2010年09月29日

まだまだクレッチマー類型論

前回の記事「ニセ心理学にだまされるな!」の帯が下品だとおもったわけで紹介した渡邊芳之(わたなべ・よしゆき)氏がネット上でクレッチマー類型論についてのべている記事がありましたのでご紹介します。

ABOFANへの手紙(前半)

おお、また血液型診断の話だ。
引用します。

メール(その6) H12.1.26 14:03
ABOFANへの手紙(6)
(略)
5.読者からのメールについて
(略)
> それと、やはり、「クレッチマー説」についての決着(オトシマエ)はきちんとつけて
> 欲しいですねえ。渡邊さんにとってはスカみたいなテーマで鬱陶しいだけでしょうから
> これについての議論はのぞみません。否定的な傾向が強まっているようですので、とり
> あえず、「血液型と性格は関係ないのになぜ多くの人が関係あると思っているのか」を
> 「体格と性格は関係ないのになぜ性格心理学の専門家が関係あると思っていたのか」に
> 変更して「心理学会」で見解を確定させていただきたいという希望を述べておくことに
> します。

この「スカみたいなテーマ」なんて言い方は実に私っぽくて,その点で「読者=渡邊」ではないかと他の心理学者はますます疑うと思いますが(笑),ホントにスカみたいなテーマですね.で,まあクレッチマー説は「体格と関係のある精神病の症状や,その精神病に特有の性格傾向を理解するためにはある程度有効だが,健康な人間の性格を理解するためにはもはやあまり考慮されていない」ということになるでしょう.

ただ,ダメになった学説はいつもきちんと否定されるかというと,そんなことはありません.それは「老兵は死なず,ただ消え去るのみ」ということになって,新しい学説に自然と交代していくものです.だって,天動説や錬金術を,どこかの学会が決議をもって否定した,なんてことはたぶんないでしょう(あるかも知れない.もしそういう史実をご存じの方はぜひ教えてください).

とはいえ,ダメになった説をちゃんとやっつけておかないと「老兵が復活」ということになる場合もあります.血液型についても心理学業界では一応「昭和15年頃に決着済み」というのが公式見解なのですが,その時はきちんと心理学的な議論で決着を付けずに,血液学者や生理学者の応援や,東京帝国大学の権威などを利用してうやむやにしてしまった経緯があります.だからこうやって復活してきても効果的に戦えない.
それは反省する必要がありますね.

クレッチマーは現に心理学の教科書に堂々と載っているんだから,血液型より深刻な問題かも知れません.血液型は心理学の教科書に(ごく一部を除いて)載ってませんから.基本的に同じ問題なのに,そっちはほっといて血液型だけやるというのは,私もけっこうずるいのかも知れない.やっぱり学界の権威が恐い? 否定はできません.


強調は引用者です。
おおー。心理学の人がネット上でここまですぱっとかいてくれていると、いいですねえ。

それにしてもこのページ。
すっごいおもしろい。
なんか、いろんな意味でおもしろいのだけど。
読み物としておもしろいし、勉強になります。「への手紙」のところは。
これがタダでよめるなんて。


あとなんか、心理学の世界もたいへんなんだなー。ということがうかがえます。
私カンチガイしてたのですが、クレッチマー類型論って、心理学の世界ではもうとっくに解決済みのものかとおもってたのですが。
……そうでもないのか。
「クレッチマーは現に心理学の教科書に堂々と載っているんだから,血液型より深刻な問題かも知れません.」とか。そうか。

なんか、なんの根拠もなく、日本語学でいう「神代文字」と同レベルに決着がついた問題だとおもいこんでいました。
(ああ、でも数年前の日本語学会で神代文字の話題でたなー……)

あ、神代文字については

wikipedia 神代文字

あたりをどうぞ。
でも、このwikipediaの記事、両論併記っぽくていやんなかんじ。

私が学部時代につかった教科書をぱらっとめくってみたらこうかいてあります。

「神代文字」としてわが国に古く固有の文字があったとする説が近世の国学者を中心に主張された。しかし、その実例として示された「日文(ひふみ)」は四十七音節、他の例も五十音節以上にでることはなく、『古事記』では八十八音節が区別されているという上代の音韻の実態さえ反映していない。また、神代文字で記された確実な記録・文献に欠けるところから、今日では、その存在は認められていない。(『新訂 国語史要覧』)
posted by なかのまき at 21:32| Comment(0) | TrackBack(0) | ニセ科学;筆跡学

2010年09月27日

「ニセ心理学にだまされるな!」の帯が下品だとおもったわけ

渡邊芳之(わたなべ・よしゆき)2010『性格とはなんだったのか 心理学と日常概念』新曜社

これがおもしろかったわけですが。
とくに印象に残っているのが、ここ

(7)相互作用論は新しいか

相互作用論の「行動とは人と状況との相互作用で定まる」というテーゼは、前にも述べたように、一貫性論争よりずっと以前から心理学の多くの分野に共有されてきたものであり、基本的に正しいというほかない。しかしそうであれば、相互作用論はそれよりも40年も前に提唱されたレヴィンのB=f(P,E)のテーゼといったいどこが違うのだろうか。
 もっとも大きな違いは、公式の中のPに入るものである。レヴィンの時代には、性格特性などの性格概念がそのまま人の側の要因、内的要因としてPに代入されていたことは先にも述べた。レヴィンの影響を受ける実験社会心理学で、実験要因と相互作用させられていたのも、たとえば性格尺度で測定された性格特性だった。
 一貫性論争を経た相互作用論においては、性格特性などの性格概念の位置はPではなく、相互作用の結果としてのBであり、Pに位置づけられるのは性格概念ではなく、真に状況とは独立の内的な変数(相互作用論ではおもに認知的個人変数が想定される)である。(p.83)


ここのところを読んで、え−! そうなのか。と、びっくりでした。
性格一貫性論争をへて、だいぶすごいことがおこったんだな。とおもいました。

で。こうなると、ますます血液型性格診断や筆跡学のはたいろがわるくなりそうだな。そもそも性格ってなんだよ。って話なので。
などと私は素人かんがえでおもってしまうのですが。

それをふまえて。
今日は

「ニセ心理学にだまされるな!」にだまされるな!というきもち

という記事のつづき。こちらをあわせてごらんください。
古澤照幸(ふるさわ・てるゆき)2007『ニセ心理学にだまされるな!』同友館

この本について私は2点、けちをつけてます。

ひとつめは、帯の「ananの読者よ目覚めよ!」
っていうこれが、下品だ。っていってます。

このときは詳しく書かなかったというか、あまり考えず感情だけで「下品」っておもっちゃったのだけど、理由をかきます。

まず、この本は読者のターゲットとしてananの購買層をかんがえてないでしょう。
え? だって、本当にananの読者にこの本を読んでもらいたかったら、

「ananの読者よ目覚めよ!」

なんていうすっとんきょうなコピーにはしなかったでしょう?
「ananの読者よ目覚めよ!」なんて帯に書いてあるすっとこどっこいな本、私がananの読者だったらぜったいに手に取らない。
この本のターゲットは、飲みの席で血液型について言及する小娘に、
「血液型なんか嘘だから信じちゃいかーん! んぷー!」
ってえらそーに説教たれたいおっさんでしょ。そのためのネタ本でしょ。
いや、おっさんだけじゃなくておばさんや小娘もいるかもしれませんが。

つまり、読者のターゲットとして想定していない層をわざわざとりたてておとしめることで、説教口調でしかりとばす帯に快感を覚えるある種の人の財布をゆるめる効果をねらってるわけで。これを下品といわずになんというか。

(いや、ananの血液型特集の内容も読んでみたらたいがいひどいけどね。それはそれとして)

つぎ。

学問としての筆跡学と商売としての筆跡診断のあつかいの差について。

3−4 筆跡学と筆跡診断―その科学性(pp.188-215)
から該当箇所を引用

 ここでは、科学としての筆跡学について話を進めながら、民間で作られた筆跡診断を筆跡学からとらえ、実際に筆跡診断が利用できるものかどうか、つまり筆跡診断の有用性について検討してみましょう。(p.188)

上で示してきた筆跡診断と研究者による結果との間での一致の程度を図表3−22に示しました。
 ◎を完全一致、○をほぼ一致、△を部分的に一致、×を不一致として表中に記述しておきました。ここでは、一応の基準を研究側に求め、どの程度一致するかが筆跡診断の成績としておきます。(p.213)

「文章の内容は流暢にながれる。つまり、第一の内容から第二へ、第二から第三へというように停滞泣く流れる」という部分は、等間隔性の「処理能力がある」「仕事が順調に進む」とつながるでしょう。この点では、完全ではなくとも筆跡診断が当たっている部分となるでしょう。



筆跡学と筆跡診断を比べてみるじゃなくて、筆跡学で筆跡診断の評価をする。筆跡学という正解をだして、そこからどれだけ筆跡診断が”まちがって”いるかを問題にするんですか。
いや。いいけど。

そもそも、その”正しい筆跡学”がクレッチマー類型論をつかって大まじめに研究してることにはつっこまなくていいんですか。
なんで槇田論文を「科学としての筆跡学」の例としてとりあげられるんですか。

それで、筆跡学と一致する部分にたいして、「筆跡診断が当たっている」という判断をくだす。
筆跡学どんだけえらいんですか。大学?大学だから?

いまの段階では、筆跡学も筆跡診断も思いつきでてきとーにやられてるレベルのものであって、その流派がちがうんだから、一致しなくてもあたりまえだとおもうのですが。血液型診断と星占いで違う結果がでるのと同じだとおもうんですが。
そもそも、「私の性格」っていう作文を書かせて、作文の内容と字を分類する、っていう実験方法の黒田論文と、
クレッチマー類型論つかってる槇田論文もまったくべつの流派だとおもうんですが。「大学の筆跡学」でくくっちゃっていいんでしょうか。
いっそ、黒田筆跡学と槇田筆跡学の比較もしたらどうですか。
なんで大学の研究室で行われた実験には批判がないんですか。

いや、筆跡と性格の関係を調べるような研究をするな、といってるわけではありません。
黒田氏の論文と槇田氏の論文は学史でしょ。学史は学史としてあつかってほしいのですが。
今現在の心理学の検証にたえられる論文じゃないでしょう。
そこのところ、ちゃんとかいてほしいんですが。
いくら一般書とはいえ。いや、一般書だからこそ。

なんでこういうことを書くかというと、
筆跡診断の世界で、黒田論文と槇田論文がしきりと引用されるからです。科学のお墨付きをあたえるために利用されてるんですよ。
そこのところかんがえてほしいです。

あとね。もうひとつ心配なのが。
クレッチマー類型論が自己啓発系の商売につかわれてる気配がありますよ。
ネットで「クレッチマー類型論」で検索してみるとわかるとおもいますが。

心理学の人は積極的に「クレッチマー類型論はいまはつかいません」っていっちゃっていいんじゃないでしょうか。
なんかだめな理由あるんですか。
と、わかっててきいてみる。
posted by なかのまき at 21:33| Comment(0) | TrackBack(0) | ニセ科学;筆跡学

2010年09月22日

健康のためなら死んでもいい


えーと。

前回の記事。

うけいれる素地はあったのではないか

が自分でもきもちわるいので補足。

まるで私が学校教育になんか期待してるみたいなかきかたしてますね。
「水からの伝言」だけじゃなくて国語教育にまつわるあやしい言説をぜんぶ再検討しようよ!
そして健全な国語科を再建しようよ!

みたいに読める記事にしあがってますが。
きもちわるい。
いや、私は国語科になんか期待してないよな。きほん。
むしろ、そういうあやしい言説なしにはなりたたない場所でしょ。あそこって。

ということをもうちょっと強調したほうがよかったかな。

けっきょくなにかというと、
筆跡診断が書写に入り込んでもなにも不思議はないね。
でも、だから「書写に筆跡診断ははいってくるな!」
も、いちおういったほうがいいけど。むしろ。
「書写なくそうよ。筆跡診断はいってくるし」
なので。

あと、「国語科なくそうよ。日本語特殊論と漢字不可欠論とどうしたって縁が切れない教科だし」
だよね。
(注釈つけますが、言語学的には日本語は漢字仮名交じり文で書かないとダメ、とか、漢字仮名交じり文がいちばんいい、とかそういうのはないにもかかわらず、「日本語は音韻が少ないから」とか「漢字があると速く読めるから」とかちょっと「科学的」っぽい言葉でかざりたてて、日本語を「特別な言語」とみなして「漢字仮名交じり文じゃなきゃね!」っていう。そういうの。
世界にどれだけの言語があるか知ってる?日本語程度には音韻が少ない言語ははいてすてるほどあるってのは知ってる?とか、日本語教育の教科書にローマ字表記のものがどんだけあるか知ってる?とか、点字ってどうやって書いてるかしってる?とかかんがえると、「日本語は漢字仮名交じり文で」なんてあきらかにおかしい。
おかしいし、「健常者で日本語を第1言語としている、右手利き」がつかう日本語だけを「日本語」として想定してるから、問題なんですよ)

というかね、もう、学校なんかいらないだろ。

などとおもうのだけど。

そうすると、
「いや、じゃあ大学に寄生していきてる自分はどうなんだ」
ってはなしで。
そう。私は国語科の寄生虫です。
あ、こうかくと国語教育の人にまちがわれそう。
私は日本語学の人です。
で、日本語学で食ってる人は、国語科に寄生して生きてる人っていうことです。
そんな自分が「学校をなくせ」とかいったら矛盾してないか。
と、思われるかもしれないけど。

むしろ、国語科に寄生してる今だからこそ、いっちゃったほうがいいんじゃないか。

「私は国語科のダニだから、宿主の健康には気をつけて当然だ。(宿主の)健康のためには(宿主が)死んでもいい」

いや、わりと本気で。
posted by なかのまき at 20:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2010年09月19日

うけいれる素地はあったのではないか

今日の記事の内容は考え途中のことなのでもやもやしてます。


学校のせんせえが「水からの伝言」をうけいれてしまったのはなぜなのか。
という話があるのですが。
そもそも、科学的な思考ってゆーのは、ある程度訓練をうけて、そういう習慣がついてる人じゃないとむずかしいのではないか。
訓練というか、科学的な思考への信頼感。

注意深くならなければ、ふつうの人は、ふつうにご都合主義な解釈をしてしまうのが、ふつうなのではないかと。
だって科学的思考って制約が多いですもの。
それをすることによってみかえりがあるとじゅうぶんに理解できてないと、ふつうできないとおもう。

で、科学的な思考をできない場面をみて、
「なんでこんなにわけのわからない人なんだ」
って、その人が特殊なバカだと決めつける、そういうのは益がなくて。
できなくてあたりまえ、できるにはある程度の訓練と科学的思考への信頼感が必要。
というくらいの認識でいたほうがよくて、まあ、そんなことはわざわざ私がこんなところで言わなくてもとっくに指摘済みとはおもいますが。

ここまで書いて、でもじつは、むしろ、
公教育の一部の場で、科学的思考を習慣にすることを阻害するようなことが、日常的に行われているという面もあるよな。
と。おもって。

学校まわりの場で、うらをとらないあやしいグレーな発言があたりまえにくりかえされることで、感覚がまひしてきて、ここでとうとう、真っ黒になってしまった。
というなんか。そういう部分もあるんじゃないかと。
そんなに、「教育の場であんなものがうけいれられるなんて!」って、おどろきとか、理解できないとか、ではない。
おそろしいことに。

むしろ学校のせんせえが(ぜんぶではないけど)うらをとらないあやしい発言を日常的にくりかえしているのではないか。
学校という場が、そういうあやしい発言なしになりたたなくなってしまっているのではないか。
という気がします。

つまり、むしろあの場では、科学的な思考を積極的にじゃますることが、日常的におこなわれてはいないだろうか。
なにかというと、

たとえば
「あいさつをするときもちがいいのであいさつをしましょう」
とかね。小学校でいわれました。
あいさつは個人の快楽のためにやってるんですか。
なんで「きもちがいい」とかいわなければいけないんですか。きもちわるい。
そんなうそをつくくらいなら、
「それがルールでマナーだ」
っておしつければいいじゃないですか。そのほうがまだましでしょ。
なんか、こういうときには、すじが通ってるかどーかより、それっぽくて甘ったるい言葉が、ぬるぬると口からすべりでる、そのここちよさが重視されている場面がおおいきがする。
ただ、「あいさつをするときもちがいい」は、真っ黒ではないんですよね。あいさつは人とのつながりをたしかめるものだし、人との接触はやっぱりけっこうな快楽なわけで。
あいさつをしたとき、きもちがいいということは「まあ、まるっきり嘘とはいいきれないよね」くらいは言えるとは思います。
「きもちがいいからあいさつしろ」はどうかとおもうが。

あと、これは日本語教育の実践研究かなんかの本でよんだんですが、敬語について。
「敬語は人への尊敬の気持ちをあらわすものです」
とおしえたら、学習者が、日本語教師にむかってものをいうとき、ある先生には丁寧体で、ある先生にはふつうにはなしかけていたそうです。
それで、理由をたずねたら
「あの先生は尊敬してるけどあの先生は尊敬してないから」
って。いわれたということです。
すみません。これ、出典をわすれました。

で、これ、その日本語教師の敬語の認識がまちがってるわけです。
日本語学の敬語研究の蓄積を無視して、「人への尊敬の気持ち」なんていうぬるぬるした心地よい言葉を教室という空間でたれながしたんですよ。


「うそも方便」みたいなかんじで「あいさつをするときもちがいいから挨拶しろ」みたいな、
そういうのがくりかえされていくうちに
うらをとらないでもっともらしいことをいって自己満足する、という風景をあたりまえにしていくうちに。
いろんなものがまひして。
どこからどうみても真っ黒な「水からの伝言」が来ちゃったのではないか。

という。
そういうこと

教育まわりにかんしてはわりと、「水からの伝言」を受け入れる下地は、じゅうぶんにできていたのかな。と。

そもそも、あそこには科学的に思考することを阻害される機会は日常的にいくらでもあって。
「水からの伝言」だけが特殊な例ではなく。
日常的にくりかえしていくうちに麻痺して、ふときづいたら「あまりにも真っ黒すぎる」ものをよびこんでしまっていた。

とかげがしっぽをきりおとすように「水からの伝言」をきりおとして、それでよしとしてしまわないで。
どうしてそれをうけいれてしまったのか。
ちょっと検討してみてもいいかもしれないなあ。

たとえば、ほかの教科はわからないけど、
国語にかんしては「日本語特殊論」と「漢字不可欠論」の根も葉もない二大ヨタ話が跋扈してるからなあ。でも漢字不可欠論ないと国語ってなりたたないからなあ。とか考えると。
「水からの伝言」におどろいてるばあいでもないかと。


だいたい、

文化審議会答申がひどいですよ。


○青木委員 インド人のIT技術者に以前伺ったのですが,インドではどうしてIT技術に非常にうまく適応できてその才能を伸ばせたのかというと,サンスクリットの言語構造とコンピュータの構造が非常に似ていることがあるということでした。インドというのは,ゼロを発見したところで,MITそのほかのアメリカの大学にもインド人の数学者が非常にたくさんいる。


こーゆー発言を「いや、まずいだろ、それ」
って。言えなきゃだめじゃないかな。
これをみるにつけても、
こうやって、おおやけの場でうらをとらないでなんかそれっぽいことをいうことが日常的に許されちゃえば。
「水からの伝言」を呼び込んじゃってもしょうがないきがする。
posted by なかのまき at 12:48| Comment(0) | TrackBack(0) | ニセ科学;筆跡学

2010年09月16日

書道はわかんないですよ

「筆跡診断って、資格商法だよね」
ってなんとなく根拠もなくおもって、googleで検索してたら、たまたまみつけたのですが。

はてなブックマークというもので、このブログの記事を紹介してもらっておりました。


おお。ありがとうございます。
……で。

あれ?コメントみると。
私、書道の人だとおもわれてる?

あれっ。
と、おもってそういう目でこのブログをよみかえしたら。

ああ。たしかにちょっと書道関係者のブログにみえないこともないですね。
いや、うん。書道の人のブログにみえますね。
これは。
説明がきが必要ですね。

えっと。

ここは、左手で字をかくひとをいじめないで、というブログです。

なので、左手書字者を存在しないものとして無視している学校国語科書写教育のありかたの批判してます。

具体的には、
・毛筆全員必修が学習指導要領できまってますが外してください
・「筆順指導の手びき」は実用面ではひじょうにトンチキなのであれを唯一絶対の「正しい筆順」としておしえないでください
・手書きの字をかかないと一日も過ごせないような学校教育のあり方おかしいでしょ。左手書字者がいるんだから。

みたいなことをいってます。
そこから、
「書道趣味満開の書写教育を義務教育からはずして、パソコン書字をふくめたまともな書字教育にくみなおしてください」

ということをいってるブログです。

で、そういうことをしらべていくうちに書写教育の人が筆跡学・筆跡診断に寄っていることにきづいて、「それはやめようよ」っていってるんです。

書道にかんしてははまったく知識も素養もありません。
あと、きほんてきに、書道のひとは「書は人なり」なので筆跡診断とは仲良しだとおもう。
いやいや、決めつけちゃいけませんね。
書道の人のなかにも、ニセ科学きらいなひともいるかもしれません。

まあ、とにかく。私は書道の人じゃないです。
でも、書道の人にまちがわれてもまったく文句のつけようがない内容ではあります。
あとでトップページに注意書きつくっておきます。

あ、でも。

最近、学生さんのレポートでブログからのコピペが(いちぶの了見の狭い)大学のせんせえのあいだで問題になってるっぽいですが。

教職課程の書写のレポートなんかでさ。
私のブログを書道の人がかいたとおもって。
コピペしてレポートつくってせんせえに提出してくれたら。
ちょっといいなあ。

がんばれ。コピペルナーにまけるな!


まあ、このブログの文章コピペしたら、まちがいなく単位おちますので、やめておいたほうがいいとはおもいますけど。
posted by なかのまき at 23:10| Comment(0) | TrackBack(0) | ニセ科学;筆跡学

2010年09月09日

私たちは丈夫に梱包された貨物じゃない

清水真木(2009)「いわゆる「優先席」について」(明治大学教養論集44 pp.1-38)

「優先席」の三文字が指し示している空間は、かつて「シルバーシート」の名を与えられていた座席に代わるものとして、平成九年に姿を現したものである。シルバーシートは、昭和四八(1973)年に、当時の国鉄が普通車の自由席に設定した座席であり、この座席は、「お年寄り」と「身体の不自由なお客さま」が優先的に坐ることが望ましい座席として、他の座席から区別されていた。(略)
 現在の優先席に割り当てられている座席は、昭和四八年から平成九年までシルバーシートのために確保されていたのとほぼ同じ場所に割り当てられており、優先席がシルバーシートを引き継ぐものとして考案されたものであることがわかる。しかし、シルバーシートと優先席のあいだには、無視することのできない差異が横たわっている。


あ、最初にネタバレしておきますと、
この論文、かなり、くらいのたかいトンデモ論文です。

JR東日本が優先席に坐ることを想定している客層とは、「身体の不自由な方」「お年寄りの方」「妊娠している方」「乳幼児をお連れの方」の四種類である。
 これら四種類のうち、「妊娠している方」と「乳幼児をお連れの方」は、シルバーシートが設定されたとき、国鉄が配慮すべき乗客の中に数え入れていなかった乗客であり、しかも、優先席が設定されたとき、優先的に坐ることができるよう配慮することが望ましいと新たに考えられるようになった乗客である。


はい。そうですか。

 当然、「妊娠している方」とは、必ず女性であり、「乳幼児をお連れの方」もまた、大抵の場合、女性である。おそらくそのためなのであろう、JR東日本がこれらの乗客に配慮するようになったという点に関し、明確な異議申し立てが行われたことは一度もないようである。現代の凡庸な常識を前提とするかぎり、女性を重視するような方向への変化はすべて、何らかの意味において「進歩」と見倣されねばならず、JR東日本がシルバーシートを優先席に変更したという事実もまた、進歩として理解されねばならないからである。


強調は引用者です。
えーと。ネタにマジレスするのはカッコ悪いかもしれませんが。
女性の重視じゃなくて。「こどもを守る」じゃないの?
乳幼児連れてる男性だってふつうにいるんだし。
まあ。ともあれ。「現代の凡庸な常識」バンザイ。


誰もが実際に認めているのは、「女性に対し特別に配慮することが進歩である」ということではない。むしろ、「女性に対し特別に配慮することが進歩であるという主張を否定しないのが『政治的に正しい』(politically correct)態度である」ことが万人の同意できる唯一の点である。言い換えるなら、誰もが認めることのできることがあるとするとするなら、それは、次のような点だけであることになる。「シルバーシートが優先席へと更められるにあたり、妊娠した女性と乳幼児を連れた女性が優先的に坐ることができるよう配慮されるようになったという事実を進歩と認めない者は、『恥ずかしい』『野蛮だ』『時代錯誤だ』などの情緒的、道徳的な非難の言葉を向けられることを覚悟しなければならない」こと、「優先席の誕生が進歩であることを公然と疑ったり否定するには勇気が必要となる」こと、「この点に関し露骨な異議申し立ては避ける方が無難である」こと、万人にとって同意することが可能であり必要であるのは、これらの点だけであろう。


ところでこの清水真木(しみずまき)という人は明治大の商学部の准教授で、哲学が専攻だそうです。
日常的なことがらから深淵な思考のテーマをひきだす。
さすが哲学。
「なぜ優先席に妊娠してる人と乳幼児をつれてる人はすわってよいのか」
なんて哲学。


妊娠した女性や乳幼児を連れた女性に対し席を譲るべきであるという要求には、確実な根拠が欠けている。これは、さしあたり、受け入れることが「政治的に正しい」態度であるような要求、それ自体として妥当であることの根拠が問われることはないような種類の要求にすぎないのである。


はあ。
まあ。たぶん。確実な根拠は。
「大人がのることを前提につくられた電車にのるには、こどもはあまりにも弱いから、大人がみんなでこどもを守るためにすわってもらう」
だとおもうが。

で、このあと昔は妊娠した人と乳幼児を連れてる人に席をゆずるのはマナーでもなんでもなかったということが説かれます。

そして次。

障害者に目がいきます。
シルバーシートの話にもどって、


現在でも、「シルバー」という修飾語は、高齢者に関するものを表示するために使われている。障害者に関連するものに「シルバー」の語が用いられることはない。障害者が「シルバー」という言葉を含むもの、たとえば施設やサービスを利用するためには、彼女は、障害者であるばかりではなく、高齢者の資格もまた満たしていなければならない。「シルバー」という修飾語を含む表現が使われるとき、私たちは、高齢者だけを想定しているのである。


はい。
優先席にすわることが想定されてるなかで、著者は、

「妊娠してるひと」「乳幼児を連れてるひと」に席を譲るには明確な根拠がない。
「障害者」にたいしては、優先席の前身のシルバーシートにことよせて、「シルバー」と名前がついてるものは高齢者だけを想定してる、(障害者は想定されてない)と述べてます。

そして結論は以下のようになっております。


私が席を他の乗客に譲ることができるためには、相手の乗客が、尊敬の感情を惹き起こすための一般的な条件をみたしているように見えることが必要となる。そして、尊敬の感情を惹き起こすような性質を具えていると伝統的に考えられてきたのは、「高齢者」と現在呼ばれているような人々であった。



最後、このような言葉でこの論文はむすばれております。


しかしながら、最近の日本では、電車やバスの車内において席を譲る相手に関し、これまで述べてきたような理解とは相容れない考え方が見出される。そして、それは現代の日本人に特徴的なある弱さを反映しているように思われる。


妊娠してる人や乳幼児をつれている人に席をゆずるのが「弱さ」であるなら。弱さというものも、すてたものじゃないね。
そういう弱さを、わたしはもっていたいです。

というか。
もう、だらだら引用したけどこのさいこの論文はどうでもいいので。


電車にのるのがつらい、っていうひと、たくさんいます。
満員電車とかは、わたしもつらいです。
体調がわるいときは、なおさらです。

電車のしごとは「はこぶ」です。
私たちは、宅急便がこわれないようにきっちり梱包するけれど、自分が電車ではこばれるには、やっぱり、かんぜんに強くなれないで、弱い部分もあったりするわけで。
席を譲る、っていうのは、電車のもつ、「スムーズに運行されるには、運ばれる人間にある程度の強度を要求する」というふべんな欠点を、
完全にではないけれど、それなりに、おぎなうための行為なんだとおもう。

席を譲る、なんて博愛の精神ではなく、
「明日も無事に電車がはしるために。
あわよくば空いてる席に自分が座れるように」
という、利己的な行為で私はそれをやっていて。
だって、立ってるのが辛そうな人に席を譲らない人間ばかりになってしまったらそのうち法律できまりますよ。
「○歳以下の健康なものは電車の椅子に座ってはならない」
みたいなね。そういうのが。

人間の弱さを考慮に入れない鉄のカタマリが、明日も運行するために、電車のシステムを維持し続けるために、譲ってるんです。

でも、疑問もあって。

こんなバカな距離を毎日移動しないと生活が維持できないなんておかしいんじゃないかとか、こんな大勢でいっぺんに移動しなくてもいいじゃないかとか、
もうすこし、弱いときにでも快適に乗れるようにしてくれないものだろうか、とか。

いろいろおもいながら、それでも電車に依存していきてます。

posted by なかのまき at 21:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2010年09月07日

バカセはここにもきているよ!

最近、休みの日は護国寺にある筑波大学附属視覚特別支援学校の資料室にいってます。

ここにはふるい点字の資料があって、それを写真撮影させてもらうのと、あと視覚特別支援学校の卒業生の方に点字から墨字への翻字をおねがいしてます。

これに科研費が当たったんで。よかったー。ほんとうにありがたいです。
撮影風景はこんなかんじで。

デジカメと複写台

デジカメはすごい色のがとどいてしまってびっくりしてます。
(ものめずらしさでこの色にしたのだけど後悔してます)
複写台はものすごい使える。そもそもカメラはシャッターが右側にしかついてないので。カメラを固定できる複写台ほんとに助かってます。


で、今日から翻字作業をおねがいしたのですが。
私は調査の都合上、翻字のみでおねがいしてます。
だけど、はじめるとき
「わかちがきをくっつけて漢字かなまじり文にしますか?」
ってきかれて。
「いえっ。もう、いっさい加工しないでそのまんまでおねがいします」
っていったら、一緒にいたせんせえが、
「あらー、それじゃあ楽ねえ。(漢字仮名交じり文に加工しなくていいなんて)申し訳ないみたい」
って冗談交じりでいって。
ちょっとそれがショックでした。
本来なら、申し訳ないっていわなきゃなんないのは、「漢字かなまじり文にしろ」なんて要求する側なんですから。

この筑波の視覚特別支援学校の資料室は特別に資料室員さんがいるわけではなく、教科をもったせんせえがそのかたわらで管理しているわけで。
きほん、研究者が調査しにいくのなんか、せんせえの仕事のじゃまをしにいくのとほとんど一緒ですね。
それなのに、すごくよくしていただいて本当に助かります。

で、よくまあ、研究者がこの資料室に行ってるらしいです。
わりとコンスタントに調査の人がくるみたいです。
なにしろ、明治・大正期ごろのまとまった点字資料がそろってるので。
私以外にも科研費の調査があったようだし、それ以外にもいつでも古い資料の点字から墨字への翻字作業がおこなわれているようです。

で、今日、資料室のせんせえに
「みんなここの資料の写真とっていっちゃうんだよね」
っていわれました。
こうやってさんざん資料をあさり散らかして、自分の業績にして。
それで終わり。なんですよね。

なんか、だから、今日はちょっとショックだったんですよ。

さんざんっぱら資料を使いたおして、翻字作業を安いアルバイト代でおねがいして、それで成果物を吸い上げて自分の研究業績にしておいて。

「漢字かなまじり文に加工しなくていいなんて申し訳ないみたい」
なんて。
そんなこといわせておくなんて。
調査に協力してくれたひとたちに、なにも返せないなんて。

「漢字かなまじりじゃないとダメ」で、翻字作業は点字つかってる人におしつけて。それがどんなにしちめんどうくさくて、ものすごい高度な技術なのかにきづかないで。
あたりまえのように「漢字かなまじりにして」って。要求して。
「漢字かなまじり文にしなくていいなんて、もうしわけない」って、そんなことまでいわせておくなんて。


だからね。
この資料室にも、おびただしい数のバカセがやってきて、
資料をあさりちらかして、かえっていきます。

もちろん、自分(なかのまき)もふくめて。


参照

調査されるという迷惑―フィールドに出る前に読んでおく本調査されるという迷惑―フィールドに出る前に読んでおく本
宮本 常一 安渓 遊地

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調査されるという迷惑

序章 宮本常一先生にいただいた言葉 第一章 調査地被害―される側のさまざまな迷惑 第二章 される側の声―聞き書き・調査地被害 第三章 「バカセなら毎年何十人もくるぞ」 第四章 フィールドでの「濃いかかわり」とその落とし穴 第五章 種子島にて・屋久島からの手紙 第六章 まぼろしの物々交換を知夫里島に求めて 第七章 「研究成果の還元」はどこまで可能か
posted by なかのまき at 21:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2010年09月05日

高校以前に留年したことあります

実は私、留年したことがあります。

保育所で。年長組のとき

なんか、引っ越しして、公立の保育所にはいったんですが、
そのとき、クラスの人数が多すぎて、誕生日の早い私ともう一人が、飛び級したんです。
ただ、ちょうど私は引っ越しで保育所がかわるという時期とかさなったので、飛び級した意識はないわけです。
で、年長組(ねんちょうぐみ)というのにはいって、一年過ごし、
そして留年。もう一年、年長組をやったんです。
年中組からあがってきた子たちから、
「なんであんた、小学校いかなかったの? 他の子みんな、小学校にいったのに」
ってきかれるわけですね。
で、あまりよく把握してなかった私は、自分がちびでバカだから小学校から「あんたはまだだめです」っていわれたものだとおもってしまったわけですね。
ちょっと大きくなってから本当の事情を知ったんですが。
というわけで、実態はともかく、気分的には本格的に、留年してます。
ただ、そんな悲壮感はなかったですねー。
おかげで一緒に留年(笑)した子とはすごく仲良しになれたし。
繰り上がってきた本来の同級生とも、最初のうちは「なんでいるの?」ってきかれたりはしたものの、すぐになじみましたので。

で、ようやく小学校にはいって。
二年生のときに。担任の先生がある日、私があまりにも漢字ができなくて。
「こんなに漢字がかけないなら3年生にしてあげないよ!」
って、みんなの前で言ったんです。
で、私はわりと、大人の言葉の裏がよめなくて、言われたことを額面通りにうけとるこどもで、
「ああ、そうか。私また、留年するんだ」
って。
保育所でじっさい留年してるんで。そういうこともあるだろうと。納得しちゃったんですね。
で、家に帰って母に
「私、もういっかい、2年生やるみたい」
って報告したんです。
「漢字が書けないから3年生にしてあげない、って先生に言われた」
って。
そしたら母が「ぷっ」ってわらって。
「そーゆーこと言えばこどもがこわがってまじめに勉強するとおもってる人なんだろうねえ」
って。おしえてもらいました。
で、ぶじに3年生に進級できました。

ということもあるので。先生。
かるがるしく「進級させてあげない」とかいわないようにね。
保育所で留年してる子だっているんだから。

あ、おもいだした。
6年生のとき、その「3年生にしてあげない」先生がまた担任になって、また日常的に漢字で怒られたんです。
そのころはようやく自我もめざめていて、あまりにもばかにされるのに腹が立って、
「ぎゃふんといわせてやる」
と、まじめに漢字のテスト勉強をして。
90点くらいとって。(それでも100点とれない)
そしたら先生がテストをかえしながら
「ほら、だからいったじゃない。なかのさんはやればできるって先生いってたでしょ」
って得意満面にいわれて。
がっかりー。ぎゃふんといわせたかったのに。
あのとき、悔しそうな顔で「いままでバカにしてごめん」くらいいってくれたらいい気になって、漢字がすきになったかもしれなかったのに。
「生徒のふできは自己責任だからいくらでもバカにしてよい。生徒ができたら自分の手柄」
って、それ、どうころんだって先生が有利なようになってるわけで。
そうしたら、勉強やる気なくなっちゃいます。
またひどい点数をとるようになりました。

遊ぶ時間を我慢して勉強していい点とって嫌いな先生を得意にさせるくらいなら、いっぱい遊んでテストで悪い点とって叱られる方がまし。

そんなこと考えるまでに、先生への不信感がつのっていた小学6年生って。
うーん。小学校後半はべつにふつうに学校にいってたんですけどねえ。
posted by なかのまき at 21:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2010年09月03日

「え? 血液型って占いじゃないの?」っていうカマトト反省会

きょうは反省会。

前回(2010年09月02日)の私の記事。

あまりにも書道への愛にかけてます。この写真のやりかた。
墨の色ひとつでガタガタいうような人々の大切なものをこんなにねじまげて……それでいったいなにをつたえたかったの?なにがしたいの?


この部分。
自分こそ、なにがいいたいの?
と、よみかえして自分でおもったよ。
「書道への愛」ってなんだよ。

うーんと、たぶん。

わりと、非漢字圏の場所での日本語教育の場で、書道が「日本文化をつたえる」ためにつかわれているということをふまえて。

日本語学習者のオリエンタリズムを刺激して満足させるために安易に消費される日本語教育という場での書道。どくぬきされて無害になったそれが、国内の書写教育の場にある暴力と結託して、「書道の有用性」のアリバイになるのではないかしら。
「ほらー、ガイジンのみなさんもこーやって、筆で字をかいて日本語をおぼえてるのよー」って。いって。「だからみなさんも”正しい”筆順で”正しい”字をかくために毛筆の練習をするべきなの」って。でも実際に日本語教育の場で行われてる書道は国内の書道趣味書写とはべつの、どくぬきされたものを、ちょこっと、オリエンタリズムをくすぐるためだけにやってるにすぎないの。
っていう、そういうことをやられたらたまらん。っていうきもちわるさ。かな。

書道はそのまま、輸出してください。
それで、「かわいそうな左手で字をかくにほんのこども。そして押しつけて疑問に思わない大人」っていう、日本の文化を、ちゃんとつたえてください。
ってことだとおもう。
べつに書道への愛うんぬんはどうでもいいですね。
どうでもいいことは書かないようにしよう。

つぎ。
前々回の記事

筆跡学はニセ科学でいいのか。


のところ。

血液型性格診断が科学的根拠ないし、さらにブラハラなんて言葉ができるくらい、差別的であるとして社会問題になってるのに、
「信じてるわけじゃないけど気になるから血液型おしえて」
っていう人は。
「信じてるわけじゃない」って自分自身が信じてるだけで。
かなり血液型性格診断と仲良しさんなのとおなじでしょう。


じつは、ちょっと前までの私が、血液型差別に荷担していたことを告白します。

なにかっていうと、

私、自分の血液型しらないんです。
そして父の血液型も不明というねんの入りよう。

なので、私は血液型で性格を決めつけられて不愉快な思いをしたことが一度もないんです。
ついでに、血液型で性格がどーのこーの、というのにそもそも興味がなくて、血液型についての知識もありえないくらいに欠如してました。

なんか、血液型で性格を決めつけ、ってのは星座占いみたいな、占いの一種だと思い込んでました。あと、B型差別があるってのをしりませんでした。
ついさいきんまで。
その状態で、たとえば飲みの席とかで血液型の話になることにかんして、べつだんなんにもおもってませんでした。
「ばかばかしいけど、話のネタでしょ? いいんじゃない?」
くらいにおもってました。
興味がないものにかんしては、大多数の意見になんとなくしたがってしまう、ってのは心理学の研究であきらかになってましたっけ。
それどころか、自分の血液型しらないから。
「血液型なに?」ってきかれて、「知らないんだよ。なんだとおもう?あててみてー」みたいに。話のネタとして、自分でも利用してました。
どう転んだってぜったいにその場では判明しないから、性格を決めつけられるという不安もなしに、じぶんだけ傷つかない場所にいて、「あててごらん」なんて自分が優位になるように会話をとりしきってたんです。
興味も知識もないものを、「ネタ」にしてあそんでたんです。
(ちなみに、あててもらったところですが、B型いがいの全部の血液型をいわれたことあります。ほらー。ばかばかしいですね)

で、ふと、興味も知識もないのに血液型遊びをやってみたくなった私はある日、「○○ちゃんは×型だよねー」みたいな会話にのりこんでいって、「いや、B型でしょー」っていってみて。
その場をこおりつかせたことがあります。思えばあのときにきづくべきだった。

そう。そのときまで、”B型が性格悪い担当”という血液型性格診断のいちばん大切な、常識的な知識を欠落させてたのです。
「あなたはB型でしょう」っていうのは、タブーとしらなかったんです。
しらないまま、血液型差別を利用し、助長させていたのです。
だめだよなー。

そのうち、筆跡診断つながりでじつは血液型性格あそびが「うらない」じゃなくて「ニセ科学」なのだということ、(もちろん占いの流派もあるらしいですが)、優生学由来だということ、その関係でB型差別が横行してるということ。
はじめて知って、ぎょっとしました。
「え。これ、血液型のことなんか、話題にしちゃだめだよ。なにやってるんだよ。これ。ばかじゃないの」
って一人反省会を実施いたしました。

興味がないもの、知識がないもの、自分が傷つかないものにたいしては内心小バカにするのと平行に、どこまでも安易に寛容になれるのです。

たぶん、私も荷担していた血液型ヨタ話をきいて、不愉快になった人もたくさんいたんだろうなあ。
じぶんが傷つかないモノ、興味ないモノ、知識無いものにたいして、それがひどいものだと、気づくのってむずかしいよな。
 自分の予想以上に。自分の想像力なんか、やっぱり、自分の都合の良いモノにしかはたらかない。
と。つくづく。おもいました。

だから、できれば、ふゆかいになったとき。「この場の空気を壊すのは悪いな」とかおもわないで。おこってもらえれば。
ありがたいです。
「やだなにおこってるのこのひと。へんなのー。きもちわるーい」っていわれることのほうがおおいかもしれないけど。私も経験的に、そうおもうけど。
もし、いえるようだったら、言ってみても、いいとおもいます。

それで、わたしのできることは。
「このひとになら、怒ってもだいじょうぶ」
っていう、人間関係をつくれるように。
って、そういうことだろう。
怒られたときに「やだっ!こわいっ!」って閉じてしまわないで、ちゃんと、その人が私に向かって怒ってる、その意味をかんがえられるように。




posted by なかのまき at 21:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 黒歴史

2010年09月02日

文化を輸出

書道教育のひととおはなしをしたら、

服についても洗濯すれば落ちる墨汁があるらしいです。

たとえば

クレタケの「洗って落ちる書道液」

とか。
こういうのがあるそうです。
でもね、書道教育のひとがいうには、

これ、だけど墨の色の発色が悪いので、この人の教室ではつかっちゃいけないらしーです。
……さようでございますか。けっこうなことで。

いや、私は書道の素養がないので。
墨の色がどんだけ書道に大切なモノなのかよくわからんのです。
なのでなんも言えません。

それで、
いろいろ書きたいネタがあるのですが、

あべやすしさんからMLで情報をいただいたので。
これを。


asahi.com 定住に備え日本語研修終了 ミャンマー難民9月来日

【メラ難民キャンプ(タイ北西部ターク県)=藤谷健】迫害や紛争から逃れた難民を第三国が受け入れる「第三国定住」で、日本で新たな生活を始めるミャンマー(ビルマ)難民が27日、事前の研修を終えた。第1陣の5家族27人は少数民族のカレン族で、9月28日に来日する見通し。

 この日午前、日本語研修と研修修了式が日本の報道陣に公開された。日本語の授業では、未就学児を除く5歳から40代までの22人が自己紹介や病気の訴えなど、実用的な会話に取り組んでいた。また、筆でひらがなを練習していた。
講師の安達幸子さんによると、1日4時間、14日間の短期間の講習にもかかわらず、これまで母語の読み書きもできなかった女性3人を含む全員が、ひらがなの読み書きや簡単な会話ができるようになった。


「自己紹介や病気の訴えなど、実用的な会話に取り組んでいた。また、筆でひらがなを練習していた。」

いみわからん。



石田敏子『入門書き方の指導法』(アルク・2007)


習字の心得がないせいか、筆の勢いによる些細な差も、外国人学習者が書くと、同じ字とは認めがたいほど標準的な形とは違ってしまいます。漢字テストの採点では、数人で採点しても正解と認めるかどうか決めかねてしまうこともあります。興味を持たせるためだけでなく、この意味でも、余裕があれば、書き方クラスの導入時または一部に習字を加えると効果的です。


これをまじめに実践してる人がいるとは。

毛筆は硬筆の字かくときにぜんぜん関係ないものだってのは、書道の人はちゃんとわかってます。くわしくは

書道教育史・戦後


加瀬琴已(2002)「戦後の教育課程における毛筆の位置付け」『書写書道教育研究』16 pp.11-21

を紹介しました。でね。
記事に「1日4時間、14日間の短期間の講習にもかかわらず」ってかいてあるんですよ。
このかなりきつい時間制限のなかでなぜわざわざ、毛筆で字をかかなきゃいけないの?
鉛筆とノートでひらがなのかきとりのほうがよっぽどいいじゃないですか。
なぜ筆。ほんとうにいみがわからない。

ただ、いちどこの文章をテキストの段階で読んだとき、
やってることのよしあしは別として、
わざわざ紙と筆と下敷きと墨と墨汁と硯と水差しと……というさまざまな重たい書道道具をタイまで運ぶとは。
鉛筆とノートの何倍もの重さと、費用がかかるだろうにわざわざそれを用意する、そのエネルギーに。
書道フェチというものはすごいなあ。
と思って。それだけでもたいしたもんだ。と考えたのですが。

じっさいの
asahi.comのページの写真をみてみて。
あれ?

リンク先のページの写真、よくみるとおかしいんですよ。
みてみてください。
写真のメインは、3にんのこどもがならんでるところです。

机をつかわずに、地面に直接下敷きと半紙をしいて、筆でひらがなをかいてます。しんどい体勢だな。
右がわの赤いシャツきてるこどもは正座をしてます。
で、真ん中の白いシャツと左の黄色のシャツのこどもは、あぐらかいてます。

書写の教科書の「正しい姿勢」ではありえない格好でかいてます。
筆の持ち方も、中央の白いシャツのこどもはペンをもつように握ってます。左の黄色いシャツのこどもにいたっては、筆の軸を上からにぎりこんでますね。しかも、紙を手に持って宙にうかせて字をかいてます。すごい風格ですね。
そして書き終えた直後なのに筆の穂先が白いのはなんで。
あれ?墨は? 墨汁はどこに置いてるの? あれー?

うん。たぶん、下のリンク先にあるような、墨を使わなくていい半紙みたいなおもちゃをつかっているのかとおもわれます。

水でお習字・半紙

これでしょ。
服を墨でよごすわけにはいきませんものね。
それに書道用具はこの半紙と筆と下敷きだけもっていけばいいですもんね。
お手軽ですね。

ところでさ。
これ、なに?
なにがやりたいの?

書道の人はこの写真みて、どうおもいますか。

クレタケの「洗って落ちる書道液」を使うのもいうやがるような発想をするひとたちですよ。

この写真をみたら、怒り狂うんじゃないですかね。
「こんなの書道じゃない! なにをやってるんだよ!」
って。

筆でひらがなをかかせる、という。それだけだけど。
あまりにも書道への愛にかけてます。この写真のやりかた。
墨の色ひとつでガタガタいうような人々の大切なものをこんなにねじまげて……それでいったいなにをつたえたかったの?なにがしたいの?

たぶん、これはひらがなの練習でもなく、書道でもなく。
なんか「日本文化っぽいもの」を教えたかったのでしょう。

すごくひとりよがりで、いびつな、どこかのだれかが勝手におもいついた安易でお手軽な「日本文化っぽいもの」を。
「日本にくるならやっておきたまえ」っておしつけて。

こんなもの、研修を受けている人々にも、書道の愛好家にも、ひどい暴力じゃないですか。
なんなんだ。これ。
posted by なかのまき at 20:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 書道教育