2010年12月08日

壮大なつじつまあわせ

『こんにちわ』撲滅委員会

というサイトがある。
とてもくだらないことがかいてあるサイトなのだけど、ちょっと思ったことがあってとりあげます。

あいさつの「こんにちわ」という表記を撲滅しようという恐ろしい会です。
なに、撲滅って。

で、ちゃんと批判がありますのでこちらも紹介します。

「こんにちわ撲滅委員会」撲滅委員会

「こんにちわ」について考える三鷹のどうでもいいお話


だいたい、上の2つのサイトで批判されていることにつきるのですが、いちおう私からも。

『こんにちわ』撲滅委員会のサイトでは、「こんにちわ」を撲滅すべき根拠は以下でのべられています。

こんにち○を検証する

文法的なアプローチ

日本で一番普及している辞書「広辞苑」にはこうある

こんにち‐は【今日は】
(「今日は…」と言う挨拶語の下略) 昼間の訪問または対面の時に言う挨拶語。

「こんにちは」は「今日は、よいお天気ですね」の後半部が省略された形だとされ、「今日は」は「今日(名詞)」+「は(助詞)」であるため「は」表記が正しいと言える。そもそも助詞には「わ」はないからである。「今日はどちらへ?」という挨拶も元々は疑問文であるが、相手の答えを要求しない挨拶文である。「へ」を「え」と発音するからといって「今日はどちらえ?」にはかなりの違和感を覚える。

これには反論もあろう。挨拶語は感動詞とも考えられるからだ。例えば「はじめまして」は感動詞である。これを応用すると、「こんにちわ」も感動詞であり、一語だと考えて「こんにちわ」表記が正しいとする説もある。しかし仮に感動詞だとしても、「今日は(以下略)」という成り立ちを尊重するならば、「こんにちは」(感動詞)とするべきである。以上の基礎国語文法は、小学校段階の国語で習っているはずである。


本文の強調などは引用にあたって削除しました。
えーと、「こんにちわ」を撲滅しなければいけない根拠として、文法をあげています。

えっと。
現代語の「こんにちわ」もしくわ「こんにちは」の「わ/は」を助詞の「は」だとおもってる日本語学者は一人もいないとおもいますが。
もし、これを「基礎国語文法は、小学校段階の国語で習ってい」たりしたら、そりゃ大変なことでしょう。
「習っているはずである」わけがない。
文法的アプローチになってない。

「こんにちは」は「今日+助詞のは」だから「こんにちは」というのは、
これは、どっちかというと語源を問題にする「歴史的アプローチ」なんですね。
表記の正当性をいうのに、歴史的アプローチそのものは現実にある。
ただ、文法的アプローチと歴史的アプローチを混同してはまずい。

というのが一つ。
あと。
もっと根本的に。

文法的正しさは表記的正しさを保証しない。

これは、じつは「こんにちは」が「正しい表記」となっていることが実例だ。
「こんにちは」の「は」は助詞の「は」ではない。
しかし、現代仮名遣いでは「こんにちは」の表記は「こんにちは」が正しい。
文法の正しさと表記の正しさはそれぞれ独立している。

文法の正しさは、表記の正しさを保証しない。
そして、表記の正しさは、文法の正しさを保証しない。


ちなみに、「現代仮名遣い」では「こんにちは」の「は」を助詞の「は」としてとりあつかっている。

現代仮名遣い 第2 表記の慣習による特例


しかし、これは「現代仮名遣い」の記述がへん。というだけのはなし。へんというより、もともと助詞の「は」を「は」と書くのは「表記の慣習」という意味あいがつよいわけで。慣習を文法の正しさより優先させている。これが表記の「正しさ」です。

というわけで、文法は、この場合は関係ありません。「こんにちは」の「は」を「は」とかくのは、これは完全に表記の問題。そこをとりちがえてはいけません。

というわけで、根拠のへんなところを指摘したうえで、
このページ、じつは点字の表記についても触れていて、そこがとても興味深い。
同じく
こんにち○を検証する
から、

タイプミス?

「こんにちわ」と書く人は、たまたまキーボードを打ち間違えただけなのだろうか? この答えはノーである。

キーボードで「わ」とローマ字で打つ場合は「w+a」と打ち、「は」と打つ場合は「h+a」と打つ。wとhは位置が離れている上に、正しいタッチタイピングで打つ場合は「h」は右手で「w」は左手で打つためたまたま間違えたということは起こり得ない。私もよく「以外に(「意外に」の間違い)この本は面白かった」などとやってしまうことがあるが、この手の誤字とは根本的に違うのである。

ちなみに私の使っているATOKの辞書では「こんにちわ」と打って変換すると「紺に痴話」と出てくる。ATOKで基本の挨拶が間違って変換されるなど考えられないため、このことからも「こんにちは」が正しいと言える。

【注】読者のAlumiさんから教えて頂いたのだが、「点字」の表記では、「て に を は」の「は」は、「わ」と表記するのだそうだ。つまり点字では、「私は」は「わたしわ」となるため、「こんにちは」は「こんにちわ」となるのだとか。当サイトでは、点字の表記を間違っているとするものではなく、別の表記の仕方だと考えてる。ちなみにAlumiさんは、メールやネット上の表記では「こんにちは」を使っていらっしゃるそうだ。勉強になる。(『こんにちわ』撲滅委員会会長)


ちょっといらないところまで引用したのは、「タイプミス?」という項にわざわざ点字の話をもってきている悪意をかんじとってもらいたかったから。

重要なところだけ。抜き出します。


「点字」の表記では、「て に を は」の「は」は、「わ」と表記するのだそうだ。つまり点字では、「私は」は「わたしわ」となるため、「こんにちは」は「こんにちわ」となるのだとか。当サイトでは、点字の表記を間違っているとするものではなく、別の表記の仕方だと考えてる。ちなみにAlumiさんは、メールやネット上の表記では「こんにちは」を使っていらっしゃるそうだ。勉強になる。(『こんにちわ』撲滅委員会会長)


点字では墨字の助詞の「は」を「わ」に相当する字でかく。
これはいい。

「点字の表記を間違っているとするものではなく、別の表記の仕方だと考えてる。」

ここも、べつにわざわざかく必要もないほど当たり前のことだ。
墨字で「こんにちは」が正しいとされるのは、墨字の表記の仕方であり、
点字で「こんにちわ」とかくのは点字の表記の仕方である。

べつにどちらの表記がより正しいとかより間違っているなどということはない。
日本語で文章をかくとき、
墨字ではあいさつの「こんにちは」は「こんにちは」と表記する。
点字では「こんにちわ」と表記する。

さて。これを確認して。
このページの「はじめに」のところにもどろう。こう書いてある。


はじめに

言葉は変わる。いずれ「こんにちわ」が「こんにちは」よりも優勢になり、常識になる時代も来るかもしれない。しかしそんな中、あえて「こんにちは」を死守したいと考える団体が、今あってもいいのではないか。

「正しい日本語」とまで話を広げるつもりはない。当団体は「『こんにちわ』撲滅委員会」で「正しい日本語推奨委員会」ではないからだ。このサイトは「2000年代初頭」の「日本語の挨拶『こんにちは』」にこだわるという趣旨のサイトだということをまず言っておきたい。

例えば英語では Hello 、スペイン語では Holaと書く。もし日本人が、「『ハロー』と発音するから Hallo でいいじゃない」、「『オラ』だからそのまま Ola と書いても間違いじゃない」「そんなのどうだっていい」「言葉は変わるんだから」……などと言ったら、その言語を母語とする外国人は「でもそれは間違っている」と返す人が大半だろう。

母語なのに Hallo、 Ola と書いている英語圏人、スペイン語圏人をあなたはどう思うのか? 日本人なのに挨拶の言葉一つまともに書けない人をどう思うのか? また外国人に指摘されたときにどう弁明するのか?

 子供に国際化だ、英語教育だという前に、まずは自分の国の言葉で挨拶ができる人間を育てるべきなのではないだろうか。




「「日本語の挨拶『こんにちは』」にこだわるという趣旨のサイト」「日本人なのに挨拶の言葉一つまともに書けない人をどう思うのか?」という文句が目に付く。

点字は日本語ではないのか。点字で「こんにちわ」と表記する人は「日本人なのに挨拶の言葉一つまともに書けない人」なのか。



「「日本語の挨拶『こんにちは』」にこだわるという趣旨のサイト」「日本人なのに挨拶の言葉一つまともに書けない人をどう思うのか?」




点字の表記を間違っているとするものではなく、別の表記の仕方だと考えてる。


たった1ページのほんのちょっとした間にここまでの矛盾をかかえて平然としていられるのは、ここに、『こんにちわ』撲滅委員会会長という人が頭の中で壮大なつじつまあわせをおこなったと考えないと説明できないわけなのだけど。


なんか、私は、「文法的アプローチうんぬん」のところも、「あー、へんなこといってるな。どうしょうもないなー」とは思うのですが、おおもとの「現代仮名遣い」がわけわかんないこと書いてあるからしかたがないかな、とも思います。

だけど、この壮大なつじつまあわせの部分は、非常に気になるんです。こわい。
だって。ここは専門知識なくても判断できるところでしょう。点字では「こんにちわ」とかくということをふまえつつも、だけど日本語の正しい表記は「こんにちは」である、と書いて平然としていられるわけで。点字は日本語じゃないの?おかしくない?って、それは判断できるでしょう。

この、壮大なつじつまあわせのことが、最近、私は本当に気になります。

専門知識の有無のもんだいじゃなくて、それいぜんのところでつじつまあわせが破綻しているのに当人にその意識がない。

ただ、はたからみれば「どうしてこんなわけのわかんないところで破綻してるんだ」っておもえるのに、当人は平気で破綻していられる、この状態ってべつにめずらしいことでもなんでもなく、わりとちょくちょく見かけるわけで。

たとえば、前にこのブログでもとりあげたことあります。

「それは、よくあるダブルスタンダードですね」

っていう記事。これは川口義一・横溝紳一郎(2005)『成長する教師のための日本語ガイドブック』第3章 日本語の授業の実際(4技能の指導:理論と実践) pp.190-181
にある「書き順は大切。ぜったいに守らないとダメ。だけど左手書字者のことは放置」っていう壮大なつじつまあわせについて述べたものです。


これは、個人サイトでもなく、出版社を通した本なわけで、いろんな人のチェックをくぐりぬけているわけで、こうなってくると

「ああ、これをかいた人が個人的に馬鹿だからだね」

とか、そういう問題でもないわけで。

リクツの矛盾自体もそうだけど、それをうまいことはぎあわせてしまう壮大なつじつまあわせという行為。
ここをものすごく、注目してかんがえなければいけないなあ。と。
と、さいきん考えてます。


壮大なつじつまあわせって、はやりことばでいうなら、認知的不協和の回避っていうやつ。

posted by なかのまき at 21:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2010年12月13日

「うまれつき」のうさんくささ

「うまれつきかうまれつきでないか」ってそれを考察するのはお前の仕事じゃないよ

という記事をかいたのだけど、
うまれつきかうまれつきでないか、
という問いには私はすごくこだわっている。

というか、
「うまれつきかうまれつきでないか」というどうでもいいことをこだわる人にこだわらないではいられない。


ひだりてききのうまれつきうまれつきでないを、なんか科学的に解明するという、研究があって、それそのものはいいんだけど、それになんか意味をもたせちゃだめだよね。

「左利きは右脳人間だから芸術に向いてる」
とか
「左利きは生まれつき天才が多い」
とか
「左利きは性ホルモンの関係で発生するから同性愛者が多い」
とかね。

八田武志(はった・たけし)1996『左ききの神経心理学』(医歯薬出版株式会社)

第3章 きき手誕生のメカニズム

より
なんで左利きが発生するかの説を紹介します。



1.遺伝説
2.脳損傷説
本来なら右ききになるはずが、左脳にごくわずかの損傷があるために右脳にその役割を肩代わりさせ、それによって左手の使用が多くなる(略)すなわち、未熟児出産や難産による仮死状態での出産などにより、脳に損傷が生じたために左利きになる(略)そして、臨床心理学の対象となる知恵遅れ、吃音、学習障害、自閉症などの子どもに左ききが多い(p.54)
3.脳梁発達説
左ききが生まれる原因に脳梁における交連線維の軸索の欠落が考えられることを裏付ける資料として、未熟児のきき手についての調査報告があげられる。(略)未熟児の中で右ききでない子どもに、IQが低いことと言葉の発達が遅いことも見いだされた。(p.62)
4.脳内ホルモン説
左ききが男性ホルモンの異常な分泌によるという考え方は、左ききに自己免疫不全や免疫疾患などが多くなることを示唆している。自己免疫に関係するものには、潰瘍性大腸炎、小児脂肪便症、糖尿病、甲状腺障害、リウマチなどがある。左ききにこのような病気が多くみられるかどうかを多くの研究者が検討している。(p.67)
(略)ホモセクシャルが男性ホルモンが十分でないことから生じるという考え方からは、ホモセクシャルの中に左ききの多いことが予測できることになる。この予測の妥当性をいくつかの研究が検討している。(p.73)


……うーん。まあ、わかりました。八田氏にとっては、
左手ききは正常な右手ききからまちがって発生した異形ってことなんですね。

ひどいな。
いえ。ちょっと、感情的にはひどい、としかいいようがないですが。
まあ。
こういう研究があってもいけないわけではないですね。
そして、そういう結論がででも、かまいません。
男性ホルモンがくるったおかげで私が左手ききになったとか、
そういう結論がでてもかまいません。

いまのところ出てませんが

まあ。
もし将来、左手ききの発生はホルモンのせいということになったとしたって。
いいですよ。「うまれつき」だとわかったとしても。いいですよ。

で、それと、

左手ききを矯正していいかいけないかはまったく関係ありませんからね。

なにかというと、
「左手きき矯正はよくない」
の根拠に「うまれつきだから」をもってきてはいけません。

これについては、

伊野真一(いの・しんいち)2005「脱アイデンティティの政治」『脱アイデンティティ』(上野千鶴子編・勁草書房)pp.43-76

より

2.アイデンティティの生物学的基礎論―性的指向をめぐって

これまでのアイデンティティの政治において、同性愛者がどのように定義されているのか、何が前提とされているのかを検討してみよう。(略)
 原告でアカーの裁判闘争(引用注:「府中青年の家」裁判)本部長であった風間孝は、(略)「同性愛者は人口の10%といわれる。同性を好きになるか、異性を好きになるかという性的指向は、人種や性別と同じように個人の意思で選択できないこと」と語っている。(毎日新聞1994年3月29日)(略)
さらに風間は、性的指向に「本人の意思では選択や転換ができない」という意味を与える他に、「指向」「志向」という言葉を使うことが同性愛を私的領域の問題とみなすことにつながるのだとする。今日では、orientationの訳語として「指向」を選択するという問題から離れて、「嗜好」「志向」と記述されること自体が誤りであるという主張が様々な書き手の著作に散見されるようになっている。しかし本来的には、「嗜好」「指向」であったとしても差別されていいわけでもない。


これは同性愛者の例なのですが、私は伊野氏に強く賛同します。
うまれつきだろうとうまれつきでなかろうと、差別しちゃだめなんですよ。

あまりいろいろなことを一緒にかんがえてはいけないのですが、左手きき矯正にも、伊野氏のいうことはあてはまると私はかんがえます。

小林比出代(2005)「左利き者の望ましい硬筆筆記具の持ち方に関する文献的考察」『書写書道教育研究』20 pp.30-40



 3.9 左手書字から右手書字への「矯正」の是非

という章があるのですが、
ここには「左手ききの矯正は脳やなんかに悪い影響を与えるからしちゃいけません」
みたいなことがかいてあるんですが、おかしいでしょ。

もし脳に悪い影響がなければ矯正していいの?

そうじゃなくて、左利きのききて矯正がいけないのは、
マジョリティがマイノリティをおしつぶすことがいけないから、いけないんでしょ。
そこに「うまれつきうまれつきでない」という生物学的な判断は一切不要なんです。

左利き矯正は、マイノリティをマジョリティへ同化させる差別です。
つまり、「矯正の是非」とは「差別の是非」でしかないわけです。
「矯正していいかしていけないか」という問いは要するに「差別していいかいけないか」
という問いです。
その設問になんの意味があるの?

そして、その答えが「生まれつきだから矯正しちゃだめ」って。
うまれつきじゃなければ矯正していいの?
うまれつきじゃなかったら差別していいの?

もちろん、「左手ききはうまれつきだから矯正しちゃダメ」が説得力があった、戦略として生物学的根拠を採用した、その経緯はしっておかなければいけないし、それを根拠に行った過去の運動に意味がなかったとか、間違ってたとかいう判断をくだしたいわけではないです。

ただ、これからはそれを根拠として使い続けることは、むしろ危険だとおもう。
「うまれつきだから」という、生物学的根拠におすがりしちゃ、だめでしょう。
生物学という科学様をまつりあげられて、お守りがわりにつかっちゃだめです。

posted by なかのまき at 19:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2010年12月26日

かどやひでのり・あべやすし著『識字の社会言語学』(生活書院・2010)

かどやひでのり・あべやすし著『識字の社会言語学』(生活書院・2010)
とどきましたので紹介します。

目次を転載します。

はじめに(かどやひでのり)
第1章 日本の識字運動再考(かどやひでのり)
第2章 均質な文字社会という神話──識字率から読書権へ(あべやすし)
第3章 てがき文字へのまなざし──文字とからだの多様性をめぐって(あべやすし)
第4章 識字率の神話──「日本人の読み書き能力調査」(1948)の再検証(角知行)
第5章 近世後期における読み書き能力の効用──手習塾分析を通して(鈴木理恵)
第6章 識字は個人の責任か?──識字運動でかたられてきたこと、かたられてこなかったこと(ふくむら しょうへい)  
第8章 識字のユニバーサルデザイン(あべ・やすし)
第9章 識字の社会言語学をよむ──あとがきにかえて(あべ やすし)


ほら。目次みてるだけでこれは読まないと。っておもいますね。
このブログととくに大きくかかわるのは、第3章です。


第3章 てがき文字へのまなざし──文字とからだの多様性をめぐって(あべやすし)
        1 はじめに
        2 「文字はひとをあらわす」という社会的通念 
        3 ひだりききへのまなざし 
        4 てさきが不器用なひとへのまなざし 
        5 文字をかくということ/よむということ  
        6 文字の規範をといなおす
        7 おわりに



章だてをみるとわかるように、左手書字についてふれられています。
あと、筆跡診断について。
筆跡診断というか、「書はひとなり」について。


ここで重要なのは、筆跡研究の科学的妥当性よりも、筆跡で性格をしりたい、あるいは、筆跡から性格を診断したいという欲望そのものの問題性ではないだろうか。さらにいえば、筆跡によって人事の決定が左右されるような、てがき文字の社会的位置こそが問題なのではないだろうか。(p.122)


この問いかけにはとても意味があります。
学校の書写・書道の先生が「筆跡から性格の診断をしたい」という欲望をむきだしにしているさまは、このブログで何回かとりあげています。これはとても問題だと私はおもっています。
紙に書かれた字の形から、他人の心の中に侵入したいという欲望はほんとうにグロテスクだ。
そしてそれが「よくあること」と受け入れられている社会もグロテスクだ。

あとは、
「てがき文字へのまなざし──文字とからだの多様性をめぐって」というタイトルのなかに、左手書字の問題を位置づけてくれたのは、私はとてもうれしいです。
私も左手書字の論文をかきながら、「左手利きの人ってカワイソー」っていう文脈じゃなくて、もっとおおきい研究のながれの一つになってほしいな。
ってずっとおもっていたんです。
学校(社会)という場のなかで、どんなふうに、都合の悪い少数者は黙殺されてきたのか、抑圧されてきたのか、その具体例の1つとして使って欲しいな。と、そういう研究のなかで引用してほしいな、ゆくゆくは。とおもっていたので。こんなにはやく願いがかなってしまいました。
これはうれしい。

で、注文としては、左手書字については、ひだりききはひだりききでいいんだけど、左手書字をしているのはひだりてききだけではなく、怪我や病気で右手でペンをもてなくなった右手ききのひともいて、そういう人もものすごく苦労しているみたいで、そういう論文も何本かあるので、それについても触れてあればもっとよかったかな。
とおもいます。というか、これは私が自分の論文でかかなければいけなかったことだー。
1月の改稿のときに……。

っていうのと、関連して「みぎきき」「ひだりきき」ってそんなにきっぱりわけられるものなのかな。区別する必要はあるのかな。
これはちょっと、本の内容から離れちゃうのですが、つねづねおもってるんですが。
「利き手」「私は右利き」「私は左利き」っていう個人の属性にゲタをあずけないで、「右手でも左手でもいつでもどっちでも問題なくつかえる道具と、道具を用意する社会がほしい」っていわないとな。
と。私は考えています。
右利きのひとでも、大きな大切な荷物を右手でかかえているとき、切符を左手でもって自動改札口をくぐるのはおっくう。とか、そういう声は聞くので。
あと、自動改札口は、右手で杖ついてるひとが本当に不便そうです。これはすぐにどうにかしろ。けが人が出るよ。
そう考えると、「みぎききかひだりききか」という個人の属性はわりと、どうでもよくなるんじゃないかな。結果的に。

そんなわけで。
このブログをよんでもらってる人には、おすすめしたいです。
『識字の社会言語学』
書道・書写のせんせえ、読んで欲しいな。ほんとうに。
posted by なかのまき at 23:00| Comment(4) | TrackBack(1) | 日記

2011年03月03日

夢物語としてのかさこじぞう

伊藤龍平(いとう・りょうへい)2009「昔話唱歌・唱歌劇と植民地下台湾の国語教育」『國學院雑誌』110−11 pp.421-433

この論文がおもしろいので、どこを引用しようかまよったので、とりあえず一箇所だけ引用します。

例えば、近代以降もっとも有名となった「桃太郎」(大成名は「桃の子太郎」)の場合を考えてみよう。近世期の絵巻や草双紙の「桃太郎」は、川上から流れてきた不思議な桃を食べて若返った爺と婆が男の子を産むという所謂「回春型」の筋が一般的であった。それが近代になって教材説話化された際に、おそらくセックスの問題を回避するためだと思わるが、桃から直接、男の子が産まれる「果生型」の筋が採択され、それ以前に一般的だった「回春型」の「桃太郎」は駆逐されていった。同時に桃太郎の行き先も鬼ヶ島に限定され、在地伝承に散見される「山行き型」や「地獄行き型」などのタイプも顧みられなくなっていった。かつて野村純一が指摘した、犬・猿・雉の従者たちが登場せず、何もしないで寝てばかりいる「寝太郎型」の桃太郎や、便所の屋根から落ちる慌て者の桃太郎もまた然り。「桃太郎」といえば、桃から生まれた男の子が、お爺さん・お婆さんに育てられて成長し、やがてキビ団子を携えて、犬・猿・雉とともに鬼ヶ島へ鬼退治にいくものとの共通観念が全国的に定着したのである。
 事態は学会においても変わらず、研究者たちの多くも「統合」への夢を胸にフィールドを歩いていた。(略)
こうして、どこにもないが誰でも知っている「昔話」が大量に生まれた。唱歌や唱歌遊戯、唱歌劇の「桃太郎」は、いずれもカノン化の果てに生成したものである。(p.430)


わたし、この部分をよんでびっくりしたんですが、そうでもないですか?
私は回春型のももたろうとか、寝太郎型のももたろうとか、全然しらなかったー。
というわけで、

みんなが、「ももたろう」のストーリーをどうとらえているのか。
「ももたろう」の「ふつーのはなし」をしりたくて、wikipediaをひいてみました。
そしたら、この記事の「概要」が、いいのねー。
たぶん、民俗学にくわしい人がかいてる。


桃太郎の物語は、いくつかの場面で出典により違いがある。ただし、物語後半にある鬼との戦いの場面では、概ねどの書籍でも桃太郎側の視点での勧善懲悪物語となっている。

桃太郎の出生に関しては、桃から生まれたとする場合や、桃を食べた老夫婦が若返って子供を産んだとする場合がある。

桃太郎の成長過程については、お爺さんとお婆さんの期待通り働き者に育ったとする場合や、三年寝太郎のように力持ちで大きな体に育つが怠け者で寝てばかりいるとする場合がある。

成長した桃太郎は、鬼ヶ島の鬼が人々を苦しめていることを理由に鬼退治に旅立つが、その決意を自発的に行う場合と、村人や殿などに言われて消極的に行う場合とがある。

出征時には両親から黍団子を餞別に貰う。道中、遭遇するイヌ、サル、キジにその黍団子を分け与えて家来にする。

鬼ヶ島での鬼との戦いで勝利をおさめ、鬼が方々から奪っていった財宝を持って帰り、最終的に郷里のお爺さん・お婆さんの元に帰って幸せに暮らしたとして物語は締めくくられる。
桃太郎-wikipedia)


さて、というわけで、なにも学術論文をよまなくてもその気になれば昔話の多様性はネット上できがるに知ることができる時代になりました。

それをふまえて。
かさこじぞうのあつかいについて、いろいろ国語教育の論文をよんでみたのですが。

いろいろわかったことがあります。


まず、民話「笠地蔵」は教科書に採択されるにあたって、岩崎京子氏の再話によるものを採用した。
また、それによって、岩崎京子版「かさこじぞう」がカノン化した。

教室のなかでの「かさこじぞう」のあつかいについては、多くの実践研究論文では、貧乏ななかでも賢く、冷静で、前向きにおたがいにきづかいあったじいさまとばあさまの心の交流を中心にとらえているようです。
じいさんの地蔵信仰と、コメやモチをもってくる場面は、庶民の夢物語・ファンタジーとしてわりとさらりとながすのが主流な気がしました。
まあ。「かさこじぞうの」の国語教育におけるあつかいが、ふつうは

「正しい行いをするものは救われる」

じゃないということがわかって、安心しましたよ。

あとなんか、ネット読んでいて目について、一次資料にあたってウラとってないんだけど。
1980年代に教科書の「かさこじぞう」って自民党に「貧乏くさい話」と批判されたの?
このへんはちょっと時間あるときに調べます。

なんか、学習指導要領の変更で神話の導入って、どうするの。
って話をかこうかな、とおもってたんですが、
しらべはじめると、昔話もすごいむずかしいねえ。

道徳教育と縁をきったらもうすこし、楽になりそうではあるけど。
posted by なかのまき at 23:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2011年03月10日

筆跡学は迷惑だ。

前回の記事で、
「筆跡学はニセ科学だからいけないんだ!」

みたいな書き方をしてきもちわるいな。
それって、ようするに「科学様の権威の前にひれふしなさい、愚か者よ」っていう言い方にみえる。
あ、今回の私の記事に限りです。
他の方のやってることについては、それぞれその人の背景には事情があるわけで。
それとは関係なく。

国語教育と筆跡と心のありかたについて考えるとき、
「筆跡学はニセ科学だから筆跡と心を結びつけちゃいけない」
みたいないいかたは、あまりよくない。

なぜなら、そりゃ、ニセ科学でもかまわないでしょ。
「「文字」を美しく書くだけでなく、自らの内面を筆に乗せて表現しようとする」
「字は、その人にとって、顔なのだ。」
なんていう発言を平気でできてしまうような人にとって、それが科学的かどうかなんか、どうでもいいことでしょう。

「そりゃ、実証はできないかもしれないけど、そういうのってぜったいある」
「今の科学ではわかっていないこともいっぱいある」
「何でもかんでも科学のものさしではかればいいってものじゃない」

みたいな話になるよね。きっと。

「字の形から人の性格や心のありようをよむことができるとは、いまの段階ではものすごく言いにくい」
という見解をふまえつつも、中心としてとらえなければいけないのは、

「筆跡学はニセ科学だから国語教師はこどもの筆跡から心を憶測するのはやめてほしい」

ではなく、

「ひじょうに迷惑だから国語教師はこどもの筆跡から心を憶測するのはやめてほしい」

だよな。

で、その迷惑の根拠のひとつとして、

字を見れば心がわかるというのは悪質なヨタ話だから。

という情報はあってもいいでしょう。くわえて、

「美しい字」とやらを書くためには「左手で書かないこと」など、身体の都合に大きく左右される。というか、それは個人の身体に責任があるわけではなく、手書きの文字に意味不明に重苦しい価値観をおく教育の構造の欠陥でしかないわけで。にもかかわらず、そういう都合をぜんぶ無視して、あたかもすべてが「心の問題」や「努力の問題」であるかのように言われる。
そして、「美しい字」とされるものにどれだけ適合しているかしていないか、という視覚的な情報は他人を評価するときにバイアスとしておおきく影響する。
字面から人の心を憶測しようとするのは、害ばかりでえきがない。

そういう面をしっかりいわなければいけない。

本当は、ニセ科学は科学だけではなく、社会にも深く関わるものだ。
それはもう、すでに指摘されていることであって。
だから、「筆跡学はニセ科学だからダメなんだ」でも、本当は、いいはずなんだけどね。
あまり文系の人にそういう意識がないよな。
posted by なかのまき at 22:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2011年04月02日

長野の助詞の「を」について

長野のあたりでは助詞の「を」を〔wo〕と発音する

というはなしをきいて、
しらべてみました。

『長野県史 方言編』(長野県史刊行会・1992)

第3章 中信地方の方言
(引用注:調査地点は開田村)
3.3.1 /'wo/について
共通語の/'o/〈オ〉にあたるところにあたるところに,語頭と語頭以外を問わず[wo]があらわれる。

[woja]〈ウォヤ〉(親) [wotogo]〈ウォドゴ〉(男)
[wonnna]〈ウォンナ〉(女) [sawo]〈サウォ〉(竿)
[iwo]〈イウォ〉(魚) [(ナガエス)iwo]〈シウォ〉(塩)

(略)

 この[wo]ないし[wo]を/'wo/と解釈することにより,/wo/軸を新たに作ることは「経済の原則」に反するとも言えるが,話者によっては「御岳山」は[ojama]〈オヤマ〉であって[wojama]〈ウォヤマ〉ではないとする者もおり,ここでは[wo]の半母音[w]を/'w/と解釈した。
 語頭の[wo]〈ウォ〉を有する方言は極めて珍しい。筆者の観察した範囲では,東日本では伊豆七島列島方言のみである。それに対し,語頭以外の位置における[wo]はその実態はさまざまだが,長野県方言などでも,これを有する方言がある。(p.415)


『長野県史 方言編』は著者名がかいてないのですが、ここのかしょについては、


馬瀬良雄(1958)「木曽開田村方言の音韻」『国語学』34

がもとになったものと思われます。
馬瀬(1958)では、[wo]は/'o/と解釈していますが。

で、この論文には

開田村と隣る新開村・三岳村はじめ、木曾谷一般には、語頭以外の場所で[wo]の発音が残っている。


とかかれています。
というわけで、木曽のあたりでは助詞「を」だけじゃなく、語頭以外に[wo]がでてきていたようです。開田村にいたっては、語頭にまで[wo]がでてきます。

で、この開田村で「お」が全体的に[wo]となるのは、キリシタン文献で確認できる中世末の京都語と共通であることが指摘されています。(『長野県史 方言編』p.415)

というわけで、助詞「を」だけじゃない。ということが確認できました。
また、長野県全域で助詞「を」が[wo]と発音されるわけではないということもかいてあります。
長野市市街地・飯山市富倉両方言では助詞「を」は[wo]にならないようです。(『長野県史 方言編』p.39)

さて。さらに面白い報告がつづきます。

小川村桐山方言には、/'wo/〈ウォ〉/'we/〈ウェ〉/'Wi/〈ウィ〉があるそうです。


話者の一人、松沢一夫史は「男」「女」を次のように発音する。

[wotoko]〈ウォトコ〉(男) [wonna]〈ウォンナ〉(女)

また、「親」「奥」を次のように発音する。
[oja]〈オヤ〉(親) [oku]〈オク〉奥
つまり、[wo]〈ウォ〉と[o]〈オ〉は幾つかの面で音韻的に対立している。(略)


さらに、松沢氏は[we]〈ウェ〉絵 [e]〈エ〉柄と発音しわけています。井戸や猪などについて[wido]〈ウィド〉[winosisi]〈ウィノシシ〉と[wi]の発音がでてきます。


上の小川村霧山方言の[wo]と[o],[we]と[e],[wi]と[i]の使い分けは歴史的仮名遣の「を」と「お」,「ゑ」と「え」,「ゐ」と「い」の区別と次のように綺麗に一致する。
(略)
「をとこ」(男)「をんな」(女)/「おや」(親)「おく」(奥)
「ゑ」(絵)/「え」(柄)
「ゐど」(井戸)「ゐのしし」(猪),「ゐる」(居る)/「いけ」(池)
 最初,松沢一夫氏のこれらの音声を聞いて,古典語の世界が小川村桐山に遺されていたのかと早合点した。だが,少し詳しく調べることにより,これらの[wo]〈ウォ〉[we]〈ウェ〉[Wi]〈ウィ〉は,古い歴史的仮名遣いの音声を現代方言に伝えているものではないことがわかった。それは学校教育の成果といえるものであった。松沢氏によれば,小学校の先生はそのように発音し,そのように教育し,生徒はそのように覚えたのだという。
(『長野県史 方言編』p.38)


また、助詞「を」についても、

話者の中には助詞「を」について、「〈お〉と書かずに,〈を〉と書くのだから[wo]〈ウォ〉と発音するのだ」と言ったり,また,「[wo]が標準語的な発音だ」と意識している者も多い。
(『長野県史 方言編』p.40)

という注がついていました。

学校教育が地方語に介入してることが、ここからかんがえられます。

現在の長野の若い人のなかには、
「助詞の「を」を[wo]と発音するのが方言だ」
と考えるひとがいます。
そのいっぽう、
「「[wo]が標準語的な発音だ」と意識している者も多い。」という報告があります。

ここから考えるストーリー。

長野のあたりには、語頭以外で[wo]がでることが多かった。
また、その影響もあって、歴史的仮名遣いを使っていた時代には、学校教育によって歴史的仮名遣い的に[wo][o]を発音するように矯正された人もいた。
しかし、若い人のあいだではだんだん[wo]がきえていった。
ただし、現代仮名遣いで「を」とかく助詞の「を」だけは、学校教育によって[wo]の発音が残存した。
「助詞の「を」を[wo]と発音するのが長野の方言だ」と解釈されるようになった。←いまここ

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2011年04月12日

宿題はなんのためにでるのか

おもしろい論文みつけたので紹介します。

酒井一郎(2011)「だっこへの愛着ととまどいの欠落―いもとようこ『しゅくだい』の読まれ方―『人間学紀要(上智大学)』40 pp.195-222

いじめや非行や少年犯罪の「多発化・凶悪化」、家族から子どもへの虐待や犯罪の「増加・深刻化」が報じられ。文部・厚生行政は効果的な対策を模索している。(略)教育、とりわけ初等教育の場でも防止のための研究・実践が試みられている。おもに低学年の小学生に家人と「だっこ」することを宿題にする実践もそのひとつである。長年山口県で小学校教諭をしていた宗正美子(むねまさ・よしこ)氏はそうしただっこの宿題をじぶんの授業でもおこない、定年退職後その経験をもとにした創作童話を童話コンテストに投稿して入賞した。いもとようこ絵本『しゅくだい』(岩崎書店2003年)の原作がそれである。(酒井2011:196)


この論文は図像学者若草みどり氏の『戦争とジェンダー』(大月書店・2005)の研究をうけてかかれたものだそうです。

だっこの宿題の実例は以下に引用します。

宮崎県小林市の三松小学校では毎年2月に、バレンタインデーまでの一週間、「バレンタインすきすき週間」を設け、親子で毎日一分間ギュッと抱きしめあうという宿題が出されている。日付のついた表のプリントに、できた日には◯や◎や花丸を、できなかった日には×を生徒が付け、親子がシートに感想文をつづって提出するという形式のものである。2004年から、親子のふれあいをうながす取り組みとして、「いじめ・不登校対策カウンセラー」の教諭が発案、生徒指導部が保護者に呼びかけ、実施しているという。
2010年の同校の取り組みをNHKが春休み開始日の夕食後の時間帯にドキュメンタリーふうに紹介していた。これまで宿題をしてこなかった5年生の少年が、今年こそ息子と抱き合いたいと手を尽くす父親からの促しや誘いを拒みつづけ、最終日にやっとハグにいたるというプロット構成で、番組のエンディングでは、子どもが誕生したときの気持を思い出して「ギュッと抱きしめてください」という案内役斎藤優子(同市出身)のナレーションが流れた。(NHK総合テレビ『にっぽん紀行』「宿題は親子でギュッ〜宮崎・小松市」(2010・3月23日)
(酒井2011:212)


私はこのところを読んで、「きもちわるっ」ってすごく違和感をかんじましたが、
酒井氏はこの宿題について、こうまとめています。

だっこという双生交流的で家族的な親子の図像は、和やかで平安にみたされた記憶を見る者に呼び起こす。そのように温かく呼び起こしながら同時に、その平安を脅かす外部勢力を示唆する操作によって、母子抱擁イメージは洋の東西を問わず、国策推進メディアの愛郷心涵養のプロパガンダに利用され、戦争へと家族を送り出させる戦意高揚の用をはたしてきた。キリスト教聖母子画やピエタでさえ、そのような効果をもたらしたとの指摘もある。戦争を知らない国民が八割を占める今日、その愚が再現されないようにと憂うる危惧にたいしては、メディア・リテラシーの実践教育が「活発化」し、市民発・個人発の草の根メディアとしてのウェブが機動する時代に、それは考えすぎだよ、という楽観もあるだろう。たしかにそうかもしれないし、心底そうであってほしいものだが、だからこそ危うい規制を感知したカナリアは、声を嗄らしても泣かねばならない。(酒井2011:211)


だっこの宿題がもしかして国策推進につながってしまうのではないかという指摘です。
酒井氏の指摘と、私が感じたこの宿題への違和感は関係があるのか、ちょっと判断はつかないのですが。

親子のふれあいがいやなのではなく、親子のふれあいが「宿題」としてがっこーから出されることがなんか、すごくきもちわるいんだとおもいます。
「親子のだっこ」が「◯◎花丸×」と評価されるのも、感想を先生に提出しなければいけないのもふくめて。NHKが小学校5年生の少年をオカズにして美談をしたてあげるのもふくめて。

さてこの論文、注がよんでいて面白いので、ちょっと紹介します。


教師にとって宿題をしてくる子はいい子である。子どもの側からいうと、いい子でなければ宿題をするいわれはない。いい子であるから、いい子になろうとして宿題を怠らない。つまり、いい子ばかりなら教師は宿題を出す必要はない。教師が宿題を出すのは、すでにいい子である多数に加えて、新たないい子を産出するためである。(略)
いもと絵本でも正宗童話でも「みんな」宿題をしてきたようだ。そればかりか「だっこのしゅくだい、またあるといいね」と拒否の声は聞こえてこない。すなわち、yes-childrenを創出すること、それが宿題権無効化のリスクをかけてでも試される教育工学的効果だったのである。(略)
世界規模の階層格差化の進む今世紀にいたって新自由主義と新保守主義の共合した文教エデュケア行政にとり、情操陶冶には個人責任競争主義を保管する防犯予防的な効果がみ込めるとともに、地域の草の根連帯の幻想を回収する教育メタファとしてテコ入れが図られている。「だっこ」の絵本への共感も、学校によるポスト産業下層労働者の継続的産出を補完する下からの公教育小権力による家庭への善意の介入とみることもできる。
(酒井2011:219)


宿題って、べんきょうのたすけのためにあるわけじゃあないのか……いい子の産出のためにあるのか。

というわけで、この論文を読んだ私の感想。
だっこの宿題は学校によるポスト産業下層労働者の継続的産出を補完する下からの公教育小権力による家庭への善意の介入とみることもできるので廃止してほしい。


あと、ちょっとすごく気になってるのが、酒井氏が紹介した”「いじめ・不登校対策カウンセラー」の教諭”ってなんだろう。
スクールカウンセラーという人がいるのはしってるけど、それは専門職員であって、「教諭」ではないはず。あと、「いじめ・不登校対策」で「親子でギュッとだきあう」を提言する専門職カウンセラーなんているのかしら。
「カウンセラーきどりの教諭」でないことをねがっています。
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2011年05月11日

ぼくが、フンになろう。

「スイミーはどうして目になろうとしたのだろう?」

(1)赤い魚の群れの中で、自分だけが黒かったから
(2)まぐろのこわさを知っている自分が先頭で指揮をとって仲間を導き、大きな魚を追い出すため。
(3)同じ赤い色をした以前の仲間をすべて失って孤独になった自分が再び元気になれたのは、海の中のすばらしいもの・おもしろいものをいっぱい見たからであって、それらを見た(それらを知っている)自分の「目」を仲間のために使って、今度は仲間たちにもそれらをいっぱい見せてやりたかったから。

(1)(2)だけで止まらないように。スイミーはその目で何を見てきたのだろうと再読し、(だからその目をどう使おうとしているのだろう、と考えたい。(渥見2010:1)



「スイミー」という絵本があります。
レオ=レオニさんという人の作で、日本語版は谷川俊太郎が訳してます。

小学校3年生の教科書にも一部採録されているので有名で、読んだことある人もいるのではないでしょうか。

あらすじは、
スイミーという黒い小魚がいて、あるひまぐろに仲間をぜんぶたべられて、おちこんで、たちなおって、別の小魚の群れとであい、おおきな魚におびえる小魚たちに、「みんなでおおきな魚のフリをしよう」みたいな提案をして実行してうまくいった。

というものです。
で、ここで重要なのは、スイミーは黒いけど、スイミー以外の小魚はみんな赤いのです。
練習のすえ、おおきな魚の形でおよげるようになったとき、ひとりだけ黒かったスイミーが「ぼくが、目になろう」っていったんです。
その様子は、絵本できれいにえがかれています。

さて。冒頭の引用はそのスイミーが「ぼくが、目になろう」っていった理由について。
出典は

渥見秀夫(2010)「ごん狐はオスかメスか―文学教材をもっと楽しく読むために」『愛媛国文と教育』42

私も光村の教科書でスイミーをよんだんだけど、あれ、「仲間を導く」的な描写ってあったっけ?
と。思い起こしてみて。どうも覚えがない。
(1)(2)だけで止まるな、といわれてますが、私は(1)でとまって、(2)にすらたどりつけてないですけどね。

たまたま図書館に光村教科書があったのでたしかめてみました。


みんなが、 一ぴきの 大きな 魚みたいに およげるように なった とき、 スイミーは 言った。
「ぼくが、目になろう。」
朝の つめたい 水の中を、 ひるの かがやく 光の 中を、
みんなは およぎ、 大きな 魚を おい出した。(『たんぽぽ』(光村図書出版)


んー。やっぱり、スイミーが「仲間をみちびく」とか、いってないです。

しいていうなら、引用箇所の直前に


スイミーは 教えた。 けっして、 はなればなれに ならないこと。 みんな、もち場を まもる こと。


という文言はあります。でも、「目になろう」といったのは、そのあとの話なので。関係ないようにおもう。
スイミーが「仲間を導く」という意図でもって「目になろう」といったかどうかは、よみとれません。
そうともそうでないとも。

しかしどうやら、「ぼくが、目になろう」というのは、スイミーが群れのリーダーになることの決意表明ととらえる国語教育の論文が、かなりありました。っていうか、これがたぶん主流。
たとえば、以下の文章のようなの。


阿部昇(2011)「指導と評価を一体化した授業づくり―小学校国語」『指導と評価』57

「スイミー」では、最後にスイミーたちが大きなまぐろを追い出していくところが山場である。そして、その過程でスイミーが「ぼくが、目になろう。」と叫ぶところが、クライマックス(最高潮)と言える。
「目」は見る役割を担う重要な器官である。ここでは、目が位置付くことによってスイミーたち小さな魚がつくる大きな魚が完成するという意味がある。が、同時に先を見通す目の役割をスイミーが担うことをスイミー自信が宣言したとも読める。つまり、スイミーは自分がリーダーになることを宣言したということである。


これ以外にもいくつかありましたが。


重政有里(2004)「『スイミー』の主題について―レオ・レオニの意図した主題」『香川大学国文研究』29に従来の学説についてまとめてありました。そのなかで、鶴田清司氏がスイミーの主題について以下のようにまとめているそうです。

(1)仲間がみんなで力をあわせること(協力・連携)の大切さ
(2)主人公が悲しい経験を乗り越えて集団のリーダーとして変化・成長したことのすばらしさ
(3)一人ひとりの個性や資質のちがいが仲間全体の力を高めることになること

うん。やっぱり、スイミーをむれのリーダーととらえる考え方がそうめずらしいものではなかったことがわかります。

で、私はわりと、書いてあることだけしか理解できないこどもだったので、
「仲間を導く」「リーダーになることを宣言」と読め、といわれてもこまるとおもうんですわ。
「そんなんどこにも書いてないじゃん」
くらいはおもったんじゃないかなあ。こんなこと先生にいわれたら。
「国語のよみは答えが一つじゃない、だからおもしろい」
ってのはよくきくけど、
「ぼくが、目になろう」といったときのスイミーの気持ちについて、
「黒かったから」と「群れのリーダーになろうとおもったから」は同等に価値のある答えですかね。

というか、「黒かったから」派にとっては、「ぼくが、目になろう」っていったときのスイミーについては、気持ちもへったくれもないですよね。単純に黒いから目になるっていってるだけなんで。そもそも、「ぼくが、目になろう」といったときのスイミーの気持ちをとりたてる必要があるときに意味があるといかけなので、「黒かったから」とこたえたら空気よめない発言であることだ。

さてそれはともかく、スイミーをリーダーとして読むと、なんか、
「スイミー様のおみちびきのもとしゅくしゅくとマスゲームをとりおこなう弱くて臆病な凡百の赤小魚たちがしあわせになりました」
みたいなこわい全体主義が頭をよぎります。

掃除当番をさぼろうとすると
「みんな、もち場を まもる こと」

授業中に立ち上がったら
「みんな、もち場を まもる こと」

かぜをひいてやすもうとすると
「みんな、もち場を まもる こと」

学校休んでディズニーランドにあそびにいこうとしたら
「みんな、もち場を まもる こと」

と、スイミー様におどされそうな。
いや、教科書に書いてある以上のことを読み取るな、といわれたら、そうですけど。
スイミーをリーダーと解釈するとやはり、スイミー以外の赤小魚が徹底的に没個性なのがほんと、きになってくる。
「みんな、もち場を まもる こと」でほんとうに、赤小魚たちはのぞんだくらしを手に入れることができたのだろうか。
そんな疑問がわいてきたところで、おもしろい文章をみつけたのでしょうかいします。
今回の記事はこれを紹介したいがためだけに書きました。

本をめぐる読み物 スイミーと肛門
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2011年11月27日

文化は差別を免責しない(1)

シミュレーション「アルバトロス」というものがあるらしい。

そしてこれを紹介する論文があって、

森山美雪(もりやま・みゆき)2010「異文化トレーニングにおける大学生の学び―シミュレーション「アルバトロス」の効果について」『異文化コミュニケーション』13 105-119

これについて考えたことをかきます。

シミュレーション「アルバトロス」というのは


アルバトロスという架空の国での歓迎の儀式体験と、そのあとに続くディスカッションとの2部構成になっている。参加者は、儀式での性別による待遇の違いからアルバトロスを「男尊女卑」の文化と思い込んだかについて振り返りを行う。森山(2010:109)


このような目的でおこなわれます。
で、紹介する論文は、このシミュレーションを使った大学の授業の実践報告の形をとります。
10名の学生がじっさいにシミュレーションで参加をすることになっていて、(参加してない学生は見学)
ただし、参加する学生にもこのシミュレーションの趣旨を把握しているわけではない。

この授業でおこなわれた実際の手順については、
まず、以下の手順の寸劇をおこないます。

(1)用意された椅子7脚に訪問者女性(VF)全員と訪問者男性(VF)数名が座り、VMの残りは床に腰をおろし、儀式の始まりを待つ。
(2)アルバトロス男性(AM)、アルバトロス女性(AF)の順に入場。全身を覆う服を着用し、AMは靴を履き、AFは裸足。
(3)アルバトロス女性は「スー」と言いながら訪問者女性を床に座らせ、裸足になるように求める。訪問者男性には椅子に座るよう促す。
(4)あいさつ。アルバトロス男性は椅子に着席。アルバトロス女性はアルバトロス男性の足元で正座。アルバトロス男性はアルバトロス女性の頭に手を触れながら頭をさげ、アルバトロス女性は床に手をついてお辞儀をする。
(5)アルバトロス女性がアルバトロス男性、訪問者男性の順にクッキーを食べやすいように差し出す。男性は美味しそうに食べる。その後、アルバトロス女性は箱ごと渡されたクッキーを食べる。
(6)アルバトロス女性がアルバトロス男性、訪問者男性の順に飲み物をコッピに注いで渡す。男性は美味しそうに飲む、最後に、訪問者女性が飲み物の容器とコップを渡されて自分で注いで飲む。
(7)アルバトロス女性とアルバトロス男声が相談をして訪問者女性を一人選ぶ。
(8)あいさつ。アルバトロス男性は椅子に着席。アルバトロス女性とさきほどえらばれた訪問者女性がその両側に正座する。アルバトロス男性は両側の二人の女性の頭に手を触れながら頭を下げる。女性は床に手をついてお辞儀。
(9)アルバトロス男性が先頭に立ち、訪問者女性とアルバトロス女性が後ろについて退場。
(森山(2010:109−110)を要約)


そして、これを見た後「アルバトロスとはどのような文化か」についてディスカッション。
「男尊女卑」という感想をひきだしておいて、ねたばらしをおこなう。


「アルバトロスは女性を尊敬する文化で神が宿ると考えられている聖なる大地を踏みしめることができるのは女性だけで、男性は靴をはき椅子に座らなければならない。食べ物は女性だけが自分で食べることができ、男性が先に食べるのは毒が入っている場合を考え女性の盾となるため」(森山2010:110)


これをうけ、
「なぜアルバトロスを男尊女卑の文化だと思ったのか」についてディスカッションのあと、全体のディスカッションを行う。

全体のディスカッションにおいて紹介されている学生の意見がけっこうひどい。

グループディスカッション中に「教育が悪い」という言葉が何度も発せられた。
「小学校から男女平等についてよく聞かされていて、男尊女卑という概念を習ったので、アルバトロス文化をそう思い込んでしまった」
「差別ということばを習うので、この状況を差別と解釈した。差別ということばを知らなかったらそうは思わない。ことばが物事を解釈する枠組みとなっている」(森山2010:110)


いろいろな混乱がみられるようですが、
どちらにしろ、アルバトロス文化は差別的です。
男尊女卑だろうが女尊男卑だろうが、どっちに解釈したとしても、男女差別。

なぜ男尊女卑だけが差別とみなされているような発言をするのか。
そしてそれを教育のせいにするのか。
小学校教育では「男尊女卑は差別だけど女尊男卑は差別じゃない」というトンチキなことをおしえるものか?
人間を性別で待遇の差をかえたりしてはいけない、というあたりまえのことをいうだけでしょう。

あと、差別は社会の構造に関するものであって、心の問題ではないので、
個人があることがらについて差別と思うか差別と思わないかは、
そのことがらが実際に差別であるかどうかにはまったくかんけいないでしょう。
「ことばが物事を解釈する枠組みとなっている」というのはあまりにも乱暴すぎる。
差別は個々人の「ことば」や「解釈」の問題だけではないので。


森山氏は学生の意見をうけてこうまとめています。

日本文化の視点からアルバトロス文化を解釈してしまった。常識と先入観から思い込み、固定観念に縛られ、日本/自分の価値観を基準に考えた。(略)そもそも他の文化のことをよく知らないし、他の文化のことは考えにも及ばなかった。女尊男卑があるなんて思いもせず、想像力がなく多角的に見られなかった。エスノセントリズムのせいで、他の文化を間違っている、異常、劣っていると感じた。(森山:112)


私は、アルバトロスが架空の文化であるということにうさんくささを感じます。

人間というものは、程度の差こそあれ、男性優遇の社会をつくっている傾向があることは知識として知っているひともいるはず。しかも、これはわりといろんな研究ではっきりしてるでしょう。

こういう研究成果、知識を、「架空の文化」を理解するために捨てろ、それが異文化トレーニングとやらに有効なんだ、というのであれば。
男女差別は文化の差をこえたレベルにあるものなのに、そういうたぐいの差別問題を、架空の文化をでっちあげてまでむりやり個別の文化におとしこもうとすることを「異文化トレーニング」とよぶのか。


文化の間に優劣や間違いはない、という考え方は文化相対主義とよばれます。
これはとても大切な考え方を含むとともに、ある面においてはその限界性を批判されています。

たとえば実在する首狩りという文化。女性器切除(女子割礼とかいわれることもある)という文化。
そういう風習にたいして、文化相対主義はどうむきあうのか。

「文化だから尊重」するのか。

くもりない文化相対主義者なら、「そのとおりだ」とこたえなければならないでしょう。
たとえ人殺しであっても他者(しかも子供)を傷つけることも、そして差別も、それが文化でありさえすれば、
「文化には優劣も異常もない」とこたえなければならない。

森山氏はこのような学生の声も紹介している。

学生Bは「私達が男女差別だと思うことが普通のこととして行われている場合、差別といえるのだろうか」と自問している。結論には及ばなかったが、男女差別だと決めてかからなかったのは、1回目の授業で行った「コミュニケーションとは」のディスカッションが活かせたからだと自己分析している。(森山2010:115)


これは、結論くらいだしてほしい。
普通に行われていることに差別はいくらでもひそんでいる。
差別かどうかと文化かどうかは、独立している。
アルバトロス文化は、女尊男卑という男女差別がおこなわれている。

そのうえで、くもりのない文化相対主義者であるならば、
「たとえ差別でも文化だからまちがいではない」と結論づけるべきなのだ。



長くなったので
続きはまた後日。
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2012年02月08日

女尊男卑という差別

森山美雪2010「異文化トレーニングにおける大学生の学び―シミュレーション「アルバトロス」の効果について」『異文化コミュニケーション13 pp.105-119

異文化トレーニング「アルバトロス」というものがある。
アルバトロスという架空の文化では、女尊男卑の思想がねづいている。

・聖なる大地を踏みしめることができるのは女性だけで、男性は椅子に座らなければならない。
・食べ物は女性だけが自分でたべることができる、男性が先に食べて毒見をして女性を守る

そのため、女性が床に正座をし、男性はイスにすわる。女性は食べ物を男性に手渡してやり、男性が先に食べ、女性はその後にたべるという風習がある。

しかし、女性を床にすわらせ、男性に給仕をするすがたが、男尊女卑にみえてしまう。

森山氏は、日本の大学で実際にこのトレーニングを行い、その際のグループディスカッションにでた
学生の言葉を以下のように紹介している。


「教育が悪い」「小学校から男女平等についてよく聞かされていて、男尊女卑という概念をならったので、アルバトロス文化をそう思い込んでしまった」「差別という言葉を習うので、この状況を差別と解釈した。差別ということばを知らなかったらそうは思わない」(前掲森山2010:110)

ここ、なにがおかしいかというと、

男性・女性という性差より、
「床に正座してる人物が下位、椅子に座る人物が上位」「食物を用意する人間が下位、受け取る人間が上位」「食物を先に食べる人物が上位、あとに食べる人間が上位」という判断が先にあって、それぞれ男性・女性にわかれていたので、結果的に男尊女卑にみえてしまったのであるのだから、

問題とするべきは、誤解の原因は、性差ではなく、椅子と地面、給仕する/される、食物を先に食べる、後にたべる。の対立の方だとおもうのですが。

で、その点にかんしては教育が悪いですかね?
椅子に座るほうが上位で床に正座する方が下位とか、学校で教えはしないでしょうが。
上にあげた学生の分析は、足りないと思うのだけど。というか、まちがってない?

これ、だって性差ではなく、たとえば若者は床にすわり、老人は椅子に座る。老人が食べ物を先にたべ、若者が後から食べる。いっけん老人をうやまう文化かとおもえば、じつは若尊老卑の文化でした。も、なりたちますよね。

だから、教育が悪い、男女差別、男尊女卑なんていうことばをならったからこそ、「小学校から学んできた差別の知識が公正に見る目を曇らせた。(森山2010:113)」といういい方も、おかしい。

人間を男と女に乱暴に二分して、男とされた人間を毒見役につかう文化なんて、差別的じゃないですか。男女差別ですよ。教育が役にたったじゃないですか。
差別ということばをしっていたから、この文化を正しく、差別的であると、判断できたのだから。
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2012年02月13日

教育用語の特殊

図書文化から「指導と評価」という教育系の雑誌が発刊されている。

この雑誌の、57号(2011年12月号)
で、

「学校文化・学級文化」

という特集がくまれていた。ちょっと期待しながら手にとったら、表紙に「よい学校文化を育てる」とかかいてあって。
よい学校文化って。

よいスクールカーストを育てる!
とか
よい隠れたカリキュラムを育てる!
とかそんなかんじですか?

と、ひとしきりわらわせてもらったのち、中身をみたら、ほんとに「よりよい隠れたカリキュラム」っぽいことかいてあるし!

巻頭の

竹内洋(たけうち・よう)「学校文化」 pp.4-7
この論文に、以下のようにありました。

施設や公式カリキュラムがいくら同一でも、(略)隠れたカリキュラム(言明されることなく無意識に伝達されてしまうカリキュラム)がちがっており、そのことが、アウトプット(卒業生の資質)に影響を及ぼすという説明になる。(略)
宝塚音楽学校の新入生は掃除で始まり掃除で終わる。しかし、生徒はそうした雑事も将来のスターの第一歩がここから始まるとして意味づける。身が入るだろう。ところができたてで、伝統に裏づけられた学校文化が定着していない京都音楽学校で同じことをやらせても、そうはいかない。どうして将来のダンサーにこんなことをさせるのだろうか、あるいは、理事長がケチだから掃除してもらう人を雇わないで倹約してるんだ、という解釈にさえなってしまう。


ちなみに、京都音楽学校とは、竹内氏のあたまのなかにある、非実在の音楽学校です。
学校文化とか、隠れたカリキュラムって、社会学のタームで、しばしば否定的な意味をともなうものだったようなきがしますが、教育の世界ではなんかちがうつかわれかたしてます。
隠れたカリキュラムって、教育者側が、そんなに推奨していいのですかね。

教育関係ちょっと特殊なタームの使い方してるので、注意したほうがいいですね。
あと、もうひとつ紹介します。

金子書房『児童心理』943号(2012年1月号)で「規範感覚を育てる」という特集がくまれていました。
これも、「規範意識をそだてる」みたいなことがかいてあって、なんか私の知ってる規範意識とちがう。

まあ。それはいいとして。


この特集のなかであった文がひどいので紹介します。

姫田佳子(ひめた・けいこ)「クラスみんなでHAPPYになるために」(pp.50-51)

全員で話し合いのルールを決めた。その内容は、
・友達の話はしっかり聞く。
・理由を言う
・否定の意見を言う時は代替案を出す。
・言いたいことはしっかり言って、決まったことには文句を言わない。


このルールの内容、びっくりしましたが。

なにがって、「否定の意見を言う時は代替案を出す」いや、これまちがってるでしょ。
何かを否定するときは、根拠をだせばそれで十分。代替案、いらない。
否定の意見をいうときに、代替案なんかかならずしも出す必要ない。
そしてなぜ、代替案提出義務があるのは、「否定の意見を言う時」限定なのですか?
否定をする側にのみ、一方的に代替案の提出を課すのは、おかしい。
「いっしょに代替案をかんがえる」とかなら、まあ。わからないでもないけど。

そのつぎの、「決まったことに文句を言わない」もだめでしょうが。
リセットや前に戻る機能がついてないシステムは、あぶなすぎる。
なにかをやりはじめてから、不具合に気がついて修正の必要がでてくることなんか、いくらでもあるはず。
そこで「決まったことだから文句を言わない」みたいなしばりは、害でしかないとおもいます。

話し合いのルールといいつつ、けっきょく、「否定意見・文句を言うな」というおどしにみえます。


あ、あと、これはこのブログのことなんですが、
「誰かを批判するときはwikipediaをつかうな、wikipediaにのっている参考文献を引用しろ」
みたいな謎ルールをわざわざメールでおくってくる人がいました。
「批判するなら」うwikipediaだめ、って、どういうリクツですか?
批判しないなら、つかっていいの?
ちょっとよくわからない。

私は、wikipediaは、有効な場面ではつかってますし、一方、ネットでは見られないわりとマニアックな一次資料を紹介してる方だとおもいますけどね。
ちなみに、ほんとうにちゃんと文献にあたりたいなら、wikipediaの参考文献だけでは、足りませんので、ちゃんと自分でしらべますから。


なんか、批判する側はよっぽど 清く正しく批判しなければいけない、という根拠のない信念が、うっすらとありそうですね。
批判するにはもちろん、言動に責任は生じます。しかしね、それいったら、だれかをほめたり、好意的に評価する場合にだって、同様の責任は、いやおうもなく生じている。
たとえば、差別をおこなうひとを褒めれば、ほめているがわだって差別に加担することになるんです。
肯定的な評価をくだすときにはいくらでも無責任でもかまわないんですか?

「批判するなら〜しろ」みたいないいかたは、無意味です。同様に、
「否定的な意見を言うなら代替案を出せ」も、無意味です。

否定・批判をするという行為と、それをおこなう人に、必要以上にしばりをかけたがるのは、なんででしょう。
くだらない意見への肯定はあまりにも無責任に行なわれているのに。

「否定的な意見いうとめんどうくさいから、いやだけど、とりあえずハイっていっておけばいいや。はいはい」
みたいな人間を量産したいのですか?
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2012年02月14日

教育雑誌の曲芸的読解力

ちょっとまえ、

いじめられてる桐壺更衣萌え〜な論文

という記事をかいたことありました。

女の子が女の子にいじめられるという設定に萌えているいじめにあって死んだ桐壺の更衣を「どんなにいじめられても何もやり返すわけでもなく、自分の運命を受け入れて生きていこうとする強い人だと思う。」という感想文をかかせていた国語教育の論文を紹介したことがあります。



あと、

なんでもない、ごくふつの、どこにでもある国語教育

という記事で、
棄老の物語で、みずから石で歯を折るなどして、すてられようとするおりん婆さんの姿勢を、一般に母親なら共有している「母性」と評した国語教育の論文とか。

あと、
知恵と真実と救いの「かさこじぞう」
という記事で

じいさんが石地蔵にかさをかぶせたら、モチをもってくる、というかさこじぞうにたいして「人生の真実や知恵」「正しい行いをする者は救われる」がこの物語のテーマだと主張するものだとか。


国語教育の作品読解力の曲芸力が、いちいちおもしろいんですが。
またちょっとみつけたので紹介します。

金子書房『児童心理』943号(2012年1月号)より

岩宮恵子(いわみや・けいこ)「思春期と喪失―「海のトリトン」から考える」(pp116-122)

アニメ版の「海のトリトン」は、私はみたことないのですが、
名前と、その評価は一応しっていました。

アニメの歴史に残るものであること。
あと、主人公の正義がくつがえされるという結末が、当時の視聴者にとって、衝撃的だったこと。

これくらいだけですが、「正義とはなにか」がテーマとしてものすごく重くのしかかるアニメだということは、なんとなく知ってます。

さて。教育系雑誌の読解力にかかると、こんなかんじになります。


子どもが、親や周囲の人たちに対して反省の欠片もなく、暴言を吐いたり暴力を振るったり、完全に無視をしたりしているとき、彼らのこころのなかでは、「自分のほうが善に決まっている」という感覚がある。自分を不当に扱い、不当に貶めている状態をつくっている敵と戦っているだけなのだという感覚がこころの大半を占めているのだ。敵と思っていた相手にも、実は深い事情があるということがこころにすとんと落ちたときから、無邪気な子どもである自分を失い、複雑な葛藤を抱えることになっていくのである。(p.121)


正義とはなにか、という、大人だって難しいテーマのはずなのに、こどもの「おとなはみんな、わかってくれない! きたないよ、おとななんか!」という、かんしゃくのレベルにまとめられてる!


善のなかに悪が含まれることもその逆もあり、そして悪もまた自分自身の身の内にもあるものだという強烈な実感をもつことが、思春期のテーマなのである。だから、人の悪口を言いたくなる自分とか、人を排除することに喜びを感じる自分という「悪」がこころからあふれて表面に顔を出しやすくもなる。自分の身の内に悪を引き受けることができないときほど、その「悪」が外のものに投影されてしまうのである。(p.112)


トリトンがポセイドン族をたおしたのは、白いイルカの助言と、両親の遺言によるものであるはずなのだけど……自分の内なる悪をみとめたくないトリトンが外部(ポセイドン族)に悪を投影した妄想劇という解釈ですか。両親の遺言どこいったの……


これ、すなおに解釈するなら、親やまわりのものから注入された価値観が、くつがえされたときの衝撃、という最終回であって、これについてはトリトンが浅はかだったとかそういうこともいえないし、英雄としてまつりあげられたあげくにはしごをはずされた者の悲劇とか。そういうことになるとおもうのだけど。

教育雑誌の文章にかかると、反抗期の子どもが被害妄想を克服する物語になっちゃうんですね。

あと、ほんとに、悪口(否定的意見)を口から出すことを嫌悪してますね。教育のひと。


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2012年02月24日

先生が、こまるから

前回紹介した」1987年の教育雑誌、『現代教育科学』No.307 に、作文が紹介されていました。

固有名詞のところは、改変にあたりますが、伏せました。
ちょっと、ネットでかくにはためらわれるので。

クラスメイトへの教師のひどい暴言を、児童が作文(綴方)で告発します。

〇〇くんへの差別について
                     四年 〇〇
音楽の時間になりました。はじめのうち、A先生は、わたくしたちをおこったりしていました。
「今日は、このクラス、本当に歌がへたになったね。」と、ずっといっていました。私は、(それはそうでしょう。だって、A先生が前の音楽の時間、〇〇くんのことをサルなんていうんだもん。歌なんかうたう気になれない)と思っていました。そして、先生は〇〇くんの方をむいて、ゆびをさして、
「その子、ちゃんとして。」といいました。(略)先生は、じゅんび室にいって、カセットをとってきて、
「また、この子がうるさいとこまるから、じゅんび室にいきなさい。」といって、〇〇くんをじゅんび室につれていきました。そして
「この子、どろぼうしないでしょ。」といいました。
「しないに、きまっているよう。」
「しないよう。」
と、私たちはおこりながらいいました。……(『現代教育科学』No.307 p.119)



いろいろ衝撃的な内容です。
もっとながく紹介されていて、よんでいてとてもおもしろかったです。

ただ、これ、いまだったら「人(先生)の悪口をかいた悪い作文」っていう評価になりそう。
とりあえず。87年ころの小学生は、教師の批判を作文のなかですることをゆるされていたようです。
いつから、「人の悪口をいわない」が教室を支配するようになったのでしょう。

参考程度に。

私は、遠足に行った動物園の感想文をかかされて「動物がみんな寝ていたのでつまらなかった」とかいて怒られたことあり。
posted by なかのまき at 21:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2012年03月31日

日本人の生活と宗教(日本語教育編)

『上級へのとびら 中級日本語を教える教師の手引き』(くろしお出版・2011)

という読み物があります。

82ページより。

この読み物の目的
日本の宗教的慣習や年中行事、日本人の宗教に対する考え方を理解する、



日本ではなぜこのように色々な宗教が共に存在することが出来るのだろうか。これは、日本では昔から海や山や木や石など、周りの色々な物や場所に神様がいると考えられてきた。(略)
 このように、神道は自然や場所、物など、あらゆるところに神様が存在するという日本人の宗教的意識を作ったと考えられる。だから、外国から他の宗教や新しい神様がはいってきても、自然に受け入れられたのかもしれない。そして、神道が人々の生活の中で生き続けてきたように、仏教やキリスト教の行事なども、日本人の生活の一部になっているのだ。(83p)


神道が、他の宗教を自然に受け入れるための……え? なんだって?

新説! これが真実だ!

廃仏毀釈は なかった!


とまあ。冗談はさておき。


宗教についてのある調査で、「あなたは何か宗教を熱心に信じていますか?」という質問に「はい」と答えた人は、日本国民全体の9%だけだったらしい。それでは、91%の人は宗教を全然信じていないと答えるだろうか。実は、日本人は宗教を強く信じているという意識はなくても、毎日の生活のなかでお参りしたり祈ったり祝ったりするなど、宗教的慣習や行事を大切にしている。そして、そんな人々の生活が、神様や仏様が一緒に存在できる社会を作っていると言えるのではないだろうか。(83p)


ああ。そうですね。
除夜の鐘をついてその足で初詣にいき、七五三をいわいクリスマスをいわい教会で結婚式をあげ仏式の墓にはいるという日本人は、多いのでしょう。

で、のこりの9%の人はどんな宗教生活をおくっているんですか? ってことにはぜんぜんふれずに、
「日本人の宗教に対する考え方を理解」なんかできないでしょう。ふれてないんですね。この本。
のこりの9%は日本人じゃないんですか?
キリスト教や仏教や神道由来の行事が「生活の一部」になってない人もいるでしょう。

「神道が人々の生活の中で生き続けてきたように、仏教やキリスト教の行事なども、日本人の生活の一部になっているのだ。」

って、9%のひとを無視したかきかたをして「日本人の」っていえてしまう、信仰をもっているひとを特殊な例として排除して、いっさいふれないかきかたに、不信感をかんじます。

こうやって「日本人の」ってまるで日本人を一枚の均質なプラスティック板みたいに加工するの、やめてもらえませんかね。「いや、信仰をもってるひともいるでしょう?」っていうのに、「それは特殊な例」って排除していくかきかた。

あと、この宗教っていうテーマなんだったら、
じっさい、私が体験したこととして、留学生のひとに
「日本て政教分離ですよね? 公明党ってなんですか?」
ってきかれること、なんかいかありましたので、そのへんの解説いれてくれたら、じっさいてきに、たすかったんですけど。
わたしは、よくわからなくてこたえられなかったんで。
どうなんですか。そのへん。


posted by なかのまき at 21:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2012年06月13日

完全保存版! 伝統的子育て! ――このデータベースですべてがわかる!――(国立民俗博物館「俗信」データベース)

みなさんこんにちは!

今日は、伝統的子育てにかんするとっておき情報をご紹介します。

親と子がともにきらきらとかがやいて暮らしていくために、国立民俗博物館「俗信データベース(動植物編)」で伝統的な子育てについて学んでみませんか?(効果には個人差があります)

先人の知恵がぎゅっとつまったこのデータベースをつかって、子育て中の親が学ぶべき大切なことを伝え合いましょう!(効果には個人差があります)


伝統的子育て その1:妊娠出産編
妊娠出産の際にやくにたつ豆知識をあつめました!

鼠の食べかけの餅を焼いて食べるとお産が軽くなる。(高知県 十和村)

安産に効きそうです!

子どもの生まれたとき、当歳の犬猫を飼うといずれかが負ける。(高知県高岡郡佐川町)

産まれたときから競争社会の洗礼をうけて強い子が育てられますね!

・姙婦が馬の手綱をまたぐと、額に旋毛のある子を生む。(長野県北安曇郡 )

額に旋毛(つむじ)が欲しいときはぜひ、馬の手綱をまたいでみましょう!


伝統的子育て その2:すくすく成長編

こどもたちがすくすく生きていくために、知っておくと便利な豆知識です。

・子供のムツキを犬がくわえていくと夜泣きする。(三重県度会郡御薗村)

・牛の尿を踏むと背が小さくなる(富山県下新川郡宇奈月町 )

・しつけ糸をとらないで着るとキツネに化かされる。また男の人はしつけられ、女は恥をかく。子供にしつけ糸を取らないで着せると、しつけがよくなる(野、日、草)。女は早くしつけられるようにと、しつけ糸をとらないで着る(草)。しつけ糸を取らずに人にあいさつすれば、人の下役にされる(野、日)(長野県東筑摩郡生坂村 )。


伝統的子育て その3:こんなときどうする?編

子育てにはさまざまなハプニングがつきもの。 どうしよう! というときに。
伝統的な子育ての知恵を拝借。

・よだれをたらす子はカマキリの巣をかめばよい(岩手県)

・夜泣きは、鶏の絵を書きそれを逆にして子どもの布団の下へ入れるか、白い半紙に「シノダノモリノシロキツネ、ヒルハナイテモヨルナクナ」と書き枕元か天井にはる。(和歌山県日高郡由良町)

・ミミズに小便をひっかけるとちんこが赤く張れる。ミミズを真水で洗ってやるとなおる(どのミミズでもよい)。(静岡県磐田郡水窪町 )

・ねずみに足をかまれたら、猫を三匹食べると治る( 和歌山県日高郡南部川村 )


伝統的子育て その4:お稽古・学業編

お稽古や勉強など、なにか一芸にひいでることで人生が豊かになりますね。

・蟻を三匹食べれば力持ちになる(和歌山県日高郡川辺町 )

・馬の糞を踏むと速く走れる(愛知県知多郡阿久比町)

・ねぎの白い所の好きな人は、頭が良い(奈良県吉野郡東吉野村 )


番外編 家計やりくりにはコレ!

子育てにはなにかとものいり。百万長者になれる方法をさがしてみました!

・一日中に百足虫を三匹捕まえると百万長者になれる(愛知県)

・青大将ヨリ咬マルレバ其人ノ家ハ栄ユ(小城郡誌)。(佐賀県小城郡小城町)

・新調の蚊帳の中でオンドリの鳴き声をすると良いことがある。(愛媛県越智郡玉川町 )


まとめ

さて。いろいろな伝統的子育てについて、みてきました。どうでしょう? 昔の人は、糞尿をふんだりアオダイショウにかまれたり、猫やアリを食べたり、といろいろな方法で豊かな生活をおくっていたことがわかりました! このような先人の知恵に、ぜひ学びたいものですね!
 え? 実践できるかちょっと不安? たしかに、このような伝統的子育てを、現在の生活に取り入れるのは難しい面もあります。社会や生活環境の変化により、アオダイショウや牛馬の糞尿の入手が困難だったりと、とても実践できそうにないものもあると感じてしまうひともいるのではないでしょうか? 心配しないでください! こんなときはポジティブに考えてみましょう!
 すこしちがう角度から検討してみると、このような生活の変化を一切考慮にいれない「伝統的子育て」って、すっごく無意味なものに見えませんか? 口先ばっかりの「伝統」なんて、まったく気にする必要ありませんね! 安心してください!
 みなさんもこのデータベースを使って、(口先ばっかりの)「伝統的子育て」(がどんなにばかばかしいことか)について、いろいろ調べてみてください!


 
 
posted by なかのまき at 22:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2012年11月03日

資料紹介『橋本先生をしのぶ』

国立国語研究所でおもしろい資料をみつけました。

『橋本先生をしのぶ』という謄写版印刷の冊子です。

1977年の印刷です。

東大で橋本進吉の講義をうけていた国語学・国文学の人が、年に一度「橋本先生をしのぶ」という会をやっていたのですが、20回記念ということで小冊子をだしたということです。


いくつかご紹介します。
翻字は、なかのがやりました。翻字のまちがいがございましたら、指摘してください。
画像はサムネイルです。クリックするとおおきいものがみられます。
ちなみに、名前の上の数字は卒業年次だそうです。

西尾光雄



(7)西尾 光雄
わたくしのようなものゝ書き
ましたものをごらんになつた
ことをおっしゃられました時ハ
何とお返事申しあげて
よいかわかりませんでした。


水野清

(10)水野 清
あれは、昭和18年か19年の夏だろうか。林大氏にでも聞いて
みたい。久々にお宅に上がったら、先生は、いくらか ちいさく なられた
感じのからだで言われた。「やせ脚気になり、14キロの体重が
9キロにまで へった。われわれはヤミ買い が 出来なかったし、どう
したら出来るかも 知らない。配給の野菜その他だけで生活
していた結果だ。幸い林大君が 野菜を 贈ってくれて、
助かつた所だ」と。それで、「先生も そろそろ 疎開なさつては、
いかがですか。」と申しあげると、「今、疎開となれば、本を郷里へ送ら
ねばならぬが、それがもう出来ない。本を離れては、生きてるかいがな
いからね。」とのお答で。それ以上は言えなくなって辞去したのだった。
「学問に殉ずる先生」を痛感すると同時に、日本文学報国会長で
あられた先生に、政府の報いる所、余りにすくないことを恨みつる
苦しい気持ちで 帰って 来たのだった。


井上豊

(7)井上 豊
先生について特に思い出さ
れるのは、にこやかな温顔と
手がたいお講義です、
なお住所が表記に変りま
した、


亀井孝

(10)亀井 孝
思い出はいろ\/あれど このスペイスに盛りこむこと
は どうも むつかしいので ざんねんですが また 別の
機会に でも 譲りたく
さて感想ですが みなさま たのしく お集り
に なるのは けっこうなれど しかし 先生が もし
会を ごらん に なつたら どういう”感想”を懐かれる
は また 別なるべし というのが わたくしの 感想
――先生についての感想――です(ということは 先生が
おれを肴にのんでくれてうれしいと仰せにならないの意にはあらず)



引用してみておもつたのですが、おのおの東大をご卒業なされた先生がた、
字のかきぶりやおおきさ、字体、 紙面のスペイスのつかいかたまで
わりと こころにまかせた こせいあふるゝ ものであるなあ というのが
わたくしの感想です。
posted by なかのまき at 22:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2016年02月14日

日本学会退会しました。そのときにおこったこと

2015年の日本語学会春季大会で、日本語学会のロゴマークが発表されました。
当初、どのようなロゴマークであったか、画像で紹介します。
hinomaru1.jpg-large

一見して日の丸を連想させるデザインであり、説明文でも日の丸がモチーフであることが明記されています。
日の丸は悪いものであり、かつ特定の言語の学会が特定の国家を強く連想させるモチーフをロゴマークとして使用するというのは、言語学の観点からも、誤解をまねくわるいやり口です。
日本語学会のロゴマークに日の丸モチーフを採用するのは反対です。

私は、この時1時間くらい、迷いました。
選択肢としては、
(1)「謝罪・撤回・再発防止の学習会」をもとめて学会員のまま学会費の支払いを拒否し、ボイコットをおこなう
(2)日本語学会をやめる

で、私は(2)をえらびました。
退会の方法について日本語学会のサイトを調べたのですが、あんまりよくわからなかったので、日本語学会事務局にメールをしました。

5月26日におくってます。

日本語学会事務室御中

日本語学会会員の中野真樹と申します。
日本語学会を退会したく、連絡をいたしました。
今年度の会費は納入しておりませんので、このまま退会とさせてください。
いままでありがとうございました。


理由
2015年5月24日に発表された日本語学会のロゴマークが日の丸をモチーフとしていることに賛同できません。
(一目みただけでも日の丸を連想させるデザインで、なおかつ日本語学会のサイトのページに「日の丸」とかいてあることから、日の丸をモチーフとしていると判断しました
http://www.jpling.gr.jp/gaiyo/logomark/ )
このようなロゴマークを使用している学会に所属することが精神の苦痛となりますので、退会いたします。


で、早速5月27日に、日本語学会事務局からメールがとどきました。

お世話になっております。日本語学会事務室です。

退会をご希望の旨,承りました。

なお,過日お送りいたしました『日本語の研究』第11巻2号は
今年度発行分の機関誌となりますので,恐れ入りますが,
第11巻2号をご返送いただくか,機関誌1冊分の代金2500円を
お振り込みくださいますようお願いいたします。


【返送先】
〒113-0033
文京区本郷1-13-7 日吉ハイツ404

【振込先】※年会費振込の口座と同じです。
郵便振替
00150-6-296531
加入者名:日本語学会


機関誌のご返送またはお振り込みの確認ができましたら,
退会の手続きを進めさせていただきます。

ご多用のところ誠に恐縮ですが,何卒宜しくお願い申し上げます。


で、冊子を送り返すのも無駄かなあ。と思いまして、2500円払うつもりでいました。
でも、銀行いけなかったりで何日かたってしまいました。

次に、6月2日に、日本語学会から以下のようなメールがきました。
前年度の庶務委員から伝言があったので連絡します。というメールがきました。
庶務委員の個人名も記載されておりますが、伏せ字にします。

中野真樹さま,

◯(日本語学会前庶務委員長)です。

日本語学会退会の件でメールをさしあげます。
(私の任期は5月末で終了しておりますが,5月に生じたことがら
ですので,私からメールをさしあげます。)

退会の件,とても残念です。
ただ,個人の信条に関わることですので,しかたがありません。
中野さんの研究者としてのご活躍を心から願っています。

それで一つお願いなのですが,事務室からは退会手続きとして,
次のようなお願いが行っていると思います。

---------------------------------------------------------------------------------
なお,過日お送りいたしました『日本語の研究』第11巻2号は
今年度発行分の機関誌となりますので,恐れ入りますが,
第11巻2号をご返送いただくか,機関誌1冊分の代金2500円を
お振り込みくださいますようお願いいたします。
---------------------------------------------------------------------------------

私としては,中野さんには,ぜひ

 「機関誌1冊分の代金2500円を振り込む」

という形で退会していただきたいと思います。

そうでないと,「2015年度の会費を払わないまま,2015年度の
大会で会員として発表した」ということになってしまうからです。
(共同発表の場合,筆頭発表者以外は非会員でもよいのです
が,中野さんは発表時点では会員です。)
2,500円を振り込んでいただければ,「会員として発表したが,
大会後に年度途中で退会した」という形で処理されますので,
問題ありません。

日本語学会に限らず,多くの学会では,会計年度末(通常3月)
までに退会の申し出がなければ,翌年度は自動的に会員資格が
継続となり,その年度の会費納入の義務が生じます。
また,多くの学会では,年度の途中(日本語学会では6月)に
「会費納入のお願い」を出していますが,それは,
  「未納の方は早めにご納入ください。」
ということであり,
  「今から今年度の会費納入を受け付けます」
ということではありません。

ですので,中野さんは事務的には「2015年度の会費未納のまま,
2015年度の大会で会員として発表した」という形になっています。
私としては,退会ということであれば,事務的に問題が生じない
形で退会していただきたいと思います。
ぜひ「機関誌1冊分の代金2500円を振り込む」という形で退会して
くださるようお願いいたします。



この前庶務委員長のメールをよんで、ボイコットでなくやめる決断をしたのが正解だったな。とつくづく思いました。

私は2015年の日本語学会春季大会で発表しましたが、筆頭発表者ではありません。
日本語学会の規約によると、筆頭発表者のみが会員であればかまわないはずです。

>中野さんは事務的には「2015年度の会費未納のまま,
>2015年度の大会で会員として発表した」という形になっています。

ちょっとここにかいてあることの意味がよくわかりません。

>多くの学会では,会計年度末(通常3月)
>までに退会の申し出がなければ,翌年度は自動的に会員資格が
>継続となり,その年度の会費納入の義務が生じます。

慣例はそれでもいいのかもしれませんが、今回は5月の学会で日の丸モチーフロゴマークを発表したのに、そういう慣例をたてに3月末までに退会の申し出をしないと学会費をはらう義務をおう、みたいなおどしつけをするのは不当だとおもいます。

そういう理屈なら3月末までにロゴマークの発表をしてほしかったですし、そうでなくても、今回は慣例の話では処理できないはずなのに、これでは納得できません。
納得はできませんが、ともかく、はやくこの学会と縁をきりたくて、2500円払いました。

後日日本語学会のサイトをみたら、
「日本語学会 会費に関する規則」に変更があり、2015年5月23日制定とのことで、以下のようにありました。

(退会に際しての会費の扱い)
第5条 退会を申し出る会員は,当該年度分までの会費を納入していなければならない。年度途中で退会する場合,すでに納入されていた当該年度分までの会費は,これを返還しないものとする。



2015年5月23日制定なら、こちらを会費納入の根拠にしたほうがよっぽどよいのではないでしょうか。
なぜ、5月26日からのやりとりにこの規則をしめさなかったのでしょうか。
(5月26日の段階ではサイトにアップされてなかったとおもいます。退会についてひととおりサイトでしらべたはずなので)
ただし、この規約でいうと、5月にやめます、て場合も1年分払わなければいけないのだけど、状況が状況だから2500円でいいよ、ていう温情なのかな。とおもいました。

日本語学会をやめる選択をして、本当によかったとおもいました。

(ヨタ話)
はてなブックマークとかいうところから「ここのブログかいてるひとは、不平不満ばっかでいやだ!」みたいな意見がかいてあったので、今回もそんな記事になっちゃったんで、この日本語学会脱退関連のほっこりエピソードをひとつ。

日本語学会とのやりとりで悶々としていた私は、あるひつい、学会とは縁もゆかりもない母親に、ついぐちをいってしまいました。
「こないだ、日本語学会が日の丸のロゴマークつくってきてさー。いやだから退会しちゃった」
「なにそれ、(日本語学会が)気持ち悪いね」
みたいな話をして、意気投合。親子の絆がふかまりました。
よかったです。

(後日譚)
なんだかしらないし、いつからかわかりませんが、日本語学会のロゴマークの日の丸が、緑色になってました。(赤いやつもあるけど。)

http://www.jpling.gr.jp/gaiyo/logomark/

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