2009年09月02日

どせいさんなのかわたしは

まず、ブログのタイトルの由来を。

「Mother2」というテレビゲームがありました。
子供のころ、いっかいやって。
私はこのゲームが好きだった。
わたしは「いといしげさと」のなまえをしらないままやってました。


ドラクエとか、そういうRPGタイプのゲームで、
だけど特徴的だったのは、
主人公が勇者ではなく、
「勇者のつるぎ」とか「ミスリルの鎧」を装備したのではなく、
ふつうの男の子で、「やきゅうぼう」と「やきゅうのバット」を装備して敵とたたかうところ。
きっと、しょうねんやきうのチームとかにはいってるおとこのこには、たまらなかったんだとおもいます。


でも。
私は野球をやらない,女だったから、
「やきゅうのバット」も「勇者のつるぎ」も同じくらい遠い、
自分とは関係ない世界の住人の持つモノでした。

じゃあ、ゲーム中の「おんなのこ」にじぶんをてらしあわせてみることができたか。

できません。

その、「おんなのこ」の武器は
「フライパン」なんです。
ドラクエ的なゲームの、「勇者の剣」にあたるものが、
「フライパン」なんです。
「おんなのこ」の武器は「フライパン」なんです。

……へんでしょ。

いや、うん、「女と料理をむすびつけるのはちがうだろう」っていういい方も、もちろんしたほうがいいですが。
それいぜんに、
「こどもは危ないから火を使っちゃダメ!」
でしょ。

「マザー2」の世界は、とても、「大人の事情」と「子供の世界」のきしみがていねいにえがかかれている。
主人公はいつでも、「こんな子供になにができるんだ」と大人達にいわれながら冒険を続けている。
だからこそ。
そこは、女の子の武器は「フライパン」じゃダメだとおもうんです。

「おんなのこ」がフライパンを使うときなんか、おかーさんの監視のもとで、ホットケーキ的なおやつをつくるのがせいぜいだとおもうんです。

子供だけで旅に出る、そんな設定で。はたして「おんなのこ」はフライパンを武器にえらぶでしょうか。
おんなのこにとって、フライパンって、そんなにみぢかな道具でしょうか?

だいたいフライパンなんか、バットより振り回しにくそうだしそれで攻撃なんて、力も技術もいりそうじゃないですか。
(こういうゲームのお約束で、もちろん「おんなのこ」の力は主人公より低い数値に設定されてますね)
私なら、もし台所用品で、武器に持っていくなら包丁にする。
そしてそもそも台所用品は持ち出さない。
もっと楽しい、女の子のおもちゃを武器にして、旅に出る。

というわけで、私は「おんなのこ」を身近に感じることはできませんでした。
「フライパン」なんて、大人の管轄じゃないですか。

じゃあ、わたしはなんなのか。

わたしは、「どせいさん」なんです。


マザー2には、「どせいさん」という気持ち悪い生き物が出てきます。
肌色で、頭から毛が一本のびていて、その毛に赤いリボンをつけた動物です。非常に気持ち悪いです。
そして、どせいさんは「サターンバレー」という集落にすんでいます。

「どせいさん語」という舌っ足らずな喋り方で話し、そしてどせいさんのセリフはへんなフォントで出てきます。

サターンバレーでどせいさんたちは暮らしているんですが、
悪者がやってきてどせいさんをさらっていって、
工場で奴隷のように使役するんです。
どせいさんは仲間がさらわれているのに気付いているのに、
「どうしてひどいことする」と
嘆く以外はなにもできない弱い生き物です。
主人公の「ぼく」がやってきてどせいさんを解放するんです。

で、このどせいさん。
セリフの吹き出しに独特のフォントがでるのですが、

どんなもんかってのは、公式のサイトみてもらえればわかります。

http://www.nintendo.co.jp/n08/a2uj/index.html

こんなかんじです。

で、このどせいさんのフォントの、「あ」が
私が昔書いていた「あ」とそっくりなんです。


dosei.gif


私は小学校低学年のとき、こういう「あ」を書いていて
ある日先生が「こんなへんな字をかいてるひとがいます」
って、わたしの「あ」を黒板にかいたんです。
で、
「きをつけてください」
「あ……ちがうんだ」
って。

じつは、わたしは「あ」と「お」とdosei.gifの区別ができてなくて、
「あ」でも「お」でもdosei.gifでもいいんです。どれも一緒です。
そのときの気分で

「あいうえお」を「おいうえあ」とか「dosei.gifいうえあ」とか「あいうえdosei.gif」とかかいていたんです。

このゲームプレイして、
その時の自分を思いだしてしまって。

RPGというゲームは、自分が勇者とかになったつもりで遊ぶゲームだと思うんですが、わたしはマザー2の世界では、主人公でも、女の子でもなく「どせいさん」なのかあ……
とガッカリした憶えがあります。


どせいさんは、
なんの力も持たない可愛くて可哀想な生き物です。
なかまがさらわれているのに主人公が助けにくるまでなにもしない。

勇者のいるRPGでは、勇者はおんなこどもをたすけます。
しかし、マザー2では助けられる側であるこどもが主人公です。
そんなとき、こどもよりもっと弱い、助けられる存在が必要なんです。

そういう弱さ、痛々しさをもった子供より一段下等な存在が、どせいさんです。

その弱さをユルさを効果的にみせるためのフォントが、どせいさんフォントで、
そして私はどせいさんと同じdosei.gifを書いているというところで、
主人公ではなくてどせいさんに引き寄せられてしまったわけで。

いまでもそれは納得がいかないです。

dosei.gifという字をかいてしまったという記憶があるだけで、
私はマザー2の世界の中で主人公になれなかったのだから。

本当は私はどせいさんなんかじゃなくて、ちゃんと自分の世界では、主人公なのに。


それが、いまでも、ずっと引っ掛かってます。
posted by なかのまき at 22:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 文字のこと

2010年03月22日

磯料理

100322-122347.jpg

週末に千葉県の勝浦にいってきたときにみつけた写真です。

たぶん「磯料理」ってかいてあるんだとおもう。


なんで、私はこれを「磯料理」とよめるんだろう。
そして、これ、お客さんをよぶためのカンバンだから、わりと、みんな読めるようにかいているんでしょう。

きっと、漢字がよめるには、「とめはねはらい」とか「ひつじゅん」とか。
じつは、ぜーんぜんかんけいないんだと、ここからわかります。

わたしたちが、「これはこの字だ」とおもう、それは、もっと、おおきいところで、字をとらえているんでしょう。

じつは、これを「磯料理」とよむには、「勝浦」(うみのちかく)とか「旅館」(ごはんをたべさせるために宣伝をする)とか、そういう情報が、けっこう大切なんだとおもう。
でももしかして、そういう情報なくても、あんがい「磯料理」ってよめちゃう気もするし。
日本語を第二言語として学んだ人は、これを「磯料理」とよめるのかしら? ちょっとそれが知りたいですね。

そして、
「書写力の低下」とか、そういうこと、ほんとうに言いたいんだったら、「とめはねはらい」まもってれば、とかじゃなくて。
こういうことも、かんがえたほうがいいとおもう。
わたしたちは、どこをみて漢字の弁別をしているのか。

posted by なかのまき at 21:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 文字のこと

2010年05月24日

せんせえっていう名前のゲタ

私は字のことだけでなく、九九とかマラソンとか、あいさつとか、チョウチョむすびとか、いろいろできなくて、もう全体的に学校がきらいだったし、先生もきらいだったので、
このブログはそういう、うらみつらみでいっぱいですが。

たまには、じぶんがせんせえやってる立場から、かいてみます。

いま、大学で自分の専門のこと、教えてるんですよ。
「現代仮名遣い」のことやってるんですけどね。

で、「現代仮名遣い」っていうのは、あんなにむちゃくちゃなのに、
国語教育・日本語教育のなかで、だいぶ軽視されてます。
理由はかんたんです。
かなづかいは、漢字にかくれてしまうからです。
つまり逆にいうと、漢字をつかわないようにしたり、漢字にルビをてっていしてふるとなると、漢字という衣がはがれて、「現代仮名遣い」がむき出しになります。
そのときの現代仮名遣いの不条理さといったら。

というわけで、仮名遣いについて考えるとき、漢字とのかねあいというものを考えないわけにはいかないんです。

漢字がこのまま、情報にアクセスするさいのやっかいな障害として存在しつづけるわけがないと思うので。思いたいので。

というわけで、学生さんにあべ・やすし氏の「漢字という障害」(『社会言語学』2pp.37-55)という論文の一部を読んで、感想を書いてもらいました。
あ、このブログをみてる人で、あべ・やすし氏の論文を読んだことがないだろう人がいるでしょうので、ちょっと引用します。


3.2 漢字をつかわない自由を

いまの日本では、漢字をつかって文章をかくのが、「常識」だとされている以上、一般のひとが漢字ぬきで文章をかくことなど、ほとんど無理に近い。たとえ、いち大学生が大学のレポートを漢字ぬきでかいたとしても、あかペンで、びっしり漢字になおされてかえってくるかもしれない。それは教員に、漢字をつかってこそ「ただしい日本語の文章なのだ」という、つよいおもいこみがあるからである。そうしたなかで、自己主張するのは、むずかしいことである。
 しかし、盲人をはじめとする、漢字にそぐわないひとびとのたちばをこのまま無視しつづけてはならない。うめさお・ただお(梅棹忠夫)が提案している「漢字をつかわない自由」をそうしたひとびとにこそみとめていかなくてはなるまい(うめさお/あら/おおの1975:85)。本来ならば、「漢字をつかわない自由」とは、みとめられて当然の権利であるはずなのだ。(pp.52-53)


私は、ものすごく字が書きにくい、左手書字者っていう立ち位置から、あべさんの論文をよんだとき、「そうだそうだ」っておもったんです。よんで、ほっとしたんです。
 左手でものすごくかきにくいつくりになっていて、なおかつひらがなより格段に画数の多い字をかきつづけるのなんか、やっぱり苦痛なんです。
 私にとっても、漢字は、障害なんです。

 でもね、文学部の学生なんか、漢字でいい思いをしてきた人ばっかりだから、「漢字をつかわない自由」についてとっさに拒否反応をしめしてしまう人は多くて。

で……うん。予想はしていたんですが、私の教室の学生全員があべさんの論文に否定的なコメントを出してました。

いえ、これは想定の範囲内だったのですが、ちょっとがっくりきました。
「日本語の文字表記にはこれこれの問題点があって、この論文はこういう観点からとても大切な論文です。誤読しないように注意してよんでください」って、説明はしたんですよ。
だから、ちょっとはみのりのあるコメントがつくかな、と。
が、私のことばたらずで、ちからおよばず、というところは大いにあるのでがっくりきましたけどね。

ただね、私の説明をふまえた上で、否定的なコメントを出してるんです。「なかのさんの言うことはわかるんだけど、この論文にかいてあることはわかるんだけどやっぱり現状をかんがえると……」みたいな。
遠慮がちなコメントなんですよ。いちおう、ものを考えてくれる。最後には、漢字依存の現状からはなれたくないって不安感が勝つんだけど。でも、ちょこっとだけ、かんがえてくれる。

で、このあべさんの論文、以前、大学院の同期にも「こういうことを考えている人がいて、こういう論文があるんだよ」って出したことがあるんです。
このときは、でも、真面目に論文よんでくれませんでした。
論文の感想もくれなかったし。パラパラみて、
「あー、いるよな、こういう特殊な思想の持ち主」みたいないいがかりをつけられました。ちゃんと読みもしないできめつける。

まあ、で、私の教室の学生と、私の大学院の同期、素地はそんなかわんないとおもうんですよ。
きほん、漢字大好きッ子のあつまりです。あそこにいるのは。
ちがうのは、

私がその人にとって、

だいたい対等なたちばの大学院の同期であるか、

単位とか成績をいいようにできる権力をもった、先生という名前のゲタをはいた人物であるか、

という。その違いで。
同じこといっても、私の立場が違うだけで、同じ論文を紹介しても、真面目に読んでくれるか、読んでくれないか、だいぶちがう。

立場が違えば、与える影響がちがうって。
そんなの考えてみれば当たり前なんですけど。
実際に体験してみると、めまいがするくらいに、その差は大きいです。
先生という名前のゲタをはくとそれだけで、(教室の中の)みんなが私をみてくれて、私が設定した課題にとりくんでくれて、私を喜ばせようと工夫をしたコメントペーパーをかいてくれる。
この心地よさ。正直、きもちよくてくらくらします。

いままで「ヘンなことばっかりいってるやつ」って、学校に友達がいなかったような私がこれを体験してしまうと、先生という名前のゲタを手放したくなくなる。ゲタをはいたまま、いつまでもいつまでも、一段高いところからモノをいいつづけたくなる。
これって、危険だ。

授業が土曜の6限というとんでもない時間にあるので、そんな時間帯のをわざわざ履修する、とても奇特で勉強熱心な学生さんばかり、っていうのもあるんですけど。
先生という名前のゲタをはくことが、まだまだ意味をもっているところがあるんだな。
ということを。

いや、頭で考えるのと、体験するのって、ちがうんですよ。
あのゲタに乗り続けるのは、正直こわいです。


(そういえばこの間黒板で「氷」っていう漢字がかけなくて、「氷」と「永」の雑種みたいな字をかいてしまって、「ああ、もう漢字でかくのやめます」ってぜんぶひらがなでかいたら、「まじめにやってください」って学生さんにコメントでおこられた)




posted by なかのまき at 21:11| Comment(5) | TrackBack(0) | 文字のこと

2010年08月03日

言語学ってなに?

竹鼻圭子『しなやかな組織としてのことば』(英宝社・2009)
から引用します。

4章 文字と記号表象

1 視覚的表象としての文字とことば

1.視覚記号と音声記号

 フランス象徴派の詩人が,西欧の文字が象徴的意味をもたないということを指して「西欧言語の致命的欠陥」と指摘して一世紀になる.直感的には大方の賛同する言説であると思われる.(p.183)


こんなふうに始まります。
フランス象徴派の詩人が西欧の文字が象徴的意味を持たないということを指して「西欧言語の致命的欠陥」と指摘したことは、まあ(どうでも)いいですけど。もんだいは、「直感的には大方の賛同する言説であると思われる」っていうところが。
まず、私は賛同しないですね。

「大方の賛同」って、たぶん、印欧言語をしゃべってるひとの多くは「致命的欠陥」って思ってないとおもうし。
日本に多く漢字不可欠論者がいることをかんがえると、日本に限定すれば、まだわからないでもないけど。
それにしたって「致命的欠陥」って、だいぶ強いことばなので。西欧言語に致命的欠陥があるっていう説にそんなにほいほい賛同できるひとって、そんなにいないとおもうんだけど、そうでもないのかな。
大方は、西欧言語に致命的欠陥があるとはいわないとおもうけど。直感的には。

で、「直感的には大方の賛同する言説であると思われる」のところですが、直感は直感でいいんですけど、
それに関しては言語学の研究が積み重ねられてるわけで。
わざわざ直感なんていう危険なものにたよらないで、先行文献を読めばいいだけなのでは。
と私は読んで思ったけど、続きはこうでした。

しかし,現代の言語学はこのことについて説明してこなかった.統語論や意味論がもっぱらの関心事であったから,いたしかたのないことではある.

え?
現代の言語学で研究されてないの?

象徴的意味をもつ文字ってのは、
漢字のことでしょうが。

漢字については
DeFrancis,J.とかJ.Marshall Ungerとかの著書があるはずですが、これは言語学じゃないのかな。
それとも、私のしらないべつの言語学っていうのがあるのかしら。そうかもしれないな。統語論とか意味論だけをやってる集団のことを指して狭義の言語学とかいうのかな。いや。まさか。
でも、なんか私のしってる言語学とはべつの言語学を指してるような気もします。わからない。
ひきつづき引用します。


視覚記号が音声言語を表象することに特化されたものが文字である。この特色はSchmandt(1997)で詳しく考察されているように、西欧の文字に著しい。一方で,東洋の漢字文化圏にあっては,一応の音声との対応があるとは言え,実質上,文字が音声を経ずに直接象徴的意味を伝達することがしばしばである.このことは万葉仮名,墨蹟などの例に明らかであるが,この点を明示的に示すことが本稿の第一の目的である。


「一方で,東洋の漢字文化圏にあっては,一応の音声との対応があるとは言え,実質上,文字が音声を経ずに直接象徴的意味を伝達することがしばしばである.」
これは、漢字についての(私の知ってる)言語学の先行研究の結果とあいいれない主張ですね。
あと、万葉仮名と墨跡のあたりをよんだのですが、なぜ万葉仮名と墨跡をとりたててとりあつかうことが必要だったのかちょっとよくわからなかったです。あと、墨蹟ってなんですか。

まあ、ともあれ。
「西欧の文字が象徴的意味をもたないということが「西欧言語の致命的欠陥」であるとしたフランス象徴派の詩人の指摘には、現代の言語学の文字研究の成果から判断する限り、わたしは賛同しません。
posted by なかのまき at 01:22| Comment(3) | TrackBack(0) | 文字のこと

文字論研究の紹介

前回の記事
「西欧の文字が象徴的意味をもたないということが「西欧言語の致命的欠陥」であるとしたフランス象徴派の詩人の指摘には、現代の言語学の文字研究の成果から判断する限り、わたしは賛同しません。


の根拠をしめさないまま終わってたのがきもちわるかったんで。
論文紹介します。

山田尚勇(1991)『文字論の科学的検証』「学術情報センター紀要」4、pp.261-318


この論文は私の授業でも学生さんによんでもらおうかとおもってたのだけど、時間のつごうでできなかったんですが。
これは、言語学の文字についての研究を紹介するときに、とてもいい論文です。理由は、

日本語で書いてある
CiNiiからPDFで読める
先行研究がまとまってる
よみやすい

要旨を引用します

我々は主として漢字かな混じり文を使いなれているために、自分が漢字に対して持っている先入観を基にした、科学的裏付けのない議論をもって、文字に関する普遍的真理と信じていることがかなりある。本稿においては、言語学、心理物理学、認知科学、脳科学などの観点から、講演形式を用いて、文字に関するそうした種々の主張を一つ一つ解明してゆく。


で、前回かいた

「一方で,東洋の漢字文化圏にあっては,一応の音声との対応があるとは言え,実質上,文字が音声を経ずに直接象徴的意味を伝達することがしばしばである.」
これは、漢字についての(私の知ってる)言語学の先行研究の結果とあいいれない主張ですね。

この私の発言の根拠は、この論文をよむとかいてあります。

中国語学会の長老、ハワイ大学のデフランシス教授が詳しく指摘なさっていらっしゃるように、(たとえばDeFrancis 1984)、全体として見れば、漢字は不完全ながらも表音表記体系として発展した文字ですから、発音が同じ文字は昔からお互いにかなり混用されてきたようです。しかも常に簡略化の圧力に動かされた変更も伴ってきたのです。(p.267)


「漢字は表意文字だ」っていうことだけがむやみにとりたてられてますけど、それは迷信で、言語学的に調査してみたら、漢字っていう文字だって基本は音なんだ、ってそれはわかってるんです。
日本語の漢字のばあいは訓読みってのがあるのでまたややこしいんですけど。

だから、「一方で,東洋の漢字文化圏にあっては,一応の音声との対応があるとは言え,実質上,文字が音声を経ずに直接象徴的意味を伝達することがしばしばである.」
っていうのは、文字学の先行研究をふまえずに、「漢字は表意文字だ」という素朴な迷信にとらわれたためにおこった主張でしょう。

山田氏の論文にもどります。このあと、
「漢字は見れば意味がわかるので筆談ができてよい」とか「漢字があると早く読むのにやくにたつ」「漢字がないと同音異義語をくべつできない」とか、そういう説にたいして、先行研究を紹介してそれらの説が科学的根拠のない迷信であることが指摘されてます。

さいごに、山田氏はこうのべてます。

漢字発生のごく初期に造られた、「日、木、山、川」などの数少ない象形文字を例に挙げて漢字の「表意性」を説くという、幼稚園児向きの話を全体に及ぼすナイーブな漢字論や、漢字はアルファベットよるも速く読めるといった、個人の経験から出る主観を文字の客観的特性と誤認している、独断的文字論が世に氾濫し、またそれに満足している人びとが多いということは、真に使い勝手のよい日本語の表記法を考える上では、大いに問題だと思います。もっと科学的、客観的な文字論を展開するだけの知見の蓄積は、もう十分に整っていることですから、今後の研究に期待したいと思います。(p.314)


だいたい、ちゃんと文字の研究してる人なら、これと似たようなことをいってるとおもう。だから、私は言語学の研究成果をふまえると、このあたりが妥当なんだろうな、と理解してます。

それで、私がけっきょくなにがいいたかったのかというと、
言語学者や日本語学者にも、「個人の経験から出る主観を文字の客観的特性と誤認している、独断的文字論」を文章にして学術書として出してる人もいるわけで。
しかも、けっこう多い。

言語学の文字研究の成果が、文字学以外を専攻する言語学や日本語学の専門家からもないがしろにされている面というのは、たしかにあるかもしれません。



posted by なかのまき at 11:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 文字のこと

2013年03月21日

「金明秀先生@han_orgの「ぼくは字が下手である。」 」によせて。

ツイッターのツイートをまとめたtogetterというサービスのなかの、

「金明秀先生@han_orgの「ぼくは字が下手である。」
http://togetter.com/li/257240

というページを眺めておもったこと。
それと、本日ツイッターで金明秀氏となんどかやりとりをしたのでそれについても補足。

まず、この一連のツイートについてですが、


@nakanomaki ただ、一連のツイート全体の趣旨はむしろ悪筆と学力とを単純に関連づけるのは間違っているという話です。しかも、「悪筆」を揶揄したと読み取った人々向けに、プライバシーを開示しながらツイートの背景を説明することもやりました。(続)
https://twitter.com/han_org/status/314527764176842752


このような意図で編集されているようですので、誤解のなきようおねがいします。

私は

高学力層に悪筆が増える理由は、おそらく権威主義の弱さによって説明されます。低学力層に悪筆が増える主たる理由は、階層性だと思います。 RT @makoratti: なぜU字型になるのかな。
https://twitter.com/han_org/status/168692406743601152


このようなツイートから、金氏は


学力の低い学生ほど字が汚い傾向があるけど、その一方で、学力の高い学生ほど逆に字の汚い学生が増えるんですよ。
https://twitter.com/han_org/status/167259932255719424


こういった趣旨のことを主張したいのかと誤解したのですが、「悪筆と学力とを単純に関連づけるのは間違っている」ということを主張したようです。くれぐれも誤解のなきよう。私はまだ誤解してます。ほんやくこんにゃくほしい。

さて。
学力と字の関連ですが、そのような仮説は面白いし、ちゃんと研究すればそれなりに結果がでそうなきもしますし、もしそうであればぜひ、そういう研究は読んでみたいです。
ということをふまえて。




まず、字の美しさとはなにか。ということですがなにを「うつくしい」とするか。

字の美しさを判断するのはひとつひとつの字の形もさることながら、字間や文字のレイアウトなどといった全体的なものも評価されます。
たてがきよこがき、硬筆毛筆などのさまざまな書字の場面でかわってくるでしょう。
たてがきが得意な人もいればよこがきが得意なひともいる。硬筆が得意な人もいれば毛筆が得意な人もいる。毛筆が得意でも硬筆が苦手だったり、その逆だったりすることもままあります。
また、「美しさ」の評価基準も、目の高さによって変化してくることでしょう。
毛筆書道を習っている人と習っていない人で「うつくしさ」の判断のポイントがかわってきたりするでしょう。
また、そもそも「うつくしい字」から排除される人については、「学力と字のうつくしさ・みにくさの関係」についての研究をする際にはこれはべつだてでなにか処理をしたほうがよいかとおもいます。
たとえば病気やけがでペンを手でうまくにぎれない場合とか。手でペンを握らず口や足指でもってでかいている場合とか。それと、左手で書字している場合とか。
ただし、左手書字については、左手書字をする人間ていうのは左ききがおおく、左ききについては「矯正するかしないか」というのも、昔は学校で教師がこどもの左手を包帯でしばる、などの暴力行為がおこなわれた例もあるようですが、いまではだいたい「家庭の方針にまかせる」と家庭に丸投げされているのが実情でしょう。となると、これも「階層」とかかわってきそうでもあります。このへんのややこしさをどう始末をつけるか、などと考えるのは難しいですが、そういう議論があるならぜひききたいです。
そして逆に、そういう議論を一切しないまま「学力と字のうつくしさ・みにくさとの関係」についてなにかいうのであれば、それはきく価値もないただの暴論です。

もう一度繰り返しますが、字のうつくしさ・きたなさと学力との関連になにかがあらわれるかもしれないという仮説自体を否定するひつようもないし、なにか出てくる可能性も十分にありえるとおもうし、そうであればいったいそれがなんなのか、私はみてみたい。
そういう研究があるならば、ぜひその論文を読みたいです。

字に階層が無関係であるとはおもいません。現時点では、十分に関係ありうるでしょう。
それと同時に、てがきの書字はからだをつかいます。字の形を決定するのは、からだという要素があります。人のからだは、多様です。そしてその多様さは、階層とまったく無関係といいきれるわけでもありませんが、かなり関係のないところもおおいにあります。
字の形のちがいは、ひとのからだの多様さをうつしているという面もあります。それを無視したところでおこなわれる、字と階層との関連性についてのかたりには、あまり意味があるとはおもいません。
それどころか、一面的で、乱暴です。



高学力層に悪筆が増える理由は、おそらく権威主義の弱さによって説明されます。低学力層に悪筆が増える主たる理由は、階層性だと思います。 RT @makoratti: なぜU字型になるのかな。
https://twitter.com/han_org/status/168692406743601152


@han_org @makoratti 低学歴・低学力層は、字の綺麗さブラスにならないし、高学歴・高学力層は、字の汚さがマイナスにならないが、中間層では、字の綺麗さ・汚さの影響がもっとも大きいから。違うかな?
https://twitter.com/Ichy_Numa/status/168693890482835457



どこまで崩しても識別可能かを認識できる機会が多いとはいえるかも。 RT @sousaemon: @han_org 算数の計算問題を大量に解いていると、スピードを求めるため、どんどん悪筆化する気がします。高学力者は計算問題を沢山解いているので、悪筆な者も多いのだと思います。
https://twitter.com/han_org/status/168696092593106945


もっともらしいようにみえるけど、なんだかよくわかりません。
本当に高学歴者に悪筆がふえるのか。それは権威主義のよわさで説明できるのか。高学歴層は字の汚さがマイナスにならないのか。高学歴者は計算問題をたくさん説いているのか。
じつは、これらの語りの真偽にはわりと、あまり興味がありません。
これらのかたりが意味のある分析なのか、たんなるヨタばなしなのか。それはわりとどうでもいいです。

ただ、からだの多様性についてまったく触れないこのような語りが、書字行為にかかわるからだの多様性に教育がまったく追いついていないことを置き去りにしたまま都合よく広まり、利用されていくかをかんがえると気が重いです。

ヨタ話であるから許さない、とか真実を暴露したから許さない、とかそういうことではなく。
語ったことを差別だといいたいのではなく、語らないことが暴力なのです。
そしてその暴力は、階層の話であるとうそぶきながら、じつはそこで終わらずにある一定のからだのありようから外れたひとに牙をむく差別となります。

もう一度。
語られた内容が差別なのではなく、語らないことが、差別なのです。
posted by なかのまき at 22:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 文字のこと