2010年01月14日

書は人なりって硬筆でも毛筆でもいえるんでしょうか。 あ、疑似科学ならなんだって言えるね。

文字と人格に関係はあるのか。
というか、文字と人格との関係は、正直どうでもいいのですが、どうして書道の人がやたらと文字と人格を結びつけたがるのかが気になります。
なんだろ。これ。

とめはね6巻より


「書は人なり」という
言葉があります。

書にはその人の
個性が出るの

(『とめはねっ! 鈴里高校』第6巻 第七十二話 強豪校の書道部』161p 河合克敏・小学館)


鈴里高校書道部部長の日野さんの言葉です。
ちょっときになるのですが。


さて。
私は、「書は人なり」という言葉、誰が言い出したのか気になってます。
典拠があるかどうか知りたいんですけど。
なんかあるんですかね。

で、「書は人なり」って言葉あるけど。
書道の人はどんだけ本気で信じてるの?
というのも気になります。

ユーキャンのCMみたく、「字で人格が判断される場合もあるよ、字が汚いと損するよ」って、いらない不安をあおっててがき文字コンプレックスを持つ人から金をまきあげる商売をするつもりで言っているのか。
本当に「書は人なり」って思ってるのか。

まあどっちでもいいんですけど。(というか、どっちでもよくないんですけど)
興味本位で。ちょっと知りたい。

個人的に、「字に人格がでる」って、あの「血液型性格判断」レベルのアホらしさなんじゃないかって。根拠もなく私は思ってるのですが。
わりと「血液型性格判断」(のダメさかげん)については研究が進んでるようですが「書は人なり」についてはどうなんだろ……と。
軽くネットで検索してみましたら。

ウィキペディアにありました。

筆跡学

筆跡学(ひっせきがく、グラフォロジー、Graphologie)とは、手書き文字の分析、個々の心理的特性を推測することを目的とする手法。
筆跡「学」がついているので学問と誤認されていることがあるが、統一論理や検証方法が存在しないため学問ではない。世界的に疑似科学として認知されている。


あ、ちゃんと疑似科学なんだ。
私が「書は人なり」なんてうさんくさいだろって、そこからいう必要はないんですね。ああ、よかった。
参考文献もあげられているので、さっそく注文して読んでみます。
楽しみだ。

で、先日も紹介した押木秀樹氏のサイトに、書道と性格について書いてあったので紹介します。


手書き文字の科学 手書き文字に関する会話
-ちょっと知りたくありませんか?-



(ウェブ魚拓)
手書き文字の科学 手書き文字に関する会話
-ちょっと知りたくありませんか?


引用します。



・「字は人をあらわす」って言うけど、ほんとかな?
 ・少なくとも、1000年くらい前の中国でもそう言われてたね。
※中国の書論より
 ・で、「字は人をあらわす」って、ほんと?
 ・うーん、そう言う研究して人がいて、そう言う結果もでてますね。
  ※槙田先生の文献など
(略)
・ヨーロッパには、筆跡鑑定家がいて、研究をグラフォロジイっていうんだね。
※黒田先生の本など
(略)
・ねえねえ、私の字を見て、どんな性格だと思う?
 ・はちゃめちゃな性格!
 ・それは、性格じゃなくて、字がはちゃめちゃなだけ。。
 ・でもね、字をみてその人の性格を想像しちゃうことはあって、
  へんな字を書いていると損するみたいですよ。
 ・たとえば?
 ・字が汚く・くずれていて乱雑、読みにくくしかもかわいくない場合には、
  その人は「学校、職場の問題者やトラブルメーカーのような暴力タイプ」である
  と見られる。また、字が小さくこじんまりした印象を与え、弱々しく暗い感じが
  する場合には、「おとなしくて問題を起こさないタイプ」であると見られる。
  これにくわえて、汚く読みにくい場合は、「内にこもり少々ノイローゼ傾向の
  ある変わり者タイプ」と見られてしまうのである。
※押木の調査より
 ・それは、見られるだけで、そういう性格ってわけじゃないですよね。
 ・そりゃまあ、そうですが、、、。



グラフォロジイは疑似科学……なんですよね。ウィキペディアさん。
うーん。「手書き文字の科学」っていうタイトルでこの内容はすごいなあ。

もし、このタイトルがなかったとしても。
疑似科学とされてるものを、大学の先生がこんなに無邪気に書いちゃっていいんでしょうか。
教育学はオカルトでも疑似科学でもなく、まぎれもなく科学、でなくてはいけないはず。
だと、私は思うのですが。
posted by なかのまき at 23:31| Comment(1) | TrackBack(0) | ニセ科学;筆跡学

2010年01月16日

だって字と性格には一定の関係があるじゃない? 実生活につかえるかどうかはともかく。

前回の記事で、


文字と人格との関係は、正直どうでもいいのですが、


って書いたのですが、この意味がわかりにくいと思うので説明します。

「だって、きっちりした字を書く人は几帳面とか、雑な字を書く人はだらしないとか、そういう傾向ってあるじゃない。だから、筆跡学って、信じていいと思うんだけど」

ってね。


たとえ話します。

「今年は年間を通して降水量の少ない傾向にある」

っていう情報をもとに、
「よし、今日は傘を持っていかない」
とかいってるひとがいたら、正気にもどれ、というでしょう。
年間を通して降水量がすくないということは、今日雨が降らないということを保証しないのです。

たとえ、「年間をとおして降水量がすくない」という情報が権威ある機関から発表された信頼できるものであったとしても。
「いやいや、その情報はつかえないから!」
としかいえませんね。
「え? なんで? ●●研究所が発表した情報だし、ただしいでしょ? 今年は降水量が少ない傾向にあるんだから、今日は晴れるよね?」
「いや、この際情報がただしいとかただしくないとか関係ないから!見るなら、今日の天気予報をみて、それから自分で空をみなさい!」

ってなもんです。
情報が正しい正しくない以前に、情報の使い方がトンチンカンなんです。

たとえば、

下駄を放り投げて占った結果、今年は雨が少ないという占いの結果が出た

という情報があったとして。
「今年は雨が少ないという占いが出たから、今日は傘をもっていかない」
とか言ってる人がいたとして、「正気にもどれ」って言いますね。

「でも、木は湿度に影響されやすいし、そういうこともあるかもしれないじゃない」
とか、もっともらしいこと言われたって、
「いや、占いが正しいとか正しくないとかそういうことをいってるわけじゃない。正気にもどれ」
で解決でしょう。
「今年は雨が少ないという占い結果」は「今日雨が降るか振らないか」という判断にはまったく使えないんです。

じゃあ、
「××研究所のデータによると、今年の降水量は少ない。だから今日は傘をもっていかない」
って人と、
「下駄で占った結果、今年は雨が少ない。だから今日は傘をもっていかない」
って人。

どっちがより正しいでしょうか。
どっちもダメでしょう。

まあ、研究所のデータを利用した人の方が、年間を通してみたら濡れる頻度は少ないでしょうが。
そういう問題じゃないよね。
「どっちもだめです。天気予報を使いなさい。自分で空のもようも見たらもっといいでしょう」
ですね。

だから、データの信憑性はどーでもいいんです。

文字と人格との関係は、正直どうでもいいのですが、


はそういう意味です。

文字と人格になんらかの関係があったとして。
「関係があるという意味」の取り扱い方がまずいからだめなんです。

文字と人格との間に、関係があってもなくても、筆跡学はだめです。
「文字と性格の関係にある程度の傾向がある」と、「その人の性格は字をみればわかる」は、とおくとおく隔たっているわけですから。

「だらしない字を書く人は性格が悪いという傾向がある。だから、このだらしない字を書くこの人は、性格が悪い」

は、だめです。ぜんぜんだめです。


その人の性格を理解したいなら、字を観察してるひまに、目の前のその人をみなさいよ。

ってことです。


posted by なかのまき at 15:20| Comment(1) | TrackBack(0) | ニセ科学;筆跡学

2010年01月20日

2009年4月1日 「書は人なり」の典拠

ネタは色々あるのだけどまとまらないので、おもいつくかぎりくだらない記事を。

「書は人なり」の典拠がわかりません。
調べてみたけど出てきません。

もしかして、「書は人なり」って現代語なんじゃない?
という気が。
現代語だとすると、これは、語尾にナリをつけてる人物、つまりコロスケの言葉でしょうね。
ここから、「書は人なり」の典拠は『キテレツ大百科』でしょう。
週末に国会図書館かブックオフにいって『キテレツ大百科』をまとめて読んできます。
きっと
「書は人ナリよ〜、キテレツ〜!」
とかいってるコロスケのセリフがあるにちがいありません。

そして、書と人格との関係をのべたわりと古い文献をみつけたので紹介します。

大蔵虎明『わらんべ草』です。

狂言の芸論書というかんじのものです。
成立は奥書に万治3年(1660年)とあります。

火曜日はたまたま学校にいって、私の先生に「「わらんべ草」を見たいのですけど」……ときいてみたら、「『古本能狂言集』にはいってるんじゃない?」
といわれて、言われるままにみてみたのがこれ。

CA2SAZVA.jpg

(笹野堅『古本能狂言集』・岩波書店・昭和19年)

影印か……い、いや、仕方ないので読みました。
はい。ちゃんと読みましたよ……もちろん

岩波文庫で
『わらんべ草』(笹野堅・岩波書店・昭和37年)

岩波文庫いがいにも翻刻は出てるらしいですが。
とりあえずいちばん手軽な岩波文庫で。
い、いえ、もちろん「年賀状を筆で書かなければ失礼」な学校ですからね。先生の指導をむげにしたりはしませんよ。『古本能狂言集』の写本もいつか読みますよ、きっと。たぶん、おそらく。

さて。
とりあえず岩波文庫版で。

『わらんべ草』二巻二十七段 pp.148-153

○狂言のおしへ、まち\/ありといへども、(略)
王義之ハ、古今第一の書なり、しかも人がらも、世に勝れたれど、唯能書とばかりよバれて、其人がらを論ぜず。これ義之が為にハ、口惜き事也



書がうまくて、しかも人がらもいいってことで王義之がひきあいにだされてます。
王義之は「とめはねっ!」にもでてくる、書道の、すごいえらい人です。

ただ、やっぱり「わらんべ草」の本文から。
とりあえず、この当時はむしろ「書は人なり」ではなかったことがうかがえるのですがどーでしょう。
字のうまさばかり知られて、人がらについてあれこれ論じていないけど、じつは王義之って、人柄だっていいんだよー。
という主旨ですね。
ここではあきらかに、人がらと書はべつだてで語られてますね。

まあ。それはともかく。
私が書道の人で、「書は人なり」といいたかったら、ここの部分をしきりと引用するでしょう。
都合のいいこと書いてあるから。
あ、でも「書は人なり」が大昔からの伝統ではないってことはバレるので、よくないか。

まあ、「わらんべ草」は無視するにしても、王義之さんの人柄がいいという情報は書道の人には美味しい情報ですね。

さて、それにしても虎明さんはどうして王義之の人がらを知っていたんですかね。
また典拠にあたらなきゃいけないでしょうが、めんどうくさいので。

またまたウィキペディアさんに。

王羲之

けっこう細かくかいてあるので、王義之さんの人柄のよさについても言及があるでしょう。
と、読んでみました。

略歴

王羲之は魏晋南北朝時代を代表する門閥貴族、琅邪王氏の家に生まれ、東晋建国の元勲であった同族の王導や王敦らから一族期待の若者として将来を嘱望されていた。東晋の有力者である郗鑒の目にとまりその女婿となり、またもう一人の有力者であった征西将軍・庾亮からは、彼の幕僚に請われて就任し、その人格と識見を称えられた


おお。やっぱ、人格がすぐれていたようですね。
では、実際にどんな方だったのでしょうか。
同じくウィキペディアに、逸話が記されています。


逸話

王羲之には次のような逸話がある。

・王羲之は幼い頃から鵞鳥が大好きであった。ある日のこと、一軒の家の前を通ると、鵞鳥の鳴き声が聞こえてきたので、譲って欲しいと頼んだところ、一人の老婆が出て来てこれを断った。翌日、鳴き声だけでも聞かせてもらおうと、友人の一人を伴って、老婆の家に赴いた。この姿を家の窓から見つけた老婆は、すぐさま鵞鳥を焼いて食ってしまった。そして、老婆は彼に「鵞鳥は今食ってしまったところだよ」と答え、羲之は大変がっかりし、一日中溜め息をついていた。
それから数日後、鵞鳥をたくさん飼っている所を教えてくれる人がおり、その人に山の向こうの道観に案内され、道士に一羽でもいいから譲って欲しいと頼んだところ、道士はこの人が王羲之と知って、「老子の道徳経を書いて下さるなら、これらの鵞鳥を何羽でもあなたに差し上げます」と申した。彼は鵞鳥欲しさに張りきって道徳経一巻を書きあげ、それを持参して行って鵞鳥を貰い、ずっと可愛がったと言う。
・王羲之は興に乗ると手近な物に字を書いてしまう習性があった。ある日のこと、嘗て門人の家に行き、机の表面が非常に滑らかなのを見てそれに字を書いたのだが、門人の父親がこの落書きを見つけて削ってしまい、後でこれに気付いた門人は、何日もふさぎ込んでいたと言う。
またある日のこと、羲之が町の中を歩いていると、一人の老婆が扇を売っており、彼は興にのって、売っている扇の何本かに五文字ずつ字を書いたところ、老婆は「どうしてくれる」と色をなして詰った。すると彼は「『これは王羲之という人が書いたものです』と言って売れば、少し高くいっても、きっと買ってくれます」と言ってその場を立ち去っていった。
数日後、同じ場所を通ると、先日の老婆が彼を見つけて、「今日はこの扇に全部書いてください」と頼んだのだが、彼はただ微笑んだだけで、そのまま立ち去っていったと言う。



……えーと、この逸話、王義之さんの人柄のよさがうかがえないのですが。
一つ目の逸話は、まったく意味がわからないのでおくとして、二つ目の逸話は、老婆の売り物の扇に無断で字を書いて「王義之ですけど何か?」な態度がけっこうしゃくにさわります。

いやいやいや。しかし、大昔の人を今の私の価値観で判断してはいけません。この逸話にはかならず、なにか王義之さんの人柄のよさがにじみでてるはず。
よくかんがえましょう。

えーと、ガチョウの話は、うーんと、「動物が好きだなんて、王義之さんは心のやさしい人なんだね!」でしょうか。
次。
老婆の扇に字を書くのは、商品価値をたかめた結果になるわけで、「お金はだいじだよ」
ってことですね。うん。お金は大事ですね。

また、脚注にある

4^ 『晋書』王羲之伝によると、王羲之は前任の会稽内史であった王述を軽んじていた上、彼が母の喪に服していたときも、一度しか弔問に訪ねなかったことから、王述は王羲之を恨むようになったという。また『世説新語』仇隙篇によると、王羲之は王述の母の弔問に赴くといっては、たびたび取り下げ、ようやく訪れたときも、喪主の王述が哭礼している前に進み出ず、そのまま帰ってしまうなど、王述を大いに侮辱したという。


というエピソードについてはえーとえーと。
……「自分に素直に生きよう」かな?


今日のまとめとしては、
「書は人なり」の典拠が『キテレツ大百科』であったという発見もかなりおもしろいのですが、それ以上に
ウィキペディアの記事がとても面白い。
ってことで。


posted by なかのまき at 23:35| Comment(0) | TrackBack(0) | ニセ科学;筆跡学

2010年01月23日

ペン習字はだいじょぶなのか。

ひとつおもったのですが、
私、いままで書道の人書道の人とひとくくりにしてきて、区別してなかったけど、
毛筆芸術書道とボールペン習字をいっしょにしてたのはまずいですね。

というのは、こんかい紹介するのは意味書道の人ではなく、むしろ言語学の人ですから。
というわけで。
↓ こういう本があるよ〜と教えていただきました。
『人生がガラリ変わる! 美しい文字を書く技術』(猪塚恵美子・2006)
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よくある自分探し系の実用書ですね。
「これのなにが問題なの?」
というと。
まあ、「人生がガラリ変わる美しい字」なんてタイトルにまずツッコミたくてたまりませんが。
それはおいておいて。

この本の著者の猪塚恵美子氏なんですが、
表紙に「言語学博士 猪塚恵美子」ってかいてあるんです。

えっ……これはまずくないか? 言語学的に。

これは、下手をするとこの本には言語学の知見が含まれているというように読みとってしまうひとだっているでしょう。

手書きの文字の字形と、その文字の書き手の社会的属性との関係、というような研究っていうのなら、言語学でもじゅうぶんにありでしょう。

ただ、「人生がガラリ変わる美しい字」は言語学ではありませんね。
表紙にわざわざ「言語学博士」の肩書きをのせる必要ありますかね。
CiNii
で調べてみましたけど、文字の研究をしているようにもみえませんし。
もちろん、本を売るためには使えるものは使いましょう、っていうのはよくわかります。そのためには肩書きを表紙に載せることだって必要なのはわかります。

そのことの善悪を判断したいわけではなく、ただ単純に疑問なのですが。
ただ、本当に、その戦略は妥当なのか、というのが気になるんです。

たとえば、「猫の飼い方」
っていうタイトルの本の表紙に「言語学博士」っていう肩書きがついてたら、「はあ?」って思いませんかね。
「猫に言語学かんけいないし。え? てゆーか学歴ひけらかしたいだけとか?」
となって、かえって印象悪くなりませんかね。


「勉強ができる」という蔑称
こちらのブログの記事を読むとわかるように、
ガクモンができる、べんきょーができる、ってのは無条件に支持されたりはしないはず。
本の内容によっては、「言語学博士」という肩書きがマイナスに働いてしまう可能性だってけっこーあるでしょう。

出版社としては、「美しい字」には「言語学博士」の肩書きが有用であると判断しているのでしょうが。

これは一般的にはわりと妥当なのでしょうか。
「ああ、言語学の博士号もってるひとが美しい字の書き方をおしえてくれるなら、それはまちがいない」
と、サイフのひもをゆるめる効果があるのでしょうか。


……あるのかなあ。
とりあえず、字の美しさ(書道のできがよい)ということは国語科の成績に関係がある、というような考えはありそうです。


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「先生は
 書道ができるけん
 国語だけは5だった
 タイプやろ?
 
 あとは3だけで」

これは、おしえてもらった書道マンガ、『ばらかもん』1巻(ヨシノサツキ・スクウェア・アニックス)より、書家の主人公に近所の女性が言ったセリフです。

書道できると国語5なのか。
ホントに〜?

まあ、でもそういうなんか、そういう空気はあるかもしれませんね。字がうまいひとなら国語もできる、みたいな。

で、国語科に関係あるなら、言語学にも関係あるっていうのも、
うーん。ないこともないか。
戦略としては、ありなのかな。

ただ、言語学の人という立場からはどうなんだろう。「美しい字が人生をかえる」なんて一歩間違えれば霊界の話ですがね。
「オカルト本に言語学を利用しないでくれ」
とか、そういうのはないんですかね。
わたしはちょっと言いたいです。


それと、もういっこ気になったのが、私はいっこうに考えてなかったのだけど、ペン習字にも一定の愛好者がいるんだな、ということ。

毛筆芸術書道には、毛筆という伝統と、芸術というりっぱなうしろだてがあります。
それにひきかえ、ペン習字にはなにもない。
毛筆書道より、よっぽどパソコンの影響を直接受けてしまうジャンルでしょう。

ペン習字の愛好家にとって、パソコンで書けるのに硬筆で書く意味は?
と聞かれたとき。「もうパソコンの時代ですね」とか言いにくいでしょう。じぶんの愛するものが。「いらない」とは。いえません。
さりとて、書道ほど伝統とか芸術なんていうよりかかれる存在意義がない。
となると、
「人生を変える」とか、
「モテ文字診断 スーパー筆跡診断で幸せになる!」とか、
モテ文字診断 (中経の文庫)モテ文字診断 (中経の文庫)

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そっち方向に流れてしまうと。
どうかな。
オカルトまであと一歩。

書道よりあぶないかんじが。しますが。

posted by なかのまき at 00:44| Comment(4) | TrackBack(0) | ニセ科学;筆跡学

2010年02月09日

書は心の画(え)なり

「書は人なり」とにたやつで、「書は心の画(え)なり」という言葉があるらしいですよ。
またこれが出典不明。

出典不明のくせにやたらとなりなりなりなり言ってるのはなんなんですかねえ。
これもコロ助が出典なんですかね。
というわけでこれから国会図書館いって『キテレツ大百科』全巻通読してきます。
うわさによると、キテレツは風呂にはいってるときもサンバイザーを外さないとか。

というわけでとりいそぎ。

「書は心の画(え)なり」
について紹介されてるブログをご紹介します。

山内美鳳氏オフィシャルブログ
http://www.gakuenblog.com/yamauti/4573

書の道理としては,
『心が美しければ美しい書が書ける』ということ。
テク以前に,私の作品制作の根底もここにあります。
(山内美鳳氏オフィシャルブログより)


たわむれに。
高校の数Aとして考えてみる。

「心が美しい」は「美しい書」であるための何条件なのでしょうか。

いちばんつまらん答えとしては

命題「心が美しい」→「美しい書」は偽である。 反証 心が美しくても字が美しくない人 (実例:○○ ○○氏)
命題「美しい書」→「心が美しい」は偽である 反証 字が美しくても心が美しくない人(実例:○○ ○○○氏)

答え
「心が美しい」は「美しい書」であるための必要条件でも十分条件でもない
○部分にはあなたの知っている人の名前を入れてネ


宿題:「心が美しい」→「書が美しい」が真であることを待遇を用いて証明せよ。(とくにできなくてもかまわない)


石田(1987)についてはおもしろいことがわかったので次にまわします。
いやあ。すごいなあ……

posted by なかのまき at 10:43| Comment(0) | TrackBack(0) | ニセ科学;筆跡学

2010年02月17日

宿題

1月13日の記事の記事でもらったコメントの宿題の答え。
です。



いっぱん:
毛筆=芸術
硬筆=実用
がっこー:
毛筆=実用

の根拠づけのねじれ、おもしろいです。
これは、あとから理屈をくっつけたたためにおきたねじれなんじゃないでしょうか。
つまり、学校に書道がまぎれこんだ
→それで飯をくう人間たちがあとづけの理屈が必要になったのででっちあげた。

いったん、まぎれこむと、教育学部の養成課程が強力な利益団体になるので、そこであれこれ言説がでっちあげられることになります。ほかの教科同様に。

どういう経緯で習字がまぎれこんだのか、しらべてくれませんか?戦後の教育課程審議会?みたいなものですこしは議論されているはずですが。どさくさまぎれの気がする。



こちらのコメントです。
っても、私は一次資料にあたってなくて、
論文の紹介ですが。


論文を2本紹介します。


明治大正期〜戦前の書道教育について
樋口咲子(1998)「教授理念の授業への関わり方に関する考察 「書キ方」期から芸能科習字への変遷を追って」『書写書道教育研究』12 pp.1-9

戦後
加瀬琴已(2002)「戦後の教育課程における毛筆の位置付け」『書写書道教育研究』16 pp.11-21

どちらも『書写書道教育研究』という雑誌にのった論文です。
この雑誌はいいですね。
あんまり、図書館にないことがおおいので、私は全巻欲しいなあ。

まあ、たまに、疑似科学全開なタイトルの論文もありますけど。
塩田由香・田中由希子・押木秀樹(1998)「書写指導の目標論的観点から見た筆跡と性格の関係について」『書写書道教育研究』12 pp.40-47

筆跡と性格の関係についてって……
筆跡学(クラフォロジィ)は疑似科学なんですよね、ウィキペディアさん。

あ、ちなみに、この疑似科学臭がプンプンする論文タイトルですが、結論はものすごーく、まっとうです。

現時点において、字形特徴と本人の性格についてその関係を明確に立証できていない。ということは、性格とは関係ないにも関わらず、字が与える印象によって、第三者は本人の性格を間違ってもしくはゆがめて理解してしまう危険性を持つことになる。本人の情報を多面的にとらえることの出来る場面は、大きな問題にはならないであろう。しかし、各種試験等の履歴書など提出書類の場合などは、少なからぬ影響を与えることも考えられる。(47p)


ほら。まともでしょう。
「大きな問題にはならないであろう」のところ以外。
どんな場面であろうと、文字面を人格と結びつけたら、大問題ですよ。
で、結論です。


結論として、書字指導では、よい印象を与える方向での指導ということも必要であろう。ただし、それが学校教育の国語科書写指導の目標として適切なものかどうかという点は、別の視点から考察する必要がある。(47p)


……あ、前言撤回。やっぱりぜんぜんマトモじゃないわ。
「ただし、それが学校教育の国語科書写指導の目標として適切なものかどうかという点は、別の視点から考察する必要がある。」とかいいわけしつつも、「結論として、書字指導では、よい印象を与える方向での指導ということも必要であろう。」なんだ。この結論。
こどもに、「えらい人から気にいられるような字をかきましょう」って、奴隷根性を押しつけちゃだめでしょう。
これは、だめでしょう。

あ。疑似科学論文に気を取られました。
えっと、話をもどして。

樋口論文と加瀬論文はそれぞれとても面白いので、また個別に紹介します。

あと、
備忘
今後書きたいネタ

・とめはね7巻について
 「漢字仮名交じりの書」は、読める字(=実用)ですよ?


・疑似科学
 ・筆跡学を拾って来ちゃだめって何回も言ったでしょ!捨ててきなさい!
  (――以前何人かの心理学者がこの種の実験(=筆跡分析)の実験を行ったところ、概して筆跡学者の成績はよくなかった。筆跡分析家がこの種のテストでいつも高い成績をあげられるようになるまでは、彼の仕事は正統心理学の周辺をうろうろするしかないだろう――マーティン・ガードナー著/市場泰男訳『奇妙な倫理2 なぜニセ科学に惹かれるのか』早川書房2003 p.227)


 ・右脳とか左脳とかやめてほしい。
(左利きが芸術脳とかいって、私は言語には弱いってことですか?あなた、いったい私がその言葉で傷付かないと思ってるんですか?)

 ・にわか勉強しておもったこと。血液型性格診断はいやだなあ。
(まあ、私は自分の血液型しらないから対岸の火事なんですけど)



 
posted by なかのまき at 22:56| Comment(0) | ニセ科学;筆跡学

2010年03月09日

筆跡と個性

筆跡学について。

というか、まあ、あまりかかわりたくないのですが。
なんか、一方的に「疑似科学」とか決めつけるのもよくないなあとおもって文献を探してるのですが、「筆跡と性格は関係ある!」っていってるのはものすごく古いのしかなくて困る。

さがしてるなかで、なんかおもしろいのが見つかったので紹介します。
今日のは、ほんとうに、ネタです。
これでなんかいいたいわけではありません。ぜんぜん。

『筆跡と個性』(浅見喜舟・内田老鶴圃・昭和36)

1961年の本です。
古。新書だけど(←つまらない)。
ただまあ、べつにこれが突出して古いわけじゃあないので。
これくらい古いのがばんばん出てきます。

さて。本題にはいります。

この本の、「子供の書と顔の対象」(pp.146-159)
という章が

書で人柄を判断したり、写真で、その人柄をうらなう者のあることを、知る人ぞ知るである。ここに、書と写真を対照して感想を述べるのも、意義があると思う。(p.146)


という出だしではじまるこの章ですが。
いきなり「うらない」宣言してますけどいいんでしょうか。
まあいいや。
えっと、こどもの書と写真が堂々とのせられていて、なんかそれについて書く、という形です。
なんか、個人情報? なにそれ?
みたいなおおらかさがあよく伝わってくる章です。

いちおう、紹介する写真には私がぼかし入れてます。

はい。あ、あと画像はサムネイルです。クリックすると大きいのがみられます。

s10.jpg

小学一年生
キョトンと下向き顔で、話せば、スグわかるという顔つき、平凡でない顔つき、眉毛は上へ開いて、口をかたく結んで、きれいな気持。字を見ると、よくもこれほどきれいな線を出したものだと感心する。これが一年生の字であり、腕である。全体のまとめ、全体のきれいさ。名も肌がきれいである。この子の身も心もきれいだろう。(p.158)


えーと、これはポエムですか?

なにこれ。
ひどすぎるだろ。
ポエムにしてもひどい。
前衛的すぎていみがわかりません。
なにを真面目に新書でポエムを書いてるんだよ。

というか、小学一年生の子に向かって「名も肌もきれいである」っていやらしいな! え? これをいやらしいとか感じる感性がいやらしいのか? 私がいやらしいのか?
あ、よくみたら「名も肌がきれいである」って書いてある。「名も肌もきれいである」とか読んだ私がいやらしいんですね。とか思ったら次の文で「この子の身も心もきれいだろう」ってやっぱりお前がいやらしいんじゃないか!
小学一年生の幼女にむかって「身も心もきれいだろう」って。


で、これはまだいい方です。
次がもっとひどい。
ポエムどころじゃない。

s4.jpg
小学五年生

いかにもいなかの子どもらしい風貌である。この子はお習字が上手だとほめられながら練習しているだろう。仕事の筋を通す忠実な顔つきである。余り飛躍した気持もなければ飾り気も少ない。書を見ると構えが大きくない。からだの大きい割に字が内向的である。腕の回転が余り大きくないところに、地味な顔と心を察することができる。(p.149)



「地味な顔と心を察することができる」って、察するな。そんなもん。

「いかにもいなかの子供らしい」とか、もう、個人情報どころか「人権? なにそれ」な時代ですかね。
いや、これはぜんぶ時代のせいにしてしまってよいのだろうか……

時代とかより、この本を書いた人がだいぶトンチキなんではないか。

著者紹介には以下のようにあります。

浅見喜舟

明治31年生
 千葉師範学校教授
 教科書編纂委員会・東京第一師範学校講師などを歴任
現在 千葉大学教授

うわー。たちが悪いな。
これ、ほんものの書道教育の関係者だ。というか

千葉大学教授

posted by なかのまき at 23:03| Comment(2) | TrackBack(0) | ニセ科学;筆跡学

2010年03月13日

『ニセ心理学にだまされるな!』にだまされるな! というきもち。

筆跡学について。

もう、この先は怖いものみたさでやってるかんじで。
筆跡学について

『ニセ心理学にだまされるな!』(古澤照幸・同友館・2007)
という本があります。

ニセ心理学にだまされるな! (Doyukan Brush Up Series)ニセ心理学にだまされるな! (Doyukan Brush Up Series)

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心理テストやら占いやら血液型性格診断やら筆跡鑑定やらのうさんくささについて述べた本です。
筆者はプロフィールによると、
1958年うまれで、都立大の大学院をでて、現在は埼玉学園大学の准教授ということだそうです。社会心理学者だそうです。

で、この本、帯に
「ananの読者よ目覚めよ!」
とかかいてあるけど、それがちょっと下品だとおもう。

どっちかというと、anan読んでおどらされてる小娘より。
就職活動で、「人柄を判断するから履歴書はてがきで」とかいったり就活の面接で「血液型は?」とかきいたりするふつーの社会人のほうが大問題でしょ。
まっさきに目覚めなくちゃいけないのはそっち側です。

「面接で血液型きかれるの?」
ってびっくりしますよね。私もついこのあいだまで「そんなんあるわけないよね」って思ってました。

こちらのブログをみるまでは。
面接で血液型を訊かれた人募集

あああ。
やっぱり、ananの読者よりこっちを。こっちを帯にかいてください。
「血液型を気にする面接官よ目覚めよ!」

はい。それで。
この本、なかみもちょっと「あれ?」っておもうところがあるのですが。
とくに筆跡学のところ。

まず、本書から引用します。



3−2 性格の心理学
(2)性格の構造

類型論
 類型論とは、人をいくつかのタイプに分類し、それぞれのタイプの性格特徴を記述し、人を理解しようとする研究領域と考えることができます。この点でニセ科学である血液型性格診断も類型論ということになります。

体液説:もっとも古い類型論としては古代ギリシャのヒポクラテスが作り、その後、ガレノスが医学的に発展させた「四体液説」があります。
四体液説:血液、黄胆汁、黒胆汁、粘液のうち何が優勢かによって、多血質、胆汁質、憂鬱質、粘液質という4つのタイプに人を分類するものです。(略)
クレッチマーの類型論:体液ではないが、同じ身体を用い、その体格から人を分類したのがクレッチマーの類型論です。クレッチマーは、精神科医として、患者と接している間に体格と性格との間に関係があることを見出しました。すなわち、肥満型には躁鬱病が、細身型には精神分裂病(統合失調症)が、闘士型(筋肉質型)にはテンカンがそれぞれ多いことを発見したのです。精神病ではない正常な人には体格と性格との間に関連があるとし、肥満型は躁鬱質、細身型は分裂質、闘士型は粘着質としました。(略)
外向型・内向型:精神分析家のユングは外向型、内向型という2つの類型を提出しました。(略)
(p.155-157)


えーと。
これ、心理学は心理学でも、「学史」ですよね。
まさかいまも心理学者は人を体液で分類したりしてませんよね?
というか「血液、黄胆汁、黒胆汁、粘液のうち何が優勢かによって」って、なに。優勢って、どういう状態を優勢っていうんですかね。血液と胆汁と粘液を比べる意味がまったくわかんないですね。

クレッチマー類型論もすごく飛んでますね。
えーと、そもそも文章がよくわかんないんですが?
「クレッチマーは、精神科医として、患者と接している間に体格と性格との間に関係があることを見出しました。」

うん。

「肥満型には躁鬱病が、細身型には精神分裂病(統合失調症)が、闘士型(筋肉質型)にはテンカンがそれぞれ多いことを発見したのです。」

えーと。
躁鬱病も精神分裂病もテンカンも性格ではないでしょ。
「体格と性格との間に関係があることを見出しました」って。
心理学の人にはわかるのかもしれませんが、素人からみるとここの文章の意味がさっぱり。
まあいいや。そこは重要なポイントではないので。

で、

「精神病ではない正常な人には体格と性格との間に関連があるとし、肥満型は躁鬱質、細身型は分裂質、闘士型は粘着質としました。」

ふーん。
……え、学史ですよね?

「むかーしむかし、あるところにクレッチマーさんという学者さんがおったそうな。ある日クレッチマーさんは体格から人格を分類できるとおもいついたということじゃ。めでたしめでたし」

って。そういう、昔話のことですよね。
いま、心理学の人は「肥満型・細身型・闘士型」なんてやってない……です……よ、ね?


とおもったら。大学の筆跡学の研究で「クレッチマー類型論」がつかわれてたー。
『ニセ心理学にだまされるな!』で堂々と紹介されてます


3-4 筆跡学と筆跡診断ーーその科学性
ここでは、科学としての筆跡学について話を進めながら、民間で作られた筆跡診断を筆跡学からとらえ、実際に筆跡診断に利用できるものかどうか、つまり筆跡診断の有用生について検討してみましょう。(p.188)


あれっ?
そもそも筆跡学が疑似科学でしょ?
「科学としての筆跡学」? 
なにそれ。


(3)筆跡学と民間の筆跡診断の比較
四角とていねいさ
 筆跡のイメージと性格との対応づけについての一連の実験心理学的研究があります。
(略)

被験者たちをクレッチマーの3類型に分類する

被験者たちの筆跡を他の被験者に評価してもらう

気質ごとに各因子の得点を算出する

 

え?
クレッチマーつかっちゃうの? ここで?
いやー。すごいな。
あ、これは
槇田仁(1982)『SCT筆跡による性格の診断―表出行動についての基礎的研究』金子書房
という文献をふまえての文章です。

槇田氏が、1982にクレッチマー類型論をつかって筆跡心理学の研究をおこなったということですね。そうですか。
いや。うん。
……え?
心理学としてはこれでいいのですか?
これは、ちゃんと心理学の学問として価値のある研究と、古澤氏はみなしているということですね。
ふーん。

フランスやドイツで長い歴史をもつにもかかわらず学問的に立証できなくて、疑似科学とされていた筆跡学が、日本で実を結んだのですね! すっごーい。これは世界的大発見ですね!
そのわりには2007年にでた本の参考文献に1982年のものしか出せてないなんて。これは世界規模での損失ですよ!
日本の心理学者さん、筆跡学は日本が世界のトップレベルにあるんですから。ちゃんと研究しなきゃ!
ざんねんですね。ええ。ほんとうに。

古澤氏は
大学の研究室で行われている「科学としての筆跡学」と民間で作られた「筆跡診断」を比較する、というやりかたをとっています。
で、

ここでは、一応の基準を研究側に求め、どの程度一致するかが筆跡診断の成績としておきます。(p.213)


としてます。
大学の研究室で行われた筆跡学が基準で、そっから俗流筆跡診断を評価するんですね。
疑似科学で疑似科学を評価する意味は?

お天気予報と下駄占いがどれだけ一致するかで、下駄占いの評価をする、っていうようなかんじなんでしょうけど。

「お天気予報とこれだけ一致してないのだから下駄占いは信じちゃダメ」
みたいな。でも、
どっちかというと

こっくりさんに明日のお天気をきいた結果と下駄占いがどれだけ一致するかで、下駄占いの評価をしているだけでしょう。

「こっくりさんとこれだけ一致してないのだから、下駄占いは信用できない」
とか。
いや、だってそもそもこっくりさんが信用出来ないんだから、こっくりさんと一致しなかった結果が、下駄占いが信用できないことにはならんでしょう。


なにかっていうと。
民間でお金をとってやってる筆跡診断は「ニセ心理学である」
これはいいでしょう。
じゃあ、大学の研究室で行われていた筆跡学は、なに?
あれは疑似科学じゃないの?

古澤氏は、筆跡学についてこう評しています。

手書き文字および書字行為の研究者によると、(脚注:上越教育大学押木秀樹教授の私信)人間の直感による判断がまったく無意味かというとそうでもないだろうということです。筆者自身も完全に筆跡診断を否定するつもりはありません。(p.57)


押木秀樹氏は、このブログでもなんかいかとりあげた、書道教育の人ですね。
えーと。っていうか、字と性格についてみたいな論文も紹介したことありますね。
もういちどひっぱってきます。

塩田由香・田中由希子・押木秀樹(1998)「書写指導の目標論的観点から見た筆跡と性格の関係について」『書写書道教育研究』12 pp.40-47

現時点において、字形特徴と本人の性格についてその関係を明確に立証できていない。ということは、性格とは関係ないにも関わらず、字が与える印象によって、第三者は本人の性格を間違ってもしくはゆがめて理解してしまう危険性を持つことになる。本人の情報を多面的にとらえることの出来る場面は、大きな問題にはならないであろう。しかし、各種試験等の履歴書など提出書類の場合などは、少なからぬ影響を与えることも考えられる。(47p)


押木氏も名をつらねるこの論文で、「現時点において、字形特徴と本人の性格についてその関係を明確に立証できていない。」「性格とは関係ないにも関わらず、字が与える印象によって、第三者は本人の性格を間違ってもしくはゆがめて理解してしまう危険性を持つことになる」と、ものすごくまっとうな指摘がされています。

ふつうさあ。
私信よりは公開された論文を優先的に紹介するのが研究者の仁義じゃないですかね。
「手書き文字および書字行為の研究者によると、(脚注:上越教育大学押木秀樹教授の私信)人間の直感による判断がまったく無意味かというとそうでもないだろうということです」
このくだり、いらないよね。

どうしても押木氏の名前出したいなら、

手書き文字および書字行為の研究者によると、現時点において、字形特徴と本人の性格についてその関係を明確に立証できていないそうです。筆者自身は完全に筆跡診断を否定するつもりはありません。

(脚注:塩田由香・田中由希子・押木秀樹(1998)「書写指導の目標論的観点から見た筆跡と性格の関係について」『書写書道教育研究』12 pp.40-47)
とするべきじゃないでしょうか。
なにいってるんだかわからない文章になるけど。

それでね、「ニセ心理学にだまされるな!」でも参考文献として紹介してある
黒田正典(1980)『書の心理―筆跡心理学の発達と課題』誠心書房

ですが。私もいま、手元にもってます。
これ、あれなんです、改訂版なんですが、初版は1960年です。
しかも

品切れ中の旧版の誤植・誤記を訂正し、いくらか補筆をして再版することをおもいたった。(序)


ってかいてあるから、まあ。だいたいは1960年の研究と考えた方がよいのでしょう。ふるいなあ。

それでね、黒田(1980)を引用しましょう。



筆跡学と筆跡心理学

その三、伝統的筆跡学では、筆跡研究者と筆跡観察者とは同一人である。これに対して、筆跡の心理学的研究では、この二つの役割は別な人がやることが多い。これも研究の客観性を保とうとするためである。
 筆跡研究が、これらの条件をより多く満たすほど、それだけいわゆる「科学的」な研究となるであろう。本書が副題に筆跡心理学という語を入れたのも、そのような研究をめざすためなのである。ただし、注意すべきは、方法が客観的になりさえすれば、優れた筆跡研究をすることができるとはかぎらないことである。かえって認識内容が貧弱になることがある。伝統的な面相学的筆跡学の要素も、科学的な筆跡心理学にとっても必要なのである。(p.3)


筆跡学は、「客観的」だけだと貧弱になるんだって。
「伝統的筆跡学」によって入り込んでくるのは、うらないの要素でしょうね。それは科学的な筆跡心理学とはあいいれないものです。


『ニセ心理学にだまされるな!』にもどります。
古澤氏は、


実験心理学の系統では、実験を研究の主体としますが、その他の研究領域でも実験を使用するのは先に述べたとおりです。ただし、心理学では、対照や内容により実験をおこなえないこともあります。こういった部分を補う意味で調査や観察、テストを行うのです。したがって、実験心理学だけでなく、心理学分野の多くは、自然科学を標榜しているのです。分野によっては自然科学とは言えないまでも、心理学は科学として成り立っている学問です。(p.152)


と述べています。「心理学は科学として成り立っている学問です」なのであれば、参考文献に黒田氏の本を「心理学」の文献として紹介するのは慎重になったほうがいいでしょう。
「方法が客観的になりさえすれば、優れた筆跡研究をすることができるとはかぎらないことである。かえって認識内容が貧弱になることがある」とか書いてある文献なんですから。


えーと。
私のいいたいことをまとめます。


なんの知識もないでよむと、

古澤氏の『ニセ心理学にだまされるな!』の筆跡学の箇所は。
へんです。

まるでこの社会に「大学の研究室で行われている正統的心理学としてのな筆跡学」と「民間で金儲けのために行われているニセ科学・ニセ心理学としての筆跡診断」があって、
「筆跡診断はけしからんけれど筆跡学は信じていいかもしれない」

みたいにね。読めてしまうでしょう。
私はたまたま、押木氏や黒田氏の文献に目を通していたので、「なにこれ」って思っただけです。
私だって予備知識がなければそう理解してしまいます。

でも、それはちがうでしょう。

民間で金儲けのために行われてる筆跡診断も、大学の研究室で行われた筆跡学も、疑似科学ってことではおなじです。
同じじゃないように書いてあるようによめるので、きもちわるい。

いや、黒田氏のやってた、1960年ころだったらまだ、「未科学」(これから実証出来るかもしれない分野)として、研究された、ってのでもいいかもしれませんけど。
ね。

う〜ん。
一般書なんだから。
心理学の素養のないひとが読むんだから。
なるべくわかりやすく書こう!
っていう姿勢があって。
こんなことになっちゃったのかな。

posted by なかのまき at 12:35| Comment(0) | TrackBack(0) | ニセ科学;筆跡学

2010年03月17日

右脳とか左脳とか

『ハインズ博士「超科学」をきる 真の科学とニセの科学をわけるもの』(井山弘幸訳、科学同人、1996)



右脳・左脳相違説(pp.367-373)

人間の頭脳の二つの半球には機能の違いがあるという事実は、今や大衆文化の一部に吸収されていて、自動車の宣伝に現れたりするほどである。一般の見解では、右脳と左脳の動きの相違はかなり大きいとされている。左脳は合理的で、科学的な思考を制御しており、右脳は芸術・創造性や直感が宿る場所となっている。(略)
脳の両半球に焦点をあてた研究は以前からたくさんあって、代表的なものにガザニガとルドゥー、スプリンガーとドイッチュ、ブライデンそしてヤングらの研究がある。これらの研究からわかったことは、一部の例外を除いて、左右半球の機能差は予想に反して小さいものである、という事実である。もちろん脳の機能という観点からは、理論的な関心は非常に大きいものなのだが、いわれたほどの違いはないということだ。巷の右脳・左脳相違説が立てている機能の厳密な分類(たとえば、芸術性は右脳にあって、左脳には芸術的才能が潜んでいないといった分類)すらも成立していないのである。



はい。ということで右脳・左脳はニセ科学でした。

ということをふまえて。

右脳・左脳について科学じゃなくて文系から考えてみる。

なんか、

「左利きは右脳人間だから芸術に優れているね」


っていうのは、
ちょっと前、ほんと、よく言われたんです。
脳関係のあやしい言説が飛び交っていた頃ね。

ハインズ博士がいうところの、
「左脳は合理的で、科学的な思考を制御しており、右脳は芸術・創造性や直感が宿る場所となっている。」

ですが。
そこからね、左脳型人間(論理・言語に強い)と右脳型人間(芸術にすぐれている)がある、みたいなね。いうひといますよね。


私は、じぶんでは、上の二分法で脳あそびをするなら、
右脳型だとおもうんですよ。あくまで遊びですよ。信じてはいません。が、まあ。どっちかときかれたら。
っていうか、そう考えないとやってられないですよね。
自分が右脳型人間だと思いながら大学院生やるのなんか、ただの拷問でしょ。
「私は合理的で科学的な思考をする左脳型人間ではなく、芸術にすぐれた右脳型人間だ」と思いながら研究するなんて。
まことに残念な人生ですよね。
いやだ、そんな生活耐えられないよ。

いや、まあ。そういう脳あそびを私はしないので。
私の人生はぜんぜんつらくありませんけど。


ただ、ほんとーに理解できないのは。

「あなたは左利きだから右脳人間ですね。芸術にすぐれてるんですね」

っていうひと。あれはねー。なんのためにいってるのかなあ。
わたしを怒らせるためにいってるとは思えないけど、(思いたくないけど)
ここ、私、怒っていいよ……ね?

大学院生のころ、研究会の合宿の日に、だしぬけに後輩にこれ言われて、私、後輩にむかってかみついてしまったことがあるんですよ。

「左利きだから右脳型ですね。芸術にすぐれてるんですよね〜」
「じゃ、私は言語にすぐれてないってこと!?論理的じゃないってこと!?」

近くにいた私の同期にいさめられて、私はだまったんですけど。
あれ、ほんとうによくなかった。私の学校ね。
先輩後輩に厳しいんです。

みんなでご飯たべにいって、後輩が
「先輩、ここすわりますか〜?」
とか言ってたのを、私の同期が、
「あいつ、私をあんな下座にすわれとか」
って、かげで私に愚痴ってきて。
ひー!ただ一緒にごはん食べにいくだけで下座とか言い出す同年代。すごくいや。

でね。そういうところで、私は感情的に後輩にかみついちゃいけなかった。先輩にさからっちゃいけない、っていう空気の中で後輩、ほんとうに怖かったよなあ。
と。とても反省してます。
でもね、こういう上下関係さあ。上の人にくちごたえできない、っていう害もあるけど。下の人と対等に議論できないんですよ。
こういう習慣は、大学っていう場所ではぜったいだめだとおもう。

まあ。それ以来反省して「あなたは右脳〜」とかいわれても、怒らないようにはしてるけど。
「え、じゃあ言語にすぐれてないってことですか」ってイヤミを言うくらいは……いいよね。
私も結構ひどいこといわれてるんだし。

うーんとね。

たとえば。

美大にいって。
右手で絵をかいてる人の傍によって、肩をポンとたたいて、

「右手利きは左脳人間、つまり論理や言語にすぐれているんですよね。芸術にすぐれているのは左利きの右脳人間なんですよ」

という。

私に「左利きは右脳型」とかいったひとは。
それをやるといいとおもう。
まあ、そんなわけのわからんことを突然いえば、なぐられても同情できないな。

あ、すみません。
まえおきが長すぎです。

本題いきます。


ところでさ。


左脳=理論・言語
右脳=芸術

ってことに、脳あそびしてるひとの中ではなってますけどさ。

理論・言語と芸術って、等価ですかね?


ナンシー関氏の
記憶スケッチアカデミー
っていうサイトがあります。
リンクはってあるのでぜひみてください。

ここには、普通の人々が記憶をたよりにかいた絵がのっています。

四本足のカマキリを書く50歳・女

とか。

7本足のニワトリをかく59歳・男

とか。

全身が真っ白で耳もないパンダをかく33歳・会社員

とか。

もちろん、面白いものを厳選しているにしたって。
絵なんかかけなくても、日常生活になんの支障もないんですよ。
カマキリの足の本数まちがえて書いたって、みんなまいにちはたらいて、元気に暮らしていけるんです。

いっぽう。
「怪我」を「かいが」とよんでたいへんなことになった人もいますよね。
いや、漢字を読める=言語力ではないですけど。ぜんぜん。
でもね、会社ではたらいていて書類つくるとき、カマキリの絵はかかされませんが。文字、文章は書かされるし。あるていどの論理的な能力は必要でしょ。
学校を卒業しちゃえば、字をほとんど書かなくても支障ないってひとはほとんどいないけど。
絵をかかなくても生きていかれる人って、たくさんたくさんいますよね。


言語や理論と絵(まあ、芸術)とをくらべて。
どっちが、ふつうのひとがふつうに生きる、
生活の上で重視されてるかっていうと。
言語・理論ですよ。

ぜんぜん等価じゃないでしょ。
言語と絵は。


はい。
それで。


右利き=マジョリティ=言語・理論
左利き=マイノリティ=芸術

あら?
これはただの偶然かしら?
それとも……?


いや、ね。

なんだっけー。
あの日本におけるニセ科学の代表選手、血液型性格診断のね。
「性格悪い担当」をB型が引き受けてるのはね、日本にB型の数が少ないからだろ、っていう指摘は。
ありますよね。
血液型性格診断は、たわいもない遊びではなく。
とってつけたようなマイノリティいじめっていう面もあるんです。

それ考えると。
まあ。


右利き=マジョリティ=言語・理論
左利き=マイノリティ=芸術

ただの偶然以上のものはあるんじゃないかしら?
これがニセ科学ならなおのこと。

いろんな怪しい言説がごまんとあるなかで、これが選ばれて広まった、その理由はここらへんにあるんじゃない?
私たちにつごうがいいから信じたい。そういうの。

ニセ科学はニセではあるんですが、ほんのちょこっと真の科学であるところの元ネタが混入してるところがミソなんです。
もし仮に、元ネタが逆だったら……?

右脳=言語・理論
左脳=芸術

だったら、
ここまで広がったかしら?


右利き=マジョリティ=芸術
左利き=マイノリティ=言語・理論

だとしたら……?
文学部に籍をおいて脳のことなんかいっこもかんがえたことないような大学生がいきなり先輩に向かって「右脳〜」とか言い出すくらいにまで、広まったかしら?



(全体的に右脳型=絵がうまい、左脳型=文章がうまいくらいにざっくりした乱暴なことを言っていて、荒い文章に見えるかもしれませんが、だってそもそも右脳・左脳とか言い出す側がそれくらい素朴な価値判断でものをいってるだけなんだから。これでいいでしょ)
posted by なかのまき at 23:15| Comment(0) | TrackBack(0) | ニセ科学;筆跡学

2010年04月30日

「字で人柄を判断されちゃうこともあるから」……なんだ?

2010年1月11日の
「書道と二次元美少女について」

の記事でかいた、ユーキャンのCMについて。

「字でその人の人柄まで判断されるからボールペン習字に金を落とせ」と、蒼井さんが言ってるCMですが。

これ、ユーキャンはいったいなにをいってるのか。
ということを。考えて。
まず、ボールペン習字の金ヅルは字の汚い人(というか、自分は字が汚いと、てがきコンプレックスをもっている人)であるということはまあ、議論の余地はないでしょう。
字が汚い人に、「お前の人柄が字で判断されてんだぞ」と、おどしをかけているわけです。
が、いろいろかんがえられます。

1.字と人柄の関係は明確にできてないけど(そして長い歴史をかけても関係あるっていう結論をだせてないけど、だからこれからも出せる可能性はだいぶ低いけど)、どっかの迷信深いひとが「字が汚いとそのひとの人柄まで汚い」なんて決めつけてアホなことを言い出すかもしれないから、そんなことで損しないように、ペン習字をならいましょう

2.字と人柄に関係があって、あなたは人柄が汚いから字も汚いんだけど、せめて字だけでも矯正して世間をあざむき、あなたの悪い人柄を(いずれはばれるけど)一時的に隠蔽しましょう。

3.字と人柄に関係があって、あなたは字が汚いから人柄も汚いんです。字をうつくしくすることで、あなたの人柄も美しくなります。


さあ。どれがいいですか。
いや、どれがいいって問題ではないけど。
というか。どれもいやだけど。というか、どれも失礼きわまりないはなしですが。

1はただのカモ宣言ですよね。
「ユーキャンは筆跡学というニセ科学を(わかってて)商売道具にしてる。おまえはいいカモだ」

で、2がわりと建設的で最悪。

ということで、ここでは3ということで考えましょう。

汚い字を美しくすることで、悪い人柄の矯正までできるという。
なんておとくな。

で。私は字も心も汚いので。
ユーキャンのボールペン習字に金をおとすと、人柄もよくなるんですよ。

字がうまくなれば、人柄もよくなってね。
「左手ききが字をかくときに不利益をこうむってる」
とかいわなくなるんですよ。
「やっぱり、協調性ってたいせつよね、私も右手で字をかく練習をしなくっちゃ」
とかね。いうようになるんですよ。いい人だー。
「左手ききはパソコンで字をかけとか、人をばかにするのもたいがいにしろ」
とは言わないんですよ。
「やっぱりね、人間、謙虚にいきなきゃ。不満を言わないことがたいせつ。私1人がちょっとガマンすればいいだけの話よね。うん、私、手書きの字が書けなくて不便な思いしても、文句いわない!」
って、言うんですよ。
「字が汚い人は人格がみすぼらしいとか決めつけるなんて、最悪だ!」
とかいわないんですよ。
「ニセ科学を信じている、その人にも信仰の自由はあるのよ。いくら、根拠のない自分の思い込みだけで他人にひどい判断をくだす人であっても、やさしく見守ってあげなくちゃ。どんなにちっぽけな虫けらだって、ガンバって生きてるんだから!」
って……あれ。
「人柄がいい」とはいえませんね。人を虫けらあつかい。
あれ。いくら一生懸命演じても、そもそも私に「いい人柄」の構想がないから、こんなことになっちゃうわけで。
えーと、そもそも「人柄がいい」って、どんな状態の人のことをいうんですかね。



あ、そうそう。
「美文字トレーニング」ですが。
ちょこっとやってみたんですよ。
あの、すごい笑えましたので。
これは、動画でご紹介します。
実況プレイ動画で。

とりあえず、でも「美文字トレーニング」と一緒に買った美少女ゲームをやるので忙しいので。
もう、ゴールデンウィークはずーっと美少女ゲームやってますので。「美文字トレーニング」はその後。


posted by なかのまき at 21:27| Comment(0) | TrackBack(0) | ニセ科学;筆跡学

2010年05月11日

いがいと筆跡診断が元気なんだときづいたわ

またおまえか。DS。

「脳を鍛える大人のDSトレーニング」

ここに筆跡診断が。

漢字を使って、あなたの筆跡から性格を判断します。

えー。
なんでまた。

まあ。このゲームの監修、川島隆太氏が
(東北大学未来科学技術共同研究センター)
科学者なのに筆跡診断なんてニセ科学を信じていいのか、
っていうことになると。
まあ、研究者も専門をはなれてしまえば、
けっこう落とし穴があるってことは。
自戒をこめて。
考えなければいけないのでしょうが。

それでも、ゲームなんてものに取り入れるんだったら、慎重になるべきだったでしょう。
筆跡学や筆跡診断が、ニセ科学といわれてるってことは。
ちょっと調べればわかるはず。
軽く論文をさがしてみればいいんです。「性格と筆跡に関係ある」っていってる、まともな論文はないでしょう。
で、わかってて取り入れたんだとしたら、もちろんそれはゆるせません。
川島隆太東北大学未来科学技術共同研究センター教授。
「科学」の肩書きをもってニセ科学に加担しないでください。

あとは。
予告していた、「左手でDS美文字トレーニング動画」の準備をしてます。


yosiko posted by (C)nakanomaki

デジカメでとったのを動画共有サイトにあげて、ブログにはるっていうのがいいかな。とおもい、アカウントをとってみました。
テストで貼り付け。
うちにいるおおきなネズミ。
見えてるかわからないので、見えないというかたがいたらご連絡ください。
てだてをかんがえます。

いちおう、美文字トレーニングの撮影もしたんだけど。
見返すのがつらいのでふてくされて放置してます。
まあ、そのうちね。


posted by なかのまき at 11:17| Comment(0) | TrackBack(0) | ニセ科学;筆跡学

2010年05月13日

しまうま

ZEBRAのサイトにてはっけん。

「しまうまくんの筆跡診断テスト」


筆跡診断は、書かれた文字の一つひとつの特徴を心理学的に分析して
書いた人の性格や考え方、行動の特徴や傾向を読み取る「筆跡心理学」です。

文字を書くことは、歩く、経つ、話すなどと同じひとの「行動」。
書かれた文字は、その人のあとに残された足あとのようなものです。
深層心理がはっきりと現れるので、自分では気づかない自分自身を知る手段にもなります。

筆跡診断は決して性格を決めつけるものではありません。
自分が書いた字を分析する事で、今まで気づかなかった自分を知り、意識的に字を変えていくことで、自分が望む方向に変わっていくことができます。
そのため筆跡診断は、あなたの人生の指南役として強い味方になってくれるはず。
さあ、筆跡診断の世界で新しい自分を発見してください!


発見したくありません!

とりあえず、あしたのために。できることからやりましょう。
っていうわけで、目に付いたZEBRAのペンを全部捨てました。
で、私、あとでZEBRAのお客様相談窓口にメールします。
で、このページをどうにかするまで、私はZEBRAのペンをかいません。

posted by なかのまき at 23:03| Comment(2) | TrackBack(0) | ニセ科学;筆跡学

2010年08月26日

ニセ科学と書育

大手筆記具メーカーZEBRAのニセ科学ページ
「しまうまくんの筆跡診断テスト」

をみていてリンクがはられて気がついたのですが。

日本筆記具工業界 書育 書く力は、育む力

というページがものすごく問題だとおもいます。
トップページより引用します。


紙に書いた文字や絵
それが笑っていたり、怒っていたり、まじめだったり、おどけていたり…。
書いた人の顔が見えてきます。手書きは、あったかい。
そう、「手書き」は、自分の身体から出てくる「知」に「心」を込める作業。
知性を育み、感性を育む、手書きコミュニケーション。
私たちが、未来に残さなければならないものの一つです。



こう、どうして手書き擁護ということになると精神論に走りがちなんだろう。
ZEBRAがニセ科学筆跡学に走ってしまったのもこのへんにあるのでしょう。
パソコンによってペンの売り上げが落ちるという恐怖感から、パソコンを悪者にしたてあげて手書きの大切さをうったえる。
という。

中のページも引用します。

書育とは?

書くことによって三つの力が育まれる。
昨今、携帯電話やPCの普及により筆記具を使って書く行為が少なくなっています。その影響で、日本語力の低下やコミュニケーション能力の不足、脳の働きの低下なども起こっていると言われています。

「書く」という行為には、文字を記録する以外にも様々なメリットがあります。例えば、

◦気持ちや考えを表現し、相手に伝える
◦創造性を高め、思考を刺激する
◦目標を心に深く刻み、記憶を高める
日本筆記具工業会では、このような「書く」ことの大切さを、より多くの方々に知っていただき、そのメリットを感じていただけるような活動を「書育」(しょいく)と名付け、広く社会に貢献していけるよう、各会員企業と共同して続けてまいります。

でね。
何度も書きますが、

左手書字者は「パンがなければお菓子をたべればいいじゃない」みたいなノリで、「左手で字が書きにくいならパソコンで書けばいいじゃない」っていわれてるんですよ。

それかんがえたら、

「昨今、携帯電話やPCの普及により筆記具を使って書く行為が少なくなっています。その影響で、日本語力の低下やコミュニケーション能力の不足、脳の働きの低下なども起こっていると言われています。」

よくもこんなふざけたことをかけますね。
左手書字者に手書きを禁止するような人間がいて、その一方で「日本語力の低下」とか「コミュニケーション能力の不足」「脳の働きの低下」と、手書きしないことをおとしめる。
これも何度も書きますが、
パソコンや携帯のおかげで、さまざまな都合で手書きの文字が書きにくいひとやかけない人が文章をかくことときの、負担があるていど軽減できるようになったのです。
それはどうかんがえたっていいことなんです。

それを「PCの影響で日本語力の低下」とか。よくもいえるものですね。


しかも根拠もなく。


手書きと「日本語力の低下」「コミュニケーション能力の不足」「脳の働きの低下」になんか関係あるんですか。
「なんとなく」でそんなことをウェブ上でたれながしてるならゆるせません。
というか、そもそも「日本語力の低下」「コミュニケーション能力の不足」「脳の働きの低下」は本当におこってるんですか?

おこっているのだという論拠をしめしてほしいです。
日本筆記具工業界のひと。

根拠もなくいいかげんなことをいって、しかも特定の人をおとしめるような発言をウェブ上で発信しているのだとしたら。


広く社会に貢献していけるよう、各会員企業と共同して続けてまいります。


この発言と矛盾してます。

さて。

この問題しかないページですが。

書育関連投稿文

というところに。
投稿してる大学の先生。

手書きの機会がへったことと「日本語力の低下」「コミュニケーション能力の不足」「脳の働きの低下」を結びつけるという
非科学的きわまりないずさんなページに名前をだすことにまったく疑問を感じないんですか。

大学で教授とか呼ばれてるひとたちのなかで、こんなにたくさんの人が、手書きと「日本語力の低下」を結びつけて疑問をかんじないというのは。ちょっと、うすら寒い。
ちょっと多すぎるでしょ。これは。

posted by なかのまき at 22:55| Comment(2) | TrackBack(0) | ニセ科学;筆跡学

2010年08月30日

書道教育と脳のあの人

前回の記事のつづき
「日本筆記具工業界 書育 書く力は、育む力」

書道関連投稿文
に投稿してる

鈴木慶子氏(長崎大学教育学部教授)
の研究について。


これはブログで以前にご紹介しました。

鈴木慶子・川島隆太他
『人間の高次脳機能をはぐくむ手書き活動に関する調査研究』
『文字を「書く」ことの活動に関する科学的・実証的研究』

これですね。

書写・書道教育の迷走
で紹介してあります。

これは
科研の報告書です。
なので私は未読です。

さて。
鈴木氏と名前をつらねている

川島隆太氏は、ニンテンドーDSのソフト、

脳を鍛える大人のDSトレーニング

の人ですね。でもって、
これの続編

もっと脳を鍛える大人のDSトレーニング

ではなんと、筆跡診断をとりいれてます。

漢字を使って、あなたの筆跡から性格を判断します。DS本体を机などに置いて書くと良いでしょう。

筆跡診断(筆跡学)は心理学の名をかたるニセ科学ですね。

あと、川島氏の脳関係の説には、批判もありますね。
wikipediaにまとまってます。

川島隆太―wikipedia

週刊朝日[2]は、久保田競(認知神経科学。京大霊長類研究所時代の川島の指導教官)による「(学習療法の効果を論じた川島論文は)不備な点や論理の飛躍が多く、科学的な根拠を示しているとはとても言えない」という指摘、前掲澤口による「20代の健常者を対象とした、そろばん計算などでは複雑な計算時の方が、より前頭前野の血流量が増えるという検証データもある」という指摘、東京都精神医学総合研究所・星詳子リサーチディレクターによる「単純に脳の血流量の増減だけで脳の機能を論じることは難しい」「前頭前野は習熟した行動には関与しなくなる傾向があるので、その場合は血流量の増加が認められなくなる」という指摘などを報じている


この週刊朝日については、wikipediaにリンクがしめしてあります。
大阪大のurlですね。

任天堂DS「脳トレ」に異論続出

ここから、大阪大学の藤田一郎氏の指摘を引用します。

「活性化とは、もともと脳科学では、脳が働く、活動するという意味です。(略)ただ企業側が非常に巧みなのか、『活性化』という言葉を使うことで、全体のメッセージとしては、さも脳のどこかの働きが良くなるという間違った印象を与えている。その点が非常に問題なのです」


で。書育の人。
「脳の活性化」をどういう意味でつかってますか?
だいじょうぶですか?
変なかんちがいしてませんか?

あと。

この朝日の記事ですが、川島氏のコメントものっていて。
そこに、

――ではホームページの内容には問題があると思いませんか。
 ざっと見た感じでは、うまいことつないでいるなとは思いますね。ただ、どちらかというとグレーだけど、ブラックじゃない。そこから先は民間の企業活動ですから口を出せません。その内容が整合されていないからといって、僕を非難するのは間違っていると思います。


という無責任な問答があります。

いや、川島氏はゲームの監修者でしょうが。しかもゲーム中でへんな似顔絵がでてきて、キャラ化までされてるんだから。
これで「僕の意見じゃない。企業の都合だ」みたいなこといわれても。素人には納得いきません。川島センセーが言ってるようにおもってしまいますよ。それは想定しなきゃ。
「僕を非難するのは間違ってる」なんてよく言えるよな。

えーと、
まあ。個人がどんな研究しようとかまいませんけど。

私は個人的には、
川島隆太氏と組んで研究したくないな。
研究内容が批判されたときに、
「脳科学の専門家じゃないなかのまき氏がいったことです。僕を非難するのは間違ってる」
とかいわれないかな。責任をおしつけられそう。

ともあれ。
川島氏は筆跡診断に接近しているのはあきらかです。

書道教育の専門家の鈴木恵子氏は、
そのへんについてはどうかんがえてるのかな。

「手書きの字をみればその人の性格がわかる」みたいな偏見を助長するニセ科学とは、書写・書道教育の人は、少なくとも距離をおいてほしいんですけどね。
できれば
「筆跡学・筆跡診断にはきをつけましょう」
くらいいってほしいんですが。
書字教育の専門家の口から。
posted by なかのまき at 21:41| Comment(0) | TrackBack(0) | ニセ科学;筆跡学

2010年08月31日

筆跡学はニセ科学でいいのか

筆跡学・筆跡診断は、私はニセ科学でよいとおもうんだけど、

「ニセ科学」ってことばや筆跡学・筆跡診断のことをよく知らないと、
「筆跡学はニセ科学である」

っていわれても、抵抗感あるんじゃないかな。
「えー、だって、筆跡に個性ってでるじゃない。私も体験的にそういうの、あるかな、って思ってるんだけど−。そんな、100%うそっぱちって言っちゃっていいの? そういう思い込みこそ、科学的じゃないよ!」
みたいな。

というわけでたとえ話をします。
たとえば、宇宙人はいる、といってる人にも、いろんなこという人がいるわけです。

(1)「宇宙人は存在する」
(2)「宇宙人はアメリカ政府と接触しているがアメリカ政府は隠蔽してる」
(3)「宇宙人は銀色に光っている」
(4)「宇宙人と昨日一緒に飲んだ」

で、ひとつずつ。
(1)「宇宙人は存在する」
「それは絶対ありえない」
って断言するのは難しいし、できないでしょうね。
それを「そんなことぜったいにない!」って言い張るのは、それはそれで問題でしょう。

(2)「宇宙人はアメリカ政府と接触しているがアメリカ政府は隠蔽している」
これにたいしては、
「たわごとをいうな」
って言えますね。
これに関しては、「それは絶対ありえない」でいいでしょう。

(3)「宇宙人は銀色に光ってる」
これは、「絶対にあり得ない」ではないですが。
「根拠をだせ」
で。

(4)「宇宙人と昨日一緒に飲んだ」
「それは本当に宇宙人なのか。宇宙人だという証拠をみせろ」

っていう。いろいろなレベルがあるわけです。
で、(1)に関しては私も否定しませんね。
判断できないので保留します。
(3)〜(4)を言う人にたいして、
「しんじられない」
っていいたいだけですね。
で、「信じてほしいならそれなりの証拠をみせて」
って。

筆跡学もおなじです。

わたしは、
「性格が筆跡に出る」
という可能性を、100%否定してはいません。
ただ、だいぶ低い気もするんですよね。
ちゃんとした研究で、筆跡と性格に関連あるっていう安定した結果がでてないんですね。
でもまあこれは、科学の進歩でなにか変わる可能性だってあるわけで、保留です。
べつにあってもいいですけどね。

で、私がなにを問題だとかんじてるかというと、

ちゃんと結果が出せてないのに、まるで
「心理学的に証明されてますう。真実ですう」
って顔で「ある」っていって、商売にしたりせんせえがこどもの前でいうことね。
この一点において、「ニセ科学」とよばれる資格があるとおもうんです。
筆跡学・筆跡診断。

「ある」っていいたいなら、言い出した側がちゃんと実験して結果をだしてね。
そのさいには占いをつかってる黒田(1980)とクレッチマー類型論を使ってる槇田(1982)を引用しないようにね。
筆跡学・筆跡診断のひとは黒田論文と槇田論文が大好きですからね。
でもそろそろ80年代の論文は賞味期限切れですよ。
ちゃんと責任もって結果だしてから、いってね。

で、それはべつとして。
「べつに絶対そうだってわけじゃないけどさあ。そういう傾向あるかもしれないから、私は筆跡と性格が関係ある気がするなあ」
みたいなゆるい信念をもってる人がいちばん困るんだよな。

そういうゆるーいなにかが、なんとなく、けっこう多くの人に、共有されることで。
「人柄を判断するから履歴書は手書きで」
っていうヨタをゆるしてるんですからね。


字の形で就職が左右されてたまるか。
ふざけるな。
あと、手書きで字を書きたくない人は就職するな、っていうおろかさを許すな。
そういう世の中にしてるのは、みんなの「なんとなく」のせいなんですよ。

できれば、「ぜったいにある」って強固にしんじてるわけではないんだったら。
「ふたしかなものを安易に利用しない」「さわらぬ神にたたりなし」の方向で。
私は、小学校のころに先生に「あなたは男みたいな字だから性格も男みたいにあんまり考えずにいろんなこと決めるんだろう」っていわれたことありますよ。真顔で。
なんかね、真偽がともかくとして。こういうのは、「字が男みたいな女は性格も男みたい」とか「字が汚い人は性格も汚い」とか。どうしたってそういう方向に暴走しちゃうんですよ。
字の形と人格をむすびつける筆跡学・筆跡診断には社会的な問題にしたほうがいいほど、危ない部分をもっていることをちゃんと、かんがえてください。
万が一、もし、本当に筆跡と性格に関係があるっていう、そういう結果がでてしまったら。そのほうがむしろ、「字が汚いから性格が汚い」とかそういう悪ふざけは深刻な社会問題になるでしょうね。
もしほんとうに、「関係ある」っていう結果がでたら。むしろ。素人がおもしろ半分に人の字の形にあれこれいうのは、つつしまなければいけない風潮になるでしょう。
けっこうレベルの高い個人情報ですよ。

ちゃんと考えるのだったら、安易に人格と筆跡をむすびつける言動ができるはずはないとおもうのですが。
よっぽど強固な信念をもっているわけではないかぎり。

だからね。
ああ、そうか。

「べつに絶対そうだってわけじゃないけどさあ。そういう傾向あるかもしれないから、私は筆跡と性格が関係ある気がするなあ」

って、自分は中立よりの偏らない意見のつもりで言ってるのかもしれないけど。
じつは。
「べつに信じてないけどでも……」
って、きりだしながら筆跡学・筆跡診断を一部分でも肯定的に持ち出したら、それだけで。
けっこうかなり、筆跡学・筆跡診断に寄った信念の持ち主だと。
自覚したらいかがでしょうか。

血液型性格診断が科学的根拠ないし、さらにブラハラなんて言葉ができるくらい、差別的であるとして社会問題になってるのに、
「信じてるわけじゃないけど気になるから血液型おしえて」
っていう人は。
「信じてるわけじゃない」って自分自身が信じてるだけで。
かなり血液型性格診断と仲良しさんなのとおなじでしょう。

どうかんがえたって、「信じてるわけじゃない」んだったら、そんな、誰かを不愉快にさせる可能性のあるものを、わざわざ話題にしたりはしないでしょ。
ばかばかしい。

で、信じてるんだったら他人をなっとくさせるだけの根拠をだしてから商売にしたり、先生が教室でいったりしましょう。
あと、信じてるんだったらそれこそ、(筆跡だとか血液型だとか)個人情報をだだもらしすることに問題ないんですか。
っていうこともかんがえましょう。
posted by なかのまき at 21:26| Comment(4) | TrackBack(0) | ニセ科学;筆跡学

2010年09月16日

書道はわかんないですよ

「筆跡診断って、資格商法だよね」
ってなんとなく根拠もなくおもって、googleで検索してたら、たまたまみつけたのですが。

はてなブックマークというもので、このブログの記事を紹介してもらっておりました。


おお。ありがとうございます。
……で。

あれ?コメントみると。
私、書道の人だとおもわれてる?

あれっ。
と、おもってそういう目でこのブログをよみかえしたら。

ああ。たしかにちょっと書道関係者のブログにみえないこともないですね。
いや、うん。書道の人のブログにみえますね。
これは。
説明がきが必要ですね。

えっと。

ここは、左手で字をかくひとをいじめないで、というブログです。

なので、左手書字者を存在しないものとして無視している学校国語科書写教育のありかたの批判してます。

具体的には、
・毛筆全員必修が学習指導要領できまってますが外してください
・「筆順指導の手びき」は実用面ではひじょうにトンチキなのであれを唯一絶対の「正しい筆順」としておしえないでください
・手書きの字をかかないと一日も過ごせないような学校教育のあり方おかしいでしょ。左手書字者がいるんだから。

みたいなことをいってます。
そこから、
「書道趣味満開の書写教育を義務教育からはずして、パソコン書字をふくめたまともな書字教育にくみなおしてください」

ということをいってるブログです。

で、そういうことをしらべていくうちに書写教育の人が筆跡学・筆跡診断に寄っていることにきづいて、「それはやめようよ」っていってるんです。

書道にかんしてははまったく知識も素養もありません。
あと、きほんてきに、書道のひとは「書は人なり」なので筆跡診断とは仲良しだとおもう。
いやいや、決めつけちゃいけませんね。
書道の人のなかにも、ニセ科学きらいなひともいるかもしれません。

まあ、とにかく。私は書道の人じゃないです。
でも、書道の人にまちがわれてもまったく文句のつけようがない内容ではあります。
あとでトップページに注意書きつくっておきます。

あ、でも。

最近、学生さんのレポートでブログからのコピペが(いちぶの了見の狭い)大学のせんせえのあいだで問題になってるっぽいですが。

教職課程の書写のレポートなんかでさ。
私のブログを書道の人がかいたとおもって。
コピペしてレポートつくってせんせえに提出してくれたら。
ちょっといいなあ。

がんばれ。コピペルナーにまけるな!


まあ、このブログの文章コピペしたら、まちがいなく単位おちますので、やめておいたほうがいいとはおもいますけど。
posted by なかのまき at 23:10| Comment(0) | TrackBack(0) | ニセ科学;筆跡学

2010年09月19日

うけいれる素地はあったのではないか

今日の記事の内容は考え途中のことなのでもやもやしてます。


学校のせんせえが「水からの伝言」をうけいれてしまったのはなぜなのか。
という話があるのですが。
そもそも、科学的な思考ってゆーのは、ある程度訓練をうけて、そういう習慣がついてる人じゃないとむずかしいのではないか。
訓練というか、科学的な思考への信頼感。

注意深くならなければ、ふつうの人は、ふつうにご都合主義な解釈をしてしまうのが、ふつうなのではないかと。
だって科学的思考って制約が多いですもの。
それをすることによってみかえりがあるとじゅうぶんに理解できてないと、ふつうできないとおもう。

で、科学的な思考をできない場面をみて、
「なんでこんなにわけのわからない人なんだ」
って、その人が特殊なバカだと決めつける、そういうのは益がなくて。
できなくてあたりまえ、できるにはある程度の訓練と科学的思考への信頼感が必要。
というくらいの認識でいたほうがよくて、まあ、そんなことはわざわざ私がこんなところで言わなくてもとっくに指摘済みとはおもいますが。

ここまで書いて、でもじつは、むしろ、
公教育の一部の場で、科学的思考を習慣にすることを阻害するようなことが、日常的に行われているという面もあるよな。
と。おもって。

学校まわりの場で、うらをとらないあやしいグレーな発言があたりまえにくりかえされることで、感覚がまひしてきて、ここでとうとう、真っ黒になってしまった。
というなんか。そういう部分もあるんじゃないかと。
そんなに、「教育の場であんなものがうけいれられるなんて!」って、おどろきとか、理解できないとか、ではない。
おそろしいことに。

むしろ学校のせんせえが(ぜんぶではないけど)うらをとらないあやしい発言を日常的にくりかえしているのではないか。
学校という場が、そういうあやしい発言なしになりたたなくなってしまっているのではないか。
という気がします。

つまり、むしろあの場では、科学的な思考を積極的にじゃますることが、日常的におこなわれてはいないだろうか。
なにかというと、

たとえば
「あいさつをするときもちがいいのであいさつをしましょう」
とかね。小学校でいわれました。
あいさつは個人の快楽のためにやってるんですか。
なんで「きもちがいい」とかいわなければいけないんですか。きもちわるい。
そんなうそをつくくらいなら、
「それがルールでマナーだ」
っておしつければいいじゃないですか。そのほうがまだましでしょ。
なんか、こういうときには、すじが通ってるかどーかより、それっぽくて甘ったるい言葉が、ぬるぬると口からすべりでる、そのここちよさが重視されている場面がおおいきがする。
ただ、「あいさつをするときもちがいい」は、真っ黒ではないんですよね。あいさつは人とのつながりをたしかめるものだし、人との接触はやっぱりけっこうな快楽なわけで。
あいさつをしたとき、きもちがいいということは「まあ、まるっきり嘘とはいいきれないよね」くらいは言えるとは思います。
「きもちがいいからあいさつしろ」はどうかとおもうが。

あと、これは日本語教育の実践研究かなんかの本でよんだんですが、敬語について。
「敬語は人への尊敬の気持ちをあらわすものです」
とおしえたら、学習者が、日本語教師にむかってものをいうとき、ある先生には丁寧体で、ある先生にはふつうにはなしかけていたそうです。
それで、理由をたずねたら
「あの先生は尊敬してるけどあの先生は尊敬してないから」
って。いわれたということです。
すみません。これ、出典をわすれました。

で、これ、その日本語教師の敬語の認識がまちがってるわけです。
日本語学の敬語研究の蓄積を無視して、「人への尊敬の気持ち」なんていうぬるぬるした心地よい言葉を教室という空間でたれながしたんですよ。


「うそも方便」みたいなかんじで「あいさつをするときもちがいいから挨拶しろ」みたいな、
そういうのがくりかえされていくうちに
うらをとらないでもっともらしいことをいって自己満足する、という風景をあたりまえにしていくうちに。
いろんなものがまひして。
どこからどうみても真っ黒な「水からの伝言」が来ちゃったのではないか。

という。
そういうこと

教育まわりにかんしてはわりと、「水からの伝言」を受け入れる下地は、じゅうぶんにできていたのかな。と。

そもそも、あそこには科学的に思考することを阻害される機会は日常的にいくらでもあって。
「水からの伝言」だけが特殊な例ではなく。
日常的にくりかえしていくうちに麻痺して、ふときづいたら「あまりにも真っ黒すぎる」ものをよびこんでしまっていた。

とかげがしっぽをきりおとすように「水からの伝言」をきりおとして、それでよしとしてしまわないで。
どうしてそれをうけいれてしまったのか。
ちょっと検討してみてもいいかもしれないなあ。

たとえば、ほかの教科はわからないけど、
国語にかんしては「日本語特殊論」と「漢字不可欠論」の根も葉もない二大ヨタ話が跋扈してるからなあ。でも漢字不可欠論ないと国語ってなりたたないからなあ。とか考えると。
「水からの伝言」におどろいてるばあいでもないかと。


だいたい、

文化審議会答申がひどいですよ。


○青木委員 インド人のIT技術者に以前伺ったのですが,インドではどうしてIT技術に非常にうまく適応できてその才能を伸ばせたのかというと,サンスクリットの言語構造とコンピュータの構造が非常に似ていることがあるということでした。インドというのは,ゼロを発見したところで,MITそのほかのアメリカの大学にもインド人の数学者が非常にたくさんいる。


こーゆー発言を「いや、まずいだろ、それ」
って。言えなきゃだめじゃないかな。
これをみるにつけても、
こうやって、おおやけの場でうらをとらないでなんかそれっぽいことをいうことが日常的に許されちゃえば。
「水からの伝言」を呼び込んじゃってもしょうがないきがする。
posted by なかのまき at 12:48| Comment(0) | TrackBack(0) | ニセ科学;筆跡学

2010年09月27日

「ニセ心理学にだまされるな!」の帯が下品だとおもったわけ

渡邊芳之(わたなべ・よしゆき)2010『性格とはなんだったのか 心理学と日常概念』新曜社

これがおもしろかったわけですが。
とくに印象に残っているのが、ここ

(7)相互作用論は新しいか

相互作用論の「行動とは人と状況との相互作用で定まる」というテーゼは、前にも述べたように、一貫性論争よりずっと以前から心理学の多くの分野に共有されてきたものであり、基本的に正しいというほかない。しかしそうであれば、相互作用論はそれよりも40年も前に提唱されたレヴィンのB=f(P,E)のテーゼといったいどこが違うのだろうか。
 もっとも大きな違いは、公式の中のPに入るものである。レヴィンの時代には、性格特性などの性格概念がそのまま人の側の要因、内的要因としてPに代入されていたことは先にも述べた。レヴィンの影響を受ける実験社会心理学で、実験要因と相互作用させられていたのも、たとえば性格尺度で測定された性格特性だった。
 一貫性論争を経た相互作用論においては、性格特性などの性格概念の位置はPではなく、相互作用の結果としてのBであり、Pに位置づけられるのは性格概念ではなく、真に状況とは独立の内的な変数(相互作用論ではおもに認知的個人変数が想定される)である。(p.83)


ここのところを読んで、え−! そうなのか。と、びっくりでした。
性格一貫性論争をへて、だいぶすごいことがおこったんだな。とおもいました。

で。こうなると、ますます血液型性格診断や筆跡学のはたいろがわるくなりそうだな。そもそも性格ってなんだよ。って話なので。
などと私は素人かんがえでおもってしまうのですが。

それをふまえて。
今日は

「ニセ心理学にだまされるな!」にだまされるな!というきもち

という記事のつづき。こちらをあわせてごらんください。
古澤照幸(ふるさわ・てるゆき)2007『ニセ心理学にだまされるな!』同友館

この本について私は2点、けちをつけてます。

ひとつめは、帯の「ananの読者よ目覚めよ!」
っていうこれが、下品だ。っていってます。

このときは詳しく書かなかったというか、あまり考えず感情だけで「下品」っておもっちゃったのだけど、理由をかきます。

まず、この本は読者のターゲットとしてananの購買層をかんがえてないでしょう。
え? だって、本当にananの読者にこの本を読んでもらいたかったら、

「ananの読者よ目覚めよ!」

なんていうすっとんきょうなコピーにはしなかったでしょう?
「ananの読者よ目覚めよ!」なんて帯に書いてあるすっとこどっこいな本、私がananの読者だったらぜったいに手に取らない。
この本のターゲットは、飲みの席で血液型について言及する小娘に、
「血液型なんか嘘だから信じちゃいかーん! んぷー!」
ってえらそーに説教たれたいおっさんでしょ。そのためのネタ本でしょ。
いや、おっさんだけじゃなくておばさんや小娘もいるかもしれませんが。

つまり、読者のターゲットとして想定していない層をわざわざとりたてておとしめることで、説教口調でしかりとばす帯に快感を覚えるある種の人の財布をゆるめる効果をねらってるわけで。これを下品といわずになんというか。

(いや、ananの血液型特集の内容も読んでみたらたいがいひどいけどね。それはそれとして)

つぎ。

学問としての筆跡学と商売としての筆跡診断のあつかいの差について。

3−4 筆跡学と筆跡診断―その科学性(pp.188-215)
から該当箇所を引用

 ここでは、科学としての筆跡学について話を進めながら、民間で作られた筆跡診断を筆跡学からとらえ、実際に筆跡診断が利用できるものかどうか、つまり筆跡診断の有用性について検討してみましょう。(p.188)

上で示してきた筆跡診断と研究者による結果との間での一致の程度を図表3−22に示しました。
 ◎を完全一致、○をほぼ一致、△を部分的に一致、×を不一致として表中に記述しておきました。ここでは、一応の基準を研究側に求め、どの程度一致するかが筆跡診断の成績としておきます。(p.213)

「文章の内容は流暢にながれる。つまり、第一の内容から第二へ、第二から第三へというように停滞泣く流れる」という部分は、等間隔性の「処理能力がある」「仕事が順調に進む」とつながるでしょう。この点では、完全ではなくとも筆跡診断が当たっている部分となるでしょう。



筆跡学と筆跡診断を比べてみるじゃなくて、筆跡学で筆跡診断の評価をする。筆跡学という正解をだして、そこからどれだけ筆跡診断が”まちがって”いるかを問題にするんですか。
いや。いいけど。

そもそも、その”正しい筆跡学”がクレッチマー類型論をつかって大まじめに研究してることにはつっこまなくていいんですか。
なんで槇田論文を「科学としての筆跡学」の例としてとりあげられるんですか。

それで、筆跡学と一致する部分にたいして、「筆跡診断が当たっている」という判断をくだす。
筆跡学どんだけえらいんですか。大学?大学だから?

いまの段階では、筆跡学も筆跡診断も思いつきでてきとーにやられてるレベルのものであって、その流派がちがうんだから、一致しなくてもあたりまえだとおもうのですが。血液型診断と星占いで違う結果がでるのと同じだとおもうんですが。
そもそも、「私の性格」っていう作文を書かせて、作文の内容と字を分類する、っていう実験方法の黒田論文と、
クレッチマー類型論つかってる槇田論文もまったくべつの流派だとおもうんですが。「大学の筆跡学」でくくっちゃっていいんでしょうか。
いっそ、黒田筆跡学と槇田筆跡学の比較もしたらどうですか。
なんで大学の研究室で行われた実験には批判がないんですか。

いや、筆跡と性格の関係を調べるような研究をするな、といってるわけではありません。
黒田氏の論文と槇田氏の論文は学史でしょ。学史は学史としてあつかってほしいのですが。
今現在の心理学の検証にたえられる論文じゃないでしょう。
そこのところ、ちゃんとかいてほしいんですが。
いくら一般書とはいえ。いや、一般書だからこそ。

なんでこういうことを書くかというと、
筆跡診断の世界で、黒田論文と槇田論文がしきりと引用されるからです。科学のお墨付きをあたえるために利用されてるんですよ。
そこのところかんがえてほしいです。

あとね。もうひとつ心配なのが。
クレッチマー類型論が自己啓発系の商売につかわれてる気配がありますよ。
ネットで「クレッチマー類型論」で検索してみるとわかるとおもいますが。

心理学の人は積極的に「クレッチマー類型論はいまはつかいません」っていっちゃっていいんじゃないでしょうか。
なんかだめな理由あるんですか。
と、わかっててきいてみる。
posted by なかのまき at 21:33| Comment(0) | TrackBack(0) | ニセ科学;筆跡学

2010年09月29日

まだまだクレッチマー類型論

前回の記事「ニセ心理学にだまされるな!」の帯が下品だとおもったわけで紹介した渡邊芳之(わたなべ・よしゆき)氏がネット上でクレッチマー類型論についてのべている記事がありましたのでご紹介します。

ABOFANへの手紙(前半)

おお、また血液型診断の話だ。
引用します。

メール(その6) H12.1.26 14:03
ABOFANへの手紙(6)
(略)
5.読者からのメールについて
(略)
> それと、やはり、「クレッチマー説」についての決着(オトシマエ)はきちんとつけて
> 欲しいですねえ。渡邊さんにとってはスカみたいなテーマで鬱陶しいだけでしょうから
> これについての議論はのぞみません。否定的な傾向が強まっているようですので、とり
> あえず、「血液型と性格は関係ないのになぜ多くの人が関係あると思っているのか」を
> 「体格と性格は関係ないのになぜ性格心理学の専門家が関係あると思っていたのか」に
> 変更して「心理学会」で見解を確定させていただきたいという希望を述べておくことに
> します。

この「スカみたいなテーマ」なんて言い方は実に私っぽくて,その点で「読者=渡邊」ではないかと他の心理学者はますます疑うと思いますが(笑),ホントにスカみたいなテーマですね.で,まあクレッチマー説は「体格と関係のある精神病の症状や,その精神病に特有の性格傾向を理解するためにはある程度有効だが,健康な人間の性格を理解するためにはもはやあまり考慮されていない」ということになるでしょう.

ただ,ダメになった学説はいつもきちんと否定されるかというと,そんなことはありません.それは「老兵は死なず,ただ消え去るのみ」ということになって,新しい学説に自然と交代していくものです.だって,天動説や錬金術を,どこかの学会が決議をもって否定した,なんてことはたぶんないでしょう(あるかも知れない.もしそういう史実をご存じの方はぜひ教えてください).

とはいえ,ダメになった説をちゃんとやっつけておかないと「老兵が復活」ということになる場合もあります.血液型についても心理学業界では一応「昭和15年頃に決着済み」というのが公式見解なのですが,その時はきちんと心理学的な議論で決着を付けずに,血液学者や生理学者の応援や,東京帝国大学の権威などを利用してうやむやにしてしまった経緯があります.だからこうやって復活してきても効果的に戦えない.
それは反省する必要がありますね.

クレッチマーは現に心理学の教科書に堂々と載っているんだから,血液型より深刻な問題かも知れません.血液型は心理学の教科書に(ごく一部を除いて)載ってませんから.基本的に同じ問題なのに,そっちはほっといて血液型だけやるというのは,私もけっこうずるいのかも知れない.やっぱり学界の権威が恐い? 否定はできません.


強調は引用者です。
おおー。心理学の人がネット上でここまですぱっとかいてくれていると、いいですねえ。

それにしてもこのページ。
すっごいおもしろい。
なんか、いろんな意味でおもしろいのだけど。
読み物としておもしろいし、勉強になります。「への手紙」のところは。
これがタダでよめるなんて。


あとなんか、心理学の世界もたいへんなんだなー。ということがうかがえます。
私カンチガイしてたのですが、クレッチマー類型論って、心理学の世界ではもうとっくに解決済みのものかとおもってたのですが。
……そうでもないのか。
「クレッチマーは現に心理学の教科書に堂々と載っているんだから,血液型より深刻な問題かも知れません.」とか。そうか。

なんか、なんの根拠もなく、日本語学でいう「神代文字」と同レベルに決着がついた問題だとおもいこんでいました。
(ああ、でも数年前の日本語学会で神代文字の話題でたなー……)

あ、神代文字については

wikipedia 神代文字

あたりをどうぞ。
でも、このwikipediaの記事、両論併記っぽくていやんなかんじ。

私が学部時代につかった教科書をぱらっとめくってみたらこうかいてあります。

「神代文字」としてわが国に古く固有の文字があったとする説が近世の国学者を中心に主張された。しかし、その実例として示された「日文(ひふみ)」は四十七音節、他の例も五十音節以上にでることはなく、『古事記』では八十八音節が区別されているという上代の音韻の実態さえ反映していない。また、神代文字で記された確実な記録・文献に欠けるところから、今日では、その存在は認められていない。(『新訂 国語史要覧』)
posted by なかのまき at 21:32| Comment(0) | TrackBack(0) | ニセ科学;筆跡学

2010年10月01日

筆跡診断

先日かいた

筆跡学はニセ科学でいいのか

にいただいたコメントへの答えをかいてなくてすみません。

なやんでます。

きほんてきには、筆跡診断と共存したいです。
私は。そういう方向でかんがえてます。
でもまだぐるぐるしてます。
posted by なかのまき at 22:06| Comment(2) | TrackBack(0) | ニセ科学;筆跡学