2011年01月28日

筆跡診断のあぶなさ

ある人とゼブラの筆跡診断の話をしていたら、
「ああ、ゼブラはその筋では有名だよね」
っておしえてもらいました。


遠赤外線で血行をよくする
書くだけで疲れを癒すボールペン


ああ……うん。

詳しくはこちらで検証されております。
紹介します。

遠赤外線筆記用具のウソ」(市民のための環境学ガイド)


さて。
というわけで。
ついでなので以前も紹介しましたが、ゼブラの筆跡診断のページについて。

しまうまくんの筆跡診断テスト

これ、ただの遊びかとおもったのですが、改めてみると結構問題が多いので、とりあげます。

この筆跡診断テストは、


性格診断」と「相性診断」があります。
どっちも非常に問題です。





これ、

(1)字の縦線と横線のつなぎ目が閉じてるか開いているかどっちつかずか
(2)かまえの下部がひろいかせまいか
(3)カドがかどばっているかまるいか
(4)玉部の横線が均等かふぞろいか

という部分の組み合わせで性格がきまるルールです。
ルールなんだから「なんで?」とか考えても仕方ないね。

で、結果がでる。以下のようなの。
(以下、画像はすべて「しまうま君の筆跡診断」から一部引用しました。

result_a2101.gif

あなたは気分こそが人生の司令官タイプです。

判断力が弱いので、何かというとルールに頼りがち。
もしくは理屈ではなく勘で一発勝負を賭ける危なっかしいところもあります。
感情に左右されるタイプで、安定しているときは優しさが表出します。
ただし不安定だと自分でもコントロール不能に…。


result_a1010.gif

あなたは根っからの自由人!
ボヘミアンタイプです

あなたの性格はズバリ、ラテン系。
ユーモアいっぱい、自由を愛するボヘミアンな性格です。
気取らず大らかで、他人の言うことなどどこ吹く風。
手先が器用なのでものづくりにも向いています。
アイディアが豊富なのでお金儲けも得意でしょう。




注 筆跡診断は統計に基づく心理学です。書く人の気分や状況で文字も変わってくるので、通常書いている文字に近いものを選択して、性格を知る参考にしてください。




で、これが罪のないどうでもいい遊びならまあ、放置ですが。

司令官タイプとボヘミアンタイプを比べると、あきらかに司令官タイプがあしざまにかかれている気がするんだけど。


なにやら字の形の「いい・わるい」の価値判断をしているようです。
また字の形から、人格の「いい・わるい」まで決めつけています。


実際にいじってみるとわかりますが。

まず、これが「いい字」

result_onepoint1010.gif

すごくバランスの取れた良い筆跡だよ!
特に大切なのは、末広がりのどっしりとした「かまえ」。
ここがしっかり安定していると、どんな大変な時も立て直しがきくんだ。
文字は気分によって変わるから、ときどき自分の文字をチェックしてみてね。



・つなぎ目が開く
・かまえの下部が広い
・カドが丸い
・玉の横線が等間隔

を選ぶとこの結果です。


で、「わるい字」はこんなこといわれる、

result_onepoint0101.gif


まずは「かまえ」の下部を外側に広げて安定した土台をつくってみよう。
つまづきがちな人生が安定してくるはずだよ。
接筆を離してオープンマインドな性格に変身できればなおよし!
これであなたの才能も100%引き出されるはず。


・つなぎ目が閉じる
・かまえの下部が狭い
・カドが角ばってる
・玉部の横線がふぞろい

だとこういう結果になります。
「つまづきがちな人生」て。ひどくないか?
字の形でこんなこといわれちゃうなんて。

ちなみにこんなのもあります。

result_onepoint2111.gif

成功運の筆跡に近づけるには、まず「かまえ」の2本の足を安定させること。
人生にも安定感が出てきて、将来に希望が持てるようになるよ。
接筆をつけるか開けるかどっちかにきめることも大事。
決断力がついて人生が前に進んでいくはず!



筆跡診断は統計に基づく心理学です。
ってかいてあるなら「成功運」とかどうしてかけるんだろう。
心理学が成功運の研究なんかしてるわけないでしょうが。

もっともらしく書きたいのだろうけど。
いくらなんでもわきがあますぎる。
こんなんで人をほいほいのせられるとおもっているのだろうか。
それとも、本気なの?
ほんきで、「成功運に近づける」ための「統計に基づく心理学」と思ってるの?

んー。
なんか。
筆跡診断については、

「よい字・わるい字」とそれにもとづく「よい人格・わるい人格」みたいな
へんな価値判断をしないで、無害に楽しめるものだったらね。
あたりさわりのないことしかかいてなければね。

もうすこし批判するのも難しいと思うけど。
これはあきらかに有害。

相性診断はさらにひどい。
根拠なく字の形から人間関係のよしあしをきめつけないでほしい。
これ、自分一人でたのしむだけじゃなくて、他者を巻き込むからひどい。
これをもとに人事採用とかやられたらたまったもんじゃないですよ。


筆跡診断ってこれでいいんですか?
やるにしたって、もうちょっと無害なものにはできないんですか?

まあ、私にとっては、ここまではっきりとうさんくさいとかえってありがたいくらいですが。
「あ、字で人柄を判断できるかも、なんてちょっと変だなあ」
っておもってくれる人もいるかもしれないので。

posted by なかのまき at 21:28| Comment(0) | TrackBack(0) | ニセ科学;筆跡学

2011年01月25日

こくごのとくしつ(かえるのへそ)

『月刊国語教育研究』2011年1月号で
「国語の特質をどう教えるか」という特集をやっていたので紹介します。

石塚秀雄「国語の特質をめぐって」 pp.2-3

というのが、私の考えていたことを示してくれていたので引用します。


大体、「国語の特質」という言葉を学習指導要領に使用するに当たって、作成委員会の中でどれほどの討議が行われたのか、少々疑問にすら感じられる。(略)
 私たちは通常、「国語の特質」と言われれば、「日本語だけが保持している特別な性質、特殊な性質」と考える。これは日本語以外の言語を視野に入れなければ把握することは難しい事柄である。事実、次々に刊行された学習指導要領解説(文部科学省)においても明確な説明はない。
 小学校においては、各学年とも「言葉の働きや特徴に関する事項」の解説で「考えたことを表現するのが言葉の働きである」とし「言葉は時間の経過によって変化する」ことを学ばせようとしているが、これは日本語独特の性質というわけではあるまい。言語一般に通用する事実である。(略)
 こうしてみると、「国語の特質」と言っても、少なくとも小・中学校における学習は、現代日本語の把握と理解を求めるものであることがわかる。旧来の「言語事項」とそれほどの差異はないのである。


うん。私もこの分析は妥当だとおもいます。
差異はないというか、むしろ、なにいってんだかよくわかんない「国語の特質」なんていう名前は改悪でしょう。
「国語の特質」なんて「かえるのへそ」とおなじくらいなんのことをいってるのか意味わからないことばです。

これについては以前、

「かえるのへそについて学びましょう。ないけど」

という記事をかきました。

同じ雑誌で、
「日本語の特質」っていう特集と「国語の特質」っていう特集をやってるんですね。

ところで、紹介した石塚氏の冷静な論が乗っている、その雑誌の巻頭言がすごい。

川本信幹「正しい日本語を守るために」

日本語の衰微・劣化が叫ばれて久しい。学校教育が正しい日本語を守る……(略)
近年は、大学で「国語学概論」や「国語科教育法」を勉強しないまま教壇に立ち、国語の授業を担当している方が少なくない。ぜひ、「国語学概論」くらいは自分で勉強して「国語の特質」のなんたるかを理解しておいていただきたい。


「国語学概論」よんでも「国語の特質」のなんたるかは理解できないとおもいます。
「カエル学概論」よんでも「カエルのへそ」のなんたるかは理解できないのとおなじで。



あともうひとつ。
「日本語の特質」関連のおもしろを紹介します。
おもしろいのでぜひリンクからたどってよんでみてみてください。

「ことばと文化のミニ講座-明星大学人文学部 日本文化学科」vol.16「日本語の特質について」(和田正美・教授)
日本語には男言葉と女言葉の違いがある。これは日本語が高度に発達したことの証しであり、決して封建性の表れなどではありません。


学生が教員にまるで友達のように話しかけるのを聞いた時、私はその学生を軽蔑する以上に、その教員を軽蔑しました。


また女はよほど特殊な状況を除いて、男言葉を使ってはいけません。男女の間に何の差もないという歪んだ教育思想とは縁を切って下さい。


などというおもしろ発言もみのがせませんが、

「卒業論文→卒論」のような社会的に承認された語以外の省略語は言わないこと。


えーと。「卒論」ってそこまで社会的に承認された省略語だったっけ?
社会って大学のうちがわのことなのか。
ということもきになりつつ。


外来語はそれ以外に適当な言い方がない場合にだけ使用すること(フラワーは良くない)。


「フラワーは良くない。」
なぜいきなりフラワー。
posted by なかのまき at 00:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 国語教育

2011年01月11日

ひだりききを「きょうせい」しないことに理由はいらない(はずかしいくらいにあたりまえ)

あたりまえのことですが、カンチガイしてる人がいるので確認します。

利き手矯正の是非について。

まず、利き手で字をかくことに理由はいりません。
たとえば、ひだりききの人が「左手で字が書きにくいなら右手でかけないの?」
という質問(というか恐喝)をうけたときは「え、なんで?」でいいんです。
なぜなら、質問の内容が意味不明だからです。
なにも前提がなければ、「利き手じゃない方で字をかけ」といわれる意味がわからないわけで。
まあ、「字は右手で書くようにつくられてるんだから」というあちらの言い分も想像できますが、それをやさしく察してあげる必要はありませんし、それはこちらの責任ではありません。
むしろ、他人に、「利き手じゃない方で字をかけ」という人間が、他人の生き方にわけのわからん口出しをしてくる人間のがわが、

「なぜおまえは利き手じゃない方の手で字をかかなければならないのか」

ということについて、きちんと説明する責任があります。

前回紹介した、

小林比出代(こばやし・ひでよ)2005「左利き者の望ましい硬筆筆記具の持ち方に関する文献的考察―書写教育の見地から」『書写書道宇教育研究』20 pp.30-40

は、そこをはきちがえているんです。

「左手利きを矯正してはいけない理由」が資料をもとに述べられているのですが、そもそも、「左手利きが利き手で字をかく理由」はいらないわけなんです。
それをかんがえると、「左手利きを矯正してはいけない理由」は、さらに意味不明の設問です。

きほんてきに、「利き手の矯正の是非」とは、

「左手利きを矯正していい理由はあるかどうか」

という一点だけです。
左手利きを矯正していい理由がきちんと説明できないかぎり、それ以上の議論は不要で、「非」です。

「左手利きを矯正してはいけない」を証明する必要はまったくありません。


きびしく問われるべきは、「矯正をする理由」です。
そこをはきちがえている。

もし、ひだりてききのこどもを矯正をするべきかどうか、迷っているひとがいたとしたら、
いちばん基本的なことを、思い出して下さい。


ひだりてききもみぎてききも、利き手で字をかくことに理由はいりません。

他人の利き手を変更しなければならないと考えるのであれば、他人を納得させるための理由を説明する責任があります。

もし、矯正をすることを選択するのであれば、
その理由をきちんとかんがえて、自分も相手も納得できるように、いつでも説明できるようにしてから、ふみきりましょう。
posted by なかのまき at 22:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 左手で字をかくこと

2011年01月05日

書写・書道の先生にのぞむこと

なんどか紹介した

小林比出代(こばやし・ひでよ)2005「左利き者の望ましい硬筆筆記具の持ち方に関する文献的考察―書写教育の見地から」『書写書道宇教育研究』20 pp.30-40

についてとりあげます。

まずね、この論文、タイトルと中身がちょっとずれてるんですね。

かなりのスペースを、左利き・左手書字者の右手矯正の是非について生物学・心理学的にお勉強した結果のまとめに使ってて、そこまで「左利き者の望ましい筆記具の持ち方」にかんして、スペースを割いてないんです。
しかも、「左利き者の望ましい筆記具の持ち方」についてなにいってるかというと、箱崎総一の『左利き書道教本』の紹介してるだけなんですよね。
私はあんまり『左利き書道教本』すきじゃない。
こんなめんどうくさい無意味なことやるくらいなら毛筆書道やる必要なくない?
と、つねづねおもってしまうわけで。

この論文のキモは、『左利き書道教本』のおしらせ、ではなく、
先行論文をひいて、左利きに右手矯正をさせることははたしていいことなの?
という問いにあるとおもいます。
「左利き者の右手書字矯正の是非をめぐって―生物学・心理学的観点から」
みたいなタイトルなら、よかったかな。

で、論文の大詰めとなるのが、以下。
小林氏は、利き手について、生物学と心理学からアプローチします。


V 左利き及び左利き者の書字に関する文献学的考察―生物学・心理学の分野から
9 左手書字から右手書字への「矯正」の是非
(略)
 生物学及び心理学の見地から考察した場合、右利きが多数派ゆえに、右利きの方が社会生活において便利との理由だけで安易に利き手を変更させることには強い危惧の念を抱く。(略)利き手及びその変更に関する問題は脳のプログラムと直接かつ密接に関わる点を理解した上で、本質的な課題について熟慮し、利き手に関する問題において本当に変えなければならないものは何なのかを理解する必要がある。少数派とされる左利きの在り方を理解し、日常生活の諸場面で様々な方策を講ずることが望ましい。(p.35)



ここの記述のなにを問題かと考えるかというと、


今現在、実際にひだりききでありながら、右手書字をして生活をしている人への想像力の欠如です。

小林氏が、

馬場一雄(1996)「左利き」『小児内科』28-10 p.1447
「(既に発生した左利きに対し)現在では、左利きは遺伝や左半球の障害のような生物学的な要因に基づくことがほぼ明らかになっているから、無理に右利きに変えることは有害無益であると考えるものが多い」

八田武志(1996)『左ききの神経心理学』(医歯薬出版株式会社)
「ある人が左ききであるということは右脳が優れた手指運動機能を持ち細かい運動コントロールを巧みにできることが遺伝的にプログラムされていることになる。このような遺伝的なプログラムがあるのに、わざわざ反対の左脳に手指運動コントロールを委ねようとするのは(中略)仮にうまく右手での書字や道具の使用が可能になっても、左手であればはるかに優れた機能を持てたかもしれないということになろう」

などといった論を引用し、利き手変更が「生物学的」によくないことなのではないかという可能性を述べています。
「うまれつき優れている方の手じゃない方に矯正したら、脳に悪い影響がでないか」
という懸念です。

ここが、私はきもちわるいんです。
まず、そこまで言えるほど左手利きのしくみは解明されてないでしょう。
で、いま、右手書字をしてるひだりききなんかいっぱいいるわけですよ?
あと、「小さい頃に矯正されて右利きになった」って人も、私の同世代にも、まだまだいます。
じゃあ、そういう人たちは矯正をうけたことで脳になんか悪い影響が出てる人たちなの?
というのと、うまれつき右利きで、病気や事故かなんかで、右手でペンをもてなくなって、左手をつかって生活してる人たちがいます。そういう人たちは脳になんか悪い影響がでるの?

そこまで、生物学的に決定的なものなの? 利き手って。
生涯まもりとおさなければ生物学的に支障がでるほどに?
そこまでいえるほど、利き手の研究はすすんでいますか?
また、もし仮にそういえたとしたって、病気などで利き手が使えなくなった人の利き手変更をさえぎらなければいけないほどの支障がでるんですか?

「うまれつきだから矯正しちゃだめ」
という説に私が抵抗をかんじるのは、今現在、矯正をうけて生活の全部であれ一部であれ、右手をつかってやっている人への想像力が、あまりにも欠如しているからです。
また、余儀なく利き手変更をしなければいけなかった人への想像力も。


だいたい、そもそも「利き手」ってなに?
ちっちゃいころに親に矯正されて「私はみぎきき」っておもってる元左ききとか。
左ききと自認しているけど、字は右手でかく人とか。
かぎりなく両手利きにちかい人とか。

私は自分でも「ひだりきき」っておもってるし、わりとなんでも左手でやってしまうほうですが、
パソコンのマウスは右手持ちです。
あと、なんか財布から金を出すときは右手で出します。

あと一番大きいのは、楽器の弓を右手で持ちます。
楽器の弓は、ふつう利き手で持つもの。
でも、私は非利き手でもってます。子どもの頃にうむをいわさずそうやれと言われたので仕方ないですね。
だからといって、
八田氏のいうように「左手であればはるかに優れた機能を持てたかもしれない」かと考えると、わかんないですね。
べつに利き手で弓もってる人たちに劣ってるとは考えませんし。
慣れもおおきいじゃない?

あとは、しりあいに左手利きで、右手書字者の書家がいます。
この人もべつに、非利き手を商売道具にしているからといって、利き手で字をかいてるひとに引け目を感じているようにもみえません。

というか、今現在、右利きの人がやってるように、ぜんぶのことを利き手でやることって、左ききの人には難しいんですよ。かならず、右利き同様に右手を使わなければいけない場面はあります。
それなのに、いきなり「利き手じゃないほうを使うと脳に影響が」なんていらないおどしをかけないでほしいんです。

私は、今の段階では極力いいたくないのですが、ひだりてききの人が右手書字をしたい場合、その権利も保障されなければいけない、と、おもいます。書道やるならかならず必要です。この権利。
もちろん、ひだりてききの人が左手書字をする権利もまったく同等に保障するという前提があって、ですが。

それを、「脳に影響が出るから」とおどしをかけてはいけませんよ。
右ききだろうが左ききだろうが、右手で字をかいても、左手で字をかいてもいいんです。
今の段階では、ちょっと、ぜんぜんこういうこといいたくないけど。

なので、生物学的根拠をいくらならべて「左ききはうまれつきだから矯正しちゃだめ」とくりかえしても、しょうがないでしょう。

けっきょく、みぎききかひだりききか、という個人の属性は関係ないんです。
小林氏も述べていますが、大切なのは、社会をかえること。

利き手に関する問題において本当に変えなければならないものは何なのかを理解する必要がある。少数派とされる左利きの在り方を理解し、日常生活の諸場面で様々な方策を講ずることが望ましい。


この小林氏の意見に賛同します。

日常生活の諸場面で左手書字者がこうむるさまざまな不利益をなくしていきましょう。とくに左手書字者のこどもにとってすごいめいわくな、義務教育における毛筆必修を廃止し、手書き文字偏重をみなおしてください。
左手書字者に手で字をかくことを強制せず、パソコンによる書字を手書きとおなじように保障してください。
どうしても左手書字者にてがきの字をかかせたいなら、現行の文字の字体をぜんぶ、右手でも左手でも問題なくかけるものに改造してください。

書写の先生がやらなければいけないことって、「脳に影響がでるかもだから、矯正だめ」って左ききと左ききの子の親をおどしつけることではなく、そういうことでしょう。
そういう議論を、のぞみます。
生物学・心理学については、もう少し専門家の研究成果が蓄積されるのを待ちましょう。いまの段階ではなんとも。


えーと。あと、かんけいないけど。

小林氏がかなり主要な先行文献としてあげて、なんども引用している

坂野登1998『しぐさでわかるあなたの「利き脳」自分でも知らなかった脳の”性格”と”クセ”』(日本実業出版社)

という本ですが、だいじょうぶですか?
いや私はこの分野にはぜんぜんくわしくないのですが、
タイトルがなんともかんとも。
posted by なかのまき at 22:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 書道教育

2010年12月26日

かどやひでのり・あべやすし著『識字の社会言語学』(生活書院・2010)

かどやひでのり・あべやすし著『識字の社会言語学』(生活書院・2010)
とどきましたので紹介します。

目次を転載します。

はじめに(かどやひでのり)
第1章 日本の識字運動再考(かどやひでのり)
第2章 均質な文字社会という神話──識字率から読書権へ(あべやすし)
第3章 てがき文字へのまなざし──文字とからだの多様性をめぐって(あべやすし)
第4章 識字率の神話──「日本人の読み書き能力調査」(1948)の再検証(角知行)
第5章 近世後期における読み書き能力の効用──手習塾分析を通して(鈴木理恵)
第6章 識字は個人の責任か?──識字運動でかたられてきたこと、かたられてこなかったこと(ふくむら しょうへい)  
第8章 識字のユニバーサルデザイン(あべ・やすし)
第9章 識字の社会言語学をよむ──あとがきにかえて(あべ やすし)


ほら。目次みてるだけでこれは読まないと。っておもいますね。
このブログととくに大きくかかわるのは、第3章です。


第3章 てがき文字へのまなざし──文字とからだの多様性をめぐって(あべやすし)
        1 はじめに
        2 「文字はひとをあらわす」という社会的通念 
        3 ひだりききへのまなざし 
        4 てさきが不器用なひとへのまなざし 
        5 文字をかくということ/よむということ  
        6 文字の規範をといなおす
        7 おわりに



章だてをみるとわかるように、左手書字についてふれられています。
あと、筆跡診断について。
筆跡診断というか、「書はひとなり」について。


ここで重要なのは、筆跡研究の科学的妥当性よりも、筆跡で性格をしりたい、あるいは、筆跡から性格を診断したいという欲望そのものの問題性ではないだろうか。さらにいえば、筆跡によって人事の決定が左右されるような、てがき文字の社会的位置こそが問題なのではないだろうか。(p.122)


この問いかけにはとても意味があります。
学校の書写・書道の先生が「筆跡から性格の診断をしたい」という欲望をむきだしにしているさまは、このブログで何回かとりあげています。これはとても問題だと私はおもっています。
紙に書かれた字の形から、他人の心の中に侵入したいという欲望はほんとうにグロテスクだ。
そしてそれが「よくあること」と受け入れられている社会もグロテスクだ。

あとは、
「てがき文字へのまなざし──文字とからだの多様性をめぐって」というタイトルのなかに、左手書字の問題を位置づけてくれたのは、私はとてもうれしいです。
私も左手書字の論文をかきながら、「左手利きの人ってカワイソー」っていう文脈じゃなくて、もっとおおきい研究のながれの一つになってほしいな。
ってずっとおもっていたんです。
学校(社会)という場のなかで、どんなふうに、都合の悪い少数者は黙殺されてきたのか、抑圧されてきたのか、その具体例の1つとして使って欲しいな。と、そういう研究のなかで引用してほしいな、ゆくゆくは。とおもっていたので。こんなにはやく願いがかなってしまいました。
これはうれしい。

で、注文としては、左手書字については、ひだりききはひだりききでいいんだけど、左手書字をしているのはひだりてききだけではなく、怪我や病気で右手でペンをもてなくなった右手ききのひともいて、そういう人もものすごく苦労しているみたいで、そういう論文も何本かあるので、それについても触れてあればもっとよかったかな。
とおもいます。というか、これは私が自分の論文でかかなければいけなかったことだー。
1月の改稿のときに……。

っていうのと、関連して「みぎきき」「ひだりきき」ってそんなにきっぱりわけられるものなのかな。区別する必要はあるのかな。
これはちょっと、本の内容から離れちゃうのですが、つねづねおもってるんですが。
「利き手」「私は右利き」「私は左利き」っていう個人の属性にゲタをあずけないで、「右手でも左手でもいつでもどっちでも問題なくつかえる道具と、道具を用意する社会がほしい」っていわないとな。
と。私は考えています。
右利きのひとでも、大きな大切な荷物を右手でかかえているとき、切符を左手でもって自動改札口をくぐるのはおっくう。とか、そういう声は聞くので。
あと、自動改札口は、右手で杖ついてるひとが本当に不便そうです。これはすぐにどうにかしろ。けが人が出るよ。
そう考えると、「みぎききかひだりききか」という個人の属性はわりと、どうでもよくなるんじゃないかな。結果的に。

そんなわけで。
このブログをよんでもらってる人には、おすすめしたいです。
『識字の社会言語学』
書道・書写のせんせえ、読んで欲しいな。ほんとうに。
posted by なかのまき at 23:00| Comment(4) | TrackBack(1) | 日記

2010年12月13日

「うまれつき」のうさんくささ

「うまれつきかうまれつきでないか」ってそれを考察するのはお前の仕事じゃないよ

という記事をかいたのだけど、
うまれつきかうまれつきでないか、
という問いには私はすごくこだわっている。

というか、
「うまれつきかうまれつきでないか」というどうでもいいことをこだわる人にこだわらないではいられない。


ひだりてききのうまれつきうまれつきでないを、なんか科学的に解明するという、研究があって、それそのものはいいんだけど、それになんか意味をもたせちゃだめだよね。

「左利きは右脳人間だから芸術に向いてる」
とか
「左利きは生まれつき天才が多い」
とか
「左利きは性ホルモンの関係で発生するから同性愛者が多い」
とかね。

八田武志(はった・たけし)1996『左ききの神経心理学』(医歯薬出版株式会社)

第3章 きき手誕生のメカニズム

より
なんで左利きが発生するかの説を紹介します。



1.遺伝説
2.脳損傷説
本来なら右ききになるはずが、左脳にごくわずかの損傷があるために右脳にその役割を肩代わりさせ、それによって左手の使用が多くなる(略)すなわち、未熟児出産や難産による仮死状態での出産などにより、脳に損傷が生じたために左利きになる(略)そして、臨床心理学の対象となる知恵遅れ、吃音、学習障害、自閉症などの子どもに左ききが多い(p.54)
3.脳梁発達説
左ききが生まれる原因に脳梁における交連線維の軸索の欠落が考えられることを裏付ける資料として、未熟児のきき手についての調査報告があげられる。(略)未熟児の中で右ききでない子どもに、IQが低いことと言葉の発達が遅いことも見いだされた。(p.62)
4.脳内ホルモン説
左ききが男性ホルモンの異常な分泌によるという考え方は、左ききに自己免疫不全や免疫疾患などが多くなることを示唆している。自己免疫に関係するものには、潰瘍性大腸炎、小児脂肪便症、糖尿病、甲状腺障害、リウマチなどがある。左ききにこのような病気が多くみられるかどうかを多くの研究者が検討している。(p.67)
(略)ホモセクシャルが男性ホルモンが十分でないことから生じるという考え方からは、ホモセクシャルの中に左ききの多いことが予測できることになる。この予測の妥当性をいくつかの研究が検討している。(p.73)


……うーん。まあ、わかりました。八田氏にとっては、
左手ききは正常な右手ききからまちがって発生した異形ってことなんですね。

ひどいな。
いえ。ちょっと、感情的にはひどい、としかいいようがないですが。
まあ。
こういう研究があってもいけないわけではないですね。
そして、そういう結論がででも、かまいません。
男性ホルモンがくるったおかげで私が左手ききになったとか、
そういう結論がでてもかまいません。

いまのところ出てませんが

まあ。
もし将来、左手ききの発生はホルモンのせいということになったとしたって。
いいですよ。「うまれつき」だとわかったとしても。いいですよ。

で、それと、

左手ききを矯正していいかいけないかはまったく関係ありませんからね。

なにかというと、
「左手きき矯正はよくない」
の根拠に「うまれつきだから」をもってきてはいけません。

これについては、

伊野真一(いの・しんいち)2005「脱アイデンティティの政治」『脱アイデンティティ』(上野千鶴子編・勁草書房)pp.43-76

より

2.アイデンティティの生物学的基礎論―性的指向をめぐって

これまでのアイデンティティの政治において、同性愛者がどのように定義されているのか、何が前提とされているのかを検討してみよう。(略)
 原告でアカーの裁判闘争(引用注:「府中青年の家」裁判)本部長であった風間孝は、(略)「同性愛者は人口の10%といわれる。同性を好きになるか、異性を好きになるかという性的指向は、人種や性別と同じように個人の意思で選択できないこと」と語っている。(毎日新聞1994年3月29日)(略)
さらに風間は、性的指向に「本人の意思では選択や転換ができない」という意味を与える他に、「指向」「志向」という言葉を使うことが同性愛を私的領域の問題とみなすことにつながるのだとする。今日では、orientationの訳語として「指向」を選択するという問題から離れて、「嗜好」「志向」と記述されること自体が誤りであるという主張が様々な書き手の著作に散見されるようになっている。しかし本来的には、「嗜好」「指向」であったとしても差別されていいわけでもない。


これは同性愛者の例なのですが、私は伊野氏に強く賛同します。
うまれつきだろうとうまれつきでなかろうと、差別しちゃだめなんですよ。

あまりいろいろなことを一緒にかんがえてはいけないのですが、左手きき矯正にも、伊野氏のいうことはあてはまると私はかんがえます。

小林比出代(2005)「左利き者の望ましい硬筆筆記具の持ち方に関する文献的考察」『書写書道教育研究』20 pp.30-40



 3.9 左手書字から右手書字への「矯正」の是非

という章があるのですが、
ここには「左手ききの矯正は脳やなんかに悪い影響を与えるからしちゃいけません」
みたいなことがかいてあるんですが、おかしいでしょ。

もし脳に悪い影響がなければ矯正していいの?

そうじゃなくて、左利きのききて矯正がいけないのは、
マジョリティがマイノリティをおしつぶすことがいけないから、いけないんでしょ。
そこに「うまれつきうまれつきでない」という生物学的な判断は一切不要なんです。

左利き矯正は、マイノリティをマジョリティへ同化させる差別です。
つまり、「矯正の是非」とは「差別の是非」でしかないわけです。
「矯正していいかしていけないか」という問いは要するに「差別していいかいけないか」
という問いです。
その設問になんの意味があるの?

そして、その答えが「生まれつきだから矯正しちゃだめ」って。
うまれつきじゃなければ矯正していいの?
うまれつきじゃなかったら差別していいの?

もちろん、「左手ききはうまれつきだから矯正しちゃダメ」が説得力があった、戦略として生物学的根拠を採用した、その経緯はしっておかなければいけないし、それを根拠に行った過去の運動に意味がなかったとか、間違ってたとかいう判断をくだしたいわけではないです。

ただ、これからはそれを根拠として使い続けることは、むしろ危険だとおもう。
「うまれつきだから」という、生物学的根拠におすがりしちゃ、だめでしょう。
生物学という科学様をまつりあげられて、お守りがわりにつかっちゃだめです。

posted by なかのまき at 19:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2010年12月08日

壮大なつじつまあわせ

『こんにちわ』撲滅委員会

というサイトがある。
とてもくだらないことがかいてあるサイトなのだけど、ちょっと思ったことがあってとりあげます。

あいさつの「こんにちわ」という表記を撲滅しようという恐ろしい会です。
なに、撲滅って。

で、ちゃんと批判がありますのでこちらも紹介します。

「こんにちわ撲滅委員会」撲滅委員会

「こんにちわ」について考える三鷹のどうでもいいお話


だいたい、上の2つのサイトで批判されていることにつきるのですが、いちおう私からも。

『こんにちわ』撲滅委員会のサイトでは、「こんにちわ」を撲滅すべき根拠は以下でのべられています。

こんにち○を検証する

文法的なアプローチ

日本で一番普及している辞書「広辞苑」にはこうある

こんにち‐は【今日は】
(「今日は…」と言う挨拶語の下略) 昼間の訪問または対面の時に言う挨拶語。

「こんにちは」は「今日は、よいお天気ですね」の後半部が省略された形だとされ、「今日は」は「今日(名詞)」+「は(助詞)」であるため「は」表記が正しいと言える。そもそも助詞には「わ」はないからである。「今日はどちらへ?」という挨拶も元々は疑問文であるが、相手の答えを要求しない挨拶文である。「へ」を「え」と発音するからといって「今日はどちらえ?」にはかなりの違和感を覚える。

これには反論もあろう。挨拶語は感動詞とも考えられるからだ。例えば「はじめまして」は感動詞である。これを応用すると、「こんにちわ」も感動詞であり、一語だと考えて「こんにちわ」表記が正しいとする説もある。しかし仮に感動詞だとしても、「今日は(以下略)」という成り立ちを尊重するならば、「こんにちは」(感動詞)とするべきである。以上の基礎国語文法は、小学校段階の国語で習っているはずである。


本文の強調などは引用にあたって削除しました。
えーと、「こんにちわ」を撲滅しなければいけない根拠として、文法をあげています。

えっと。
現代語の「こんにちわ」もしくわ「こんにちは」の「わ/は」を助詞の「は」だとおもってる日本語学者は一人もいないとおもいますが。
もし、これを「基礎国語文法は、小学校段階の国語で習ってい」たりしたら、そりゃ大変なことでしょう。
「習っているはずである」わけがない。
文法的アプローチになってない。

「こんにちは」は「今日+助詞のは」だから「こんにちは」というのは、
これは、どっちかというと語源を問題にする「歴史的アプローチ」なんですね。
表記の正当性をいうのに、歴史的アプローチそのものは現実にある。
ただ、文法的アプローチと歴史的アプローチを混同してはまずい。

というのが一つ。
あと。
もっと根本的に。

文法的正しさは表記的正しさを保証しない。

これは、じつは「こんにちは」が「正しい表記」となっていることが実例だ。
「こんにちは」の「は」は助詞の「は」ではない。
しかし、現代仮名遣いでは「こんにちは」の表記は「こんにちは」が正しい。
文法の正しさと表記の正しさはそれぞれ独立している。

文法の正しさは、表記の正しさを保証しない。
そして、表記の正しさは、文法の正しさを保証しない。


ちなみに、「現代仮名遣い」では「こんにちは」の「は」を助詞の「は」としてとりあつかっている。

現代仮名遣い 第2 表記の慣習による特例


しかし、これは「現代仮名遣い」の記述がへん。というだけのはなし。へんというより、もともと助詞の「は」を「は」と書くのは「表記の慣習」という意味あいがつよいわけで。慣習を文法の正しさより優先させている。これが表記の「正しさ」です。

というわけで、文法は、この場合は関係ありません。「こんにちは」の「は」を「は」とかくのは、これは完全に表記の問題。そこをとりちがえてはいけません。

というわけで、根拠のへんなところを指摘したうえで、
このページ、じつは点字の表記についても触れていて、そこがとても興味深い。
同じく
こんにち○を検証する
から、

タイプミス?

「こんにちわ」と書く人は、たまたまキーボードを打ち間違えただけなのだろうか? この答えはノーである。

キーボードで「わ」とローマ字で打つ場合は「w+a」と打ち、「は」と打つ場合は「h+a」と打つ。wとhは位置が離れている上に、正しいタッチタイピングで打つ場合は「h」は右手で「w」は左手で打つためたまたま間違えたということは起こり得ない。私もよく「以外に(「意外に」の間違い)この本は面白かった」などとやってしまうことがあるが、この手の誤字とは根本的に違うのである。

ちなみに私の使っているATOKの辞書では「こんにちわ」と打って変換すると「紺に痴話」と出てくる。ATOKで基本の挨拶が間違って変換されるなど考えられないため、このことからも「こんにちは」が正しいと言える。

【注】読者のAlumiさんから教えて頂いたのだが、「点字」の表記では、「て に を は」の「は」は、「わ」と表記するのだそうだ。つまり点字では、「私は」は「わたしわ」となるため、「こんにちは」は「こんにちわ」となるのだとか。当サイトでは、点字の表記を間違っているとするものではなく、別の表記の仕方だと考えてる。ちなみにAlumiさんは、メールやネット上の表記では「こんにちは」を使っていらっしゃるそうだ。勉強になる。(『こんにちわ』撲滅委員会会長)


ちょっといらないところまで引用したのは、「タイプミス?」という項にわざわざ点字の話をもってきている悪意をかんじとってもらいたかったから。

重要なところだけ。抜き出します。


「点字」の表記では、「て に を は」の「は」は、「わ」と表記するのだそうだ。つまり点字では、「私は」は「わたしわ」となるため、「こんにちは」は「こんにちわ」となるのだとか。当サイトでは、点字の表記を間違っているとするものではなく、別の表記の仕方だと考えてる。ちなみにAlumiさんは、メールやネット上の表記では「こんにちは」を使っていらっしゃるそうだ。勉強になる。(『こんにちわ』撲滅委員会会長)


点字では墨字の助詞の「は」を「わ」に相当する字でかく。
これはいい。

「点字の表記を間違っているとするものではなく、別の表記の仕方だと考えてる。」

ここも、べつにわざわざかく必要もないほど当たり前のことだ。
墨字で「こんにちは」が正しいとされるのは、墨字の表記の仕方であり、
点字で「こんにちわ」とかくのは点字の表記の仕方である。

べつにどちらの表記がより正しいとかより間違っているなどということはない。
日本語で文章をかくとき、
墨字ではあいさつの「こんにちは」は「こんにちは」と表記する。
点字では「こんにちわ」と表記する。

さて。これを確認して。
このページの「はじめに」のところにもどろう。こう書いてある。


はじめに

言葉は変わる。いずれ「こんにちわ」が「こんにちは」よりも優勢になり、常識になる時代も来るかもしれない。しかしそんな中、あえて「こんにちは」を死守したいと考える団体が、今あってもいいのではないか。

「正しい日本語」とまで話を広げるつもりはない。当団体は「『こんにちわ』撲滅委員会」で「正しい日本語推奨委員会」ではないからだ。このサイトは「2000年代初頭」の「日本語の挨拶『こんにちは』」にこだわるという趣旨のサイトだということをまず言っておきたい。

例えば英語では Hello 、スペイン語では Holaと書く。もし日本人が、「『ハロー』と発音するから Hallo でいいじゃない」、「『オラ』だからそのまま Ola と書いても間違いじゃない」「そんなのどうだっていい」「言葉は変わるんだから」……などと言ったら、その言語を母語とする外国人は「でもそれは間違っている」と返す人が大半だろう。

母語なのに Hallo、 Ola と書いている英語圏人、スペイン語圏人をあなたはどう思うのか? 日本人なのに挨拶の言葉一つまともに書けない人をどう思うのか? また外国人に指摘されたときにどう弁明するのか?

 子供に国際化だ、英語教育だという前に、まずは自分の国の言葉で挨拶ができる人間を育てるべきなのではないだろうか。




「「日本語の挨拶『こんにちは』」にこだわるという趣旨のサイト」「日本人なのに挨拶の言葉一つまともに書けない人をどう思うのか?」という文句が目に付く。

点字は日本語ではないのか。点字で「こんにちわ」と表記する人は「日本人なのに挨拶の言葉一つまともに書けない人」なのか。



「「日本語の挨拶『こんにちは』」にこだわるという趣旨のサイト」「日本人なのに挨拶の言葉一つまともに書けない人をどう思うのか?」




点字の表記を間違っているとするものではなく、別の表記の仕方だと考えてる。


たった1ページのほんのちょっとした間にここまでの矛盾をかかえて平然としていられるのは、ここに、『こんにちわ』撲滅委員会会長という人が頭の中で壮大なつじつまあわせをおこなったと考えないと説明できないわけなのだけど。


なんか、私は、「文法的アプローチうんぬん」のところも、「あー、へんなこといってるな。どうしょうもないなー」とは思うのですが、おおもとの「現代仮名遣い」がわけわかんないこと書いてあるからしかたがないかな、とも思います。

だけど、この壮大なつじつまあわせの部分は、非常に気になるんです。こわい。
だって。ここは専門知識なくても判断できるところでしょう。点字では「こんにちわ」とかくということをふまえつつも、だけど日本語の正しい表記は「こんにちは」である、と書いて平然としていられるわけで。点字は日本語じゃないの?おかしくない?って、それは判断できるでしょう。

この、壮大なつじつまあわせのことが、最近、私は本当に気になります。

専門知識の有無のもんだいじゃなくて、それいぜんのところでつじつまあわせが破綻しているのに当人にその意識がない。

ただ、はたからみれば「どうしてこんなわけのわかんないところで破綻してるんだ」っておもえるのに、当人は平気で破綻していられる、この状態ってべつにめずらしいことでもなんでもなく、わりとちょくちょく見かけるわけで。

たとえば、前にこのブログでもとりあげたことあります。

「それは、よくあるダブルスタンダードですね」

っていう記事。これは川口義一・横溝紳一郎(2005)『成長する教師のための日本語ガイドブック』第3章 日本語の授業の実際(4技能の指導:理論と実践) pp.190-181
にある「書き順は大切。ぜったいに守らないとダメ。だけど左手書字者のことは放置」っていう壮大なつじつまあわせについて述べたものです。


これは、個人サイトでもなく、出版社を通した本なわけで、いろんな人のチェックをくぐりぬけているわけで、こうなってくると

「ああ、これをかいた人が個人的に馬鹿だからだね」

とか、そういう問題でもないわけで。

リクツの矛盾自体もそうだけど、それをうまいことはぎあわせてしまう壮大なつじつまあわせという行為。
ここをものすごく、注目してかんがえなければいけないなあ。と。
と、さいきん考えてます。


壮大なつじつまあわせって、はやりことばでいうなら、認知的不協和の回避っていうやつ。

posted by なかのまき at 21:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2010年11月29日

すべてはあなたのために。ガイジンのために。りゅーがくせいのために。

こんにちは!
きょおも ふゆかいな ぶんけんお しょおかい するよー

独立行政法人日本学生支援機構という政策機関が発行した
どすぐろいガイドブック

『外国人留学生のための 就活ガイド 2012』

独立行政法人日本学生支援機構のサイトからダウンロードできるのでみてみてね。

「外国人留学生のための」とかかいてあるくせに本文にルビがいっさいふってない時点で、だれのためのガイドブックでもないことがよくわかります。

さて。そこの39ページに
「履歴書の書き方」
といいうのがあります。

しょっぱなから


履歴書は、正式な応募書類の一つ。指定がない限り手書きが基本です。読みやすい文字でていねいに記入しましょう。(p.39)


と正気をうたがうようなことがかいてあります。
また、

年は、日本の年号を記入するようにします。
数字は、算用数字で記入します。(p.39)


は?
これのどこが「外国人留学生の”ため”の 就活ガイド」?
どうかんがえたって、
「日本企業のための外国人留学生就活ガイド」じゃないですか。
日本語は正しくつかおうよ。

さて。これに輪をかけてひどいのが、

凡人社刊の『これで安心! 外国人留学生のための日本就職オールガイド』(2009)
1900円。たかっ。大学の就職課に置かれることを前提につくられた本なんだろうけど。
個人じゃかわないよね。

です。これ、ひとつだけ評価すると、ちゃんとルビがついてる。ほめるところじゃないけど。
あたりまえのこと。
学生支援機構のガイドブックがどうかしてるってだけだけど。


第9章 履歴書
履歴書の書き方・基本ポイント

履歴書は指定がない限り手書きが基本。文字を見て几帳面さや熱意を見る会社もある。
字は、上手ではなくてもマナーを守って丁寧に書こう。(p.102)


あーあ。
「文字を見て几帳面さや熱意を見る会社もある」なら、ほんきで「留学生のため」を思うなら
「字はなるべく乱暴に汚くかいて、筆跡診断を人事採用につかうようなあぶない会社からまちがって内定をもらわないようにしましょう」じゃないかな。
そして次がすごい。


第10章 会社説明会

聞いてイメージを悪くするマイナス質問

◎給料・残業代・賞与の金額や休みに関すること
給与や賞与は、調べれば分かるので、説明会の場で質問する必要はない。お金に関する質問はあまり印象がよくない。休みは権利だが、「入社する前から休むことを考えている?」と思われ、マイナスイメージだ。

◎残業はあるか
仕事は責任を持って臨むことが常識だ。納期・締め切りに間に合わなかった場合、残業をすることもあるだろう。残業にこだわると、仕事への責任感のなさが伝わってしまう。

◎母国へ帰国したい意志を伝える
「○年度に母国へ帰国したいのですが、御社の海外拠点へ出向させてくれますか?その際、条件は日本人と同様ですか」
自分の都合を一番に考えている学生を欲しいと企業は思わない。特に企業が留学生を採用する際の不安な点は「すぐに帰国してしまわないか」だ。あくまでも企業側の希望を一番に考える姿勢で臨むことが大切だ。

◎ホームページや会社案内、配付資料などに記入されていること
質問した内容が「○○を見ればかいてあるのに…」「さっき説明したのに…」と思うことだと印象が悪くなる。事前に企業のことをよく調べて頭に入れておこう。(p.120)


えーと。なにこれ。
これが本気で「留学生のための日本就職オールガイド」という本なの?
書名まちがってるよ。

「留学生を採用する日本企業と就職率をあげたい大学就職課責任者のための留学生奴隷化オールガイド」でしょう。
誤植がひどいですよ。

ただ、この本、出版されていいな、とおもうことがひとつだけあります。
ぜひ、この本は日本語学科がある大学や、その近隣の高校の図書館に、土地の言語等で翻訳したのをおくべきです。
ぜったいに、置くべきです。

それでね。将来を担うわかい大学生や高校生にね、「あ、日本語を専攻するのやめよう」って、正しい選択をしてもらうために。
とても意義のある一冊です。

日本に留学してからじゃ遅いんです!ぜひ大学、いや高校生のうちに!
posted by なかのまき at 22:15| Comment(4) | TrackBack(0) | 日記

2010年11月22日

照手姫とかぐや姫

はい。今日も国語教育です。

さいきん、きょくたんに変な国語教育の論文をたてつづけに紹介してしまったので、
ものすごーく、よくある、ふつーの、国語教育の論文を紹介しますね。

これは、よくよく選んだのではなく、そのへんにあった教育学部のある大学の雑誌を、適当に手にとったものです。
さて。

加藤寿志(よみふめい)(2010)「(随想)伝統的な言語文化をどう教えるか」『岐阜国語教育研究』8 pp.115-119

さっそく引用します。


二 国際的な「愛国心」を
「国を愛する」ということは、決して日本が世界の中でいちばんよい国だと思うことでなく、日本が世界の中でよい国だと思うこと。国粋的ではなく、いわゆる国際的な愛国心を育てることこそ、先の大戦による過ちを深く反省し、その教訓を生かすことであろう。


あああ……


(略)現在伝わっている物語の中で、最も古い「竹取物語」が、月という別世界に憧れ、広大な宇宙とのつながりを感じさせるものであると気づくことや、現存する最古の歌集「万葉集」には、天皇や貴族だけではなく、名もない兵士や農民など幅広い階層から集められていることを知ることだけでも、自然の中で暮らし、大らかで寛容な心をもっていた祖先のすばらしさに気づき、日本人がそれらを伝え続けてきたことに誇りを感じるのではないだろうか。しかも、月に向かって吠え、狼男になってしまうような凶暴な話ではなく、月のように美しく手の届かない存在である「かぐや姫」が登場する話に、日本の風土を感じる。


おもしろすぎてながながと引用してしまいました。
あー。適当に選んだんですが、この論文もちょっと……ふつうじゃなかった。

「先の大戦による過ちを深く反省」なんてかくなら、『万葉集』の政治性を自覚してなんかいったほうがいいとおもいますが。


品田悦一しなだ・よしかず(2001)『万葉集の発明―国民国家と文化装置としての古典』(新曜社)

これをよむべきでしょう。

「現存する最古の歌集「万葉集」には、天皇や貴族だけではなく、名もない兵士や農民など幅広い階層から集められていることを知ることだけでも、自然の中で暮らし、大らかで寛容な心をもっていた祖先のすばらしさに気づき」

こーゆーありがちなヨタ話について、こまかく検証されてます。


国民的な愛着を集めている『万葉集』は、まさに日本の「国民歌集」の名にふさわしい。しばしば”日本人の心のふるさと”とか”日本文化の偉大な遺産”などと形容されるのもそのためだが、しかし多少反省してみればわかるように、実は古代の貴族たちが編んだ歌集であって、奈良時代末期に成立して以来、一千年以上というもの、列島の住民の大部分とはまったく縁のない書物だったのである。平安時代の歌人・歌学者や、中世の学僧・連歌師、近世の国学者・民間歌人の活動にもかかわらず、一般には書名すら知られていないという状態が、まず明治の中頃までは続いていたと見なくてはならない。(p.13)


ということで。

さて。論文にもどります。
これも実践研究なんですが、竹取物語の「くらもちの皇子」の気持ちを理解しよう!
というとりくみです。

第一学年で学習する「竹取物語」には、「かぐや姫」に求婚する「くらもちの皇子」が、偽の「蓬莱の玉の枝」を持参し、架空の冒険譚を語る部分がある。そこで、三年もかけてそこまでする「くらもちの皇子」の「かぐや姫」との結婚に対する思いを考えることを通して、どうしても姫と結婚したいだけでなく、人を騙してさらに名誉を得ようという思いがあったことに気づかせ、昔の人も、現代の恋愛ドラマにもあるように、同じようにものごとを考え、暮らしていたことに気づかせる授業を行った。(p.117)


くらもちの皇子っていうひとは、かぐや姫の5人の求婚者のうちの一人で、「蓬莱の玉の枝」を取ってこいとかぐや姫に命令されて、取りに行かないでおうちで金銀玉をつかって職人につくらせた人。
で、「とってきました!」っていって反婚のかぐや姫ピンチ、ってところに枝をつくった職人が「給料はらってください」って言いにきたおかげでバレて、結婚できなくて職人にやつあたりするという人ですね。

「現代の恋愛ドラマにもあるように同じようにものごとを考え暮らしていた」
って、現代の恋愛ドラマに、蓬莱の玉の枝をとってこい、みたいなこんな超展開ありますかね。
それで、結論


その後、結局偽の玉の枝を作らせた策略が破れてしまうことから、嘘をつかずに生きることは大切だ。現代でも同じことがあって、今も昔も変わらない。」などの発言があり、学習後には、次のような感想があった。

 この話は、今から千年以上前に作られたので、人間の心は今も昔も変わっていないことがわかりました。物語を書いた人は「後のことを考え、うそはつかないようにして下さい」と言いたかったのだと思いました。(女子)
 皇子は、うそをついてまで姫と結婚したくて、最後にばれてしまいました。うそが必ずばれる体験が今も伝わっています。しかも、うそは人の信用をなくすので、今も昔も、うそをついてはいけないことは同じなのだと思います。(男子)


とまとめてありました。
「うそをつくのはやめましょう」
うん。なんて安心の道徳教育。
まあ、これがよくある国語教育の論文です。
私はみなれてるので、これくらいではおどろきませんが。
やっぱりちょっとすごいよなあ。いろいろ。

ところで、どうしてかぐや姫の心中まる無視で、男の登場人物視点なんですか。この授業。
どうしてくらもちの皇子なんていう、つまんないおっさんの心の中について、クラス全員で話しあわなければいけないんですか。
それよりはかぐや姫がなんで5人の求婚者に無理難題をふっかけたのか、とか。そういう話のほうがおもしろくないですかね。

とゆーわけで、論文をしょうかいします。

高橋圭子(たかはし・けいこ)2010「高校古文教科書を考える ジェンダーの視点を中心に」『世界をつなぐことば ことばとジェンダー/日本語教育/中国女文字』(遠藤織枝・小林美恵子・桜井隆編著)三元社

高校古文の教科書にでてくる教材のジェンダー分析です。

高橋氏は、

現行高校教科書の古文教材を分析し、教科書の編著者も教材の作者も登場人物も、すべて女性より男性のほうが多いこと、基本的には女性の作品は和歌および王朝文学であること、女性像の大半は「男の訪れを待つ」・「恋の歌を詠む」・「身分をわきまる」、といった要素で占められていることを確認した。


として、

だが、これだけが古文の世界の女性像ではない。もっと生き生きと活躍する女性像を生徒たちに提示してもよいのではないだろうか。
 ここでは、その候補のひとつとして、「小栗判官・照手姫」の伝承を提案する。(p.269)


とのべています。
うん。こういう研究は必要だとおもうし、なにより、いま、日本文学はジェンダー分析がとてもさかんにおこなわれています。古典作品のジェンダー論で卒論をかいて卒業する学生は、どの文学科にも毎年かならずいるはずだし、日本文学科の学生は国語の教員免許をとる人もわりといる。
そうかんがえると、高校でそういう授業がおこなわれても、すこしもおかしいはずはないです。

ただ。「小栗判官・照手姫」でいいのか?
照手姫なんか、めちゃくちゃ夫に尽くす妻じゃない。
高橋氏は「小栗判官照手姫」を提案する理由として


照手は所謂「王子様」の救いを待つ「お姫様」ではなく、自らの力で逆に小栗を救う。紙幅の都合上省略したが、青墓の主人が遊女にしようとするのを拒む場面、車を引くために主人に休暇を懇願する場面、道中変装をする場面などには、照手の知恵と才覚が漲っている。実に魅力的なヒロインである。(p.281)


としています。
もう、ずーっと夫に忠誠をちかって、貞操をまもってつくしつづける女ですよ。
こんな女、ただの男に都合のいいだけの存在じゃない。

あと、ちょっとこの文章、信じられないんだけど。
「青墓の主人が(照手姫を)遊女にしようとするのを拒む場面」これ、だいじょうぶですか?
この行為を「魅力的」といっていいの?
ただの職業差別じゃないの。大丈夫ですか?
教室のなかでセックスワーカーへの偏見や差別意識をうえつけるような授業が行われてしまいませんか?

で、
そういう意味でいうなら、
私は、照手姫よりかぐや姫が魅力的ですけどね。

かぐや姫こそ、反婚、反天皇、反権力(ちょっとはおもねる)をつらぬき通して、しかも結婚しろという翁をリクツで言い負かしたりしてる、すごい人だとおもいますけど。
法律婚して制度にぬくぬく守られながら「男女平等」なんて言葉をぬるっと口に出すような人の何百倍も、過激にフェミニストですけどね。かぐや姫。

まあ、べつにかぐや姫はフェミニズムの思想をもってたわけではなく、下界の人間との結婚がいやだっただけでしょうが。人間の女がサルの王に求婚されてもすこしも嬉しくないのといっしょでしょう。

竹取物語も源氏物語も、やりようによってはジェンダーの視点をもちこんだときに、おもしろい教材に十分になるとおもいます。
というか、源氏物語はかなりそういう分析されているでしょう。日本文学の世界で。

竹取物語もできます。
「うそをつくのはいけません」とか道徳やってるよりね。

天皇や権力の暴力性。
翁や5人の求婚者の身勝手さ。
空気のような媼の存在感のなさ。
そして天上人であるかぐや姫の地上の人間へのあなどりと軽蔑のまなざし。
そういうのをとおしてみていくことで、

現在の制度化した恋愛(だんじょこーさい)や、結婚のうさんくささ。
権力というものの残酷さ。
そういうものにひきよせて、あぶりだしていくことができるんじゃないでしょうか。
やりようによっては。
正直、照手姫よりいい素材だと思います。

……えーと、このネタは2週間くらいいじくりまわしたのでものすごくとりとめのない記事になってます。すみません。
posted by なかのまき at 21:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

はじめに私小説があった

今日はヨタばなしをします。

某所で、音楽と人格の結びつきみたいなはなしになったのですが。

あらすじを説明すると、
私は大学のとき、音楽系のサークルに半年だけ所属してたことがあるんですが。
ある日のミーティングで、
「トレーナーの先生に挨拶しないやつがいるが、音楽にたずさわるものが挨拶をできないとはけしからん」
みたいなことを4年生がいいはじめて、
「あ、ここいやだな。こんなこという人間を野放しにしておく組織にはいたくない」
っておもってやめたんです。

それで、書道だけじゃなく、音楽も人格にむすびつけられるときもある。ってことになって。
でもぎゃくに「芸術家は変人がおおい」みたいなのもあるよね。
って話になったのですが、それをふまえて。

そう、たまたま最近「来年から作文もやって」っていわれて、
参考文献になるかとおもって、
大塚英志(おおつか・えいじ)の『キャラクター小説の作り方』という本をよんだのですが。

私が読んだのは角川文庫版です。

そこの、「はじめに」で


人は何故、小説家になりたいのでしょうか。実はぼくにとって一番の疑問はそれです。(略)「小説家になる」ということは、どこかで「自分が自分であること」と不可分に結びついているような気がして、それがぼくには不思議です。(略)小説家というのは生まれつき小説家であるか、ある日、突然、天から小説家の人格が降りてきてとり憑くかでもしない限り人は小説家たり得ないことになります。けれどもこういう言い方を作家たちが好んでするのは「小説家」であることが本人たちの「私であること」と不可分に結びついているからのように思えます。だから小説家たちは小説を書くこと以上に自分のキャラクター作りに熱心です。「無頼派」とか「アウトロー」なんていうキャラクターの作家は昔から山ほどいますが、本人が言うほど破綻した生活を送っているわけでもありません。小説家になる運命云々も神宮球場の出来事(引用注:村上春樹のエピソード)も小説家であることが小説家自身にとっても「私」であることとやっかいにも結びついているからです。(pp.8-9)


とかいてあります。
「私」と小説そのもの、そして小説家であることが不可分な世界があると、大塚氏は指摘しています。
そして「私」の演出のために「無頼派」とか「アウトロー」をよそおう。

つまり、「その人の人格が作品に出る」というものの言い方は、初心者をまじめに練習させるときにもつかわれる。その場合は「まじめさ」「どりょく」「ねっしんさ」を演出せよと要求される。
そしてぎゃくに、すでに成功してしまった人間の、他を超越した才能をきわだたせるためにもつかわれる。そのばあいは、「無頼派」「アウトロー」がつかわれる。
どちらもおんなじなわけです。
作品と人格を結びつけるという点では。

作品や職業と「私」を不可分なものとしているその理由として、大塚氏はこう指摘します。


小説家になることが「私捜し」と密接に結びついてしまったのは、この国の「文学」が大なり小なり「私小説」という伝統の上に成り立っているからです。そして、小説家志望者たちが小説家にうまくなれないのは、「私探し」と「小説を書く」という行為をうまく区別できないからのように思えます。(p.9)


『キャラクター小説の作り方』という本は、徹底して文章をかくテクニックについて述べています。
小説家となるための心得、などという精神論にはしることをきつくいましめています。

そして、「私」と「小説をかくためのテクニック」を不可分なものにしているのは、私小説という伝統のせいだ、と言っています。
しかし、はたして「私さがし」と「テクニック」をわけられないのは、小説だけなのでしょうか。書道も音楽もスポーツにもテクニックと不可分の「私」がいる。
日本の私小説という伝統の上に、書道や音楽や部活動がなりたっている、というように言えるのではないでしょうか。

もちろん、大塚氏はそんなことは言ってません。

しかし、小説が「私探し」と不可分であるのが私小説という伝統に由来するのであれば、書道と「私探し」が不可分であるのも私小説の伝統に由来するといえるのではないでしょうか。

すべての元凶は、私小説である。


……ヨタばなしもいいとこだな。
ちょっと魅力的だけど。


(あ、大塚氏がヨタをとばしているといっているわけではなく、書道と私小説をむすびつける、私の言い方がヨタなんですよ)
posted by なかのまき at 00:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記