2010年04月02日

筆順についてのコメントのメモ

先週末、名古屋の研究会にいってきました。
そのときもらったコメントについて。
メモ。おもに筆順について。


・筆順をまったくおしえなくていいのか

筆順をまったくおしえなくていいとは、私もおもわないわけで、
で、「筆順指導の手引き」は二段構えになっていて、

(1)筆順の原則「上から下に書く、左から右にかく」をかかげる
(2)それぞれの字の”正しい”筆順をしめす

というようになっていて。
(1)の、筆順の原則だけでいいのでは。
(2)はいらないんじゃないのか。
というようなことを、かんがえてます。
このへんはもうすこしつめます。

・学校毛筆書道は「美しさ」か
学校毛筆書道は、タテマエ上、国語科に寄生しているという都合上、芸術的な美しさは、求めていない。かきやすさとかととのえやすさ、とかそういうことをまなぶためには毛筆が必要だってことになってる。
で、タテマエ上は求めてないけど、実際の評価は「うつくしさ」だよね。
そのへんのねじれが、いけないんじゃないかな。
思うのは、書道って、美術の時間に寄生したってよかったんですよね。でも、国語を選んだ。なんで国語を選んだのか、私にはまだよくわかんないです。
で、国語を選んだからには、「うつくしさ」を捨てて、「実用」の効用をいわなければならなくて。実用にしがみつくんだとしたら、たいへんですね。これからどんどん厳しい時代になると思いますが、がんばってください。
なんか、「伝統芸能的芸術」っていう方向で保護される、っていう戦略もあるとおもうんですがね。なんか、そっちのほうが生き残るにはよさそうな気もするんですが。それをやらないで、国語科必修でやりつづけるとしたら。あくまで実用にこだわるんですね。PCと闘うんですね。
わざわざ困難な道を自らえらぶなんて、カッコイイですね。国語科書道。がんばってください。応援しませんけど。全力で邪魔しますけど。


・右手利きと筆順について
「左手利きにとって筆順が不合理なのはわかった。
筆順なんかどうでもいいって知っている。
だけどじぶんのこどもには規範的な筆順で書かせる」

というとき、

「筆順は、どうでもいいんだから、だったら、学校で習う”正しい”筆順でもいいんでしょ?」

という。
そういう、気軽さがあって。
「左手利きのこどもはかわいそー。でもうちの子はみぎききだから、学校でならう筆順を守らせてもいいよね」
という姿勢は、問題はないのか。
というと、だめなんじゃない?

左手利き限定ではなく。
だれにとっても、
「筆順指導の手びき」を「正しい筆順」として教えられるのは、不利益が大きいでしょう。「正しい筆順」は「「意味がない」じゃなくて、「害である」と積極的にいったほうがいいでしょう。

「筆順指導の手びき」のなかの「正しい筆順」って、
「伝統(にみせかけたなにか)」と「合理性」がじつにだめな具合にまざりあっていて。
そう。「現代仮名遣い」のトンチキさとかなり似てるんですよね。
次くらいにブログで、これでかきましょう。

そして、やっぱり、論文のテーマを筆順にしぼったほうがいいなあ。
と、おもいました。
理由は

(1)「左手書字〜」の書き方がわるくて、「筆順は左手利きだけの問題だよね」みたいにおもわれたのかな。とおもうとくやしい。

(2)「漢字テストのふしぎ」の映像評であんまり筆順についてかけなかった

(3)筆順についてはわりと研究が進んでいる

(4)筆順のだめなところって、はっきりしてるので指摘しやすい

posted by なかのまき at 20:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 書道教育

2010年04月26日

DS 美文字トレーニング(1)

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日曜日に友達によばれて
東京の秋葉原にいってきました。
せっかくアキバにいくので。


『DS 美文字トレーニング』を買ってきました。

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パッケージの写真をみてもらえるとわかるのですが、
筆みたいなのがついてます。
が、これ、筆でもなんでもありません。

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筆の形のタッチペンですね。
筆先がしなう、とかそんなんじゃなくて。
ただたんに、書道っぽくみせるためのもの。
写真だけみると、筆ペンみたいなものかな、と想像してしまうかもしれないので、
手の写真をいれたのですが、このとき、穂先をかなり強い力で押しているんです。
曲がってないでしょ。形だけ筆っぽいのだけど穂先も硬いんです。

なんかね。
わざわざタッチペンを筆の形にするってことで。
ああ、やっぱり書道の人にとって
一番えらいのは毛筆なんだな。
ってのが。よくわかりますね。

筆圧関知も多少できそうですが、
毛筆書道の感触にはほどとおいペンです。
タッチペンの形質や、ふだんの字はペンでかくことから、
むしろ、鉛筆やボールペンの形にしたっていいんだろうとはおもうのですが。
なんか、やっぱり毛筆なんですね。
まあいいや。
それが書道の戦略ってなら


えと、それはいいとして。
説明書があるのですが。
これがちょっと悪い。


「美文字(びもじ)」をめざしてトレーニング!
生活の中で文字を書く機会は、今でも多いもの。
奇麗な文字が書けずに、
恥ずかしい思いをしてしまったことはありませんか?
『DS美文字(びもじ)トレーニング」はお手本にそって
さまざまなお題で文字を書く練習ができるソフトです。
書いた文字は添削され、文字の美しさを測定したり、
より美しく書くためのポイントを学ぶことができます。



えっと。

>生活の中で文字を書く機会は、今でも多いもの。

これはいいですね。


>奇麗な文字が書けずに、
>恥ずかしい思いをしてしまったことはありませんか?

字が汚いと「恥ずかしい」と感じる人がいるとしたら、
それは字が汚い人の責任ではないですよね。
左手で字をかくひとや、なんらかの都合でペンをしっかり持てなくて、美しいとか汚いでなく、むしろ字を手書きするのが困難で社会の中で不利益をこうむったりする人がいるっていうことを考えれば。
「字が汚いと恥ずかしい」っていう空気こそ、恥ずかしいと私は感じます。
というか、そういうことを考えるなら、

>生活の中で文字を書く機会は、今でも多いもの。

この現状をどうにかしないといけないとおもうし、まして。

>奇麗な文字が書けずに、
>恥ずかしい思いをしてしまったことはありませんか?

こんな恥ずかしいことをよくいえるものですね。
ぜったいにいうべきではありません。
むしろ、書道のひとが「じをかくということはどういうことなんだろう」って、ほんとうに、ちゃんと、かんがえるなら。
「字が汚いと恥ずかしい」なんていって一般の人の手書きコンプレックスをあおるようなやり方で、ほんとうにいいんですか?
そういうやりかたで、書道を繁栄させていきたいんですか?
「字が汚いと恥ずかしい」なんていう空気をつくらなければ、書道がこの世に存在してる意味はないんですか。

そうやって人をおどすようなやり口で、書道の強制をこころみて。
それで、長い目で見ると書道にとってどうなんですか?
私には、自分の首を自分でしめているようにしかおもえません。
「字が汚いと恥ずかしい」なんて言いはなって、それで楽しいんですか?
そういうやりかたで、書道人口を増やしたいんですか。

毛筆で字をかく訓練を受けていない人にむかって「字が汚いと恥ずかしい」なんて恥ずかしげもなく言いはなつより他に、もっと、書道を守っていけるみちは、いくらでもあるでしょうに。

私が、書道を批判したいのは、この部分です。
書道となんのかんけいもない一般の人を巻き込もうとする、その姿勢がきになるんです。
「恥ずかしい」と脅しつけたりコンプレックスにつけこんだり、「書は人なり」とかいって人格の攻撃をしてまで、なぜそこまでして書道を押しつけたがるんですか。

そうやって汚いやり方で押しつけをおこなっている、(一部の)書道関係者を、心ある書家はなぜ、放置しておくんですか?
書道の将来をかんがえたら、あきらかに有害じゃないんですか?
「字が汚いと恥ずかしい」
なんて。
こんなゲームまで発売されて。
それを問題とはおもわないのでしょうか。

私は、書道は滅びればいいなんておもってません。
書は、私もきれいだとおもいます。
なくなってほしくないとおもいます。
だからこそ、
「字が汚いと恥ずかしい。だから書道をやれ」
じゃだめなんですよ。

もちろん、こんな素朴な議論じゃなくて、まともに書道の将来について考えている人は、たくさんいるとおもいます。
でも、その声が私のところにまでとどいていません。

とどいているのは、

奇麗な文字が書けずに、
恥ずかしい思いをしてしまったことはありませんか?


っていう、DS 美文字トレーニングなんですよ。
posted by なかのまき at 21:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 書道教育

2010年04月27日

DS 美文字トレーニング(2)

「美文字トレーニング」のわるく……感想(2)

説明書から

ゲームの監修の原田幹久氏のコメントがまた、
私の論文の手伝いをしてくれるつもりなのか、というくらい
それはそれは、味わいぶかい文章なので。
なんか。
手伝ってくれてありがとう!
さっそく引用します。

古来より手書きの文字には生命が宿り、
文字はその人をあらわすといわれてきました。
残念ながら現代では手で文字を書くことも少なくなり、
まして日常で筆を持つ機会はごく僅かです。
しかしこうした時勢だからこそ
手書きの良さを大切にしたいものです。
文字・漢字には深い表意があり、
たった一語で純粋な思いを伝えることが出来ます。
この「美文字トレーニング」は文字を習いはじめた方から
熟練された方までが文字を美しく見せるための法則を学び、
一緒に楽しく練習できるソフトです。
毎日少しずつ続けて文字を書くことを楽しんで下さい。
そしてこのソフトを通じて脈々と受け継がれてきた
文字文化に興味を持って頂けたら幸いです



重要なところを太字にしようとおもったけど。
どこをとっても隙がないので。
全文大切です。全文。


>古来より手書きの文字には生命が宿り、
>文字はその人をあらわすといわれてきました。

さて。

「手書きの文字には生命が宿り」
って。オカルトですか?
書道はオカルトなんですか?

あと、「文字はその人をあらわす」が「古来より」ではないことは、私がこのあいだブログで書きましたね。
2010年4月1日「書は人なり」の典拠

虎明(とらあきら)さんの『わらんべ草』を引用しました。

>残念ながら現代では手で文字を書くことも少なくなり、

たいへんよろこばしいことに、
パソコンの普及で、
手でペンをにぎるのが難しい人や、
文字が右手書字用にできているために不利益をこうむっていた左手ききの人も、
手書きかパソコンかを選ぶという選択肢ができました。
(ぜんぶではないですけど。残念なことに、いぜんとして手書きを強制される場面は多くあります)

以上の理由から、
「現代では手で文字を書くことも少なくなり」が「残念ながら」と評価されることにいきどおりをかんじます。
あと、少なくないからね。小学生や中学生や高校生なんか毎日ペンで字を書かされてるんだから。
大学生だって。
私、じぶんの教室では「ノーパソでノートとっていいです」っていってるのに、みんな手書きのノートとってますよ。

>まして日常で筆を持つ機会はごく僅かです。

だれが?
まあ、私は筆で字をかくことはないでしょうけど。
毛筆書道を趣味にしてる人には失礼じゃないですか?
このかきかた。

>しかしこうした時勢だからこそ
>手書きの良さを大切にしたいものです。

だれが?
「大切にしたい」のが原田氏の個人的な趣味なら、それはそれでいいですけど。
私にはその価値観はおしつけないでください。

>文字・漢字には深い表意があり、
>たった一語で純粋な思いを伝えることが出来ます。

えーと、「たった一語で純粋な思いを伝えることが出来ます。」はオカルトでいいとして。
「文字・漢字には深い表意があり」はニセ言語学じゃないですか?
だいじょうぶですか?

文字・漢字には深い表意があり。

表意文字っていうコトバを連想させようとしているのがみえてますけど。
それでも「漢字は表意文字です」ってかくとぜったい、「ちがうよ!」ってツッコミがくるのがわかっていてうまいこと書いてる文章にしかみえません。
……ちがうかな。かいかぶりすぎかな。なんとなく「表意」って書いてみたかっただけかな。
どっちにしろ。
じっさいに、「漢字は表意文字である」みたいなことをいまだに、しんじてるひとは多いよね。
そういう人に「そうか、このソフトは言語学の知識もいかされてるんだな」みたいな。ね。誤解をされては。
だめでしょー。

後半はまあいいや。最後の一文。

>そしてこのソフトを通じて脈々と受け継がれてきた
>文字文化に興味を持って頂けたら幸いです

文字文化は脈々とうけつがれてないよ。
変体仮名が死んじゃったもの。

posted by なかのまき at 10:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 書道教育

2010年05月10日

毛筆書道、どうしてもやらなきゃいけないんだったら。努力ということばがまっとうな意味をもつための書道教育をおねがいします。

前回の記事のつづき

たとえばさ。
ナメクジを生のままのみこむと声がきれいになるっていう言い伝えがあるじゃないですか。
で。
「次の合唱コンクールにむけて、毎朝5時におきてナメクジをつかまえて、毎日30匹飲んでます。こんなに努力してるんだから、成績あげて!」
って、いわれたら。
先生どうするの。
「それはね、あなたのがんばりはみとめますけど、即刻やめてください」
って、いわなきゃだめでしょうね。
ナメクジを生で飲み込み続けることで、3つの悪いことがあるからです

1.ナメクジには悪い寄生虫がいる
2.ナメクジをつかまえる手間と時間が、正規の歌の練習にあてる手間と暇をくいつぶす
3.ナメクジを飲み込むという努力は、上達に関係しないから、その努力の続けて、成果がでないとき。努力そのものが無駄なんじゃないか、というような考えを引き出すおそれがある。


それで、また別件で。
努力にカウントされない「一しょうけんめいがんばる」があるわけで。
たとえば、「授業中眠いけどねむっちゃだめだから眠らないようにがんばる」とかね。もう、眠気にあらがうので一生懸命で、授業きいてられない。このとき、その人は一生懸命がんばってます。
けど、そりゃ、努力とはいいがたいですね。
「授業中に一しょうけんめいがんばって努力してるから成績にプラスしてあげる」
とか。そういう展開はないですね。
授業中にがんばってはいるけどね。
あとは、もう生きているだけで精一杯の人とかね。がっこうに行くだけで精一杯の人とかね。
私はわりかし、小学校低学年のころは、学校にいくだけで精一杯のくちで、もう、学校にいくだけでだいぶ努力が必要で。
途中で耐えられなくなって「帰っていいですか」とか。先生に交渉したりね。もちろん先生はいい顔しないけどね。帰りたいからがんばるんですよ。
もう、この時、「家に帰る交渉に一生懸命」です。
「帰りたいです」。あとは、学校に行きたくない朝は「学校に行きたくない」と一生懸命がんばるとかね。じっさい、朝、親に「学校に行け」って殴られてたりしました。でも「いかない!」ってがんばってたんですよ。
そういう方向にあまりがんばりすぎたせいで、ある日、私が一人で学校から帰った日。
担任の先生がクラスのみんなにむかって
「なかのさんは心が病気なので帰りたがるんです」
みたいなことを言ったらしいです。
あとで友達に「先生がこんなこといってたよ」ってきいた。
うーん。
まあいいや。

でも、「学校からかえる」「学校にいかない」っていう方向での「一しょうけんめいがんばる」は努力とカウントされた覚えはなく、むしろあのー。
「さぼってる」「なまけもの」みたいな。

こんなふうに。
みんなね、「一しょうけんめいがんばる」のはね、みんないろんな形でやってるんですよ。でもね。「一しょうけんめいがんばる」が、「努力」にカウントされるってのは、それは全「一しょうけんめいがんばる」中のごくごく一部なんですよ。
そしてはれて「努力」とみとめられた「一しょうけんめいがんばる」がね、ちゃんと実を結ぶときはいいですよ。でも。「一しょうけんめいがんばって」も、いい結果が出せないときも、ままあるわけです。

つまり、全「一しょうけんめいがんばる」のなかで、努力が報われることなんて、そのまた一部なんです。
それでも、私が「一しょうけんめいがんばる」ことや「努力」を否定しないのは、それは、「報われた」っていう実感を、幸福な記憶としてもちつつ、成長できたからです。
報われないことがあるのは知っているけど、ぜんぶの努力が、ぜんぜん無駄になるわけではない、っていうのを、実体験として、自分の中にもっているからです。


それで、こうすればうまくいくっていう、ある程度の見通しをたてて、
その見通しのもとになんども試行錯誤をする、っていうのが努力の内容で。
ウサギ跳びを100回くりかえせば神様が下りてきて新しい技を伝授してくれる、みたいなそういう「とりあえずがんばればとにかく報われる」みたいな精神世界の話ではなく。お百度参りとはぜんぜんちがうもので。
頭を使う、めんどうくさい、つまんない、地味でつかれる仕事なんです。努力は。
だから、一人でやりとげるのは難しい。誰かの協力がなければできないし、誰かに邪魔をされては、やりとげるのは難しい。
とくに、こどもの頃なんか。
失敗することの方がおおいでしょう。

もちろん、失敗から学ぶこともおおいのですが。
努力がうまくみのらなかった、なんていう経験は、学校でなくてもどこでもできるんです。
どうせ学校に行かなければいけないんだったら。
むしろ、完全でなくていいけど、できるだけこどもの努力が報われるような、そういう環境を整えることを、私は学校に期待をしたいので。
そうやって、「努力することはしんどいときもあるけど、しんどい思いをしたあげくみのらないこともあるけどでも、努力を信じていい」って、思えることのほうが、本当は難しくて、難しいから、学校にはその難しさに立ち向かう手伝いをしてほしくて。

そういうときにね、学校の先生がね。
書道の時間とかに、
「努力をすれば左利きも報われるよ」
っていうような。詐欺行為をはたらいて。
自分につごうのいいような形で、ろくに指導もしないで「一しょうけんめい」だけを押しつけて、放り出して、筆順でいじめて、「お前がダメなのはおまえが努力をしなかったからだ」なんていうような。
そうやって、「努力なんて無駄なんだ」って思わせてしまう、そういうことをつみかさねてしまわないように。

「努力」っていうことばをつかって、自分の都合の悪いことをおおいかくすようなことはしないでほしい。
もう、こうなると書道だけのもんだいではなくて。
こどもが努力というものに、まっとうに立ち向かえるような環境をつくるために、書道教育の世界をまっとうにしてください。
いまのままではやっぱり、ちょっと、おかしいです。

私は、書道教育にじぶんの「努力」とか「一しょうけんめい」を踏みにじられました。
私は、別の場所でじぶんの「努力」とか「1しょうけんめい」を認められて、だからそれを信じることができた、けど、それは、ほんとうに、ただ、運がよかっただけです。
ちょっとバランスがくずれれば、すべての努力や、一しょうけんめいに、意味がないと、そう思いこんでしまって、ひとりで閉じてしまった、そういう可能性だってないわけではなかったのです。
posted by なかのまき at 22:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 書道教育

2010年06月07日

書道への愛

旧仮名遣いと旧漢字を愛好してる人が、私の教室の学生さんにもいて、毎回私はコメントペーパーで叩かれているのですが。
なんだろ。

でねー。
(まあ、旧仮名遣いと旧漢字がじっさいにはべつにでんとーでもなんでもないことは、おいておいて)
「伝統」っていうなら、旧仮名遣いと旧漢字いがいに、変体仮名は復活しなくていいのー?
ってなことを授業中にいってみたら、

「変体仮名は横書きできないという最大の欠点がある」
とかコメントをくれました。
ははあ。
横書きできないから復活させなくていいのかー。
すごいなあ。こんな発想、ほんと、私はできません。
そーかー。ここで横書きがでてくるとは。
うへー。すーごーいーなー。
自由奔放。縦横無尽。

「でんとー」とかいいながら旧仮名遣い・旧漢字を大切にして変体仮名を無視している、そのダブルスタンダードを自分の中で合理化するために。
「横書きしなきゃだめだから〜」
もー、最初に結論ありき。こーゆー人は、無敵ですね。
こっちがどんなに丁寧に反論したって、また違うものを引っ張り出してきて「最大の欠点!」とか言っちゃうんでしょう。
むちゃくちゃだ。

せんせーというゲタをはいているものにしてみれば、なやましいですねえ。
「じゃあ横書きが変体仮名を消した理由だってことをおまえ証明してみろ!」
とか言い捨てるわけにはいきませんものねえ。
「はーい、そっちいかないでねー、はい、じゃあせんせーがやってみるから一緒にみててねー。おーきくなったらきらいな人にも、おもいつきでものをいわないでもちゃんと反論できるよーになろーねー」
と、しつけをしてあげなければいけないんだろーか。
まあね。
「変体仮名は横書きがダメだからダメなんだ」みたいな、私が思い付くことすらできないすごい発言が出てくるんだから。
これは、けっこう大きな報酬なので。いやあ。勉強になりますね。


いや、上のトンチキ発言と同列にならべるのは申し訳ありませんが。


5月4日にブログでもらったコメントに反応します。



>現代の日本でわ漢字を行書や草書で書く事わ書道家でも無い限りほとんど無く、学校でも楷書しか教えませんね。


えっと、私は書道教育批判をするとき、ベースとして「学習指導要領」を考えています。

文部科学省のサイトから

中学校学習指導要領の国語


第1学年
(3) 書写に関する次の事項について指導する。
ア 字形を整え,文字の大きさ,配列・配置に気を付けて書くこと。
イ 漢字の楷(かい)書とそれに調和した仮名に注意して書き,漢字の行書の基礎的な書き方を理解して書くこと。

第2学年及び3学年

(3) 書写に関する次の事項について指導する。
ア 字形,文字の大きさ,配列・配置などに配慮し,目的や必要に応じて調和よく書くこと。
イ 漢字の楷書や行書とそれらに調和した仮名の書き方を理解して書くとともに,読みやすく速く書くこと。


強調は引用者です。
学習指導要領によると。
中学生の書道の時間に行書をおしえることになっています。
というわけで。
書道教育批判するなら。
そう。楷書のことだけじゃなく、行書のことも考えなくては。だめですねえ。
はあ。

ちょっと、書道教育の先生。
なんで中学生に行書を教えろって書いてあるのに教えてないんですか!
というか、教えてないんだったら、なんで学習指導要領に「教えろ」って書かせっぱなしなんですか。

なんか、これをみるにつけ。世間の人にとって、書道ってほんとーにどーでもいい教科と思われてるんだな。
行書のところなんて、あきらかにおかしいことになってるのに、批判さえおきてない。ぜんぜん興味を持たれてないんですね。


そんな書道教育に、やさしい応援を贈ってくれている論文を紹介します。

山田敏弘(2010)「現代型書写教育について」『岐阜大学国語国文学』36、pp.1-11

ひとりの小学4年生児童の親としてこの件を考えても、毎週の書道の時間がはたしてどのように有効に子どもに対し作用しているのかについて、疑問を抱かないではいられない。時間数だけが多い(毛筆)書写の時間は、現状では残念ながら、有意義な教育の時間とはなっていないというのが実感なのである。(p.1)


山田氏は日本語学の研究者ですね。その立場から、書道教育について書かれている論文です。

小学校3学年で国語の授業時間数は235時間と、他教科より飛び抜けて多い。この学年での算数は150時間、理科や社会は70時間である。書写が毛筆だけで30時間ということは。他の用具による書写も含めれば、単純な時間的バランスについても議論のあるところでもあるが、その時間数に見合った教育成果という点でも、残念ながら、書写が十分な成果を上げているとの実感をもっている児童生徒ならびに保護者は少ない。字の上手な人は上手であり、下手な者は下手なまま。めざましい上達はあり得ない。ましてや、それが毛筆という非日常的な用具による時間であれば、なおさら、成長につながるという実感がないのである。(pp.7)


あー、引用箇所の前半部分なんか、私が書きたかったのにー。

いまの書道のやりかたなんか、ただてがきコンプレックスを押しつけてるだけ、毛筆書道ぎらいのこどもを大勢つくってるだけなんじゃないか。

こんなに(専門外の人による)書道教育への愛がこもっている論文って、ほんと、ないですよ。
この論文の内容と、私が書きたかったことと、すごくかぶるんですが、私がこの論文にぜんぜん共感できないのは、この論文に、書道教育への、愛がたっぷりつまっているからです。


posted by なかのまき at 21:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 書道教育

2010年06月13日

後輩をいじめた土曜日。反省している

どようびに、大学にいって、そのあと、
書道と国語の先生をやってる後輩とお茶して、

これはいいと後輩つかまえて、書道教育のことをきいてみたです。
というかもう、ほぼ尋問。

「なんで書道科は横書きのことをかんがえてないの?」
「字は、縦書き用に開発されたんですよ! それをむりやり横でかいてるんです。そこがおかしいんです」
「じゃあ、横書きを廃止しろって、そういうこと?」
「そうじゃないです、横書きをするのは仕方がないけど、横書き用の字を開発するなんてできるわけないじゃないですか! 横書きにしたときも、縦書きとして美しい文字をかいていればそれでいいんです」
「縦書きとして”美しい”のがどうして横書きにしても”美しい”っていえるの? それと、縦書きの書き方で横書きでかいたら、それは(書道的に)”美しい”かもしれないけど、書きにくいじゃない。書きやすさはどうでもいいの? 美しさがもんだいなの? じゃあ書道って芸術なの? 国語科にあるのに?」

「なんで横書きのことをなんもかんがえてくれないの?」
「字は縦書きで書かれていたという由緒と伝統があったから〜」
「でも今現在横書きの方がおおいじゃない、なんで横書きのことを考えないの?」
「だから、字が縦書きで書かれていた(略)

平行線

「筆順はどうなの? 横書きしたときかえって書きにくいし、左手利きにも筆順まもれっていうの?」
「そりゃ、学習指導要領にまもれって書いてあるし、筆順指導の手引きが出て、それを守るようにと上に言われてるんだから、言わないわけにはいかないでしょ」
「左手利きの人にもそれいうの? ひどくない?」
「だって学習指導要領にかいてあるし、えらい人に言われてるんだから私だって心が痛むけど、しかたがないじゃないですか、上が言ってるんだから。私に言われてもこまります。上にいってください」
「左手利きの人が今現在、辛い思いしてるのに、上に言われたことは押しつけるの? なんで筆順ってまもらなきゃいけないの?」

平行線

「左手利きの人が毛筆書道やらなきゃいけないのっておかしくない?」
「私は左手ききの人には、右手で筆を持つようにっていうおしつけはしません!「右手と左手両方で書いてみて、書きやすい方選んでイイよ」っていってます!」
「選ばせてアゲル、なんていって、なんでそうやって生徒の自己責任にするの?」

あのね、のっぴきならない状況に追い込んでおいてね、そんで、
「えらばせてあげるよ、キミが自分で決めたことなんだろ?」
そういう「自主的」な「選択」ってね、ふつう、

強制

っていうんだよ?
憶えておこうね?

たとえばの話ですよ、ファンタジーの世界です。
訛ってるとバカにされる、いじめられる、国語の成績に影響する、就職にもさわりがある、
っていう状況があって、そこで、先生が生徒にむかって口先だけ、
「キミは方言と標準語、使いやすい方を選んでいいんだよ」
って言って、生徒が「標準語つかいます」っていったとき。
それは
「生徒自身が選択したことだから」
ってそれはねー。
あーあ……

いえ、その後輩は責任逃れをしてるとかじゃなくて、ある程度善意のカタマリなんですよ。
「左手利きの人に右手書道をおしつけるのは心苦しいから選ばせてアゲル」なんてね、そりゃ、「左で字をかくなんか親のしつけがなってない」なんていう書道のせんせいより、よっぽど「理解ある」先生と言わなきゃいけない、のかもしれない。

でもね。私、たとえば、私の教えてる学生さんにね、
「先生は日本語に対する考えが浅いと思います」
とかコメントペーパーに書かれてもね(←実話)
「うはは〜。こんなことかかれちゃったよー、ぷー。」
って。
ぜんぜん傷付かないのに。
後輩が善意のカタマリで、
「私は左手利きの生徒さんに、筆を持たせて右手と左手両方かいてもらって、書きやすい方を選んでもらってます」
って、そうゆうこと、いってるの聞くとね。
すごく傷付くんです。
「このひとはなんでこんなひどいこと、いうんだろう」
って。
あきらかに、私を傷付けようという悪意があるのは前者なのに。
そしてこの私の傷付きポイントがあんまり他人に共感してもらえない。


このあとも不愉快で不毛な議論が。
えんえんとつづく。

「画数をまちがえて書かれた字は、いくら読めたって、字じゃない、記号です」
「だって左手でかくとあの画数を忠実にまもるの、無理だよ。 え? あなたは私の字を字とみとめないの? ふーん。まあいいや。あなたに字じゃないっていわれたって、べつにいいよ。字じゃなくていいや。あなたに字じゃないっていわれたって、ぜんぜんかまわない」


「やっぱり、日本人なら文化として、書道に触れておいたほうがいいんです」
「いま、学校には日本人いがいもたくさんいるよね」
「日本に住んでるなら日本人の文化をしってなきゃいけないんです!」




……で、この(双方にとって)不愉快な議論のあげく。私は終電をのがしました。

うん。で、私、あの。
あるていど、書道の先生に甘い期待をしてたんです。

あっちがわから、『横書きのこと無視してちゃダメじゃね?』『左手書字者にひどいことしてない、私ら』みたいな声があがってこないのかなあ。って。だって、自分のメシのタネですよ?
ちゃんとそのへんどうにかしておかないと、あとあと大変なことになるでしょ。
って。

でも、
ああ。むりだわ。これ。

あいや、そういうこと個人的には、ちゃんと考えて、実際にてあてをしてる現場の先生もたくさんたくさん、いるとおもうんですけどね。
書道の先生が、全体として、「これは書道教育業界の課題だ」みたいな方向で考える意識は、ないんだな。と。

posted by なかのまき at 22:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 書道教育

2010年06月18日

書家の条件

先週後輩をいじめた時、

本気で勉強になったこと

・書家とは臨書(むかしの字を真似っこする)をできる人。
臨書をしていなければ、いくら墨と筆を持って字をかいても、それはパフォーマーというもの。書家ではない。


おおっ。
これは、わりと決定的。
臨書がひとつの、書道の大切な軸となっていて、なんか好きかってやってるようにしか見えない創作書道も、じつは、臨書をふまえてなければいけないわけで。

ってことで。

書道が左手書字者を書道界から閉め出している、という言質がとれたかんじですね。
これ、とても重要。

右手で書いた字を左手では臨書できませんものね。
「左手書字者、書道界に入ってくるな」
ってことで。

……うん。で。
書道界が左手書字者を閉め出してるってことにかんしてはねー。
しょうじき、どうでもいいです。
「好きにすれば? 勝手にやってろよ」
って。あ、私個人の感想です。
私は毛筆芸術書道にまったく興味も関心もないので、閉め出されても痛くもかゆくもないわけで。
毛筆書道に興味・関心のある左手書字者にはこの書道界の心ないしうちをつらいと感じるひとがいるかもしれませんが。
すんません。それにかんしては、まったくどうでもいいです。
そっち方面にかんして、なんにも思うことはありませんし、それに関して批判とか、やるつもりないんで、それは、やりたい人がやってください。

私が書道に関して、ひっかかる点は、ここだけ。

教育の場において

・毛筆が、義務教育で全員必修の項目となってる。
・誰にとっても不合理な筆順を押しつけている

ここですねー。これだけどうにかしてくれたら、べつに書道は勝手にやっていればいいとおもいます。
だから、学校帰りにかようお習字教室とか、放課後の書道クラブとかは、どうでもいいです。

というわけで、
書道自体は、滅びる必要はなく、
私に迷惑のかからない場所であれば、いくらでも好き放題やっていいんですけどね。

つまり

書道が、左手書字者をしめだしているのが問題なのではなく、

左手書字者をしめださないとやっていられないようなものが、義務教育の必修科目となっているのが問題なんです。

とはおもうけど。
まあ、もう後戻りできないんだろうなあ。
書道教育。
posted by なかのまき at 23:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 書道教育

2010年07月04日

書写・書道の迷走

これどーですかね。
中山理香「障害者における書法学習に関する研究」

今日、さまざまな芸術の各分野において芸術療法が発達し、医療の現場をはじめとしてさかんに行われている


というでだしではじまります

自閉症の人に書道をやってもらった結果のまとめの研究らしいですが。
「しょどうやるとこんなにいいことがいっぱいありますよー」
っていいたい研究ってことで。



アンケート調査の結果によると、書道を続けていることによって、他動性の強かった人が椅子に座っていられるようになった、落ち着いていられるようになったなどということが明らかになった。また、文字の存在を理解できるようになった、コミュニケーション能力・社会性の向上などが個人差はあるものの見られた。


「多動性の強かった人が椅子にすわっていられるようになった」とか。
「療法」の意味をはきちがえてませんか?
こういう方向で「これが研究成果ですー」とかいわれると私はかなりはらがたつんですよね。

あと、


書道を学習する過程で、脳のあらゆる機関が活性化する。主に活性化する部分は前頭前野で思考・学習・意欲・情操などといった高次機能が集中している。この前頭前野を鍛えることは教育の現場、痴ほう症患者に有効だと考えられている。また、筆を用いこの所作活動および所持活動を行うことにより、体内のコルチゾン値が減少し、ストレスが軽減されることが明らかになっている。


これ、書道じゃなくてもいいですよね。ナントカ値が減少とか。
べつに書道でもいいけどね。書道特有の「いいこと」ではないですよね。

なんか、この文章にかんしては卒論のまとめらしいんでなんともいえないんですけど。


あと、もうひとつ怖いのをみつけました。

タイトルだけ。


鈴木慶子・川島隆太他『人間の高次脳機能をはぐくむ手書き活動に関する調査研究』
『文字を「書く」ことの活動に関する科学的・実証的研究』

もう、タイトルだけでどんだけ危険な研究か、興味しんしんです。
どうも、科研費の報告書にのってるらしくて。
科研の報告書か……なかなか手にはいんないんですよね。あれ。
さっさと論文にしてください。

というわけで、タイトルだけで判断します。

「手書きの文字をかくと脳からナンタラカンタラという物質がながれでて、脳にいい! だからみんな、手で字をかけ!」

って研究でしょ。たぶん。
ちがったらすみません



川島隆太氏って、あれですか。

筆跡学脳トレの人ですかね。

鈴木慶子氏は書道教育の人っぽいですね。


もうー。
あのね、べつに脳を元気にさせるのに「手書き」は有効かもしれません。でも、それって「手書きで字を書く」にかぎったはなしじゃないでしょ。ほかの動作でもいい可能性なんか、いくらでもあるでしょう。
(そもそも、脳が元気じゃなきゃいかんのか、ってもんだいもありますよ)


でね、それと「書写・書道の存続」はべつの話ですからね。
「パソコンあるから書写いらなくね?」
っていうといかけにこたえるときにね、
「手書きで字を書くと脳にいいから、書写はつづけるべき!」
とか、そういう答え方はだめですよ。
そういう、科学のおすみつきをもらってはだめです。いみがありません。

「パソコンあるから書写いらなくね?」は、文化の問題です。
科学で答えをだしてはいけません。
ちゃんと、土俵のなかでやりましょう。まっこうからかまえたほうがいいですよ。けっきょく、書写・書道の将来のためにもね。

でね。
さいあく、「ああ、うん、いらないね」っていう結論に達するかもしれない、という、それはね、ちゃんと想定しておいたほうがいいですよ。
まあ、書字教育がいらない、ってことにはならないとはおもうので、けっきょくもんだいなのは書道趣味を消せないのか、っていう問いになるとおもいますが。
あ、書道趣味って、毛筆に象徴されるなにかです。書字教育に毛筆は要らないよ。

「(書道趣味は)ぜったいぜったいいるんだもん!」っていう前提で、「結論ありき」で話をすすめるから、いまの書写・書道がだいぶ迷走してるんだとおもう。


「書字教育」(字をかけるようになるための教育)

「書写教育」(字をかけるようにという建前でいながら書道趣味をおしつけてるなにかのなまえ)
を、分離可能なものとして、検討したほうがいいですよ。
そのうえで、「やっぱり書字教育に書道趣味はひつようだった!」っていう結論になるならね。それはそれでいいんですけど。(まあ、ならないでしょーね。あ、そーか。だから結論ありきで迷走っていうか、暴走するしか残されたみちはないのか。どうしてこうなっちゃったんだろう。もっと、どうにかできなかったんだろうか。これから、どうにかできないんだろうか)

posted by なかのまき at 22:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 書道教育

2010年09月02日

文化を輸出

書道教育のひととおはなしをしたら、

服についても洗濯すれば落ちる墨汁があるらしいです。

たとえば

クレタケの「洗って落ちる書道液」

とか。
こういうのがあるそうです。
でもね、書道教育のひとがいうには、

これ、だけど墨の色の発色が悪いので、この人の教室ではつかっちゃいけないらしーです。
……さようでございますか。けっこうなことで。

いや、私は書道の素養がないので。
墨の色がどんだけ書道に大切なモノなのかよくわからんのです。
なのでなんも言えません。

それで、
いろいろ書きたいネタがあるのですが、

あべやすしさんからMLで情報をいただいたので。
これを。


asahi.com 定住に備え日本語研修終了 ミャンマー難民9月来日

【メラ難民キャンプ(タイ北西部ターク県)=藤谷健】迫害や紛争から逃れた難民を第三国が受け入れる「第三国定住」で、日本で新たな生活を始めるミャンマー(ビルマ)難民が27日、事前の研修を終えた。第1陣の5家族27人は少数民族のカレン族で、9月28日に来日する見通し。

 この日午前、日本語研修と研修修了式が日本の報道陣に公開された。日本語の授業では、未就学児を除く5歳から40代までの22人が自己紹介や病気の訴えなど、実用的な会話に取り組んでいた。また、筆でひらがなを練習していた。
講師の安達幸子さんによると、1日4時間、14日間の短期間の講習にもかかわらず、これまで母語の読み書きもできなかった女性3人を含む全員が、ひらがなの読み書きや簡単な会話ができるようになった。


「自己紹介や病気の訴えなど、実用的な会話に取り組んでいた。また、筆でひらがなを練習していた。」

いみわからん。



石田敏子『入門書き方の指導法』(アルク・2007)


習字の心得がないせいか、筆の勢いによる些細な差も、外国人学習者が書くと、同じ字とは認めがたいほど標準的な形とは違ってしまいます。漢字テストの採点では、数人で採点しても正解と認めるかどうか決めかねてしまうこともあります。興味を持たせるためだけでなく、この意味でも、余裕があれば、書き方クラスの導入時または一部に習字を加えると効果的です。


これをまじめに実践してる人がいるとは。

毛筆は硬筆の字かくときにぜんぜん関係ないものだってのは、書道の人はちゃんとわかってます。くわしくは

書道教育史・戦後


加瀬琴已(2002)「戦後の教育課程における毛筆の位置付け」『書写書道教育研究』16 pp.11-21

を紹介しました。でね。
記事に「1日4時間、14日間の短期間の講習にもかかわらず」ってかいてあるんですよ。
このかなりきつい時間制限のなかでなぜわざわざ、毛筆で字をかかなきゃいけないの?
鉛筆とノートでひらがなのかきとりのほうがよっぽどいいじゃないですか。
なぜ筆。ほんとうにいみがわからない。

ただ、いちどこの文章をテキストの段階で読んだとき、
やってることのよしあしは別として、
わざわざ紙と筆と下敷きと墨と墨汁と硯と水差しと……というさまざまな重たい書道道具をタイまで運ぶとは。
鉛筆とノートの何倍もの重さと、費用がかかるだろうにわざわざそれを用意する、そのエネルギーに。
書道フェチというものはすごいなあ。
と思って。それだけでもたいしたもんだ。と考えたのですが。

じっさいの
asahi.comのページの写真をみてみて。
あれ?

リンク先のページの写真、よくみるとおかしいんですよ。
みてみてください。
写真のメインは、3にんのこどもがならんでるところです。

机をつかわずに、地面に直接下敷きと半紙をしいて、筆でひらがなをかいてます。しんどい体勢だな。
右がわの赤いシャツきてるこどもは正座をしてます。
で、真ん中の白いシャツと左の黄色のシャツのこどもは、あぐらかいてます。

書写の教科書の「正しい姿勢」ではありえない格好でかいてます。
筆の持ち方も、中央の白いシャツのこどもはペンをもつように握ってます。左の黄色いシャツのこどもにいたっては、筆の軸を上からにぎりこんでますね。しかも、紙を手に持って宙にうかせて字をかいてます。すごい風格ですね。
そして書き終えた直後なのに筆の穂先が白いのはなんで。
あれ?墨は? 墨汁はどこに置いてるの? あれー?

うん。たぶん、下のリンク先にあるような、墨を使わなくていい半紙みたいなおもちゃをつかっているのかとおもわれます。

水でお習字・半紙

これでしょ。
服を墨でよごすわけにはいきませんものね。
それに書道用具はこの半紙と筆と下敷きだけもっていけばいいですもんね。
お手軽ですね。

ところでさ。
これ、なに?
なにがやりたいの?

書道の人はこの写真みて、どうおもいますか。

クレタケの「洗って落ちる書道液」を使うのもいうやがるような発想をするひとたちですよ。

この写真をみたら、怒り狂うんじゃないですかね。
「こんなの書道じゃない! なにをやってるんだよ!」
って。

筆でひらがなをかかせる、という。それだけだけど。
あまりにも書道への愛にかけてます。この写真のやりかた。
墨の色ひとつでガタガタいうような人々の大切なものをこんなにねじまげて……それでいったいなにをつたえたかったの?なにがしたいの?

たぶん、これはひらがなの練習でもなく、書道でもなく。
なんか「日本文化っぽいもの」を教えたかったのでしょう。

すごくひとりよがりで、いびつな、どこかのだれかが勝手におもいついた安易でお手軽な「日本文化っぽいもの」を。
「日本にくるならやっておきたまえ」っておしつけて。

こんなもの、研修を受けている人々にも、書道の愛好家にも、ひどい暴力じゃないですか。
なんなんだ。これ。
posted by なかのまき at 20:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 書道教育

2011年01月05日

書写・書道の先生にのぞむこと

なんどか紹介した

小林比出代(こばやし・ひでよ)2005「左利き者の望ましい硬筆筆記具の持ち方に関する文献的考察―書写教育の見地から」『書写書道宇教育研究』20 pp.30-40

についてとりあげます。

まずね、この論文、タイトルと中身がちょっとずれてるんですね。

かなりのスペースを、左利き・左手書字者の右手矯正の是非について生物学・心理学的にお勉強した結果のまとめに使ってて、そこまで「左利き者の望ましい筆記具の持ち方」にかんして、スペースを割いてないんです。
しかも、「左利き者の望ましい筆記具の持ち方」についてなにいってるかというと、箱崎総一の『左利き書道教本』の紹介してるだけなんですよね。
私はあんまり『左利き書道教本』すきじゃない。
こんなめんどうくさい無意味なことやるくらいなら毛筆書道やる必要なくない?
と、つねづねおもってしまうわけで。

この論文のキモは、『左利き書道教本』のおしらせ、ではなく、
先行論文をひいて、左利きに右手矯正をさせることははたしていいことなの?
という問いにあるとおもいます。
「左利き者の右手書字矯正の是非をめぐって―生物学・心理学的観点から」
みたいなタイトルなら、よかったかな。

で、論文の大詰めとなるのが、以下。
小林氏は、利き手について、生物学と心理学からアプローチします。


V 左利き及び左利き者の書字に関する文献学的考察―生物学・心理学の分野から
9 左手書字から右手書字への「矯正」の是非
(略)
 生物学及び心理学の見地から考察した場合、右利きが多数派ゆえに、右利きの方が社会生活において便利との理由だけで安易に利き手を変更させることには強い危惧の念を抱く。(略)利き手及びその変更に関する問題は脳のプログラムと直接かつ密接に関わる点を理解した上で、本質的な課題について熟慮し、利き手に関する問題において本当に変えなければならないものは何なのかを理解する必要がある。少数派とされる左利きの在り方を理解し、日常生活の諸場面で様々な方策を講ずることが望ましい。(p.35)



ここの記述のなにを問題かと考えるかというと、


今現在、実際にひだりききでありながら、右手書字をして生活をしている人への想像力の欠如です。

小林氏が、

馬場一雄(1996)「左利き」『小児内科』28-10 p.1447
「(既に発生した左利きに対し)現在では、左利きは遺伝や左半球の障害のような生物学的な要因に基づくことがほぼ明らかになっているから、無理に右利きに変えることは有害無益であると考えるものが多い」

八田武志(1996)『左ききの神経心理学』(医歯薬出版株式会社)
「ある人が左ききであるということは右脳が優れた手指運動機能を持ち細かい運動コントロールを巧みにできることが遺伝的にプログラムされていることになる。このような遺伝的なプログラムがあるのに、わざわざ反対の左脳に手指運動コントロールを委ねようとするのは(中略)仮にうまく右手での書字や道具の使用が可能になっても、左手であればはるかに優れた機能を持てたかもしれないということになろう」

などといった論を引用し、利き手変更が「生物学的」によくないことなのではないかという可能性を述べています。
「うまれつき優れている方の手じゃない方に矯正したら、脳に悪い影響がでないか」
という懸念です。

ここが、私はきもちわるいんです。
まず、そこまで言えるほど左手利きのしくみは解明されてないでしょう。
で、いま、右手書字をしてるひだりききなんかいっぱいいるわけですよ?
あと、「小さい頃に矯正されて右利きになった」って人も、私の同世代にも、まだまだいます。
じゃあ、そういう人たちは矯正をうけたことで脳になんか悪い影響が出てる人たちなの?
というのと、うまれつき右利きで、病気や事故かなんかで、右手でペンをもてなくなって、左手をつかって生活してる人たちがいます。そういう人たちは脳になんか悪い影響がでるの?

そこまで、生物学的に決定的なものなの? 利き手って。
生涯まもりとおさなければ生物学的に支障がでるほどに?
そこまでいえるほど、利き手の研究はすすんでいますか?
また、もし仮にそういえたとしたって、病気などで利き手が使えなくなった人の利き手変更をさえぎらなければいけないほどの支障がでるんですか?

「うまれつきだから矯正しちゃだめ」
という説に私が抵抗をかんじるのは、今現在、矯正をうけて生活の全部であれ一部であれ、右手をつかってやっている人への想像力が、あまりにも欠如しているからです。
また、余儀なく利き手変更をしなければいけなかった人への想像力も。


だいたい、そもそも「利き手」ってなに?
ちっちゃいころに親に矯正されて「私はみぎきき」っておもってる元左ききとか。
左ききと自認しているけど、字は右手でかく人とか。
かぎりなく両手利きにちかい人とか。

私は自分でも「ひだりきき」っておもってるし、わりとなんでも左手でやってしまうほうですが、
パソコンのマウスは右手持ちです。
あと、なんか財布から金を出すときは右手で出します。

あと一番大きいのは、楽器の弓を右手で持ちます。
楽器の弓は、ふつう利き手で持つもの。
でも、私は非利き手でもってます。子どもの頃にうむをいわさずそうやれと言われたので仕方ないですね。
だからといって、
八田氏のいうように「左手であればはるかに優れた機能を持てたかもしれない」かと考えると、わかんないですね。
べつに利き手で弓もってる人たちに劣ってるとは考えませんし。
慣れもおおきいじゃない?

あとは、しりあいに左手利きで、右手書字者の書家がいます。
この人もべつに、非利き手を商売道具にしているからといって、利き手で字をかいてるひとに引け目を感じているようにもみえません。

というか、今現在、右利きの人がやってるように、ぜんぶのことを利き手でやることって、左ききの人には難しいんですよ。かならず、右利き同様に右手を使わなければいけない場面はあります。
それなのに、いきなり「利き手じゃないほうを使うと脳に影響が」なんていらないおどしをかけないでほしいんです。

私は、今の段階では極力いいたくないのですが、ひだりてききの人が右手書字をしたい場合、その権利も保障されなければいけない、と、おもいます。書道やるならかならず必要です。この権利。
もちろん、ひだりてききの人が左手書字をする権利もまったく同等に保障するという前提があって、ですが。

それを、「脳に影響が出るから」とおどしをかけてはいけませんよ。
右ききだろうが左ききだろうが、右手で字をかいても、左手で字をかいてもいいんです。
今の段階では、ちょっと、ぜんぜんこういうこといいたくないけど。

なので、生物学的根拠をいくらならべて「左ききはうまれつきだから矯正しちゃだめ」とくりかえしても、しょうがないでしょう。

けっきょく、みぎききかひだりききか、という個人の属性は関係ないんです。
小林氏も述べていますが、大切なのは、社会をかえること。

利き手に関する問題において本当に変えなければならないものは何なのかを理解する必要がある。少数派とされる左利きの在り方を理解し、日常生活の諸場面で様々な方策を講ずることが望ましい。


この小林氏の意見に賛同します。

日常生活の諸場面で左手書字者がこうむるさまざまな不利益をなくしていきましょう。とくに左手書字者のこどもにとってすごいめいわくな、義務教育における毛筆必修を廃止し、手書き文字偏重をみなおしてください。
左手書字者に手で字をかくことを強制せず、パソコンによる書字を手書きとおなじように保障してください。
どうしても左手書字者にてがきの字をかかせたいなら、現行の文字の字体をぜんぶ、右手でも左手でも問題なくかけるものに改造してください。

書写の先生がやらなければいけないことって、「脳に影響がでるかもだから、矯正だめ」って左ききと左ききの子の親をおどしつけることではなく、そういうことでしょう。
そういう議論を、のぞみます。
生物学・心理学については、もう少し専門家の研究成果が蓄積されるのを待ちましょう。いまの段階ではなんとも。


えーと。あと、かんけいないけど。

小林氏がかなり主要な先行文献としてあげて、なんども引用している

坂野登1998『しぐさでわかるあなたの「利き脳」自分でも知らなかった脳の”性格”と”クセ”』(日本実業出版社)

という本ですが、だいじょうぶですか?
いや私はこの分野にはぜんぜんくわしくないのですが、
タイトルがなんともかんとも。
posted by なかのまき at 22:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 書道教育