2010年11月19日

カエルのへそについて学びましょう。ないけど。

『月刊国語教育研究』(日本国語教育学会)2010年2月号で、

「日本語の特質を学ぶ」

という特集がありました。
前期の授業で学生さんのくりだす日本語特殊論にへきえきしていたので、「日本語」と「特質」とくればそれだけでみがまえてしまう習性があるのですが、この特集の内容、どうなんだろう、と。
どきどきしながらみたのですが。
ああ。悪くないです。


まず、巻頭言が杉戸清樹氏(前国立国語研究所所長)です。
杉戸氏は、かなり国語教育にめくばりをしている人です。


日本語の姿を虚心に見つめることから

 言語研究の一分やである対照言語学や言語類型論の新しい知見に触れると、日本語は他の言語と大きく異なる「特徴」をもつような格別の言語ではないということを教えられる。たとえばSOV(主語・目的語・動詞)のような文の語順構造など、他言語と同じ類型に属する言語であることが、近年とみに充実した情報や研究に基づいて示されている。
 そうした専門領域のこととしてではなくとも、かつて語られた日本語の独自性や「特長」が多くの場合きちんとした根拠のないままの思い込みや思い入れであったということも想起しておきたい。一例を挙げれば「敬語を持つのは日本語だけだ」という言説である。(略)
 こう考えると、学習指導要領に掲げられる「国語の特質」は、国語のどのような言語事象をどのような姿勢で扱うかについて、改めて議論したりする余地の大きな課題事項であることがわかる。本号特集の趣意もここにあるのだろう。


「日本語の特質を学ぶ」という特集の巻頭言で「そんなもんない」ってかいてあるんですよ。
でも、それは本当のことなんだからしかたないですね。

それで、
「国語のどのような言語事象をどのような姿勢で扱うかについて、改めて議論したりする余地の大きな課題事項であることがわかる。」
ってかかれてますが、でも、それって、現場の先生のする仕事じゃないよね。
ないものについて教えろっていうんだったらそれはむちゃぶり芸でしょう。
そんなものを現場の先生に期待しちゃいけません。

これは、「国語の特質」なんてかいた文部科学省に責任があって、その責任を追及するのも、現場の先生の仕事じゃなくて、日本語学と言語学の人の仕事だろう。

日本語学のせんせえは、自分の教え子や弟子や友達がどれだけ国語教育まわりで食ってるか、しらないわけじゃないだろうし。いまだって高校の国語と大学の日本語学の非常勤かけもちしてたべてる人がどれだけいることか。

ってかんがえると、日本語学で食ってるひとはだれだって国語教育に無関心でいられるはずがないわけで。
だからそもそも、学習指導要領に「国語の特質」なんていう項ができてしまっていることが、異常事態なわけですよ。
日本語学の人なにやってんの。
どうしてこうなるまでだれもつっこみいれられなかったの。って。
責められてしかたないとおもう。
posted by なかのまき at 00:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 国語教育

2010年11月12日

「滋養をつけなさい。飽食の時代だけど。」

こんにゃく<だいこん<ごはん<バター

だいたい、同じ重さなら、うえのように食物のカロリーが高くなるとおもわれます。
で、そのことをさして「バターは栄養がある」っていったらどうでしょうね。
「カロリーが高い=栄養がある=いいこと」
みたいな。
「バターさいこう!」みたいな考え方があったとして。
それは『火垂るの墓』で清太が「滋養がどこにあるんですか!」っていう、そういう時代の価値観ですね。「栄養=カロリー」って。
あと、かりにそういう時代だったとしても、バターに食物アレルギーがある人には、「バターさいこう!もー、バターたべない人間はダメだ!」っておしつけは、めいわくだとおもわれます。


大津由紀雄編『ことばの宇宙への旅立ち2 10代からの言語学』ひつじ書房・2009

から

酒井邦嘉(さかい・くによし)「脳に描く言葉の地図」pp.59-96

リアルな対話を大切に

 最近特に、周りの人との「リアルな対話」をもっと大切にする必要を感じています。ある友達に、同じ内容をメールに書いて送る、手紙で送る、電話で話す、そして実際に会って話す、という四つの場合を比べてみましょう。同じ内容を伝えているわけですから、情報量は同じでしょうか?そんなことはありませんね。メールは活字、手紙は手書きの文字、電話は音声、そして実際に会った場合は映像ですから、それぞれディジタル化して記録に残せば明らかなように、この順番で情報量が増えています。たとえば伝えたい内容が「明日十時に会いたい」ということならば、大差ないように思えるかもしれません。しかし、忙しくてなかなか会ってくれそうにない人、疎遠にしている人、意中の人、というように相手が変われば、すべてメールで済ますというわけにはいきません。(略)
 それから複雑な内容や深刻なことがらを伝える場合は、メールよりも手紙や電話の方がはるかにすぐれた通信手段になり得る、ということを忘れないようにしたいものです。実は、そこに言語の隠れた本質があって、発話の抑揚(prosody)の中にも豊富な言語情報が含まれているのです。丁寧に手書きで綴られた文章は、メール以上に書き手の誠意や真心も伝えられることも確かですね。(pp.83-84)


強調は引用者です。
うん。確かじゃありませんね。
プロソディと手書きを並列にかきならべて「確かですね」っていってはいけないでしょう。
プロソディに関してはちゃんと言語学の研究の蓄積があるわけですが。手書きになにか、プロソディと同列にとりたてられるようなはたらきがあるっていってる研究はありますか。
次元の違うものを一緒にならべちゃだめでしょう。
「10代からの言語学」っていうタイトルのついた本で。
あと、音声言語と文字言語を無条件でくらべる姿勢がものすごく疑問です。

ええと。長く引用したのは、なんかこのぶぶんが全体的によくわかんなかったので。

まず、


「メールは活字、手紙は手書きの文字、電話は音声、そして実際に会った場合は映像ですから、それぞれディジタル化して記録に残せば明らかなように、この順番で情報量が増えています。」


ここの文章の意味がよくわからない。
「ディジタル化して記録に残せば明らか」って、どういう作業のことだろう。
えーと。

テキストファイル<画像ファイル<音楽ファイル<動画ファイル

と、データが重くなる傾向があるっていうことをいってるのか……な?
情報量=データの重さってことでいいのかな。
まあ、わかんないのでこの解釈でいきましょう。
あと、情報量が多ければ多いほどたくさんのことを伝えられる。みたいな言い方をしてるようにみえるんですが、
この情報があふれかえった時代にいったいなんの話をしてるんだ。

「それから複雑な内容や深刻なことがらを伝える場合は、メールよりも手紙や電話の方がはるかにすぐれた通信手段になり得る、ということを忘れないようにしたいものです。」
そりゃ、なる場合もあるし、ならないばあいもありますね。
時によりけり、場合によりけり、人によりけり。
あたりまえだけど。

「丁寧に手書きで綴られた文章は、メール以上に書き手の誠意や真心も伝えられることも確かですね。」

何度もかくけど、
左手書字者は「パンがないならお菓子を食べればいいじゃない」みたいな調子で、「左手で字が書きにくいならパソコンで書けばいいじゃない」っていわれてるんですよ。
つまり、左手で字を書くくらいならパソコンで書け、っていわれてる人たちがいるわけですよ。
「丁寧に手書きで綴られた文章は、メール以上に書き手の誠意や真心も伝えられる」じゃあ、ペンをもてない人や左手書字者はどうすればいいの? 手書きで字がかけないなら誠意や真心をつたえることをあきらめろと? 
別にあきらめる必要ないでしょ。メールで誠意や真心のこもった文はじゅうぶんにかけます。あたりまえだけど。

パソコンで書いたメールが、手書きの手紙より誠意や真心の面で劣ってるなんていうわけのわからないことをいったうえに、その根拠が「メールは手書きに比べて情報量が少ない」という、さらにわけのわからないもの。情報量の大小と「誠意真心」になんの関係が?
それで、右手で字がかけなかったり、かきにくかったり、かきたくない人をそんなわけのわからない理由でおとしめてはいけません。
手書きの手紙とパソコンケータイメールを無意味にくらべて、パソコンケータイのメールを劣っていると差別してはいけません。

このように、手書きの字とくらべて、パソコンケータイ打ち出しの字をわけもなく差別するような人がいるからこそ、私は「左手で字が書きにくいならパソコンで書けばいいじゃない」っていいすてるひとに、「ちょっとまって、それでいいの? だめだよ」っていいたくなるんです。


posted by なかのまき at 20:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2010年11月04日

がまんを強いられるのはつねに弱者

教育関係のへんな文章あつめがとまらなくなってしまった。
でももう、今回でやめます。
いいかげん「とめはねっ!」批判もやりたいし。

でも、ちょっと、これだけはびっくりしたので紹介します。
いじめ百合萌え論文やドM母萌え論文をたてつづけによんで、だいぶ耐性がついたかな、とおもっていたのですが、これはゆるせない。
いかりがしずまりまらないので。
とりあげます。

池田多津美(2010)「幼稚園における教育の創造と展開(5)体験の多様性と関連性」『初等教育資料』平成22年10月号

池田多津美氏は東京都港区立白金台幼稚園長だそうです。


「自分が忘れたから仕方がないか」
 五歳児は毎朝学級に置かれているかごに自分でプールカードを入れる。プールカードがないとプールには入れないことになっており、特に五歳児の担任は自分で責任をもたせ、カードの管理を任せるようにしている。
 この日、B児はカードを忘れた。担任は「エエッ、残念。明日は絶対に忘れないようにしよう。今日は入れないけど仕方がないね」と言う。学級の仲間がプール遊びに熱中しているとき、B児はテラス周辺でウロウロ歩き回りながら、「朝、自分で○印を付けたのに…。ちゃんと置いておいたのに忘れちゃって。自分が忘れたから仕方がないか。でも…」と繰り返しつぶやく。

(略)
五歳児B児も水遊びが大好きである。プールには入れないのは自分がカードを忘れたからだということをわかっているが、そのやりきれない悔しさを自分にぶつけ、独り言をつぶやきながら納得しようとしている。教師はB児に今回の体験を通して、自分のことに自分で責任をもつということを学んでほしいと考えている。保護者に連絡をとるなど、プールに入れるようにする手立てはあったが、この時期に何を体験させることで成長につなぐか、教師が個々の幼児の育ちの家庭を見通す力と幼児や保護者との信頼関係が問われるところである。(p.42)



5歳児に自己責任って。
どうかしてるとしかおもえません。
カードを忘れるな、と5歳児に要求するほうが無謀だし、カードをわすれたときの対処が「こどもにがまんさせる」って。それが「体験」って。
なんで一番よわいものにツケがまわるんですか。
それで「自分が忘れたから仕方ない」と納得しろと要求する。
そんな体験いりませんよ。

ちょっとしたミスで過重な刑罰がくだり、それを「自分のせい」と納得させられる。周りの大人はこどものちょっとしたミスにいっさい手助けをしてやらない。

「今回の体験を通して、自分のことに自分で責任をもつということを学んでほしいと考え」られるほうがおかしいとおもいますが。
絶対に一度のミスもゆるされない社会。自分のことしか頼れない社会。ミスをしたらどんな罰をうけても仕方のない世界。大人が手助けをしてくれない世界。
なんで五歳のときからそんな世界に住めといわれなければいけないんですか。

もう、いやだ。ぜったい、たのまれたって東京都港区立白金台には住まない。
posted by なかのまき at 21:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 国語教育

2010年11月01日

なんでもない、ごくふつの、どこにでもある国語教育

連日同じネタですみませんが国語教育。
読まされるほうもたまったもんじゃないだろうけど、かく私もかなりうんざりです。

いじめられてる桐壺更衣萌え〜な論文

で、国語教育と奴隷教育のコラボレーションはさすがに新しいネ!
みたいな記事をかいたのですが。いや……そうでもない……

類似の記事を発見。もう、床にすわりこんでしくしく泣きたい。

三井庄三(よみ不明)(2010)「深沢七郎『楢山節考』―登らなければならない道」『国語教育(雄東京法令出版)』平成22年10月号 pp.68-69

二 独特な人物「おりん婆さん」
(略)おりんの人物像の特徴について、新潮文庫の解説で日沼倫太郎氏は、<『楢山節考』は民間伝承の棄老伝説をテーマとした小説で、おりんという老婆が主人公である。普通姥捨といえば拒みいやがりながら捨てられる老人を想像しがちであるが、『楢山節考』の主人公はみずから進んで捨てられようとする型破りの女性だ。それというのも、自分の住む村や家に食物が乏しいからで、彼女は楢山に捨てられる日を早めるために自ら石で前歯を折る。>


三井氏は、日沼倫太郎氏の文章をこう紹介したあと、つづけてこう書きます。

このおりん・辰平と対照的なのが、隣家の楢山を望まない銭屋の又やんと、父親を縛ってでも棄てる倅とである。この対比からすれば、前者のおりんは確かに「型破り」ではある。ただし、おりんは、一般に母親なら共有している「母性」によって、衝撃的なのだ。今のジェンダー論では、「母性」の強調は問題かもしれないが、である。


強調は引用者です。
……えーと。
「楢山に捨てられる日を早めるために自ら石で前歯を折る」というドMな人をゆびさして、「一般に母親なら共有している「母性」」といいあらわすのはどういう趣味・嗜好ですか?

「一般的にボクのママはドMなんだよ! そういう設定が萌え〜!」宣言。

なんだこれ。
……いやいや。またはらだちのあまり、個人の趣味・嗜好に矮小化して茶化してしまいました。
いけませんね。

ちがう。べつにおりんは、「型破り」ではない。
わりとよくいるんじゃないかな?
「正しい」ことのために、みずからの命を簡単に投げ出せるひとって、歴史をみればわりとたくさんいる。
あと、「世間様の目」って、人が自分を殺すには十分な圧力をもってますよ。「村の掟」ね。

だから、そこまで「型破り」とはおもえないな。
「私1人ががまんして死ねばいいだけの話」っていってね。
よくある奴隷根性でしかないでしょう。

で、その場はしのげるかもしれませんが、それで、息子の辰平だってそのうち棄老されるんですよ。
「私1人ががまんして」死んで、そういう社会のシステムが維持されることに荷担してしまえば。そのうち、自分が死んで守ったはずの息子も、自分と同じ死に方をする。
いったいおりんは何を守ってるのか。

で、そのなんの解決にもならないくだらない自己犠牲を、「彼女は楢山に捨てられる日を早めるために自ら石で前歯を折る」という行為を、「一般に母親なら共有している「母性」」というのか。
そんなばかなもの、くだらないもの、「一般の母親」には一片たりとも共有してほしくないです。

そして、しめくくりの「今のジェンダー論では、「母性」の強調は問題かもしれないが、である。」という文章がっ……もう、ここまでくると怒りが言語化できません。

というか、見識を疑うのは、この三井庄三氏ではなく、『国語教育』っていう雑誌の編集者です。
なんで『国語教育』っていう名前の雑誌にこんな文章をはりつけて、平気でいられるんだろう。

posted by なかのまき at 21:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 国語教育

2010年10月27日

いじめられてる桐壺更衣萌え〜な論文

宮武里衣(みやたけ・りえ)2009「人間関係に視点をおいた「源氏物語」の指導」『解釈(解釈学会)』55 pp.36-45

 数ある教科の中でも、残念ながら古典は高校生にあまり好かれていない。(略)
 この現状をそのまま受け止めれば、高校生に古典を好きになってもらうことは難しいことになる。では、どうしたら、「高校生に好かれる古典」になり得るのであろうか。生徒たちが学習したいと感じられるような古典教育を、どうすれば実践できるのだろうか。p.36


いや、好きかどうかはともかく、受験科目だから、古典につきあってくれる学生は一定数いるよ。
それは心配しなくていいとおもいます。需要はありますよ。
さて。
国語教育がたいへんなことになってることは、けっこうこのブログでかいてますし、国語教育のへんな論文はみなれてるのですが、久々に大物がひっかかったのでご紹介します。

古典は長い間我が国で大切にされ、読み継がれて来たものである。多くの人々によって、すでに高い評価がなされているものである。「生き方」という大きなテーマを、評価が定まったものに寄りかかって考えることは意義のあることではないだろうか。(p.37)



また、古典教育は言語の教育でもある。昨今、若者の言葉の乱れは様々な場で話題になり、嘆かれている。一方で古語は「今の言葉ではない」という理由で高校生にはあっさり切り捨てられている。しかし、考えてみれば、高校生の使っている言葉は、古語から連綿と続いている日本語の歴史に連なっているのである。(p.37)


いや、まだですよ。ここでつっこんだら負けです。
これくらいのヨタ話は、国語教育の論文にはごろごろしてますんで。

このあと、高校生に好きになってもらうための古典の授業の実践報告があります。
源氏物語の桐壺の巻の冒頭ぶぶんを読むというこころみがなされます。
で、まとめ。

単元の最後に書かせた、「登場人物の生き方についてどうかんがえますか」という問いの回答が以下である。

A どんなにいじめられても何もやり返すわけでもなく、自分の運命を受け入れて生きていこうとする強い人だと思う。受け入れてやり返さなかったのは、身分のせいもあるだろうが、いじめをする人たちの気持ちを理解していたからではないだろうか。そう思うと、よりいっそう桐壺更衣という女性はすごい人だと思う。(女子)
B 桐壺更衣はたとえいじめられて、病気になっても頑張って耐えて、しかもだれもうらんでいなかったと思う。おなじ人間として尊敬する。(男子)
C 身分が低くありながらも、帝に寵愛され、しかも帝は一途で浮気しなかったので、その点では幸せだったと思う。しかし、ひどいいじめにあったのは可愛そうとしか言いようがない。話をすることもできないくらい苦しいのに、最期に帝と生きて一緒にいたいと考えられるほど、前向きで現実的で、心の強い人だから、もし、病気にならなかったら、周囲の人と和解できたのではないかと思う。(女子)
(略)

 単元の始めでは、源氏物語を「ドロドロした物語」「昼のメロドラマみたい」などと、表面的に評価していた生徒たちが、単元を終えた後には、登場人物をまるで自分の周囲にいる人のように考えるようになったことは、大きな進歩である。


えーと。「国語の授業はまるで道徳」ってのは、ものすごく耳たこな国語科教育批判ですが。

で……なんで、生徒にこんな不道徳な感想を書かせるような授業やってるの?
そしてそんな不道徳な感想を堂々と論文で紹介するの?

桐壺更衣ってのは、身分が低いのに帝に寵愛されて、権力のバランスが崩れるのをおそれた周囲にいやがらせにあってそのせいで病気になって死んだ人ですね。

なぜ、そんな境遇で死んだ人を「同じ人間として尊敬する」なんてかくの? 不謹慎じゃないの。
これ、昔話だから許容されるけど、「桐壺更衣」を現代人の名前にかえてみたら、どうですか。桐壺更衣を現代人の名前にかえてよんでみたら? なんでもいいけど。たとえば。「山田花子」でも「小和田雅子」でも。なんでもいいけど。冗談じゃなくなるでしょう。

なんで、「たえしのんで死んだ桐壺更衣萌え〜」という特殊な嗜好をもつ人間の感想ばかり3つも、ならべて出すの?
いや、たしかに、わりと、百合界隈に「女の子が女の子に陰惨にいじめられる」という設定を嗜好する層があるんですよ。それですよね?
でもその趣味、ちょっと、道徳と区別が付かないのがウリの国語の時間にふさわしくないんじゃないの? たえしのんだ結果、人が死んでるんだよ?
いいの?

……と、おもわず個人の趣味・嗜好に矮小化して茶化さないと腹が立ってしかたがない
まだ、趣味であったほうが救いがある。

これ、本気で道徳なんでしょ。

弱いモノはたえ忍んで死ね、っていう。

そういう道徳なんでしょう。いつの時代の道徳なんだかしらないけど。
2010年の国語教育のなかの道徳なんだよね。救いがない。泣きたい。

この3つの生徒の感想。ぜんぶ、桐壺更衣の「たえしのんで誰もうらまないで死んだ」という姿勢を評価してるんですよ。

しかも、
「どんなにいじめられても何もやり返すわけでもなく」「自分の運命を受け入れて生きていこうとする強い人」「受け入れてやり返さなかったのは、身分のせいもあるだろう」「いじめをする人たちの気持ちを理解」「はたとえいじめられて、病気になっても頑張って耐えて」「しかもだれもうらんでいなかった」「話をすることもできないくらい苦しいのに前向きで現実的」「病気にならなかったら、周囲の人と和解できた」
なんでこんなに、強い立場の人間のことは無視して、弱い立場にばかり負荷がかかるんですかね。たえしのべとか、だれもうらむな、とか、つよくなれ、とか前向きになれとか、周囲の人と和解しろ、とか。これ、ただの奴隷根性だよ。
あげくに、奴隷根性発揮して死んでしまった人を、「すごい人だと思う」「同じ人間として尊敬する」と美化するような感想を書けと強要する。

えーと、ここはどんな奴隷養成所ですか?
どんだけ野蛮な場所なんだ。学校って。かわいそうに。

それで、教師は「登場人物をまるで自分の周囲にいる人のように考えるようになったことは、大きな進歩である。」とひとり悦にいる。

私の周囲にこんな奴隷は1人もいません!

posted by なかのまき at 23:17| Comment(4) | TrackBack(0) | 国語教育

2010年10月26日

ゲーム脳はもういいです

宮本まき子(みやもと・まきこ)2010「ゲームばかりして宿題をしない」『児童心理』919 pp.81-85

Aさんの妹は20代で離婚し、故郷の親の家に戻って働き始めた。甥っ子は保育園が遠いため祖父母が家で世話をしたが、この子は二歳(!)のときからパソコンのキーを操作してゲームをするのが大好きだった。(略)
Aさんは帰省のたびに甥っ子がテレビゲームやオンラインゲームに熱中して、夜中まで起きていて遅刻したり、小学四年生という年齢のわりに奇妙に「冷めた」言動があるのを心配してきた。同年代のわが子に比べて明らかに友達が少ないし、スポーツや体を動かす遊びもしない。子供らしい感情の発露が乏しく、突然怒りっぽくなるほかは、陽気にはしゃいだり泣いたりすることが少ない。(略)「ウチの子にみんな持ってるからとねだられたDSを、外出するときは退屈しのぎに持たせてやらせています。ゲームは持っていて当たり前、やって当たり前で、叱ることはないのですが、甥っ子をみていたら心配になってきて……」とAさんは戸惑う。(pp.82-83)


「わが子に比べて明らかに友達が少ない」「スポーツや体を動かす遊びもしない」「子供らしい感情の発露が乏しい」とか。
「余計なおせっかいだ」って言っていいんじゃ。
なんで友達が少ないことがいけないの?スポーツきらいな人間だっているじゃん。「子供らしい」ってなんだよ。
ってのがまず、きもちわるい。「あるべき健康な子供の姿」から甥っ子がこれだけ逸脱している、ああ、心配。って。よけいなおせわだろう。

あと、ぜんぶゲームのせいにしていいの?
甥っ子が心配なのは、まあ、それはそれでいいですよ。
でもそれぜんぶ、「甥っ子がゲームやり過ぎだから」って、そういう因果関係でいいの?
甥っ子からゲーム取り上げたらそれですぐに、友達がふえて、スポーツをガンガンやって、「子どもらしく」なるわけ?

で、この論文のおもしろいところは、
ゲームをやる人間の友達のすくなさを問題としながらも、すぐ後ろで、

「ゲームがないと仲間はずれになる、イジメにあう」と必要以上に心配するのは、親子二代の思いこみだろう。それくらいで壊れるような「もろい友情」なら失くしても惜しくないし、物を介在しなくとも友好的な子がゴマンといることを最初からわが子に教えたほうがよい。(p.83)


「友達がすくない」のは問題なのに、「もろい友情」なら無くしても惜しくないんだって。
なんだ、これ。できのわるいコントのシナリオをよまされてる気分。

「ゲームをやる子は友達がすくないんです!」
「でも、ゲームをかってやらないと友達ができないっていう面もあるんですよ」
「そんな友情はなくしてもおしくないです!」

けっきょく友情は大切なのか、惜しくないのか。
それとも、「スポーツ友達は大切だけどゲーム友達はなくしてもいい」って、友達を属性で差別するのか。
けっこうひどいこといってるってきづかないのかなあ。友達、の向こう側にはかならず、具体的な顔があるわけで。
それって、「○○君はゲーム友達だからなくしても惜しくない」って子供に親が言うってことだよね。
まあ、けっこう本気なのかも。
「○○君とバスケットボールするなら遊びにいっていいけど、××君とゲームするなら、××君とあそんじゃいけません!」
ってことか。

まあ、それはおいておいて。
本題にはいります。

「サルでもできる」が売りのパソコン操作だから、学齢前でもキーを叩ける時代である。いっとき「ゲーム脳」という言葉が議論され、長時間のテレビゲームが脳の働きを阻害すると警告されたことがあった。(p.83)


でた。ゲーム脳。
うん。で、そのゲーム脳説が科学的根拠にとぼしいヨタ話だってこともさんんざん警告されてますね。それにかんしてはいかが? なぜそれについては触れないの?


文科省は2004年から1000人の子どもを10年間にわたって追跡する大規模な調査を始めたが、その中間報告的な論文等でも、ゲームそのものが直接原因の障害は立証されていない。
ただし、本来なら運動遊びや他者との人間関係づくりの発達に費やされるはずの時間をゲームに「時間泥棒」されているのは明白である。長時間続けば体力的にも社会的にも未熟のまま自立を阻害される恐れがあるだろう。


自分の論の根拠となるゲーム脳とやらがどんなもんであるのか、ちゃんと調べもしないで思い込みで自分の都合のいいように書き散らして原稿料せしめてる「社会的に未熟な人間」に説教されるいわれはない。

文科省のメディア調査の結果がでるのは2014年以降ということは、「実はこうでした」というサプライズがあったとしても、いまの小学生には「手遅れ」ということだ。(p.84)


うん。で、「サプライズ」がなかった場合どーするの?
ゲームやっていいの? 

なんか、こういうニセ科学にしがみつく人ってじつは、科学を軽視してるんじゃなくて、
科学をいみもわからずあがめたてまつって過剰に評価してる人なんだよね……
科学を、「なんでも切れる文化包丁」かなにかとカンチガイしてませんか。

「ゲームをやっちゃいけません」の根拠を、科学にだしてもらおうとしたって、「そんなもん出ませんでした」ってなったとき、どうするの?
ちゃんと、この論文撤回してくれるの?
「ゲームはやってもかまいません」って言ってくれるの?
いや、つごうのいい場面で科学様にやたらおすがり申し上げて、都合がわるくなったら「どうせ科学なんかでは証明できないことはいくらでもあるのさ」とかいいはじめるんでしょうねえ。「まだまだ科学で解明できてないことはいろいろあるんだ」とか。とかいって、
「とにかくゲームはだめといったらだめなんだ! 科学なんか関係ない!」ってなるんでしょ。

なんか、ゲーム脳なんてあやしいものにたよらなくても、「ゲームばかりして宿題をしない」という問題にはたちいれるとおもうんだけど。
だって、「ゲームばかりして宿題をしない」って、あきらかに科学のもんだいじゃなくて躾の問題だもん。
「ゲーム脳」をつかってゲームを叩くのは、「ゲームばかりして宿題をしない」という問題をかんがえるとき、やりかたがぜんぜんうまくない。

で、なにが問題かっていうと、このニセ科学に依拠した論文が、2010年刊の「教育心理」っていう教育系の雑誌に堂々とのってしまうこと。
ニセ科学のマーケットとして、教育っていう場があるんだな。
ということを、かんがえないではいられない。
posted by なかのまき at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | ニセ科学;筆跡学

2010年10月21日

書字で脳を活性化 パソコンの使いすぎには要注意 ZEBRA

文具メーカーZEBRAのサイトに

書字で脳を活性化 パソコンの使いすぎには要注意

というページがあります。

これがまあ、たいへんなページなのですが。


とりあえずこのページは、
東京書芸協会の関係らしい。

2003年4月26日(土)早稲田大学にて開催された、
東京書芸協会川原世雲氏の発表をもとに編集しています。


早稲田大学はこういうところにハコを貸さないでね。

で、この書芸協会ってサイトをみてみたら、ああ、これ、書道の会だねー。あきらかに。

こう。
私のうすぎたない本音を出してしまうと、
書道の人がアホなことをいえば、私には都合がいいんですね。私は書字教育にくいこむ書道を批判してるので。
アホなことを言ってくれると、ハートがあったかくなるの。

「ああ、書道の人も私を応援してくれる。
 私は1人じゃない。
 たくさんのひとに、ささえられている。
 みんなありがとー黒ハート!!
 みんなだいすきーハートたち(複数ハート)ハートたち(複数ハート)

って。そういう気持ちになるのですが。
それにしても、こんなに書道の人の愚行が嬉しい私でも、このページはさすがに困るなあ。
ちょっと引用しますね。
でも、本文ページの方がキレイな図があってみごたえがあってくらくらするので、ぜひクリックして原典にもあたってみてください。


■書字と脳
脳研究の中で、「書字」という活動が注目を集めています。「書字」という行為には、脳機能の中で関わっていない箇所がないと思われるほど、広範囲にわたって脳を同時に大きく使っています。さらに、平面的なかなくぎ文字を書く時と、立体的で流れるような文字を書く時では、脳の使い方が違うことと考えられています。

最近話題にのぼる「ITボケ」や「ゲーム脳」なども、この手で文字を書かなくなった私たちの生活が少なからず影響しているようです。パソコン等での作業に慣れきってしまうと、脳の活動が低下してしまうことはよく知られています。パソコンやゲームを長時間続けている人の脳波は、「痴呆」と同じ状態になっていると指摘される点からも、「書字」の大切さがうかがわれます。

脳の活動には大きなエネルギーが必要。体重の2%程度の重さの脳が、体全体の20%近くのエネルギーを消費しています。体重の約半分を占める筋肉が体全体の20%程度のカロリーを消費するのと比べてみると驚いてしまいます。また、脳が必要なエネルギー源はブドウ糖だけ。とってもぜいたくな器官なのです。脳は体の他の器官と違い、それ自身が痛みなどを感じないため、客観的な視点に立って、その活動のバランスをとっていくことが大切です。


ITボケ! ゲーム脳!
えーと。ゲーム脳についてはかなり批判がありますねえ。
いろいろあるけど、まあ。このへんでも。↓

「ゲーム脳」徹底検証
斎藤環氏に聞く ゲーム脳の恐怖1


つぎのページいきます。

■パソコンばかりでは危険
最後の一文字を間違ったら要注意!
最近、半紙などの作品を書く時に最後の一文字に錯書が起こったり、字形が崩れる例が急増しています。これはVDT作業やメールを打ち続けたり、ゲームをやり続けることにより、β波が常に出ていない状態が続きβ波の高まりを得ることができないことが原因と考えられます。

※VDT作業:ディスプレイ、キーボード等により構成されるVDT(Visua lDisplay Terminals)機器を使用して、データの入力・検索・照合等、文章・画像等の作成・編集・修正等、プログラミング、監視等を行う作業

漢字が書けない人が増えている?
パソコンばかり使っていると、漢字が書けなくなるという経験は多くの人が持っているはず。これは頭頂葉疾患に近い空間失書の例で、文筆業をしている人でさえも、キーボードばかりで文章を作成しているとごく簡単な字が書けなくなったという例もある程です。ブラインドタッチという言葉が示すように、空間的なコントロールを介さない慢性的な指の単純運動が原因と考えられています。最初の一文字の位置が決められなかったり、紙面に文字が入りきらなかったりしたら要注意です。

まず小学校低学年レベルの4〜6字熟語を思い浮かべます。半紙と筆を用意して、一点一画ゆっくりとそれを書いてください。その際、書いている時と、画から画に移る時も含めて同じスピードで筆を進めます。尚、画から画に移る際、筆先は紙面より1cm以上あげないようにしてください。

指先を細かい運動は頭を活性化する?
編物など、指先の細かな作業をする人はボケないなどとよく言われます。文字を書くという動作についても同じです。しかし慣れきって書くようになったり、ブラインドタッチするようになると、その指先の運動は小脳で代替され、結果、指先を動かす脳の部位の隣にあるブローカー野への血流の影響がなくなり、頭に良いとは言えません。また大脳は同じことの繰り返しを嫌います。VDT作業者が緊張した状態(発話以外に並行して思考、動作を求められる場合)での発話に支障が出るのは、左利きの子供を右利きに矯正しようとすると、しばしば吃音を生じるのと同じです。



「最近、半紙などの作品を書く時に最後の一文字に錯書が起こったり、字形が崩れる例が急増しています。これはVDT作業やメールを打ち続けたり、ゲームをやり続けることにより、β波が常に出ていない状態が続きβ波の高まりを得ることができないことが原因と考えられます。」

このへん、くらくらします。
β波うんぬんはゲーム脳由来ですね。つまり、ヨタ話とかんがえていい。

「パソコンばかり使っていると、漢字が書けなくなるという経験は多くの人が持っているはず。これは頭頂葉疾患に近い空間失書の例で(略)」

疾患かー……単なるものわすれじゃなくて?

「ブラインドタッチという言葉が示すように」

ブラインドタッチという言葉がなにを示しているっていうんだ。「ブラインドタッチ」という言葉のどこに「空間的なコントロールを介さない慢性的な指の単純運動」という意味がはいってるんですかね。あと、「ブラインドタッチ」は「ブラインド」に問題があるから、「タッチタイプ」とかいうんじゃないの?さいきんは。

あー、つかれた。全部のページに突っ込むのはあきたので。
おのおの原典にあたってくらくらしてみてください。

さいごにいっこだけ。
ゆるせない記述。

「VDT作業者が緊張した状態(発話以外に並行して思考、動作を求められる場合)での発話に支障が出るのは、左利きの子供を右利きに矯正しようとすると、しばしば吃音を生じるのと同じです。」

ここがひどい。

書道こそが、左手書字者いじめの総本山のくせに。
公教育にいすわって根拠のない「毛筆必修」と「正しい筆順」で左手書字者におしつけていじめてるくせに。

「左利きの子供を右利きに矯正しようとすると、しばしば吃音を生じるのと同じです。」

って、いかにも「左利きの味方ですう。マイノリティの権利も大切にしてますう」な顔をしてみせて、じつは左手利きとVDT作業者を同時におとしめている。

ぬすっと たけだけしい

とはこのことだ。

たけだけしいな。
じつにたけだけしい。
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posted by なかのまき at 22:24| Comment(0) | TrackBack(0) | ニセ科学;筆跡学

2010年10月13日

アリバイづくりに熱心ですね

大津由紀雄研究室編著『国際会議の開きかた』(2010・ひつじ書房)

大津由紀雄(おおつ・ゆきお)氏は言語学の人ですね。
で、ひつじ書房ってのは、言語学関係の本をいっぱい出してる出版社です。

で、国際会議の開きかた。


紹介するのは、
第1部 実践編
1.2 会議の公用語(pp.4-7)

ってところ。
引用します。


わたくしたちの研究室が主宰している東京言語心理学会(Tokyo Conference on Psycholinguistics,略称TCP)という国際会議の公用語は英語です。会議に関する情報はすべて英語で提供されます。たとえば、会議のウェブサイトはすべて英語で書かれています。発表希望者は英語で論文の概要を書いて応募しなくてはなりません。言うまでもなく、会議本体も英語で運営されます。そして、発表論文集も英語で書かれた論文を掲載します。


さようでございますか。
楽しそうで結構なことでございますね。


国際会議なのだから当然のことだとお思いの読者も多いでしょう。しかし、すべてが英語で執り行われるというのは国際会議であれば「当然」のことなのでしょうか? わたくしたちはそうは考えません。


ひつじ書房から出るような本を買う人が、「国際会議なら英語で当然」ってお思いの読者なら、そりゃ、たいへんなことですね。
あまりにも言語権への意識が低すぎる。え? ひつじ書房の本を買うような人(言語や言語学に興味ある人)が?
えっ……そうなの?


(略)
でも、英語という選択肢は大きな問題があります。それは、英語を母語とする人たちとそうでない人たちと間に不公平が生じるからです。その意味では、その言語を母語とする人がいない言語を会議の公用語とするのが理想です。エスペラントのような人工言語ならぴったりです。しかし、エスペラントの普及率を考えると、これまた現実的ではありません。加えて、エスペラントは印欧諸語を主な基盤として作られているので公平ではないという議論もできるかもしれません。


英語を母語とする人たちとそうでない人たちとの間に不公平が生じることのほかに、英語を第1言語とするひとたちが、地球規模でみたら、ありえないくらい金持ちばっかりだってこともいった方がいいんじゃないかな。
英語を第1言語としない人が英語に手間とヒマと金をつかえばつかうほど、ありえない規模の金持ちのところにどんどん金と人があつまるしくみなわけで、むしろそっちが大問題なんじゃ。

あと、エスペラント云々のところ、あきらかに蛇足でしょ。
「エスペラントは印欧諸語を主な基盤として作られているので公平ではないという議論もできるかもしれません。」て、金持ち連中の第1言語である英語を国際会議の公用語にすることかんがえたら、「印欧諸語を主な基盤として作られている」ということに由来する不公平感なんか、はるかにかすむと思いますが。
あと、エスペラントの普及率についてはちゃんと調べてもの言ってますか?
通訳・翻訳とか、そういう点でかんがえれば、わりと実用にたえうると私はおもいますが。

というか、なんか、エスペラントって、なんであんなに曲解されてるんだろう……という個人的感想。


(略)
つまり、英語を会議の公用語とすることは決して望んですることではないのです。同時通訳で有名な國弘正雄のことばを借りれば、英語を会議の公用語とするのは「必要悪」なのです。会議の参加者にその点を周知させることが必要です。


えーと、なんかよくわかんないけど。
この本の「公用語」って、どういうこと?

英語が公用語。はい。それはわかりました。
で、会議に参加する人は何語でしゃべるの?
英語? 音声をつかって英語でしゃべらないと発言権ないの?
通訳とか翻訳とか、いっさい無いの?

私が一番いいと考えるのは、
会議の開かれてる土地の言語を公用語にして、
通訳・翻訳にたっぷり手間とヒマと金をかけるのがいいんじゃないのかなあ。
通訳・翻訳は、その会議の行われる土地で現地調達するのが効率いいとおもうし。
日本だったら、「英語とナントカ語」の通訳より、「日本語とナントカ語」の通訳のほうがさがしやすいでしょう。(いや、そうでもないのか? このへんは土地によって事情があるかもですが)

「英語を自己責任で勉強して下さい。英語を話せないひとは会議にでられません」
より、ずっといいとおもうんですが。

あと、えーっと。音声言語しか考えてないの?
「英語が公用語です。英語をしゃべってください」
って、全員に言うの? 手話をつかう人にも?
おかしいでしょ。

いや、そうじゃなくて、通訳・翻訳ありきの「英語公用語」っていうことなのかもしれませんけど。
でも、それなら。べつに英語である必要ないよねえ。むしろ、積極的に英語を避ける理由はあるよねえ。金持ちをこれ以上太らせるな、っていう。
それこそ、エスペラント語でもいい。
私はまったく調べて無くて勉強不足なのですが、エスペラント語のネットワークをなめちゃいけないんじゃないか、とうっすら思ってます。

みんなに自己責任で英語を勉強させるより、会議の主宰側が通訳・翻訳の体勢をきっちりととのえる。

で、ですね。金の問題がのこりますね。
「じゃあ、その通訳・翻訳にかかる金はどうする?」

それについては、私に考えがあります。
懇親会です。
学会のあとって、なんかよくわかんない飲み会があるんですが。
その会費を、7000円くらいとる。
会場は、大学を借りれば。大学のせんせえがいれば、タダで借りられる大学もおおい。
で、近くのスーパーにいって、缶コーヒーを人数分買ってくる。
缶コーヒーじゃなくてもいいんです。麦茶でも。缶チューハイでも。
あと、玉子ボーロを1人に1粒、もしくは芋けんぴを1人1本、甘いものが苦手ならピーナツ1粒でもいい。渡して、
「ご歓談下さい」
っていう。

で、差額を通訳・翻訳にかかるお金にまわす。
これでいいでしょう。

酒が飲みたかったら二次会に自腹でいけばいい。


posted by なかのまき at 19:59| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記

2010年10月12日

優先順位のもんだい

基本的に、私は、筆跡診断より筆跡学が怖いとかんじてます。

なにかというと、筆跡診断は教育の場には入ってこないでしょう。
だってあまりにも金もうけのにおいがプンプンするんですもの。
こーゆーのは、がっこーのせんせえはきらいだとおもー。

どっちかというと、書育とか川島隆太氏あたりと結託して、筆跡学をもちこむ方がありえそうで、こわい。書道の人がね。
だから、筆跡診断より筆跡学ね。
でも、もちろん、筆跡診断が心理学を騙る以上は、筆跡学といっしょに批判するひつようあるとおもうのですが。

なんか、筆跡診断は、だから、心理学を騙ることをやめて、開運とか、自己啓発とか、そっち系でやってもらえれば。
最低限、教育と人事採用にさえ使われなければ、筆跡診断は、問題としてとりあげるは優先度は低いです。

あ、これは私の国語科の寄生虫という立ち位置からの意見です。
他の場所からみたら、筆跡学なんかよりも筆跡診断が問題になる場合もあるかもしれない。

というか、自分が汚物まみれなのに他人を指さして、
「おまえ、くさい!」
っていう、それがなんか、ダメじゃないか。

エセ科学満載かつ、影響力が大きいのは筆跡診断じゃなく、日本語学と国語科教育だよねえ。

日本語特殊論
漢字不可欠論
漢字仮名交じり文じゃないとダメなんです論
漢字は表意文字なんです論

日本語特殊論を信じてる日本語学の人はいないとおもうけど、それ以外は信じてるよね。
筆跡診断たたくより、そっちだろう。私がやることは。

posted by なかのまき at 10:26| Comment(0) | TrackBack(4) | ニセ科学;筆跡学

2010年10月01日

筆跡診断

先日かいた

筆跡学はニセ科学でいいのか

にいただいたコメントへの答えをかいてなくてすみません。

なやんでます。

きほんてきには、筆跡診断と共存したいです。
私は。そういう方向でかんがえてます。
でもまだぐるぐるしてます。
posted by なかのまき at 22:06| Comment(2) | TrackBack(0) | ニセ科学;筆跡学