2009年11月30日

書道とはなんだ

先の記事をかいて、よみかえすと、
私がいろいろなことを混同していたことがわかる。

というか、書道の人もそのときどきでうまく玉虫色につかいわけてるフシがあるので、
ちゃんと整理しておいたほうがよいでしょう。

書道ってひとくくりにしてるなかで、

・毛筆なのか、硬筆なのか
・実用書道なのか、芸術書道なのか

これをはっきりさせてなんかいわないとどうしょうもなさそうです。

なんでそう思ったのかというと、

書道の人は硬筆のことなんかどうでもいいんじゃね?

とおもったから。

横書きのことについてなんとも聞こえてこないのは、
横書きは毛筆の世界をおびやかさないから。
横書きは硬筆のなかだけの話だから。

毛筆だけ大切なんでしょ。
毛筆の世界だけ、守っていればいいんでしょ。
だから、横書きがこんなに増えても、それが硬筆の世界に限ってであるかぎり、書道の人はちっともなんとも思わなかった。
なんとも思わないで、放置していた。

で、石川九楊氏は例外的に硬筆で横書き書道のことを考えてる人である。
そういう意味では、石川九楊氏はとてもマトモなのです。
まともに、硬筆横書きが書道のリクツにあわない、ってことをちゃんと考えて、ちゃんと考えた結果、オカルトに行っちゃった。と。


東アジアでは古代宗教を失うことと引き替えに誕生した漢字(篆書体)により、書字中心の言葉が成立し、それ以来、文字を「縦」に書くことが宗教を代替することになりました。(略)西欧においては宗教=神が担っている機能を東アジアでは縦書きが代行しているのです。
(石川九楊『縦に書け! 横書きが日本人を壊している』135ページ・祥伝社・2005)



縦書き様をあがめたてまつる一神教の開祖様になっちゃってますね。
いったいどうしちゃったんでしょうね。

まあ、この開祖様のことはとりあえず置いておいて、

印象として。
書道とは毛筆のことである。
実用書道より芸術書道がえらいのである。
っていうメッセージはかんじるんです。
書道の人から。

だから、硬筆にしか関係ない横書きのことなんか、どーでもいいわけです。
そういう意味では、書道の人が横書きについてなーんにも言わないのは、筋が通ってないこともないかなーとも。
考えますが。

でも、なんかそれだとパソコン・ケータイの出現で毛筆の衰退を心配するっていう、そのよくわかんないリクツに説明をつけられないので、この思いつき(硬筆のことはどーでもよかったから、横書きについてはなんにも考えなかった〜)は、もしかしてまちがってるかもしれませんが。
だって、硬筆のことがどうでもいいのなら、パソコンなんかさらに毛筆書道にはどうでもいいことでしょう。

さて。「とめはねっ!」も、毛筆の、芸術書道について特に重点的にあつかったマンガです。

だけど、実用書道と芸術書道、毛筆と硬筆はそれぞれまったく別々に考えることも、もちろんできないわけで。

特に、ケータイ・パソコン叩きについては。
この作品中でも、だいぶケータイ・パソコンが悪者になってますが、
ケータイ・パソコン打ち出し文字ってのは、せいぜい実用書道となわばり争いをする程度のもので。
芸術書道をもっぱらにやってる、鈴里高校の書道部の活動には関係ないよね。

高校生が教室にパソコンを持ち込んで、パソコンで板書のノートをとっていたとして、
それで「書道部がパソコンにおびやかされている」
とか、思わないでしょう。
だって、書道部の生徒だって教室では鉛筆とペンをつかっているんでしょう?

鉛筆とペンがパソコンにかわったところで、それが毛筆書道となんか関係あるの?
いいじゃない。課外活動の書道を邪魔する人なんか誰もいないんだから。

ちょこっと、硬筆がパソコンにとってかわられても。
きっとこれからも、「にほんのでんとーぶんかとしてのしょどー」を守りたいって思う人だって、鉄道模型を愛好する趣味人と同じ程度には棲息しつづけるでしょう。
余暇に「結構なご趣味」の範囲で毛筆をたのしんでいればいいじゃない、と思うんですが。

そういうもんでもないらしいです。
ケータイ・パソコンのせいで毛筆書道も衰退しているらしいです。
このへん、ちょっと本当によくわかんないんですけどね。
わからないんですが、作品でそういうメッセージが出てる以上、
「はあ、そんなもんですか」
とおもっておくしかないですけど。

なんか、やっぱり、わかんないんです。


・横書き問題においては、「それは硬筆の問題だ。書道とは毛筆のことだからそれにかんしては知らない、どうでもいい」として放置している

・パソコンケータイ叩きについては、実用書道も芸術書道もいっしょくたにして、「パソコンが毛筆でかく芸術書道を滅ぼす」と悲観的になっている。

この2つの態度の違い。
戦略としてやってるのだとしたら、いったいなんのメリットがあるのかな。

パソコン・ケータイ問題については「時代の波に呑まれた可哀想な弱者」を演じられるっていうのはあるかもしれません。
横書きについては「あなたたちがちゃんと横書きに対応すればいいでしょ」って、100%の同情をもらうことは難しい、ってのがあるかな、とは思うのですが。

同情なんか売ってもしょうがない気がするので。
ちがう気もする。


まとめ:
まったくわかりません。
posted by なかのまき at 23:09| Comment(8) | TrackBack(0) | 書道教育

2009年12月04日

横書き書字についての論文(1)

なかなか「とめはねっ!」にはいれないのですが、
論文を紹介します。

なんかむしろ、「とめはねっ!」よりも書道がどうして横書きについて何も言ってないのか、その方が気になってきました。

「とめはねっ!」なんかもう、
左手で字を書く人が一人も存在しなくて、万人が一目でわかる絶対的な「美しい字」というものが存在する、それでいて芸術毛筆書道がパソコンに脅かされているというちょっと不条理な、どっか私のしらない世界を舞台にしたファンタジーで、ボーイミーツガールで青春だあ!
ってことでいいんじゃないですか?放っておいて。
という気にもなってきてしまいました。
いやいや、でもNHKでドラマになるなら、これはちょっとやっぱり問題なので。
もう少し「とめはねっ!」についても書く予定でいます。

とにかく。

「横書き書字における平仮名の字形的損傷について」(『書写書道教育研究』第18号 pp.41-50 2004)

書道の人が横書きについてなんにも言ってないのはどうして?
と思ってたのですが。
そういう研究がないわけでもないので。
紹介します。

それにしても血湧き肉躍る題名ですね。
「横書き書字における字形的損傷について」

損傷!!
横書き書字をするとひらがなが損傷するらしいですよ。
ひらがなってこわれ物だったのか。

えっと、ひらがなが、もともと縦書きを前提につくられた文字だから、横書きにすると筆順や字形に変化があるだろうことは、これは
まあ、書道の素養のない私でも想像できるんです。
横書きと縦書きの字は違うだろう。と。
縦書きだったものを横書きにするなら、そうやって、字形は変化するだろう。

で、その「変化」が「損傷」なんですね。
ただ変わるんじゃない。
損傷するんです。横書きをすると、字形がそこなわれ、きずつくんです。

これは、ものすごく挑発的な題名ですね。
「横書きすると字が傷付くから縦書きでなきゃいかん!」
っていってますよね。
だから、中身もさぞや、とおもいつつ、
よみました。
で、「アレ?」
と。
これ、内容は題名ほど過激じゃない。
もっと、不機嫌におこってる論文なのかとおもったのですが、
そうじゃない。
というか、私がこのタイトルをよんで勝手に挑発されただけなんです。

「損傷」という言葉に特別のおもいいれはないようです。
だって、横書きすると字は損傷する、という前提でもう、論が始まっちゃうんです。
だから、ここで私は調子が狂っちゃったんです。あれ?って。

ちょっと引用します。
「はじめに」の章から

公用文書式の文字横組みをはじめとして、時流は明らかに横書き・横組み書式へと転換しているにも関わらず、そのことによって生じる「字形的損傷」について論究されることは少ない。換言すれば、その指摘や論究の希薄さが時流を生じさせた要因とも考えられる。
(p41)


いきなり、「字形的損傷」ってでてきちゃうんです。
で、もうどんどん、横書きと字形の損傷についての論がはじまってしまうんです。
横書きが蔓延したのは、字形的損傷を問題にしなかったからだ、という。

しかし、横書きにすると字形が損傷するかどうか、という検討がされないまま、「横書きにすれば字形に損傷がある」という前提で論をすすめてしまって大丈夫でしょうか。

つっこみますよ。わたしなら。


字形の「損傷」とはなんですか。
平仮名の字形って「損傷」するんですか。
というか、まず傷の付いていないまっさらな字形の基準はどこにあるんですか、その基準からどこがどれだけ逸脱したら「損傷」になるんですか、
そしてそれは本当に「損傷」なんですか。
なぜわざわざ「損傷」という評価づけをするんですか。
横書きにするにあたっての「合理化」という言葉じゃいけないんですか?


横書きに適応するために、てがき文字の字形がかわる、というのは私も納得できるんです。
でも、それが「損傷である」という前提で話がすすめられてしまうと、もうついていけなくなってしまう気になりますが。

がんばってついていきましょう。
とても興味のあることなので。
とりあえず、
横書きにすると字形は「損傷」する、という前提を受け入れることにします。
じゃないと読みすすめられないので。

さて、ではいよいよ「損傷」の内容にはいります。
縦書きから横書きにかわると、字形はどのように「損傷」されるのでしょうか。

……とおもったのだけど、書きつかれたので今日はこれで。
また後日つづきかきます。

posted by なかのまき at 23:44| Comment(2) | TrackBack(0) | 書道教育

2009年12月08日

横書き書字についての論文(2)

この記事は
直前の

横書き書字についての論文(1)

の記事をさきによんでからながめてください。


小竹光夫「縦書き書字における平仮名の字形的損傷について」書写書道教育研究』第18号 pp.41-50 2004)


この論文の紹介です。

さて、いよいよ、横書き書字がどのようにひらがなに字形的損傷をおよぼすのか、の実証です。


当論文の著者、小竹氏はひらがなの成り立ちを問題にして、
筆画の「連係ストローク」に着目します。
「連係ストローク」とは、この論文によれば「下の文字(部分)に接続するために生じた」「/方向の線」(42p)のことです。

atate.gif

「あ」でいうと、赤線で囲ってある部分です。

「あ」はもとは漢字の「安」から来ていて、
最終筆は「一」なんです。そこから、次の字へ移るために、斜めの線があらわれます。
これが「連係ストローク」だそうです。

「連係ストローク」はもともと「「右手書字」・「縦書き」という文字文化の伝統」(42p)のもとで「文字間の連続によって生じた現象」(43p)であるが、それがひらがなの字体として固定していったものだそうです。

この「連係ストローク」は、本来は次の字に続けて書かない場合は出現しない線だったのですが、ひらがの字形において「実現形として文字の中に吸収され、定着した」ものだそうです。


そして、小竹氏はこのような仮説をたてます。

「縦書き書道の中で生成された平仮名に残存する『連係ストローク』の部分に、横書きした場合、最も大きな損傷が生じるのではないか」(44p)


そして、「連係ストローク」の損傷が生じる恐れがあるひらがなとして、以下のものをあげています。

(1)明確な連係ストロークを残すもの……あ・す・ち・め・ら・ろ・わ
(2)ハネの方向が転じたもの……う・の・り
(3)ハライの方向が転じたもの……け・つ

この12文字に損傷が出るらしいです。
あれ?
「お」は?

えーっと、「お」は損傷しないらしいです。

なぜ「あ」の
atate.gif
赤線部分は損傷するのに、
「お」は損傷しないのだろう。

などと、「あ」と「お」の区別ができなかった私なんぞは首をかしげてしまうのですが。
この論文中には書いてなかったので、書道できる人にきいてみたんです。

そうすると、「あ」と「お」の「/」は、違うものらしいです。

あのatate.gif
は小竹氏のいう「連係ストローク」なのですが、
「お」の似たようなatate.gifは、これはもともとの成り立ちが漢字の一部なので、書道界ではこの2つの「/」違う形なんだそうです。

へー。知りませんでした。
私はおなじものかと思ってました。「あ」と「お」は形似てるし。

楽しいムダ知識が増えましたね、ってところですが。

ここで、私はちょっと首をかしげてしまうんです。

そんなに、ひらがなの成り立ちって、重要ですかね。
筆の勢いである「連係ストローク」だろうが、文字の一部だろうが、いったんひらがなの字体として定まってしまえば、
その線のそもそもの成り立ちなんか、そんなに重要なことでしょうか。

「あ」は損傷して「お」は損傷しない、なんてこと、本当にあるんですかねえ?

「あ」と「お」のatate.gif赤線部分が違う字体だなんて、いったいどんだけの人が把握しているんでしょう。
少なくとも私はしりませんでしたよ。
そこまで、「そもそもの成り立ち」は字形に影響はしてないでしょう。

「連係ストローク」だから損傷する、という仮定はちょっと、頭を使いすぎじゃないかとおもう。

もっと素朴に、最終筆の右上から左下への斜め線「/」は、横書きにすると縦線「|」になるんじゃないか、でいいとおもうな。

縦書きだと次の文字に続ける関係で
atate.gif
こんなかんじになるけど、

横書きだと次の文字に続ける関係で
ayoko.gif
こんな感じになる。

このレベルの思いつきでいいとおもう。
「連係ストロークが」とか言っちゃうと、「あ」は損傷するとして、「お」をみすごしてしまうんだったら、「連係ストローク」という考え方はむしろ邪魔でしょう。

が、まあ。
とりあえず、最終筆の右上から左下への線「/」が変化する、っていう仮説でよいのだったら、それはそれでいいでしょう。
最終筆の「/」が多くは「連係ストロークに関係する」という指摘も、まあ、役に立たないムダ知識というレベルで、お勉強になりました。


で、この仮説を実証するために、実験がはいります。

ですが、記事が長くなったので、今日はここで。
あとですぐに更新します。
posted by なかのまき at 01:14| Comment(2) | TrackBack(0) | 書道教育

横書き書字についての論文(3)

まさか3回にわかれてしまうとは。

横書き書字についての論文(1)
横書き書字についての論文(2)

を先によんでください。


小竹光夫「縦書き書字における平仮名の字形的損傷について」書写書道教育研究』第18号 pp.41-50 2004)

の紹介です。

横書きのひらがなは「連係ストローク」に字形の損傷がでるという仮定のもとで、


兵庫県免許法課程認定講習「国語」の受講生33名(小学校現職教員)にたいして、

「読める範囲で、できるだけ速く」「1分間で、どこまで書けるか」といって縦書きと横書きでおなじ文章をかいてもらうという実験をします。(46p)

それによると、若くて横書きになれた人も、年輩で縦書きになれた人も、横書きにすると字形の変化があって、

たとえば「あ」では縦書きだと

atate.gif


こうなるのに、横書きだと

ayoko.gif


a3.gif

こんなかんじになるようです。

また、「あ」以外でも
「す・ち・め・ら・ろ・わ・の・け・つ」
に字形の変化がでたようです。


「お」がどうなったか、とても気になりますが、論文中に書いていないのでなんともいえません。

この論文、面白いとおもうんです。

これ、

「縦書き書道の中で生成された平仮名に残存する『連係ストローク』の部分に、横書きした場合、最も大きな損傷が生じるのではないか」(44p)


なんていう仮定をしないで、ひらがな43字にたいして、縦書きと横書きでどのように字体がかわるのか、きっちり実験すれば面白いとおもいます。
「連係ストローク」っていう考え方、いらないんじゃない?
と私はおもうんですが。

といううか、結論ありきの実験でなく、実験をして、そこからナニがいえるのか、きっちり科学的に実証したほうがいいんです。

そこで、たとえば「あ」と「お」の字形に違いが出たりしたらはじめて、「連係ストローク」を問題にすればいいんです。

とにかく。
この実験、とてもおもしろいとおもいます。

縦書きになれてる人、横書きになれてる人、
書道やってる人、やってない人、
毛筆やってる人、やってない人、
字形の成り立ちについての知識がある人、知識がない人、
日本語が第1言語の人、そうでない人、
漢字使用圏の人、そうでない人

いろんな人で、この実験やってみて、
どんな結果が出るか。
やってみるといいとおもう。
だれかやってくれないかな?
私はやりませんよ。
だって私は左利きですもの。
「左利きの人はパソコンで字を書けば」いいんでしょ?
手書きの問題のことなんか面倒みませんから。


えーと。
私は自分の思いつきとして、この実験で出てくるのは個人差で、書道の知識の有無はそんなに関係ないんじゃないかな、という気がするのですが。
まあ、ちゃんと実験しないとだめですね。

さて。
で、この論文のキモは「連係ストローク」なのですが。

正直、私はこの考え方要らないんじゃない?
と思うのですが。
ひらがなのもともとの成り立ちとか、やっぱりどうでもいいんじゃない?と思うのですが。

この論文においては
必要なのです。ぜったい。

「連係ストローク」という考え方が必要なのは、実験結果の考察の段階ではなく、「まとめ」の段階です。

つまり、「この世に書道教育はぜったい必要なんだもん!」

って言うために、必要な考え方なのです。
「連係ストローク」

さて。
なんで「連係ストローク」が必要なのでしょうか。

……書きつかれたので次の記事でいいですか。
ごめんなさいごめんなさい。
なるべくはやく更新します。



posted by なかのまき at 11:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 書道教育

2009年12月09日

横書き書字についての論文(4)

横書き書字についての論文の紹介です。

小竹光夫「縦書き書字における平仮名の字形的損傷について」書写書道教育研究』第18号 pp.41-50 2004)


横書き書字についての論文(1)
横書き書字についての論文(2)
横書き書字についての論文(3)

を先に読んでください。
この回で終わりです。

この回が一番面白いですよ。
というか、(2)と(3)は書いている自分でもつまらない記事だとおもいます。
(4)は面白いですよ。

さて。
(1)〜(3)で、縦書き・右手書字を前提につくられたひらがなを、横書きすると字形に「損傷」がみられることがわかりました。

「損傷」する部分は、「連係ストローク」部分である。
「連係ストローク」とは、ひらがなの字源の漢字が次の字に続くときにあらわれる筆づかいの線が、ひらがなに固定されるときに字形の一部として固定された線である。

たとえば、「あ」の

atate.gif
赤線部分のことである。
「あ」の字源は「安」であり、赤線部分は「安」の最終画「一」に連係ストロークの「/」が続いたものが、ひらがなの字形として固定されたものが、赤線部分である。

さて。
えーと、まあ、そんなところだろうな、とは思います。横書きになったとき、最終画の右上から左下への斜め線「/」が縦線「|」に近い形になるというのは、なんとなく予想出来るし、そういう結果が出てるのは不思議ではないでしょう。


で、この結果をうけて小竹氏はこういってます。


ここにあるのは、紛れもない「傾斜」という連綿法の合理性ではないか。縦方向で行われていた書写上の工夫が、横方向へ展開する場合に応用されているに過ぎない。しかし、我々は工夫や合理性に気付かず、かつての「マンガ字」を「特殊」と呼び、「異形」として排除してきたのではないか。そこに、「縦書き」や「横書き」という視点があったのだろうか。結局は見慣れている「伝統的な字形(字体)」以外のものを、なんらの分析も考察もせずに排除しようとしてきたのではないだろうか。(45p)



(横書きによるひらがなの字形の変化を)再三、「変形」や「異形」という表現を使用している。語のニュアンスからすれば明らかにマイナスのイメージであり、否定的意識を込めながらの使用である。しかし、この「変形」が見事な合理性に裏付けされているとなると、伝統に固執して字形指導を繰り返すこと自体が空しい活動となるだろう。(48p)


おお〜。
「縦書き書字における平仮名の字形的損傷について」という過激なタイトルの論文の中身とは到底思えない、真っ当な意見です。
ここ、引用したい、とてもいい文章なので長く引用しました。

そうそう、そうだよね。やっぱり、書道の人もそう思ってるんだ。
じゃあ、横書き書道を開発してくれるのか、と思ったら。
いきなりあやしくなります。
直後に、こうなります。


伝統的な字形(字体)を守るのか、それとも横書きに適した新しい字形(字体)を提示するのか。(48p)


え?そこ迷うところなの?その前の文章で答え出てるじゃない。
とめんくらっているひまもなく。


しかし、極論すれば学年別漢字配当表の漢字一つを動かすこともできない現状である。文字統制などという文字政策にふなれな我々は、国語・国字のあるべき姿さえ明確にできないではないか。(48p)


とつづきます。
つづきますが、このつづき方が????ですね。

「極論すれば学年別漢字配当表の漢字一つを動かすこともできない現状である」って、どういう現状?
ひらがなの字形と学年別漢字配当表になにか関係が?
学年別漢字配当表の漢字を動かすって、なんだろ?
「漢字の一を六年生で習うように移動しましょう!」とか、そういうことかな?それはたしかにおおごとになりそうではありますが。
そのレベルの改革ではない気が……ひらがなの字形は。
たとえば、
「いままでの伝統にならって
助詞の「は」は「ハ」と表記しましょう、これからハ」
とか、そういうことをいいだしたらそれはおおごとだけど。

「あ」を横書き書字の場合は
ayoko.gif
こんなかんじにすると書きやすいよ〜、みたいな指導をするのはそんなにだいそれたことでしょうか。
そんなこともできないなら、書道って、存在する意味あるの?

さて。話はもっとおかしくなります。

初発の段階で文字創生に関わらなかった民族の宿命というべきか、あるいは隘路というべきか。活用に重きが置かれる実態からすれば、既に字形(字体)を動かすことは不可能なのである。(48p)


民族の宿命!!
「初発の段階で文字創生に関わらなかった」は、たぶん日本語が固有の文字をうみださず、漢字(と漢字からつくられたひらがな・かたかな)をつかっていたことをさすのでしょう。

えー。ご先祖様のせいにするの? 書写・書道教育の怠慢を。

「民族の宿命」で「既に字形(字体)を動かすことは不可能なのである」って、ありえないでしょう。
ためしに、江戸時代の版本と明治時代の活字本をいちどじっくり見比べてみたらどうでしょうか。
あきらかに、字形・字体は激変してるでしょう。
ここに、書道の関係者が関わらなかったわけがないのです。
相当な努力があったでしょう。

ちょっと昔(明治時代)のことをまるっきり無視して「漢字の伝来」なんて大昔のことを持ち出して、それで「民族の宿命」なんていっちゃうのは乱暴だとおもう。

どんどん雲行きがあやしくなっていきます。

このような状況下、決まったように囁かれるのが「字形指導の無意味さ」である。(48p)


そうですね。私もこの論文読んで、硬筆の書写・書道教育ってなんの役にたっているのか、とても疑問におもいました。
で、次から「字形指導」の意義がいわれます。


しかし、放置されるままの文字が多様化すればするほど、本項の冒頭に書いた「文字は読まれてこそ機能を発揮する」という言語の機能性に反して、判別力を失うことは明らかであろう。文字は個人的所有物ではない。個人の趣向・趣味で弄ばれてはかなわない。現実に他者が書き記したメモを解読することもできないという多様化と、判別力の低下が生じているではないか。この判別力の低下という現実こそが、字形的損傷の抱える最も大きな問題点であることは間違いない。(48p)


わー。またクソ長い引用ですみません。
うーん。どっからつっこもうか。
2点だけ。

(1)横書き書字によって「字形的損傷」がでたとして、それは「個人の趣向・趣味」に矮小化してしまってよい問題ですか?
横書き書字による「字形の損傷」は「個人の趣向・趣味」によるものなんですか。

(2)「判別力の低下という現実」の論拠はどこですか。ここ、この論文でとても大事な箇所なので、説得力をもたせるためにデータをしめすべきでしょう。
先行研究はあるのかな。だれが、いつの頃と比べて、どれだけ、判別力は低下してるんですか?というか、判別力ってなんですか。


というわけで。
「判別力の低下」を防ぐために、横書きにしても、字形は損傷(変化)してはいけない、という意見です。
(心配することないと思いますけどね。
書道の人がちょっと横書きへの対処をおこたって、字をならうこどもやおとながそれぞれが独自に横書き用の書体を工夫してきたこの何十年間という蓄積がありますけど。他人の字が読めなくていちじるしく社会が混乱している、なんてことにはなっていませんから)

いよいよまとめです。
「判別力の低下」をふせぐために、横書き書字においても、字形は「損傷」しないことがのぞましい。
という結論です。

しかし、現実には現在の書写・書道教育が縦書きのことしか考えていないのだとしたら、横書きをするにあたって「損傷」(合理化っていいたいですけどね。わたしは)はまぬがれないわけです。

そこで、論文の最後に「字形的損傷を防御する方策」が提案されます。


可能性として考えられるのは、「運動に逆らわない形での書写学習」の推進である。それは、書写学習の早期に字形の規則性や規範を定着・固定するということに他ならない。(略)「書く」という行為が手指を使用した運動である限り、日常書写等の速書という場面では「意識が運動に負けてひきずられる」という結果でしかない。(49p)


えーと。
「手指を使用した運動」いがいに「書く」という行為はナニがありますかね?
「手指で書くんじゃない! 心で書け!」ってことですかね。「意識が運動に負けてひきずられる」って、そういうことを言ってるんですよね。精神論ですか。

で、しめくくりはこうです。


時流がそうだからとして、書写学習の早い段階から横書きを導入することが正しいとは思えない。(49p)



発展的に考えれば、書写教育の教育課程そのものの見直しにも関わる問題であろう。小学校低学年(1・2学年)で硬筆による文字習得を行い、活用期に入った段階で毛筆書写が登場するという学習課程が妥当であるかも、再考すべき内容となるだろう。(50p)



えーと、私の解釈がまちがってたらすみません。

横書き書字による字形の損傷をふせぐためには。

小学校1年生でいきなり毛筆をはじめましょう。
毛筆で「連係ストローク」やら「伝統的で、正しく、規範的な字形」を「意識」のなかにたたき込んで、「運動にまけて引きずられ」ないようになってからはじめて、硬筆をならいましょう。そして、「伝統的な字形(字体)」(49p)を完全にマスターしたらようやく、横書きで字を書いてもよい、っていうことです。
……たぶん。

さんすうとか、どうするんだろ。たてがきで。やるのでしょうか。

うーんと。
ながながとこの論文につきあってきましたけど。
言いたいことはひとつだけで。

やっぱり、横書き書字による字形の変化は、「損傷」じゃなくて「合理化」ってことにしておきませんか?
そのほうが幸せになれる人の数が多いとおもいます。

以上です。

posted by なかのまき at 23:15| Comment(4) | TrackBack(0) | 書道教育

2009年12月11日

横書き書字についての論文(つけたし)

まだやるのか、と
自分でもおもいながらつけたし。


つぎから面白おかしく「とめはねっ!」について書きますよ。



小竹光夫「縦書き書字における平仮名の字形的損傷について」書写書道教育研究』第18号 pp.41-50 2004)

(1)〜(4)のまとめ。


横書き書字をすると字形が損傷します。
横書き用の字形を工夫することは民族の宿命でできません。
また、(とくに実証されているわけでもない)「判別力の低下」をふせぐために、

この立場から考えるならば、字形(字体)がイメージとして定着する以前に、日常生活に多いからという理由だけで横書き書式の題材を導入すること自体が危険であり、文字の伝達交流という機能性に大きな損傷を与えるものである。横書きで生成され、その運動性や「連係ストローク」を内在させている場合。書き進める方向を厳密に守り、文字の規則性や規範の定着に勤めることが重要である。(50p)


ということです。


まあ。横書き用の書道の論文というか。
「こどもは横書きしちゃだめ!」っていう書道の論文ってことで。

どうなんだろ。やっぱり、本気で横書き用の書道を考えてる文献はないっていう結論でいいんでしょうか。

さて。紹介した論文と同じ号に、

第一次ワーキング・グループ報告
「時代に対応する書写力の基本構想」(概要)
(書写書道教育研究』第18号 pp.92-93)

という報告があって、報告者がこの論文とおなじ小竹氏なのですが。
ここの文章がよいので、ご紹介します。


【国語科書写としての立場の再確認】
 求められているのは、客観的で妥当な考察であろう。いわゆる「思い入れ」や「思い込み」を抱えたままの書写教育の側が、いかように見事な意義や価値を論じても、それが周辺領域、ひいては国語力との相関や客観性が感じられないのでは、我田引水として、あるいは自画自賛として放置されることになる。「書写で養う力とは何か」と問われて、「集中力」や「精神力」と応えるのでは、まるで「行儀」・「躾」の時間ではないか。


【書写教育への理解を妨げるもの】
(略)
 構造的に考えれば、「文字(語・文・文章)」という行為が先にあり、その後に書写用具や学習用具の選択・吟味があるはずである。つまり、「毛筆書写がなくなると書写は滅ぶ」との発言に象徴されるような、「毛筆書写あっての書写」という意識自体に主客の転倒があるだろう」(略)「何が何でも毛筆書写を守る」という論調は、極論すれば「毛筆書写が残れば、後はどうでもいい」という、投げやりな風潮さえ生み出しかねない怖さを持っているのではないだろうか。



【書写における毛筆の必要性】
(略)
 国語科教育関係者の一部には、「毛筆と聞いただけで嫌悪感を示す」という状況さえある。国語科の授業時間を割きながら、毛筆依存の習字を繰り返されてはたまらないという思いからであろう。毛筆依存、毛筆偏重の習字教育が事実とするならば、「国語科書写」と名乗るにふさわしい内容、方向性を求めて行かなければなるまい。
(略)
 一方、「毛筆書写」にこだわる意識の中には、独立教科として存在していた過去の「習字教育」の残像が、未だ見え隠れしている場合もある。(略)「硬筆書写だけになったら、それこそ国語科の中に取り込まれてしまって消えてしまうのではないか。」という不安感を増幅させ、毛筆への一掃の固執という針の振れを生じさせている。(略)「毛筆」のみを掲げて独自性を主張することの限界を、我々は深く考えていかなければならない。


だらだらと引用してすみません。
でも、すごくまっとうなことが書いてあります。
ので、とても紹介したい。

そして、私が以前、おもいつき程度にかいたこと

書道のひとって、毛筆だけが大切で硬筆のことなんかどうでもいいんじゃない?

が、筋として悪くなかったことがわかります。

あと、硬筆は素人(国語科教師)でも教えられる(かもしれない)から、書道の人は専門的な技術が必要(に見える)毛筆に固執してしまう、
って。
なるほど。言われてみればそのとおりですね。

書道教育はなんのためにあるのか。
いままで書道教育でご飯を食べてきた人が、明日もご飯を食べられるようにするために存在する。

この文章は、隅から隅までどこもまっとうです。
「民族の宿命」とか書いてある論文と同じ雑誌の記事かとおもうと、うちひしがれた私でも、書道教育にたいしてのかすかな希望が。わいてきます。
これはいい文章です。ただ、2004年ではなく20年前くらいに書かれてたらもっと評価できたのに。
2004年って……そこまでよく放置したよ。

ただ、まっとうなのですが、一カ所だけ、首をかしげたくなるところがあるのです。
「明らかに有効性がある毛筆を使用する場面を破棄する必要もない」(93p)という文章です。これだけ。

「明らかに有効性がある」って、「有効性」ってなんのことですか。
「有効性」とは、なにをいっているのか。
それなりに読める字を書くための有効性なのか、「美しい字」を書くための有効性なのか。
「有効性」に対して説得力のあるデータを出せますか?

あと、「明らかに有効性」があるなら、左手書字をする児童・生徒を教室の中で空気にしておいちゃいけません。

左手書字者を空気にしておいてますけど、左手書字者だって(おのおのが個人的に教師の指導にたよらないで努力をつめば)それなりに読める字は書けるのだから、読める字にたいしては、「明らかに有効性」はないでしょ。毛筆に。

「美しい字」を書くための有用性でしかないのなら、
100人中、右手書字の90人が「美しい字」を書くために左手書字の10人を犠牲にしている、というそれを「有用性」と言っていいのか。



硬筆だってよくないけど、毛筆書写教育は左手書字者にとっては、はっきりマイナスです。
 普段左手で字を書いてるのに毛筆の時だけ右手で書かされたり、左手で筆を持ちながら水平の線を左から右へ押し書きするように指導されたり。
それで、「右手でうまく書ければ左手で字を書いても上手になるから」とか根拠のないことをいわれたりして。
「左で字を書いても字がうまい(ごく一部の特異な)人もいるんだから(お前の字の下手さはただの努力不足だ)」とか変なことをいわれたりして。
いくら努力してもまわりの上達についていけないので、「劣等感」と「努力なんかしてもムダという価値観」を身につけたり。出来上がった半紙を見せにいって「ぷっ。ほんとにまじめにかいたの?」と鼻先で笑われて教師への不信感を抱いたり。
字が右手につごうのよいつくりで、左手書字の都合なんか考えていないということに気付いたときの不平等感とか。
ほんとうは自分のせいではないのに、「お前がダメなんだ」といわれつづけたおかげで自分が悪いと思いこんでいた過去をふりかえって腹が立ったり。
あげくに、学校卒業して10年20年たつのにいまだに怨念がはれずに
こんな暗いブログを立ち上げて時間と金を書道教育批判のためにムダにつかったり。
そんな、マイナスのことばかりです。
現状の左手書字者空気主義教書写書道育法を続けるのなら。

そして、今後もそうやって「毛筆の独自性」を守っていくのですか。
そんなやり口でやっていて、
「書道は将来滅びるかも」
とかいわれても……ねえ。
滅びれば?
posted by なかのまき at 23:52| Comment(3) | TrackBack(0) | 書道教育

2009年12月17日

せんせいという人のせいにしていいのか

先の記事で、

出来上がった半紙を見せにいって「ぷっ。ほんとにまじめにかいたの?」と鼻先で笑われて教師への不信感を抱いたり。


というようなことをかいて、

書道やってる先生にはこんなに汚い心の持ち主がいるんだよ!
だから書道はだめなんだ!
みたいな悪質な印象操作をしてしまったような記事になってしまっております。
思わず本心から筆をすべらせt……なんでもありません。

え、ええと。

生徒の持ってきた学習成果を、「ぷっ」とか笑う先生は、だめです。
先生は、というより人としてだめです。
が、これは書道かどうかには関係ありません。


「せんそおで かわいそおな ぞおは ころされて しまいました。 おもしろかったです。 おわり」

みたいな読書感想文をよんで
「ぷっ。本当にまじめにかいたの?」
と笑う国語教師がいても。
まあ、いてはいけませんが。
いないということは証明できません。
同様に、「ぷっ」とわらう、算数や理科の先生もいないということはできません。
書道にかぎったことでない。

これは先生の個人のだめさ加減です。
この先生のだめさを言うことで、「だから書道はだめなんだ」っていっちゃいけないでしょう。


学習指導要領に「毛筆」の項があり、
現状の「毛筆」が左手書字者の都合を無視している

ということと、

書道の時間に「ぷっ」と笑われた

ことは、区別してかんがえる方がいいでしょう。
もし、辛抱強くて誠実な書道の先生につきっきりで
「うん、がんばって!ここの線はなかなかいいね。
 そう、努力が大切だ、きっと上手になるよ」
とかいわれながら的確な指導をうけたとして。
私の書道にたいするいやな感情はなかったかというと。
きっとあったでしょう。
「いくら努力してもちっともうまくなんない。書道なんかきらい」
って。
で、そもそも誠実な先生であれば、
「左手で字をかくなら毛筆やらなくていいよ。意味ないし」
っていうのが、まっとうな誠実さでしょう。
そして、的確な指導とはこのことです。
「やってもムダだよ」っていうこと。
そうであるかぎり、
これは、先生の問題ではなく。明らかに書写書道という教科の問題です。


なにがいいたいかというと、
「先生がわるい」という個人攻撃ではどうしようもなくて
「(学校システムに食い込んでくる)書道がわるい。毛筆がわるい」
って、ちゃんといいたいです。

「それは運悪く悪い先生に当たっちゃったんだねー、
それは先生が悪かった!書道はわるくない!」
とかいわれたらたまらないからです。
だめな先生がいることとは別件で、書道が悪いんです。


あ、あと。
「書道ほろびろ」とはおもいません。
趣味でやればいいじゃないですか。
学校教育から(右手縦書き)書道、とくに毛筆が撤退してくだされば。
あとはお仲間同士できゃっきゃうふふ、とたのしんでいればいいとおもいます。
(この件についてはまたあとでいつかおもしろおかしく記事にします)
posted by なかのまき at 21:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 書道教育

2009年12月27日

初音ミクのせいで歌手が失業する(わけない)

「とめはねっ!」についてなんにもかいてないですね。
いや、なんかあんまり好きじゃないマンガについていろいろかくのが面倒くさくて進まないんですね。

どうせなら好きなものについてなら、いくらでもかきたいのに。
たとえば初音ミクとか。初音ミクかわいい。かわいいです。

私のPCにも一人住んでます。
ちょっと用事があって、さる筋から頂いたのですが、その日からもう、私はミク厨。
「ミクたん、あのね、わたし今日ね、先生への年賀状は筆で書けとか言われたんだよ〜。もーやだ、明日学校いきたくないよぅ」
とか言いながら。
「だいじょ〜ぶだよ〜♪ きにしないでー♪」
と、ミクに歌を歌ってもらって癒されるという可哀想な日々をおくってました。ひどいや。

初音ミクは、二次元美少女萌えな部分はさておき、(そこもたいへんに重要ですが)
私は歌詞を乗せられるという意味で画期的な楽器(音源)という位置づけだとかんがえてます。

使ってみて思うのは、MIDIのうちこみと一緒だな。と。
実際、初音ミクにMIDIファイルを流し込むこともできます。
それで、ピッチとか、ベロシティとか
ぐりぐり数値をいじって、上手に歌わせることが楽しいので。
もう、決定的に機械なんですよ。初音ミク。
なので、人間が歌うしくみとはだいぶちがいますね。
だから、人間にしか出来ない歌い方ってのもあるし、逆に初音ミクにしかできない歌い方っていうのもあって。

初音ミクが出てきたって、人間の歌手は失業するかもなんて心配してないでしょ。

こう、やっぱり、

「初音ミクのせいで歌手という職業はほろびるかも!」

と本気で心配してるのと同じくらいのばかばかしさを

「パソコンのせいで書道は滅びる」

に感じるんですよね。
「歌をうたう」に、人間いがいに初音ミク(VOCALOID)という選択肢が増えた、ってことで。それ以上の意味はないとおもうのに。
どうして初音ミクが人間を駆逐する、なんて思えるのか。
0か100かの二極っていう世界にすんでるわけじゃないのに。
そういうばかばかしさなんですよ。
「パソコンのせいで書道はほろびる」は。


posted by なかのまき at 10:57| Comment(2) | TrackBack(0) | 書道教育

2010年01月13日

個人の趣向・趣味でゆがめられた毛筆書道の世界

ってことで今回の記事のタイトルはひどいですね。
書道にケンカをうってるとしか思えない。

とめはねっ! 6巻よみました。

「とめはねっ!」の作品中にでてくる書道作品は、読者から作品をおくってもらって、それが作中でつかわれてることもあるとか。

で、6巻には左手で書いた書がつかわれてます。


ちなみに花塚さん、本来、右利きなのに、
左手で書いていらっしゃるそうです
が……どうやって?
(『とめはねっ! 鈴里高校』第六卷・河合克敏・小学館)


ということで。
はい、そう。
書家がねー、じぶんの作品に味をだそうとして、
わざと左手で字を書くことはね、
ときどき、あるらしいんですよ〜。
それは知ってました。

もちろん、だからといって「左手書字は問題ない」って言えないと思います。
「書家は左手で字を書いてるから、一般のひとだって左手書字は問題ない」
ってのは。まあ。ちょっと書道に詳しいひとに言われたことあるけどね。

冬、石油ストーブの前で
「あついよ〜」
って文句いったら「サーカスの火の輪くぐりをやってる人はもっと熱いんだから!」とか言われるようなもんです。

火の輪くぐりと一緒にされてもねえ。
という同じ気持ちで。毛筆芸術書道と一緒にされてもねえ。


ところで。
前に紹介した論文をもう一度引用します。


しかし、放置されるままの文字が多様化すればするほど、本項の冒頭に書いた「文字は読まれてこそ機能を発揮する」という言語の機能性に反して、判別力を失うことは明らかであろう。文字は個人的所有物ではない。個人の趣向・趣味で弄ばれてはかなわない。現実に他者が書き記したメモを解読することもできないという多様化と、判別力の低下が生じているではないか。この判別力の低下という現実こそが、字形的損傷の抱える最も大きな問題点であることは間違いない。(48p)

小竹光夫「縦書き書字における平仮名の字形的損傷について」書写書道教育研究』第18号 pp.41-50 2004)


強調は引用者によります。

右手利きの書家が、自分の書く字に味をだそうとしてわざと左手で書字するのは、個人の趣向・趣味ではないのでしょーか。

素人の、こどもの、実用硬筆ではさんざん横書きをすると字形が損傷するとかいうくせに、書家の毛筆芸術書道はなにやってもいいんですか?
芸術という名のもとに、個人の趣向・趣味で文字をもてあそんでいいんですか?

「とめはねっ!」のなかでは、ときどき、

読みやすい字=カッコワルイ・つまんない

っていう価値観がでてきます。

6巻にもあって。

読めることが
一番大事やったら、
「漢字の書」なんて、みんな
楷書だけ書いてたら
ええんちゃう?

読めるから
「ええ書」なんやなくて、
キレイやったり
カッコエエから、
「ええ書」なんや
ないの?

「かなの書」は、
平安朝の日本人が
キレイな書をとことん
追求して出来たんや。

それを、読めるか
読めへんかでしか
判断できないゆうのは
あまりにも浅はかな
モノの見方やと思わへん?
(「第六十六話 文部科学大臣賞」62p


はーっ。
「そんな汚い字じゃ誰もよめないでしょ!」
とか言われるんじゃないかと心配する日々を送っていた私にとっては、「読みやすい字ではつまらんとか、いい気なもんだな」という感想しかでません。

が。まあ、これは芸術書道の素養のない私のたわごとなので、無視していいけどね。


小竹氏の論文にあるように、書道教育では「読みやすい」がたいへん重要とされているのに。
「読みやすさ」を損傷する心配があるとして、小学生が早い段階から横書きをすることを危険視している論文があるのに。
とめはねをきちんとしろ、筆順を守れ、とかやかましくいわれてるのに。

書家はそうやってわざと左手で字を書いたりして文字をもてあそんでいるんですね。楽しそうですね。

小竹氏の言葉をもういちど引用します。

文字は個人的所有物ではない。個人の趣向・趣味で弄ばれてはかなわない。


ただし芸術という名目で書家には文字を弄ぶ特権がある。

と、つけたしておきましょうか。


うーんとね。
芸術という名目で文字を弄んでいいとおもいます。


だいたい、いまだと

毛筆=芸術
硬筆=実用

っていうおおまかなすみわけができていて、
まあ、それはそれでいいかな、とは思うんです。



ただし、学校教育のなかでだけ、


毛筆=実用

っていうわけのわからんことになっている。

これは、同じく小竹氏の報告による、
第一次ワーキング・グループ報告
「時代に対応する書写力の基本構想」(概要)
(『書写書道教育研究』第18号 pp.92-93)
のなかで、

「現代は硬筆で十分である」として、明らかに有効性がある毛筆を使用する場面を破棄する必要もない(93p)


と書かれていることからもわかります。
毛筆書道には「有効性」があるそうです。
その有効性ってなに?
と。
とても気になりますが。

この答えについては、
以下のサイトを紹介します。

上越教育大学書写書道研究室の押木秀樹氏のサイトです。
ついでに、押木氏は
第一次ワーキング・グループ報告
「時代に対応する書写力の基本構想」(概要)
(『書写書道教育研究』第18号 pp.92-93)
にも名前があります。

硬筆と毛筆の字には相関があるか?



現在、高校の書道の授業と違って、小中学校の書写の目標をまとめると<正しいこと・整っていること・速く書けること(中)>が中心となっていて、美しさや芸術性もしくは伝統といったことにはふれられていません。あくまで実用性が重視されていることがわかります。一方、小学校三年生より毛筆を使って授業をすることになっています。これは、毛筆で文字の学習をするのは、実用のための硬筆の字の基礎であるということになります。具体的には、
  ・字を大きく書くことで、字形が把握しやすい。
  ・漢字は、毛筆の使用の中で形成されてきたため、毛筆で書いた方が理解しやすい。
  ・はらい、はねなどの学習に毛筆が適している。

などが、その理由としてあげられています。もし、毛筆で学習しても、硬筆の字がうまくならないという結論がでたとしたら、上記の理論否定されることになります。


引用部分の強調は著者によるものです。
なるほど。硬筆で字をかくにも、毛筆は基礎となっていて、日本語の文字書字教育には必ず毛筆書写が必要だということをいいたいのですね。
で、おどろくことに、続きがこうです。

 さて、余談が長くなりました。実は、今のところ、この質問に答えられるだけの実証的なデータをもっていません。しかし、私個人の経験から次のようなことが言えるかと思います。毛筆がうまい人で、硬筆がうまい人もいるし、うまくない人もいる。程度の問題である。硬筆で書く字と、毛筆で書く字がよく似ていて、両者が関連していると思われる人もいる。という感じです。


え〜〜〜〜。
毛筆の有効性について、実証的なデータないの?
押木氏の個人の経験でしか言えてないの?
しかも、毛筆がうまい人で、硬筆がうまい人もいるし、うまくない人もいるの?
これって、べつに実用書字に毛筆が必要か、って、考えると。
必要なの?
ほんとうに?


ワーキング・グループ報告のなかで「明らかに有効性がある毛筆」と明言されているのに、その「明らかに有効性」の根拠が、押木氏(をはじめとする書写教育にたずさわる人の)個人の経験っていうレベルでしか言われてないんだ……
これはひどい。

「個人の経験」なんていう弱いものををよりどころにした「明らかに有効性がある毛筆」のために、私はあのわけのわかんない毛筆書道の時間をがまんして、書道の先生に「ぷっ、本当にまじめに書いたの?」とか言われていやな思いをしていたのか。

う〜ん。なんか。なんかひどい。ひどすぎる。

左手書字者の都合をまるっきり無視した毛筆書道教育は、
右手書字者の実用書字には有効であるから、左手書字者を犠牲にしてでも行われ続けてるのかとおもっていたのだけど。

むしろ、右手で字を書く人のためになってるかどうかさえ、
実証的なデータがまったくないままおこなわれているのか。
そしてその有効性ははなはだあやしいと私には見えるのだけど。

だって、毛筆の字がうまいひとでも硬筆がうまいとはかぎらないんでしょ?
いや、私は毛筆がうまい人は硬筆もうまいものと素人かんがえで素朴に考えていたのですが。
毛筆書道が実用書字の上達と相関があるとはまだ証明されてないのですね。

もしかしたら、日本の小学校に通ってるこどもが全員やらなければいけないと決まっている毛筆書道教育には、じつはなんの意味もない可能性だってあるってことなのか。

そりゃ、やっぱ、もう毛筆の時間つぶしてパソコン学習にあてるべきでしょう。それはしょうがない。

毛筆は、書家が余暇でやればいいんです。
小学校に通う子供が全員やらなければいけないことではない。


小学校に通うこどもが全員二次元美少女の素養が必要ではないのとまったく同様に。小学校に通うこどもが全員、書道の素養が必要なわけではないです。

好きな人だけがやればいいでしょう。

二次元美少女マニアが、二次元美少女を己の性癖にしたがって脳内で弄ぶように。
書道マニアは、個人の趣向・趣味で文字を弄んでいればいいでしょう。




posted by なかのまき at 22:26| Comment(2) | TrackBack(0) | 書道教育

2010年01月31日

それはわたしの問題ではなく、あなたの課題だ。

こんかいの記事は、私がまえにかいた論文

なかのまき(2008)「左手書字をめぐる問題」『社会言語学8』pp.61-76

の内容と、ちょっとかぶります。

テーマは、
日本語教育と書道教育の左手書字者へのあつかい。



何度も引用してますが、
よくまとまっているので引用したくなるんです。

押木秀樹氏のサイト


楷書の線の合理性

より。


 ただ、興味深い意見を聞くことができました。私どもの大学への留学生で、左利き、しかも筆を持つのは初めてという学生が数名いました。最初の時間、右手と左手と両方でこの楷書の線を書いてもらい、どちらが書きやすいか聞いてみました。結果は、ほとんどの学生から、右手で筆記具を持つのは初めてだが、毛筆の線は右手の方が書きやすい気がするという意見をもらうことができました。また、1名の方(UKで教師の経験有り)は、利き手が左手であることをマイナス要素のとして捉えることなく、新鮮な体験をより効果的におこなうために、教育活動として工夫すべきだという意見を下さいました。左手で書くことの工夫、右手で書いてみるという新たな体験、いずれにしても効果的な学習活動にすることが重要だと感じました。


日本語学習者で、左手書字者への毛筆についてかかれておりましたので引用しました。


日本語学習者で、左手書字するひとに。書道やらせていいのか。
本人も興味を持って、やってみたいと感じたら、遊びでだったらやってもいいかとおもいます。
「ああ、かわいそうな日本の左手で字を書くこどもたち。私は日本で教育を受けるはめにならなくてよかった」
と。筆で字を書くことで、日本文化への理解がすすむとおもいますので。
いいとおもいますよ。

それはともかく。
もう一度引用します。

1名の方(UKで教師の経験有り)は、利き手が左手であることをマイナス要素のとして捉えることなく、新鮮な体験をより効果的におこなうために、教育活動として工夫すべきだという意見を下さいました。左手で書くことの工夫、右手で書いてみるという新たな体験、いずれにしても効果的な学習活動にすることが重要だと感じました。



下線は私がつけました。

左手ききには、
「左手で書くことの工夫」と、「右手で書いてみるという新たな体験」が効果的な学習活動なんですか。へー。
えっと、これは学習者の立場にたっての発言ですか?

じゃあ、右手で字をかいているひともぜひ、

「右手で字を書くことの工夫」と、「左手で書いてみるという新たな体験」をしてはいかがでしょう?

どうしたっておかしいですよね。

まず、「左手で書くことの工夫」ってのは、
学習者の側がするものじゃないです。教師の仕事です。
なぜ、学習者が「左手で書く」ための「工夫」をしなきゃいけないんですか?
「右手で字を書くことの工夫」は、教師が手取り足取り懇切丁寧におしえてくれるのに。
左手で字かくこどもや学習者には、筆をもたせて
「さ〜あ、キミが書きやすいように工夫をしてみよう!」
とか言いっぱなしにするってことですか。

つぎ。
左手書字者による「右手で書いてみるという新たな体験」が「効果的な学習活動」なら、右手書字者にも「左手で字を書いてみるという新たな体験」をぜひ。じゃないと不公平ですよね。
「左手書字者ばかり”効果的な学習活動”ができてズルイ!」ってことになりませんか。

これ、あきらかに、学習者の側にたっての発言ではなく、教える側の都合のおしつけでしょう。

キミが左手ききなら、書道の時間には
「右手で書いてみるという新たな体験」をしてみない?(→右手書字への強制、もしくは圧力)
え?やっぱり左手でかきたいの?そう。じゃあ、
「左手で書く工夫」は自分でやってネ。(→指導放棄)
それが「効果的な学習活動」だよ!(→おのれの正当化)

「効果的な学習効果」とかいって、それが、左手で字をかく学習者にむりやり右手で字をかかせたり、字のかきかた教えないでほうっておくための口実になるんですか。
ちょっとひどくないですか。


で、これ、日本語教育なんですが。


・左手ききにたいする、右手書字の強制
・左手書字をする学習者への指導(責任)放棄
・おのれの正当化

これ、3点セットでおぼえておきましょう。
次の記事で、別の、日本語教育と左手書字について書いてある文献を紹介します。
で、またこの3点セットがちゃんと出てきます。
もー、この3点セットは無敵ですね。

とりあえず、
長くなったので今日はここまで。





posted by なかのまき at 10:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 書道教育

2010年02月03日

それは、わたしの問題ではなくあなたの課題だ。(2)

なんか、シリーズ化しようとおもいます。
左手書字と筆順と日本語教育
あと3回くらいかな?

というわけで。
日本語教育ではどんなふうに筆順をおしえてるのでしょーか。

川口義一・横溝紳一郎(2005)『成長する教師のための日本語ガイドブック』第3章 日本語の授業の実際(4技能の指導:理論と実践) pp.190-181

を引用します。



P:まずは「筆順を教えるべきかどうか」やろ?
J:そのとおり! 最近はパソコンの普及で、実際に「字を書く」機会が減ってきているでしょ。そんで、学習者の更なる負担となっている筆順まで教える必要はなく、とにかく「文字を読んで意味が分かる」ことを優先した方がいいのではないか、という考えがあるんだ。
P:ふん、そら分かるわな。
J:でもその一方で、筆順を教えることは大切だという主張もちゃんとある。例えば、石田(1987:16-31)は、こんな風に主張しているんだ。

・ひらがな・カタカナを速く奇麗に書くためには、筆順の知識は必要不可欠。
・初級でちゃんとやっておかないと、(書き取りをしたり、講義のノートをとったりするために速く書く力が要求される)中級レベルで、漢字の筆順を覚え直すのは遅すぎる。

・以下の理由で、少なくとも初級の前半を終えるころまでには、漢字の正しい筆順をきちんと指導しておかねばならない。
  ・字形の間違いを防ぐ。
  ・(知っていると)速く書ける
  ・将来辞書を引く際に必要とされる、画数の数え方が分かる。
  ・崩して書かれた字の判読にも役立つ。 (180P) 


「筆順、いる。ゼッタイ」派の文献(石田1987)は紹介されてるけど、
「筆順、いらないんじゃね?」派の文献ってないのかなあ?
あと、「パソコンあるから、筆順、いらないんじゃね?」派だけなのかなあ。「手で書くとき、筆順って意味あるの?」派はいないのかなあ。
またここで

パソコン 対 手書き

っていう二元論におちいってるけど。
もっともっと、筆順指導の問題っていろいろあるとおもうし。
ここに左手利きを入れるともっとごちゃっとするのになあ。

ってことで。
つづけて、。日本語教育における左手書字者のあつかいがのってます。

J:主張が分かれているのは、筆順だけじゃない。「左利きの学習者」にどのように対処するのかについても、主張が分かれているんだ。日本語の表記システム自体が右利きを想定して作られているので、「右利きに直した方がいい」という主張が出てくるんだけど、それにはこんな理由もいわれてる。


・慣れてしまえば楽なので、はじめから右利きで書く練習をすればよい。
・両手を上手に使うことができれば、両方の脳の活性利用にもつながるので、右利きで書けるようにする方がいい。


P:簡単に言うけどな、慣れるまでが大変なんやで、利き手を変えるゆうんは。
J:そうだね。この意見とは反対に、「左利きの学習者はそのままにすべきだ」という主張があって、「右利き/左利きは、学習者個人のアイデンティティにも関わってくる問題なので、あえて指導はしない方がいい」という考え方なんだ。
P:どっちも一理あるなぁ。こら、どっちを正しいゆうのを判断するのは難しいなぁ。
J:ボクもそう思うんだけど、このことについて石田(1987:31)は「左利きはそのままにする」という立場で、こんな提案をしているよ。

・左手で書く場合には、筆順に従うとかきづらくなる場合がでてくるので、原則を一応示し、形に響くような逸脱した書き方は避けるように指導すればいい。


えー、とても正気とは思えませんが、書いてあるものはしかたありません。
もう一度引用します。

・慣れてしまえば楽なので、はじめから右利きで書く練習をすればよい。
・両手を上手に使うことができれば、両方の脳の活性利用にもつながるので、右利きで書けるようにする方がいい。
、「右利き/左利きは、学習者個人のアイデンティティにも関わってくる問題なので、あえて指導はしない方がいい」



「慣れてしまえば楽だから」右利きで書け。
「両方の脳の活性利用にもつながるので」、右利きで書け。
「アイデンティティにも関わってくる問題なので」指導はしない。

えー。すごいなあ。
前回の私のブログの記事から。
3点セット。

・左手ききにたいする、右手書字の強制
・左手書字をする学習者への指導(責任)放棄
・おのれの正当化

はい。きれいに出てますね。
とくに、
・おのれの正当化
この部分がひどいですね〜。
「慣れてくれば楽?」「脳の活性?」「アイデンティティ?」
もーう、「左利きのあなたたちのためなのよ〜」っていう押しつけが。
いったい、左手書字する人に「右利きで書くように指導」することや、「あえて指導しない」という態度は、だれにとって都合がいいものでしょうか。

左手書字者は、あたりまえに左手で字を書きたいでしょ。
左手で字をかくとき、日本語の文字はどんな風にかけばいいのか、教師に指導してもらいたいでしょ。
そんな、左手書字者のつごうなんか、ここにはいっこもはいってない。
あと、「アイデンティティ」って、すごく気持ち悪い。
右手で字を書く人は、
「右手で字をかくことが私のアイデンティティ!」とか思ってるのか?
「あたりまえ」って思ってるだけじゃない?むしろ、考えたこともないでしょう。
「どうして私は右手で字を書いているの? そうか、右手で字を書くことは、私のアイデンティティだ!」
とか、考えるの?いやー。かんがえてないでしょう。
それとおなじくらい、左手で字を書いてる人が左手で字を書くことなんか、「あたりまえ」でしょう。アイデンティティもくそもないでしょう。

「アイデンティティ」っていう言葉のうさんくささは、
脱アイデンティティ脱アイデンティティ
上野 千鶴子

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こちらから。
『脱アイデンティティ』(上野千鶴子編 勁草書房 2005)


で、「脳の活性化云々」は気持ちが悪い、ですむとして、次の石田(1987)がまた問題ですね。


・左手で書く場合には、筆順に従うとかきづらくなる場合がでてくるので、原則を一応示し、形に響くような逸脱した書き方は避けるように指導すればいい。



これさあ、筆順で引用されてた石田(1987)と同じ文献ですね。
もういちど引用します。

・ひらがな・カタカナを速く奇麗に書くためには、筆順の知識は必要不可欠。(略)
漢字の正しい筆順をきちんと指導しておかねばならない。



で、


・左手で書く場合には、筆順に従うとかきづらくなる場合がでてくるので、原則を一応示し、形に響くような逸脱した書き方は避けるように指導すればいい。



これ、同じ文献だよね。すごいや。
ちょっと下に、実際のページの写真をのせておきます。




hi.jpg

ミドリの線でかこったところが
「筆順の知識は必要不可欠。漢字の正しい筆順をきちんとしどうしておかねばならない。」って書いてあるところ。

アカの線でかこったところが、
「左手で書く場合には、筆順に従うとかきづらくなる場合がでてくるので、原則を一応示し、形に響くような逸脱した書き方は避けるように指導すればいい」
とかかいてあるところ。

見開き1ページでここまであざやかに矛盾してる出版物って、めずらしくないですか?

日本語教師の先生としては、これは大丈夫なの?
「ええええ? へんだよ、これなに書いてるんだよ」
とか思わないの?

え? 私がまちがってる?
このページに変なところは何もないの?
これで納得できちゃうの?

……えー。
…………えー。
なんで?

えーと、
これは、いま、孫引きをしてるので。
ちょっと、引用先の石田(1987)の実物に目を通す必要がありますねえ。

というわけで次の記事は石田(1987)を引用します。
今日はここまで。

posted by なかのまき at 22:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 書道教育

2010年02月05日

それはよくあるダブルスタンダードですね。

hi.jpg
ミドリの線でかこったところが
「筆順の知識は必要不可欠。漢字の正しい筆順をきちんとしどうしておかねばならない。」って書いてあるところ。

アカの線でかこったところが、
「左手で書く場合には、筆順に従うとかきづらくなる場合がでてくるので、原則を一応示し、形に響くような逸脱した書き方は避けるように指導すればいい」
とかかいてあるところ。

見開き1ページでここまであざやかに矛盾してる出版物って、めずらしくないですか?


ってところに、
に、フォームメールで

「よくあるダブルスタンダードじゃないですか?」

ってコメントをいただきました。
ありがとうございます。
メールフォーム置いて良かった。


というわけで石田(1987)はあとまわしにして。
この件で。

hi.jpg

こういう矛盾は、たしかによくあることです。
しかし、それにしたって↑画像をわざわざ出して見せたように、ここまで激しいのは珍しいんじゃないかなー、と思ってたのですが。

見開き1ページでここまであざやかに矛盾してる出版物って、めずらしくないですか?


ってところは、

見開き1ページでここまであざやかに矛盾してる出版物って、よくあるダブルスタンダードだけど、私はゆるせない。


って書いた方がよかったのかもしれない。
こんなの、ぜんぜん珍しくないのかも。

えーと、なんか私、ダブルスタンダードって言葉はなんかいままで、いまひとつ適当につかってたので、
ちょっと勉強。
基本的な文献。
野村一夫(1996)「ダブル・スタンダードの理論のために」『法政大学教養部紀要』第98号社会科学 pp.1-30

ネットにありますのでリンクします。

ソキウスhttp://socius.jp(野村一夫)より 

「ダブル・スタンダード理論のために」


内集団の美徳と外集団の悪徳

 あるひとつの特性が、ある集団では美徳とみなされ、ある集団では悪徳とみなされる。マートンはこれをドナルド・ヤングにならって「内集団の美徳と外集団の悪徳」と呼んだ。「『すればするで非難され』、『しなければしないで非難される』過程「何をなそうとそれとはかかわりなしに、徹頭徹尾非難される」事態が、さまざまな民族的・人種的関係において存在すると指摘し、その社会学的分析に乗りだすのである。

 また、これと似たものに、同じひとつの社会規範が、ある集団には厳密に適用され、異なる集団にはまったく適用されないという現象がある。あるいは、ひとつの社会規範が、ある集団には柔軟に運用されるのに、異なる集団には厳密に運用されるという現象がある。古くはマックス・ウェーバーが「対内道徳と対外道徳の二元論」と呼んだものがそれである。
(略)
わたしは、マートンやウェーバーが指摘するこのような現象を総括的に表象する概念として「ダブル・スタンダード」(double standard)をあてたいと思う。


下線は私が引きました。

あ、これですね。

うん。やっぱり、右手書字者に「筆順は必要不可欠」っていって左手書字者には「(筆順は)原則を一応示し、形に響くような逸脱した書き方は避けるように」指導する。
って、これ。

「同じひとつの社会規範が、ある集団には厳密に適用され、異なる集団にはまったく適用されない」

ですね。

そうかんがえると、
ほんとうに、これ、「よくあるダブルスタンダード」ですね。
で、これはなにかというと、


 これらはたんに対応が矛盾しているとか一貫性がないといったレベルでダブル・スタンダードなのではない。かかわる人びとを拘束するひとつの首尾一貫したシステムとしてダブル・スタンダードなのである。すなわち、ダブル・スタンダードはジンメル流にいえば一種の社会学的形式なのであり、そして、ここまでの記述から推測できるように、それはしばしば支配層に対する「無視できない少数派」に対して行使される〈支配の形〉となっている。女性、非西欧人、新宗教、犯罪者、在日外国人、在野の研究者、非主流派……。もちろんこの場合の「少数派」とは人数の多寡ではなく支配的社会構造における占有度をいう。(同文献)


ようするに、なにかというと、下線部をひいたところです。

支配層=右手書字者を中心に考える日本語教育・日本語教師
無視出来ない少数派=左手書字をおこなう学習者

「筆順は大切だよ、でも左手書字者のことは面倒みないよ。指導して欲しければ右利きになりなさい」
が、支配層である日本語教育関係者によって左手書字者に対して行使される<支配の形>なのです。


そう考えると、ダブルスタンダードが世間にまかり通るのは、それを支えてる人たちがいるからであって、それを支えている張本人、日本語教育関係者が書いてる本なのだから。
『成長する教師のための日本語ガイドブック』という名前の書物で、「わたしたち、ダブルスタンダードしてます! 成長する教師たちもダブルスタンダードするといいよ!」って明言しても、そんなにおかしいことはない。

それにしても、ここまですごくあからさまに「ダブルスタンダードしてますぅ」って、書いちゃうのって、
「少数の人々はないがしろにします」って言っちゃうのなんか、いまどき流行にのってないし、珍しいんじゃないのかなあ?
いくらなんでも、外聞が悪いからもう少しとりつくろうものじゃないかなあ?
日本語教育なんか、いちばん、「自分とちがう人たちと一緒にいきよう」とか、そういうのに敏感なジャンルじゃないのかなあ。

とか思っていたのだけど、ここにあるものはどこにだってある。
べつに珍しいものではないのかもしれません。

私が、「ここまであざやかに矛盾するのって珍しいんじゃない?」
っていう感想を言ったのは、それは、やっぱり私がおかしかったんです。


 集団内における規範や習慣はよそ者には適用されないということが生じる。しかも、そうすることへの疑問は封じられてしまうのが常である。社会秩序とはそうしたものであり、それは自明な日常生活を生きる人びとの「心の習慣」として沈殿する。(略)
 なるほど、ダブル・スタンダードによって不利益を受け、それゆえダブル・スタンダードをよく認識しうる立場におかれる人たちは、当該社会におけるよそ者である。この人たちの視点から見ると、ダブル・スタンダードは個人を超えた「社会的なるもの」、動かしがたい自然史的事象として、すなわち「権力作用」として現れる。よそ者の視点とは、自明性におおわれたダブル・スタンダードを「権力作用」として発見する眼でもある。
(同文献より)


右手書字者にとっては、「筆順は大切。でも左手利きの人は適当にやっていればいいじゃない」は自明のことなのです。なにも疑問を持つ必要がない。
この矛盾に、気付かなくてあたりまえなんです。
私は、「ダブル・スタンダードによって不利益を受け」るので、「自明性におおわれたダブル・スタンダードを「権力作用」として発見する」のです。

そういう目でかんがえると、それを矛盾と考えない人たちが「普通」(=支配層)であって、矛盾が見えてしまう私の方が、「珍しい」(=少数派)かもしれないです。

私は、自分の感覚をいちばん正しいものとかんがえて、その基準でものを言ってしまっていました。
でも、「珍しい」のはどっちだ、と考えると。私なんだ。

本当は、私は、「珍しい」じゃなくて、「ゆるせない」っていう感想を言わなければいけなかったんですね。やっぱり。

というわけで、石田(1987)はまた次の記事で。
posted by なかのまき at 22:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 書道教育

2010年02月10日

それは、私の問題ではなくあなたの課題だ(3)

はい。それでは石田(1987)について。
あ。
正式名称は
石田敏子『日本語教師養成通信講座 7「書き方の教育』(アルク・1987)です。

えっと、
川口義一・横溝紳一郎(2005)『成長する教師のための日本語ガイドブック』で紹介されていた文献ですね。

それにしても。1987って……参考にしていいのかどうかってくらいの古さですね。
なんか、この古い文献についてなんかいうの、ちょっとあとだしジャンケンみたいで、やだなぁ。
とおもってたのですが。

石田敏子『入門書き方の指導法』(アルク・2007)

というのが出てるんですよ。
これ、だいぶ最近の資料ですね。
この20年でどれだけ、文字の書き方が進化したのか、石田(1987)と比べてみることもできますね。
楽しみです。
ってわけで、石田(1987)と石田(2007)を見比べながらなんか言いますね。

で、まず筆順について


石田(1987)

第4節 非漢字系学習者の問題

筆順には、一定不変の法則はありませんが、各字ごとにほぼ決まった書き順が古来から定着しており、学校教育で教えるべき筆順は文部省『筆順指導の手引き』(1958)によって原則が示されています。
正しい筆順は字形の間違いを防ぐのみでなく、速く書ける、将来辞書を引くのに必要な画数の数え方を知る、崩して書かれた字の判読に役立つなどの利点もあるので、原則をしっかりと習得するまで、すなわち、少なくとも初級の前半を終えるところまではきちんと指導しなければなりません。(31P)


筆順は大切だよ、ってことですね。で、続きがこうです。

(略)
 めちゃくちゃな順序で平仮名や漢字を書く中級学習者をよく見掛けますが、その多くは筆順に関する指導も受けず、筆順の大切さを意識していません。(略)
 漢字は非漢字系の学習者にとっては、文字というより図形です。点を下から上にはねたり、横線を右から左へ引いたり口を右上端から一筆で書いたりするので、字形にも強く響きます。字源を示すことも筆順を覚えるのに役に立ちます。
 ただ、現行の筆順は右手で書くことを前提としているようです。欧米人には左利きが多く、この人たちは筆順に従うとむしろ書きづらくなります。このような場合には、原則を一応示し、形に響くような極端に逸脱した書き方は避けるように指導すればいいでしょう。

下線は私が引きました。

えーと、

横線を右から左へ引いたり
口を右上端から一筆で書いたり


これ、だめですか?
私もやりますけど。むしろ、こうやらないと書きにくいんですけど。なにを根拠にこれを「めちゃくちゃな順序」って言えちゃうんですか?むしろ、左手で字をかくときには合理的ですが。

右手書字者が、横線を右から左へ引いたり
口を右上端から一筆で書いたり


とか限定付きで書くならまだわかるけど。
で、「欧米人には左利きが多く」って、私はもう1987年には左手で字を書いてましたけど、「欧米か!」
いや、ほんと、冗談じゃなく。


ま、あ、いいです。欧米の左手利きのほうが、日本よりさきに右手利き矯正の矯正から解放されていたっていうのは、まあそうでしょう。
でも、1987年から20年たてば、さすがに日本だってだいぶマシになってるはず。
筆順に関する研究も、書道教育の分野で、ちゃんと蓄積されてきました。
さあ。20年後。日本語教育の筆順指導はどのように進化したのでしょうか。

石田(2007)PP.47-48

6.非漢字系学習者の問題
6.1筆順
筆順には、一定不変の法則はありませんが、各字ごとにほぼ決まった書き順が古来から定着しており、学校教育で教えるべき筆順は文部省『筆順指導の手引き』(1958)によって原則が示されています。パソコンの普及などで日本人でも文字を手書きする習慣が減りつつあることから、日本語教育における文字指導、特に筆順に関しては再検討が必要ではないかといわれています。正しい筆順は字形の間違いを防ぐのみでなく、速く書ける、将来辞書を引くのに必要な画数の数え方を知る、崩して書かれた字の判読に役立つなどの利点もあるので、原則をしっかりと習得するまで、すなわち、少なくとも初級の前半を終えるところまではきちんと指導しなければなりません。
(略)
 めちゃくちゃな順序で平仮名や漢字を書く中級学習者をよく見掛けますが、その多くは筆順に関する指導も受けず、筆順の大切さを意識していません。(略)
 漢字は非漢字系の学習者にとっては、文字というより図形です。点を下から上にはねたり、横線を右から左へ引いたり、口を右上端から一筆で書いたりするので、字形にも強く響きます。字源を示すことも筆順を覚えるのに役に立ちます。
 ただ、現行の筆順は右手で書くことを前提としているようです。欧米人には左利きも多く、この人たちは筆順に従うとむしろ書きづらくなります。このような場合には、原則を一応示し、形に響くような極端に逸脱した書き方は避けるように指導すればいいでしょう。


あ。あれ?
同じ文章じゃないー。
えっと、下線部が加筆された箇所です。


あ、あと校異がありました。

石田(1987) 欧米人には左利きが多く
石田(2007) 欧米人には左利きも多く

あとは同じですね。
はいー。
……えー。
えー。えー。

けっきょく、1987も2007も、
「筆順は大切。でも左手書字者は適当にやってれば?」
なかんじでしょうか。ついでに言っちゃうけど、
「あ、あと、左手書字者は適当にやってもいいけど、”正しい”書き順は知識として覚えておくこと。辞書ひくときにつかうから」
みたいな。

あとね、これ、ちょっと困ったなあとおもうのは

日本語教育のなかでも

毛筆=実用

ってなっちゃってるところ。

石田(1987)

書く場合には教科書体を書かせます。しかし、習字の心得がないせいか、筆の勢いによる些細な差も、外国人学習者が書くと、同じ字とは認めがたいほど標準的な形とは違ってしまいます。漢字テストの採点では、数人で採点しても正解と認めるかどうか決めかねてしまうこともあります。(35P)


石田(2007)
習字の心得がないせいか、筆の勢いによる些細な差も、外国人学習者が書くと、同じ字とは認めがたいほど標準的な形とは違ってしまいます。漢字テストの採点では、数人で採点しても正解と認めるかどうか決めかねてしまうこともあります。興味を持たせるためだけでなく、この意味でも、余裕があれば、書き方クラスの導入時または一部に習字を加えると効果的です。

習字って、たぶん毛筆書道のことだとおもわれるのですが。

やめてください。
ほんとうに。


posted by なかのまき at 23:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 書道教育

2010年02月16日

これは聖戦である。我々はこの階級社会に抗議する。

筆順について、やかましく言うのは学校書道の中だけなんです。

芸術毛筆書道の世界では

「ただ1つの正しい筆順」があると思いこむのは間違い。

って、それは共通の認識らしい。
で、学校教育のなかでだけヘンなことになっちゃってる。
この間ここにはった、
「漢字テストのふしぎ」っていう動画と一緒の構造ですね。

芸術毛筆書道の人は、「正しい筆順がある」とは思ってません。
学校教育書道の人は、「正しい筆順がある」と思ってます。

これは、書道家と、書道だいすきっこの二人の書道マニアから聞いた話です。
「左利きだとあの筆順はダメだよね」
っていったときに、
「でも、書道の人は筆順をうるさく言わないよ?うちの大学の先生だってそう言うし」
「でも、小学校や中学校で私は怒られたよ?」
で、返ってきた答えが
「大学の先生と中学の先生、どっちがえらいと思う?」

ひー。
私は大学の先生と中学の先生、どっちがえらいかは、知りません。知らない知らない。
ただ、影響力があるのは、どう考えたって中学の先生でしょう。
大学で書道の授業とるひとなんか、中学で書道の授業を受けた人の数と比べるとだいぶ少ないでしょ。
それで、中学の先生が筆順についてヘンな感じになってることについては、書道マニアはなんとも思わないのでしょうか。
中学校の書道がヘンになっても、毛筆書道界にはちっとも影響でないのかな。
「大学の先生の方がえらいから大丈夫!」なのかな。

「しょせん、学校教育なんか毛筆芸術書道と同じ土俵では語れない」

とか思ってるのかなあ……

ところで。
私の大学には書道の研究室があります。
だけど、書道学科はありません。
書道で学位はとれません。


大東文化大学
は書道学科ありますね。


うちの大学は、書道学科ない。のに、書道の研究室がある。
なぜでしょう。

ヒント:教員免許

で、
もういっかい繰り返します。


「でも、書道の人は筆順をうるさく言わないよ?うちの大学の先生だってそう言うし」
「でも、小学校や中学校で私は怒られたよ?」
「大学の先生と中学の先生、どっちがえらいと思う?」


すごいなあ。
こう、寄生してる方がね、宿主をとことんバカにするっていう。
これ。あれですね。

貴族。

うん。
貴族。
民衆から搾取して、それで食ってるくせに、「下賤のものどもよ」とか言っちゃうあれですね。


ああ、そーかあ。
貴族だから

「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」

みたいに

「左手で字が書きにくいならパソコンで書けばいいじゃない」

って言えちゃうんですね。

日本には貴族がいます。山田ルイ35世と、私の知り合いの書道マニア(約二名)。
ルネッサ〜ンス!


posted by なかのまき at 11:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 書道教育

筆順と日本語教育の蜜月

この記事は
2010年02月10日
それは、私の問題ではなくあなたの課題だ(1)〜(3)
これは聖戦である。我々はこの階級社会に抗議する。

以上の記事をを受けて書きます。

「正しい筆順がある」という思い込みは間違い。
っていうのは、正しいんです。
これは、大学の先生が中学の先生よりえらいことからわかります。
で、説得される方もいるかもしれないけど。
いや、そんなん私はわかんないので、ちゃんと説得力のある文章で。

松本仁志・広大フォーラム・広大フォーラム29期2号
「正しい筆順」は幻想である
http://home.hiroshima-u.ac.jp/forum/29-2/hitujyun.html

もしよろしければ、

松本仁志(1998)「筆順史研究の構想」『広島大学学校教育学部紀要(2部)』pp.1-9

こちらもあわせてどうぞ。
いま「正しい」とされている筆順が、どういう根拠によるものなのか、詳細に分析されています。

縦書き中心の書字生活から横書き中心の書字生活へと移行した現代は、まさに筆順の<揺れ>の時代である。右利き縦書きの中で変遷してきた漢字・仮名は、当然筆順も右利き縦書きに沿ったあり方を取る。それが横書きに移行したことによって、筆順の機能的要素(後述)のバランスが変化し<揺れ>を生じているのである。
今日の規範的筆順は、縦書き向けのものであり、縦書きという書式の中では書きにくいということは当然起きているはずである。(p4)


日本語教育のなかでは、「筆順指導の手びき」が規範的筆順になっていることは
石田敏子『入門書き方の指導法』(アルク・2007)
であきらかになってます。
が、
日本語教育のなかでは横書きが原則のはず。
縦書き向けのものである「筆順指導の手びき」を規範的筆順とすることに私は、疑問を感じます。

で、もういっこ、ウェブページの紹介です。
あべやすし氏が筆順についてかいてます。


漢字の筆順をめぐって―学校教育を批判する

http://www.geocities.jp/hituzinosanpo/hituzyun.html


 なかの まきは、日本語教育の現場でも、筆順の規範が当然視されている現状をあきらかにしている(なかの2008:70-72)。日本語教育は、国語教育にくらべれば、まだしも日本語学の研究成果がいかされている空間であるといえるだろう。その日本語教育の領域においても、筆順の規範がいきのこっているのだ。教育実践においては、漢字研究の常識が、ほとんど活用されていないことをしめしているといえよう。


下線は私がつけました。
あべさんは、「筆順の規範がいきのこっている」とかいてますが、
CiNiiで「筆順」というキーワードで調べたかんじで、ものすっごく印象でしゃべっていてもうしわけないですが。


規範的な筆順教授法に関する研究がはなやかなのは、書道教育よりむしろ日本語教育だと、私は考えてます。

書道教育の世界では、松本氏の論文のように、現行の筆順の妥当性を再検討する研究がちゃんと行われていて、

そういう書道教育の研究成果を無視して、「筆順指導の手びき」を「正しいもの」として、それを学習者に押しつけようとするような日本語教育の研究が、いま、わりと書かれています。

私の印象はこんなかんじです。

日本語教育は「筆順指導の手びき」にふっかつの呪文をとなえた。
なんと! 「筆順指導の手びき」はゾンビとなっていきかえった!

posted by なかのまき at 12:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 書道教育

2010年02月19日

書道教育史・戦前

論文紹介です

明治大正期〜戦前の書道教育について
樋口咲子(1998)「教授理念の授業への関わり方に関する考察 「書キ方」期から芸能科習字への変遷を追って」『書写書道教育研究』12 pp.1-9

1.研究の目的と方法
毛筆による書字教育の理念は、時代によって実用面・芸術面・精神面の比重が変化している。「書キ方」気に目を向けてみると、同一法令化の下で行われた40年あまりの間、いくつかの異なった教授理念が存在していた。今日の「書写」においても、学習指導要領に実用面がはっきり打ち出されていながらも、一方で芸術面・精神面を重視したお習字的授業が少なからず展開されているという。このことは、同一法令の下で異なった教育理念によって授業が展開された「書キ方」期とよく似た状況を呈している。(1p)


ということで、やっぱり、書道教育は実用面・芸術面・精神面の三本柱なわけですね。

「書キ方」期とは、この論文によると、明治33年〜昭和16年だそうです。
それ以前は、書道は独立教科だったそうです。
で、明治33年に国語科に統一されます。で、昭和16年の国民学校令によって芸能科習字としてふたたび独立教科になります。
で、この明治33年「小学校令施行規則」を拠り所とした教授法の参考書の、おもなものを樋口氏は一覧表にして分析し、「おおまかに捉えると初期のものは実用中心であり、徐々に芸術的な捉え方がされていくという見方ができる」と述べています。
樋口氏は実用面から芸術面へと関心が移っていった理由として、以下の3点をあげています。

(1)書道の興隆
 揚守敬によりもたらされた古碑法帖による書道研究が進み、平安時代の再来といわれるほど書道が社会一般で盛んになった。(略)

(2)民族的覚醒
 大正期の中頃から、「欧米崇拝の迷夢より離脱せよの主張はあったが、民族精神の振興は、昭和6年の満州事変、昭和10年の国際連盟脱退を機に勢いを増した。国家観念の昂揚は日本精神の推奨、日本文化尊重の機運を起こし、書道も重視され、精神修養の声の下に書き方教授が推奨されるようになってきた。毛筆による書き方が「錬成」という戦時教育に都合が良かったのである。

(3)実用主義の書き方による国民書写力の低下
 実用主義の下に行われた教育の結果として、国民の書写力が低下したことに反省が加えられ、書き方教育に力をいれるべきだという声が高まった。ただし、この捉え方は芸術的立場を強調した教授法書の主張であって、これ以前にも低迷した書き方教授の実情が述べられている。この原因は、主義の如何の問題ではなく、教師の取り組み方にあったことが当時指摘されている。「書キ方」の時間は教師の休息時間であり、他教科の教材研究や作文の添削指導に当てられていたという記述は多い。
(p.4)


(2)と(3)が大切ですね。特に(2)は、これは書道教育に関わる人は知っておいた方がいいことでしょうね。
あと、(3)は次に加瀬琴已(2002)「戦後の教育課程における毛筆の位置付け」『書写書道教育研究』16 pp.11-21こちらの論文を紹介しますが、この論文とリンクしてきますので、覚えておいてください。


大正・昭和初期の硬筆書き方教授では、児童の日々の学習活動に役立つように、鉛筆書き方を第一・二学年で行っていた。また、低学年で毛筆書き方を行わない場合と第一学年から行った場合とでは、卒業時の毛筆成績が変わらないという実践研究にもとづき低学年の毛筆書き方を廃止していた。ところが、次第に毛筆によらなければ書の本質は学べない、硬筆は指導しなくても自然に上達するといった、児童の発達段階を無視した意見が主流になっていく。(p.5)


これは、現代においても言えるでしょう。書道の人は毛筆だけが大切で、毛筆芸術書道をまもるためなら、こどもの都合、とくに左手書字を行うこどもを犠牲にすることに、まったくためらいがないよんですね。
さいごに、一カ所、引用してこの論文は終わり。



硬筆書き方と毛筆書き方の授業の実情に関しては、たとえば、東京高等師範学校附属小学校の芸能科習字と国民科国語書き方についての次のような捉え方に見ることができる。
 「(略)芸能科習字は主として毛筆により美しい字を書くことによつて国民的情操の醇化を目指す芸術的教科目であるに対し、国語書き方は主として硬筆により正しい字を書くことによつて『国民生活ニ必須ナル普通ノ知識技能ヲ体得」させる実用的教科目であるといへるであらう。」(p.5)


「」内の出典は東京高等師範学校附属小学校初等教育研究会『国民学校の基礎的研究』(昭和15年9月・培風館)
ということです。
「国民的情操の醇化」とか。見覚えがありすぎて困る。


つけたし。
論文中に樋口氏が示した一覧表がひじょうに面白く。
この表だけでどんぶりめしが八杯くらいいけます。

たとえば、昭和7年8月刊辻本史邑『習字教育の根本的革新』から、
「第三章 習字教育の危機を産める原因の根本的誤謬 第一 欧州教育の輸入 第二 実用偏重主義の誤謬 第三 ペン習字論毛筆廃止論の誤謬 第四 書学の本質的系統を貴重とせざる習字教育は教育的価値無し」



パソコンのせいでもなんでもなく、昭和7年ですでに、書道教育の人たちは書道に危機感をおぼえていたわけですね。
書道やってるひととか、書道で食ってる人が「書道は滅びるかも」とか心配するのは、なんでだろうと疑問だったんですけど。お家芸なんですね。ペン習字がでたり、PCがでたり。いつも外から脅かされていて、書道は、ずーっとずーっと、滅びるかもって不安を持っていて、その不安のために左手書字者を踏みつけたまま、「芸術」とか「伝統」とか「書の本質」とか。そういう色のライナスの毛布にしがみついていたんだ。ずーっとずーっと。

posted by なかのまき at 23:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 書道教育

2010年02月20日

書道教育史・戦後

加瀬琴已(2002)「戦後の教育課程における毛筆の位置付け」『書写書道教育研究』16 pp.11-21


この論文は、前回の記事の樋口氏の論文といっしょに読むと面白い。
いや、単独でもとても面白いのですが。

国民学校令で独立した芸術教科だった毛筆書道は、戦後になって廃止されます。

それによって昭和30年代に、「書写力の低下」がおこったという声が上がります。
「書写力の低下」の根拠とされたのが、「筆順の乱れ」です。
以下は1955年1月教育技術連盟から出された「教育技術」の記事。
加瀬氏の論文からの孫引きです。


「(野瀬)たとえば父兄から子どもが文字を書くのに筆順を知らないという非難があるわけです。(略)(荒)「実際そうだと思いますね。やはり、筆順などは現在目立ってひどいわけですが、そういう点もある程度カバーしようということで習字なども努めてやっているのですが、やはり習字などがないと、筆順というものは相当おろそかになるんじゃないかと思いますね。」(p.11)



(野瀬)っていうのは教育技術連盟理事長。(荒)っていうのは東京都下谷中学校教諭荒正弘氏。

これをうけて、加瀬氏は


ここでは、基礎学力の低下について筆順の問題があげられており、それには習字によりカバーされうると述べられている。(p.11)


と指摘しています。


「筆順の乱れ=書写力の低下」を錦の御旗にして。
「筆順が乱れたから毛筆書道がひつようなんだ!」
っていう声がたかくなっていって。

昭和43年の学習指導要領で。毛筆書道は、
第3学年以上「各学年それぞれ年間20時間」の必修になります。

この昭和43年前後。
全書研という毛筆書道必修化に関する運動をしていた団体の、理事長クラスの人間が大会で発言したことばを、加瀬氏が紹介しているのですが。
このときの書道関係者の興奮っぷりが、とてもよくわかって。
ふつうにきもちわるい。


「長いこと、いためつけられ、ふみつけられ棘の道を歩いた書写書道は時期決定にどのように対決するか。(上条周一・昭和39)


「今や書道教育の運命を決する重大な時局に直面することになった。(上条信山・昭和40)

「われわれが長いこと努力し、忍耐し、研究し、かつ待望して来た書写書道の位置付けの機会がいよいよ寸前に迫った。(上条周一・昭和41)

「戦後二十年来、国民の悲願でありました小学校毛筆習字の必修復活の願いが叶えられることになりました。」(上条周一・昭和42)

「この間にあって各関係各位は各その立場から毛筆習字復活に協力、その結集によって今日を迎え得たのであると思う。まことに感激慶賀に耐えないところである。」(上条周一・昭和43)



……さて。
どーでもいいけど上条周一昭和42年の「国民の悲願」て。
すごいなあ。国民か。

ほんとうに、毛筆の必修化は「国民の悲願」だったのか。


加瀬氏は、この書道教育側の舞い上がり方と、ちょうどこの時の、国語科教師の不機嫌っぷりを対比させています。

「今回、毛筆書写は三年生から必修ということになった。美術家ならばともかくも、国語科では、時代への逆行もはなはだしいといってよかろう。」(弥吉菅一・昭和43)
と、このようにけっこう、国語科の先生は書道の必修化を歓迎していなかったようです。
えっと、加瀬氏の論文からはなれますが、

この時、左手利きも反対していた。
大路直哉『見えざる左手』(三五館・1998)によると、
「「習字の正課に反対する署名運動」が左利き友の会から派生していた」(p.85)そうです。

ほんとうに、毛筆の必修化は「国民の悲願」だったのか。

左手利きと、国語科教師が日本国民でなかったのでなければ。

毛筆書道の必修化は、「国民の悲願」でもなんでもなく、「筆順の乱れ=書写力の低下」を根拠に不安をあおった、全書研という書道の人の運動によるものだった。

ところで、筆順の「乱れ」は。
小学校教育で毛筆教育をやらなかったことより。
戦後の左横書きの普及に関係があるでしょうねえ。
先に紹介した松本仁志氏の論文でもわかるように。
横書きしたら、筆順は変化して当然なのです。

その当然の動きを、「乱れ」「書写力の低下」とさわぎたてて、毛筆書道必修化に踏み切った。
それがやり口です。

「正しい筆順」が、「書写力」のよりどころとして使われた、っていう。これは、覚えておいた方がいいでしょう。
そこから、「正しい筆順」をどれだけ知っているかは、「書写力」だけでなく「学習習熟度」や「教養度」「国語力」まではかる尺度になってしまっていくんです。
これについては、次に、もう一本論文を紹介します。

次回予告。
これまで、書道教育・日本語教育についての筆順のあつかいのすごいところをみてきました。

と、ゆーわけで次は日本語学・国語学です。
だいぶここの人たちも、筆順についてあやしげなことを言ってます。

お楽しみに。
posted by なかのまき at 23:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 書道教育

2010年02月22日

国語学と筆順幻想

西崎亨「龍角寺五斗蒔瓦窯跡出土文字瓦に見る文字生活 : 筆順・字形と文字の習熟度」『武庫川女子大学紀要 人文・社会科学編』51 pp.1-8(2003)
CiNiiの本文PDF

ってこととで今日は国語学だよ。

とりあえず要旨をちょっと引用します。

従来、上代における文字の普及とその習熟度を考える資料としては、伝世資料に限定されていた。(略)筆順・字形等の多様さは文字の習熟度とは無関係ではない。筆順・字形の多様さは文字の習熟度と相関する。(略)(p.1)


なんのことだろう。よくわかんないや。
本文いきます。

平川南氏は、蛇喰遺跡出土の篦書き文字の中の、「由」字の筆順を検討した結果として、7種類の筆順を示している。(略)
 この多種類の筆順の存する事実について、平川は「通常同一人物が数種類の筆順で文字を記すことは無いだろう」として、
 この事実は古代地方社会における文字の習熟の問題を象徴的に示しているといってよい。しかも八世紀後半から九世紀前半という時期は、一般的には律令行政が末端まで浸透し、文字が村落に普及したとされている。墨書土器が広範囲かつ多量に分布しhじめた時期である。それにもかかわらず、須恵器工人の文字の習熟度は、「由」の筆順さえ十分に習得しない状況であったのである。
 と記す。


えーと、蛇喰遺跡ってのは、島根県玉湯町にある遺跡だそうです。
で、平川氏のこの研究をうけて、西崎氏は千葉県印旛郡栄町にある、龍角寺五斗蒔瓦窯跡から出土した篦書きの文字瓦の筆順を調査した、小牧美知枝氏の研究を紹介します。
そこでも、「朝」や「神」「麻」「衣」「土」などの字が、複数の筆順
で書かれていたそうです。
また、「寺」「大」の字に、出土する遺跡によって、筆順が異なるものがあったそうです。
これをうけて、以下が、西崎氏の分析です。


ところで、字形をも含めて筆順は、小牧美知枝氏の研究で、記載者の集団と慣例政のあることが明らかになり、また時代の新旧とも関わりのあることが予想される。そして、なによりも筆順の多様は文字習得の程度・文字に対しての理解度を知る手がかりになるものとしての認識が必要なのではないか。


で。ついでに朝鮮半島の刻書と、日本で出土した刻書土器の筆順がいっしょのものがあったりなかったり、ということもあったらしいです。
まとめにはいります。西崎氏は、以下のように述べています。

 同一文字に複数の筆順が認められる場合、文字に対しての理解度の差異と筆順の相違とは無関係ではあるまい。五斗蒔瓦窯跡出土文字瓦の「朝」字に見られるような、筆順と字形の多さは、文字に十分に習熟していない状況を示すものである。(p.8)


下線部は、私がひきました。
なんで?


ともかく、五斗蒔瓦窯跡出土文字瓦は、その地域に生活した人―瓦製作に関わった工人―の文字に対しての、理解度・習熟度を知る資料となる。文字についての理解度の低さが、異体字を含む字形の多様さにつながる。更には筆順の多様にもつながる。(p.8)


え、だからどうして?
なぜ、筆順がいろいろあることが、瓦作った人が文字に対しての理解度が低かったって、そういうことになるんですか?


これは、なんの前提もなく、いきなり「筆順と字形の多さは、文字に十分に習熟していない状況を示すものである。」とか。
いきなりこれ言われたら、

「この世には、漢字を習得したすべての人が了承している永久不変唯一絶対の”正しい筆順”が存在する」

っていう前提が私になければ、納得出来ない結論だとおもうんですけど。
いや、私にそんな前提ありませんよ。


瓦作った人の文字の習熟度を、筆順によって知りたいなら、とりあえず、筆順が、習熟度をはかるためのめやすとして信頼できるものなのか、示すべきですね。

いきなり古代の人つかまえて、「筆順が正しくないし統一とれてないからこいつらバカ」とかいわれても。いや、そもそも筆順てなに?って話になりませんかね。


こういう話したいなら、

佐藤稔(1981)「異体字と筆順と」『秋田大学教育学部研究紀要人文科学・社会科学』31 pp.1-11

これを、読む必要があるでしょう。
この論文はすてきです。


1.はじめに
 平凡な日常生活において極めて常識的なこととして済まされていることでも、一旦疑ってかかると、その”常識”がまったく根拠のない盲信に基づくものであることが判明することがある。きちんとしたデータに基礎を置かない予測・予断とは、それだけに脆い性格を内に有していると覚悟しておかなければならない。(p.1)


と。なかなか、かっこうよくはじまります。

で、この論文でも、西崎氏とおなじように鑿打ちの文字をしらべた結果、

 ところで、現代通行の一般的な筆順と異なる(2)の如き例は、限られた範囲で調べてみただけでも、必ずしも希なものではなさそうである。(p.4)


と佐藤氏は述べています。
で、これでいきなり「筆順と字形の多さは、文字に十分に習熟していない状況を示すものである」とか言ってしまうとわけわからんのですが、佐藤氏はそうは言いません。


 これらは、どちらかと言えば”異例”の側に属するものではあろうが、そうした異例が比較的目につくというのが、鏤刻された文字に窺える特色ということになろうか。とは言え、そのことが直ちに、材質の粗密・不均衡にのって彫りにくさが生じて筆順を変えざるを得なかったという見方にのみ結びつくものかどうか、疑いの存するところである。(p.4)


と、慎重です。

その後、佐藤氏は額字を検討したり、光明天皇の作と伝えられる「鳥毛帖成文書屏風」の文字を見たりします。

で、やっぱり、今の筆順と違う漢字がみつかります。
たとえば、唐招提寺の額字。
IMG.jpg


<王><国>二字では、それが異なっている。「王」の部分を注視すると、ともに、第二画が中央の横画で、第三画に縦棒を引いていると理解出来るのである。
 これらの例についても、先に述べた鑿で打った文字の場合と同様、材質等の事情から彫り易さを求めて筆順を一時的に変更したものはないかとか、書き手の筆順そのものではなくあまり高度の識字層でない彫り工の筆順であろうとか、当時通行し得た筆順の一つが顕現したものであろうとか、生み出される解釈は、ひとつにとどまらない。(p.6)


これが、まあ、穏当な解釈でしょう。
いきなり「筆順と字形の多さは、文字に十分に習熟していない状況を示すものである。」とかいうのはどうかしてますね。

で、この答えは、

佐藤氏式に言えば、「当時通行し得た筆順の一つが顕現したものであろう」です。
これは松本仁志(1998)「筆順史研究の構想」『広島大学学校教育学部紀要』2 pp.1-9の冒頭にに答えが出てます。

本文リンクしておきます。こちら。

「過去の筆順書で基準とされた筆順」なんですよ。この王の筆順は。
 むしろ、これが「正しい」筆順だった。


つまり、松本氏も再三指摘していますが、


時代により、「正しい」とされる筆順は変化しているのです。

最後に、佐藤氏は
筆で書かれた「臣」の字を点検します。
「臣」の、総画数は何画ですか?
ときかれて。七画です、って答えるのが、正しいです。今はね。
で、だいたい過去の写本をみても、やっぱり縦画を最後にかく、七画で書かれていたようです。

ただ、中国の権威ある字典、
『字彙』『正字通』『康煕字典』では、臣は六画の字とされています。また、その字典の影響を受けた日本の『異体字弁』も六画』『正楷字覧』も同様です。また、その他(当時)流通していた漢和辞典でも多く、「臣」を六画としていたそうです。

で、六画っていうのは、『説文解字』の篆文が根拠となる、由緒のある筆順です。
だけど、それはただ「正しい」だけで、実際は広く、七画で書かれていたそうです。
 佐藤氏はこう述べています。


 結局、『異体字弁』『正楷字覧』に示す如き”起横六画”の<臣>字は、前代に皆無では無かったにしても、在来の生きた筆順の実勢を伝えたものと見ることができないと言うべきであろう。(略)
 世の多くが、”規範”とするものに従っていれば、それは文字通り規範として遇されてよい。しかし、規範とするものに、世の大多数が世を向けているようであれば、それはもはや規範としての意味も力も失ったものと見なければならない。(p.9)


……面白い論文なのですが、わりと、当たり前のことを言ってる印象でしょう。
筆順の規範は、時代や場所によっていろいろ変わってきているし、1つじゃない。

今の私の目からみれば、なんていうことのない、まっとうな結論なんです。「へー、勉強になったな」とは思うし、結論に異議はないのですが。
なぜ、佐藤氏はすてきな「はじめに」の文章をつけてまで、この論文を書いたのか。

「平凡な日常生活において極めて常識的なこととして済まされていることでも、一旦疑ってかかると、その”常識”がまったく根拠のない盲信に基づくものであることが判明することがある」と、佐藤氏は論文の冒頭で書いています。
これは、やっぱり、国語学者の中にも、「正しい筆順」を盲信していた人が、多くいたんだろうな、ということがうかがえます。

それで、「筆順を、いつでもどこでも変わらない正しいものがあるなんて、思わない方がいいだろう」って、そういうメッセージが、この論文にはこめられている。

 筆順については、いろいろ問題があるし、わかっていないことも多い。自分の感覚だけに頼らないで、ちゃんと検証しなければいけないことがいろいろある。
 たった1つの正しい筆順があるなんていう思い込みは、間違っているんです。

ただし、その佐藤氏のまっとうな指摘を、国語学者が知識として共有しているとは、とても思えません。現状見ても。
とりあえず、「正しい筆順」幻想を持っている人は結構多いでしょう。


少なくとも、いま、「正しい」とされている筆順と違う筆順で書かれた文字が出土したって、無邪気に「筆順と字形の多さは、文字に十分に習熟していない状況を示すものである。」とか論文に書くのは、それは、まともな研究ではないと思います。
posted by なかのまき at 20:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 書道教育

2010年03月03日

筆順はいきている

マンガを紹介します。
画像はサムネイルですので、クリックすると大きなのが見られます。

man.jpg
man2.jpg

人に「筆順について書いてあるマンガあったよ」っておしえてもらいました。

『インド夫婦茶碗』8(流水りんこ・ぶんか社・2006年)

これは、ジャンルとしてはエッセイマンガです。
マンガ家のリンコさんと、インド人の夫サッシーと、こどものアシタ君とアルナちゃんの日常を書いたマンガです。


息子のアシタ君に筆順の間違いを指摘されたリンコさんの感想がこう。

「なんだか
 手慣れだけで
 漢字を書いてた
 ってことが
 今回発覚…」

親の面目
丸つぶれ

漢字だけはちゃんと憶えんと
大人になって
いっぱい恥ずかしい
思いをするぞ
するぞ
するぞ
するぞ
するぞ


このマンガからわかることは、

・小学校でいまだに「正しい」ものとして筆順が教えられている
・筆順が「正しく」ないと「恥ずかしい」と感じるおとながいる

アシタ君の学校に左手で時を書くひとは一人もいないのかなあ。
だいたい、横書きするとき、あんな筆順守る必要ないし。
というか。
筆順が「正しく」なければ、どんなに点画がちゃんと書けていてもまだなお、漢字を「ちゃんと憶えた」ことにならないのか。
筆順の「正しさ」が、「漢字の習熟度」とか、まったくかんけいないものまではかるモノサシになっちゃってることが、このマンガからもわかります。
あと、「いまどき学校で筆順なんかうるさく言わないでしょ」とか、(根拠もなく無責任に)言うひとがいるかもしれないので、釘をさすいみでも、このマンガ。
とりあげる意味はありましょう。

「正しい」筆順は、いまだに、学校教育のなかで生きてます。

あ、だけど、このマンガのなかのリンコさんやアシタ君をせめるつもりはありません。
先生に「正しいものは正しい」とならってしまえば、それを疑うのは、よっぽど筆順で不利益をこうむらないかぎり、むずかしいかもしれません。

先生と呼ばれてる人、もうちょっとどうにかなりませんか

とは思いますけど。リンコさんや、アシタ君が悪いとはおもいません。


これは、ユーキャンのCMでも(私のなかで)有名な蒼井優さん主演で映画化もしてわりと有名なマンガなのではないかとおもいますが。
『ハチミツとクローバー』9巻(羽海野チカ・集英社・2006)
友達の家で読んで
「え、これ……どうなの?」
っておもったので。

hati.jpg

美術大学を舞台にしたお話しです。
ストーリーはとりあえず、
ウィキペディアから確認してください。

このマンガは全10巻なのですが、10巻のクライマックスのところで、主人公の女の子、はぐちゃんが、上から降ってきたガラスで右手の神経を切る、という事件が起きます。

はぐちゃんはみんなから期待されている芸術家で、利き手である右手が、怪我で動かなくなるかもしれない、そうすると絵がかけなくなるかもしれないと怯えるシーンです。

手…
手が死んじゃう

それだけは
いや
絶対に だめ

描けなくなったら
私も死ぬ


こんな切ないはぐちゃんのセリフがありますが。

ここで、
「右手で描けないなら左手でかけばいーじゃない」
とかいっちゃうのはだめですか?
「さいてー!」
とかいわれそうですね。そうですね。

あ、
「筆で絵が描けないならパソコンで描けば? マウスだけですごい絵を描く人もいるよ?」
とかもだめでしょうね。だめですよね。うん。


そういや、『とめはねっ! 鈴里高校』の1巻でも、主人公の大江君が右手を怪我するというストーリーがありますが、
これも左手で字かかないのですね。
ふしぎ。
なんで左手で字をかいてみようって気にならないんですかね。

tome.jpg

左手で教科書に
アンダーラインを引いているだけ…

右手のケガの
せいで、マトモに
ノートをとることが
できないみたい…


右手をケガしたんなら左手で字をかけばいいじゃない。
ってのはだめですか?

私は「左手で字がかきにくい」っていうと”善意で”「右手で書くのはできないの?」みたいなやさしいアドバイスをくださる人もいるんですけど。
そういうひとは、はぐちゃんや大江くんにも「左手でかけないの?」ってアドバイスしますか?


なにがいいたいかというと。

右利きの人が、ケガで利き手を使えなくなる、ってのは人気漫画のクライマックスのお涙ちょうだいエピソードとしてつかわれるくらい、ドラマチックな悲劇になりうるのに。

左手利きのこどもは、無造作にしかも人為的に、それをやられてる。
左手利きの右手矯正って、これですよ。

この、非対称はなんなんですか。
そして、手を下すのはだいたい、保護者です。

俵万智の短歌に

生きるとは手をのばすこと幼子の指がプーさんの鼻をつかめり


っていうのがある。
私は「生きるとは手をのばすこと」かどうかしりませんが。
これがもし、そうなら。こどもが左手をのばしたとき、
「おまえいっぺん死んで右利きにうまれかわってこい」
っていうのが、右手矯正のことです。

「あなたのために」と、近しい人の手によって利き手をもぎとられる。
その暴力性に、きづかないのですか?
はぐちゃんを襲った試練を「つらい」と思うなら同じように、矯正されるこどものつらさもわからなければいけない。
「左手で字がかきにくいなら右手でかけば?」っていうなら、はぐちゃんにも「右手をケガしたんだったら左手でかけば?」っていわなきゃ。
そんなこという人と、私は友達になりたくないけど。


また、「こどものために」と利き手矯正するお母さんのなかには、それをしたことによって自らも、傷を負ってしまう人がいる。
私の友達で右手矯正をした子がいて、
「お母さんに、可哀想だったから矯正しなければよかったかもって言われたことある」
っておしえてもらったことがあります。

これが本当に「こどものため」なのかと迷いながら、こどもの矯正をしてしまうと、けっきょく、お母さんも傷付くんです。

だれもしあわせになれない。
posted by なかのまき at 23:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 書道教育

2010年03月20日

新人いじめのツールとしての筆順指導

私の先輩で、ニュージーランドで日本語教育の教育実習をうけたとき、「呼」の長い縦線は、ややカーブしているのが「正しい」と指摘されたそうです。

ど、どんだけ……
非漢字圏の人対称の日本語教育なんだから、あきらかに「呼」の縦線の緩やかなカーブがなんたらかんたら、みたいなことは、学習者にはいってないでしょ。
ぜったい。

なんだろうな。

きっと、学習者にはそんなきびしいこと言ってない。
にもかかわらず。
教育実習生がきたら「それーっ」ってあらさがしにおおはりきり。
うん。通過儀礼ですね。
新人いじめという名の。


あと、私は日本語教育畑ではないのだけど、なんでか台湾に日本語教育の教育実習にいったことがあって、そのミーティングのとき、
大学院の同期と言い合いになってしまったのですが。


「書き順は間違えてはいけません」
「書き順はみぎききにだけにつごうのいいつくりになっています。私にあなたの趣味をおしつけないでください。正しさをおしつけないでください」
「趣味でなくて、教育実習のとき、ボクは指導教官に書き順を厳しくいわれたから、ボクも言うんだ」

という。
あ、すっごく「」部分がうさんくさいしゃべり口調になってるのですが、実際はここにかけないほどえげつない口論だったので。
脚色してます。

えーと教育実習……なにやってんの?
だいじょうぶ?

大学の教員取得の教育実習で、書き順かなり厳しく言われるってのは、わりとみんな証言してるので。
そういうこと、あるんでしょう。
で、このとき、「正しい書き順」「正しい字体」への忠誠心が若い教育実習生に芽生えるわけですね。

教育実習生への指導法みたいなのは一定の基準がさだめられているのかな。
で、なんかそこに「筆順をネタに新人いじめをしましょう」っていう項目があるのかしら。
いやー。なんか、左手で字を書いてる教育実習生、どうしてるんでしょう。

いや、左手書字者は教員免許を取得出来ない、という……いや、そ、そんなことないよ……ね。

も、もちろん、
教員の右手書字者と左手書字者の比率は、社会一般の右手書字者と左手書字者の比率とほとんど一致してるよ……ね?

一致してなかったら。
左手書字者に就職の差別があることになるんじゃないかな。
左手書字をおこなう学習者は一定数いるんだから。

うーん。
そういうのを調べたデータはないのかしら。
もちろん、一致してるなんて思えませんが。
あ、まちがえた。一致してないなんて思えませんが。
って言いたかったんですよ。はい。うん。もちろん。

うーんとね。
「近頃の教育はけしからんぞ」
っていってるひとはかなり、たくさんいます。
「教師が悪い、子供が悪い、親が悪い、政府が悪い」
いろいろいってるけど。

「大学の教育免許取得課程が悪い」

ってのは、あまりきかないなあー。
けど、どうなんでしょう。
このへんは、大学の教員免許課程に詳しい人にきいてみたいですね。
posted by なかのまき at 18:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 書道教育