにかぐや姫はフェミニズムの思想をもってたわけではなく、下界の人間との結婚がいやだっただけでしょうが。人間の女がサルの王に求婚されてもすこしも嬉しくないのといっしょでしょう。

竹取物語も源氏物語も、やりようによってはジェンダーの視点をもちこんだときに、おもしろい教材に十分になるとおもいます。
というか、源氏物語はかなりそういう分析されているでしょう。日本文学の世界で。

竹取物語もできます。
「うそをつくのはいけません」とか道徳やってるよりね。

天皇や権力の暴力性。
翁や5人の求婚者の身勝手さ。
空気のような媼の存在感のなさ。
そして天上人であるかぐや姫の地上の人間へのあなどりと軽蔑のまなざし。
そういうのをとおしてみていくことで、

現在の制度化した恋愛(だんじょこーさい)や、結婚のうさんくささ。
権力というものの残酷さ。
そういうものにひきよせて、あぶりだしていくことができるんじゃないでしょうか。
やりようによっては。
正直、照手姫よりいい素材だと思います。

……えーと、このネタは2週間くらいいじくりまわしたのでものすごくとりとめのない記事になってます。すみません。
posted by なかのまき at 21:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2010年11月29日

すべてはあなたのために。ガイジンのために。りゅーがくせいのために。

こんにちは!
きょおも ふゆかいな ぶんけんお しょおかい するよー

独立行政法人日本学生支援機構という政策機関が発行した
どすぐろいガイドブック

『外国人留学生のための 就活ガイド 2012』

独立行政法人日本学生支援機構のサイトからダウンロードできるのでみてみてね。

「外国人留学生のための」とかかいてあるくせに本文にルビがいっさいふってない時点で、だれのためのガイドブックでもないことがよくわかります。

さて。そこの39ページに
「履歴書の書き方」
といいうのがあります。

しょっぱなから


履歴書は、正式な応募書類の一つ。指定がない限り手書きが基本です。読みやすい文字でていねいに記入しましょう。(p.39)


と正気をうたがうようなことがかいてあります。
また、

年は、日本の年号を記入するようにします。
数字は、算用数字で記入します。(p.39)


は?
これのどこが「外国人留学生の”ため”の 就活ガイド」?
どうかんがえたって、
「日本企業のための外国人留学生就活ガイド」じゃないですか。
日本語は正しくつかおうよ。

さて。これに輪をかけてひどいのが、

凡人社刊の『これで安心! 外国人留学生のための日本就職オールガイド』(2009)
1900円。たかっ。大学の就職課に置かれることを前提につくられた本なんだろうけど。
個人じゃかわないよね。

です。これ、ひとつだけ評価すると、ちゃんとルビがついてる。ほめるところじゃないけど。
あたりまえのこと。
学生支援機構のガイドブックがどうかしてるってだけだけど。


第9章 履歴書
履歴書の書き方・基本ポイント

履歴書は指定がない限り手書きが基本。文字を見て几帳面さや熱意を見る会社もある。
字は、上手ではなくてもマナーを守って丁寧に書こう。(p.102)


あーあ。
「文字を見て几帳面さや熱意を見る会社もある」なら、ほんきで「留学生のため」を思うなら
「字はなるべく乱暴に汚くかいて、筆跡診断を人事採用につかうようなあぶない会社からまちがって内定をもらわないようにしましょう」じゃないかな。
そして次がすごい。


第10章 会社説明会

聞いてイメージを悪くするマイナス質問

◎給料・残業代・賞与の金額や休みに関すること
給与や賞与は、調べれば分かるので、説明会の場で質問する必要はない。お金に関する質問はあまり印象がよくない。休みは権利だが、「入社する前から休むことを考えている?」と思われ、マイナスイメージだ。

◎残業はあるか
仕事は責任を持って臨むことが常識だ。納期・締め切りに間に合わなかった場合、残業をすることもあるだろう。残業にこだわると、仕事への責任感のなさが伝わってしまう。

◎母国へ帰国したい意志を伝える
「○年度に母国へ帰国したいのですが、御社の海外拠点へ出向させてくれますか?その際、条件は日本人と同様ですか」
自分の都合を一番に考えている学生を欲しいと企業は思わない。特に企業が留学生を採用する際の不安な点は「すぐに帰国してしまわないか」だ。あくまでも企業側の希望を一番に考える姿勢で臨むことが大切だ。

◎ホームページや会社案内、配付資料などに記入されていること
質問した内容が「○○を見ればかいてあるのに…」「さっき説明したのに…」と思うことだと印象が悪くなる。事前に企業のことをよく調べて頭に入れておこう。(p.120)


えーと。なにこれ。
これが本気で「留学生のための日本就職オールガイド」という本なの?
書名まちがってるよ。

「留学生を採用する日本企業と就職率をあげたい大学就職課責任者のための留学生奴隷化オールガイド」でしょう。
誤植がひどいですよ。

ただ、この本、出版されていいな、とおもうことがひとつだけあります。
ぜひ、この本は日本語学科がある大学や、その近隣の高校の図書館に、土地の言語等で翻訳したのをおくべきです。
ぜったいに、置くべきです。

それでね。将来を担うわかい大学生や高校生にね、「あ、日本語を専攻するのやめよう」って、正しい選択をしてもらうために。
とても意義のある一冊です。

日本に留学してからじゃ遅いんです!ぜひ大学、いや高校生のうちに!
posted by なかのまき at 22:15| Comment(4) | TrackBack(0) | 日記