2011年11月27日

文化は差別を免責しない(1)

シミュレーション「アルバトロス」というものがあるらしい。

そしてこれを紹介する論文があって、

森山美雪(もりやま・みゆき)2010「異文化トレーニングにおける大学生の学び―シミュレーション「アルバトロス」の効果について」『異文化コミュニケーション』13 105-119

これについて考えたことをかきます。

シミュレーション「アルバトロス」というのは


アルバトロスという架空の国での歓迎の儀式体験と、そのあとに続くディスカッションとの2部構成になっている。参加者は、儀式での性別による待遇の違いからアルバトロスを「男尊女卑」の文化と思い込んだかについて振り返りを行う。森山(2010:109)


このような目的でおこなわれます。
で、紹介する論文は、このシミュレーションを使った大学の授業の実践報告の形をとります。
10名の学生がじっさいにシミュレーションで参加をすることになっていて、(参加してない学生は見学)
ただし、参加する学生にもこのシミュレーションの趣旨を把握しているわけではない。

この授業でおこなわれた実際の手順については、
まず、以下の手順の寸劇をおこないます。

(1)用意された椅子7脚に訪問者女性(VF)全員と訪問者男性(VF)数名が座り、VMの残りは床に腰をおろし、儀式の始まりを待つ。
(2)アルバトロス男性(AM)、アルバトロス女性(AF)の順に入場。全身を覆う服を着用し、AMは靴を履き、AFは裸足。
(3)アルバトロス女性は「スー」と言いながら訪問者女性を床に座らせ、裸足になるように求める。訪問者男性には椅子に座るよう促す。
(4)あいさつ。アルバトロス男性は椅子に着席。アルバトロス女性はアルバトロス男性の足元で正座。アルバトロス男性はアルバトロス女性の頭に手を触れながら頭をさげ、アルバトロス女性は床に手をついてお辞儀をする。
(5)アルバトロス女性がアルバトロス男性、訪問者男性の順にクッキーを食べやすいように差し出す。男性は美味しそうに食べる。その後、アルバトロス女性は箱ごと渡されたクッキーを食べる。
(6)アルバトロス女性がアルバトロス男性、訪問者男性の順に飲み物をコッピに注いで渡す。男性は美味しそうに飲む、最後に、訪問者女性が飲み物の容器とコップを渡されて自分で注いで飲む。
(7)アルバトロス女性とアルバトロス男声が相談をして訪問者女性を一人選ぶ。
(8)あいさつ。アルバトロス男性は椅子に着席。アルバトロス女性とさきほどえらばれた訪問者女性がその両側に正座する。アルバトロス男性は両側の二人の女性の頭に手を触れながら頭を下げる。女性は床に手をついてお辞儀。
(9)アルバトロス男性が先頭に立ち、訪問者女性とアルバトロス女性が後ろについて退場。
(森山(2010:109−110)を要約)


そして、これを見た後「アルバトロスとはどのような文化か」についてディスカッション。
「男尊女卑」という感想をひきだしておいて、ねたばらしをおこなう。


「アルバトロスは女性を尊敬する文化で神が宿ると考えられている聖なる大地を踏みしめることができるのは女性だけで、男性は靴をはき椅子に座らなければならない。食べ物は女性だけが自分で食べることができ、男性が先に食べるのは毒が入っている場合を考え女性の盾となるため」(森山2010:110)


これをうけ、
「なぜアルバトロスを男尊女卑の文化だと思ったのか」についてディスカッションのあと、全体のディスカッションを行う。

全体のディスカッションにおいて紹介されている学生の意見がけっこうひどい。

グループディスカッション中に「教育が悪い」という言葉が何度も発せられた。
「小学校から男女平等についてよく聞かされていて、男尊女卑という概念を習ったので、アルバトロス文化をそう思い込んでしまった」
「差別ということばを習うので、この状況を差別と解釈した。差別ということばを知らなかったらそうは思わない。ことばが物事を解釈する枠組みとなっている」(森山2010:110)


いろいろな混乱がみられるようですが、
どちらにしろ、アルバトロス文化は差別的です。
男尊女卑だろうが女尊男卑だろうが、どっちに解釈したとしても、男女差別。

なぜ男尊女卑だけが差別とみなされているような発言をするのか。
そしてそれを教育のせいにするのか。
小学校教育では「男尊女卑は差別だけど女尊男卑は差別じゃない」というトンチキなことをおしえるものか?
人間を性別で待遇の差をかえたりしてはいけない、というあたりまえのことをいうだけでしょう。

あと、差別は社会の構造に関するものであって、心の問題ではないので、
個人があることがらについて差別と思うか差別と思わないかは、
そのことがらが実際に差別であるかどうかにはまったくかんけいないでしょう。
「ことばが物事を解釈する枠組みとなっている」というのはあまりにも乱暴すぎる。
差別は個々人の「ことば」や「解釈」の問題だけではないので。


森山氏は学生の意見をうけてこうまとめています。

日本文化の視点からアルバトロス文化を解釈してしまった。常識と先入観から思い込み、固定観念に縛られ、日本/自分の価値観を基準に考えた。(略)そもそも他の文化のことをよく知らないし、他の文化のことは考えにも及ばなかった。女尊男卑があるなんて思いもせず、想像力がなく多角的に見られなかった。エスノセントリズムのせいで、他の文化を間違っている、異常、劣っていると感じた。(森山:112)


私は、アルバトロスが架空の文化であるということにうさんくささを感じます。

人間というものは、程度の差こそあれ、男性優遇の社会をつくっている傾向があることは知識として知っているひともいるはず。しかも、これはわりといろんな研究ではっきりしてるでしょう。

こういう研究成果、知識を、「架空の文化」を理解するために捨てろ、それが異文化トレーニングとやらに有効なんだ、というのであれば。
男女差別は文化の差をこえたレベルにあるものなのに、そういうたぐいの差別問題を、架空の文化をでっちあげてまでむりやり個別の文化におとしこもうとすることを「異文化トレーニング」とよぶのか。


文化の間に優劣や間違いはない、という考え方は文化相対主義とよばれます。
これはとても大切な考え方を含むとともに、ある面においてはその限界性を批判されています。

たとえば実在する首狩りという文化。女性器切除(女子割礼とかいわれることもある)という文化。
そういう風習にたいして、文化相対主義はどうむきあうのか。

「文化だから尊重」するのか。

くもりない文化相対主義者なら、「そのとおりだ」とこたえなければならないでしょう。
たとえ人殺しであっても他者(しかも子供)を傷つけることも、そして差別も、それが文化でありさえすれば、
「文化には優劣も異常もない」とこたえなければならない。

森山氏はこのような学生の声も紹介している。

学生Bは「私達が男女差別だと思うことが普通のこととして行われている場合、差別といえるのだろうか」と自問している。結論には及ばなかったが、男女差別だと決めてかからなかったのは、1回目の授業で行った「コミュニケーションとは」のディスカッションが活かせたからだと自己分析している。(森山2010:115)


これは、結論くらいだしてほしい。
普通に行われていることに差別はいくらでもひそんでいる。
差別かどうかと文化かどうかは、独立している。
アルバトロス文化は、女尊男卑という男女差別がおこなわれている。

そのうえで、くもりのない文化相対主義者であるならば、
「たとえ差別でも文化だからまちがいではない」と結論づけるべきなのだ。



長くなったので
続きはまた後日。
posted by なかのまき at 19:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2011年06月07日

遺伝子に,美を決めてもらわなくてもかまわない


dna.jpeg

「散らし書き」に通じる
非対称(アシンメトリー)の美を
感じる心は、
私たち日本人の
DNAに
刷り込まれていると
言っていいのです。

――と、先生は
おっしゃって
いたけれど、
外国で暮らした
時間が長いボクに
「散らし書き」の感覚が
わかるだろうか?
河合克敏『とめはねっ!鈴里高校書道部』8 p.11(ヤングサンデーコミックス)



河合克敏『とめはねっ!鈴里高校書道部』8巻でましたね。

この巻は大槻藍子ちゃんを愛でるための巻ですね。
藍子ちゃんかわいいよ。

さて。

鈴里高校書道部のひとたちが、
大東文化大学の書道学科をモデルとした大学(取材協力大東文化大学書道研究とかいてあることから判断しました)のオープンキャンパスにきたという
設定です。

で、引用箇所は「散らし書きの創作」というお題をだされたときの、
書道部員大江くん(プリンスエドワード島からの帰国子女。カナダの公立学校で教育をうけてきて、一巻で「いじめもないけど友達もできない。ボクはまだ日本語がうまくしゃべれないしなぁ…」というせりふがある。p.18そのくせ日本のいみわからん学校文化にすんなりと適応し、勉強書き文字言葉には不自由してないという謎設定)の回想です。

「散らし書き」に通じる
非対称(アシンメトリー)の美を
感じる心は、
私たち日本人の
DNAに
刷り込まれていると
言っていいのです。


というセリフは、大学のセンセイが言ってる設定です。
「マンガだから」でいいっちゃいいけど。
大学の先生がこんなこと、ほんとにいうんだったら大変ですね。

まず、
「日本人」ってなんだよ。私は日本国籍をもって日本語を第一言語としてるけど「「散らし書き」に通じる非対称(アシンメトリー)の美」なんてものにはまったくぴんときません。
「日本人」なんてなんのことだかわからない。
で、まあ。かりに日本国籍を持つ人を日本人と定義したところで、
日本人全員「「散らし書き」に通じる非対称(アシンメトリー)の美」っていう美意識をもってるの?
しかもDNAレベルで?

というか、「美を感じる心」にDNAは関係ないよね。
遺伝子情報に「美を感じる心」はのってないとおもうんだけど。
そしてDNAはなんかの比喩である可能性もあるが。
ちょっと比喩にしては微妙すぎる。

まにうけて
「DNAだって、あたまわるいー。ぷぷーっ!」
といってしまうような私みたいな人がいるとおもうので。

大学の授業で「日本人のDNA」とか、危なくていえない。私だったら。

というか、 「日本人だから」、美がわかるの? 「美」をDNAにきめてほしいの?
書道の人は「美」について、自分でがんばって、かんがえて、てにいれたんじゃないの?

posted by なかのまき at 22:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 「とめはねっ! 鈴里高校」

2011年05月11日

ぼくが、フンになろう。

「スイミーはどうして目になろうとしたのだろう?」

(1)赤い魚の群れの中で、自分だけが黒かったから
(2)まぐろのこわさを知っている自分が先頭で指揮をとって仲間を導き、大きな魚を追い出すため。
(3)同じ赤い色をした以前の仲間をすべて失って孤独になった自分が再び元気になれたのは、海の中のすばらしいもの・おもしろいものをいっぱい見たからであって、それらを見た(それらを知っている)自分の「目」を仲間のために使って、今度は仲間たちにもそれらをいっぱい見せてやりたかったから。

(1)(2)だけで止まらないように。スイミーはその目で何を見てきたのだろうと再読し、(だからその目をどう使おうとしているのだろう、と考えたい。(渥見2010:1)



「スイミー」という絵本があります。
レオ=レオニさんという人の作で、日本語版は谷川俊太郎が訳してます。

小学校3年生の教科書にも一部採録されているので有名で、読んだことある人もいるのではないでしょうか。

あらすじは、
スイミーという黒い小魚がいて、あるひまぐろに仲間をぜんぶたべられて、おちこんで、たちなおって、別の小魚の群れとであい、おおきな魚におびえる小魚たちに、「みんなでおおきな魚のフリをしよう」みたいな提案をして実行してうまくいった。

というものです。
で、ここで重要なのは、スイミーは黒いけど、スイミー以外の小魚はみんな赤いのです。
練習のすえ、おおきな魚の形でおよげるようになったとき、ひとりだけ黒かったスイミーが「ぼくが、目になろう」っていったんです。
その様子は、絵本できれいにえがかれています。

さて。冒頭の引用はそのスイミーが「ぼくが、目になろう」っていった理由について。
出典は

渥見秀夫(2010)「ごん狐はオスかメスか―文学教材をもっと楽しく読むために」『愛媛国文と教育』42

私も光村の教科書でスイミーをよんだんだけど、あれ、「仲間を導く」的な描写ってあったっけ?
と。思い起こしてみて。どうも覚えがない。
(1)(2)だけで止まるな、といわれてますが、私は(1)でとまって、(2)にすらたどりつけてないですけどね。

たまたま図書館に光村教科書があったのでたしかめてみました。


みんなが、 一ぴきの 大きな 魚みたいに およげるように なった とき、 スイミーは 言った。
「ぼくが、目になろう。」
朝の つめたい 水の中を、 ひるの かがやく 光の 中を、
みんなは およぎ、 大きな 魚を おい出した。(『たんぽぽ』(光村図書出版)


んー。やっぱり、スイミーが「仲間をみちびく」とか、いってないです。

しいていうなら、引用箇所の直前に


スイミーは 教えた。 けっして、 はなればなれに ならないこと。 みんな、もち場を まもる こと。


という文言はあります。でも、「目になろう」といったのは、そのあとの話なので。関係ないようにおもう。
スイミーが「仲間を導く」という意図でもって「目になろう」といったかどうかは、よみとれません。
そうともそうでないとも。

しかしどうやら、「ぼくが、目になろう」というのは、スイミーが群れのリーダーになることの決意表明ととらえる国語教育の論文が、かなりありました。っていうか、これがたぶん主流。
たとえば、以下の文章のようなの。


阿部昇(2011)「指導と評価を一体化した授業づくり―小学校国語」『指導と評価』57

「スイミー」では、最後にスイミーたちが大きなまぐろを追い出していくところが山場である。そして、その過程でスイミーが「ぼくが、目になろう。」と叫ぶところが、クライマックス(最高潮)と言える。
「目」は見る役割を担う重要な器官である。ここでは、目が位置付くことによってスイミーたち小さな魚がつくる大きな魚が完成するという意味がある。が、同時に先を見通す目の役割をスイミーが担うことをスイミー自信が宣言したとも読める。つまり、スイミーは自分がリーダーになることを宣言したということである。


これ以外にもいくつかありましたが。


重政有里(2004)「『スイミー』の主題について―レオ・レオニの意図した主題」『香川大学国文研究』29に従来の学説についてまとめてありました。そのなかで、鶴田清司氏がスイミーの主題について以下のようにまとめているそうです。

(1)仲間がみんなで力をあわせること(協力・連携)の大切さ
(2)主人公が悲しい経験を乗り越えて集団のリーダーとして変化・成長したことのすばらしさ
(3)一人ひとりの個性や資質のちがいが仲間全体の力を高めることになること

うん。やっぱり、スイミーをむれのリーダーととらえる考え方がそうめずらしいものではなかったことがわかります。

で、私はわりと、書いてあることだけしか理解できないこどもだったので、
「仲間を導く」「リーダーになることを宣言」と読め、といわれてもこまるとおもうんですわ。
「そんなんどこにも書いてないじゃん」
くらいはおもったんじゃないかなあ。こんなこと先生にいわれたら。
「国語のよみは答えが一つじゃない、だからおもしろい」
ってのはよくきくけど、
「ぼくが、目になろう」といったときのスイミーの気持ちについて、
「黒かったから」と「群れのリーダーになろうとおもったから」は同等に価値のある答えですかね。

というか、「黒かったから」派にとっては、「ぼくが、目になろう」っていったときのスイミーについては、気持ちもへったくれもないですよね。単純に黒いから目になるっていってるだけなんで。そもそも、「ぼくが、目になろう」といったときのスイミーの気持ちをとりたてる必要があるときに意味があるといかけなので、「黒かったから」とこたえたら空気よめない発言であることだ。

さてそれはともかく、スイミーをリーダーとして読むと、なんか、
「スイミー様のおみちびきのもとしゅくしゅくとマスゲームをとりおこなう弱くて臆病な凡百の赤小魚たちがしあわせになりました」
みたいなこわい全体主義が頭をよぎります。

掃除当番をさぼろうとすると
「みんな、もち場を まもる こと」

授業中に立ち上がったら
「みんな、もち場を まもる こと」

かぜをひいてやすもうとすると
「みんな、もち場を まもる こと」

学校休んでディズニーランドにあそびにいこうとしたら
「みんな、もち場を まもる こと」

と、スイミー様におどされそうな。
いや、教科書に書いてある以上のことを読み取るな、といわれたら、そうですけど。
スイミーをリーダーと解釈するとやはり、スイミー以外の赤小魚が徹底的に没個性なのがほんと、きになってくる。
「みんな、もち場を まもる こと」でほんとうに、赤小魚たちはのぞんだくらしを手に入れることができたのだろうか。
そんな疑問がわいてきたところで、おもしろい文章をみつけたのでしょうかいします。
今回の記事はこれを紹介したいがためだけに書きました。

本をめぐる読み物 スイミーと肛門
posted by なかのまき at 00:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2011年04月12日

宿題はなんのためにでるのか

おもしろい論文みつけたので紹介します。

酒井一郎(2011)「だっこへの愛着ととまどいの欠落―いもとようこ『しゅくだい』の読まれ方―『人間学紀要(上智大学)』40 pp.195-222

いじめや非行や少年犯罪の「多発化・凶悪化」、家族から子どもへの虐待や犯罪の「増加・深刻化」が報じられ。文部・厚生行政は効果的な対策を模索している。(略)教育、とりわけ初等教育の場でも防止のための研究・実践が試みられている。おもに低学年の小学生に家人と「だっこ」することを宿題にする実践もそのひとつである。長年山口県で小学校教諭をしていた宗正美子(むねまさ・よしこ)氏はそうしただっこの宿題をじぶんの授業でもおこない、定年退職後その経験をもとにした創作童話を童話コンテストに投稿して入賞した。いもとようこ絵本『しゅくだい』(岩崎書店2003年)の原作がそれである。(酒井2011:196)


この論文は図像学者若草みどり氏の『戦争とジェンダー』(大月書店・2005)の研究をうけてかかれたものだそうです。

だっこの宿題の実例は以下に引用します。

宮崎県小林市の三松小学校では毎年2月に、バレンタインデーまでの一週間、「バレンタインすきすき週間」を設け、親子で毎日一分間ギュッと抱きしめあうという宿題が出されている。日付のついた表のプリントに、できた日には◯や◎や花丸を、できなかった日には×を生徒が付け、親子がシートに感想文をつづって提出するという形式のものである。2004年から、親子のふれあいをうながす取り組みとして、「いじめ・不登校対策カウンセラー」の教諭が発案、生徒指導部が保護者に呼びかけ、実施しているという。
2010年の同校の取り組みをNHKが春休み開始日の夕食後の時間帯にドキュメンタリーふうに紹介していた。これまで宿題をしてこなかった5年生の少年が、今年こそ息子と抱き合いたいと手を尽くす父親からの促しや誘いを拒みつづけ、最終日にやっとハグにいたるというプロット構成で、番組のエンディングでは、子どもが誕生したときの気持を思い出して「ギュッと抱きしめてください」という案内役斎藤優子(同市出身)のナレーションが流れた。(NHK総合テレビ『にっぽん紀行』「宿題は親子でギュッ〜宮崎・小松市」(2010・3月23日)
(酒井2011:212)


私はこのところを読んで、「きもちわるっ」ってすごく違和感をかんじましたが、
酒井氏はこの宿題について、こうまとめています。

だっこという双生交流的で家族的な親子の図像は、和やかで平安にみたされた記憶を見る者に呼び起こす。そのように温かく呼び起こしながら同時に、その平安を脅かす外部勢力を示唆する操作によって、母子抱擁イメージは洋の東西を問わず、国策推進メディアの愛郷心涵養のプロパガンダに利用され、戦争へと家族を送り出させる戦意高揚の用をはたしてきた。キリスト教聖母子画やピエタでさえ、そのような効果をもたらしたとの指摘もある。戦争を知らない国民が八割を占める今日、その愚が再現されないようにと憂うる危惧にたいしては、メディア・リテラシーの実践教育が「活発化」し、市民発・個人発の草の根メディアとしてのウェブが機動する時代に、それは考えすぎだよ、という楽観もあるだろう。たしかにそうかもしれないし、心底そうであってほしいものだが、だからこそ危うい規制を感知したカナリアは、声を嗄らしても泣かねばならない。(酒井2011:211)


だっこの宿題がもしかして国策推進につながってしまうのではないかという指摘です。
酒井氏の指摘と、私が感じたこの宿題への違和感は関係があるのか、ちょっと判断はつかないのですが。

親子のふれあいがいやなのではなく、親子のふれあいが「宿題」としてがっこーから出されることがなんか、すごくきもちわるいんだとおもいます。
「親子のだっこ」が「◯◎花丸×」と評価されるのも、感想を先生に提出しなければいけないのもふくめて。NHKが小学校5年生の少年をオカズにして美談をしたてあげるのもふくめて。

さてこの論文、注がよんでいて面白いので、ちょっと紹介します。


教師にとって宿題をしてくる子はいい子である。子どもの側からいうと、いい子でなければ宿題をするいわれはない。いい子であるから、いい子になろうとして宿題を怠らない。つまり、いい子ばかりなら教師は宿題を出す必要はない。教師が宿題を出すのは、すでにいい子である多数に加えて、新たないい子を産出するためである。(略)
いもと絵本でも正宗童話でも「みんな」宿題をしてきたようだ。そればかりか「だっこのしゅくだい、またあるといいね」と拒否の声は聞こえてこない。すなわち、yes-childrenを創出すること、それが宿題権無効化のリスクをかけてでも試される教育工学的効果だったのである。(略)
世界規模の階層格差化の進む今世紀にいたって新自由主義と新保守主義の共合した文教エデュケア行政にとり、情操陶冶には個人責任競争主義を保管する防犯予防的な効果がみ込めるとともに、地域の草の根連帯の幻想を回収する教育メタファとしてテコ入れが図られている。「だっこ」の絵本への共感も、学校によるポスト産業下層労働者の継続的産出を補完する下からの公教育小権力による家庭への善意の介入とみることもできる。
(酒井2011:219)


宿題って、べんきょうのたすけのためにあるわけじゃあないのか……いい子の産出のためにあるのか。

というわけで、この論文を読んだ私の感想。
だっこの宿題は学校によるポスト産業下層労働者の継続的産出を補完する下からの公教育小権力による家庭への善意の介入とみることもできるので廃止してほしい。


あと、ちょっとすごく気になってるのが、酒井氏が紹介した”「いじめ・不登校対策カウンセラー」の教諭”ってなんだろう。
スクールカウンセラーという人がいるのはしってるけど、それは専門職員であって、「教諭」ではないはず。あと、「いじめ・不登校対策」で「親子でギュッとだきあう」を提言する専門職カウンセラーなんているのかしら。
「カウンセラーきどりの教諭」でないことをねがっています。
posted by なかのまき at 21:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2011年04月02日

長野の助詞の「を」について

長野のあたりでは助詞の「を」を〔wo〕と発音する

というはなしをきいて、
しらべてみました。

『長野県史 方言編』(長野県史刊行会・1992)

第3章 中信地方の方言
(引用注:調査地点は開田村)
3.3.1 /'wo/について
共通語の/'o/〈オ〉にあたるところにあたるところに,語頭と語頭以外を問わず[wo]があらわれる。

[woja]〈ウォヤ〉(親) [wotogo]〈ウォドゴ〉(男)
[wonnna]〈ウォンナ〉(女) [sawo]〈サウォ〉(竿)
[iwo]〈イウォ〉(魚) [(ナガエス)iwo]〈シウォ〉(塩)

(略)

 この[wo]ないし[wo]を/'wo/と解釈することにより,/wo/軸を新たに作ることは「経済の原則」に反するとも言えるが,話者によっては「御岳山」は[ojama]〈オヤマ〉であって[wojama]〈ウォヤマ〉ではないとする者もおり,ここでは[wo]の半母音[w]を/'w/と解釈した。
 語頭の[wo]〈ウォ〉を有する方言は極めて珍しい。筆者の観察した範囲では,東日本では伊豆七島列島方言のみである。それに対し,語頭以外の位置における[wo]はその実態はさまざまだが,長野県方言などでも,これを有する方言がある。(p.415)


『長野県史 方言編』は著者名がかいてないのですが、ここのかしょについては、


馬瀬良雄(1958)「木曽開田村方言の音韻」『国語学』34

がもとになったものと思われます。
馬瀬(1958)では、[wo]は/'o/と解釈していますが。

で、この論文には

開田村と隣る新開村・三岳村はじめ、木曾谷一般には、語頭以外の場所で[wo]の発音が残っている。


とかかれています。
というわけで、木曽のあたりでは助詞「を」だけじゃなく、語頭以外に[wo]がでてきていたようです。開田村にいたっては、語頭にまで[wo]がでてきます。

で、この開田村で「お」が全体的に[wo]となるのは、キリシタン文献で確認できる中世末の京都語と共通であることが指摘されています。(『長野県史 方言編』p.415)

というわけで、助詞「を」だけじゃない。ということが確認できました。
また、長野県全域で助詞「を」が[wo]と発音されるわけではないということもかいてあります。
長野市市街地・飯山市富倉両方言では助詞「を」は[wo]にならないようです。(『長野県史 方言編』p.39)

さて。さらに面白い報告がつづきます。

小川村桐山方言には、/'wo/〈ウォ〉/'we/〈ウェ〉/'Wi/〈ウィ〉があるそうです。


話者の一人、松沢一夫史は「男」「女」を次のように発音する。

[wotoko]〈ウォトコ〉(男) [wonna]〈ウォンナ〉(女)

また、「親」「奥」を次のように発音する。
[oja]〈オヤ〉(親) [oku]〈オク〉奥
つまり、[wo]〈ウォ〉と[o]〈オ〉は幾つかの面で音韻的に対立している。(略)


さらに、松沢氏は[we]〈ウェ〉絵 [e]〈エ〉柄と発音しわけています。井戸や猪などについて[wido]〈ウィド〉[winosisi]〈ウィノシシ〉と[wi]の発音がでてきます。


上の小川村霧山方言の[wo]と[o],[we]と[e],[wi]と[i]の使い分けは歴史的仮名遣の「を」と「お」,「ゑ」と「え」,「ゐ」と「い」の区別と次のように綺麗に一致する。
(略)
「をとこ」(男)「をんな」(女)/「おや」(親)「おく」(奥)
「ゑ」(絵)/「え」(柄)
「ゐど」(井戸)「ゐのしし」(猪),「ゐる」(居る)/「いけ」(池)
 最初,松沢一夫氏のこれらの音声を聞いて,古典語の世界が小川村桐山に遺されていたのかと早合点した。だが,少し詳しく調べることにより,これらの[wo]〈ウォ〉[we]〈ウェ〉[Wi]〈ウィ〉は,古い歴史的仮名遣いの音声を現代方言に伝えているものではないことがわかった。それは学校教育の成果といえるものであった。松沢氏によれば,小学校の先生はそのように発音し,そのように教育し,生徒はそのように覚えたのだという。
(『長野県史 方言編』p.38)


また、助詞「を」についても、

話者の中には助詞「を」について、「〈お〉と書かずに,〈を〉と書くのだから[wo]〈ウォ〉と発音するのだ」と言ったり,また,「[wo]が標準語的な発音だ」と意識している者も多い。
(『長野県史 方言編』p.40)

という注がついていました。

学校教育が地方語に介入してることが、ここからかんがえられます。

現在の長野の若い人のなかには、
「助詞の「を」を[wo]と発音するのが方言だ」
と考えるひとがいます。
そのいっぽう、
「「[wo]が標準語的な発音だ」と意識している者も多い。」という報告があります。

ここから考えるストーリー。

長野のあたりには、語頭以外で[wo]がでることが多かった。
また、その影響もあって、歴史的仮名遣いを使っていた時代には、学校教育によって歴史的仮名遣い的に[wo][o]を発音するように矯正された人もいた。
しかし、若い人のあいだではだんだん[wo]がきえていった。
ただし、現代仮名遣いで「を」とかく助詞の「を」だけは、学校教育によって[wo]の発音が残存した。
「助詞の「を」を[wo]と発音するのが長野の方言だ」と解釈されるようになった。←いまここ

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2011年03月10日

筆跡学は迷惑だ。

前回の記事で、
「筆跡学はニセ科学だからいけないんだ!」

みたいな書き方をしてきもちわるいな。
それって、ようするに「科学様の権威の前にひれふしなさい、愚か者よ」っていう言い方にみえる。
あ、今回の私の記事に限りです。
他の方のやってることについては、それぞれその人の背景には事情があるわけで。
それとは関係なく。

国語教育と筆跡と心のありかたについて考えるとき、
「筆跡学はニセ科学だから筆跡と心を結びつけちゃいけない」
みたいないいかたは、あまりよくない。

なぜなら、そりゃ、ニセ科学でもかまわないでしょ。
「「文字」を美しく書くだけでなく、自らの内面を筆に乗せて表現しようとする」
「字は、その人にとって、顔なのだ。」
なんていう発言を平気でできてしまうような人にとって、それが科学的かどうかなんか、どうでもいいことでしょう。

「そりゃ、実証はできないかもしれないけど、そういうのってぜったいある」
「今の科学ではわかっていないこともいっぱいある」
「何でもかんでも科学のものさしではかればいいってものじゃない」

みたいな話になるよね。きっと。

「字の形から人の性格や心のありようをよむことができるとは、いまの段階ではものすごく言いにくい」
という見解をふまえつつも、中心としてとらえなければいけないのは、

「筆跡学はニセ科学だから国語教師はこどもの筆跡から心を憶測するのはやめてほしい」

ではなく、

「ひじょうに迷惑だから国語教師はこどもの筆跡から心を憶測するのはやめてほしい」

だよな。

で、その迷惑の根拠のひとつとして、

字を見れば心がわかるというのは悪質なヨタ話だから。

という情報はあってもいいでしょう。くわえて、

「美しい字」とやらを書くためには「左手で書かないこと」など、身体の都合に大きく左右される。というか、それは個人の身体に責任があるわけではなく、手書きの文字に意味不明に重苦しい価値観をおく教育の構造の欠陥でしかないわけで。にもかかわらず、そういう都合をぜんぶ無視して、あたかもすべてが「心の問題」や「努力の問題」であるかのように言われる。
そして、「美しい字」とされるものにどれだけ適合しているかしていないか、という視覚的な情報は他人を評価するときにバイアスとしておおきく影響する。
字面から人の心を憶測しようとするのは、害ばかりでえきがない。

そういう面をしっかりいわなければいけない。

本当は、ニセ科学は科学だけではなく、社会にも深く関わるものだ。
それはもう、すでに指摘されていることであって。
だから、「筆跡学はニセ科学だからダメなんだ」でも、本当は、いいはずなんだけどね。
あまり文系の人にそういう意識がないよな。
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2011年03月09日

国語教育と筆跡学とニセ科学

今日は国語教育と筆跡学のかかわりについて書きます。

『教育科学国語教育』732号


漢字の基本指導―漢字練習の試み
という特集がありました。

河隅道子(2011)「漢字の基本指導―書写 一年生書写教材「びわの実」を通して」

生徒は基本の点画を守りながら「きれいな字」を書こうとする。それは「文字」を美しく書くだけでなく、自らの内面を筆に乗せて表現しようとする姿でもある。投げやりに書けば投げやりな自分が。精魂込めれば端正に。できあがった作品には、一生懸命なそれぞれの姿が表現されており、自らの心の有りようこそがそこに残されている。(p.46)


山田高広(2011)「漢字嫌い」をなくす指導原理

私は初任の頃から、次のように思ってきた。

字は、その人にとって、顔なのだ。

生徒はよく、書写などをさせると、「字が下手だから」という言い方をする。
私はにこっとしてこう言う。

上手、下手ってあんまり関係ないよ。
丁寧に書くか書かないかの方が大事だな。
丁寧に書いた字は、必ず相手にあなたのよさが伝わる。(p.93)


こういう、国語の先生のものいいが、
字面の形と人間の内面を結びつける思想が、
ニセ科学である筆跡学・筆跡診断と無関係に成立できるものでしょうか。

私は、国語教育の現場のことはわかりません。
「専門家でもないお前になにがわかる!」
ということはできます。

「おまえがこどものときにであった筆跡学よりの教師は、たまたまおかしい教師に出会っただけだ。
おまえの個人的な体験を根拠に国語教師のすべてが、筆跡学に傾向しているとおもわれるのは心外だ!」
という批判は、それはまとを外してはいません。
ただし、本当にそれは、「とある思想的に偏った国語教師個人の問題」に帰してしまってよいのでしょうか。
私は国語教育の現場のことはわかりません。
でもわからないなりに、判断できることはあります。

たとえばなしをします。
たとえば、「教育科学理科教育」という雑誌があったとします。で、「水にありがとうというと美しい結晶ができます」という論文が2本のっていたとしたら、それは、理科教育が危ない。って思います。

たくさんの理科教師のなかでただの一人も、「水にありがとう」を信じてしまった人がいたり、信じていないけど道徳に都合いいからと教室の中で垂れ流してしまうひとがいない、ということは難しいでしょう。
どうしたってハマる人はハマる。
それを「理科教育全体の問題」ととらえてしまえば、それは問題でしょう。

しかし、それと「教育科学理科教育」という雑誌に「水にありがとう」論文が2本のることとは、ちがう。それは「個人的におかしい教師のしわざ」ではすまされないわけで。
その雑誌をつくるにはたくさんの人の手がかかっている。その雑誌はたくさんの人に読まれる。
あきらかに理科教育からみておかしなことを真顔でいう論文が、どうどうと「教育科学理科教育」という雑誌にのってしまって、なんの批判もよせられないのであれば。
それは一人二人の特殊な人のせいにすることはできないでしょう。理科教育全体の問題です。もう一度書きますが、これはたとえ話です。事実に基づいた発言ではありません。

では、事実に基づいた発言にもどります。
すくなくとも、『教育科学国語教育』という雑誌で「自らの内面を筆に乗せて表現」とか「丁寧に書いた字は、必ず相手にあなたのよさが伝わる」とかあやしさ満開な記事をのせてしまい、それにたいして反論記事や訂正記事が一切だされない。
この2本の論文を掲載したのは『教育科学国語教育』という雑誌です。
しかも、「国語教育ビックリトンデモ教案大特集w」とかそういう特集なわけじゃないんですよ?
「ああ、いいこといってるなあ」みたいなかんじで読まれることを期待されている論文です。

これをもって、「国語教育は筆跡と人間の内面を結びつける発言に寛容である。」と判断します。

また、その字面と人間の中身を強引に結びつけることをためらわない考え方に、筆跡学や筆跡診断を助長するおそれを指摘します。

筆跡診断がいかなるものであるかについては、おもしろいものをみつけました。

日本筆跡診断士協会のサイトより以下のページを紹介します。

筆跡診断とは?―日本筆跡診断士協会

引用します。

筆跡特徴とは
(略)

海外での状況

西洋では長い研究の歴史があり、特にフランス・ドイツ・スイス・アメリカで盛んである。フランスでは19世紀末以来、筆跡診断士(グラフォログと称する)は国家資格に準ずる資格となって、医師・弁護士・会計士等と同等の権威を持っている。

(参考外部リンク)
http://en.wikipedia.org/wiki/Graphology
http://www.graphology.ws/grapholinks01.htm


で、ここのひとつめのリンク(英語版ウィキペディア)をクリックしてみてください。

Graphology-Wikipedia, The free encyclopedia

この記事ですが、一行目にこんなことが書いてあります。


Graphology is the pseudoscientific study and analysis of handwriting especially in relation to human psychology.

「筆跡学・筆跡診断はニセ科学(pseudoscience)だ」って書いてあるページに、リンク貼ってる日本筆跡診断士協会は、あるいみものすごく良心的ではありますね……

posted by なかのまき at 21:36| Comment(0) | TrackBack(0) | ニセ科学;筆跡学

2011年03月03日

夢物語としてのかさこじぞう

伊藤龍平(いとう・りょうへい)2009「昔話唱歌・唱歌劇と植民地下台湾の国語教育」『國學院雑誌』110−11 pp.421-433

この論文がおもしろいので、どこを引用しようかまよったので、とりあえず一箇所だけ引用します。

例えば、近代以降もっとも有名となった「桃太郎」(大成名は「桃の子太郎」)の場合を考えてみよう。近世期の絵巻や草双紙の「桃太郎」は、川上から流れてきた不思議な桃を食べて若返った爺と婆が男の子を産むという所謂「回春型」の筋が一般的であった。それが近代になって教材説話化された際に、おそらくセックスの問題を回避するためだと思わるが、桃から直接、男の子が産まれる「果生型」の筋が採択され、それ以前に一般的だった「回春型」の「桃太郎」は駆逐されていった。同時に桃太郎の行き先も鬼ヶ島に限定され、在地伝承に散見される「山行き型」や「地獄行き型」などのタイプも顧みられなくなっていった。かつて野村純一が指摘した、犬・猿・雉の従者たちが登場せず、何もしないで寝てばかりいる「寝太郎型」の桃太郎や、便所の屋根から落ちる慌て者の桃太郎もまた然り。「桃太郎」といえば、桃から生まれた男の子が、お爺さん・お婆さんに育てられて成長し、やがてキビ団子を携えて、犬・猿・雉とともに鬼ヶ島へ鬼退治にいくものとの共通観念が全国的に定着したのである。
 事態は学会においても変わらず、研究者たちの多くも「統合」への夢を胸にフィールドを歩いていた。(略)
こうして、どこにもないが誰でも知っている「昔話」が大量に生まれた。唱歌や唱歌遊戯、唱歌劇の「桃太郎」は、いずれもカノン化の果てに生成したものである。(p.430)


わたし、この部分をよんでびっくりしたんですが、そうでもないですか?
私は回春型のももたろうとか、寝太郎型のももたろうとか、全然しらなかったー。
というわけで、

みんなが、「ももたろう」のストーリーをどうとらえているのか。
「ももたろう」の「ふつーのはなし」をしりたくて、wikipediaをひいてみました。
そしたら、この記事の「概要」が、いいのねー。
たぶん、民俗学にくわしい人がかいてる。


桃太郎の物語は、いくつかの場面で出典により違いがある。ただし、物語後半にある鬼との戦いの場面では、概ねどの書籍でも桃太郎側の視点での勧善懲悪物語となっている。

桃太郎の出生に関しては、桃から生まれたとする場合や、桃を食べた老夫婦が若返って子供を産んだとする場合がある。

桃太郎の成長過程については、お爺さんとお婆さんの期待通り働き者に育ったとする場合や、三年寝太郎のように力持ちで大きな体に育つが怠け者で寝てばかりいるとする場合がある。

成長した桃太郎は、鬼ヶ島の鬼が人々を苦しめていることを理由に鬼退治に旅立つが、その決意を自発的に行う場合と、村人や殿などに言われて消極的に行う場合とがある。

出征時には両親から黍団子を餞別に貰う。道中、遭遇するイヌ、サル、キジにその黍団子を分け与えて家来にする。

鬼ヶ島での鬼との戦いで勝利をおさめ、鬼が方々から奪っていった財宝を持って帰り、最終的に郷里のお爺さん・お婆さんの元に帰って幸せに暮らしたとして物語は締めくくられる。
桃太郎-wikipedia)


さて、というわけで、なにも学術論文をよまなくてもその気になれば昔話の多様性はネット上できがるに知ることができる時代になりました。

それをふまえて。
かさこじぞうのあつかいについて、いろいろ国語教育の論文をよんでみたのですが。

いろいろわかったことがあります。


まず、民話「笠地蔵」は教科書に採択されるにあたって、岩崎京子氏の再話によるものを採用した。
また、それによって、岩崎京子版「かさこじぞう」がカノン化した。

教室のなかでの「かさこじぞう」のあつかいについては、多くの実践研究論文では、貧乏ななかでも賢く、冷静で、前向きにおたがいにきづかいあったじいさまとばあさまの心の交流を中心にとらえているようです。
じいさんの地蔵信仰と、コメやモチをもってくる場面は、庶民の夢物語・ファンタジーとしてわりとさらりとながすのが主流な気がしました。
まあ。「かさこじぞうの」の国語教育におけるあつかいが、ふつうは

「正しい行いをするものは救われる」

じゃないということがわかって、安心しましたよ。

あとなんか、ネット読んでいて目について、一次資料にあたってウラとってないんだけど。
1980年代に教科書の「かさこじぞう」って自民党に「貧乏くさい話」と批判されたの?
このへんはちょっと時間あるときに調べます。

なんか、学習指導要領の変更で神話の導入って、どうするの。
って話をかこうかな、とおもってたんですが、
しらべはじめると、昔話もすごいむずかしいねえ。

道徳教育と縁をきったらもうすこし、楽になりそうではあるけど。
posted by なかのまき at 23:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2011年02月24日

自己犠牲と諦念の「かさこじぞう」

今日もかさこじぞうのはなしをしよう。

「伝承文学」という学問のジャンルがあります。
民俗学ともいうのかな。
各地の民話や伝説などを採取して、研究しているものです。

で、各地から採取してみると、あたりまえだけど、いろいろなバリエーションがあるわけです。
ひとくちに「かさこじぞう」といっても、じいさんの行いやばあさんの性格にさまざまな変種があって、それを整理してとても面白くまとめた論文がありましたので紹介します。

中村一基(なかむら・かずもと)1988「民話「笠地蔵」の〔構成要素〕〔変容過程〕考―岩手の伝承を中心に」『岩手大学教育学部附属教育工学センター教育工学研究』10 pp.55-62

この論文がすごいおもしろい。

まず、「笠地蔵」について、中村氏は


民話「笠地蔵」は、民話教材「かさこ地蔵」(岩崎京子再話)として現在使用されているすべての小学校二年国語教科書に入っている。(p.55)


と指摘しています。昔話はいろいろあれど、なぜ「かさこじぞう」
いや、他の物語があまりにも、教室のなかで教えられるにはふさわしくないのでしょうねえ。

桃太郎や一寸法師は血なまぐさいし。カチカチ山は婆汁なんてでてきちゃうし。さるかに合戦も殺伐としすぎています。
こんななかで、「かさこじぞう」は悪い人もでてこないし、血なまぐさい展開にもならない、ふわふわ昔話です。
そんなところがうけて、多くの教科書で採択されたわけですね。

そういうわけで、中村氏は「かさこじぞう」を国語教育的に重要な民話として、とりあげ、分析しています。
それではみていきましょう。

「笠地蔵」は、貧乏なおじいさんおばあさんがいて、大晦日に年越しのモチを買うために、おじいさんが町になにかを売りに行って、じぞうに何かをかぶせて恩返しになにかをもらう。
と、このおおまかなあらすじは共通しているようです。

とにかく大切なのは、このおじいさんおばあさんは、とても貧しい。ということです。

で、おじいさんは大晦日をむかえるためのお金の工面のために、なにかを売りに行きます。
国語教科書だと、おじいさんが自分で作ったかさ、ですね。
が、じつは、各地の民話にはこんなバリエーションがあります。

・おじいさんとおばあさんがつくったかさ
・おじいさんが山でとった柴
・おばあさんがためておいた糸臍コ
・おばあさんがおった布
・おばあさんが大切にしていた鏡

鏡はせつないわー。

で、おじいさんが地蔵にかさをかぶせるタイミング
教科書では、売れ残ったかさをおじぞうさんにかぶせてあげます。
が、じつはこんなバリエーションがあります。

(1)おじいさんがかさを売りに行く途中で、寒そうな地蔵にかさをかぶせてかえってくる。(かさをうってない)
(2)町で(ばあさんがつくった)布を売って、その金でかさを買って地蔵にかぶせた。
(3)町で(ばあさんのたいせつな)鏡を売って、その金でかさを買って地蔵にかぶせた
(4)売れなかったかさを地蔵にかぶせた
(5)売れなかった布を地蔵にかぶせた
(6)糸臍コが売れない。かさ売りとしりあって交換

……えー。ものによって
だいぶ印象がかわりますねー。
(4)が教科書パターン
だが。

(1)とか(2)とか(3)とかじいさんなにやってるの。
地蔵に親切にしてるよゆうがあったらばあさんにモチを買ってやれよ!
(2)と(3)はひどいだろう。とくに(3)!

そして、かさを地蔵にかぶせてきた、と報告したときのばあさんの反応も、バリエーションが。
まず、ばあさん怒らないタイプがあって、そのほかに、じつは、おばあさんが怒る話もある。

・濡れた石地蔵にかさをかぶせる。そのことをきいたばあさん怒る

・旅人が来訪して、宿を乞う。ばあさんは拒否する。けど結局とめる。朝、旅人が地蔵と化して鼻からコメをだしていた。

・じいさんが雨・雪に濡れた石地蔵にかさをかぶせる。一体だけかぶせるかさがなく、背負って家に連れてくる。それを見てばあさんは怒る。


地蔵を背負って帰ってくるじいさん……行動的だね。
さて。昔話には「よいじいさんとわるいばあさんの夫婦」というのがでてきます。
有名なのは、したきりスズメですね。
よくばりばあさんがおおきいつづらをもってかえってひどいめにあうやつです。

では、おじぞうさんにかさをかぶせたことをおこったかさこじぞうのばあさんは、
したきりスズメのよくばりばあさん並のわるいばあさんなのでしょうか。

中村氏はこう分析します。

婆の怒りは〔欲心〕からでなく、〔現世利益を願う心〕からである。両者は同一ではない。貧しい民衆の感情という視点からは、米や餅を買ってせめて人並みの正月を迎えたいという現世利益を願う婆の方が、わざわざ笠を買って地蔵に被せる爺よりも自然である。(略)そして、この自然さに拮抗できるのは、爺の異常なほどの善良さ、或いは強い〔地蔵信仰〕心のみであろう。則ち、渡したものが売れなかった時の爺の行為に対して、婆が持った感情は信仰心ではなく、多くの場合〔諦念〕であったという事を忘れてはならない。(p.58)



婆の怒りは欲心からではない。爺が自分たちの生活に余りに無頓着である事に対する怒りである。
このような婆との軋轢を抱え込んだ爺の自己犠牲によって、「笠地蔵」の地蔵信仰への変容は完成する。
 この〔変容過程〕考で明らかになったと思われるが、教材「笠地蔵」は民話「笠地蔵」が最終的に入っていった爺の地蔵信仰と婆の生活者意識との亀裂の問題を避けている。爺の行為を地蔵信仰の共有によって肯定するのではなく、婆は諦念によって肯定していたのである。(略)人並みとは言わないまでもせめてささやかな正月の準備が出来ればという願いを籠めての切り札としての布(鏡)であった以上、それが可能となるのを態々否定した爺の行為は許されないのは当然であろう。(p.61)


地蔵にかさをかぶせたじいさんに対して怒るパターンのばあさんの怒りは、貧乏な二人の生活をかんがえると自然なものである。
また、おこらないで「それはよいことをした」というばあさんだって、それは爺さんに共感しているわけじゃない。じいさんの「異常なほどの善良さ、或いは強い〔地蔵信仰〕心」にたいする諦念がいわせているのだ。
という指摘です。

さて。ここまでみてきたところで。
かさこじぞうにいろいろなバリエーションがありつつ、共通しているのは、
爺の強烈な地蔵信仰です。

つまり、かさこじぞうのテーマは、地蔵信仰。
「自分を犠牲にしてまでいちずに神様をしんじるものは救われる」
です。

けっして
左近妙子(佐賀県唐津市呼子小学校)(2010)「日本語で考え、伝える基礎を楽しく」『教育科学国語教育(明治図書出版)』734号 pp.39-42
にあるような、

「正しい行いをする者は救われる」

ではありません。
というか、地蔵信仰を「正しい行い」とするならそれは、特定の宗教へ誘導する宗教教育です。
これを「正しい」という国語教師はそのへんの自覚はあるんですか。

あと、この論文からわかるのは、
ひとつの民話が教科書にのることで、
都合の悪い他のバリエーションがぜんぶ、どこかへおいやられてしまうことのおそろしさです。
私はこの論文をよむまで、まさに、教科書的かさこじぞうしかしりませんでした。
ばあさんが怒ったり、じいさんがばあさんの鏡を売った金で笠をかったりするタイプの民話は、全部わすれられてしまうのです。

そして残るのは、教育的に都合のいいバリエーションだけ。

じいさんはばあさんの鏡を売った金でかさをかわない。
ばあさんはおこらない。
悪人がでてこない。
貧乏を我慢して、ふまんをもたずに自己犠牲をはらってまでいちずに石人形を信じればそのうちどこからか、モチとコメをめぐんでくれるよ。

という。
なんかちょっと、よくかんがえるといちばんおそろしいストーリーだけがのこった。
posted by なかのまき at 20:17| Comment(2) | TrackBack(0) | 国語教育

2011年02月23日

知恵と真実と救いの「かさこじぞう」

平成23年度から学習指導要領がかわります。

で国語はいろいろかわりますが、
「伝統的な言語文化に関する事項」
ってのができます。

それにかんする特集が、いまけっこう国語教育の雑誌でばんばんやられていておもしろいので紹介します。
けっこうおおきいのが、小学校1・2年生で「昔話や神話・伝承などの本や文章の読み聞かせを聞いたり、発表しあったりすること」っていう文句がはいります。

現行の指導要領でこれと対応するのが
「言語事項」の「昔話や童話などの読み聞かせを聞くこと」

ってところですね。
「童話」ってのがきえて、「神話」と「伝承」っていうのが増えてます。

それはそうとして。
いまも、昔話については小学校低学年の教材としてあつかわれているようです。
どのようにあつかわれているか、国語教育の実践研究論文から、みてみましょう。

左近妙子(2010)「日本語で考え、伝える基礎を楽しく」『教育科学国語教育(明治図書出版)』734号 pp.39-42

「かさこじぞう」についての実践研究です。


三 二年生の音読の実践例―「かさこじぞう」

「伝統的な言語文化に関する事項」の低学年には、昔話や神話・伝承などの文章の読み聞かせを聞き、古典に親しむことが明記されている。(p.42)


うん。これ、新指導要領みたときも疑問だったのですが「昔話や神話・伝承」と「古典」になんの関係が?
なんで昔話の読み聞かせが古典に親しむことにつながるの? ぜんぜん関係なくない?
そのへんのリクツがよくわかんないです。いや、ほんきでわからないんですけど。
まあいいや。

で、びっくりした記述があったので以下に引用します。

民話を読むためのポイントを知ろう
(1)物語のテーマを知る。
民話は、人生の真実や知恵がテーマとなっている。「正しい行いをする者は救われる」という「かさこじぞう」のテーマを、子どもに分かりやすく伝える。(p.42)


えっ?
「かさこじぞう」のテーマが「正しい行いをする者は救われる」?
おもわず「かさこじぞう」のあらすじを調べてみました。

そしたら

wikipediaにつきあたりました。

笠地蔵―wikipedia

あらすじ引用します。

ある雪深い地方に、ひどく貧しい老夫婦が住んでいた。年の瀬がせまっても、新年を迎えるためのモチすら買うことのできない状況だった。 そこでおじいさんは、自家製の笠を売りに町へ出かけるが、笠はひとつも売れなかった。吹雪いてくる気配がしてきたため、おじいさんは笠を売ることをあきらめ帰路につく。吹雪の中、おじいさんは7体の地蔵を見かけると、売れ残りの笠を地蔵に差し上げることにした。しかし、手持ちの笠は自らが使用しているものを含めても1つ足りない。そこでおじいさんは、最後の地蔵には手持ちの手ぬぐいを被せ、何も持たずに帰宅した。おじいさんからわけを聞いたおばあさんは、「それはよいことをした」と言い、モチが手に入らなかったことを責めなかった。

その夜、老夫婦が寝ていると、家の外で何か重たい物が落ちたような音がする、そこで外の様子を伺うと、モチをはじめとする様々な食料、財宝がつまれていた。老夫婦は手ぬぐいをかぶった地蔵を先頭に7体の地蔵が去っていく様を目撃する。この贈り物のおかげで、老夫婦は無事に年を越したという。(笠地蔵―wikipedia



ああ、うん。
私の知ってる「かさこじぞう」と同じストーリーです。

で。

石でできた人形にかさをかぶせることが「正しい行い」って。
まったく意味わかんない。
えっ?
なにがどんなふうに「正しい」の?

石の人形にかさをかぶせたらお礼にコメとモチをもらいました、って、
どうにもばかばかしいストーリーじゃないですか。

いえ、おじいさんの行いがバカバカしい、と主張しているわけではありません。
ただ、石にかさをかぶせるという意味のわからない行為を「正しい」と、一方的な解釈をおしつけられたらたまったもんじゃないよ。
っていいたいだけです。

しかも「正しい行いをする者は救われる」の救いかたが、家の外に「モチをはじめとする様々な食料、財宝がつまれていた」という、なんか他人任せというか主体性のない救われ方でいいのかい。

左近氏は「民話は、人生の真実や知恵がテーマとなっている」とかいてありますが、売れ残ったかさを石にかぶせるじいさんのどこに知恵があって、かさのお礼にと、地蔵という石が、家の外に大量のモチや財宝をおいていくというストーリーのどこに真実を感じるんですか?

いや、ちょっと「かさこじぞう」にたいしていいがかりにちかい文句をつけてしまいましたが、「かさこじぞう」のストーリーは、私はきらいではないです。
かさがうれのこって正月のモチがかえなかったおじいさんが、「ぜんぜん売れなかったよ」っていっておばあさんをがっかりさせるより「お地蔵さんにかさをあげたってことにしよう!」っていうあそびごころは、とてもこのましいとおもいます。
で、やるからには、ほんとにちゃんとお地蔵さんの雪をはらってあげて、かさをかぶせてあげる、その徹底したあそび方もいいとおもいます。
で、そのおじいさんのあそびごころにのってあげるおばあさんもすてきですね。
「よし、売れなかった分は明日またうりにいこう! と、おじいさんは毎日努力をつづけました。めでたしめでたし」
っていう根性論より、ずっといいし、面白い。

というわけで、
かさこじぞうのストーリー自体はきらいではありません。

ただ、それを国語という教科のなかで「正しい行いをしたから救われた」「真実と知恵」みたいなちょっとむりめの解釈を一方的におしつけると、いろいろムリがでてくるでしょう。

なんで石にかさをかぶせるのが「正しい行い」なの?
なんで石がモチをめぐんでくれる展開が「真実」で「救い」なの?
ただたんに、「おはなしとしておもしろい」ではだめなんですか?
なぜ昔話に「ただしさ」とか「真実」とか「知恵」とか「救い」が必要なんですか?

この疑問にこたえてくれる論文を紹介します。


伊藤龍平(いとう・りょうへい)2009「昔話唱歌・唱歌劇と植民地下台湾の国語教育」『國學院雑誌』110−11 pp.421-433


この論文、すごいおもしろいです。
長くなるので、詳しい紹介はまた後日記事にします。
ぜひ、入手できましたらよんでみてください。

posted by なかのまき at 20:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 国語教育