2010年10月27日

いじめられてる桐壺更衣萌え〜な論文

宮武里衣(みやたけ・りえ)2009「人間関係に視点をおいた「源氏物語」の指導」『解釈(解釈学会)』55 pp.36-45

 数ある教科の中でも、残念ながら古典は高校生にあまり好かれていない。(略)
 この現状をそのまま受け止めれば、高校生に古典を好きになってもらうことは難しいことになる。では、どうしたら、「高校生に好かれる古典」になり得るのであろうか。生徒たちが学習したいと感じられるような古典教育を、どうすれば実践できるのだろうか。p.36


いや、好きかどうかはともかく、受験科目だから、古典につきあってくれる学生は一定数いるよ。
それは心配しなくていいとおもいます。需要はありますよ。
さて。
国語教育がたいへんなことになってることは、けっこうこのブログでかいてますし、国語教育のへんな論文はみなれてるのですが、久々に大物がひっかかったのでご紹介します。

古典は長い間我が国で大切にされ、読み継がれて来たものである。多くの人々によって、すでに高い評価がなされているものである。「生き方」という大きなテーマを、評価が定まったものに寄りかかって考えることは意義のあることではないだろうか。(p.37)



また、古典教育は言語の教育でもある。昨今、若者の言葉の乱れは様々な場で話題になり、嘆かれている。一方で古語は「今の言葉ではない」という理由で高校生にはあっさり切り捨てられている。しかし、考えてみれば、高校生の使っている言葉は、古語から連綿と続いている日本語の歴史に連なっているのである。(p.37)


いや、まだですよ。ここでつっこんだら負けです。
これくらいのヨタ話は、国語教育の論文にはごろごろしてますんで。

このあと、高校生に好きになってもらうための古典の授業の実践報告があります。
源氏物語の桐壺の巻の冒頭ぶぶんを読むというこころみがなされます。
で、まとめ。

単元の最後に書かせた、「登場人物の生き方についてどうかんがえますか」という問いの回答が以下である。

A どんなにいじめられても何もやり返すわけでもなく、自分の運命を受け入れて生きていこうとする強い人だと思う。受け入れてやり返さなかったのは、身分のせいもあるだろうが、いじめをする人たちの気持ちを理解していたからではないだろうか。そう思うと、よりいっそう桐壺更衣という女性はすごい人だと思う。(女子)
B 桐壺更衣はたとえいじめられて、病気になっても頑張って耐えて、しかもだれもうらんでいなかったと思う。おなじ人間として尊敬する。(男子)
C 身分が低くありながらも、帝に寵愛され、しかも帝は一途で浮気しなかったので、その点では幸せだったと思う。しかし、ひどいいじめにあったのは可愛そうとしか言いようがない。話をすることもできないくらい苦しいのに、最期に帝と生きて一緒にいたいと考えられるほど、前向きで現実的で、心の強い人だから、もし、病気にならなかったら、周囲の人と和解できたのではないかと思う。(女子)
(略)

 単元の始めでは、源氏物語を「ドロドロした物語」「昼のメロドラマみたい」などと、表面的に評価していた生徒たちが、単元を終えた後には、登場人物をまるで自分の周囲にいる人のように考えるようになったことは、大きな進歩である。


えーと。「国語の授業はまるで道徳」ってのは、ものすごく耳たこな国語科教育批判ですが。

で……なんで、生徒にこんな不道徳な感想を書かせるような授業やってるの?
そしてそんな不道徳な感想を堂々と論文で紹介するの?

桐壺更衣ってのは、身分が低いのに帝に寵愛されて、権力のバランスが崩れるのをおそれた周囲にいやがらせにあってそのせいで病気になって死んだ人ですね。

なぜ、そんな境遇で死んだ人を「同じ人間として尊敬する」なんてかくの? 不謹慎じゃないの。
これ、昔話だから許容されるけど、「桐壺更衣」を現代人の名前にかえてみたら、どうですか。桐壺更衣を現代人の名前にかえてよんでみたら? なんでもいいけど。たとえば。「山田花子」でも「小和田雅子」でも。なんでもいいけど。冗談じゃなくなるでしょう。

なんで、「たえしのんで死んだ桐壺更衣萌え〜」という特殊な嗜好をもつ人間の感想ばかり3つも、ならべて出すの?
いや、たしかに、わりと、百合界隈に「女の子が女の子に陰惨にいじめられる」という設定を嗜好する層があるんですよ。それですよね?
でもその趣味、ちょっと、道徳と区別が付かないのがウリの国語の時間にふさわしくないんじゃないの? たえしのんだ結果、人が死んでるんだよ?
いいの?

……と、おもわず個人の趣味・嗜好に矮小化して茶化さないと腹が立ってしかたがない
まだ、趣味であったほうが救いがある。

これ、本気で道徳なんでしょ。

弱いモノはたえ忍んで死ね、っていう。

そういう道徳なんでしょう。いつの時代の道徳なんだかしらないけど。
2010年の国語教育のなかの道徳なんだよね。救いがない。泣きたい。

この3つの生徒の感想。ぜんぶ、桐壺更衣の「たえしのんで誰もうらまないで死んだ」という姿勢を評価してるんですよ。

しかも、
「どんなにいじめられても何もやり返すわけでもなく」「自分の運命を受け入れて生きていこうとする強い人」「受け入れてやり返さなかったのは、身分のせいもあるだろう」「いじめをする人たちの気持ちを理解」「はたとえいじめられて、病気になっても頑張って耐えて」「しかもだれもうらんでいなかった」「話をすることもできないくらい苦しいのに前向きで現実的」「病気にならなかったら、周囲の人と和解できた」
なんでこんなに、強い立場の人間のことは無視して、弱い立場にばかり負荷がかかるんですかね。たえしのべとか、だれもうらむな、とか、つよくなれ、とか前向きになれとか、周囲の人と和解しろ、とか。これ、ただの奴隷根性だよ。
あげくに、奴隷根性発揮して死んでしまった人を、「すごい人だと思う」「同じ人間として尊敬する」と美化するような感想を書けと強要する。

えーと、ここはどんな奴隷養成所ですか?
どんだけ野蛮な場所なんだ。学校って。かわいそうに。

それで、教師は「登場人物をまるで自分の周囲にいる人のように考えるようになったことは、大きな進歩である。」とひとり悦にいる。

私の周囲にこんな奴隷は1人もいません!

posted by なかのまき at 23:17| Comment(4) | TrackBack(0) | 国語教育

2010年11月01日

なんでもない、ごくふつの、どこにでもある国語教育

連日同じネタですみませんが国語教育。
読まされるほうもたまったもんじゃないだろうけど、かく私もかなりうんざりです。

いじめられてる桐壺更衣萌え〜な論文

で、国語教育と奴隷教育のコラボレーションはさすがに新しいネ!
みたいな記事をかいたのですが。いや……そうでもない……

類似の記事を発見。もう、床にすわりこんでしくしく泣きたい。

三井庄三(よみ不明)(2010)「深沢七郎『楢山節考』―登らなければならない道」『国語教育(雄東京法令出版)』平成22年10月号 pp.68-69

二 独特な人物「おりん婆さん」
(略)おりんの人物像の特徴について、新潮文庫の解説で日沼倫太郎氏は、<『楢山節考』は民間伝承の棄老伝説をテーマとした小説で、おりんという老婆が主人公である。普通姥捨といえば拒みいやがりながら捨てられる老人を想像しがちであるが、『楢山節考』の主人公はみずから進んで捨てられようとする型破りの女性だ。それというのも、自分の住む村や家に食物が乏しいからで、彼女は楢山に捨てられる日を早めるために自ら石で前歯を折る。>


三井氏は、日沼倫太郎氏の文章をこう紹介したあと、つづけてこう書きます。

このおりん・辰平と対照的なのが、隣家の楢山を望まない銭屋の又やんと、父親を縛ってでも棄てる倅とである。この対比からすれば、前者のおりんは確かに「型破り」ではある。ただし、おりんは、一般に母親なら共有している「母性」によって、衝撃的なのだ。今のジェンダー論では、「母性」の強調は問題かもしれないが、である。


強調は引用者です。
……えーと。
「楢山に捨てられる日を早めるために自ら石で前歯を折る」というドMな人をゆびさして、「一般に母親なら共有している「母性」」といいあらわすのはどういう趣味・嗜好ですか?

「一般的にボクのママはドMなんだよ! そういう設定が萌え〜!」宣言。

なんだこれ。
……いやいや。またはらだちのあまり、個人の趣味・嗜好に矮小化して茶化してしまいました。
いけませんね。

ちがう。べつにおりんは、「型破り」ではない。
わりとよくいるんじゃないかな?
「正しい」ことのために、みずからの命を簡単に投げ出せるひとって、歴史をみればわりとたくさんいる。
あと、「世間様の目」って、人が自分を殺すには十分な圧力をもってますよ。「村の掟」ね。

だから、そこまで「型破り」とはおもえないな。
「私1人ががまんして死ねばいいだけの話」っていってね。
よくある奴隷根性でしかないでしょう。

で、その場はしのげるかもしれませんが、それで、息子の辰平だってそのうち棄老されるんですよ。
「私1人ががまんして」死んで、そういう社会のシステムが維持されることに荷担してしまえば。そのうち、自分が死んで守ったはずの息子も、自分と同じ死に方をする。
いったいおりんは何を守ってるのか。

で、そのなんの解決にもならないくだらない自己犠牲を、「彼女は楢山に捨てられる日を早めるために自ら石で前歯を折る」という行為を、「一般に母親なら共有している「母性」」というのか。
そんなばかなもの、くだらないもの、「一般の母親」には一片たりとも共有してほしくないです。

そして、しめくくりの「今のジェンダー論では、「母性」の強調は問題かもしれないが、である。」という文章がっ……もう、ここまでくると怒りが言語化できません。

というか、見識を疑うのは、この三井庄三氏ではなく、『国語教育』っていう雑誌の編集者です。
なんで『国語教育』っていう名前の雑誌にこんな文章をはりつけて、平気でいられるんだろう。

posted by なかのまき at 21:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 国語教育

2010年11月04日

がまんを強いられるのはつねに弱者

教育関係のへんな文章あつめがとまらなくなってしまった。
でももう、今回でやめます。
いいかげん「とめはねっ!」批判もやりたいし。

でも、ちょっと、これだけはびっくりしたので紹介します。
いじめ百合萌え論文やドM母萌え論文をたてつづけによんで、だいぶ耐性がついたかな、とおもっていたのですが、これはゆるせない。
いかりがしずまりまらないので。
とりあげます。

池田多津美(2010)「幼稚園における教育の創造と展開(5)体験の多様性と関連性」『初等教育資料』平成22年10月号

池田多津美氏は東京都港区立白金台幼稚園長だそうです。


「自分が忘れたから仕方がないか」
 五歳児は毎朝学級に置かれているかごに自分でプールカードを入れる。プールカードがないとプールには入れないことになっており、特に五歳児の担任は自分で責任をもたせ、カードの管理を任せるようにしている。
 この日、B児はカードを忘れた。担任は「エエッ、残念。明日は絶対に忘れないようにしよう。今日は入れないけど仕方がないね」と言う。学級の仲間がプール遊びに熱中しているとき、B児はテラス周辺でウロウロ歩き回りながら、「朝、自分で○印を付けたのに…。ちゃんと置いておいたのに忘れちゃって。自分が忘れたから仕方がないか。でも…」と繰り返しつぶやく。

(略)
五歳児B児も水遊びが大好きである。プールには入れないのは自分がカードを忘れたからだということをわかっているが、そのやりきれない悔しさを自分にぶつけ、独り言をつぶやきながら納得しようとしている。教師はB児に今回の体験を通して、自分のことに自分で責任をもつということを学んでほしいと考えている。保護者に連絡をとるなど、プールに入れるようにする手立てはあったが、この時期に何を体験させることで成長につなぐか、教師が個々の幼児の育ちの家庭を見通す力と幼児や保護者との信頼関係が問われるところである。(p.42)



5歳児に自己責任って。
どうかしてるとしかおもえません。
カードを忘れるな、と5歳児に要求するほうが無謀だし、カードをわすれたときの対処が「こどもにがまんさせる」って。それが「体験」って。
なんで一番よわいものにツケがまわるんですか。
それで「自分が忘れたから仕方ない」と納得しろと要求する。
そんな体験いりませんよ。

ちょっとしたミスで過重な刑罰がくだり、それを「自分のせい」と納得させられる。周りの大人はこどものちょっとしたミスにいっさい手助けをしてやらない。

「今回の体験を通して、自分のことに自分で責任をもつということを学んでほしいと考え」られるほうがおかしいとおもいますが。
絶対に一度のミスもゆるされない社会。自分のことしか頼れない社会。ミスをしたらどんな罰をうけても仕方のない世界。大人が手助けをしてくれない世界。
なんで五歳のときからそんな世界に住めといわれなければいけないんですか。

もう、いやだ。ぜったい、たのまれたって東京都港区立白金台には住まない。
posted by なかのまき at 21:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 国語教育

2010年11月19日

カエルのへそについて学びましょう。ないけど。

『月刊国語教育研究』(日本国語教育学会)2010年2月号で、

「日本語の特質を学ぶ」

という特集がありました。
前期の授業で学生さんのくりだす日本語特殊論にへきえきしていたので、「日本語」と「特質」とくればそれだけでみがまえてしまう習性があるのですが、この特集の内容、どうなんだろう、と。
どきどきしながらみたのですが。
ああ。悪くないです。


まず、巻頭言が杉戸清樹氏(前国立国語研究所所長)です。
杉戸氏は、かなり国語教育にめくばりをしている人です。


日本語の姿を虚心に見つめることから

 言語研究の一分やである対照言語学や言語類型論の新しい知見に触れると、日本語は他の言語と大きく異なる「特徴」をもつような格別の言語ではないということを教えられる。たとえばSOV(主語・目的語・動詞)のような文の語順構造など、他言語と同じ類型に属する言語であることが、近年とみに充実した情報や研究に基づいて示されている。
 そうした専門領域のこととしてではなくとも、かつて語られた日本語の独自性や「特長」が多くの場合きちんとした根拠のないままの思い込みや思い入れであったということも想起しておきたい。一例を挙げれば「敬語を持つのは日本語だけだ」という言説である。(略)
 こう考えると、学習指導要領に掲げられる「国語の特質」は、国語のどのような言語事象をどのような姿勢で扱うかについて、改めて議論したりする余地の大きな課題事項であることがわかる。本号特集の趣意もここにあるのだろう。


「日本語の特質を学ぶ」という特集の巻頭言で「そんなもんない」ってかいてあるんですよ。
でも、それは本当のことなんだからしかたないですね。

それで、
「国語のどのような言語事象をどのような姿勢で扱うかについて、改めて議論したりする余地の大きな課題事項であることがわかる。」
ってかかれてますが、でも、それって、現場の先生のする仕事じゃないよね。
ないものについて教えろっていうんだったらそれはむちゃぶり芸でしょう。
そんなものを現場の先生に期待しちゃいけません。

これは、「国語の特質」なんてかいた文部科学省に責任があって、その責任を追及するのも、現場の先生の仕事じゃなくて、日本語学と言語学の人の仕事だろう。

日本語学のせんせえは、自分の教え子や弟子や友達がどれだけ国語教育まわりで食ってるか、しらないわけじゃないだろうし。いまだって高校の国語と大学の日本語学の非常勤かけもちしてたべてる人がどれだけいることか。

ってかんがえると、日本語学で食ってるひとはだれだって国語教育に無関心でいられるはずがないわけで。
だからそもそも、学習指導要領に「国語の特質」なんていう項ができてしまっていることが、異常事態なわけですよ。
日本語学の人なにやってんの。
どうしてこうなるまでだれもつっこみいれられなかったの。って。
責められてしかたないとおもう。
posted by なかのまき at 00:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 国語教育

2011年01月25日

こくごのとくしつ(かえるのへそ)

『月刊国語教育研究』2011年1月号で
「国語の特質をどう教えるか」という特集をやっていたので紹介します。

石塚秀雄「国語の特質をめぐって」 pp.2-3

というのが、私の考えていたことを示してくれていたので引用します。


大体、「国語の特質」という言葉を学習指導要領に使用するに当たって、作成委員会の中でどれほどの討議が行われたのか、少々疑問にすら感じられる。(略)
 私たちは通常、「国語の特質」と言われれば、「日本語だけが保持している特別な性質、特殊な性質」と考える。これは日本語以外の言語を視野に入れなければ把握することは難しい事柄である。事実、次々に刊行された学習指導要領解説(文部科学省)においても明確な説明はない。
 小学校においては、各学年とも「言葉の働きや特徴に関する事項」の解説で「考えたことを表現するのが言葉の働きである」とし「言葉は時間の経過によって変化する」ことを学ばせようとしているが、これは日本語独特の性質というわけではあるまい。言語一般に通用する事実である。(略)
 こうしてみると、「国語の特質」と言っても、少なくとも小・中学校における学習は、現代日本語の把握と理解を求めるものであることがわかる。旧来の「言語事項」とそれほどの差異はないのである。


うん。私もこの分析は妥当だとおもいます。
差異はないというか、むしろ、なにいってんだかよくわかんない「国語の特質」なんていう名前は改悪でしょう。
「国語の特質」なんて「かえるのへそ」とおなじくらいなんのことをいってるのか意味わからないことばです。

これについては以前、

「かえるのへそについて学びましょう。ないけど」

という記事をかきました。

同じ雑誌で、
「日本語の特質」っていう特集と「国語の特質」っていう特集をやってるんですね。

ところで、紹介した石塚氏の冷静な論が乗っている、その雑誌の巻頭言がすごい。

川本信幹「正しい日本語を守るために」

日本語の衰微・劣化が叫ばれて久しい。学校教育が正しい日本語を守る……(略)
近年は、大学で「国語学概論」や「国語科教育法」を勉強しないまま教壇に立ち、国語の授業を担当している方が少なくない。ぜひ、「国語学概論」くらいは自分で勉強して「国語の特質」のなんたるかを理解しておいていただきたい。


「国語学概論」よんでも「国語の特質」のなんたるかは理解できないとおもいます。
「カエル学概論」よんでも「カエルのへそ」のなんたるかは理解できないのとおなじで。



あともうひとつ。
「日本語の特質」関連のおもしろを紹介します。
おもしろいのでぜひリンクからたどってよんでみてみてください。

「ことばと文化のミニ講座-明星大学人文学部 日本文化学科」vol.16「日本語の特質について」(和田正美・教授)
日本語には男言葉と女言葉の違いがある。これは日本語が高度に発達したことの証しであり、決して封建性の表れなどではありません。


学生が教員にまるで友達のように話しかけるのを聞いた時、私はその学生を軽蔑する以上に、その教員を軽蔑しました。


また女はよほど特殊な状況を除いて、男言葉を使ってはいけません。男女の間に何の差もないという歪んだ教育思想とは縁を切って下さい。


などというおもしろ発言もみのがせませんが、

「卒業論文→卒論」のような社会的に承認された語以外の省略語は言わないこと。


えーと。「卒論」ってそこまで社会的に承認された省略語だったっけ?
社会って大学のうちがわのことなのか。
ということもきになりつつ。


外来語はそれ以外に適当な言い方がない場合にだけ使用すること(フラワーは良くない)。


「フラワーは良くない。」
なぜいきなりフラワー。
posted by なかのまき at 00:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 国語教育

2011年02月23日

知恵と真実と救いの「かさこじぞう」

平成23年度から学習指導要領がかわります。

で国語はいろいろかわりますが、
「伝統的な言語文化に関する事項」
ってのができます。

それにかんする特集が、いまけっこう国語教育の雑誌でばんばんやられていておもしろいので紹介します。
けっこうおおきいのが、小学校1・2年生で「昔話や神話・伝承などの本や文章の読み聞かせを聞いたり、発表しあったりすること」っていう文句がはいります。

現行の指導要領でこれと対応するのが
「言語事項」の「昔話や童話などの読み聞かせを聞くこと」

ってところですね。
「童話」ってのがきえて、「神話」と「伝承」っていうのが増えてます。

それはそうとして。
いまも、昔話については小学校低学年の教材としてあつかわれているようです。
どのようにあつかわれているか、国語教育の実践研究論文から、みてみましょう。

左近妙子(2010)「日本語で考え、伝える基礎を楽しく」『教育科学国語教育(明治図書出版)』734号 pp.39-42

「かさこじぞう」についての実践研究です。


三 二年生の音読の実践例―「かさこじぞう」

「伝統的な言語文化に関する事項」の低学年には、昔話や神話・伝承などの文章の読み聞かせを聞き、古典に親しむことが明記されている。(p.42)


うん。これ、新指導要領みたときも疑問だったのですが「昔話や神話・伝承」と「古典」になんの関係が?
なんで昔話の読み聞かせが古典に親しむことにつながるの? ぜんぜん関係なくない?
そのへんのリクツがよくわかんないです。いや、ほんきでわからないんですけど。
まあいいや。

で、びっくりした記述があったので以下に引用します。

民話を読むためのポイントを知ろう
(1)物語のテーマを知る。
民話は、人生の真実や知恵がテーマとなっている。「正しい行いをする者は救われる」という「かさこじぞう」のテーマを、子どもに分かりやすく伝える。(p.42)


えっ?
「かさこじぞう」のテーマが「正しい行いをする者は救われる」?
おもわず「かさこじぞう」のあらすじを調べてみました。

そしたら

wikipediaにつきあたりました。

笠地蔵―wikipedia

あらすじ引用します。

ある雪深い地方に、ひどく貧しい老夫婦が住んでいた。年の瀬がせまっても、新年を迎えるためのモチすら買うことのできない状況だった。 そこでおじいさんは、自家製の笠を売りに町へ出かけるが、笠はひとつも売れなかった。吹雪いてくる気配がしてきたため、おじいさんは笠を売ることをあきらめ帰路につく。吹雪の中、おじいさんは7体の地蔵を見かけると、売れ残りの笠を地蔵に差し上げることにした。しかし、手持ちの笠は自らが使用しているものを含めても1つ足りない。そこでおじいさんは、最後の地蔵には手持ちの手ぬぐいを被せ、何も持たずに帰宅した。おじいさんからわけを聞いたおばあさんは、「それはよいことをした」と言い、モチが手に入らなかったことを責めなかった。

その夜、老夫婦が寝ていると、家の外で何か重たい物が落ちたような音がする、そこで外の様子を伺うと、モチをはじめとする様々な食料、財宝がつまれていた。老夫婦は手ぬぐいをかぶった地蔵を先頭に7体の地蔵が去っていく様を目撃する。この贈り物のおかげで、老夫婦は無事に年を越したという。(笠地蔵―wikipedia



ああ、うん。
私の知ってる「かさこじぞう」と同じストーリーです。

で。

石でできた人形にかさをかぶせることが「正しい行い」って。
まったく意味わかんない。
えっ?
なにがどんなふうに「正しい」の?

石の人形にかさをかぶせたらお礼にコメとモチをもらいました、って、
どうにもばかばかしいストーリーじゃないですか。

いえ、おじいさんの行いがバカバカしい、と主張しているわけではありません。
ただ、石にかさをかぶせるという意味のわからない行為を「正しい」と、一方的な解釈をおしつけられたらたまったもんじゃないよ。
っていいたいだけです。

しかも「正しい行いをする者は救われる」の救いかたが、家の外に「モチをはじめとする様々な食料、財宝がつまれていた」という、なんか他人任せというか主体性のない救われ方でいいのかい。

左近氏は「民話は、人生の真実や知恵がテーマとなっている」とかいてありますが、売れ残ったかさを石にかぶせるじいさんのどこに知恵があって、かさのお礼にと、地蔵という石が、家の外に大量のモチや財宝をおいていくというストーリーのどこに真実を感じるんですか?

いや、ちょっと「かさこじぞう」にたいしていいがかりにちかい文句をつけてしまいましたが、「かさこじぞう」のストーリーは、私はきらいではないです。
かさがうれのこって正月のモチがかえなかったおじいさんが、「ぜんぜん売れなかったよ」っていっておばあさんをがっかりさせるより「お地蔵さんにかさをあげたってことにしよう!」っていうあそびごころは、とてもこのましいとおもいます。
で、やるからには、ほんとにちゃんとお地蔵さんの雪をはらってあげて、かさをかぶせてあげる、その徹底したあそび方もいいとおもいます。
で、そのおじいさんのあそびごころにのってあげるおばあさんもすてきですね。
「よし、売れなかった分は明日またうりにいこう! と、おじいさんは毎日努力をつづけました。めでたしめでたし」
っていう根性論より、ずっといいし、面白い。

というわけで、
かさこじぞうのストーリー自体はきらいではありません。

ただ、それを国語という教科のなかで「正しい行いをしたから救われた」「真実と知恵」みたいなちょっとむりめの解釈を一方的におしつけると、いろいろムリがでてくるでしょう。

なんで石にかさをかぶせるのが「正しい行い」なの?
なんで石がモチをめぐんでくれる展開が「真実」で「救い」なの?
ただたんに、「おはなしとしておもしろい」ではだめなんですか?
なぜ昔話に「ただしさ」とか「真実」とか「知恵」とか「救い」が必要なんですか?

この疑問にこたえてくれる論文を紹介します。


伊藤龍平(いとう・りょうへい)2009「昔話唱歌・唱歌劇と植民地下台湾の国語教育」『國學院雑誌』110−11 pp.421-433


この論文、すごいおもしろいです。
長くなるので、詳しい紹介はまた後日記事にします。
ぜひ、入手できましたらよんでみてください。

posted by なかのまき at 20:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 国語教育

2011年02月24日

自己犠牲と諦念の「かさこじぞう」

今日もかさこじぞうのはなしをしよう。

「伝承文学」という学問のジャンルがあります。
民俗学ともいうのかな。
各地の民話や伝説などを採取して、研究しているものです。

で、各地から採取してみると、あたりまえだけど、いろいろなバリエーションがあるわけです。
ひとくちに「かさこじぞう」といっても、じいさんの行いやばあさんの性格にさまざまな変種があって、それを整理してとても面白くまとめた論文がありましたので紹介します。

中村一基(なかむら・かずもと)1988「民話「笠地蔵」の〔構成要素〕〔変容過程〕考―岩手の伝承を中心に」『岩手大学教育学部附属教育工学センター教育工学研究』10 pp.55-62

この論文がすごいおもしろい。

まず、「笠地蔵」について、中村氏は


民話「笠地蔵」は、民話教材「かさこ地蔵」(岩崎京子再話)として現在使用されているすべての小学校二年国語教科書に入っている。(p.55)


と指摘しています。昔話はいろいろあれど、なぜ「かさこじぞう」
いや、他の物語があまりにも、教室のなかで教えられるにはふさわしくないのでしょうねえ。

桃太郎や一寸法師は血なまぐさいし。カチカチ山は婆汁なんてでてきちゃうし。さるかに合戦も殺伐としすぎています。
こんななかで、「かさこじぞう」は悪い人もでてこないし、血なまぐさい展開にもならない、ふわふわ昔話です。
そんなところがうけて、多くの教科書で採択されたわけですね。

そういうわけで、中村氏は「かさこじぞう」を国語教育的に重要な民話として、とりあげ、分析しています。
それではみていきましょう。

「笠地蔵」は、貧乏なおじいさんおばあさんがいて、大晦日に年越しのモチを買うために、おじいさんが町になにかを売りに行って、じぞうに何かをかぶせて恩返しになにかをもらう。
と、このおおまかなあらすじは共通しているようです。

とにかく大切なのは、このおじいさんおばあさんは、とても貧しい。ということです。

で、おじいさんは大晦日をむかえるためのお金の工面のために、なにかを売りに行きます。
国語教科書だと、おじいさんが自分で作ったかさ、ですね。
が、じつは、各地の民話にはこんなバリエーションがあります。

・おじいさんとおばあさんがつくったかさ
・おじいさんが山でとった柴
・おばあさんがためておいた糸臍コ
・おばあさんがおった布
・おばあさんが大切にしていた鏡

鏡はせつないわー。

で、おじいさんが地蔵にかさをかぶせるタイミング
教科書では、売れ残ったかさをおじぞうさんにかぶせてあげます。
が、じつはこんなバリエーションがあります。

(1)おじいさんがかさを売りに行く途中で、寒そうな地蔵にかさをかぶせてかえってくる。(かさをうってない)
(2)町で(ばあさんがつくった)布を売って、その金でかさを買って地蔵にかぶせた。
(3)町で(ばあさんのたいせつな)鏡を売って、その金でかさを買って地蔵にかぶせた
(4)売れなかったかさを地蔵にかぶせた
(5)売れなかった布を地蔵にかぶせた
(6)糸臍コが売れない。かさ売りとしりあって交換

……えー。ものによって
だいぶ印象がかわりますねー。
(4)が教科書パターン
だが。

(1)とか(2)とか(3)とかじいさんなにやってるの。
地蔵に親切にしてるよゆうがあったらばあさんにモチを買ってやれよ!
(2)と(3)はひどいだろう。とくに(3)!

そして、かさを地蔵にかぶせてきた、と報告したときのばあさんの反応も、バリエーションが。
まず、ばあさん怒らないタイプがあって、そのほかに、じつは、おばあさんが怒る話もある。

・濡れた石地蔵にかさをかぶせる。そのことをきいたばあさん怒る

・旅人が来訪して、宿を乞う。ばあさんは拒否する。けど結局とめる。朝、旅人が地蔵と化して鼻からコメをだしていた。

・じいさんが雨・雪に濡れた石地蔵にかさをかぶせる。一体だけかぶせるかさがなく、背負って家に連れてくる。それを見てばあさんは怒る。


地蔵を背負って帰ってくるじいさん……行動的だね。
さて。昔話には「よいじいさんとわるいばあさんの夫婦」というのがでてきます。
有名なのは、したきりスズメですね。
よくばりばあさんがおおきいつづらをもってかえってひどいめにあうやつです。

では、おじぞうさんにかさをかぶせたことをおこったかさこじぞうのばあさんは、
したきりスズメのよくばりばあさん並のわるいばあさんなのでしょうか。

中村氏はこう分析します。

婆の怒りは〔欲心〕からでなく、〔現世利益を願う心〕からである。両者は同一ではない。貧しい民衆の感情という視点からは、米や餅を買ってせめて人並みの正月を迎えたいという現世利益を願う婆の方が、わざわざ笠を買って地蔵に被せる爺よりも自然である。(略)そして、この自然さに拮抗できるのは、爺の異常なほどの善良さ、或いは強い〔地蔵信仰〕心のみであろう。則ち、渡したものが売れなかった時の爺の行為に対して、婆が持った感情は信仰心ではなく、多くの場合〔諦念〕であったという事を忘れてはならない。(p.58)



婆の怒りは欲心からではない。爺が自分たちの生活に余りに無頓着である事に対する怒りである。
このような婆との軋轢を抱え込んだ爺の自己犠牲によって、「笠地蔵」の地蔵信仰への変容は完成する。
 この〔変容過程〕考で明らかになったと思われるが、教材「笠地蔵」は民話「笠地蔵」が最終的に入っていった爺の地蔵信仰と婆の生活者意識との亀裂の問題を避けている。爺の行為を地蔵信仰の共有によって肯定するのではなく、婆は諦念によって肯定していたのである。(略)人並みとは言わないまでもせめてささやかな正月の準備が出来ればという願いを籠めての切り札としての布(鏡)であった以上、それが可能となるのを態々否定した爺の行為は許されないのは当然であろう。(p.61)


地蔵にかさをかぶせたじいさんに対して怒るパターンのばあさんの怒りは、貧乏な二人の生活をかんがえると自然なものである。
また、おこらないで「それはよいことをした」というばあさんだって、それは爺さんに共感しているわけじゃない。じいさんの「異常なほどの善良さ、或いは強い〔地蔵信仰〕心」にたいする諦念がいわせているのだ。
という指摘です。

さて。ここまでみてきたところで。
かさこじぞうにいろいろなバリエーションがありつつ、共通しているのは、
爺の強烈な地蔵信仰です。

つまり、かさこじぞうのテーマは、地蔵信仰。
「自分を犠牲にしてまでいちずに神様をしんじるものは救われる」
です。

けっして
左近妙子(佐賀県唐津市呼子小学校)(2010)「日本語で考え、伝える基礎を楽しく」『教育科学国語教育(明治図書出版)』734号 pp.39-42
にあるような、

「正しい行いをする者は救われる」

ではありません。
というか、地蔵信仰を「正しい行い」とするならそれは、特定の宗教へ誘導する宗教教育です。
これを「正しい」という国語教師はそのへんの自覚はあるんですか。

あと、この論文からわかるのは、
ひとつの民話が教科書にのることで、
都合の悪い他のバリエーションがぜんぶ、どこかへおいやられてしまうことのおそろしさです。
私はこの論文をよむまで、まさに、教科書的かさこじぞうしかしりませんでした。
ばあさんが怒ったり、じいさんがばあさんの鏡を売った金で笠をかったりするタイプの民話は、全部わすれられてしまうのです。

そして残るのは、教育的に都合のいいバリエーションだけ。

じいさんはばあさんの鏡を売った金でかさをかわない。
ばあさんはおこらない。
悪人がでてこない。
貧乏を我慢して、ふまんをもたずに自己犠牲をはらってまでいちずに石人形を信じればそのうちどこからか、モチとコメをめぐんでくれるよ。

という。
なんかちょっと、よくかんがえるといちばんおそろしいストーリーだけがのこった。
posted by なかのまき at 20:17| Comment(2) | TrackBack(0) | 国語教育

2012年02月17日

道徳教育の感傷

今日はちょっと古い資料を。

宇佐美寛(うさみ・ひろし)1987「「道徳」授業の不道徳性」『現代教育科学』No.307

宇佐美氏は、道徳教育を専門にしている人のようです。
この論文は、「きつねとぶどう」という小学2年生用道徳の資料を紹介して、この道徳用資料の不道徳性について指摘しています。
おもしろい論文です。

まず、「きつねとぶどう」という道徳資料のあらすじ。

おかあさんぎつねと、子ぎつねが巣穴のなかでくらしています。
ある日子ぎつねが「おなかが すいた」とないて、おかあさんぎつねが、やまを3つこえて、「ぶどうの 村」にいって、ぶどうをひとふさ「いただき」ます。(ようするに、ぬすみ)
ぶどうをもって帰り、あともうすこしで子ぎつねのところに、おかあさんぎつねがたどりつこうとしたとき、わんわんと、犬のなきごえがします。りょうしが、近くにきています。
おかあさんぎつねが、
「コーン、あぶない、早く にげなさい。」
とさけんで、子ぎつねはあなをとびだして、やまおくへ逃げます。

で、にげた子ぎつねはおかあさんぎつねをさがしているうちに何年も時が経過して、大きくなります。
あるとき、むかしすんでいた巣穴のちかくにきたときに、一本のぶどうの木をみつけます。
昔はなかったのに、と不思議におもいながらぶどうをたべてみたら おいしかった。
では、以下原文を引用します。

その とき ふと 子ぎつねは、
「まって おいで。 おいしい ものを、 もってきて あげるから。」
と いった おかあさんの ことばを、 思い出しました。
ぶどうの 木のはえて いる わけが わかりました。
子ぎつねは、 どこに いるのか わからない おかあさんに、 声を あげて おれいを いいました。
「おかあさん、 どうも ありがとう」(坪田譲治の作品による)(宇佐美1987:52)


で、
宇佐美氏はこの教材にたいして、このように述べています。


「教科用書」には赤い字で次のように書いてある。

〔ねらい〕父母やまわりの人びとの愛情に対し、感謝し尊敬する心情を育てる。

本書のおさえどころ…〔略〕…母ぎつねの行動について考えさせ、心情に訴えて尊敬感情の気持ちを育てる。

留意点・自分が犠牲になっても、子どもを助けようとした母ぎつねの気持ちをわからせる。(同:52)


はい。毎度安定のひどさ。
誰かを犠牲にしないと道徳は成り立たないんですかね。


これにたいして、宇佐美氏は厳しく批判します。

これをよんで、子どもは疑問をかんじるはずであるとして、この物語の問題点をあげます。
母ぎつねにエサをはこんでもらわなければいけない年頃の子ぎつねが、どうやってひとりで大きくなったのか。なぜ子ぎつねをおいて山3つもこえた遠くまで食物をとりにいかなければいけなかったのか。ぶどうをぬすむのはよくないのではないか。

など。

そして、以下のようにまとめています。

「きつねとぶどう」は、文学作品として、だめなのである。「おかあさん」の「ぎせい」が、全体の事実関係とまとまりをなしていない。他の部分の事実が「こういう行動ではない可能性もあったのではないか」という問いを誘発する。いいかえれば、「ぎせい」がもの欲しげに感傷的に浮き上がっている。こういう作品を価値あるものとして肯定的に子どもに与えるべきではない。(同:54)



この「きつねとぶどう」の資料・授業は例外的なものではない。すでに述べたような特性は、広く見られる。あえて、くり返しまとめる。
資料はおざなりで感傷的である。すなわち、当然必要であるはずの事実が書かれていない。また、書かれていること相互の間に矛盾がある。筆者が強調したい道徳的意義だけが作品全体の中で浮き上がって、しらけたものを感じさせる。(同:57)



この宇佐美氏の道徳教材批判が、教育の分野においてちゃんと受け止められて、まじめに議論されてきたとは、残念ながら考えられません。

ちょっとまえにインターネットでも話題になり、テレビでもとりあげられたのでご存知のかたもおおいかとおもいますが、埼玉県で道徳教材として、「天使の声」という教材が作成されました。

こちらのリンク先なども参照ください。

犠牲になった南三陸町職員の方が、道徳の教材にされることへの反応。

だれか(特に女性)の犠牲的な死を、「おもいやり」と、感傷的に道徳教材にしたてあげて消費してくることは、昔からさかんにされてきて、そして今年もまたひとつ、教材がつくられました。
私はこのような道徳教育のありかたに、反対します。
posted by なかのまき at 20:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 国語教育